かっかっかっかっかっ…
石畳を蹴る音が、押しつぶされそうなほど濃密な闇に吸い込まれていく。
その中を、貧弱なライトの光だけを頼りに進む一人の男。服装はボロボロで、所々に流血もある。
「くそう…奴め、まだ追ってくるつもりか?」
焦りの滲む口調で呟き、さらに先を目指す。その脚が、急に止まった。
いや、正確に言えば、何かが絡みつき、それ以上先に進む事が出来なくなったのだ。
「な、何だコレは……糸?」
信じられないほどの粘性を持つ糸が、いつの間にか脚に絡んでいる。
慌てて払おうと両手を伸ばすが、今度は腕にもまとわりついて離れなくなってしまう。
「グッグッグ…ムダナ、コトヲ…」
「だ、誰だ?!」
全身を糸で絡めとられた男の前に、上から奇怪な声が掛けられた。ライトの届かない暗闇の向こうからだ。
「ワレラ…“バクゥ”カら、ノガれられるト、オモッテイタノカ?」
不明瞭でおおよそ人間らしからぬ声とともに、光の輪の中に、ぬっ、と異形の顔が突き出された。
赤く光る複眼、不気味にうごめく牙、脇腹から突き出した脚、それに黒と黄色のまだら模様を描く体皮…
それは蜘蛛であり、また人でもある、まさに異形としか言いようのない存在だった。
怪人は、逆さまの状態で男をのぞき込む。
並の人間とは比べるべくもない屈強な体格が、天井から伸びているであろう細い糸によって支えられている。
同じ物でとらわれている男に、この強靱な糸を振りほどける道理などあろうはずも無かった。
「くっ…化け物め」
「ナマイキナ、ニンゲン、ふゼイガ…クチノ、キキカタニは、キヲツケろ…」
脇腹から伸びる脚が突き出される。先端の鋭い爪が、男の皮膚を切り裂き、赤い血を滴らせた。たまらず、悲鳴が漏れる。
「イノチガオしケレば、はヤクはクンダナ…“秘石”はドコダ?」
次々に裂傷が増え、痛みに呻く声が響く。しかし男は、怪人の問いに頑として口を割ろうとはしない。
「…ゴウじョウナヤツダ…オマエノ、ツマト、ムすコガ、ドウナッテモ、イイノカ?」
「…っ、貴様…!」
「はケ…さモナイト、アイツラヲ…コロス」
男は無念の表情を浮かべながら、ぽつりと言葉を漏らす。
「…ネオだ…あの秘石はネオという老人に渡した」
「……マぼロシノ“ネオ”カ!イマイマしイ、ナダ!」
怪人は怒気を含んだ声で吐き捨てた。糸を切って床に降り立った蜘蛛男は、その嗄れ声からは想像も付かない恐ろしい叫び声を上げる。
咆哮が周囲の闇をビリビリと震わせる。怪人はしばらく荒い息をついていたが、複眼を光らせて男に向き直った。
「…キさマは、モウ、ヨウナシダ…しンデモらウ…ナニ、しンぱイ、するナ…すグ、カぞクモ、コろしテヤる」
「約束が違うぞ!私はどうなっても構わん!だが妻と息子には手をだすな!」
男は必死に訴えるが、蜘蛛男はもはや聞く耳は持たなかった。
すう、と息を吸い込み、次の瞬間には口から吐き出された大量の糸が男を覆い尽くしていく。
絡みつく糸に締め上げられ、全身が砕ける痛みの中で、最後に思い浮かんだのは家族の顔だった。
『母さん、シン…どうか生きて、無事で居てくれ……マユ、すまない……』
「じゃあお母さん、いってきまーすっ!」
「いってらっしゃい、車に気を付けるのよ!」
「わかってるってば!」
明るい声が弾けて、小柄なシルエットが玄関から遠ざかっていく。今日も朝から元気な娘を送り出し、朝の仕事も一段落。タリアは一つ大きく伸びをした。
そこへ、むにゃむにゃと欠伸をかみ殺しながら、ギルバートが起き出してくる。自慢の長髪も乱れ放題で、父親の威厳など微塵もない。
「おはよう、母さん…マユはどこへ行ったのかね?」
「あらおはよう。マユは今日もルナちゃんとおでかけですって。ほんと仲がいいわね…それはいいですけど、早くご飯食べちゃってくれる?」
