気がつけば、寒い部屋にいた。
記憶の始まりは、いつも寒い部屋だった。記憶の全ては、寒い部屋だった。
白く、淡く、広く、個性という個性を剥ぎ取ったかのような内装。幼児の私、
子供の私がそこにいる。白衣を着た女が私をあやしている。対になるべき
夫の姿はない。いつも私と女の二人きりだった。
女は私に人の産み出した全てを教えようとする。言語、化学、理論、歴史、
数学、思想……女の顔は個々の想い出ごとに違っている。いや、事実として
別人なのだ。つまりは母親ではないという事か。
彼女達のきびきびとした動きと厳しい躾が強く記憶に残っている。見せ掛けの
優しさと、透けて見える冷酷さ。女性兵士だったのだろうと今は思う。
私は一度だけ、女の一人に触れた事がある。その日は部屋が、とても寒く
感じたのだ。無意識的にか、彼女は私を突き飛ばした。まるで病原体にでも
触れたかのように。私はそのまま一時間ほど昏倒していたらしい。気がつけば
女の姿はなく、二度と顔を見る事はなかった。
私は医師に診察を受けた。毎日のように部屋で検査されていたが、脳の状況を
確かめるために脳の断面図を撮る事になったらしい。
体の各部についた電極が外され、いつも女が出入りするのとは違う扉から
部屋を出た。白く長くどこまでも廊下が続いている。それが始めて見る部屋以外の
景色だった。廊下には私の部屋と同じ扉がどこまでも並んでいた。私と同じような
子供がいるのだろうか。尋ねてみたが、女は答えなかった。
検査した結果、異常はなかったらしい。私は脳の断面写真を盗み見た。解剖学の
本で見た同年代の少年より、ずっと神経が発達していたように見えた。私は部屋の
中で暮らしても体力が落ちないよう、定期的に運動を義務付けられていたが、
その能力も同年代の平均をずっと上回っていた。
私は何者なのだろう。そんな疑問が時に脳裏をかすめた。……自我が発達する
途上の、少年らしい感傷だ。そう思い、疑問を忘れる事につとめた。
女達は私に触れてくるようになった。しかし肌を通して伝わってくる微かな
震えを感じ、ある日私はつぶやいた。
「無理して、触らなくても良いよ」
女は押し黙った。そして二度と私に触れる事はなかった。
成長するにつれて住む部屋は何度か変わったが、最後まで白く寒い部屋だった。
成長した私は一度だけ外へ出られる事になった。
雑菌のいる環境でなければ免疫力はつかない。医学では常識のはずなのだが、
この時より前に外に出た記憶がない。私はよほど免疫力の低い人間なのだろうか。
いつもの廊下を何度も曲がった先にあった、大型車の一室に入れられた。窓はない。
そこには銃を脇にぶら下げた頑強な男が一人。女も二人ついてきていた。
やがて大型車は見た事もない山のふもとに辿り着いた。写真ではない広い森、
草の匂い、風のうなり、虫のざわめき。それが私の神経を心地よく緊張させてくれる。
見張りが大勢いなければ最高の気分であっただろう。彼らは特殊訓練を受けて
いるようであったが、子供である私の感覚でも何故か捉えられた。彼らは私の一挙手
一投足に反応する。逃亡を防ごうとでもしているのか。
私とともに車に乗っていた男が横に座り、言った。
「君は人類の革新のために存在する偉大な人間だ」
私が産まれて初めて笑えた冗談だった。
成長した私はついに白い部屋を出て、自由に建物内を歩き回れるようになった。
外出する時はやはり監視の眼があったが。
長い廊下の各部屋には、やはり私と同年代の少年少女が暮らしていた。アルファ、
チャーリー、ブラボー、みんな良い奴ばかりだった。しかし良い名前だとは思わ
なかった。それが軍で使われる番号名称と知っていたからだ。
同年代の気安さからか、私はすぐに彼らと仲良くなった。始めての人間らしい
幸せだったのかも知れない。文字通り、彼らと私は同じ人種であったし。
私達は建物の一室で合同授業を受けるようになった。どのような経緯でか幾人もの
有名な大学教授を呼び、本格的な研究も行う。偽名での論文発表も行った。研究の
中心は、いつもチャーリーか私であった。
「ジョージ、あまり他人に多くを求めるな。裏切られても嘆くなよ。何でも自分
一人でやろうと思っちゃあいけないが」
