交響組曲第二番
“THOUSAND NESTS”とは…… 総監督 富野由悠季
日本人がオーケストレーションを獲得した、という予感を抱かせてくれた
今回のBGMとの出会いは、ぼくを幸せにしてくれた。
他人の評価などは、気にしてはいない。今回の千住明に惚れ込んだ。
だから、作曲中の彼が入れ込みすぎて、彼が倒れるのではないかということを心配して、
手を抜けとも言ったものだ。
それでも、できあがった楽曲はこうであった。
こんな仕事を、ぼくの作品のときにやってくれたことに、二重の幸せを感じている。
だから、前のCDで各楽曲にタイトルをつける仕事を依頼されたとき、
ぼくは、ひさしぶりに詩心を刺激されて、試行錯誤の二日間という至福のときをもてた。
だから、ぼくにとって、あのタイトルは詩以上のものなのである。
今回の楽曲は、その集大成といっても良いものであり、
ぼくにとっても、あのタイトルたちを統合するタイトルの発見をしなければならなかった。
それが、THOUSAND NESTS(千の巣)であった。
これも、誰になんと言われようとも撤回する気はない。
千住明の二番目の組曲に位置するという意味で、第2番目を冠することによって、
彼自身、この楽曲に対しての自負を示してくれたことも、又、心嬉しい。
ここには、人の心の襞がある。激動の出発点があると信じている。
なによりも、この千の巣から飛びたった意気が、幾百万もの旋律を紡ぎ出すことができるなら、
この楽曲の輝きは、ちかい未来により鮮やかな光沢を発するだろう。
だから、千の巣なのである。
重い歌を唄う人たちと 総監督 富野由悠季
うつくしい金髪と伸びやかな脚が、
ポーランド女性の印象なのだが、
その笑顔は我々がトーキョーで見る
若い娘たちのものとはちがっていた。
それは、男たちや老人たちもおなじで、
一言でいってしまえば、歌が好きな癖に、
重く悲しい歌を唄う事しか
知らない人たちなのである。
その彼等の素質は、今回の楽曲を
録音する為に行ったクラコフで、
より痛感することとなった。
かつてのポーランド王国の首都であり、
第二次大戦の戦災から逃れながらも、
共産主義の統制下に身を屈した内陸の都市
クラコフは、我々の知る近代化から
大きく遅れをとったために、そこの人びとは、
我々が知っている商業主義に汚染された明るさ、
ルックスの良さや、耳障りの良さと
いったものを知らないのである。
そのために、作曲者の千住明と指揮者の
アンソニー・イングリス氏は、この楽曲の
持っている古典としての新しいスタイルを、
彼等のどのように演奏させるかで
悪戦苦闘していた。
しかし、それは、古典のもっている
原理的な感性を肉体としているクラコフの
演奏者たちの技芸を否定するものではなく、
むしろ、千住音楽が目指しているものを
具現化していくためには、トーキョーや
ロンドンで学ぶことができなくなった
土着の薫りというものも必要なのだ、
ということを教えられたというのが、
正直な結果であった。
Vガンダムの根底的なテーマは、近代文明は、
人と環境にとって怪しいものではなかったか、
という物である。
その解答の一端を、ぼくは、まさか
オーケストラの演奏から思い知らされるとは
予想もしていなかったので、
これは衝撃的だった。
彼等の感性のなかには、
我々がとうのむかしに忘れ去った、
ダサいが、原理的な人の心の表出の方法
といったものが残っていて、
そういったものを思い知らせてくれたのだ。
問題なのは、屈折しすぎた歴史から、
そろそろ解脱して欲しいのだが、
それをしようとする現在、日本人が
トーキョーでやったまちがいをこの国も
やるだろうという、という予測をしないために、
それは、まちがいなく次のガンダムの
テーマになってしまうという意味で、
僕は、痛恨の念ををもって
この国を好きになってしまったのである。
クラコフの夜は、我々が三十年前に
忘れ去った暗さがあったということは、
比喩でなく現実なのである。