そういって、タリアはさっさと洗濯物片づけに向かう。素っ気ない妻の態度に、ギルは一つため息をついた。
「…やれやれ、母さんは冷たいな……レイ、おはよう」
「おはようございます、父さん」
居間では、一人息子のレイが朝食を摂っていた。メニューはありふれたトーストとベーコンエッグ。シンプルなメニューだが、ほんの少し加えられたスパイスの香りが食欲を誘う。
レイはナイフとフォークを器用に振るい、白身とベーコンを適当な大きさに切り分け、バランスよく四角いトーストの上に配置していく。
それから、いささかゆるめの黄身を潰さぬよう、慎重に運ぶと、白身とベーコンの中心にそっと乗せて、準備完了。
ぴしりと伸ばされた背筋をいささかも揺らすことなく、口元に運ばれたトーストを優雅に頬張っていく。
こぼれる恐れのあるトロトロの黄身は事前に啜り、安全を確保してからさらに進む。その際に、音をたてる不作法など、当然犯さない。
我が息子ながら、完璧な朝食の取り方と言えよう。
はたしてトーストとベーコンエッグを食べるのに、これほどまでの完璧さが必要なものか、ギルは時折真剣に考えることがある。
「どうしましたか、父さん。顔色が優れないようです…なにか悩み事ですか?」
「ああ…いや。大したことではないよ。心配させてしまってすまないね」
まさか平和な朝食の光景を見て深遠な思考の迷宮に迷い込みかけたなどとは言えまい。ギルはレイの追求を咳払いと朝刊で誤魔化した。
トーストを片手に、ぱらぱらと記事に眼を通していく。
アスハの支持率、微増…景気は踊り場脱却か…モルゲンレーテ、過去最高益の見通し…ユーラシア連合での内戦で死者○○名…
G1・オーブカップ、5馬身大差でグゥレイトォバスター制す…袋とじ・有名企業の美人受付嬢×3、実名で大胆ショット…
「父さん、それは新聞記事ではなく、週刊誌の広告です」
息子から的確なツッコミが入る。ごほん、とひとつ咳払いをして、ギルは社会面を開いた。
「こんどは19歳女子大生、犠牲に…ふむ、これはまた酷い事件があったものだね…」
「あの不可解殺人の事ですか?確かに、まれに見る残虐な犯行です…それに、比較的、我が家に場所が近いのが気になります」
レイは眉をひそめる。最近、若い女性をターゲットにした猟奇殺人事件が頻発しているのだ。うなずくギルの顔も険しい。
繁華街の路地裏など、人通りの少ないエアポケットの様な場所で、凄惨な死体が発見されるという事件が起こり始めたのは1ヶ月ほど前のことだった。
どの死体も、腹を切り裂かれ、内臓がぶち撒けられているという、想像するだけで吐き気を催しそうな状況らしい。
奇妙なのはそれほどに死体の損壊が激しいにもかかわらず、凶器がどうしても特定出来ないということだ。
ナイフや包丁など、日常的に手に入る刃物とは特徴が全く異なる。強いて言えば、むりやり引き千切られた様な傷跡らしい。
それに、事件現場から立ち去る不審者を眼にした者もいない。現場はいざ知らず、周囲は繁華街で人通りも多い時間帯にもかかわらず。
警察は事件の詳細を発表していないので、ほとんどは噂話だ。はっきりしているのは、未だ犯人が逮捕されていないという事実だけ。
「困った物だ。わが国の優秀な警察をもってしても未だ逮捕に至らないとはな」
「はい…実は私の友人にも、知り合いが被害にあったということでショックを受けている者が居ます」
「…そうか。我が家も他人事では無い。母さんやマユには気を付けてもらわないといけないな」
「お父さん、何に気を付けるの?」
洗濯カゴを抱えたタリアがやってくる。ギルは、真剣な表情で妻に語りかけた。
「最近はこのあたりも物騒だから、母さんとマユも気を付けて欲しいと言っていたところだよ。特に君は美人だ。用心も人一倍必要だろう」
