「ちょ、ちょっと、ステラさん!下ろして、下ろしてってば!」
またしても小脇に抱えられた状態で、顔を引きつらせたマユが叫ぶ。一方のステラはというと、聞く耳を持たずに走り、飛び跳ねる。
マユを連れて喫茶店からいきなり飛び出したステラは、非常識な跳躍力をいかんなく発揮し、そのままビルの屋上づたいに突き進んでいるのだった。
「ひやぁあっっ!ストップ、ストーーーーップ!止まってよぉぉぉぉぉぉ〜!!」
跳躍、そして落下。その繰り返しですっかり肝を潰したマユだが、今まで以上の浮遊感に、お腹を鷲掴みにされたようなキリキリとした感覚を味わう。
恐ろしくて閉じていた目をつい開いてしまうと、眼下に猛スピードで流れる車列が目に入って、マユはもうダメだとまた目を閉じた。次の瞬間には跳ね飛ばされて一巻の終わり、十一年の人生もジ・エンド…
ボコンッ、ボコンッ!
金属がへこむ無惨な音が響き、マユは再びぐんぐん上昇していく感覚を味わった。
怖いのは生きている証拠なのだが、背後で急ブレーキやクラクション、それに衝突音が聞こえて、マユはそれ以上考えるのが嫌になってしまう。
ハッとするといつの間にか市民公園に居て、どうやら自分は完全な思考停止状態に陥っていたらしい、と初めて気が付くのだった。
ありていに言えば、気絶していたとも言うが。
「………」
「おきた…」
呆然として声もないマユは芝生の上に横たわっていて、傍らにはステラがちょこんと座っている。すこし奥まって木立に囲まれているせいか、周りからちょうど隠れるような場所だ。
むっくりと身を起こしたマユは、しばらく口をパクパクさせていたが、ようやく言うべき言葉を見つけたのか、ステラに食ってかかった。
「ステラさん!何であんなことするんですか!びっくりするじゃない!」
マユに怒られて、すこしシュンとしながらも、ステラはマユの側にしゃがみ込んでぽつぽつと弁解する。
「…だって、あいつら、追ってきた…」
「…あ、あいつら……あの怪人ですか?」
びくりとして、マユは意味も無く周囲を見回してしまう。ステラは、ぷるぷると首を振って続けた。
「うるさいヤツ…う〜、う〜、って…それに、いっぱいで……ステラ捕まえに…来る……だから、ステラ、逃げた」
「………?……えっと……あ、もしかして警察のことですか?あの、こんな帽子被ってて…う〜、う〜って音がすると来る…」
ジェスチャー混じりで聞きながら、そういえば、サイレンの音が聞こえていたとマユは思い返していた。まあ、あんな騒ぎがあれば警察がパトカー付きで来るのも当然かもしれないが…
ステラは嬉しそうに、何度も首をこくこくと縦に振る。その表情があまりにも無邪気だったので、マユは思わず脱力してしまう。
「えーと…何でケーサツから逃げるんですか?」
「あいつら…しつこく追いかけてくる…だから、ステラ、逃げるの…」
若い娘がこんな格好でうろついていれば、警察は確かに放っておかないだろう。話しかけてみてこの調子では、躍起になって保護しにくるのもおかしくはない。とマユは納得しかけたが…
「ステラ、船から…ずーっと逃げてきた」
「………はい?」
「ずっと前…船から下りたら…あいつら、ずっと追ってくる…」
何やら雲行きが怪しくなってきた。変な汗が滲んでくるのを感じながら、マユはおずおずと尋ねる。
「……あの、ステラさんのお家ってドコ?」
ステラは「たぶんあっち」などと言いながら指を伸ばす。素っ気ない答えの中には、聞きたい情報が含まれていないので、さらに具体的な質問を重ねるマユ。
「…なんていう所?」
「しらない。森の中。すっごく大きい」
知らないって?マユは唖然として言葉も出てこなかった。自分の家がある場所の名前を知らないなどという事が普通ありえるだろうか?
『あー…この人、どう見ても普通じゃないや、そういえば……』
微妙な理由で自分を納得させ、マユは話を続ける事にした。何事にも前向きなのがマユの良いところだ。
「お、大きい森の中って…どれくらい大きな森?」
オーブに大規模な森林があるという話は聞いた事がない。せいぜいキャンプ地にある森くらいだろう。
…むろん、そんな森の中で生活している娘が居るなどという話も、聞いた事は無かったが。
「…んー…森の中歩くの、ステラ、三日かかる」
マユはまたしても絶句した。
ステラの言葉は相変わらず稚拙だが、多分、横断だか縦断だかに要する時間だろうと見当はつく。仮に一周だとしても、そもそもステラの健脚で三日も必要なほど広い森など、この国に有りはしない。
「…も、もしかして、ステラさんって…海の向こうから来たの?」
「うん…船で…狭いところにずっと居たから、ステラ、すごく疲れた…」
埋めるべき外堀も無くなってしまったので、マユはズバリと本丸に切り込まざるを得なかった。
「もしかして…密航?」
「みっこう??」
「…黙って船に乗ってきた?」
「うん、そう」
犯罪じゃん!とマユは内心でツッコんだ。しかし、ステラにはさっぱり悪びれた様子も無いので、なんだかそれを口にするのがバカらしくなる。
がっくりと力が抜け、マユは頭を抱え込んでしまった。ステラは、そんなマユを心配そうにのぞき込む。
「だいじょうぶ…どこか、いたい…?」
「……頭痛い」
「あたま…このへん?」
ステラは優しい手つきで、すりすりと頭を撫でてくれる。
あははは、と思わず乾いた笑いが漏れた。
「どうも…ありがとう。もう痛くないから…」
ステラが急に目を見開き、身体を緊張させる。間近のマユにも、それはすぐに伝わった。
「な、なに…もしかしてあの怪人…?」
声が僅かに震えている。自覚はしたが、それを収める事はマユには出来なかった。
「あいつらの仲間…ピ〜ポ〜ってうるさいやつら…」
「ピ〜ポ〜……ああ……あの、ステラさん。その人達は別にステラさんを追ってきたりしないよ」
マユの耳には救急車のサイレンなど聞こえなかったが、ステラはきっと聴覚も普通より鋭いのだろう。
