いやな気配を感じて、そっと後ろを見たら、アレがいた。わたしは
泣きそうになった。何でわたしなの!?
だが、泣いているひまはなかった。アレがわたしを獲物と認定して
走り出したのが分かったからだ。わたしは、高校時代陸上選手だった足を
信じて、必死で駆け出すしかなかった。
深夜のオフィス街の外れ。住宅地にはやや遠く、飲み屋の類もなく、
立ち並ぶ雑居ビルに人の気配は全くない。こんなことならケチらずに
タクシーを拾うんだった、と後悔したがもう遅かった。
全速で走ったせいか、アレとの距離は少し開いた。このまま目の前の角を
左に曲がると中心部に向かう大通り。右に曲がると入り組んだ路地。
逃げるなら大通り、隠れるなら路地だ。どちらがいいだろう…。
そう思いながら懸命に走っていると、いきなり数十センチ前の道の
まん中に大きな黒い穴が開いた。わたしはとっさに、幅跳び選手のバネを
駆使してジャンプした。そしてそのまま着地し、角を右に折れた。
角を折れたとき、またも黒い穴が、今度は見当違いな場所に開いた。
この穴はアレが開けている、あるいは少なくとも、アレからの情報を受けて
開けられているに違いなかった。角を曲がったわたしの正確な位置を捉えて
いないのだ。
このまま、路地をくねくねと曲がれば多少は目をくらませられよう。
しかし、こちらもいつまでも全速では走れない。他方、相手は人間ならざる
存在だ。体力の限界など関係なくわたしを追いつめる可能性が大きい。
距離を引き離している今の内に、なんとかしなければ。
わたしは複雑な路地を何回か曲がった末、結局、目に付いた公園の
トイレに駆け込んだ。一か八かここで気配を殺し、アレをやり過ごすのだ。
アレはたしか「アントロイド」と呼ばれていた。真っ黒なのっぺらぼうの
怪人で、捕まると蜂女にされてしまう。冗談のように聞こえるかもしれないが、
現についこの間、親友が蜂女に改造されてしまっていたのをわたしは
目の当たりにした。親友は長年付き合っていたご自慢の彼氏を何のためらいもなく
殺し、アントロイドと共にどこかへ消えてしまったのだった。
知り合いに警察や政治家はいないし、歌手だモデルだという有名人でも
ない。わたしがアレに追われているのは、親友と同じ、たまたまアレに
見つかったから、そして多分、やはり親友と同じく、アレの獲物に
認定される程度には容姿が整っていたからだ。うれしくも何ともないが。
だから、ひどい話ではあるが、ここで息を殺しているうち、別の美人が
通りかかる可能性もないではないわけだ。アレがそっちを連れ去って
くれれば、少なくともこの場は逃れられる。それに美人が来ないとしても、
アレだってひまではないだろう。いずれあきらめて別の場所に狩りに
向かうのではないか?そんな見込みがわたしにはあった。
アレがわたしの行方を突き止めている様子はなかった。もしも
突き止めているなら、とっくにわたしは捕まっているはずだからだ。
そうして、なおも息を殺して外の様子を伺っていると、
ぺたん、ぺたんという特有の足音が近づいてきた。全身の毛が
逆立つのをこらえられなかった。しかし、今ここをやり過ごせれば、無事に
逃げおおせるかもしれないチャンスでもあった。同じところを二度調べは
しないだろう。だから、足音が聞こえなくなってしばらくしてから
飛び出し、今度こそ大通りへ逃げればいいのだ。
だが、運命というものはやはりあるのか…いや、正直に認めれば、
単純にわたしの不注意なのだが、わたしはアレに発見されてしまった。
アントロイドがまさにトイレの真横を通過したとき、携帯が鳴り響いた
のだ。しかも、よりにもよって、彼氏からのメロディだ。
わたしがうろたえている内、早くもアレは行動を開始していた。
わたしのいる個室の扉の上部から、軟体状の体がずるり、ずるりと
入り込んで来たのだ。
わななきながらそれを見つめるしかなかったわたしは、なおも
鳴り続ける携帯の受話ボタンを押し、震える手で携帯を耳に当てて言った。
「…もしもし、わたし。あのね、わたし、これから蜂女にされちゃう」
自分のことばのあまりの非現実ぶりに、感情がついて来なかった。
奇妙に冷静な言葉がわたしの口をついて出た。
「…だから、もうじきあなたを殺しちゃうかもしれない。ごめんね」
口にしたとたん、親友が彼氏を惨殺するシーンが頭をよぎり、
急速に、自分の言葉が、他でもない現実の自分の運命なのだという自覚が
心になだれ込んだ。涙がどっとあふれ、言葉がのどに詰まり始めた。
「…ひっく…ごめん…ごめんね………さよなら………」
それ以上何も言えなくなったとき、アントロイドがぺちゃりと床に
着地し、わたしに襲いかかった。たまらず上げた悲鳴は、彼氏に
届いただろうか…。
この怪物は普段は人のような格好をしているものの、本来はアメーバ
みたいな形のない存在らしい。アントロイドに抱きつかれたと思った