「…あら、おだてても何にも出ないわよ。それから、早く顔を洗っておいでなさいな。いつまでもそれじゃ締まらないわよ、ギルバート」
タリアはさっさとサンダルを履き、庭へ出てしまう。レイが、いささか不満そうに言った。
「母さんは父さんの言葉をすこし軽んじすぎです。父さんは真剣に心配してくれているのに」
「そんなことないさ。タリアは判ってくれてるよ…さて、いいかげん私もシャキッとしなければいけないかな?」
ギルそういって優しく微笑むと、新聞をたたんで洗面所に向かう。
レイは納得しかねるという顔つきだったが、気を取り直して食器を片づけ始めた。
「ほら、あれなんてすごくカワイイわよ。マユにぴったりじゃない?」
「えぇぇ…あんなの子供っぽいよ。マユはもっと大人っぽいのが良いもん」
今日もお気に入りのアクセサリーショップを冷やかしながら、マユとルナは他愛のない会話に興じていた。
「なに言ってるの。実際、まだお子様じゃないの」
「そんなこと無いもん。マユだってもうすぐ中学生だよ。すぐお姉ちゃんより大きくなるんだから」
ぷうっと頬を膨らませる少女に苦笑しながら、ルナはふと遠い目をする。
「…そっか、マユも今度は中学だもんね。もうすぐ大人ね…」
寂しそうな表情で黙り込んだルナに、マユはおずおずと尋ねる。
「…もしかして、お兄ちゃんのこと考えてた?」
「あ…う、ううん…そんなこと無いよ。ごめんね、ちょとボーッとしちゃった」
「あのね…マユ、別に気にしてないから…お姉ちゃんも変に気を遣わなくていいよ?」
言いつつも、マユの表情も曇っている。彼女を悲しませるような話題を出してしまった事をルナは後悔したが、裏腹に言葉は止まらない。
「…シンもホントだったら高校生だもんね。あの時はみんな、まだ中学生だったけど」
シン・アスカ
マユの本当の兄で、ルナやレイとは気の置けない友人だったが、二年ほど前、考古学者の父や母と共に南米へ遺跡調査に向かい、消息を絶つ。
後に父と母は遺体で発見された。他殺体だったらしい。シンだけは遺体が見つからなかったが、生存は絶望的だろう。
それ以来、マユはアスカ家と親交の深かったギルの家に引き取られ、養女として育てられているのだった。
マユもルナも皆、明るく振る舞えるようになるまでに長い時間がかかった。今でも時折、シンの事を思い出して沈み込んでしまう。
「…ごめんね、何か湿っぽくなっちゃった。私なんかより、マユの方が辛いのに」
「気にしないで、お姉ちゃん…それに、死んだって決まった訳じゃない…ううん、お兄ちゃんはきっとどこかで生きてる…そんな気がするんだ」
妙に確信めいた口調で話すマユ。その表情をみていると、なんだかルナも本当にそんな気分になってくる。
「そっか、そうね…いつかひょっこり帰ってくるかもしれないわね」
湿っぽい空気を振り払うように、明るく言うルナ。いくつかのアクセサリーを手にとって、マユに合うかどうか品定めする。
「きっとアイツ、マユがこんなに可愛くなってるなんて!ってビックリするわよ」
「…お姉ちゃんそれ誉めてる?それともバカにしてる?」
「もちろん誉めてる。あんまりひねくれた見方しちゃダメよ……ま、そーいう所は確かに可愛くなってないわね」
マユはまたしてもぷうっと頬を膨らませる。そんなマユの表情に小さな笑いを漏らしながら、ルナは自分のコーディネイトをチェックする。
「んー、やっぱりコレが一番似合ってるわ」
ルナが手にしたのは、もともとマユの首に下がっていたペンダントだった。
神秘的な輝きを放つ蒼い宝石が埋め込まれ、精緻な模様が刻まれている。美しいだけでなく、見る者に不思議な安らぎを感じさせる品だった。
「いつ見ても素敵ねぇ……お父さんがくれたって言ってたっけ?」
「そうだよ。私が子供のころ、遺跡調査で南米へ出かけて、向こうで貰ったんだって」
