風が吹く……
彼女は、それに気がついていない。
だが、風はわずかにその重そうな髪を揺らしている。
クリスチーナ・マッケンジーは「島」で生まれた。彼女にとって自然とは、山や渓谷のことではない。
薄い隔壁の向こう側、広漠として広がる真空の闇だけが、唯一、本物の自然である。それ以外の全てのものは、空であれ、雲であれ、「そこにそのように設置されたもの」にすぎない。
しかし、そんなあじけなさの中でも、人は死にはしない。
今、彼女の感じている不快感は、おそらく、この時代にあっては普遍的なものなのだと思う。まったく何にも寄りかかることが許されないこと自体に、その原因があるなどといったら、曖昧すぎるだろうか?
つまり、人の行為ですべてが固められる世の中にあっては、人やもの、すべてのものが意味によって発生し、その限界が定義づけられる。
だから、その意味の及ばぬところを、人人は無意識のうちに糾弾してしまうのだ。
「こんなの無意味だ!」
といって、べつに意味を求めているわけではない。ただ、限界という概念の外に、寄りかかることのできるもの、人、ことを求めているだけなのだ。
だから、「それ不条理なるゆえに我信ずる」。
ただ、造りものの自然に感動などしないほうが、むしろ正常だという考え方もある。
しかし、正常な人間が必ずしも幸福であるとはいえないだろう。
この人工の大地にも風は吹くのだ。
ジオン独立戦争、後に一年戦争と呼ばれるこの戦争では、人型機動兵器”モビルスーツ”
による戦闘が、戦術において重要な位置をしめるようになった。これは、戦前に発見された、
電波攪乱効果を持つ帯電粒子、ミノフスキー粒子の使用により、レーダーおよび電波誘導
兵器のすべてが不能となり、肉眼による白兵戦が主(メイン)となったためである。つまり、
戦争のやり方が古典へ返ったのだ。
この全高二十メートルの人型兵器が、戦場で古典的な活動、撃つ、切る、走る等を行うに
は、パイロットの操作だけでは、当然、不充分であった。
そのためには、常に人工知能が操縦者の意図を瞬時に予測し、また場合によっては独自
に判断し、サポートしてゆく必要がある。つまり、古典的な野戦における「馬」程度の判断が
兵器の側に要求されるようになったのである。
したがって、モビルスーツには、戦闘機や戦車といった戦場での乗り物と違って、大雑
把な意味ではあるが、人格を持った機械、いわゆるロボット的な側面が存在する。それは、
もちろん意志を持つほどのものではない。あくまで、操縦者とモビルスーツの間で潜在的
に機能する程度のものである。しかし、モビルスーツの操作は、人間にとっても機械にと
っても過酷な精神的労働を強いる。究極の修羅場においては、その人格の性質が、その兵
器としてのモビルスーツの性能の差となって現れるのだ。
さらに、この人工知能の特徴として、「教育型コンピューター」という名があげられる。
これは、その名が示すとおり、その機体が戦場等で攻撃、回避、帰艦等の経験を積むこと
によって、より複雑、より困難な事態を的確に判断し、機体を操作できるようにするシス
テムである。
だから、この「教育型コンピューター」を積んだ機体は、使い込むほどに訓練され、す
ばらしい性能を発揮するであろう。
そうなってくると、そのモビルスーツにどれだけ実戦の経験を積んでやるかが、強さの
カギとなるわけだが、問題があった。
それは、今大戦に投入された全モビルスーツのうち、ジオン側、地球連邦側含めて、敵
と数回以上の接触、戦闘を行う機体は、全体の五パーセント強にすぎない、という点だ。
つまり、充分な経験を積むほどの戦闘を行うことは、それだけ機体自体の損失をまねく
ことでもある。かずかずの戦闘を勝ち残ってきた歴戦のもとるスーツなどというものは、
現実には存在しない。
そこで出て来たのが、シミュレーションという考え方だ。
つまり、その機種が工場を出る前にさまざまな疑似経験を与え、一人前の兵器に教育し
ておくということである。
これは、戦前にジオンの技術者が考えたものだが、連邦にも、初のモビルスーツ「ガン
ダム」の開発とともに、さらに強化された理論で導入された。
しかし機械の訓練とはいえ、この時代、人工知能はもはや一種の疑似人格といえるほど
のものであり、その扱いは本物の人間の子供以上にデリケートである。このことによって、
各大学の心理学教科に新分野の増設が数回行われたことが、その奥の深さを物語る。
新しい学問の分野は、新しい専門職を生む。機械を訓練する専門家である。その職は技
術者というより、文字どおり教職に近い。
人は、これを、その仕事の性質から「心理学的(サイコロジカル)トレーナー」とも、
または単に「ティーチャー」とも呼んだ。しかし最終的には、「シューフィッター」(靴
の調製師)という名が使われるようになって定着した。
シューフィッター。新米のパイロットが初めてのモビルスーツで出撃するときでも、す
でに履き慣らされた靴の感触を与えてくれることから、感謝の念をこめてそう呼ばれてい
る。
現在、連邦に、公認のシューフィッターは十二人。うち、八人は女性。
女性向きの仕事ともいわれた。
その中で、二番手とも一番手とも噂される名シューフィッターのクリスは、今”アレッ
クス”という新型を育てていた。以前、助手としてその教育に関わったことのあるガンダ
ムの後継機である。
買物を終え、袋をかかえて帰る路、クリスはスパゲッティ用のソースを買い忘れたのを
思い出した。だが、人の多いショッピングセンターへ戻ることは考えたくなかった。
「明日にすればいい……」
彼女は、気が沈んだとき、数少ない楽しみの一つである買物にでかける。
べつに服を買うのでなくても、日用品や食料を買うだけで、けっこう気晴らしになる。
大通りから少し小路へ入ったところに彼女のアパートがあった。
市街地のわりに静かな小路。
周錠屋に通されたとき、その場で決めてしまったのだが、今にして思えば、もう少し良
いところもあったように思う。
クリスは近くの酒場『ピンク・エレファント』へ向かった。
マスターは品の良さそうな初老の男で、軍人上がりといった風体である。
「もう店じまいなんですがね。聞こえないのか 終わりだよ」
「気の抜けたビール置いてありませんか」
「大した注文だな」
「馬の小便よりマシなら文句はないわ」
「奥にあるかもな」
「それはありがたいわ」
実はマスター、チャーリーはコロニー内の工作員なのである。二人は店の奥へ入った。