その晩、トキオは複雑な計算に没頭していた。小型計算機に数値を打ち込み
ながら、込み入ったステップを一歩一歩進む。その数式はトキオが取り組んで
いる研究に必要なものだったが、今のトキオを駆り立てているのは学問的関心
ではなかった。その昔パスカルが歯痛を忘れるために数学の問題に取り組んだ
のにならい、昨日起きた辛い事件をせめてひとときでも忘れていたいと、
半ば無理やりに方程式を解いていたのだった。
沢井トキオは高校三年生。両親を早くに亡くし、いまは政府の奨学金で
一人暮らしをしている。優秀な学生で、アマチュア理論物理学者としてまとめた
論文がさる大学教授の目にとまり、来年から飛び級で大学院へ進学することが
決まっている。
突然、ドアのブザーが鳴る。トキオは首をかしげる。時刻はもう真夜中で、
最終のチューブカーもとっくに終わっている。いったいこんな時間に誰が?
そう思っているうち、インターフォンから声が響いた。
「こんばんは。わたしよ」
トキオの頭をまさかという思いが駆けめぐる。インターフォンの声は続く。
「わたし、ミリカよ。ここを開けて」
トキオは驚きながらインターフォンに向かって話す。
「ミリカ?どうして…」
「わけがあって詳しくは話せない。でもわたしなの。幽霊でもないわ」
本人であることは間違いがない。トキオはドアのスイッチを操作し、自動ドアを
開けた。立っていたのはやはり碓井ミリカだった。
トキオはミリカを招き入れながらも、今ここにミリカがいるという事実がまだ
信じられなかった。
ミリカは昨日、母親である碓井博士と共に自宅で焼死したはずなのである。家庭用
原子力温水器の暴走による、不幸な事故だった。たしかに、今のところ「死亡」ではなく
「行方不明」という扱いであったが、それは死体が著しく損壊し検証に時間がかかる
からであって、生存の見込みがあるようなものではないとされていたはずだった。
「…ひょっとして、事故のときには家にいなかったのかい?…でも、だとしても、
なんで今まで姿を見せなかったの?…」
「お願い!詳しいことは言えないの。今日はお別れに来たの。わたしは死ぬわけでは
ないけれど、でも、あなたとはこれきり。もう一生会えなくなる」
トキオの疑問はさらにふくれあがる。だが、何か問いかけようとしたトキオを
制するように、ミリカは続けた。
「何も聞かない。そして今夜のことは誰にも言わないと約束して。それに時間は
あんまりないわ。その時間をつまらない詮索で浪費しないで!その代わり、一生残る
思い出をちょうだい!」
そう言って手を握ってきたミリカに、トキオはもう何も質問できなかった。
「まあそこに座って。何か飲む?」
「じゃあ、ココアがあれば」
コートを脱ぎ、ベッドに腰掛けながらミリカが答える。トキオは流しの戸棚から
錠剤を二つ取り出し、カップに入れて温水器からお湯を注ぐ。ぶくぶくという音を
たてて上質のココアができあがる。
トキオの部屋はしごく質素な部屋だ。8畳ほどの部屋にバスルーム、トイレ、流し。
家具は全自動調理器、食器棚、食事用の小さなテーブル、勉強机、衣類や小物を納める
戸棚。全自動調理器と乾燥食料が広まると共に冷蔵庫は置かないトキオのような人も
増えている。他にあるのは旧式の立体テレビと、もう年代物と言っていい、音声しか再生
できないレコードプレイヤー、あとはファイルを十冊ほど納めた本棚。それで全部である。
若き科学者の部屋にしては本が少ないように見えるが、ファイルの中には超高密度の
マイクロフィルムが大量に納められている。これだけの分量だと、二十年前の小さな町の
図書館ぐらいの情報が詰まっていてもおかしくないのだ。
二人は長い間黙ったままココアを飲むだけだった。
トキオは椅子に座りながら、ベッドに座っているミリカに、何の話をすべきか考え
あぐねていた。口を開けば質問めいたことしか出てこなそうだったし、それ以外の世間話
などそらぞらしい気がした。母親の死の話ですら、なんとなく口にしかねた。
「最初に会ったのは入学式の日だから、会ってから三年近くなるんだね。長いのかな、
短いのかな?」