「そんなことない…う〜、う〜ってのと、一緒に居るの……ステラも見た」
「んと…う〜の人は、悪い人を追いかけるのが仕事だけど、ピ〜ポ〜の人はね、怪我した人を助けてくれるんだよ」
「そうなの?…そう?……じゃあ、もしかして……ステラ…悪い人……」
ステラは見ていて気の毒になるくらい落ち込んでしまった。マユはあわてて弁解する。
「え、いや、違う、ステラさんは違う!悪い人っていうのは、あの蜘蛛男みたいな人たちだよ!」
ステラが犯罪者かもしれないのはさておいて、悪人などでは断じて無い…はずだった。
「…あいつは嫌い…あいつらは、人が死ぬ…」
茫洋としたステラの雰囲気が、急激に鋭さを増した。まるでそこに怪人が居るかの様な目つきで虚空を睨んでおり、その視線にも憎しみや敵意といったものが見て取れる。
その激しさに、マユは思わずおののいた。
「…そ、そうだよ。本当に悪いのは、あんな風に乱暴な……あ…ああああっっっっっっ!!」
いきなりマユが飛び跳ねたので、今度はステラが面食らった顔をしていた。
「マユ…どうしたの…?」
「わっ、わっ、忘れてた!ルナ、ルナは?!」
おろおろと辺りを無意味に見回す。今の今まで自分をかばってくれた友達の事をすっかり失念していた事に激しい自己嫌悪を感じたが、それ以上にルナの安否を確認しなければ、という思いで気持ちが動転する。
「そ、そうだ、ケータイ!!」
慌ててメモリを呼び出し、ルナに電話をかける。しかし、ルナは出てくれない。
『…お客様のおかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が……』
「ああもう!」
たまらずに通話を切ったマユは、草むらから飛び出して、全速力で駆け出した。置いてきぼりを食ったステラが、慌ててそれに続く。
「マユ!どこ行くの?ルナ…ルナ、何?」
「ル、ルナの所…!ルナ、無事かどうか確かめないと……っ、きゃ!」
気持ちばかりが先走り身体が付いて行かないのか、マユはものの見事に転んで、そのまま二回転、三回転してから止まった。
「マ、マユ…だいじょうぶ…?」
「うぇぇぇぇ……ル、ルナァァ……」
転んでしまって感情が飽和したのか、マユは声を上げて泣き出した。ステラはそんなマユの小さな身体をぎゅっと抱きしめて、あやすように背中をぽんぽんと叩いてくれる。
「よしよし…だいじょうぶ……大丈夫…マユ、守る……」
「っく、ル、ルナが…ルナ、私をかばってアイツにやられて……」
「大丈夫……ルナもきっと大丈夫……大丈夫…」
ステラはルナの事を知らないのだから、こんなのただの気休めだ、とマユは一瞬腹立たしい気分になった。
が、ステラに当たっても仕方がない。むしろ、ルナの事をどう説明しようかと理性的に考えているうちに気分が落ち着いてきた。
「えっと…ゴメンナサイ、ステラさん…あたし、急に……あ、そうだ……これ、このお姉さんがルナ」
ステラもあの場所に居たのだし、もしかしたらルナのことを知っている可能性もあるだろう。
マユはそう思い、ケータイでとった写真を見せる。ステラは物珍しそうにケータイを眺め、ちいさな画面に映っているルナの顔をしげしげと眺めた。
「ステラ……知ってる…」
「え?」
「こういう髪……赤いの」
ステラは、自分の前髪を一房掴むと、それをぐいと上に立てて見せた。
「ちくしょう!生意気な人間風情がっ!!」
人気のない路地裏で、ゴミ箱を蹴散らしながら一人の男が叫んでいた。
乱れた金髪、無惨に腫れた頬、むき出しの肌には所々に打撲や裂傷があり、そこから不気味な緑色の液体がしたたり落ちている。マユを襲い、ステラに返り討ちにされた蜘蛛男だった。
「ふふん…荒れているな、ミゲル?」
冷ややかな声が、金髪の男の動きを止める。憎悪に染まり、赤く輝く瞳で振り返った蜘蛛男の目に、不気味な装飾の施された仮面と、マントを身につけた長身の人物が立っているのが見えた。
「ちっ、仮面か…何しに来やがった?」
「何…首領の命令で状況を確かめに来ただけのことさ……まあ、君ほどの男がこのような醜態をさらしているとは、想像もしなかったがね?」
「黙れッ!」
手近な空き缶を投げつける蜘蛛男。仮面はわずかに顔を逸らしてそれを避ける。背後で、空き缶がコンクリートの壁にめり込む音がした。
「落ち着きたまえ…アレは、普通の人間とは到底思えぬ。もしや、あのマボロシの男と何か関わりがある者かもしれんぞ?」
「馬鹿を言うな!なぜあの男の手の者がこんな国に居るというんだ」
「不思議ではあるまい?”秘石”の一つが海を渡った可能性があるというなら、尚更、な」
自信たっぷりに語る仮面に対して、蜘蛛男はちっ、と舌打ちし、目を逸らす。この男は気に入らない、という態度がありありと伺える。
「次の機会には、これを使うが良い」
仮面は、小さな石のかけらを差し出す。蜘蛛男はそれを見て、怒りに顔を歪ませる。
「馬鹿を言うな!下等な人間風情にそんなものが使えるものかよ!」
「受け取り給え、ともかくな。甘く見れば、その代償…君の命で購う羽目になるやも知れぬぞ?」
蜘蛛男の背中から、八本の脚が突き出される。仮面はそれを見ると、マントを翻して跳躍した。
哄笑が響き渡り、それも聞こえなくなると、路地裏はしぃんと静まりかえる。
蜘蛛男は、怒りに満ちた瞳で虚空を睨み付けている。まるで、まだ仮面がそこに居るかのように。
そして、その足下では、仮面が放って寄越した小さな石のかけらが、不気味に光っていた。
「そ、そうそう、こういうの!」
ルナマリアの特徴的な髪型…口の悪い連中はアホ毛などと呼んでいたが…をステラが再現しているらしいと気づいて、思わずマユも自分の前髪を掴んで立てていた。
「赤いの、上からいきなり…落ちてきた…ステラ、びっくり…」
ルナが蜘蛛男に吹き飛ばされた事を言っているのだろう。続きを聞くために、マユはステラを急かす。
