福田夫妻を処断するスレPart34

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「SEED」最終回は初代と同じ

―放送前、監督は公式サイトで人類の未来に対する希望や回答をお約束するとコメントしていましたが、
最終回はかなり突き放したような印象を受けましたが・・・。

僕はあれで十分回答になっていると思います。
確かにハッピーエンドではなかったですが、単純に投げっぱなしにはしてないつもりです。
あまり裏読みしないで、ストレートに感じてくれればいいんじゃないでしょうか?
うちの子供やその友達なんかはわかってましたよ。

―そんな厳しい最終回の中で、自爆してジェネシスを破壊しようとするアスランに対してカガリの言った
「逃げるな、生きることが戦いだ!」というセリフが印象的でした。

アスランは、父親の行為に対する贖罪を感じて刺し違えるつもりだったんです。
そんな彼の思いをキラもラクスも、そしてカガリも感じていました。
でもパトリック・ザラが死んだ後、息子のアスランがここで死ななきゃいけないというのは違うと思います。
アスランやカガリの父親たちは、今までやってきたことを精算しなければいけないんですけど、
アスランやカガリの世代は、これから未来を作ってかなければいけないって立場にあるんです。
だからここで精算するのは違うだろうって言うことを、カガリは言いたかったんでしょうね。
―キラをはじめとするキャラクターたちの話は一応決着しましたが、
戦局としては停戦が終わっただけで、まだナチュラルとコーディネイターの対立は残っています。
これ以降SEEDの世界はどうなっていくのでしょうか?

現実世界と同じです。
ファーストガンダムも停戦協定が結ばれた、というナレーションで終わってましたよね。
でも、ガンダムはそれでいいんだ、と思います。
めでたし、めでたしで終わるガンダムはガンダムじゃないんだっていうことを、当時ファーストガンダムを見ていた僕らは確認しあったと思うんで。

―それはつまり、歴史の一局面を切り取ったということでしょうか?

キャラクターのドラマが決着すればそれでいいのではないかと思います。
だから、最終回のラウとキラの戦いに『SEED』の全てを集約させたつもりです。
2人の戦いとは、戦争を始めた人類の愚行によって被害を受けた者(ラウ)と、
ラウと同じ立場にありながらそちら側には行かず、受け入れて生きようとする者(キラ)との戦いなんです。
ラウを生み出した存在や状況が、この戦争の元凶…根っこの部分に微妙に絡み合っているので、
そのラウの思いを、キラが受け止めるということが『SEED』のテーマだったと僕は考えています。
「SEED」は戦争を描いた作品ではない?

―放送中に対米多発テロ事件後、戦争が起こりましたが、影響は受けられましたか?

受けましたね。
そして同時に、所詮アニメで戦争なんて語れるわけがないっていうすごい虚無感に襲われました。
現実の戦争があまりにも悲惨すぎるんです。
だから、アニメでどんなにリアルに、悲惨に描いても、現実に戦争で行われていることに比べたらまったくお話にもなりません。
そういう厳しい現実に直面したとき僕は、『戦争に決着をつけて戦争を描くことがガンダムの目的ではない。
ガンダムはエンターテインメントなんだ』っていう認識に到りました。
戦争に決着をつけるのはドキュメンタリーや小説でやればいいことであって、僕らの役目じゃない。
それをやったらガンダムは成立しないんです。

―では監督は、戦争をリアルに描こうと思ったわけではないという事でしょうか。

端的にいうとそうですね。
今だからいえますけど僕は、最初から『ガンダムSEED』は戦争ものじゃなく、ロボットものでやるつもりでいたんです。
当時も思っていましたが、初代ガンダムは戦争ものをやろうとしていたわけじゃなくて、ロボットものに戦争の要素を入れた新しいロボットものだったんです。
ただ、それ以降、戦争の方が一人歩きして、ガンダム=戦争ものという認識になってるようですけど、基本はロボットものなんだと思っています。

―確かに「SEED」に登場するもビルスーツたちは、見た目もアクションもかっこいいですね。

そう。中でもストライクやフリーダムはメカじゃなくて、スーパーロボット。
ムウがストライクに乗り換えたとき感じたんだけど、キラ以外のキャラクターがストライクに乗ってもしっくりこない。
ガンダムをメカとして道具として描いていれば、こんな違和感はないはずなんです。
だからこれ以降、他のキャラクターにマシンの乗り換えはさせていません。
イザークとディアッカのマシンを交換して、二人が互いの機体の性能差を見せるなんて演出も絶対しなかった。
『SEED』でのロボットは、取り替えのきく道具ではなくて、あくまでも一つのキャラクターなんです。
ガンダムを作る苦労と喜び

―今伺った話から考えますと「SEED」は、いわゆる従来のガンダムファンが望むガンダム像とはかけ離れているように思います。
そういう作品を作っていると、各方面からのプレッシャーはかなりすごかったのでは?

大変でしたよ。ガンダムのすごいところは、誰もがガンダムの共通認識を持っていることなんです。
ガンダムがどういうものかというのがみんなわかっています。
一番シャレにならないのはスタッフがわかっているということ。
そして、それを営業する人間もガンダムを全部知っている。
そんな中で、今回こういう風にいきたいんだ、こういう風にしたいんだというときに、『え、それはガンダムとしてどうなの』という話が常に出てくる。
そういうプレッシャーが企画の立ち上げのときから一番苦労しました。

―ガンダムの監督には常にそういった苦労が付きまとうと言われていますね。
では逆に、「SEED」の監督をやっていて一番うれしかったことは?

それはおもちゃ屋さんに行って、小さな子供がプラモデルを買っている姿を見たときですね。
作品立ち上げ当初から、子供が楽しんでくれる作品にしようと手探りでやってきましたから、
そういう年齢層に浸透してきてるんだなっていう実感が得られたのは本当にうれしいです。
子供が一番素直に作品を見ていますから。
やっぱり子供がどう思っているか、中高生がどう思っているかって言うのを一番注意しなければいけないと思います。
(了)