トキオはとりあえず話しかけてみた。
二人の交際が始まったのは出会って間もなくだった。いわゆる「清い仲」で、
いっしょに昼ご飯を食べたり、放課後図書館に行ったり、休日に買い物や立体映画に
行ったりと、そんな感じだった。半月ほど前、公園で初めてキスをしたのが、男女として
最も接近した瞬間だった。彼女がトキオの部屋に上がるのも、実はこれが初めてなのだ。
1980年代の現在、アメリカあたりでは男女関係もだいぶ開放的になっているが、日本の、
それも進学校の生徒としては、それは標準的な関係であるといえた。
ミリカは黙ったまま立ち上がり、椅子に座っているトキオに近づいた。そしていきなり
トキオの唇に自分の唇を重ねた。一瞬驚いたトキオはそれでもミリカを優しく抱きしめ、
そうしてしばらくの間二人は抱き合っていた。
長いキスのあと、ミリカは耳元でささやいた。
「ねえトキオ。…抱いて!」
トキオはぎくりとした。それから、たった今していたように、ミリカをぎゅっと
抱きしめた。ミリカは少し怒りながら言う。
「そういう意味じゃないわ。分かっているでしょ?女の子にあまり恥ずかしいことを
言わせないで!」
トキオは腹をくくり、部屋の電気を落としに行こうとした。しかし、ミリカはそれを
制止して言った。
「お願い。電気はこのままにして欲しいの。そして…わたしの姿をあなたの目に強く
焼き付けて欲しい。いつまでもいつまでも、消えないように」
そう言いながらミリカはセーターを脱ぎ、ブラウスのチャックを下ろした(この時代、
ボタンはすたれ、洋服の留め具はほとんどチャックに変わっていた)。そうしてブラウス
を脱ぎ捨て、次にスカート、ブラジャー、パンティ、最後にソックスの順に、手際よく
衣類を脱ぎ捨てていった。
初めて見るミリカの形のよい乳房や、きゅっとした腰のくびれ、そしてつややかな茂み
などに目を奪われかけていたトキオは、目の前の少女にあまり長い間恥をかかせては
いけない、と気づき、慌てて自分も服を脱ぎ始めた。
やがて互いに一糸まとわぬ姿になった二人は再び抱き合い、先ほどよりも激しいキスを
交わした。やがてそのままベッドの上に倒れ込み、そしてミリカの言う「思い出」を
二人で作り始めた。
行為の途上、トキオが戸棚を指さし、ミリカに問いかける。ミリカは首を振り、言う。
「避妊なんてしないで。大丈夫。わたしが妊娠することは絶対にないの。絶対に!」
「絶対」という言葉を口にしたミリカの声には、とても悲しそうな調子が籠もって
いた。高い教育を受けた二人は、「絶対安全」などありえないとよく知っていたので、
ミリカの言葉には何か特別の意味があるはずだった。トキオは、ミリカの身に起きつつ
ある不吉な陰をそこに感じたが、その正体はわからないまま行為を続けるしかなかった。
長い陶酔の時間が過ぎ、ミリカはトキオの胸にすがりながら何かをじっと考えていた。
そしてトキオに言った。
「ねえ、のどが渇いちゃった。レモネードとかあるかな」
「食器棚に入っているよ。作ろうか?」
「いえ。わたしが作る。お手洗いにも行きたくなったしね」
そう言ってミリカはトイレに入り、それから戸棚のレモネードの錠剤を二錠
コップに入れ、続いて冷水器の水を注いだ。そうしてベッドの上のトキオにレモネードを
差し出し、二人で飲んだ。
濃密な情事の余韻が消えやらぬトキオは、やはりどうしてもという思いをミリカに
ぶつけた。
「…ねえ。やっぱり聞かずにいられない。さっき言っていた、これでお別れ…って…い…
う……の………は…………」
みなまで言い終わらずにトキオは眠り始めた。ミリカがレモネードに睡眠薬を入れた
のだった。
ミリカはトキオに毛布をかぶせ、その寝顔を愛おしそうに眺めながらそっと言った。
「トキオ、ありがとう。…さよなら」
その言葉を言い終えるとミリカは手早く衣類を身につけ、外に出て、公衆電話でタクシー
を呼び出した。すぐにTAXIと書かれたエアカーが到着し、ミリカを乗せて走り出した。
ミリカはタクシー会社を変えながら三度タクシーを乗り換えた。トキオにも、「研究所」