「ステラ、赤いの受け止めた…大丈夫…死なない…ステラ、ルナ、守った…」
そういって、ステラはにっこりと微笑む。それを聞いて、マユは全身の力が抜けていくのを感じた。
「よ、よかったぁ……」
あの力で殴られたのだ。さすがに無傷では済むまいが、命を落としたわけではないのなら、とりあえずは良かった。マユは、そう思うことにした。
「じゃあ、今頃病院かな…」
「びょういん?」
「ぴ〜ぽ〜の人たちの…んと、お家だよ。きっと、ルナのこと、助けてくれてる…」
タイミング良く、携帯が鳴る。もしやと思ってみれば、やはりルナからだった。
「わっ…鳴ってる!…何、これ?」
「ケータイって言うの。これでルナと喋れるんだよ…もしもし、ルナ、大丈夫?!」
『マユ!あんたこそ大丈夫なの!怪我してない?!あの蜘蛛男は!今どこ!!』
「ちょ、ちょっと待った、待った!待ってってば!私は大丈夫だよ、ルナこそ大丈夫なの?怪我したでしょ?!」
『そんなことどうでも良いの!すぐ迎えに行くから!どこにいるの!』
ルナは思い切り頭に血が上っているようだった。今は何を言ってもしょうがないと思ったマユは、素直に場所を教える。ルナは、すぐに行くと言うや否やケータイを切ってしまった。
「なんなんだろう…あんなに慌てなくてもいいのにね…」
「ううん…大事な人、大変なら…しょうがない…きっと、ルナ、マユが大切なの……」
「そう…なのかな?」
「そう…マユも、さっき、そうだったよ…」
ステラは、神妙な顔で頷いている。
そうかもしれない。さっきはマユも、何がなんだかわからなくなってしまった。
「大切な人、守る…とっても良いこと……だから…ステラも、マユ、守る」
何でこの人は、自分の事を守ると言ってくれるのだろう。今更ながらにそんな疑問が首をもたげるが、今は追求する気は起きなかった。
すごく疲れていたし、こうしてステラがそばに居てくれると、心が落ち着いて、暖かくて、なんだか懐かしい感じがする。
だから今は、強い決意の光を宿したステラの美しいすみれ色の瞳を、ただもうすこしだけ、見つめていたかった。
「すみません、市民公園まで!」
病院のエントランスで客待ちをしていたタクシーに駆け寄ったルナは、窓を叩きながら目的地を叫んだ。目を閉じてうつらうつらしていら運転手は、いきなり声をかけられて驚いている。
「ちょっと、急いでるのよ!早く開けて!」
「は、はいよ…急かしなさんな」
慌てて開けられたドアから滑り込むようにして乗り込んだルナは、はやく出して!と促す。まだドアが開ききってもいないのに、と運転手は目を白黒させていたが、ルナの剣幕に押され、とりあえず発進する。
「し、市民公園でいいんですね?」
「何度も言わせないで!喋ってる暇があったらちょっとでも早く走りなさいよ!」
運転手は何も言わなかったが、気分を害しているのは態度の端々からはっきりと感じ取れる。しかし、ルナの激しい言葉は止まらなかった。
いや、止められないのだ。
『なに、なんでこんな…あたし、こんな事言うつもりじゃ…』
「ちょっと、なにチンタラ走ってるのよ!こんなんじゃ金払えないわよ!」
『違う!こんなこと言いたくない!』
運転手はさすがに文句を言おうと振り向いたが、ルナの瞳が異様な輝きを放っているのを見て、天敵に魅入られたあわれな小動物のようにすっかり怯えてしまったらしい。
そのまま前を向いて運転を続けようとしたが、その時になって料金メーターが動いていない事に気が付いた。そっと手を伸ばすのだが、ルナの怒声が響く方が早かった。
「今から動かしたってダメよ!あんたみたいなマヌケには払う金なんて無いわよ!どっちにせよアンタが悪いんだからね!」
『やめて、こんなのおかしいよ!何で、どうして?!』
マユの事が心配でカリカリしていたのは事実だが、自分で自分の言動を制御出来ない今の状態はどう考えてもおかしい。しかし、どうする事も出来ない。まるで、意識と身体を繋ぐ糸を切られてしまったような感覚にルナの心は震える。
骨折した左腕を吊る三角巾の結び目、首筋の辺りに、一匹の蜘蛛がうごめいている事に、ルナは気づいていなかった。
涼しい風が、公園の木立をすり抜けて、マユとステラを優しく包み込む。
ルナがやってくるのを待っている二人のあいだには言葉も無い。マユが、疲れた身体をステラに預けて船を漕いでいたからだ。
喫茶店で怪人との乱闘に巻き込まれ、公園では派手に転んだりで、マユの服装もところどころに汚れが目立つ。もともと薄汚れているステラと二人で身を寄せ合っている様子は、まるで家出した姉妹の様にも見えた。
ステラは、眠ってしまったマユの髪を優しく梳きながら、うろ覚えの子守歌を静かに口ずさむ。そうして時折、寝顔をそっとのぞき込んで、その首に下げられているペンダントにも目をやる。
「マユも……石、持ってた」
ぽつりと呟く。その表情は、すこし悲しげでもあった。
「……ん」
「……マユ…起きた?」
「…あ、あれ……私、また寝ちゃって……そうだ、ステラさん、ルナは…?」
ステラは首を振る。時間を確認すると、もう夕方と言って良い時間だった。さっき電話をしてからずいぶんと時間がたっている。
病院から公園まで、タクシーを使えばこんなに時間がかかるとは思えないが…まさか走ってきているのか、それともステラが見落としているのか、場所が伝わらなかったのか。
ケータイには、あれから連絡が入った様子もない。マユは首を傾げながら、ルナへ連絡を取った。数度のコールの後、無事に繋がる。
「もしもし、ルナ?今どこ…」
「…ちゃ…きちゃダメ…」
小さいが、切迫した声が聞こえる。マユが息を呑んでいると、嗄れた声がケータイから語りかけてきた。
「キコエるカ、コムすメ…コイツノ、イノチガ、オしカッタら…すグニ、イしヲ、モッテ、ココへコイ…」
言い終わるや通話は切られ、すぐにメールが届く。震える手つきで確認すると、公園の中にある記念碑が映っていた。