直後、わたしは自分がゼリー状のカプセルに閉じこめられた状態に
なったことに気づいた。口と鼻の部分に空気穴が開いているだけで、
他はすっぽり、人体よりもやや熱いゼリー状の軟体に包まれ、身動きが
できなくなっていた。
アントロイドは、そうしてわたしを捉えたまま移動を開始した。
個室のカギを開け、トイレを出て、トイレの前に開いたあの黒い穴に
飛び込んだ。そして蜂女たちの本拠地に続くであろう、長い長い
地下通路の旅が始まった。
移動中、アントロイドが行ったのは、わたしの衣服を脱がすことだった。
それはまるで魔法のような手際で進められた。
軟体の一部が微妙に硬化し、複雑な動きが胸の前の方でなされた。
直後に、わたしのジャケットとブラウスのボタンがすべて外されていた。
透明な「指」がすべてのボタンを一斉に外したのだった。
透明なゼリーの中で、ジャケットとブラウスがずりずりと移動し、
腕が抜かれ、背後で折りたたまれた。いつのまにかスカートのホックも
外されており、スカートとパンティストッキングもまた下ろされ、足下で
たたまれていた。
残った下着も脱がされるのはあっという間だった。ブラのホックは
とうの昔に外されており、腕を抜かれ、自分の胸の前で折りたたまれて
いるのをわたしは肌で感じた。そして、人間の指では不可能な仕方で、
パンティのゴムが均等に押し広げられ、なめらかに下ろされた。
最終的にわたしは、全裸の状態で、なま温かい、いや、やや熱い感じの、
ゼリー状の軟体生物に包み込まれている自分に気が付いた。
――なんだろう?何だか、なつかしい…
魔法のように服を脱がされ、熱い軟体に覆われたわたしは、不思議な
なつかしさを感じた。忘れていた記憶。…「あなた」。今の彼氏と
付き合う前の……あなた!
忘れてしまったことすらほとんど忘れていた懐かしい記憶が怒濤のごとく
蘇り、わたしは軽く狼狽した。そして自分を包んでいるものに呼びかけたく
なる気持ちを抑えきれなかった。
――わたしよ!あなた!わたしはここにいるのよ!…
そんな興奮に包まれたまま、わたしは薄暗い大広間に到着した。
広間には無数の手術台のようなものが並び、その上には同じように
無理やりさらわれてきた美女たちが拘束されていた。
わたし同様、さらわれてきた直後の女性がとる反応は様々だった。
恐怖の悲鳴を上げる者、絶望に満ちた無表情な顔を中空に向ける者、
勝ち気な抵抗の声を上げる者、気が触れたように笑い続ける者、等々。
…だが、もっと多くいる、様々な程度に蜂女化しつつあるそれ以外の
女性は、ほぼ例外なく同じ反応をとっていた。つまり、みな一様に、
大事な部分にノズルのような器具を挿入され、快楽の声を上げているのだった。
わたしは「改造」の仕組みを知らされ、全身の血が逆流するような思いを
感じていた。
わたしもまた、アントロイドに囚われたまま、空いているるベッドに
運ばれた。アントロイド、いや懐かしいあなたとの接触もそこまで
だった。アントロイドはどこかに去り、後にはベッドに拘束された
わたしと、ベッドの横にきれいに畳まれた衣服が残された。数十分後には
何事もなかったかのようにこれを来て町に戻るというのが多くの蜂女たちの
パターンだった。
「あなた」との別れはとても名残惜しかったが、耐え難いという
ほどではなかった。別れがあれば、出会いもある――そんな言葉が
今のわたしの頭をめぐっていた。
やがて、足下の方角から、あのノズルを手にした見慣れた顔の
蜂女が歩いてきた。わたしは思わず声を上げた。
「……梨香子!」
親友の顔をした蜂女は、それを聞いておきまりのセリフを口にする。
「梨香子?それは昔の名前よ。今のわたしは…」
言われるまでもなく、目の前の生き物はわたしの知っている梨香子では
まったくなかった。なめし革のような濃いブルーの皮膚。ブーツのような
足はしかし素肌で、よく見れば顔の皮膚もまったく同じ材質に変わっている。
黄色と黒の縞模様に彩られ、絶えずごよごよと動いている乳房。毛一筋ない
恥丘の下の、割れ目から覗く粘膜もまた、常時うねうねと蠢動している。
そして、そんな、卑猥としか言いようのない肉体を誇らしげに見せつけて
立つ姿と、異様な触角の下のその表情に、人間らしい感情はまったく
感じられなかった。
親友の変貌を悲しむ気持ちと、自分の近い将来の運命を改めて
突きつけられ、わたしの心はぐちゃぐちゃにかき乱された。
だが、わたしの中には、そんな、いわば当たり前の女の子らしい
気持ちとは全く別の、異常としか言いようのない欲望もまた膨れあがって
いたのだった。
わたしはその欲望をどうにかして目の前の生き物に伝えようとした。
「ねえ梨香子…いえ、メルダンフェルの改造人間・蜂女さん。
お願いがあるの。ねえ、そのノズルでわたしも改造されるんでしょ?