の人間にも、足取りをつかまれまいとする、せめてもの工夫だった。最後にミリカは
公衆電話から「研究所」へ電話をかけ、迎えに来た「研究所」の黒いエアカーに
乗り込んだ。もう夜が明けかかっていた。
「研究所」で待っていたのはマトベエワと名のる中年の科学者だった。日本語の達者な
ロシア系らしい怪人物である。
マトベエワはミリカを部屋に入れ、目の前の椅子にかけさせると、直ちに尋問めいた
質問をミリカに浴びせた。
「『思い出』は作れたかね?母上のご厚意に感謝するんだな。それから、マスコミやら
警察やらに余計な話はしていないだろうね。母上は依然『人質』だ。君が余計な話を
したことが今後発覚したら、その時点で我々は君の母上の命を奪う。その約束を
忘れてはいないね?」
事務的で冷酷な質問に、ミリカが毅然とした態度で答える。
「大丈夫よ!ある友達に、わたしが生きていることは知られた。だけど、余計な話は
何もしていない。嘘発見器を使ってくれてもいいわ」
「ふむ。約束の範囲内だね。いいだろう。でも、念のため確かめさせてもらうよ」
マトベエワが取り出してきたのは嘘発見器ではなく、見慣れない装置だった。
「『脳地図分析機』の試作品だ。このヘルメットをかぶり、そこに横になりたまえ。
これで、過去数時間分の君の記憶を再生できる」
ミリカは唖然とした。まさかそんなものがあるとは予想していなかった。たしかに
理論上は可能だが、実用までにはまだ何十年もかかると言われている装置だ。いったい、
この「研究所」はどんな組織なのだろうか?
ミリカはできれば脳地図分析機などにかけられたくはなかった。たしかに約束を破って
はいない。しかし、トキオの顔を知られてしまうし、何よりトキオとのあの「思い出」の
一部始終を第三者に見られてしまうことになる。
だがミリカに抗弁する権利はないのだった。そもそもこの「思い出作り」自体が異例の
措置なのだ。女手一つでミリカを育てた、「オープンな」思想のをもつミリカの母・碓井博士
が、ミリカが手術を受ける前に、ミリカに女としての喜びを経験させたい、最後の思い出を
作ってやりたい、と上層部を説得し、実現した特別の配慮なのである。ミリカが余計な
ことをすると、母の身に危険が及ぶのだ。
ミリカは黙ってヘルメットをかぶり、一言だけ訴えた。
「お願いします。友達の顔や名前がわかっても、彼には何もしないで下さい。彼は
『行方不明』中のわたしに出会った。そしてわたしは再びいなくなった。それだけの
ことです。彼から何か秘密が漏れる心配はありません」
マトベエワは殊勝な声で返答する。
「いいだろう。もしそれだけのことなら、我々とて不必要な暴力や殺人はしたくない。
約束するよ」
ミリカとしてはその言葉を信じるしかなかった。そしてベッドに横たわり、装置に
身をゆだねた。
解析が始まり、映像が復元される。映像を見ながらマトベエワがデリカシーのない
言葉を発する。
「ほう。なかなかいい『思い出』が作れたみたいだね」
こういった態度はこの男の常なのだが、それは悪意や猥褻な意図というより、対人的な
感受性の麻痺に由来しているらしい、ということにミリカは気づいていた。学問ばかり
やりすぎてそういう感受性が麻痺してしまっているようなのだ。母親の同僚にも似た
タイプの人物は少なからずいた。
「相手の男もなかなかテクニシャンじゃないか。最近の若いやつらは、情報だけは豊富だ
からな」
ミリカは顔から火が出そうだった。と同時に、ふとトキオの本棚が思い浮かんだ。
きっと、あの中には学術文献以外のマイクロフィルムも入っていたに違いないわ、
とミリカは気づいた。
やがてマトベエワは装置を停止させ、ヘルメットを回収しながら言った。
「これで記録はとれた。もう少し詳しい解析は必要だろうが、ざっと見たところ余計な
ことを話していない、という言葉に嘘はなさそうだ。安心したよ」
陵辱されたような気分でマトベエワをにらみつけるミリカに、マトベエワは続けて言った。
「では早速手術を始めるとしよう。手術室に向かいたまえ。言い忘れたが、母上の手術は
先ほど無事に成功したよ」
