意識の変化は、最初は痛覚の変容として生じた。こらえようのない
電撃の苦痛に悶える毬子の脳裏に、あのエンブレムのイメージがちかちか
と明滅した。すると、その瞬間だけ、痛みが和らぐのだった。続いて、
あの大首領の声が、頭の中央部分に響き渡った。
「ショッカーへ、来るのだ。来るのだ……」
その声は再び、毬子の苦痛を緩和させた。
明敏な毬子は、苦悶の中、この操作が単純な条件付け学習であること
を見抜いた。実験室のネズミのように、痛覚という、最も原始的で強烈
な感覚のレベルで、ショッカーへの好ましい感覚を植え付けようと
いうのだろう。
このような操作は原始的であるがゆえに、意識の最も深い部分を
鷲掴みにしてしまう。だが他方、自分に施されている処置がまやかし
である、という明確な自覚をもてば、それに抗することもできるに
違いない。
毬子はショッカーのエンブレムや首領の声を、何の意味もない文字列
として捉えようと、自己暗示を試みた。並外れた毬子の集中力は、
「ショッカーへの誘い」から注意をそらしつつ、苦痛も大幅に緩和
させることに成功した。
だが、装置による意識への介入はそれで終わりではなかった。複雑な
システム構築を必要とする、より本格的な介入が、幾分時間をおいて、
順次開始されたのだ。
まず、毬子の脳裏に、毬子がこれまで見聞した血なまぐさい事件や
物語のイメージが浮かび始めた。イメージを振り払おうと思考を切りかえ
ようとしても、いつの間にか血塗られた連想へ行き着いてしまうのだ。
「いやあっ!」
毬子は悲鳴をあげた。目をそむけたくなるイメージ群から、目を
そむけることができない。なぜならそれらは、毬子の心の中に直接に
送り込まれてくるのだからだ。
イメージは毬子の反応とフィードバックし、徐々に生々しさを増した。
やがて、ちょうど夢が深まるにつれて三人称の場面が一人称に切り
替わるように、毬子自身がその残虐な行為を行う当事者であるかの
ような感覚が伴い始めた。何か、そのような行為を今しがた終えた
ような、あるいは、まさになしつつあるような、そのような感覚が、
様々に形を変えて、連続的に送り込まれ始めた。
残虐な行為のイメージが送られるたび、毬子は恐怖と忌避感、犠牲者
に対する心の痛み、良心の呵責といった感情に苛まれた。たとえそれが
擬似的な体験だと分かっていても、そのような反応はこらえようが
なかった。だが、しばらく経つ内、脳内の装置は、それ毬子のその
ような感情的反応に介入を始めた。恐怖は和らぎ、心の痛みや背徳感と
共に、「愉快さ」の感情や、得体の知れない衝動、そしてある種の
快楽が少しずつ混入し始めた。
その衝動が性的衝動であり、その快楽は性的な快楽である、という
ことに、毬子はしばらく経ってから気付いた。そして悟った。この装置
はまたしても、条件付けによる刷り込みを目論んでいる。血なまぐさい
行為に性的快楽を結びつけ、そのような行為を衝動的に求めるような
心理構造、つまりはサディストや快楽殺人犯のような心理構造を、
毬子の内に人工的に植え付けようとしているのである。
「だめ! そんなのだめ!」
ショッカーの目論見に気付いた毬子は、思わず声を上げた。そして
それは事態を悪化させた。性的衝動というものは、禁じようとすれば
するだけ、その力を増す。禁断の快楽ほど、甘く妖しい輝きで人の
心を掴む。バーチャルな殺戮行為のイメージと共に毬子の快感曲線は
急上昇し、毬子はオーガズムに達した。
快楽の余韻が引いて行くにつれ、殺戮の連想も収まってきた。しかし
それは、禁断の快楽の味を毬子に刻みつけることに成功したことを
意味していた。それを知ってしまった毬子はもう元には戻れないことを
自覚した。いずれ欲望が高まれば、今度は本当にそれをやってみたく
なるに違いない、という確かな予感を毬子は感じた。意志の力でそれを
押さえ込むことはできるかもしれない。しかしそれを求める衝動を
消すことは、もう二度とできないだろう。そんな恐ろしい自己認識を、
毬子は受けいれざるを得なかった。
「ショッカーへの誘い」は依然として通奏低音のように鳴り響いて
いた。しかもそれは、徐々に単なるシンボルではなく、そのシンボルに
よって表される「意味」を帯び始めた。つまり、エンブレムの画像や、
大首領の声をただ思い浮かべても電撃の苦痛は消えないのだ。その声が
意味する「ショッカー」という組織や、その目的を思い浮かべることで
ようやく、その苦痛は和らぐのだ。
もしもショッカーの一員になることを毬子が受けいれれば、ショッカー
は、この危険な衝動を満たす場を与えてくれるだろう。だが、毬子の
強い意志は、その誘惑を断ち切った。代わりに毬子が選んだのは、
電撃の苦痛をすべて受けいれる、という選択肢だった。あの科学者に
よれば、この電源投入は今の毬子の肉体を起動させるために必要な
処置だ。だからこの苦痛は生存に対する危険のシグナルではなく、
単なる誤認識に過ぎない。毬子はそう自分に言い聞かせ、苦痛をやり
過ごそうとした。
苦痛に苛まれる中、毬子の心には得体の知れない憎悪や敵意が湧き
上がり始めた。毬子は最初、自分のそんな感情が、こんな状況に置かれた
ことからくる、当然の反応なのだと思い、それらの感情に身を任せた。
だがしばらくして、それらの感情の矛先がまったくショッカーに向かわず、
どういうわけか自分の親、自分の指導教官、この国、あるいは現在の
国際的な政治秩序などにばかり向き始めたとき、明敏な毬子は気付いた。
これもまた、脳改造の一部なのだ。世界に対する敵意や不満、あるいは
猜疑心を人為的に高め、ショッカーのみをその例外に据えることで、
ショッカーの庇護を求めるような心理構造を植え付けようとしているのだ。
恐ろしい企みに気付いた毬子は、ショッカーの与えるまやかしの感情
から己を引き離し、正気を保たねばならない、と決意した――人間は
