>>25 彼と初めて出会ったのは、ルクセンブルクの春だった。
慣れない土地に戸惑う僕。でも、先生は優しいし、級友達は皆親切にしてくれた。
東洋人が珍しいのか、僕はクラスのちょっとした人気者だった。真似事の空手も受けが良かった。
そんな僕のルームメイト。それがシラクラだった。
最初から彼には驚かされた。初めて入った学生寮、その遊技室のグランドピアノに寝そべりながら、
彼は気怠そうに細い葉巻を吹かしていた。後でそれが大麻だと知ったけど、あの時の衝撃は今でも
色褪せない。
目元まで掛かったくせ毛のプラチナブロンド。その隙間から覗く、大きな蒼い瞳。細く尖った鼻から
唇までが、鮮やかなラインを描く。やや尖った、赤い、…そう、本当に紅を指したたかのように赤い
唇は、まるで朝露に濡れた花弁のように、うっすらと潤んでいた。
そんな、彼のシャツのボタンは全て外れ、胸元が露わになっていた。ズボンのファスナーも半開き、何とか
腰元で引っかかっている。そんな感じだった。
「あ!」
ついつい声が出てしまった。喫煙していることではなく、半裸の彼を見て、僕はついつい
声を上げてしまったのだ。
あの時の僕は、他人の肌など見たことがなかった。それに(この事を笑わないで欲しい)
僕にはシラクラが女の子に見えたのだ。そう、歳は僕より1つか2つ上の、色付き始めた可憐
な乙女に見えたのだ。
「おや?キミは…転校生の?」
気付いたらしく、シラクラが寝返って僕を見た。サファイヤの様な碧眼がキラリと光り、
さっきにも増して大きく色照りだしたその瞳は、僕をジッと捕らえて放さなかった。
しかし、声を聞いて我に返った。ソプラーノ=ヴォイスではあったが、間違いなく男の
子の声質であったからだ。ちょっとした安堵。
「確か、タカラテ君…だよね?」
「…いえ、タカデラ、です。」
そう答えた。他に声が出ない。だって、もし此の時、彼が何かを言ってくれなかったら、僕はずっと
硬直したままであっただろうから。
彼はグランドピアノにから跳ね起きた。シャツが春風を受け、フワリと舞う。木洩れ日が彼の白く
透き通った胸元を、腹筋を、淡い色に染めていく。風が、光が、彼の眷属の如く錯覚した。
シラクラは僕に近づき、いきなり僕の下顎をクイッと掴み、自分の目元まで引いた。
「すまないね。僕は人の名前を覚えるのが苦手でね。」
そう、ブルゴーニュ訛りのドイツ語でつぶやき、…そして…。
…僕の唇に、そっとキスをした。
「ほんのお詫びさ。ルームメイトのタカデラ君。」
ほんの一瞬の出来事で、僕は何が起こったのかまるで理解できず、彼のブルーの
瞳を見つめるだけだった。
だが、僕が自体を理解する前に、彼は踵を返し、まるで走る事を覚えたばかりの
(そう、走ることの楽しさを覚えたばかりの)子馬の様な軽さとしなやかさで遊技
室の窓からヒラリと飛び出していった。
「悪いが、今日も部屋には戻らないよ。女子寮で待ってるコ達がいるんでね。寮長には
うまく誤魔化しておいてくれたまえ!ルイ!!」
「ル、ルイ?」
「キミのあだ名さ!そう、僕はジョジョと呼びたまえ!あはははは!」
そう言って、彼ははんなりと青さを帯びゆく木々の間を(まるで踊るように)
走り抜けて、いった。
僕は何があったかを自分なりに理解しようと記憶を反芻した。
だが、鮮烈なキスの感触ばかりが頭を渦巻き、なかなか理解できないでいた。その感触は、
冷たかった。そう、冷たいと感じたのだ。あの、焼けた鉄に触れたときのような、あの燃える
様な、焦げる様な冷たさ。それが、彼、シラクラのキス。
否、僕にとってのシラクラそのものが、あの炎のような冷気だったのだろう。
だが、それを理解するには、あの12歳の僕には不可能でしかなく、只ぼう然と立ち尽くす
のみであったのだ。
シラクラ、
美しいシラクラ、
僕の青春に咲いた、
只一輪の、
赤い、薔薇よ………
<つづく!>