こともなげに言うマトベエワの言葉は、ミリカに、自分がそもそもなぜここにいるのかを
思い出させた。猶予の時間は終わった。もう自分は「手術」を受けねばならない。
しかも、母はもう「手術」を受けてしまったというのだ。
ミリカは青ざめながら立ち上がり、マトベエワの後について部屋を出た。
手術室に入ってミリカの目にまずとまったのは、台に置かれたロボットか人形のような
ものだった。それが自分が受けるという「手術」に関係するものなのかどうか、ミリカに
は判断がつかなかった。そもそも、非常に一般的な説明以外、詳しいことはほとんど
聞かされていなかったのだ。
マトベエワがミリカに言った。
「見たまえ。さっき話したとおり、母上の手術は無事成功した。母上はこれから
宇宙開発用サイボーグとして我々の計画のために働いてもらうことになる」
ミリカは耳を疑った。そして目の前に横たわっているものを改めてじっくりと見つめた。
そして、確かにその顔が、自分の母親のそれと重なることを認めねばならなかった。
サイボーグとなったミリカの母は、銀色の人形のような髪を生やし、白目のない
真っ黒な目を見開いていた。口と鼻はただの飾りで、開くことはできなさそうだ。
全身の皮膚は銀色に近い半透明の樹脂で覆われていた。ふくよかな乳房の形は以前の
ままだったが、乳首は細かなで凹凸のない、つるりとした突起に変わっている。体毛は
まったくなく、女性の大事な部分には幼女のようなスリットが一筋走っていた。
その下に開口部があるのか、口や鼻のようなただの飾りなのかは、見ただけでは何とも
言えない。腰にはベルトのようなものが巻かれ、それはベルトというよりもサイボーグと
しての体の一部なのだろうとミリカは思った。
目を見開いたままぴくりともしない母に、ミリカは思わず声をかけた。
「お母さん?」
黙ったままの母を見て、マトベエワが言う。
「まだ麻酔で眠っているようだ。目は閉じない作りになっていてね」
まるで母を人形か何かのように言う男に、ミリカは寒々しいものを感じた。
そのとき、手術台の上のサイボーグの手がかすかに動いた。そしてかすかな声が漏れた。
「う…ううん。…ここは?」
母親の声に変わりなかったが、その声は口ではなくベルトの部分から出ているようだった。
ミリカは母がもうふつうの人間ではなくなってしまったという事実を改めて思い知らされた。
マトベエワが声をかける。
「おめでとう碓井博士。あなたの手術は成功しました。目は見えますか?」
きょろきょろとしていたミリカの母の目は、天井の手術灯の鏡面に釘付けになった。
そこに映った自分の姿を認めたらしかった。
ミリカの母は上半身を起こし、自分の体を見下ろし、両手で顔を撫で回した。
「ああ…手術を、手術を…わたしはもう受けてしまったんですね!わたしは…わたしは…
…もう…」
その声はひどく狼狽していた。眠っている内に手術の時間になり、そのまま麻酔を
受けて手術されたのかもしれなかった。
母親は娘に気づき、もう一度自分の体を見下ろし、申し訳なさそうに娘に話しかけた。
「ああ、ミリカ。ごめんなさいね、お母さんを許して…」
自分の変わり果てた肉体が、すぐ先の自分の娘の運命でもあることを、母は改めて
自覚したようだった。
そのとき、マトベエワが、部屋の奥にいた技術者のような男と目配せをして、思いも
かけない話をし始めた。
「ところで碓井博士。残念な話をしなければならないんだが、あなたの娘さんは我々の
秘密をマスコミにぺらぺらと触れ回ってしまったんだな。対策は取らせてもらった。
余計な人死にが出そうだが、何とかなりそうだ。だが、どうあれ責任は取ってもらわねば
ならない。事前の申し合わせでは、あなたの命を奪うということだったんだが、我々と
しては優秀な科学者でもあり、無事完成したサイボーグでもあるあなたを失いたくは
ない。それで、あなたの娘さんを処刑することで、関係者のみなさんへの見せしめに
しようと、そういうことに決まったんだ」
まったく事実に反する話をマトベエワは始めた。ミリカは驚いたが、母親はそれ以上に
狼狽し、ほとんど泣き叫ぶように訴えた。