感情のみで生きる生物ではなく、理性という揺るがない規範を与え
られた存在だ。快楽殺人鬼の衝動も、世界に対する敵意と猜疑心も、
わたしをショッカーの邪悪な目的に都合のいい存在に作り替えるため、
脳内の機械が植え付けたものだ。そしてその事実を自分は明確に理解
している。衝動が危険なものであることも、敵意や猜疑心が人為的に
植え付けられたまやかしであることも、はっきりと自覚しているのだ。
正しい自己認識に基づき、理性に基づいて行為すれば、たとえこんな風に
感情の構造をねじ曲げられたとしても、わたしは正しい人間でいられる
のではないか。脳改造の呪縛を逃れることができるのではないか――。
毬子は、醜くねじ曲げられていく自分の心を目の当たりにしながらも、
そんな希望の道を見つけ出し、おぞましい装置の支配から逃れようと
した。乱れに乱れる感情の波を無理やりに鎮め、彼女の優れた知性を
働かせようとしたのだ。
だが、そうして冷静な思考を巡らせ始めた毬子は、間もなく恐ろしい
事実に気がついた。なぜショッカーが「悪」なのか、なぜ今の人間社会
の正義や道徳を守らねばならないのか、その明確な根拠が、今の自分
にはどうしても見いだせなくなっていたのだ。
古くは哲学者デイヴィド・ヒューム、二十一世紀においては脳科学者
ダマシオが考察しているように、感情に導かれることのない、単なる
理性、単なる論理は、驚くほど無力である。とりわけ人間の行為に
関わる思考、倫理、道徳などは、適切な感情の裏付けがあって始めて
十全に機能する。
例えば、なぜ人は人を殺してはならないか、という自明に思える問い
ですら、それに理屈だけで答えようとするのは驚くほど困難である。
通常、そのような問いが単なる哲学ゲーム以上の深刻な問いにならない
のは、その規範が単なる論理のみによってではなく、感情や習慣と
いった理性以外の要素によって強く支持されているからだ。
だが、今の毬子からは、そのあたりまえの感情的な支えが奪い取られて
しまった。今の毬子にとって、その問いは浮世離れした哲学談義など
ではなく、深刻な人生の問題になってしまったのだ。
たしかに、殺人はいけない、という社会規範に理屈で答えることは
ある程度は可能である。殺人をしたら警察に捕まるリスクを冒す。
それは大抵は引き合わない。これは一つの理由だろう。あるいは、
自分が殺されたくないならば、他人を殺すべきでもない。そんな理屈も
考えられる。そもそも、無秩序な殺人を放置したら社会は解体する。
そんな社会は長続きできまい。従って殺人の禁止は理に適っている。
こんな理屈も可能だ。
だが、ショッカーの組織力と科学力をもってすれば、全く証拠を
残さない殺人は十分に可能だろう。また、「殺されたくないから殺さ
ない」という理屈は、対等の人間同士のルールしか基礎づけることは
できない。超人的な知力を体力を備え、強大な組織の保護を受けて
いる改造人間は、そのルールの外側にいるのではないか。また、現状の
社会秩序の維持ではなく破壊こそ、ショッカーの目的だ。そして
ショッカーが最終的に築く理想社会は、改造人間による弱者の殺害を
悪とは認めない社会だろう。
毬子はこれに類する自問自答を延々と行った。そうして、結局、
理性によってショッカーの理念を退けることを、ほとんど断念せざるを
えなくなった。
苦闘の中、毬子が最後にすがったのは、理性的な答えではなく単純な
「信念」だった。かつての自分を含む人類の大部分は、ショッカーを
悪だと認定する。自分はもう、それを当たり前だと感じる感性を奪い
取られてしまった。だが、ここではなく、彼らの側にいたい。いなければ
ならない。そんな思いは自分の中に残っている。それを信じよう。
それが毬子の最後の砦だった。だが、脳改造装置は容赦なく「彼ら」
への敵意、軽蔑、猜疑心を吹き込み続けた。そして毬子は、その感情の
描き出すイメージが完全なまやかしではなく、ある程度は現実に適って
いることを認めざるをえなかった。人間は「善意」だけで動く存在で
はない。むしろかなりの度合いで、打算や、軽蔑すべき短慮や、欺瞞的
な意図が人間を動かすのだ。
普通ならば、それでも他人の善意を信じる、という態度には意味が
ある。他人を信じることができる人間は、他人から信じられる人間で
ある。そうやって人間たちは絆を結び、社会を維持している。
だが、彼らが、今の自分を受けいれてくれる事などあるだろうか。
凶悪な毒物や危険な武器を体内に満載し、殺人に性的快楽を覚える
やみがたい衝動を植え付けられ、ショッカーに属さない者の顔を見れば
反射的に敵意と憎悪と猜疑心に火がつくような、ねじ曲がった心の
持ち主。そんな存在を、彼らは自分たちの同胞として受けいれて
くれるのか。
毬子は刻々と心を歪められていく自分に恐怖した。この現実のすべて
から逃れたいと思った。その思いが、毬子から叫びを引き出した。
「ああっ! 誰か! 誰か助けてっ!!」
自分の言葉を自分で耳にしながら、毬子は「助け」など不可能で
あることを再認識した。たとえ奇跡が起き、毬子がこのアジトから
救出されたとしても、すでに起動を始めた脳改造装置が停止することは
もうない。それは毬子を完全なショッカーのしもべに作り変え、毬子の
命の続く限り、毬子をその状態に留め置くだろう。毬子をショッカー
から「救い出す」ことは、今となってはもう不可能だ。今の毬子は
もう、この社会が存続せねばならないならば、いてはならない危険な
存在にされてしまったのだ。
――そうか。わたしが、わたしの信念に忠実でいるためには、わたし
は生きていてはならないんだ。もうわたしは、そういう存在なんだ――。
自己が選び取ろうとした「信念」の残酷な帰結に毬子は直面した。
自分の信念に従うならば、自分はいてはならない存在である。それは、
毬子が何をすべきかの道しるべであるように思われた。