「マユ…どうしたの…マユ?」
「ど、どうしよう…ルナ、ルナがぁ…あ、あいつに…捕まって…!」
瞳に涙を浮かべたマユの表情から事情を察したのか、ステラの目つきが鋭くなる。
「マユ、教えて…ステラ、あいつら…やっつける」
薄暗い森の中、ひっそりと記念碑が建っている。今となっては、だれも気にする者のない、古ぼけた記念碑だった。
人が来る事も滅多にないその場所に、今は二人の人間が居た。
…いや、正確に言うならば一人の少女と、一体の異形。
「…っか、あ…」
「ふン、テイコウ、しタトコろデ…ムダダ、ニンゲンガ…」
蜘蛛男は、糸で縛り付けた少女を前にサディスティックな声で言う。ルナは、涙や涎でぐちゃぐちゃになった顔を強ばらせ、目を見開いた必死の表情で何かを呟いていた。
小さな広場に至る小道には、キラキラと光る細い糸が張られている。何も目的が無い者ならば、その糸にまみれる事を嫌って脚を踏み入れる事は無いだろう。
「…いで……ユ……ちゃ、ダメ……!」
「……チッ…オれノ、せンノウヲ、ウケツケナイ…ダト……イマイマしイ、ヤツダ…」
苛立たしげな言葉が漏れ、鋭いかぎ爪がルナの首筋にピタリと据えられる。
「コろしテヤろウカ?」
「…マユ……こ…ない……で……ッ、ぅああ!!」
白い皮膚に爪の先端がずぶりと食い込む。裂けた皮膚から赤い血がつつ…と流れ落ちた。ルナの顔が痛みと恐怖に歪むが、それでも瞳から強い光が消える事は無かった。
「……ふン、イイカクゴダナ……ナらば……」
ルナの首を掻き切ろうと、蜘蛛男が力を込める。そのとき、背後の草を蹴立てる音が奇妙に大きく響いた。
「……キタカ……」
蒼いドレスを纏ったステラが、広場の入り口に忽然と立ちつくしている。その瞳には激しい敵意が漲り、髪がざわざわと逆立っている。
「……その子…離す…離さないなら…お前、殺す……」
「ふン…ダれガ、キさマニ…コろされる、ダト?」
血のしずくを飛ばしながら、蜘蛛男の爪が引き抜かれた。ルナの身体の緊張が解け、頭ががくりと落ちる。蜘蛛男はもはやルナのことなど意識の埒外に追いやったのか、ステラに正対すると、戦いの雄叫びを上げる。
「さア、キさマヲ、コろしテ”秘石”ノチカらヲ…イタダク!」
蜘蛛男の頭の中には、苦渋を舐めたステラへの復讐心だけが渦巻いているようだった。真正面からステラに向かっていくと、握りしめた豪腕を叩き付ける。
ステラはそれを紙一重でかわすと蜘蛛男の脚を刈った。勢いの付いた蜘蛛男の身体はそのまま吹き飛ぶが、背中側の脚が落下の衝撃を殺し、そのまま素早く起きあがった。
にらみ合いながら、両者はじりじりと円を描いていく。蜘蛛男は、糸の奔流をステラに向かって叩き付ける。ステラは軽く横に飛んでかわすが、それに合わせて拳大の糸玉が次々に吐き出される。
吐き出された糸玉はしばらくすると解けて、獲物の動きを阻害する。一度に足止めすることは困難だと判断しての攻撃変更だ。それだけ、蜘蛛男はステラを警戒しているのだった。
小刻みにステップを踏み、時には横っ飛びしながら、ステラは避け続ける。
「イツマデモ、ヨケツヅケられるト、オモウナッ!」
糸玉の発射間隔が次第に短くなる。一際高く飛んだステラに向かって、いくつもの糸玉が迫り、その内の一つが、ひらひらしたドレスの裾に絡みついた。糸玉は一度解け、再び粘性を発揮して獲物を絡め取るだろう。
蜘蛛男はついに敵を捉えたと確信し、勇んで着地際を狙うが、ステラは空中で自らのスカートを引きちぎって、逆にそれを投げつけて反撃した。
意外な反撃に気勢を挫かれた蜘蛛男から素早く離れたステラは、周囲に生える木立に飛びついた。
「ステラ、森なら負けない…お前、だから、来られない…!」
高みから傲然と見下ろすステラの姿に、蜘蛛男は激発した。
「ナマイキ…ナンダヨ!ニンゲンノ、コムすメガ”秘石”ノ、チカらヲ、モッタ…クらイデナァッ!!」
蜘蛛男は、ステラの居る木の枝に糸を吐き付ける。ステラはさらに奥の木へとましらのように飛び移って避け、蜘蛛男は糸を使ってそれを追う様に跳躍していった。
「ニガしハ、しナイぞォ!!」
『いまだ!』
糸を払いながらひっそりと近寄っていたマユは、拾った棒きれを手に、二人が戦いの場所を森へ移したのを見てすかさず広場に走り込む。そのまま、縛り付けられたルナの元へと駆けつけた。
「ルナッ!しっかりして!」
腕を折り、血を流し、涙で汚れたルナを見たマユは思わず泣き崩れそうになったが、気力を振り絞って糸を取り除いていく。ルナは、痛みに喘ぎつつも、弱々しい声で言った。
「マ…ユ……きちゃ、だめって……あれほど…いったのに……」
「喋らないで、すぐにほどいてあげるから!」
ルナの苦痛に歪んだ顔を見て、マユの気持ちは焦る。しかし、手元が狂えば、マユも糸に絡め取られてしまう。根気よく、慎重に、しかし迅速に作業をしなければいけない。ステラがいつまで蜘蛛男を引きつけてくれるか、判らないのだ。
森の中から時折、ステラや怪人の雄叫びが聞こえる。ルナも、弱々しい声ですぐここから逃げるように繰り返し訴えてくる。
「大丈夫、あとちょっと…ほら、すぐ助けるから…!」
もう糸は殆ど残っていない。細かいところは手で取ったほうが早いと判断して、マユは糸まみれになった棒きれを投げ捨てた。粘つく糸の感触を堪えながら、ルナの身体に付く糸を取り払っていく。
「これで…もう大丈夫だよ、ルナ、はやく逃げよう!」
戒めを解かれたルナは、しかし身体を震わせながら動こうとはしない。怪我が重くて動けないのだろうかと、マユは心配でルナの表情を伺う。
ルナは、悲しげな表情で必死に何かに耐えている。そして、マユを見ると、涙を溢れさせながら、一言だけ、言った。
「……ご…めん」
「………え?」
枝から枝へ飛び移りながら、ステラは蜘蛛男の攻撃をかわし続けていた。糸を吐きながら追いすがる蜘蛛男。二人の距離は徐々に縮まりつつある。
