▼▼ 特命戦隊ゴーバスターズ Mission54 ▼▼
エンターのコピーしたヒロム達の能力自体が
エンター自身が「不完全」と蔑む人間の能力に他ならないのであり、
実際ヒロム達は無敵の能力を誇っているわけではない。
だから、不完全な人間の能力をいくら付加していったところで完全に到達することはないわけです。
まぁエンターが目指していたのは何万人もの人間との融合、
つまり何万人もの人間の能力の獲得ですから、
そこまでいけば「完全」に近い存在になるのかもしれない。
ただ、それを阻止すべくゴーバスターズが戦いを挑んでくるわけで、
現時点ではエンターはヒロムの身近な人間たちの能力しかコピー出来ていない
不完全体であるのですから、少なくともこの最終話の段階の劇中では
エンターの「完全性」として、この無限に能力を拡大する恐怖は未来予想図でしかなく、
まだ現実に存在する脅威としては描写されていません。
まぁ簡単に言えば、戦って倒すことは可能なのです。
実際、エンターは決して戦闘において
歴代スーパー戦隊シリーズ作品のラスボスのように圧倒的に強いわけではなく、
年明け以降のクライマックス展開の中でも何度も倒されています。
その中にはわざと倒されている場合も多いのですが、
それでもその身が滅して倒されているのもまた事実であり、
歴代ラスボスに比べてエンターは明らかに脆弱な存在といえます。
最終話の1つ前の49話においては
遂にゴーバスターズの必殺技の波状攻撃を喰らっても倒されないまでになり、
エンターがより完全体に近づいたことは明示されました。
ただ、それでも結局最後までゴーバスターズの攻撃を全く寄せ付けず圧倒するというほどの
歴代ラスボス級の超越的な強さを獲得する段階までは到達できませんでした。
おそらく手をこまねいて放置していればそこまで到達したのだろうと思います。
つまりエンターは歴代ラスボス級の強さに進化途上の存在なのであり、
進化途上で完全に倒されてしまったのだと思われます。
そう考えると、やはりこの「ゴーバスターズ」という作品で真のラスボスといえたのは
クリスマス決戦で倒されたメサイアだったといえます。
あのメサイアにしても中盤の亜空間篇では全く不完全な状態で一旦倒され、
その後バックアップデータで再生して進化して遂にクリスマスに現実空間で暴れ出したが、
それでもまだ完全体に到達前の段階で
ゴーバスターズの総力を結集した攻撃で倒されてしまいました。
が、あの段階のメサイアの方が今回の最終話で倒されたエンターよりも、
より完全体に近づいていたのは明白です。
だからやはりこの作品で歴代ラスボスに比類し得るキャラを1つ選べと言われたら、
やはりクリスマス決戦篇のメサイアを挙げるしかなく、
年明け以降のエンターはヴァグラスの残党の幹部キャラが新たなラスボスに進化しようとして
途中で倒されたということになり、
なんだかこれだけだと来年の「キョウリュウジャーVSゴーバスターズ」あたりでやっても
良さそうな程度の話にも見えます。
そういえばエスケイプというキャラも彼女の欲する「いいもの」というのが漠然としすぎていて、
結局何だかよく分からないままクリスマス篇で倒されました。
おそらく欲するものが漠然としていることが
彼女自身のデータの塊に過ぎない空虚さの象徴なのであろうとは思います。
エンターが自身がデータの塊であることを肯定的に捉えるキャラであったのと対照的に、
エスケイプは無意識的に自身がデータの塊であることを虚しく感じて
否定的に捉えていたキャラであったのでしょう。
そういう位置づけはどうにか分かるのですが、
エスケイプの行動が常にあまりにも短絡的で自暴自棄な感じであったので、
彼女の内面の空虚に起因する悲哀はあまり滲み出ることはなく、
単に親に甘える幼児、酷い時は単なる欠陥品の暴走のように見えることが多かったのでした。
これは緻密なエンターとの対比で
エスケイプを直情的なキャラに描こうとしすぎた結果ではなかろうかと思います。