以来、マユは肌身離さず持ち歩いている。
「小学校じゃ大丈夫だったかも知れないけど、中学じゃそういうの煩いから気を付けなきゃダメよ?」
「わかってる。そんなヘマしないって。マユだって、取られたくないもん」
そう言って、マユはぎゅっとペンダントを握りしめる。
「…っ!」
不意に、頭の中に強い光が走ったような気がした。強いめまいがして、身体がぐらりと傾く。
ルナが慌てて抱きしめてくれなければ倒れていたかもしれない。
「ど、どうしたの、貧血?」
「…あ……ううん。そうじゃない……なんだろう…よくわからないけど……」
おぼろげな何かのイメージが、頭の中に残っている気がする。それを探ろうとしても、明確な像を結ぶ前に霧散してしまうが…
「とにかく、どこかで少し休みましょう。歩ける?」
「うん…そんなに心配しなくても大丈夫だよ…ルナは大袈裟なんだもん」
マユはそういって笑ったが、それでも、ルナはマユの手をしっかりと握って離さなかった。
まだ昼前だが、メインストリートには行き交う人々の肩が触れるほど大勢の人が繰り出している。
家族連れやカップル、友人、学生らしい一団など、老若男女、顔ぶれもさまざまだ。が、その中に、一際異彩を放つ人物が居た。
薄汚れた青いドレスを纏い、周囲をキョロキョロと見回しながら歩いている。
ドレスだけではなく、金色の髪も、むき出しの肩や腕も、とにかく全身が薄汚れている。しかし、よく見ればまだ年若い、美しい娘だった。
深いすみれ色の瞳が不快そうに細められ、背中を丸めながらよたよたと歩く様子は、まるで動物の様に見える。
あまりの異様な風体に通行人も思わず道を空け、モーセの十戒のごとく人並みが割れていた。
「……何かしら、アレ?」
雑居ビルの2階に入った喫茶店から通りを見下ろしながら、ルナが呆れたように呟く。オレンジジュースを飲んでいたマユも、つられてそちらを見た。
「あれ、女の子?…なんだかすごい格好だね」
なにかしら惹きつけられるものを感じて、マユは窓に額をくっつけながら通りを見下ろした。
通りの娘は周囲を威嚇するような仕草さえ見せていたが、ふと何かに気づいたように立ち止まり、辺りに探るような視線を彷徨わせる。
そして、ピンと背筋を伸ばし、顔を上にあげて……その視線が、ガラス越しにマユの視線と絡み合った。
再び、頭の中に閃光が走る。
『え…何?あなた、誰?』
周りの一切の光景が消え去り、その娘の姿だけが望遠鏡の様にクローズアップされる。すみれ色の瞳がすべてになって、そこに吸い込まれるような感覚…
「…ユ、マユ!どうしたの?」
強く呼びかける声がマユを現実に引き戻した。呆然として振り返ると、ルナが心配そうな顔でこちらに身を乗り出している。
「あ…ルナお姉ちゃん……」
「どうしたのよ、さっきから変よ?!どこが具合が悪いなら、早く帰りましょう、送るから…」
「ううん…だいじょうぶ…大丈夫だけど…」
通りに視線を戻すと、さっきの娘の姿はどこにもない。何事もなかったかの様に、人通りも元のままだった。
「ねえルナ、さっきの女の子…あの人はどこにいったの?」
「え?…そういえばどこに行ったのかしら…じゃなくて、そんなことどうでも良いわよ。ホントに大丈夫なの?」
「うん、大丈夫だって…」
言いかけて、マユは背後に異様な気配を感じ、振り向く。喫茶店のドアに据え付けられたベルが、ちりんと鳴り響いた。
さらりとした金髪に涼しげな目元。オレンジ色の派手なジャケットが眼を引く、美青年。何かを探すように店内を見回している。
マユの視線を追ったルナが、あらいい男、などと暢気なことを言っていたが、マユはとんでもない、と思う。
この人は危険だ……はやくここから逃げなければ。何故かは判らないが、そう確信する。
しかし、どこへ逃げれば良い?