わたしもそんな化け物になっちゃうんでしょ?」
いけない。梨香子の顔をしているせいで、ついぞんざいな言葉が
出てしまう。ここは機嫌を損ねてはいけないところなのに。
特に表情を変えない蜂女に、わたしは続ける。
「ごめん。化け物でいいの。あきらめた。そんないやらしい体にされて、
それを喜んで人前にさらして、家族を殺したり、彼氏を殺したり、
…そんなのいやだけど、仕方ないんだよね。あきらめたよ」
どうも、言わなくともいいことばかり言ってしまう。
幸い、蜂女は相変わらず無言で話を聞いている。今の内、
言わなくてはならないことを早く言わないといけない。
「あきらめた。抵抗はしない。抵抗しても無駄だってことはよく知ってる。
だからお願い、そのノズル、わたしに貸して!自分でやりたいの!」
蜂女の無表情な顔に、ほんの少し狼狽の色が表れたような気がした。
わたしは続けた。
「記憶は残ってるのよね。じゃあ覚えてるよね。高校のときの誓い。
一生彼氏は作らない。男なんて下らない。あたしらには中指がある!って」
蜂女の顔がほんの少し赤らんだのは気のせいか。
「アントロイドに包まれて、わたしはあの頃の気持ちを取り戻したの。
アントロイドの顔のない顔、魔法のような指、ちょっと熱い肉体。あれは
あの頃のわたしの「お相手」そのものだわ。彼氏ができてから、
彼氏に申し訳ない気がしてずっとオナニーは封印していたけど、やっぱり
忘れることなんてできない。セックスなんて、下らないわ!やっぱり快楽は
自家発電じゃなきゃ!
ねえ梨香子。いいでしょ。もうじきわたしは人間じゃなくなる。その
最後のちょっとした時間を、自分の欲望のために使いたいの!
メルダンフェルさんに迷惑なんてかけない。改造が終わったら
誰よりも立派に働くわ。だから、お願い!」
拘束が外れ、わたしは自由になった。梨香子は無言で改造ノズルを
手渡してきた。
「ありがとう!」
わたしの感謝は心からのものだったが、願いが叶うだろうという
見通しはあった。
メルダンフェルからすれば、ひ弱な人間の拘束を解いたところで
基地に危険など起きるはずがないことはよく分かっているはずだ。
そして、ひ弱な人間には、結局どうころんでもノズルをあそこに
挿入する以外のことはしようがないのだ。そして、どんな企みを
内心で抱いていようと、ノズルを挿してしまえば、忠実な
メルダンフェルのしもべになるしかない仕組みなのである。
わたしはいそいそとノズルを手にし、それを胸にあてがい、右手の
指をあそこに当てた。いきなりなんてもったいなかった。最高に
気持ちを盛り上げ、あの誰でもない、顔のない「あなた」に
最上の奉仕をさせる。そんなシナリオに沿ってわたしは刺激を続けた。
ぐしゃぐしゃになったあそこにいよいよノズルをあてがい、一気に
挿入した。
凄かった。想像を絶する快楽の波が押し寄せた。でも、押し流されて
自分がどこにもいなくなるのはもったいなかった。この快楽を
徹底的に味わい尽くす前に人間ではなくなるなんて、そんなつまらない
ことはない。そう思った。
そうやってわたしは、科学の粋を凝らしているに違いない、
超贅沢な電動こけしで、貪欲に快楽をむさぼり続けた…。
改造が完了し、一匹の新しく生まれた蜂女が手術台の上に横たわって
いた。蜂女はメルダンフェルに忠誠を誓い、かつての親友と共に
メルダンフェルの世界征服計画を忠実にこなしていった。
親を殺し、彼氏を殺し、上司を殺し、いたいけな子供やかよわい老人の
命を容赦なく奪った。美しい幼女や少女や熟女に容赦なく改造ノズルの
洗礼を浴びせた。
…ただ、どうもわたしは少し変な存在のようだった。いつになっても、
触角による交信がうまくできないのがその一つの証拠だった。
どうも、他の蜂女たちはメルダンフェルという大きな生き物の一部
らしいのだが、わたしはちょっと違っているようなのだ。わたしの場合、
いつになってもわたしの主人はわたしであって、わたしの欲望の赴く先が
たまたまメルダンフェルの利益に一致しているだけなのだ。
察するに、改造の際のアレが後を引いているようだ。 他の蜂女以上に
活発に働いているから目こぼしされいるようだが、いずれ人類征服が
一段落すれば消されてしまうかもしれないな、と思っている。
――まあ、なんでもいいや。なるようになるだろう。
そんなことを思いながら、わたしは特上の快感を味わいつつ、
うねうねと動くあそこから、甘い蜜を吸い上げた。
(了)