だがそのとき、毬子の中の、抑えられない何かが叫んだ。
――死にたくない!!――
万事につけ淡泊で、人生から距離をとって生きてきたような毬子は、
不意に湧き上がったそんな感情にうろたえた。実のところそれは毬子
自身の感情ではなく、毬子と一体化したあの雌クジャクの生存本能
だった。だが、毬子にそれを知る術はなかった。否、仮にそれを知った
としても、毬子の「彼女」へのやみがたい愛着は、「彼女」を生かす
ために同じ選択をとらせたかもしれない。
そして、その生存衝動の発露が、いわば毬子の脳改造の「折り返し点」
だった。その突破点を越えた毬子は、坂道を滑るように、ショッカー怪人
としての自分を受けいれ始めたのだ。
――死ぬ必要なんて、ないんだ。わたしには、ただ一つだけど、
居場所がある。そこにいれば、わたしは生きていてもいい。それどころか
そこは、わたしを必要としている。わたしはそこで、わたしにしか
できないことをするのだ――。
毬子はここに連れてこられるまでの自分の人生を想起した。
毬子の美貌と豊満な肉体は、毬子の母から受け継いだものだ。毬子の
年の離れた姉もまた、それに劣らず美しい女性だ。そして毬子は母や
姉の人生から、過度の美貌が必ずしも女性を幸福にしないこと、否、
生き方次第ではかえって不幸を導くことを学んだ。母も、姉も、同性
からの嫉妬を受け、容姿にしか目を向けない男性につきまとわれ、
交際を断れば逆恨みされ、果ては性犯罪の標的になり、決して幸福とは
言えない人生を歩んでいる。美貌を使いこなし、人生を渡って行くには、
彼女たちはあまりに善良で傷つきやすい心の持ち主だったのだ。
だから毬子は、ある時期から、自分の中の「女」の部分を極力人目から
隠し、最高学府、城南大学に入学して、自分の知力で自分の人生を
切り開く道を選んだ。だが、隠しても隠しきれない彼女の美貌が、
毬子の研究者人生を不遇なものにしていた。「美貌と知性は反比例する」
とでもいわんばかりの根拠のない軽蔑を彼女はたびたび受け、彼女自身
が感知しない入り組んだ三角関係、四角関係が彼女の周囲に形成され、
彼女の研究を妨げた。
毬子はしかし善良で、攻撃性や怨恨とは縁のない女性だった。貧しいが
愛情あふれる母や姉の愛を一身に受け、まっすぐに成長した彼女は、
自分を妨害する周囲の人間を憎むことはせず、意のままにならぬ感情に
動かれて流されて右往左往する彼らに、むしろ憐れみを感じていた。
そして自己の美貌に対する消極的な思いをさらに深め、クジャクだけを
友とする日々を送っていた。
そんな毬子は今、ショッカーを受けいれる心の準備を始めていた。
――外の世界にはわたしの居場所はない。それは確かだ。わたしが
何かをできるとすれば、それはもうここ、ショッカーの中しかない。
そもそも、わたしはここに来る前から孤独だったのではないか。人類に
とって重要な帰結を招きかねない変異型クジャクの研究も、外の世界で
研究を続ける限り、誰からも相手にされず、埋没していたに違いない。
その研究と自分の真価を見抜いたのは、ただショッカーだけだったのだ。
ならばわたしは、ここに来る定めだったのではないか。こここそが
わたしが生まれたときからわたしを待ち受けていた、真の居場所だった
のではないか――。
「ショッカーへ、来るのだ。来るのだ」
鳴りやまない「ショッカーへの誘い」に毬子はとうとう心を開いた。
電撃の苦痛が停止し、同時に心がふっと軽くなった。そしてショッカー
への抵抗感が除去されたことで、毬子の認識枠組みは急激に改変され始めた。
――わたしにできることは何だろうか。わたしたちの使命は何だろうか。
「世界征服」だ。改造人間による、新しい社会秩序の建設だ。
これまで人類が生み出してきた社会秩序は理性的な根拠に基づく
ものではなかった。それは人類が生物的、文化的に形成された感情的な
反応に基礎を起き、様々な政治的利害の調停の結果定着した、場当たり的
な決まり事の総体だ。既存の社会秩序への盲目の信仰を取り除いて
もらった自分には、それがよく分かる。
ショッカーの建設する社会秩序についても、根本的にはそれは同じ
ことかもしれない。だが、ショッカーには未来の可能性がある。高度の
科学力を、偏見に囚われない仕方で適用することで、これまで人類が
達しなかった高みへと人類を引き上げる力が、ショッカーにはある。
大多数の人間には安定と、そして生物として失ってはならない恐怖への
感覚を授ける。そして能力のある人間には投資を惜しまず、その肉体と
精神を徹底的に強化する。能力あるものの力を集中させ、さらなる
高みを目指す力をそこから生み出すのだ――。
毬子は興奮していた。生まれて初めて本当に生きる意味を見つけ
られた気がした。植え付けられた嗜虐心や世界への憎悪は、毬子の
高揚感をますます高めた。
脳改造装置が送り出すパルスは、被害妄想に似た敵意の錯覚と、
ショッカーの価値を中心にしたある種のパラノイアを生み出す。
他の価値をすべて相対化し、ショッカーの価値に従属させるような
認識枠組みを形成させるのだ。
パラノイアの患者は、知性豊かであればあるほど、首尾一貫して
狂ってた妄想から容易には逃れられなくなる。どんなデータを与えよう
とも、そのデータは妄想を退けるのではなく、妄想を強める方向に働いて
しまうからだ。脳改造はその状態を人工的に作り出し、維持する。
回路が完成してしまえば、もう逃れることはできない。毬子の心は
今や、決してショッカーを疑うことができない仕方で作り変えられて
しまったのだ。
毬子は再び自分を振り返った。
毬子は、自分という人間が決して嫌いではなかった。母の愛情が
育て上げた、細やかな気遣いや穏和なものの考え方を、毬子は自分の
宝だと思っていた。
それがかけがえのないものであったことを、毬子は否定する必要は
ない。毬子はそう考えた。他人を思いやり、絆を形成し、社会を築き