「ニゲられるト、オモウナ!」
枝を蹴ったステラを追い、思い切り跳躍した蜘蛛男が、至近距離から糸を吐き散らした。バッと蜘蛛の巣のように拡がる攻撃を、しかしステラは冷静に見極める。
次に脚を付けるはずの枝を鉄棒のように利用して、勢いを殺さずに上へ飛び、伸身宙返り。上から辺りを見下ろし、蜘蛛男の追撃を身を捻ってかわすと、また別の枝を蹴って距離を離す。
そうして、つかず離れずを維持しながら、二人はまた木々の間を跳ね回るのだった。
「マユ…がんばって…」
もうしばらくは、コイツを引きつけることに専念しようと思う。マユが赤毛を連れて逃げることが出来れば、すぐに蜘蛛男を倒すつもりだった。あと少し時間を稼げば、多分そうなるだろう、とステラは踏んでいる。
「…ふン……イツマデ、ニゲマワる、ツモりダ…ムすメ?」
蜘蛛男が脚を止めて語りかけてくる。ステラは、それを聞いてざわざわした感覚を覚えた。激高していたはずの相手が、妙に余裕を感じさせる声音を使ったからだった。
「コムすメは…アノオンナヲ、タすケる…コトは、デキナイぞ…?」
自分たちの作戦は見透かされている。しかし、マユとステラはそれも織り込み済みで行動している。ならば、こいつがマユの所へ行く前に倒すだけだ、そう思い、攻撃態勢を取るステラに、蜘蛛男は言った。
「マチナ…オれヲ、コろせば、アノオンナガ、コムすメヲ……コろすぞ?」
そういって、蜘蛛男は口元を不気味にゆがめる。
その言葉の意味を考え、そして意味するところを察したステラは、すぐに広場の方向へと跳躍していた。蜘蛛男は、それに立ちはだかるように自らも飛ぶ。
「マテ、ニガすカ!」
「じゃまを…するなぁぁぁ!!」
怒号と共に繰り出された蹴りが、蜘蛛男を地上へとたたき落とす。落下しながら吐き出された糸玉を身を縮めて避け、木の幹を蹴ったステラは、はっと目を見開いた。
「しま……」
目の前に無数の蜘蛛の巣が張られていた。ステラを追撃しながら、蜘蛛男が仕掛けたのだろう。完全に避けるのは不可能だった。
くるりと前方宙返りをしたステラは、その勢いのまま両手で手刀を繰り出す。蜘蛛の巣が形を崩した、そのわずかに出来た空間をすり抜け、着地した。
脚が絡め取られるのは何とか防いだが、お互いに絡みついた糸は手錠の様にステラの両腕を拘束している。これを解くのは容易ではなさそうだ。
しかし、今はマユの元へ向かうのが先決だった。ステラはそのまま駆け出す。
「マユ…待ってて、ステラ、今行く…!」
突然の事で、マユには何が起こったのか、一瞬、理解出来なかった。はっと気が付くと、後ろ手を取られて、首にも腕が巻き付いている。
「え…え……な、なんで…ルナ…?」
「に……げ……て……って…いったの……に…」
頭上からルナの苦しげな声がぽつぽつと聞こえる。まさか、自分を捕らえているのは、ルナ?
それ以外には誰も居ない。ならばルナでしかあり得ない。しかし、そんなことは絶対にあり得ない。ルナが自分を捕らえるなんて…
しかし、マユを捕らえている腕は、機械のように強い力が込められ、しっかりとマユを押さえ込んでいた。
「マユ!」
広場の向こうから、ステラの叫び声が聞こえた。両手に糸を絡ませ、スカートの丈が短くなっている。ステラの名を叫ぼうとしたマユの首を、ルナの腕がきりぎりと締め上げ、マユは苦しみに呻いた。
「ククク……ニンゲンノ、カンガエは、アさはカダナァ……?」
いつの間にか、蜘蛛男が目の前に立っている。人とは似つかない顔に、それでもはっきりと侮蔑が込められているのが、マユには判った。
「コイツヲ、コろされタク、ナカッタら…コれイじョウ、テイコウ、するンじャア、ナイぜ…ク、クククククッ」
「ステラさんっ……に、にげ…あっぐぅ!」
必死に訴えるマユの喉を、ルナの腕が締め上げる。しかし、そうしているルナも、血が出るほど歯を食いしばり、見開いた瞳に涙を溢れさせながら、叶わぬ抵抗を試みているのだった。
「やめろ!……マユ、苛めるな!」
すさまじい目つきで蜘蛛男を睨みながら、ステラは叫んだ。怪人は、そんなステラを笑って見つめ、冷たく言い放つ。
「はッ、イイノカ…そンナ、クチノ、キキカタヲ、しテモ…?」
かぎ爪が、マユの頬に一筋の朱線を描く。マユの命を握られているとなれば、ステラは、険しい視線を落とし、悔しげに呻くしかなかった。
「そウダ、そノママ、はイツクばれ…イヌノ、ヨウニナァ…?」
蜘蛛男はいよいよサディスティックな態度を隠そうとはせず、喜悦に歪んだ口調で命じる。膝を折り、腕を付いたステラは、しかしぎりぎりと歯を鳴らしながら、近づいてきた蜘蛛男を睨み付ける。
「はッ、イイカオ、ダナァ……ふン!!」
鈍い音とともに、ステラの身体が吹き飛ぶ。マユは声にならない悲鳴を上げた。蹴りつけられた口元を血で染めながら、それでもステラはゆっくりと身を起こして蜘蛛男を睨むが、今度は腹を蹴られ再び地面を転がった。
「や、め…やめてぇ……!」
何度も、何度も吹き飛ばされたステラめがけて、糸が奔流となって吹き付けられる。蜘蛛男は、そのまま驚異的な膂力を発揮し、ステラをぐるぐると振り回した。
「しネェ!」
「ステラァァ!!」
すさまじい勢いで木立に叩き付けられ、ステラはずるずると崩れ落ちた。蜘蛛男は勝利を確信して、ゆっくりと近づいていくが、その歩みが不意に止まる。
「ス、ステラ…!」
マユの瞳から涙が零れる。流れ出た血で金髪を染めながら、ステラはそれでも立ち上がったのだった。さすがに、蜘蛛男は恐れの混じった声を上げた。
「”秘石”ノチカらガ…コれほドノ、モノトはナ……」
「……テラ……死なない……ユ…マユ……守る……だから……」
荒い息をつきながら、ステラはなお炎のような瞳で蜘蛛男を睨み付けた。その視線を真正面から受け止めた蜘蛛男は、懐から何かを取り出す。
『あ…れ…は…』
それを見たマユの心がざわざわと騒ぎ出す。あれは、いけない…!