彼らとともに勉学にはげみ、体力を作り、訓練にいそしむ毎日が続いた。成績の
低い者はいつの間にか姿を消し、私と数名だけが残った。
間引かれている。私達はそれに気づいていたが、どうする事も出来なかった。
私達にとってここが世界であり、ここ以外を知る事は出来なかったのだから。不幸で
あると実感できなければ、それは不幸ではない。そういう事なのかもしれない。
そして私はこの奇妙な学校を卒業し、子供のいなかったグレン家の養子になり、
普通の中学校から入りなおした。矛盾するようだが……普通の超人として、これまでの
人生を秘匿し生きるよう強制されたのだ。
この時はすでに私の仲間は誰一人として残っていなかった。チャーリーは私よりも
成績が上であったが、反抗心が強いとの理由でどこかに連れていかれていた。
疑念を持たれないよう気をつけながら、私は学業を修めていった。それでも国語に
体育、音楽にいたるまで人並み外れた好成績を積み重ねる。さらに各所からの取材で
大忙しの毎日だった。しかし心はいつも寒い風が吹いていた。これが異常である事、
作られた栄光である事を、自分自身がよく知っていたから。
ただ、私が好成績を修める度に両親が喜んでくれるのだけは、嬉しかったと今でも
思う。
私の遺伝子に人工的な操作が加えられていると、大学に進んだころ自分で検査して
確認した。ここで私が何者かの意志で作られたのだと確定し、以前からの疑念が証明
された。だが、状況は変わらない。
その後オリンピックで銀メダルを取り、各種媒体で発表した論文でも賞を取った。
しかしそれが得られたのは私の能力によってだけではない。どんなに有能でも、機会を
つかめず表舞台に出られなかった人間を何度も見た。私の背後には常に軍事複合体
らしき影がちらついていた。私は……おそらく産まれた時から、彼らの手の上で踊ら
されていたようだ。
つまり私は兵士として作り出された人工人間であり、その広告塔であったのだ。
体力があり、運動能力が高く、感覚が鋭く、成長が早く、冷徹に計算し、戦術を
記憶し、兵器の整備も可能で、管理しやすい統一体格。性欲が薄いのも、戦場につき
ものの強姦や慰安婦をなくすためだろう。
私が金髪なのも遺伝子を操作した結果のようだ。白人でも金髪の割合いは決して
多くない。これだけは合理的ではない、思想的な理由があるのだろう。ちょび髭の伍長が
私を見たら、何を思うだろうか。
父の勧めもあって、私は空軍にも入る事になった。これも運命か。いや、自分の
弱い意志のためだろう。
「軍に入れば機密を守るとの名目で、合法的に私を束縛出来るという事ですね」
私の言葉に上官は怪訝な顔をしただけだった。だが私が何者か知らないにしても、
監視を命じられているのは間違いないだろう。
しかしこのまま終わらせるつもりもない。私は彼らの眼を盗んで私の遺伝設計図を
入手し、さらに木星開発計画を立ち上げた。私の背後にいる存在とは関係ない、
幾人もの心強い仲間がいたから出来た事だった。
木星に出発する直前、両親と会話を交わした。情報漏洩を防ぐため、両親にも木星
探査計画は伝えていなかった。
有人木星探査から生きて帰れる保証はどこにもない。母は涙を流し、父が自分達は
私を監視していたと述べた。私はただ一言、知っていたとだけ答えた。
人は虚構の物語でも感動する事が出来る。遺伝的に何のつながりがなくても、私に
とって両親は両親であった。今でもそれは変わりない。
私は木星に向かう直前、ネットワークを通じて私の遺伝設計図を流出させた。
どこで回線を切断しようとも、一度溢れだした情報を止める事は誰にも出来ない。
すぐさま各研究機関で解析が行われたようだ。
商品が商品と成り立つためには、それが誰でも簡単に手に入る物ではない事が
条件だ。遺伝設計図が世界中に広がれば、私を作った存在にとって大打撃になる事は
間違いない。医療や軍事に関連した国際組織も動かざるをえないだろう。……そう
思い込んでいた。
私は探査船の中で友人と議論を交わした。ある種の遺伝病患者は、致死性の
伝染病にかからない事がある。どのような遺伝子が優秀かどうか、誰が判断出来るの
だろうか。それが主な議題だった。少なくとも私の作り手に判断できなかった事は