そういうわけで結局何だかよく分からないキャラのまま倒されてしまったエスケイプが
年明け46話で復活再登場したわけですが、
ここでのエスケイプはもはや元のエスケイプではなく
単なるエンターに忠実な抜け殻の玩具のような存在になってしまっており、
本来のエスケイプというキャラはクリスマス決戦でよく分からないまま終了しているといえます。
ただ、だからこそ、この新たなエスケイプというキャラにちょっとした期待はありました。
元の意味不明キャラのエスケイプとの連続性が断たれている分、
このエスケイプは意義あるキャラになるかもしれないとも思えたのです。
すると46話から47話にかけて、
エスケイプ自体のエンターに対する目線が以前とは劇的に変化したのを受けて、
エンターのエスケイプへの接し方も大いに変化し、
何やら屈折した愛憎めいたものが表面化してきました。
これは以前から少々は兆候はあったのですが、
エスケイプとの接触を通じてエンターの中に人間性が芽生えてくるような描写といえます。
まぁ陳腐といえば陳腐なのですが、
ハッキリ言って何の面白味も無いキャラであったエンターに
ここにきて初めて人間臭さが現れてきたのはドラマ的には盛り上がりポイントです。
つまり、この新エスケイプはもはや彼女自身は何ら意味の無い抜け殻キャラに過ぎないのですが、
エンターの変化を促すという意味で物語において
重要な意味をなす存在になるのではないかとも考えられたのです。
エンターはデータの塊であって人間ではない。
そのエンターは人間になろうとしていました。
それは中盤の亜空間決戦でヒロムに敗北した時に人間というものに興味を持ったからなのですが、
エンターはどうも人間のデータをたくさん集めれば「完全な人間」になれると思ったようです。
それで亜空間決戦後、人間のデータを収集するメサイアカードを使った作戦を実行したわけですが、
こういうエンターの考え方は実は完全な錯誤に基づいています。
何故なら人間とは不完全な存在だからです。
人間のデータをいくら集めても完全な人間などにはなれません。
不完全さにしか辿り着けないのです。
クリスマス決戦以前のエスケイプというのはデータの塊でありながら
この人間的な不完全さに憧れてしまっているようなキャラであり、
当初は完全な人間を目指していたエンターも
メサイアカード作戦を遂行する中でエスケイプとの接触を重ねて影響を受けてしまったのか、
いつしか不完全な人間性に目覚めるようになってしまっていた。
その象徴がクリスマスに消滅したエスケイプを復活させて
玩具のように扱い愛憎を向けるようになったエンターの行為といえます。
人間は完全な存在にはなれない。
そうした人間の真実を理解できない人外が
人間になることによって自己が完全になれると無邪気に思い込んで突っ走る。
そこには悲劇が必ず生じます。
そうした「人間を知らない人外の悲劇」を通して人間の真実の姿を浮き彫りにするという
作劇手法は古典の名作としては「ピノキオ」が挙げられ、
特撮では「キカイダー」という名作があります。
だから、この作品でも
「完全な人間を目指しながら不完全な人間性に目覚めてしまったエンターの悲劇」というものが
描かれるのかと一瞬思いました。
そうしたエンターの悲劇との対比でゴーバスターズを描き、
人間の真の姿を描こうというのがこの作品の趣旨であったのかと、
47話辺りではそのように考えていました。
まぁ大筋ではこうした見方は大外れというわけではなかったかもしれません。
完全な人間になることなく倒されたのはエンターにとっては十分に悲劇であり、
そもそも無理なことをやろうとしていたという意味で滑稽さや哀れさもありました。
だが、そうした「エンターの悲劇」という要素はエスケイプ切り捨てと共に
48話から急速にフェードアウトして表面からは消えてしまい、
エンターは単なる記号的な「倒すべき巨大な悪」になってしまいました。
敵としては強大化肥大化しましたが、むしろキャラとしては矮小化してしまった印象です。