それは仮面の男がもたらした、石の欠片だった。禍々しい赤い光は、見る者の心をかき乱さずにはおられない邪悪さを感じさせる。
「キさマノ、しぶトさ…ミトメテ、ヤるヨ……コイツノ、チカらデ……コろしテヤる…!」
蜘蛛男はそう言って、石片を腹部に突き刺す。赤い光とともに、石がずぶずぶと体内にめり込んで行くにつれて、蜘蛛男の口からすさまじい絶叫が放たれる。
「グォォォォォォォオアァァぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁっ!!」
マユは、その咆哮に肝を潰しながら、まるで蜘蛛男の体内が赤く光っているかのような錯覚を覚える。いや、そうではなく、蜘蛛男の体液が赤く輝いているために、実際にそう見えるのだ、と気づいた。
と、突然、蜘蛛男の全身が赤い炎に包まれる。
ステラを縛り付けていた糸の束も根本から焼き切れていく。粘性を失い、脆くなったそれを千切りながら、ステラは背中を丸めて戦闘態勢をとる。ステラの殺気だった瞳もまた、赤く輝いていた。
二人が見つめる中、炎が徐々に収まっていく。そして、その中に居る蜘蛛男の身体に変化が現れつつあった。
黒と黄色のまだらだった体色がグレーに変化し、ぼろぼろと崩れ落ちていく。その下から新たに現れたのは、まるで金属を想わせる光沢のある外殻だった。
それらは、空気に触れると、鮮やかなオレンジに発色していく。複眼と牙の禍々しい顔も、西洋甲冑のヘルメットを思わせる形状に変化しており、スリットからは、不気味な光を放る単眼が左右にぎょろぎょろと動いているのが伺える。
「ふ……ふふふふ……なかなか良い感じじゃねえか……力が漲るぜ…!」
いまや完全に姿を変えた蜘蛛男…いや、甲冑男とでも言うべきか…は、崩れ落ちた自らの古い外皮の中から固い爪を手にして、何気ない調子でそれを放る。手元を離れた爪は、しかしすさまじい勢いでステラの足下に突き刺さった。
口元が隠れているせいか、声はあいかわらずくぐもっていたものの、軋るような異形ではなく、変身前の涼やかささえ感じさせる声だった。ステラに向かい何気なく歩く動作にも、獣性よりも理性が感じられた。
「あんまり呆気ないと詰まらんからなぁ?せいぜい抵抗しろよ…」
構えも取らず、甲冑男は無造作にステラに近づいていった。マユは、息を呑んでそれを見守るしかできない。ほかに出来る事といったら、ステラが負けないように祈るだけだ。
大きなダメージを負っているとはいえ、まだ旺盛な闘志を見せているステラは、油断無く距離を詰めていく。そして、甲冑男が間合いに一歩を踏み出した瞬間に、野獣の素早さで飛びかかった。
「うわぁぁぁぁぁ!」
怪我をしているとはにわかには信じられない、恐るべき素早さ。甲冑男は反応できないのか、ステラの拳の前に無防備な姿をさらしている。しかし、次の瞬間、マユはさらに信じられない光景を見た。
「ふふん…ノロマな人間め……そんな攻撃、止まってみえるぜ?」
ステラは拳から血を流しており、その身体は鳩尾にたたき込まれた拳によって高く突き上げられていた。甲冑男はほんの一瞬前まで、たしかに棒立ちだったはずなのに…
「あっ……ぐっ……」
「…ふん、もう喋る元気も無くなったか?……じゃあ、死ねよ」
甲冑男が面倒くさそうに腕を振るうと、ステラの身体は玩具のように軽々と飛んでいく。先程よりも強く木の幹に激突したステラは、口から夥しい量の血を吐いて、身体を痙攣させている。
「ステラァ!…ステ……あっ……ぐぅっ……」
「ちょっと黙ってろ、小娘。アイツを殺したら、次はお前らの番だからな」
冷たく言い放った甲冑男は、そういってステラに近づいていく。右手の外殻の隙間から白い糸が吹き出し、瞬く間に固まり、西洋の騎士が使うような直刃の剣の形を取った。
咳き込みながら血反吐を吐いているステラは、崩れ落ちそうな身体を必死に支えて立とうとするが、果たせずに膝を突いてしまう。そんなステラの目の前に立った甲冑男は、右手の剣を高く振り上げた。
「死ね…!」
剣が振り下ろされ、爆発が起こったかのような土煙がもうもうと舞い上がる。表情を強ばらせたマユは、その中からステラが飛び出してきたのを見て息を吐いたが、次の瞬間には声にならない叫びを上げている。
突き飛ばされたように前のめりに転がったステラの肩胛骨付近がざっくりと切り裂かれている。そこから溢れ出す真っ赤な血がドレスを朱に染め、地面を黒ずませていた。
「ははっ、なかなか頑張るじゃないか…せっかく”秘石”の力を使ってるんだ。そうじゃなくっちゃなぁ!」
高笑いと共に、今度は左腕から糸が吹き出る。こちらは、まるでライフルの様な見た目をしている。甲冑男は、実際にライフルを撃つかのごとく筒先をステラへ向けて、おどけたようにバン!と叫んだ。
次の瞬間、炸裂音とともに、ステラは後ろへ倒れ込む。その脇腹に、あたらしい血の花が咲いていた。痛みに耐えるステラの呼吸は弱々しく、まさに風前の灯火といった風情だった。
「やめてぇ……もう、やめてぇぇぇ!!」
マユは必死に身を乗り出して叫んだ。彼女を捕えるルナの腕の力は、いつのまにか少しずつ弱まっている。それを横目で確かめた甲冑男は、舌打ちを一つして、銃身をマユへと向けた。
「煩い小娘だな…別に、俺はお前から殺してもいいんだぜ?」