確実だろう。私はその議論を文章にまとめ、地球に送ろうとした。しかし全ては
手遅れだった。
その後の混乱と狂気に関して経緯を長々と必要はないだろう。自分の子供を優秀な
存在にするためだけの遺伝子を作る。それではもはや遺伝的には親子でないというのに。
しかもあの遺伝設計図は根本的に兵士しか作りえない。理論的な思考を行う神経を
肥大させ、その代わりに情緒的な反応部位、理性的判断部野の発達を阻害する。
性欲を抑え、生殖能力も低く設定しているため、子供を産む事も難しい。遺伝子が
ほぼ同じなため、新種の病原体で絶滅する危険性さえある。まともな社会など作れない
というのに、遺伝子改造者は作られ続けた。
当然のように反発する人々も出る。
そして最初の銃声が鳴った。その裏では、私を作り出した軍事複合体が手を引いて
いたらしい。言うなれば自分達の商品を売るために海賊版を排除するようなものだろう。
何という滑稽さだ。遺伝設計図を作り出した軍事複合体が秘かにブルーコスモスなどと
名乗り、遺伝子改造思想を排除しようとしているのだから。
何にしろ、反省はいつでも出来る。今はこの流れを押しとどめる努力を、可能な限り
行うしかない。流れを作り出した源に私がいるのだから。
木星から急ぎ帰還した私を待っていたのは数発の銃弾だった。
宇宙クジラを発表し、次の一手を打とうとした矢先の出来事。裏切り者を消そう
とした軍事複合体の差し金だろう。今はブルーコスモスと名乗っていたか。
暗殺者は年端もいかぬ少年。いや、青年か。ぼやけていく眼では、判別が出来ない。
ああ、口から血が溢れていく。鉄錆のごとく苦い。そして赤い色。それが奇妙に
嬉しかった。
「なぜ設計図をばらまいた。このような混乱が起きると分からなかったのか」
ぽつりと暗殺者がつぶやいた。
「とんだ天才だな。しょせん遺伝子をいじくった紛い物という事だ」
全くその通りだ。だが、少し違う。
「その通り、私の行動は、間違いだった。だが、間違ったのは私だ。遺伝子ではない」
一言しゃべる度に血が垂れていく。しかし痛みはほとんどない。超人として産み
出された事を、とりあえず感謝した。
「人間は遺伝子などとは関係なく、本能でもなく、学習で社会を作る。だから遺伝子の
違いくらいで争う必然はない。まず対話するんだ」
「そんな事が今さらできるか。おまえがあの時、あんな物をばらまかなければ誰も
死ななかった。コーディネーターも産まれなかった。そして、私の弟も……」
暗殺者が叫ぶ。水滴が私の頬に落ちて、流れ落ちた。
おそらく暗殺者の弟に遺伝子改造の結果、障碍が起きたか、亡くなったか。技術が
確立したとは言えない遺伝子改造が世界中で行われ、全てが成功するはずもない。
「もう作られていたんだ」
私の言葉に、一瞬暗殺者が身じろぎした。
「遺伝子改造のための施設は完成し、稼動していた。あそこで発表しなければ彼らは
産み出され、自由意志を奪われ、兵士としてのみの人生を送る事になっただろう」
いや、それは人生とは呼べない。人間と呼ぶ事さえ難しい。暗殺者が悲痛な声を漏らす。
いや、暗殺者などではない。ただの悲しい人間だ。私などとは比較にならないほどの。
大丈夫だ、自分の行為を背負っていけば良いだけの事だ。これまでと同じように。
「英雄気取りか。今さらどうすれば良いと言うんだ。もう戦争は始まっているのに」
「私に聞くな。自分で考えろ」
突き放した答えに、青年はびくりと体を震わせる。私はようやく襲ってきた痛みと
戦いながら、笑みを浮かべようとした。成功したかどうかは分からない。
「人の思いは遺伝だけでは決まらない」
一卵生双生児ですら、生後の環境で全く違う人間になる。教育も思想も人間を構成する
一部だが、全てではない。誰もが知っているのに、忘れかけている事実だ。
「思考し、思索し、対話しろ。他の誰かをではなく、他の誰かからではなく、自分で、
自身を作り上げろ」
そう、己自身のコーディネーターとなるんだ。
何か答えが返ってきたようだ。しかし、あまりにも遠くて声が聞こえない。
もう口も開かない。肺に血が溜まっていく。胸が熱くて焼けるようだ。
体温は逆に出血で下がっているのか、震えるほどに寒い。意識が、薄れていく。
だが、いつも心に吹いていた風は、もう寒くない。