上げる。人類はそうして生きてきたのだし、その中で生きていく
限り、それは望ましい美点だ。
――だが、わたしはもうその中では生きていけないし、生きていく
必要もない。なぜならわたしは、改造人間なのだから。わたしは、
科学技術の粋を集め、肉体と精神を徹底的に調整された、人類を優越
する存在なのだ。そしてわたしはそれに選ばれるだけの能力を備えて
いた。だからわたしはその社会の中で生き続ける必要もない。
おごり高ぶるべきではない。ただの人類を軽蔑すべきでもない。
母や、かつての田薄毬子がそうであったような人間もまた、ショッカー
の理想社会の重要な一部だ。わたしと彼らはただ、役割が違うだけだ。
もって生まれたもの、身につけられたもの。
そう。もうわたしは「田薄毬子」ではない。今のわたしは……――
「目覚めよ、孔雀女」
心の遍歴が終わるのとちょうど呼応するように、あの荘厳な声が
響き渡り、今の彼女の真の名を告げた。
すでに無影灯も落とされた薄暗い部屋の中、頭部の視覚増幅回路が
作動し、真っ赤な目が輝いた。
「孔雀女」は天井の鏡面に映る自分の姿を見た。まるで目から鱗が
落ちたように、彼女は自分自身の肉体の美しさを認めた。そして、
ショッカーに見込まれた自分の頭脳や体力を心おきなく行使してよい
のと同様、自分は、この美しい肉体を存分に駆使し、そこから得た
利益をショッカーに捧げることができるのだ、ということに思い至った。
それは、自らの美貌から逃れ続けてきた田薄毬子が、美によって異性を
惑わす危険な改造人間、孔雀女として最終的に覚醒したことを意味していた。
ゆっくりと起きあがった孔雀女は、手術台を降り、エンブレムの前で
片手を上げ、厳かに宣誓した。
「大首領閣下。あなたに永遠の忠誠を誓います」
そうしてこみ上げる衝動に突き動かされるように、両手をさっと
交差させ、高らかな声を発した。
「パァ〜ッヴォ〜ッ」
奇声と共に孔雀女の背中の尾羽がさっと扇状に開いた。誇らしさと、
えもいわれぬエクスタシーに包まれた孔雀女は、レリーフを見上げ、
こらえきれぬように叫んだ。
「パァ〜ッヴォ〜ッ! ショッカーの一員に加えてくださり、感謝致します!」
実験室で田薄毬子と出会った日の翌日、蒼井蜜子は、彼女の研究の
ことが気にかかり、研究室を再訪した。世の中には恐ろしい人たちが
いる。彼らはあなたの研究に目を付け、それを悪用するためにあなたを
誘拐するかもしれない。くれぐれも戸締まりや夜歩きには注意し、
少しでも不安なことがあったら、すぐに「アミーゴ」という喫茶店に
連絡して欲しい――そんな伝言を彼女に伝えるつもりだった。
だが実験室に、毬子はいなかった。中にいた毬子の指導教員は、
毬子がクジャクを死なせてしまい、失意のあまり実家に帰ってしまった、
と告げた。激しい不安と後悔に襲われた蜜子は、毬子の学生を装い、
毬子の下宿と実家の住所と電話番号を聞き出した。
毬子の安否を確かめようと大学を出ようとしたとき、オートバイに
乗った本郷が蜜子を呼び止めた。改造人間サメ男のアジトがようやく
突き止められたから、それを潰しに行くというのだ。蜜子はオートバイ
に乗り、本郷のあとを追った。毬子の件は後回しにせざるを得なかった。
こうしている間にも、サメ男の恐るべき作戦が、大勢の人命を奪い
かねないのだ。
サメ男を倒しその計画を防いだ翌日には、蜜子たちの前にワニ男が
現れた。ワニ男の計画を阻止し、ワニ男を葬り去るために、蜜子たちは
一週間以上かかり切りになった。
その間に、田薄毬子の改造手術は着々と進行していたのである。
そして、もしも蜜子が毬子の失踪の事実を確認し、本格的にその捜索を
行っていたら、毬子を、少なくとも脳改造が行われてしまう前に救出
する可能性は十分にあったのだ。毬子の改造が行われていたアジトは
比較的近郊の、本郷たちがすでに目星を付けていた地域にあったのだから。
だが、蜜子にはその時間を割く余裕はなかった。その間、ワニ男事件
だけでなく、美しい双子の姉妹の相次ぐ失踪や、有毒な菊の花による
連続死亡事件など、ショッカーの影をにおわせる事件は後を絶たな
かった。ショッカーは神出鬼没で、驚くほど広範囲で活動を展開しており、
ただ二人だけでそのすべての活動を封じることは、現実的には不可能
だった。本郷や蜜子が戦ってきた改造人間たちの活動は、ほんの氷山の
一角でしかないのだ。
しばらく後、蜜子は「アミーゴ」に来ていた女性ジャーナリストから、
奇妙な噂を聞いた。彼女の友人である検屍官が奇妙な死体を解剖した
というのだ。ある若い女と三人の男が交通事故で即死したのだが、
解剖してみた所、女性の子宮も、男性の睾丸も、完全に退縮し、
その機能を喪失していたことが分かったという。
これだけでも奇妙な事件なのだが、奇妙な点は他にもあった。
第一に、その四人の男女の関係と、事件が起きる少し前からの、
彼らの変調である。それによると、男性の内の一人は女性の古くからの
恋人だったが、他の二人はつい最近知り合った仲である。その女性は
内気で、化粧もせず、洋服も地味目のものを選ぶ方だったのだが、
ある時期を境に、化粧や服が派手になったのだという。さらに、
まるで整形手術でもしたように、急激にその容貌そのものが美しく、
また肉体のラインも官能的に変貌していった。そしていつの間にか
複数の男と、肉体関係をにおわせる付き合いをするようになった。
しかしもともとの恋人もそれを拒むでもなく、それらの男たちと共に
ホテル街などに出入りするようになったのだという。
第二に、このような奇妙な事件であるにもかかわらず、事件が世に
出ることがなかったということだ。というのも、その検屍官の解剖結果
がいずこかに紛失してしまったというのだ。
「……で、何か裏が裏がありそうだと思って、いろいろと調べているの。
蜜子ちゃんの周りに、何かこう、急に色っぽくなった人はいない?