ピタリとこちらを向いた銃口に、マユは息を呑んだ。そして、甲冑の奥の単眼がまるで嘲笑するかのように歪み、マユは、撃たれると思い、目を閉じてしまう。
ふたたび、銃声。びくりと震えたマユだったが、何時までも痛みは感じられない。おそるおそる目を開けると、荒い息をつきながら、肩を押さえるステラの背中が飛び込んできた。
「ステラ…ステラ!もう良いよ、もう逃げて…殺されちゃうよぉ!」
蒼白な顔をしたステラが、ゆっくりとこちらへ振り向く。苦痛の汗を浮かべながらもその顔はどこまでも穏やかで、あの深いすみれ色の瞳が、マユを優しく見つめていた。
「だいじょうぶ……マユ……ステラ…守るから……」
そうして、ピンと背筋を伸ばしたステラは、大きく両手を拡げて甲冑男へ向き直る。背後のマユを守り抜く、その決意を漲らせて…
「…や…めて……もうやめて……ステラ…死んじゃやだ……死なないでよぉ……!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、マユは弱々しく呟いた。
どうしてステラがこんなになってまで自分を守ってくれるのか?
どうしてステラは自分を守って死に行かなければならないのか?
何もかも、今日の出来事は訳の判らない事だらけだったが、今はひとつだけ、自分の気持ちだけははっきりしている。
『ステラを死なせたくない…ステラを、守る力が欲しい……!』
必死に祈りながら、マユは我知らずの内にペンダントを握りしめている。
再び、頭の中に閃光が走る感覚があった。マユは、殆ど本能的にそれを追う。それがもたらそうとしているイメージを、必死に追い求める。
「ふん…その小娘がそんなに大事か……なら、せいぜいそいつを守って、死ぬんだな…!」
甲冑の男が、少女達に近づく。もはや反撃の力すら残っていないステラは、それでも怯むことなく立ちはだかるが、甲冑男は刀身を寝かせ、切っ先をステラに合わせ、そして…
剣が突き出され、ステラの胸を、貫いた…!
「ステラァァァァァぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
刀身がステラを貫くと同時に、マユの絶叫が響き渡る。そして、その手に握りしめられたペンダントから蒼い光が奔流となって周囲を染め上げていく。
「な、何だこの光はっ…ぐ、ぐあああぁぁあぁぁ!」
甲冑男は、強大な力を受けて吹き飛ばされる。まるで、光そのものが圧力を持っているかのような感触。
しかし、その中央にいるマユも、すぐそばにいるルナもステラも、甲冑男のように吹き飛ばされることはなかった。
「ど、どうなっている?!あの凄まじい力は何なんだ!!」
異形の操り人形と化していたルナマリアは、死にものぐるいの抵抗を続けていたが、不意に蒼い光が全身を包み込むのを感じた。それと同時に、肉体に根付きつつあった支配網が寸断され、消滅していくのを感じる。
『なに、この光……すごく落ち着いて…安らかで……マユ…?』
愛すべき年下の友人に似た暖かさを光から感じとり、ルナの意識はしばしのまどろみに落ちていく。
マユの脳裏に、ひとつのイメージが形作られようとしている。
しなやかな身体を持つ、黒い戦士…まるで、野獣のような俊敏さと獰猛さを持ち、しかし、獣のように誇り高い…
戦士は走り、飛び跳ね、打ち倒し、守る……そして、守られているのは
『…私……守られているのは…マユだ…』
恐るべき力を持つ、荒々しい戦士の側に居ながら、マユは恐れを感じない。その力は、マユを守るためだけに発揮される。その確信が、マユを安らがせるのだろうか…
『そう…黒い戦士は…私を守ってくれる……』
戦士が、マユに振り向く。その異形の仮面に、ふと重なる笑顔があった……
マユは叫んだ
その少女の名を
その戦士の名を
「ガ………イ……………アァァァァァァァァァァ!!!!」
猛烈な光の渦が収まる。
「……なんだ………何が起こった…?」
単眼を細めながら、甲冑男は小さく呟いた。辺りには土煙が舞い上がっており、暗闇に慣れない目には、何がどうなったのかを確かめる事は、まだ出来ない。
何故か、胸騒ぎを覚えながらも、じっと砂埃が収まり、目が慣れるのを待つ。
やがて、二つのシルエットが目に入ってきた。
ひとつは、小さな人影…おそらくはあの小娘のものだ。しかし…
『何だ……何だ、アイツは?!』
背格好はステラに似ていたが、盛り上がった肩や、背中に見える翼のような突起、それに…
それに、額に四本の角を頂いた兜の様な頭部。
「まさか…”秘石”の発現なのか?!」
土煙が完全に晴れた。
黒き戦士が、悠然とそこに立っていた。
目の前に立つ、黒い異形の戦士を見つめながら、マユの心は不思議と澄み切っている。
『さあ…行きなさい…ガイア』
クリアになった意識に、まるで自分では無いような声が響く。しかし、それに不安も恐れも感じない。不思議な気分だった。
マユの言葉を聞いたのか、黒い戦士はゆっくりとこちらを振り向き、小さく頷いた。
「…ハァァァァァっ………」
深く、静かな呼吸。
「ハァァアアアアアァァァッッッッッ!!」
次の瞬間には、唐突な跳躍。
甲冑男は、振り下ろされた手刀を辛うじてかわしたが、次の瞬間には黒い戦士の強烈な回し蹴りがその面頬を捉えている。
「な、なんだ、コイツの力は!」
痛烈な一撃に吹き飛ばされながらも、甲冑の男は左手のライフルを構え、撃ち放つ。不十分な体勢から放たれた弾丸は、それでも黒い戦士を捉えた。しかし、その黒い外殻には傷一つ付いてはいない。