「なんですって!?お願い!やめて下さい!おねが…」
そのとき、部屋の奥でかちんという音がした。するとミリカの母は急に話すのを
やめた。そして今までとはうってかわった、何の感情もない声で言った。
「…取り乱してすみません。そうですか。ではそのように対応して下さい。計画の
ためには、仕方がありませんね」
そうして、まるでロボットのように動きを止めた。その姿はまさに「次の命令を待つ
ロボット」そのものだった。
マトベエワが言う。
「ふむ。情緒コントロールは良好だ。…碓井博士、いやサイボーグ第15号。申し訳ない。
ちょっとテストさせてもらったよ。今のは嘘だ。娘さんは約束を守り、これから手術を
受けるところだ」
母親はたいして関心のなさそうな声で返事をする。
「そうだったのですか。サイボーグの数が無駄に減らずに済むのは、好ましいことです」
そうしてまた不動の姿勢を続けていた母親は、不意に立ち上がると、用意されていた銀色の
ビキニのような衣類をつけ、それからどこかへ行ってしまった。マトベエワが説明する。
「電波で命令が来たんだろう。出発の準備で色々忙しいからね。早速働いて
もらわないといけない」
それからミリカに向き直って言った。
「さあ、手術台は空いた。お次は君の番だ。服を脱いでここに横になりなさい」
これから自分に何をされるのか。その一部始終を見せられたミリカには、簡単に
「はい」とはとても言えなかった。ためらっているミリカにマトベエワが続ける。
「抵抗するなら強制的にやらせてもらうが、君も無駄な暴力は受けたくないだろう?」
ただの脅しではないだろう。ミリカは観念して、震えながら服を脱ぎ始めた。
ほんの数時間前、同じように服を脱いだときも、自分はやはりかすかに震えていた。
あのときもやはり未知への不安はあった。しかしあのときの不安と今の不安は天と地の
違いだ。今の自分に待ち受けるのは恐ろしい運命と絶望だけ。何の救いもない。
服を脱ぎ終えたミリカは手で胸と茂みを隠しながら手術台に横たわった。
マトベエワがそれを見て言った。
「手をどけたまえ。麻酔をかける前に、まずは剃毛をしないといけない」
そう言いながらバリカンとカミソリ、それに剃毛用の石けんをマトベエワは
準備していた。
頭髪が落とされ、丁寧にそり上げられると、次に局部の剃毛が始まる。無造作な指が
秘所に触れるたび、大事な思い出が汚されたような思いで、ミリカの心にはやり場の
ない怒りが生まれる。
やがて全身つるつるになったミリカに笑気ガスが当てられる。急速に遠ざかる意識の
中、早くもお腹にメスが当てられたことを感じつつ、ミリカは思う――次に目が覚める
ときは、わたしはもうサイボーグにされちゃっているんだ。さようなら、わたしの体…
幸か不幸か、ミリカの予想は外れた。体質のせいであろうか、ミリカは手術の途中で
二度ほど目を覚ましたのである。
一度目に目を覚ましたとき、天井の手術灯の鏡面の中にミリカが見たのは、空っぽに
された自分の胴体だった。ミリカは不自由な喉からくぐもった悲鳴を上げた。胸部と
腹部との皮膚が切り裂かれ、だらんと外側に広げられている。そして肋骨の中にある
はずの肺も、胃や腸やその他の臓器も、ほとんど除去されているのが見えた。
悲鳴に気づいたマトベエワが話してきた。
「おや、麻酔の効きが弱かったのかな。大丈夫。生命維持装置はちゃんと働いているよ。
内臓の切除で生体部分が影響を受けることはない。内部の清浄と表面加工が終われば、
空いた部分にコンパクトな生命維持装置を収納する。原子力電池さえ補充すれば半永久的に
活動が可能な高性能の装置だ。骨格の強化が終われば骨格を装置の動力に接続する。
強力な力を発揮できるだろう。そして、多少の微量栄養素の補充以外、呼吸も食事も
不要になる…」
再投与された麻酔によって再び遠ざかる意識の中、ミリカの絶望は深まった。
――つまり、わたしはもう二度と食べたり飲んだりする楽しみを味わえない体に
なってしまう。そういうことなんだ。あのレモネード、おいしかったな…
二度目に目を覚ましたとき、やはりミリカは悲鳴を上げた。表皮を除去され、筋繊維が
