ダムA10月号より下村タンのエッセイ(?)でも。
記憶を紡ぐSEED
SEEDの戦争は舞台設定でしかない。
9.11のテロ事件で、生涯を通じても2度とは目にすることが出来ないような映像を見せられた。
また米国の対ムスリム戦争も、日本国内では何となく終結してしまったような気がする。
等のアメリカでも局地的な戦闘やテロはまだまだ続くと見られるが、一応の決着を見たのであろうか。
ザラやエザリアの演説も、もう少しはショーアップすべきだったろう。
特にイザークママ。あれでは取り残された共産圏だ。
(演出意図どおり三石琴乃さんの演技も加わり、大本営の胡散臭さが良く出ていた。)
その面を言えば、娘を国内の象徴として傍に置いて国事に参加させていたクラインの方が長けていた。
許しても(敗者は泣き寝入り)忘れない。「記録」でなく「記憶」なのだ。
キラに「戦争だから仕方ない」と割り切ったバルトフェルドだって、いつかコーヒーを飲みながら戦時中のことを思い出し、
在りし日のアイシャとともにキラに恨み言の一つも呟くかもしれない。
許されないのは無意味な「殺人」なのだ。
(35話や39話の死体の描写は戦争というものが 「死」によって構成されているという考えから、 えげつない表現を確信犯的に採用した)
C.E.における「ナチュラル」と「コーディネイター」の殺し合いの根源は双方の「差別」と「被差別」感情だと思う。
ナチュラルは身体能力に劣等感を抱き、文字通り遺伝子がナチュラルだという事実に縋る。
コーディネイターは自らの出自に負い目を持ち人種としての優位性を誇る。
たとえ両者が協定なりを結んで、終戦となっても、しこりは残る。
どこかの田舎の酒場に行けば、「けっ、あいつら頭の良さひけらかしたって、何十年後かにはいなくなっちまうだろうが。」
であり「文化程度の低い奴と同じ空気を吸うと遺伝子が穢れる」と顔を背け合うだろう。
SEEDは親友であるキラとアスランの別れと闘いの物語であった。
戦争は舞台設定でしかない。
アークエンジェルの戦闘行為はヘリオポリス、バナディーヤ、アラスカ戦ですら戦争の大局にはさして影響をもたらすものではなかった。
だから39話で再開した時に、全てが終わっても良かったはずなのだ。
しかし、キラはなおも戦い続けている。
敵MSを戦闘不能にするという戦術は彼なりに出した結論の一つではあろうが、それはやはり幼いヒューマニズムに過ぎないのではなかろうか?
下手をしたらフリーダムを頼りに、世界中の戦場に出没し続けていたのかもしれないのだ。
クサナギ、エターナルと合流した現在ですら、もっぱら趣味で戦っているとしか思えないアズラエルが相手の戦闘に終始している。
それが今崩れようとしている。
フレイによってもたらされたNジャマーキャンセラーによって連合は再び核を手にした。
彼らは容赦なくそれを使用する。
キラとアスランならばそれに対処できるかもしれない。
表舞台での正念場である。
そして螺旋の因縁で絡まったラウ。
ヒトに甚だしい恨みを持つ彼と対峙する資格を持つのはキラしか居ないのではないか。
そうならばその時、本当に彼を葬る決意を持ってトリガーが引けるか?
福田監督、両澤千晶両氏は子を持つ親という一面を持って 視聴者に最終回以降のキャラクターの在り方を考えて貰うために、
SEEDを世に送り出したのではないかと最近思うようになった。
野坂昭如氏の言葉だが、戦争の渦中にいると爆撃による死も天災に感じられるようになったという。
理不尽さは変わらないのだ。
恐らく我々が戦争を経験することはないだろう(特にサンライズは町内会がしっかりしているので北や南から攻め込まれても大丈夫)。
だからSEEDはそんなことを話題にするキッカケにもなってくれればと思う。