「ば、ばかなっ……!」
続けざまに放った何発もの銃撃は、しかし戦士を捉える事が出来ない。恐るべき速さで狙いを外しながら踏み込んだ戦士の一撃が、甲冑男の左腕を付け根から斬り飛ばす。
苦痛に呻く甲冑男は、黒い戦士の手に光の刀身を持つ剣が握られているのを見た。
「畜生…!あれも”秘石”の力だと言うのかよ?!」
甲冑男も、体内に取り込んだ石片の力を呼び覚まし、左腕を再生させる。吹き出した糸が腕を形作り、急激に膨張する肉片がそれに絡みついていく。浮かび上がった外殻はオレンジではなく、灰色。
「よくも……俺の身体を傷つけたな……貴様は殺してやる!!」
雄叫びとともに甲冑男が切り込んできた。
黒い戦士は、それに真正面から向かっていく。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「ウェェェェェェェェイィィッ!!」
二つの影は剣を振りかざしながら交錯し、駆け抜けた体勢でぴたりと動きを止めた。
マユが静かに見守る中、甲冑男が振り向き、単眼をにやりとゆがめる。
「…く……くくくっ……くっくっく…………そんな、馬鹿なっ…!!」
驚愕の叫びを上げた甲冑男の上半身が、ずるりと滑る。その切断面から赤い光が溢れると、次の瞬間には爆発を起こしていた。
黒い戦士は、光の刀身と一振りする。すると、甲冑男を切り裂いた鋭利な刃は、細かな粒子になって大気に溶けていった…
黒い戦士を静かに見つめているマユ。
その手に握られているペンダントの光が、ゆっくりと収まっていくと、マユの表情にも徐々に変化が起きる。冷たく冴えていた瞳がゆらめき、ひとつ瞬きをすると、そこにあるのは、もういつもの明るい瞳だった。
「あ、あれ…私、今…なにしてたんだろ?」
黒い戦士に目をやると、こちらも全身が光の粒子に包まれている。黒い外殻が崩れていくと共に光は強さを増し、全身が輝きに包まれる。
そして、それが収まった時、そこに立っていたのはステラだった。
「ステラ…ステラ……ステラァッ!」
駆け寄るマユを振り返ったステラは、優しい笑みと共にマユの小さな身体を抱きとめる。緊張の糸が切れたのか、泣きじゃくるマユの背中を優しくさすり上げる。
「良かった…!ステラぁ、本当に無事で良かったよぉ!」
「うん……マユ、ステラのこと、守ってくれた……」
「違うよ…ステラが、ステラがあんなに一生懸命私を守ってくれたんだよぉ…いっぱい怪我して…」
ふと、マユはステラの怪我を確かめようと、身を離して全身を眺めようとする。
が、直ぐに赤面して、下を向いてしまう。
「け…怪我、してない…みたい……だね……そ、そのぉ……よ…よかったね…」
「?…うん。怪我…いっぱい直った……マユのおかげだよ…」
そのまま、ステラはマユを再び抱きしめた。マユはすこし焦ったが、ステラはそんなマユの身体をぽんぽんと叩いている。
「マユも……怪我、無い……よかった…」
「…うん、そうだね……」
あの、ペンダントが発した蒼い光。あれが、マユやルナの怪我を癒し、ステラに力を与えた…
蒼い光に包まれている時、マユの意識は自分のものであって、自分のもので無かったような気がする。確かにマユ自身の意識が主体であったが、マユ自身が知り得ない、膨大な知識を持っていたように思う。
それが、マユを守り、ステラを守った。
「お父さん…」
父や母、それに兄の姿が思い浮かぶ。父は、こんな事が起こりうると知っていたのだろうか。父と母が亡くなり、兄が行方不明となったことに、このペンダントはなにか関わりがあるのだろうか?
そんな、漠とした疑問が頭をもたげる。
「だいじょうぶ」
マユは、おどろいてステラの顔を見つめる。ステラは、深いすみれ色の瞳でマユを見つめ、微笑みながら言った。
「ステラ、マユ、守る……マユのくれた力で……ぜったい、守るから…」
『マユのことは、俺がぜったい守るから』
ふと、兄の笑顔が思い出される。マユは、ステラの胸に顔を埋め、何度も、何度も頷いた。
不意に溢れた涙を止められず、泣きじゃくりながら、何度も、何度も……
「ふん…ミゲルが倒されたか…」
さざめく水面に映る光景を見ながら、仮面の男は一人ごちた。
光の剣に両断され、爆発するミゲル。そして、変身を解いて抱き合う黒い戦士とひとりの幼い少女。
「なかなか、興味深い事になりそうだ…」
そうして、仮面は口元を笑みに歪める。そんな仮面に、暗がりから声がかけられる。
「あれ…ミゲルは失敗ですか?」
柔和な印象を与える声だった。その姿を伺う事は出来ないが、年の頃はずいぶんと若いようだ。
「ああ……残念ながら、な……あの娘、どうやら一筋縄ではいかんかな?」
「そうですか……彼は、人間を見下しているところがありましたからね……」
「君はこう言いたいのかね…ミゲルには油断があった、と?」
「さあ…?どちらにしても、彼が敗れた、それが事実ですから…」
密かに、笑みを含んだ声が遠ざかっていく。仮面は、そちらにちらりと視線をやりながら言う。
「君も、油断はせぬ事だ……あの娘と”秘石”の力……我らにとっても鍵となるかも知れぬのだから、な」
そう言うと、仮面の男の姿もまた、暗がりの中に消えていった。
投下終了
空気読まずに長々と失礼しました
しかし、ムダに長い…
もうちょっと短く出来ないのかな…我ながら…