ザテレビジョン別冊・重戦機エルガイム‐1
(角川書店発行・昭和59年12月5日発行)より
ナガノ世代の意味するもの
総監督 富野由悠季
編集部からの依頼は、ナガノ世代の可能性について書けという注文であるが、
そのような事が分るわけがない。
また、将来について分るのならば、自分が描いてみせるわい、と言いたい。
が、それは出来ない、
同時に、ナガノ君本人にしても、別の描き方ができるわけではない。
それが、絵というものであり、文章というものであり、
シナリオ、小説、作詞というものである。
しかし、総論として言えることがひとつだけある。
同世代というものは、トータルとして見ると同じだという事である。
つまり、ナガノ世代の同一の臭いというものがある。
それは、過去のスタッフを通覧しても言えることであり、
本人が好むと好まざるとに拘らず、共通の臭いがある。
時代が描かせるものであるといえる。
そのように、時代が描かせるものであるのならば、その継続として考えれば、
旧世代よりも、新世代の方がより将来に近い可能性というものがあるのは、
自明の理である。
問題なのは、その次の時代に生き残れるのは、誰かということに関していえば、
時代に対応できるノウ・ハウをインテリジェンス(知能、情報)をもって
対応できるだけのフレキシブル性を持ち得るか、という事であって、
これを身につけるためには、訓練か、学習しかない。
問題なのは、人間というものは、一度自信をつけてしまうと、
学習をするという謙虚な心をなくしてしまう事である。
殊に、同世代に競争相手がいないと、天狗になる。
自分では謙虚なつもりであっても、一度身につけさせた自信というものは、
謙虚さを持たせない。
それが、クリエイターという人種に言える悪癖である。
その自戒を持てば、成功をすると断言できる。
しかし、ナガノ世代にある共通の欠点は、
早くから実務についてしまったスタッフが多いという事だ。
これは自動的に増長を生む。
不幸なことである。
下積みの時代が長い人は、その時代に自分なりの情報を蓄えて、
いざ鎌倉に備えることが出来るし、そのような自己修練を重ねることをする。
しかし、実務者は、実践的な経験律の持つ実績に自信を持ってしまうという悪癖がある。
これをなくせと言うことはできないし、また自信がなければ、実務も遂行できない。
この二律背反した状況を抱えこんでいるのが、生活をしてゆく者の悲しい性なのである。
この状況に耐えて、乗り越えるためには、広い見識が必要となってくる。
ひとつの悟性では、対応できない。
しかし、ひとりの人にできる事は、ひとつの事でしかないという事実が、
若い人々に過酷な現実として示される。
小説家でも、作詞家でも、絵描きでも、ヴォーカリストでもなんでもだ。
一度有名になった人々が、二度目に有名になる事はできないのである。
つまり、ひとりの人には、ひとつの事しかできないという証明である。
この現実は、若くして名を成した人人にとっては、過酷である。
三十歳までは食えても、四十歳になって食えなくなったという人々は、芸能界には多い。
科学者もそうだ。
おおむねの分野でこの事は、事実として突きつけられる。
だから、大人は、権威づけをして、余生を生き永らえようとするのである。
その時から、人は、動脈硬化を起して、変化する時代に対応する能力を捨てるのである。
この繰り返しが、すでに始まっているのがナガノ世代でもある。
個人的に言えば、永野君のデザイン・コンセプトは、シャープさではなく、
細い長い脆弱性が主軸である。
これに、いかなるバリエーションが身につけられ、肉づけする事ができるのか、と、
デッサンの骨格はなにかというものが見えてこない限りは短命に終わるだろう。
が、その部分へのアプローチが十全に為され、人間としての繊細さを身につけられれば、
新しい職能を生み出す可能性の一端は有していよう。
具体的な例をひとつだけ述べよう。
感覚が絶対的なものの様に言われているが、
ナウイ感覚などというものは、怪しいものである。
なぜならば、そのようなものは。“今”だけのものであって、
決して続くものではないからだ。
そのようなものが真実であるわけがない。
キモノの原型は、現在に至るまで変える事ができなかったし、スカート、背広もそうだ。
それらのデザインには、歴史の修練を経たものがある。
それを、簡単にナウさでカバーできると信じるクリエイターがいたとしたら、
それは、傲慢である以上に無知であるとしか言えない。
ナウさ、とは、所詮、アレンジメントに於けるセンスでしかない。
この事を承知するだけでも、人間は、多少は、謙虚になれよう。
そのような事々が分る人間でない限りは、短命であるということだ。
しかし、人の事を言えるのは、このような一般論でしかない。
それ以上の事は、神様だって知りはしないだろう。
