「まさか、自分の大学の中で迷子になるなんてね……」
蒼井蜜子は、自分自身が置かれた状況に半ば呆れながら、
独り言を言った。
いつも出入りするのとは反対側の、農学部寄りの門から出て
みよう、などと思い立ったのが間違いのもとだった。迷路のような
構内を抜けて出た先は行き止まりの中庭。引き返して渡り廊下を抜け、
反対側の建物に入ったものの、休日のためか、あちこちにある通用口は
すべて施錠中。そろそろ門の近くらしいのだが、どうやって外に
出ればいいのか見当がつかない。やはり休日だからか、教室も研究室も
しんと静まりかえっていて、道を聞く相手も見つからない。
迷子といっても、たいして深刻な状況でないのは蜜子自身が
よくわかっていた。観念して、来た道を引き返し、いつもの門から
外に出ればいい。あるいは、その辺の施錠された通用口を開けて
外に出れば、門のところにはすぐに行き着けるだろう。
引き返すのは、正直に言ってしゃくだった。だが、だからといって、
その辺の通用口を勝手に開けて出ていくのは、明らかに防犯上問題が
ある。そして蜜子は、この自分がそんなことをしてしまうのは、
自分たちの名を汚すことだと自分に言い聞かせていた。
「仮面ライダー」――それが、今の蜜子と、蜜子の憧れの人物であり、
また今では最良のパートナーであるはずの人物、あの本郷猛が自分たちに
冠した、称号だった。
「ショッカー」と名乗る、「悪」と呼ぶ以外にない秘密結社の罠に
落ちた蜜子は、強制的に異様な「手術」を施され、蜂と人間が融合
したような異形の怪人へと、その肉体を作り変えられてしまった。
だが、同じショッカーの犠牲者であり、かつ、ショッカーによる
脳改造を免れた希有な存在である本郷によって救出された蜜子は、
彼に続き「仮面ライダー2号」を名乗り、ショッカーと戦う戦士と
なった。
その正義の戦士が、大学を犯罪の危険にさらすような行為に及ぶ
わけにはいかないのだ。蜜子はそんな思いを抱えながら、ひと気の
ない構内をうろうろと歩き回っていた。
蜜子が引き返す覚悟を固め、廊下を引き返し始めてすぐ、蜜子の
目に、明かりのついた窓が飛び込んできた。先ほど通り過ぎたときは
真っ暗だったので、恐らく蜜子の通過後に誰かが入室したのだと思われた。
期待と好奇心に促され、蜜子は実験室らしき部屋の扉をノックした。
「はい、どちらさま?」
ノックに応え、姿を現したのは、大学院生か助手だろうと思われる
若い女性だった。くすんだ色のセーターとジーンズの上に白衣を羽織る
という、ごく地味な服装で、セミロングの髪をぎりぎりにひっつめて
後ろで縛り、ノーメイクの顔に黒縁の眼鏡をかけている。だが、
よく見れば白衣の下には均整のとれたボディラインと豊満な胸が伺われ、
眼鏡の下の顔立ちもかなりの美形と言えた。
(もったいない……)
それが蜜子の第一印象だった。
「助手・田薄毬子」と読める名札を付けたその女性に、蜜子が声を
かけようとしたとき、部屋の中から甲高い叫び声のようなものが響いた。
ぎょっとした蜜子がよく見ると、部屋の奥の方に大きなケージが
あり、中には鮮やかな色彩に彩られた大きな鳥がいた。
「あ、クジャク!」
思わず声を上げた蜜子の前で、ケージの中のクジャクは尾羽を開き、
極彩色の目玉模様を誇示した。気のせいか、普段動物園などでみかける
クジャクよりも柄が鮮明で、尾羽の数も多いようだった。
思わず見とれている蜜子に、目の前の女性、毬子は気さくに声を
かけてきた。
「どう? すごいでしょう。普通のクジャクに比べ、装飾の大きさや
数が一・五倍は多いのよ! このお嬢さんは」
説明を聞いた蜜子は、毬子の言葉が雑学的に得た自分の知識と
反することに気付き、思わず問い返した。
「『お嬢さん』? たしか、派手な羽をもっているのは雄だけ
なんじゃなかったんじゃ?」
毬子は待ちかまえていたようにうなずき、蜜子に答えた。
「そう。普通はね。でも、この子はちょっと違うの。尾羽は雄みたい
だけど、生物学的には雌なの。ただし、雌といっても受胎能力は
ない。そういう意味では『中性』と言うべきなんでしょうけど、
ただ生殖器の形状なんかはやっぱり雌そのものなの。
だから『お嬢さん』って、わたしは呼んでる。
実を言うと、このお嬢さんは、不幸な事故で、ある種の化学薬品を
浴びてしまった母親から産まれた、可哀想な身の上の子なの。
ホルモンに似た作用をもつその物質は、いわゆる第二次性徴を強烈に
発現させる一方、繁殖能力は退化させてしまう。だからこのお嬢さんは
