そうした観点からみれば、「言論の自由」は本質的に社会制度や文化と対立的な性質を持っています。
「公共の福祉」が社会制度や文化と結び付いていることを考え、
また、公共の福祉が個人の自由よりも優越すると考えるならば、言論の自由は甚だ「けしからん」自由だともいえるでしょう。
一方、「言論の自由」について、そうした「直感」や、「内心・精神の自由」とは別の正当化が可能です。
それは、私達が「知らないことについては判断できない」という前提から導けます。
たとえば組織全体がある考え方に従って、良くない結果をもたらす方向に動いている時に、
それを指摘し、公にすることができなければ、もはや、組織は、
その考え方について同意することも拒絶することもできません。
そうした組織は、いずれ誤りに落ちこむことになります。
すなわち、良く機能し、長期的にみて誤りや破滅を避けることができる組織にするためには、
あらゆる考え方が提示され、それが組織内部で公正に判断され選択される必要があるわけです。
最初の「考え方の提示」、すなわち「言論の自由」さえ制限されているような組織では、
こうした運営は望むことができないことは論を待たないでしょう。