男はすでに唯一の出入り口を塞いでいる。マユが逡巡している間に、相手がこちらに気づいてしまった。
冷笑を浮かべながら近づいてくる青年。その眼光は異様に鋭く、射抜かれたマユはそのまま動けなくなってしまう。
「こんなガキがターゲットだったとはな…手間取らせてくれるぜ」
二人の間に漂う、ただならぬ雰囲気を察したルナは険しい表情で腰を浮かせる。そこへ、何も知らないウェイターが近づいてきた。
「あの…お客様、お席に案内いたしますので、こちらへ…」
最後まで言い切る事が出来ず、ウェイターが吹き飛ぶ。テーブルが倒れ、ガラスが割れる音と共に悲鳴が響き渡った。
「人間風情がうるさいんだよ…さーて、さっさと済まさせて貰うぜ。悪く思うなよ、お嬢ちゃん」
ウェイターを吹き飛ばした男の拳は、異様に黒ずんでいる。と、その腕が膨れあがり、ジャケットを内側から破裂させた。
「な…何よアンタ、マユに何をするつもり?!」
とっさに立ちはだかったルナを一瞥し、男は煩そうに右腕を振るう。鈍い音と共に、ルナの身体はマユを飛び越えて窓ガラスを突き破った。
「ルナっ!!」
悲鳴を上げて窓へ乗りだそうとしたマユの首を、男の右腕が捕まえた。そのまま軽々と全身が浮き上がり、マユは苦しみにもがく。
「あっ!がっ!」
涙でゆがんだ視線の向こうで、今や完全な異形と化した男が低く笑っているのが見えた。
「さア、しンデモらウぜ…そノアトデ、ユックり“秘石”ヲ、イタダク…」
真っ赤な複眼がゆがめられたように見えた。男の腕に力が入るのを感じたマユは、自分は本当に殺されてしまうんだ、と哀しくなった。
『お兄ちゃん…最後に会いたかったな……』
ちらりとそんなことを考え、はやく楽になれば良い、とさえ思った。
ゆっくりと暗闇に閉ざされていく視界の中を、何かが凄いスピードでよぎったのはその時だった。
「グァァァァァ!」
異形の男が叫び、マユの身体も放り出される。訳がわからない内に誰かに抱きとめられたマユは、喉を押さえて激しく咳き込んだ。
「だいじょう…ぶ?」
涙で見えない目をゴシゴシとこすって、声の主を見上げる。
「あ、あなた…さっきの!」
通りを歩いていた、あの薄汚れた女の人だった。深いすみれ色の瞳が、マユを静かに見下ろしている。
「ナ、ナンダキさマァァァァ!!」
吹き飛ばされてテーブルの下敷きになっていた異形の男が、怒りの声を上げながら立ち上がる。
「な、なにアレ…く、蜘蛛男?」
マユがとっくに卒業したお子様向け番組に出てくる怪人そのままの印象だったが、リアルさが段違いだ。とても作り物には見えない。
とはいえ、こんな生き物が現実にいるとも信じられず、マユはただ混乱するばかりだった。
その蜘蛛男の口がくわっと開かれ、白い奔流がこちらへ向かって叩き付けられる。おもわず身を縮めたマユの襟首を、娘がむんずと掴む。
金髪の娘は、悲鳴をあげるマユを小脇に抱えながら、信じられない身軽さで跳躍し、蜘蛛男の攻撃をかわしていった。
「ば、ばカナ!ニンゲンノ、ぶンざイデ、キさマはァ!」
蜘蛛男が焦りの声を上げる。娘は物陰に素早くマユを下ろすと、自分から蜘蛛男に躍りかかった。
「オノれェ!」
異形はひたすら蜘蛛の糸を吐き続けるが、娘の速度の方が数段、早い。左右に軽やかなステップを踏みながら、着実に間合いを詰めていく。
後一歩で踏み込める間合い。娘はそこから一気に飛びかかる。それに併せて糸が拡散するように吐き出された。
蜘蛛男はそれで娘の脚を止めたと確信したが、娘はいつの間にか引きちぎられたカーテン生地を手にし、それを振り回して糸を防ぐ。
そのまま驚愕で動きの鈍った蜘蛛男の顔面を殴りつけた娘は、身をかがめるように着地し、次の瞬間にバネを解き放つ。