男女は問わないわ。何でも、さっきの事件、恋人の男や他の男たちも、
女性が色っぽくなるのにつれて、セックスアピールがぐんぐん増して
いったんだって」
店番をしていた蜜子は、事件の裏にショッカーの影を敏感に察知した。
同時に、このジャーナリストのあまりの無防備さに危惧の念を感じ、
こう忠告した。
「その事件、かなりヤバい組織が関わっているような気がするんです。
真相を突き止めるのも大事だけど、無茶はしないで欲しい。もし、
核心に迫りそうな取材に行くときはわたしに一声かけて。わたし、
こう見えても空手の有段者なの。ボディーガードを引き受けるわ」
気さくそうなジャーナリストは、にっこりと微笑むと、言った。
「ありがとう。頼もしいわ。じゃあ、そのときはお願いするわね。
でも、あんまり心配しなくても大丈夫。こう見えて、ヤバいことと
そうでないことの区別はついているつもり。あんまり深入りはしない
ことにする」
そう言ってジャーナリストはアミーゴを出ていった。
翌日、やはり蜜子が一人で店番をしていると、昨日のジャーナリスト
が深刻な顔で店を訪れて、蜜子に言った。
「蜜子ちゃん、空手の有段者って本当? ボディーガード、
引き受けてくれる?」
断られてはいけない、と思った蜜子は、店の奥にあったビールビンの
空き瓶を持ち出し、その先端を手刀で切り落として見せた。目を丸く
するジャーナリストに、蜜子は愛用のフェンシング用の剣を持ち出し
て見せた。
「武器もあるわ。試合用じゃなくて、殺傷能力のある本物の剣よ。
詳しくは言えないけど、実戦経験もあります」
唖然とした顔でジャーナリストは言った。
「……あなた、何者? ……でも、いいわ。多分、滅多なことにはならない。
あくまで保険みたいなものだから。一応、警察にも相談済みだしね。じゃあ。
ボディーガード、お願いする」
恐らく、その「滅多なこと」が起きるのだ。蜜子はそう思いながら
剣をケースに入れて持ち、なくもがなの変装として眼鏡と帽子をかぶると、
ジャーナリストの乗ってきた軽自動車に同乗した。
運転をしながら、ジャーナリストは蜜子に説明した。
「実を言うとおおかたの調べはついていたんだけど、例の男女はある
アングラな製薬会社から媚薬みたいな、あるいは精力増強剤みたいな
ものを購入していたの。その薬品は、女性雑誌やエロ雑誌の広告と、
あとは口コミを通じ、一部の若者の間であっという間にブームに
なり、広まった。これがその広告」
蜜子が手にしたこともない猥褻な雑誌をジャーナリストは手渡した。
開いてあったページに、仰々しいあおり文句を刻んだ薬の宣伝がある。
広告主は「パヴォ製薬」とあり、クジャクを図案化ーしたような奇妙な
マークが添えられている。
「『パヴォ製薬』、ですか?」
首を傾げる蜜子にジャーナリストは答えた。
「パヴォはクジャクのこと。そのマークは『マラク・ターウース』
という、やっぱりクジャクの神様。まあ、それが分かっても、たいした
手がかりにはならなくて、その事務所を突き止めるまでが大変だったんだけど」
「クジャク」と聞いた蜜子の心にざわざわと不安が湧き上がった。
だがその不安をこの女性に分かるように説明するには長い時間がかかる
だろう。蜜子はその代わり、質問を発した。
「それで、どうしようと?」
ジャーナリストは言った。
「先方には、通信販売ではなく直接に薬を購入したい、という話を
してある。向こうの責任者に会えたら、商品についての質問をするふり
をして、いろいろと聞き出す。しっぽを掴んでも、そしらぬ顔をして
その場は去る。そうして、薬のサンプルやら、聞き出した話を記事に
まとめて、犯罪的なことがあったら警察にも通報する。そんな計画」
常識的に考えて、かなりいい加減で危ない話だが、蜜子は何も言わ
なかった。これから向かう先がショッカーの末端組織だったとしても、
こちらには仮面ライダー2号である自分がいるのである。よほどのこと
がない限り、なんとかなるはずだ。蜜子はそう思った。
「お電話いたしましたシラマツです。友人と二人で、お薬を購入しに
参りました」
郊外の高級マンションの一室の前に立ったジャーナリストは、ノック
をすると、偽名を名乗って来訪を告げた。
扉が開き、秘書らしい美しい女性が二人を中へ通した。二人が入ると、
秘書が後ろ手でかちゃりとドアのロックを閉めたのを、蜜子は見逃さなかった。
ソファーに座っている二人の前で、扉が開き、パヴォ製薬の取締役
だと称する人物が姿を現した。
人物を目にした蜜子の心にひりひりとした良心の呵責が生じ、
蜜子は思わず声を上げた。
「……やっぱり、田薄……毬子さん?」
そのとき、横に座っていたジャーナリストが蜜子の腕をひねり上げた。
傍らにいた秘書も蜜子の反対側の腕をとり、用意していた手錠を蜜子の
手にはめた。
青い顔の蜜子の前に歩み寄った取締役、毬子は、念を押すように
ジャーナリストに問いかけた。
「取材結果を話したのはこのお嬢さんだけね? まったく、そちらの
検屍官さんが守秘義務を守らないから、やっかいなことになるところ
だったわ」
蜜子が秘書だと思っていた女性は、ジャーナリストの話に出てきた
検屍官であったらしい。検屍官は消え入りそうな様子で毬子に詫びた。
「申し訳ありません」
その様子を見てくすりと笑った毬子は、検屍官に言った。
「ごめんなさい。冗談よ。結局、こうして後始末が済むことになるん
だから、気にしなくていいの」
それから毬子は蜜子の方に向き直って言った。
「さて。あなた、かつてのわたしの知り合いだったかしら? ああ!
