逆シャア公開後のニュータイプ1988年6月号特集『富野由悠季の明日』より
映画『逆襲のシャア』の上映も無事終了し、1か月ほどたったところですが、
今現在の心境としては、大変いい勉強をさせていただいたといいますか、
あの映画を作らせていただけたことに対して、監督としてとても感謝しているところなんです
全てに満足のいくでき上がりとは言えませんが、スタッフとして全力を尽くしましたし、
それなりの手応えのある作品になりましたから。
また、たくさんの方々に見ていただけてヒットしたということでは、
ファンの皆さんに対しても、ほんとうにありがたいと思っています。
作品そのものに対する感想は、皆さんから直接的に伺う機会が少なくて残念なのですが、
ニュータイプの読者の方々の反応として、いくつかのご意見があるようなので、
いい機会ですから、この場を借りてお答えしてみたいと思います。
その代表的なものとしては次の3つがありました。
ひとつは、全体にテンポが早すぎてドラマをゆっくり味わう余裕がなかったというもの。
また、それと関連してセリフなどが難解でストーリーがわかりにくかったという意見。
それと女性のファンから多かったのは、「シャアはあんな人ではない」、
つまりシャアが悪人になっているのは許せない(ほかにも理由がある)というものでした。
それぞれ、とてももっともな感想だと思いますし、どうしてそうなったかという理由も
監督としてよく承知しているつもりです。
まず最初の、ドラマのスピードという点に関して言いますと、僕としてはあれでもまだ足りない。
本当はあの2倍くらいのテンポでつくってみたかったんです。
昔から僕は、映画の生命はテンポ、スピードにあると思って作品づくりをしてきましたし、
それは今回も同じです。
しかし、そのスピードに見合うだけの、と言いますか、それを支えるだけのセリフなり場面なりを
付け加えるには、スケジュールに無理があり、あれが限界だったと言うことです。
ですから結果的に説明不足の部分があったことは否めませんしその辺で僕の作劇術のまずさが出た、
と言われるかもしれませんね。
それから、セリフが難しいという点については、僕なりに理由となるポリシーがあるんです。
これはどなたのなんという本か、出典を忘れてしまって申しわけないのですが、
ある方がこう書いてらっしゃいます。
「大人が子供に対して、ほんとうに大切な話をしようとする時には、
わかりやすい言葉は使っていられない。伝えたいことだけで必死だ」
たしか、こういう意味の文章だったと思います。
子供が見るものだから子供にもわかるようなやさしいセリフや、
やさしいストーリーにしたいという気持ちは僕ももっているつもりですが、
わかりやすさということと自分の言いたいテーマを表すということが
両立できないことのほうが多いんです。
そういうときにどうするかというと、僕の場合は同じテーマについて
他の人がどう表現しているかというのを文献などで探します。
「逆襲―」で例を挙げますと、シャアのセリフに「人類は地上をはねているノミだ」
というのがあります。
これはニーチェの言った、とても毒のあることばです。
それを引用することで、クダクダと説明するよりもずっと簡潔にシャアの心情を
表現することができるし、その説明の分だけスパッと余計なシーンやセリフを省略できる。
もっといえば、そういう言い方をするシャア、つまり監督の富野に対して見る人のなかに
「なんだ、こいつは!」という引っかかりができる。
そうした引っかかりをもった人が後で何年かたってからでいいんです。
たまたまニーチェの作品を読んで同じことばにつきあたったとき、その人の興味が
ロボットもののアニメという枠を越えて人類論なり何なりにパーっと広がってくれたら、
それはとてもすばらしいことだなっていう思いが僕のなかに常にあるんです。
もうひとつ例をあげましょう。
最初の「ガンダム」でア・バオア・クーという宇宙要塞を出しました。
あれはボルヘスの「幻獣辞典」のなかに出てくる架空の生物の名前をつけたのですが、
ファンの方が出典をあたってくれて、その名前が単に奇をてらったものではなく、
作品のある部分をシンボライズしているということに気がついてくれたということがあったんです。
宇宙要塞戦というドンパチのなかで、ア・バオア・クーという名前に象徴される
"見えない部分が見えてしまっている"人間の摩訶不思議さみたいなものが、
僕自身納得できたとき、じゃあ1カットくらい幽霊を出してもいいじゃないか
(注 ソロモン攻略戦のとき、ドズルの背後に出現した悪鬼)
というふうに、劇中のロジックだけじゃないものがわかって、僕自身も勉強になった。
勉強というか、刺激ですね。
そういう刺激を受けたり、与えたりという作業はいつも続けていかなければと思うんですよね。
それには本を読むことが一番で、さっきも言ったように僕自身、本から触発されたものを
セリフやネーミングのなかに生かしているのです。
そういうものが見ているファン達に今すぐわかってもらえるとは思っていません。
ですが、今は難しくてわからないことばなりテーマなりがあったとしても、
それを作り手が真剣に問いかけたものならば、見た人の心になにかしら引っかかりを残すはずです。
その引っかかりが、しばらくは忘れられているかもしれないけれど、
いつか必ずどこかで甦るだろうという確信があるからこそ、
僕にはあえて子供たちに妥協するような作品づくりは、できないのです!