それが、現実の中で生きる人のいい加減さであり、だから無限の可能性が
ひとつのものの中にだってあるのだ、とも予測する事ができる。
すくなくとも、紙しか見ない人間でなければ、
次の展開に加担できる自分をつくり出す事はできる。
昭和59年7月18日(水曜日)
上井草/オフィス・アイにて
ザテレビジョン別冊・重戦機エルガイム‐2
(角川書店発行・昭和60年4月1日発行)より
異星人たちへ
文・富野由悠季
某アニメ誌に“トミノ効果”という言葉があって、ギョッとした覚えがある。
小生が関係する番組であれば、途中つまらなくとも、最後にはトミノ効果による
霊験あらたかな力が発揮されて、番組が面白く終るだろうという意味らしい。
そのように期待される僕は、ありがたいと思う。
そんなに力が自分にはあったのかと感動もする。
が、言われる方は見が細る思いがする。
はからずも、その証明となってしまったのが、エルガイムである。
不幸な作品だと思う。
なんでこうなったのか……。
その理由は明白である。
その理由は、大人の世すぎの言い訳なのだから書いてはいけないことなのだが、書かせて貰う。
率直に書いておかないと、忘れてしまうからだ。
周囲の大人達が……。
このエルガイムについての批判の代表的な文章は、オンエアが始まって日ならずして、
僕に届いた手紙の内容に尽きる。
つまり、
「トミノ作品を期待して見ていたのに、エルガイムはなんだ!
番組を若い連中の教育に利用している!それは作品作りではない。
テレビに対しての冒涜だ!あなたは創作者の立場を放棄したのか!」
が、エルガイムが終了して思うことは、
時には、番組制作を若い人の教育機関として利用させていただいても良いのではないか?
という感触であり、それは、今でも変わっていない考えである。
この僕の思い切りが、エルガイムの不幸と、ハッピーさを生んだ。
そのハッピーさの部分に、エルガイム故に手に入れることができた成果がある。
しかし、その成果が、僕に関係のない部分での成果であると言うことが口惜しい。
アニメは、いまや芸能であり、かつ、かってのように学芸レベルのものであるという
両極を備えたジャンルとして成長してしまっている。
今後は、この広いテリトリーの中で業務をこなしていかなければならない時代に突入している。
かって、映画が、TVというメディアに出会ったと同じ変革の時代に入っているのだ。
表面の見え方は違うが、変革としては、同質の問題を含んでいる時代なのである。
その時代を迎えた現在、日本サンライズでさえも、
そこは、大人としての偉い人々の固りになってしまっている。
そんな大人たちだけの発想で、若い人たちに見て貰えるような作品は作ってはいけない。
革新的な作品を作る事ができるスタッフというのは、所詮は、三十代までである。
それは、かっての日本サンライズでも、そうであったし、そうして来たのだ。
が、大人は、自分の主権を奪われることが怖いために、若い人の参加を危険視する。
若いスタッフに任せて、もっと巨大な成功を手に入れれば、
そのピンハネだけでメシが食えるとは思わないのだ。
それでは恥かしいし、現場としてはヤバイから……と。
しかし、中森明菜を使ってみせるプロダクションの大人たちを笑う人はいないだろう。
それが、まず、芸能の世界の生き方である。
そして、もう一方の学芸レベルということでは、
確実に生き残る作品を創作するという堅実さである。
サザエさんのように……だ。
成功作品などは、ある日突然、その時代の代表選手が、生むものであって、予定などはできない。
にも拘らず、大人たちは、自分たちの考えられる経験律で物事をあてようとする。
勘でしかない、運でしかないとは思いたがらない。
そう思った瞬間に、自分の存在意義がなくなると思うから、この考え方を大人たちは拒否するのだ。
「ゴーストバスターズ」のプロデューサーとディレクターたちは、
この作品が、これほどにヒットするとは思いはしなかったろう。
さて、僕には、時代に対応をしてやってゆくだけの能力は持っていないということは分っている。
その自己分析は、決定的に正しい。
なぜならば、既に年齢が、若くはないからだ。
その事実を謙虚に受け止めた時から、エルガイムの総監督のやり方を見られるような形にした。
そうでなければ、永野君に代表される年代のスタッフが、
これほどまでにエルガイムで主権を取ることはできなかったろう。
永野マシンとキャラクターは生まれなかったろう。
現在、それが将来の成功を約束するスタッフの登場かどうかは分らない。
そんなことの疑義は、重要ではない。
それこそ大人たちのやる仕事だ(が、そんな討論は仕事ではないのだがね)。
このスタッフのリフレッシュ感覚を投入して、アニメはやはり面白いと世間に感じさせて、
長くアニメの仕事をさせてもらうのか?