そうだ、あのときの学生さんね。道に迷って、わたしの研究室に入って
きた。ふふふ。あなたには、いつかちゃんとお礼を言わないと、
と思っていたのよ」
蜜子は田薄毬子であるはずの女性をまじまじと見据えた。顔や体つき
は間違いなく同じ人物だ。だが、様子も雰囲気もまったくの別人と
いってよかった。
あのときの毬子は、髪型も、服装も、あるいはビン底のような眼鏡も、
その全てが、自分の「女」としての美を覆い隠そうとしているとしか
思えない装いだった。だが今の毬子は全くその逆だった。ふわりと
ウェーブのかかった豊かな髪。眼鏡はかけておらず、濃すぎない巧みな
化粧が、その美貌を一層際だたせている。身にまとうのは、ノースリーブ
の薄地のワンピースで、胸元にV字の大きな切れ込みが入り、胸の球体の
かなりの部分が露出している。ブラジャーを着けていないにもかかわらず、
その乳房はまるで垂れる様子がなく、布越しに浮き上がった乳首はぴんと
上を向いている。歩くたびに足にまとわりつき、へその位置までくっきりと
浮かび上がる、オブラートのように薄い布地と、腰の上まで切れ上がった
スリットは、彼女が下半身にも何の下着も身につけていないことを
はっきり示している。そしてドレスの上には、クジャクの尾羽の目玉模様
が一面に散りばめられていて、サイケデリックな印象を与えている。
その全ては、かつてとは全く逆に、毬子の美貌を最大限引き出そうと
いう意図をはっきりと表していた。
しばらくその妖艶な姿に見入っていた蜜子は、大事なことを思い出した
様子で、口を開いた。
「毬子さん。あの薬品はあなたが作ったんですね? あの薬品は、
あのクジャクの『お嬢さん』に起こったのと同じことを、人間の体に
引き起こす。セックスアピールを増強させる一方で、生殖能力そのもの
は奪ってしまう。教えてください。あなたは、薬の効果をちゃんと
分かっているのか。薬の流通がどういう結果をもたらすのか、理解して
いるのか。そして、もし理解しているなら、なぜそんなことに手を
貸したのか。それを聞かせてください」
これはどうしても聞いておかねばならないことだった。本郷には
装備されているOシグナルは、蜜子には備わっていない。だから蜜子は
それを会話の中で明らかにして行かなくてはならない。
毬子は、何も知らずに騙されて研究成果を利用されているだけなのか。
それとも、催眠暗示のような手段で操られているのか。それとも……
もう、二度と取り返しのつかない処置を、その脳髄に施されてしまって
いるのか。それをはっきりさせなければならない。騙されていたり、
暗示で誘導されているだけなら、蜜子は毬子を救うことができる。
しかし、もしも……
蜜子は息をのんで毬子の答えを待った。やがて毬子はくすりと笑って
から答え始めた。
「いいわ。教えてあげる。あなたの言うとおり、この薬品は人間の
性的魅力を増幅させ、性欲を昂進させ、性感と、性行為の持続力を
飛躍的に高める。男も、女も、この薬の効果を知った者は我も我も
とそれを求めた。求められれば、販売するわ。それが市場経済という
ものでしょ」
蜜子は言った。
「答えになっていない。あなたはそれに恐ろしい副作用があることを
知っていたんでしょ? この薬の作用で、男性も、女性も、二度と
子孫の残せない体になっていまう。その副作用を取り除く努力もせずに、
それを販売した。それがなぜかを、わたしは聞いているの」
毬子はくっくっくと、笑いながら言った。
「ああ、そのこと? 下劣な遺伝子をこの世界から取り除くためよ。
上辺の美貌を求め、衝動に流され、刹那的な快楽を求める人間がこの薬
を買う。そして、そういう人間の遺伝子は、この薬の作用で子孫を
残さずに消滅することになる」
蜜子は苦いものがこみ上げてくるのをこらえながら、目の前の女性に
さらに問いかけた。
「日本の人口が激減することになりかねないわ。どうするつもり?」
毬子は教師が学生の質問に答えるように、うれしそうに答えた。
「この国の、いえ、この世界の人口はちょっと多すぎる。荒療治でも、
減らす工夫は必要よ。それに、分娩による出生はいずれ、もっと合理的な
手段で置き換えられる。一握りの、遺伝的に優れた人間と、数多くの
従順な労働力を、計画的に受精させ、試験管の中で培養する。そうして、
社会にとってもっとも適正な人口比を、人工的に維持していく。そんな
時代がもうじき訪れる。この計画はそのための地ならしみたいなもの」
絶望がこみ上げてくるのを感じつつ、蜜子は再度問いかけた。
「もっと大事な問題がある。この薬を使った人間は、子供を作り、
育てるというかけがえのない喜びを、一生閉ざされてしまう。
それをあなたは何とも思わないの?」
毬子は謎めいた微笑を浮かべ、言った。
「面白いことを教えてあげる。わたしたちは一つの対照実験を行った。
一部の地域で、薬の副作用をはっきり明示して、薬の販売を行ったの。
結果、対照群と大差ない比率で、薬は売れた。つまり、この薬に飛び
つくような人種は、妊娠の危険のない、快楽だけのセックスを求めている。
子を産み育てる煩わしさから逃れることしか考えていない。これが現実。
だからわたしたちはやっぱり、それを求める者に、ふさわしいものを
与えているだけなの。
もちろん、そうでない人、子供を求めようとする人々が一定数いる
ことは認める。その人々の喜びを奪っていることは否定しない。だけど、
わたしが思うに、こんな薬に手を出す連中が、ちゃんとした子育てを
やり遂げられるとは思わない。子供を育てるというのはとても困難なこと。
一部の限られた、それを許された者にしか、やってはならないこと。
わたしはそう思う」
毬子はそう言うと、ほんの少し遠い目をした。脳改造によっても
消えることのなかった、母への尊敬と思慕が脳裏をかすめたのだ。
蜜子は無論その意味を完全に理解したわけではなかったが、それでも、
毬子が特定の誰かへの思いにふけっていることだけは理解できた。
蜜子の中に複雑な思いが湧き上がった。この女性が、もう、取り返しの
つかない処理を施されてしまっていることははっきりしていた。ならば、
自分のなすべきこともまた、ただ一つだ。だが、「それ」を施されながら、
この女性は最大限の理性と正常な判断力を維持している。ここまでの
人間はそうはいない。たいがいは、快楽殺人鬼の衝動を植え付けられた
だけで、もう人間であることを嬉々としてやめてしまう。それを意志の
力で押さえ込めた者も、結局は人間への憎悪と猜疑心に心を満たされて
しまう。だが、この女性は恐らく、それらの関門を乗り越え、強い
自意識を保ったまま今に至っているのだ。それは並大抵の人間にできる
ことではない。
だが、だからこそ、この女性はとびきり危険な存在なのだ。高度の
知性と判断力を維持しつつも、この女性の脳内には「彼ら」の理想が
完全に組み込まれ、それと不可分ににそれと一体化している。そういう
人物こそ、この社会の、人類の、もっとも恐るべき敵対者であるはずなのだ。
蜜子は確認するように最後の質問を発した。
「答えて。あなたは、自分のそういう考え方がこの社会の秩序を破壊し、
良識を解体する、間違ったものだと思わないの?」
毬子は深くうなずき、蜜子に答えた。