それでもやはり難解で、納得できない部分があるとすれば、
それはもう監督としての僕の力量不足としか言いようがないんです。
ほんとうを言えばもっと映像自体がそれを語るだけの
厚みなり力なりをもっていなければいけなかったんでしょうけど…
ですから「逆襲―」を見終わってシャアに失望してしまった人たち、
「ああ、やってくれちゃって!」と富野に対して怒っている人たちにも、
同じように、今はしかたないと思っています。
でも少なくとも10年後には「意味性」は必ず復活するはずでしょう。
だからやっぱりシャアを愛してくださいよと言いたい気持ちもわかってもらえると思います。
それには自信があります。
若い人たちが今怒るのは当然です。
それを馬鹿げてるなんて思いません。
ただ、本当はカッとなってどなりたいんだけど、そこで半歩引き下がって息を吸いこんで
「10年待ってほしいな」っていいたい気持ちはありますね(笑)。
なぜかって言うと、今度の映画はシャアと決別する為の「ガンダム」でもあるからなんです
シャアのファンの方にはショッキングな言い方かもしれませんが、つまりこういうことです。
もうそろそろ初恋は終わりにしましょう、と。
実は僕のところへ送られてくるファンの方々の手紙に、
キャラクターへの思い込みがとても強いものが目立つんですね。
アニメの作り手として、皆さんがキャラを愛してくださるのはとてもうれしいことなんですが、
度をすぎて傾斜していくのは困るという気持ちもまたあるんです。
これがサンライズ気付とかアニメ誌の編集部宛とかではなく、
直接僕のところへ送られてくるからこそ、余計に気になりました。
それだけ思いが強いということですからね。
全部がそうではありませんが、ある意味でとても心配なことです。
「逆襲―」に登場するシャアは、そういう人たちから見ればあくどいこともしてみせます。
ですが、人間はきれいごとだけではないということもわかってほしい。
いつまでもキャラクターの夢の部分だけを見ているのはよくない、ということを知ってほしいんです。
少しずつでいいから、そうやってアニメの恋を卒業して、現実の恋にもチャレンジしていってほしい
という願いをこめて(それだけがすべてではありませんが)今回の映画をつくったことは事実です。
で、先ほどの話に戻って、です。
そういうことも全て含めたうえで、シャアを愛してくださいね(笑)。
今はわかってくれなくていいですから…。
この辺でタイトルにもあるように、僕自身のこれからの展望についてお話しておきましょう。
とはいうものの、フリーの立場にいる人間として基本的に展望などもち得ないと僕は思っています。
ですから、来る仕事は拒まずという姿勢でいます(笑)。
今僕がこういうことを言うと、すごく不思議な感じがすると思うんですが、事実そうです。
最初に「逆襲のシャア」がヒットしたというふうに言いましたが、
僕自身はヒットしたとは思っていないんです。
なぜかと言うと、こういうことです。
「逆襲―」と言うアニメがヒットしている、そうか、富野と言う男がつくったのか。
ヒットしているくらいだから、その男は実力のある監督に違いない。
じゃあ、富野にまた映画をつくらせてみようじゃないか、
という話が1本くらい来てもおかしくないのに、公開されてひと月たってもまったくないんです。
本当の意味でヒットしたというのなら、そういう話が当然あって、次の仕事につながらなければ
ヒットしたことにならないと思いません?
だから展望なんて持ちようがないじゃないですか(笑)。
いや、いまだから笑って話せますけど、封切って1週間くらいは
これからどうやって食べていこうかと考えこんじゃいましたもの。
角川書店のおかげで本の印税が入るから、ことし1年はなんとかなると。
でもTVも映画もまるで仕事がないんですから、そのあとは路頭に迷うしかない。
若い人にこういう話をしちゃいけないんでしょうけどね、本当は(笑)。
しかし実際問題として考えたとき、監督がダメなら絵コンテでもなんでもいいから
各プロダクションを回って仕事をもらわなきゃって言ったら、女房に言われちゃいましたね。
「出すほうも困るから、きっとどこでも断られるわよ」って(笑)。
考えてみると、「ガンダム」を10年やってきて、ひとつのレッテルが
世間での評価を決めてしまったということは間違いなくあるんですよね。
ロボットもの専門の監督と見切られてしまったと言いますか。
僕自身はシナリオでもシリーズ構成でもジャンルを問わずにこなせる自信があるし、
いま動物ものなんかもやってみたいんで、そういう仕事も下さいよって言いたいわけです。
でも「富野はロボットものだろう」と言う頭がどこかにあるから、
そういう仕事はきっと来ないでしょうね。
だからと言って、今から小説家におさまってしまうのもどうかなと思うし…。
もちろん小説はこれからも書いていくでしょうし、現にいまも書いています。
でもそれは「オーラバトラー戦記」にしても「バイストン・ウェル」や「ファウ・ファウ」
それに「破嵐万丈」「ガンダム」にしても、
全て過去の作品の再生産でしかないという強迫観念があって、
新しい展望が何も開けてこないと言う状況は変わらないわけです。
まあ、そうは言いながら、いま自分でタイトルを並べてみて、
「これだけあれば十分じゃない?」っていう気がしないでもないですけどね(笑)。
だから、そう、きっとこういうことなんだと思います。
先ほど来る仕事は拒まずと言いましたけど、そこで重要なことがあります。
それは、その仕事を全部受け入れてしまい、そのなかに埋没してしまうのでなく、
一部でいいから自分自身をそこから出す、自己主張するすき間を見つける努力をするということです。
それをしないと、テレビアニメ、ロボットアニメに呑みこまれた、ただのおとなになってしまう。
じゃあ、そうならないためにはどうするかって言うと、どんな仕事が来ても自分なりに対応できるように、
自分自身のキャパシティーを大きくする勉強をしつづける以外にないんです。
あるひとつの仕事が来たとき、それを自分のビジネスとして成立させるために
何と何と何を見ておかなくちゃならないか、読まなきゃいけないかという
判断をするための勘を身につけるための勉強はしておくべきだと思います。
観劇、映画、なんでもいいです。
そうすれば、頭の中で考えただけではないクオリティーを作品につけ加えられるはずです。
そういう意味で、これからも勉強を続けることが展望と言えるかもしれませんね。
(了)