「ウェェェェェェエエエエイッ!!」
弾丸のような速さで繰り出され腹部に突き刺さった蹴りの威力はすさまじく、そのまま蜘蛛男の身体は窓ガラスを突き破り、通りまで吹き飛んでいた。
マユは、物陰から頭だけを突き出してそれを目撃した。少し遅れて、ぐしゃりという音がマユの耳にも届く。
『し、死んだ?!』
マユは物陰から出て確かめようとしたが、白い糸が地面から伸び、不気味な体液にまみれた蜘蛛男がゆっくりと浮かび上がってきたのを見て、小さく悲鳴をあげて再び隠れる。
金髪の娘はまるで動物の様に、窓の向こうにぶら下がっている蜘蛛男に向かって小さく威嚇のうめき声を上げていた。
「キさマ…ニンゲンノ、ぶンザイデ、ワレワレニ、タテツイタコトヲ、コウカイさせテヤる…オぼエテオクガイイ!!」
捨てゼリフと共に、蜘蛛男はそのまま壁を伝って上に逃げていった。
娘がふっと緊張を解いたのを見て、マユもおずおずと物陰からはいずり出る。
店の中は、怪人と娘の乱闘のおかげで酷い有様だった。テーブルはすべてひっくり返り、辺りにはガラスが散乱し、粘つく蜘蛛の糸があちこちにへばりついている。
呆然とそれらを眺めていたマユは、いつのまにか側にいた娘の視線を感じ、ビクリと飛びずさる。
「あ、あなた、なななな、なんなんですか、あなたは?!」
茫洋とした雰囲気を漂わせた娘は、マユの恐れも剣幕も気にせず、すたすたと近寄ってきた。
「いやっ!こないでっ!あっちいってよぉ!」
この人は、あの化け物と戦っていたのだ。それに気づいてしまえば、恐れを感じずには居られない。
腰を抜かしたマユは、手当たり次第に物を投げた。本人も意識しないうちに、かなり危険な物まで投げつけていたが、娘はそれを避けようともしない。
「やだぁ!きちゃだめ!あっち…っつ!」
割れたグラスを手に取った拍子に、指先を切ってしまった。痛みが、マユを正気に引き戻す。
はっとして娘を見ると、娘も額を切って血を流していた。自分がそれをやったのだ、と気づいて、マユは訳が判らなくなって泣き出していた。
「ごっ…ごめんなさい…わ、わたし…そんなつもりじゃ…!」
顔を覆って泣きじゃくるマユ。
娘は、何も言わずにマユの手をとると、そっと両手で包み込む。
「いたい…?」
あどけない声だった。そっと表情を伺うと、彼女は心配そうにマユのことを見つめていた。指先を切った事を気遣ってくれているらしい。
「あ、私は大丈夫…そ、それより、お姉さんの方が…」
マユはあわててハンカチを取り出し、そっと娘の傷と血のあとを拭いていった。
「…ありがとう…えっと…わたし、ステラ…」
微笑んでお礼を言った後、すこし困った顔で、娘はそう言った。彼女の言わんとするところを察したマユは、自分の名を告げる。
「…まゆ…まゆ…ウフフっ、マユ!」
ステラと名乗った娘は、嬉しそうにマユの名を繰り返す。無邪気で眩しい笑顔を見る内に、ささくれだったマユの気持ちも落ち着いていく。
しかし、それはそれとして、いろいろと問いたださなければいけない事がある。
「あ、あの、ステラ…さん…あなたはいったい何なんですか?どうしてあんな事を…ううん、そもそもあの怪人はなんなんですか?!」
「…ステラ…あいつら、よく知らない」
「知らないって…え、えーと……と、ともかく、何で私を助けてくれたんですか?」
その言葉に居住まいを正したステラは、あの深いすみれ色の瞳でマユを見つめ、小さな手をしっかりと握りしめて、言った。
「ステラ、マユ、守る…ステラ、そのために来た…」
投下終了
すんません、第一話のAパートという感じなのでシンどころか変身すらありませんでした…