「その通り。わたしたちが目指す目標は、今の社会の秩序を覆し、
この社会に生きる者を恐怖に突き落とすことにある。でも、それの
どこがいけないのか、今のわたしにはもうわからない。わからない
ように、されてしまったの。だってわたしはもう……」
蜜子の目の生体組織から、涙がぽろぽろとこぼれた。
――ごめんなさい。わたしのせいなんだ。あのとき、わたしがもう
少し警戒していたら。せめて、あの失踪事件の直後に、捜索を開始
できていたら――。
後悔と慚愧の念が蜜子の胸を満たした。こみ上げる嗚咽をこらえながら、
蜜子は毬子の言葉のあとを受けて、言った。
「……あなたは、脳改造手術を受けてしまった。そうなのね?」
その言葉と共に蜜子は手錠を引きちぎり、足を大きく開いて天井に
ジャンプし、パンティの中に指を差し込んで膣内のスイッチをまさぐり
ながら叫んだ。
「変身!」
急変した事態を受け、ジャーナリストと検屍官が擬態を解き、
女戦闘員の正体を現した。二人とも、つい昨日までは何も知らない善良な
人間だった。毬子の手下たちが秘密の流出に気付き、彼女たちを拉致し
戦闘員へと改造した。そして秘密を知った「アミーゴ」の店員を
欺き、女戦闘員に改造するためにここへ連行してきたのだった。
蜜子は宙空で、セーブモードである擬態を解除し、改造人間・
仮面ライダー2号としての本来の姿に戻っていた。紫の髪の毛。緑の
複眼。太い触角。ストライプ模様に彩られた口元。青い皮膚。同心円
模様の乳房。サッシュのような腰の皮膚。本来ならば「蜂女」とでも
呼ばれる怪人へと改造されてしまった彼女は、脳改造手術の直前、
本郷猛に救出され、正義の戦士として戦う定めを自ら背負ったのだ。
「ライダーパンチ!」
天井を蹴った蜜子は、その反動で増強された拳で、二人の女戦闘員の
頭部を直撃した。頭部が砕け、二人は一瞬で絶命した。
「ぬ……そうか。蒼井蜜子! まさかあなたが!」
瞬殺された二人を見た毬子は、自分の不覚を悔いながらつぶやいた。
毬子は脳改造後、危険な未完成品である二人の脱走者の情報をたしかに
受けた。だが、他人の視線を避ける習性が身に付いた毬子は、他人を
顔で識別する習慣を失っていた。蜜子に会ったとき、その語調や雰囲気
から「研究室に迷い込んだあの学生」であることを認識したものの、
それがあの忌まわしい未完成品であることには気づけなかったのだ。
毬子はドレスの裾をまくり上げ、股間に指を伸ばすと、先ほどの
蜜子同様、内部のスイッチをまさぐった。戦闘員を片づけた蜜子が
目を向けたとき、そこにいたのはもう、擬態を解除した怪人・孔雀女
だった。とがった頭部。つり上がった真っ赤な目。毬子の肉感的な
肢体を裸体以上に扇情的に際だたせる、メタリックブルーの皮膚と、
胸と腰を飾るサイケデリックな目玉模様。そして、かかとと背中から
伸びるきらびやかな羽根飾り。そこにいたのは、美の化身と言うしか
ない美しい改造人間だった。
「パ〜ヴォ〜ッ!」
本来の姿に戻った毬子は、尾羽を扇状に広げ、叫んだ。
蜜子は、その美しさに一瞬胸を打たれた。それでもその体は半ば
本能的に武器である剣を引き寄せ、構えの姿勢をとらせた。
毬子もまた、かかとから生える尾羽を抜き、蜜子に向けた。狭い
室内の中、二体の改造人間はにらみ合い、互いの出方を待った。床に
倒れた女戦闘員たちの以外が、ごぼごぼと泡を立てて溶け始めた。
長いにらみ合いが続いたのち、勝負は一瞬で決した。
分析力に優れていたのは毬子であったと言うべきである。毬子の
一撃は、蜜子の急所を着実に衝くはずだったのだ。だが、実戦経験で
一日の長のある蜜子は、それをかろうじてかわし、必殺の一撃を毬子に
加えた。剣は毬子の人工心臓を正確に射抜き、毬子はぴくりとも
動かなくなった。
横たわる毬子を見た蜜子の中に、不意に猛烈な吐き気が生じた。
最近はいつもそうなるのだった。罪悪感、嫌悪感、無力感。そうした
感情が一度に押し寄せ、この現実から逃れたい、という思いが嘔吐を
もたらすのだ。
――ごめんなさい。あなたは悪くない。でも、あなたは危険な存在
だから。この社会にとって、いてはならない存在だから。だからこう
するしかなかった。わたしのせいなのに。わたしが気を付ければ、
あなたは改造なんてされなかったかもしれないのに。ごめんなさい。
ごめんなさい――。
蜜子は剣を抜き、口を押さえ、部屋を飛び出した。本来ならば、
毬子の完全な絶命を確認し、彼女が泡となって消えていく様子を見届け
ねばならない。それを怠るのは、正義の味方として失格である。
だが、蜜子の精神の限界が、それを許さなかった。もしも今、毬子の
遺骸が溶け崩れる様子を目の当たりにしたら、蜜子は嘔吐し、そのまま
正気を失ってしまうかもしれない。それほどの切羽詰まった精神の危機を、
蜜子は感じていた。
蜜子はマンションを後にし、最大の脚力で来た道を戻り、「アミーゴ」
へ帰った。
「アミーゴ」の二階には本郷が帰宅していた。部屋に押し入った蜜子は、
本郷に向かって言った。
「怪人を一人殺してきた! 今すぐ、エネルギーを補給して。早く。
でないと、死んじゃう」
エネルギーは半分以上残っていたのだが、それでも、蜜子には本郷が
必要だった。
本郷はベルトの風車からエネルギーを補給できる。だが、蜜子は自力で
エネルギーの産生ができない。ショッカーに戻るのでなければ、本郷が
生み出したエネルギーを、注入してもらうしかないのだ。そしてそれは
本郷の陰茎を蜜子の膣に挿入すること、つまりはセックスによってしか
なしえない。二人はその目的を果たすため、定期的に交わらねばなら
ない定めにあった。
本郷は無言で布団を敷き、事務的に衣服を脱ぎ始めた。蜜子も全裸に
なり、布団にあおむけになった。本郷が覆い被さり、固くなった陰茎を
蜜子にあてがった。
「待って。ごめん。今日は……ちょっとだけ長く準備して。……ここを
なめたり、あそこをいじったり、そういうのをやって。お願い」
異性としての本郷に心底惚れている蜜子は、普段ならばこの段階で
すでに本郷を受けいれる準備が整っているのだ。だが、今日は違った。
蜜子の胸に苦々しい罪悪感と後悔がこびりつき、性欲のかけらも湧き
上がってこなかったのだ。エネルギー補給も無論必要だったが、それ
以上に蜜子は、本郷の抱擁や愛撫で、現実から逃れたかったのである。
長くぎこちない愛撫の果て、ようやくうっすらと湿ってきた蜜子の
中に、本郷は「電源プラグ」を挿入した。放電のために腰を前後させる
本郷に、蜜子は問いかけた。
「ねえ猛。もしもわたしが『蜂女』にされてしまったら、ショッカーに
捕まって、脳改造を受けてしまったら、猛はどうする?」
腰の動きを止めた本郷は。眉間にしわを寄せ、しばらく時間を
おいてから答えた。
「……わかりきったことを、聞かないでくれ」
そうして本郷は行為を再開し、いつにも増して事務的に最後を迎えた。
服を着始めた本郷を目で追いながら、布団の上で横たわったままの
蜜子は、悲しげな表情で物思いにふけった。
――「わかりきったこと」、か。そう。わかりきったことだ。
この人はずっとそれをやってきた。これからもそれをやっていくだろう。
わたしはどうだろう? もしも猛が脳改造を受けて、ショッカーの
しもべにされてしまったら、わたしは猛と戦えるのか?