TVアニメの仕事を生活協同組合にしてしまって、
早晩、アニメがTVの世界から追放されるのを待つのか?
このどちらを選ぶかは明白である。
その当たり前なことを実践する機会を得るために、エルガイムを利用したのである。
その業務が、僕にとってのエルガイムの全てである。
そして、その時代感覚の違いの味つけが、アニメにとって、
キャビアのようになるであろうと感じたのである。
ナガノ世代は、僕のような“おじさん”にとっては、異星人である。
僕は、彼の描くマシーンもキャラクターも大嫌いだ!
永野君が、ヘビーメタルは大嫌いだ、と言うように嫌いなのだ。
が、その永野君の存在を手に入れていかなければ、
ア ニ メ は ヤ バ イ ヨ !
ということになる。
既に、その作業は、他のプロダクションではやっているのである。
が、日本サンライズは、部分的にしかやろうとはしない。
それでは、事態は見えては来ない。
姑息ではいけないのだ。
作品上のトミノ効果などは、トミノ個人を安心させ、トミノ個人の延命策でしかない。
そんなことでは、アニメ全体がパワーダウンするだけのまやかし行為でしかないだろう。
だから、今回は、トミノ効果をスタッフ編成の為にだけ使ったのだ。
しかし、本来、このようなことに使うべきことではない。
が、大人の世界、状況というものは、アニメ一本を作る以上のパワーを吸いこむのである。
これが社会なのである。
だから、疲れるのだ。
だから、大人たちは、いつもいつも不満たらしい疲れた顔をしているのだ。
でなければ、お父さんたちは、もっと楽しい顔をできるのだがね……。
みんなで疲れる原因を作って、皆で疲れている……。
それが、エルガイムの世界でもある。
ペンタゴナの世界は、もっと現実的に僕の生気を吸い取ってくれた世界だった。
その原因の一端は、渡辺ストーリーにあり、永野キャラクターにある。
あの、ファンネリア・アムとガウ・ハ・レッシィ、
フル・フラットとミアン・クー・ハゥ・アッシャーたちだ。
少なくとも、彼女たちがいなければ、僕だって、もう少しは元気に作品を作ってゆけただろう。
が、ナガノ(ここからこの表示になるという意味を考えて欲しい!)の作り出す彼女たちは、
僕にとって異常すぎた。
あまりにも、異星人なのだ。
だから、彼女たちの欲求不満を晴らす方法を、僕は、想像できないで終った。
ナガノの描く男たちが、もっと女たちの気持ちを考えてくれる男であったら良かったのだが、
ナガノの描く男たちは、男ではなく、中性でありすぎた。
そんな男たちが、女たちを満足させられるのだろうか?
僕という年代は、あのナガノ絵を見て、そう感じる。
古かろうがなんだろうが、女を満足させるのは、男でなければならないと思っている。
その女たちの求めている男たちに対して、女に近いメンタリティを持った男たちでは、
所詮は、女にとってのアクセサリーでしかない。
その偏見は強烈である。
そこに、時代の断絶を感じるのは、読者だけではあるまい。
だから、僕は謙虚で言うのではなく、“おじさん”なのである。
だから、スタッフの世代交替もしなければならないのだという論理が生れる。
しかし、だからと言って、ナガノ世代が絶対ではない。
ナガノ世代が突出すればするほどに、そのあぶり出しの絵のように
おじさんの時代が回帰する明日が来るのも知っている。
が、だからと言って、安心はしない。
時代の交錯する時間というのはたえずあることなのだ。
その時の収斂を通して、生きのびるためには、“おじさん”の仕方を見せなければ、
時代は容認はしてくれない。
大人の理論武装だけでは、時代は大人を受けいれはしないのだ。
そして、女が男を強姦するのではなく、男が女を強姦するほうが
生物としてノーマルであろうと思いたい。
それが、おじさんの倫理観であり、それを猛烈に感じさせたのが、
僕にとってのエルガイムであるのだ。
だから、こうした。
(了)