人一倍美しい尾羽をもっているのに、自分の子を残すことはできない。
わたしはね、この子の生理を調べて、その化学物質の働き方を
詳しく調べている。この子のような悲劇を未然に防ぐためにね」
話し相手に飢えていたように、毬子は一息に語り終えた。それから
ようやく思い出したように、最初に問いかけるべき疑問を発した。
「それで、あなたは誰?」
毬子の話に、すっかり興味をもって聞き入っていた蜜子は、
少々あわてながら答えた。
「あ、実はわたし、構内で迷子になって、道を聞きたいと思ってここに
伺ったんです。あ、一応は部外者ではありませんよ。農学部じゃないけど、
ここの学生です!」
毬子はそれを聞くとふふふと笑いながら答えた。
「おおかた、いつも使っていない農学部寄りの門から出ようとして
うろうろしていたんでしょ。休みの日は、かなり目立たない出口
以外、どこも施錠されているから。出口まではけっこうあるし、
いいわ、そこの通用口を開けてあげる。そこから出れば、門はすぐよ」
ややこしい事情説明をすべて不用にしてくれた上、理想的な解決策を
提示してくれた毬子が、蜜子にはまるで天使のように見えた。
そうして、手厚い感謝の言葉を伝え、いそいそと農学部側の門に向かった。
ようやく帰宅ができ、従って、想い人である本郷にようやく会える、
という喜びが、蜜子の胸によぎった不安感を、少なくともその瞬間は
覆い隠してしまったのであった。
不幸なことに、蜜子の感じた不安の影は、あまりにも早く実現して
しまった。完全な偶然だったのだが、それは蜜子が城南大学を去って
ほんの数時間しか経っていない頃に起こった。
蜜子の不安は、毬子の研究にあった。毬子が取り組んでいる研究は、
一歩間違えれば重大な社会的影響を招きかねない。そして、そのような
研究が「ショッカー」の目に触れたら、必ずや何か恐ろしい計画を
立案し実行するに違いない。蜜子はそんな不安を、その日の夜には
明確に意識し始めた。だが、それはもう遅かったのである。
夜も更けた時刻、ショッカーの工作員が城南大に忍び込んだ。
この大学の人が最も少ない時間帯を狙い、全般的な情報収集をするのが
目的だった。だが、この工作員が、手近な通用口が開け放されている
ことに気付いたとき、毬子の運命は決してしまった。
1970年代、「環境ホルモン」などという言葉自体がいまだ存在して
いない時期。そんな時代に、高等動物の第二次性徴の発現にこれほど
大きな変化を与える物質とその生理学的影響を詳細に研究している若き
女科学者。ショッカーはそんな毬子に、公のアカデミズムでの彼女の
地位よりもはるかに高い評価を与えていた。
しかしながら、あの通用口があれほど無防備に解放されていなければ、
この工作員はもっと間接的な情報収集のみを済ませ、この場を立ち去る
予定であった。だから、あの開放された扉こそが、毬子の運命を変えて
しまったのである。
その責任は誰にあるのか。通用口を使用した蜜子なのか。それとも、
通用口の施錠を怠った毬子自身なのか。多分、その両方だと言うしかあるまい。
開放された通用口に気付いた工作員は、小型トランシーバーで、
近隣のアジトに連絡し、拉致専門部隊を手配した。程なくして、
普通の大学生や教職員に変装した工作員たちが数箇所の入り口から侵入し、
音もなく毬子のいる研究室の前に集結した。タイミングを合わせ、
一糸乱れぬ連携で研究室に侵入した工作員たちは、何が起きたのかすら
把握していない毬子に麻酔薬を噴霧し、見たところ極めてコンパクトな
スーツケースに彼女を押し込んだ。同じく麻酔を打たれたクジャクと、
手早く整理された各種研究資料もカバンに詰められた。
意識を喪失した自覚すら与えない特殊な薬剤を吹き付けられ、
忘失状態となった守衛の横を抜けた工作員たちは、手配されていた
ワゴンカーに毬子とクジャクを積み込み、彼らの組織の研究施設への
毬子の搬送を開始した。
研究施設の所員たちの対応は素早かった。毬子の研究の応用価値を
熟知していた科学者たちは、毬子の体質をチェックし、到着した
クジャクのサンプルが与えてくれる新技術を、毬子自身の肉体に
適用することで意見が一致した。
すなわち、毬子を、彼女自身が発見した薬剤を合成する能力、
及びその薬剤によって変異したクジャクの特性を組み込まれた、
改造人間の素体へと選抜する、という計画である。これらの薬物の
生理学的影響を十分に知り尽くした彼女を怪人に改造し、作戦の指揮を
委ねるのは、この作戦をもっとも効果的に進める選択であった。 (続く)