……いや。わたしの命は猛なしにはありえない。だから、わたしも
ショッカーの脳改造を受けるしかないのではないか……――。
考えても仕方がない思いを何度も巡らせている内に、蜜子は眠りに
落ちた。
目覚めたとき、蜜子がいたのは本郷の部屋ではなかった。そこは、
見まがいようのないあの忌まわしい施設、改造手術室だった。
昔の夢を見ていたのだ、と蜜子は気がついた。蜜子は今日、戦闘員に
改造されてしまった親友・皆子に欺かれ、改造人間用の麻酔薬を注射
されてしまった。そのまま眠りにつき、気がついたらここにいたのだ。
蜜子の肉体は、「仮面ライダー2号」の姿から、急激にパワーセーブ状態、
つまり、人間だった頃の蒼井蜜子の姿を模した擬態形態に移行しつつ
あった。股間に挿入された電源プラグが、蜜子の体内に充電された
電源を放電し、蜜子の活動能力を奪っているのだ。
「変身」後の状態ならば、麻痺さえ切れれば、脱出も容易だろう。
だが、ここまでエネルギーを抜かれてしまっては、もうそれは不可能だった。
――馬鹿みたいだ。わたしは、改造手術台の上で、怪人の姿から、
人間の姿に改造されている。そして、そんな自分に、たまらない心細さ
を覚えている。あの姿こそわたしの本当の姿だって、認めているみたい
じゃないか――。
蜜子はそう自分を責めた。だが実際、それは今の蜜子の真実なのだった。
「放電終了。これより蒼井蜜子の改造手術を再開する」
――……再開? そう。「再開」なんだ――。
蜜子はあの日、騙されてアジトに誘い出され、無理やりに衣服を
脱がされ、手術台に固定されて、改造手術を受けさせられた。
それは、世界中のアジトで、何度も何度も繰り返された、当たり前の
光景だ。誰もが最初は抵抗する。しかしどんなに抵抗しても、改造手術
は行われてしまう。脳改造が終了すれば、その人間はもう抵抗しない。
抵抗するどころか、ショッカーの一員であることに感謝するようになる。
そんなプロセスが、世界のどこかでずっと繰り返されている。
ショッカーに一度目を付けられ、改造素体に選ばれてしまえば、もう
その運命は逃れられない――ごく、ごく、まれな、幸運な例外を除けば。
――わたしはそのまれな例外だった。ショッカーにとっての変則事項
だった。でも、「正義の見方」を名乗って、世界の平和のためだと
思って、そうやって戦っても、それはただの変則事項。終了するはずの
プロセスが、事故で中断してしまっただけ。不調が収まれば、プロセス
は続行される。改造素体は抵抗をやめ、ショッカーに忠誠を誓う。
その脳が元に戻ることは二度とない。「変則事項」は変則事項である
ことを永久にやめる。ただそれだけのことだ。わたしも、多分猛も、
結局はこうなるしかなかったのだ。
わたしたちの目を逃れたショッカーの作戦、わたしたちが倒して
いない怪人、わたしたちが救えなかった改造素体が世界中にどれほど
多くいることか。わたしたちはあてもなく、たまたま露見したショッカー
のほころびをつき、大海の中の一滴を取り除いて捨てているだけでは
ないのか――。
そんな絶望と無力感にうちひしがれながらも、蜜子の心の一部には、
奇跡を信じる気持ちが消えてはいなかった。
――でも、わたしだけは別かもしれない。だって、わたしには猛がいる。
仮面ライダーがいる。彼なら、どんなに困難な障害が立ちはだかろうとも、
きっとここにたどり着き、あの時みたいにわたしを助け出してくれる。
そうして、わたしたちはまた一緒に悪と、ショッカーと戦うのだ。
妄想かもしれない。でも、信じてみるしかないじゃないか。だって、
だって、こんなの悲しすぎる。信じてみよう、信じて、信じて、
かなわなかったらそのとき後悔すればいいんだ。信じよう。仮面ライダー
を信じよう……――。
蜜子のそんな願いは、結局は果たされずに終わる。たしかに本郷は
蜜子の間近にまでたどり着いた。だが、本郷がなすすべもないまま、
蜜子は脳改造を受け、仮面ライダー2号の名を永久に失う。その代わり、
残忍で冷酷な改造人間・蜂女の名を、誇りと狂気をもって名乗るように、
その脳髄を改造されてしまう。
だが、今の蜜子にその運命を告げるのは、あまりにも残酷にすぎよう。
わずかの間でも、夢をみさせてあげよう。
ところで、脳改造後、蜜子は一命を取り留めた毬子と再会する。
選ばれた改造人間として完成されたことを互いに祝福した二人は、
蜜子が本郷の手で絶命するまでの短い間、友情と言ってもよいものを、
互いの間に結ぶ。だがそれはまた別の物語である。(了)