むき出しにされた自分の顔がいきなり目に入ってきたからだった。しかも、その悲鳴は
口からではなく腰に巻かれたベルトのスピーカーから発せられた。すでに、声帯や舌の
神経が、音声合成装置につなぎ変えられていたのだった。
悲鳴を聞いたマトベエワが、手術を続けながら、また説明を始める。
「おや、また目が覚めたのかい。現在、全身の表皮に特殊シートを接着中だ。各種宇宙線を
遮蔽し、通電により放熱と冷却が自在にできる、いわば超薄型の宇宙服というべき優れた
素材だ。これに保護された君の体は、真空の宇宙空間や絶対零度近い惑星表面など、
どんな過酷な環境でも裸に近い姿で活動できるようになる」
たしかにすごい技術だと思ったが、ミリカは別にうれしくもなかった。それはつまり、
そんな「過酷な」環境で自分が労働に従事させられる、と予告しているようなもの
だったからだ。
「顔については、心配しなくともいい。頭部には特に色々と処理が必要でね。
でも最終的には君のもともとの美しい顔を復元できるはずだ」
どうせなら、とびきりの美人に整形してくれればいいのに、と言いかけたミリカは、
その言葉を飲み込んだ。ここまで何もかも変えられてしまって、その上別人の顔にされて
しまったら、もう自分が何者なのか、永久に分からなくなってしまうに違いなかったから
だった。そんなことを考えながら、ミリカはまた眠りについた。
三度目に目覚めたとき、以前のような慌ただしいスタッフの行き来や、やかましい
機械の音はもう止んでいた。それで、手術は終わったらしいと直感された。
ちょうど、視神経が新しい機械の目に適合し始めたところらしく、ぼんやりしていた
視界が急速に鮮明になるのが実感できた。意識も急速に回復し、自分がどこにいて、
何をされているのかをミリカはすぐに思い出した。
手術灯の鏡面に映っているミリカは、すっかり完成されたサイボーグだった。今さら
特別の衝撃も絶望も湧いては来ず、ただ、鈍い喪失感だけが心に広がった。
そのときミリカは、これがまだ最終段階ではないことを思い出した。母と同じく、
このあと自分の脳には「情緒コントロール」が施されるはずだ。それによってサイボーグ
としての自分は完成するのだった。人間の肉体をベースに作られた命令に忠実なロボット、
というのが母やミリカの最終的な完成形態なのだ。
ロボット工学をかじっていたミリカは、現在の技術力の中でサイボーグという存在が
いかに効率のよい道具であるかをよく理解していた。汎用ロボットや汎用コンピュータの
開発は1980年代に入っても遅々として進んでいない。ロボットの「手足」を構成する
専門に特化した機械の開発は飛躍的に進んだが、中枢となるコンピュータやそれを
統一するコンパクトなシステムはまだ存在しない。サイボーグは、いわば天然の
汎用コンピュータを備えた汎用ロボットである人体をベースに、特殊な機能だけを
強化することで、余分な研究開発費を大幅に節約できる、すぐれた発明品と言えるのだ。
ミリカにとって悲しく、また苛立たしいのは、他でもない自分がその発明品、道具に
作りかえられてしまったということだった。このまま情緒コントロールによって、何を
するためかも分からない計画の駒として使役される、という自分の運命は、暗澹たる
ものと言うしかなかった。どうにかして、どうにかして、情緒コントロールに抵抗
できないものだろうか。例えば、命令に忠実なロボットのふりを続け、そうやって
油断させておいて…
ミリカがそこまで考えを進めたとき、ふいにマトベエワがブラウン管を横目で見ながら
話しかけてきた。
「ふふふ、なかなか聡明なお嬢さんだ。しかも情緒コントロールに抵抗か。面白い。
君は母親に負けず劣らず勝ち気な女性のようだね…」
ミリカはぞっとした。この男はあの画面からわたしの思考をすべて読みとっている
らしい。つまり母親に電波で命令できるのとちょうど反対に、サイボーグの思考を
遠隔で読み取ることもできるのだろう。これでは相手を欺くことなどできない。
あたかも会話しているように、ミリカの心の中の思考にマトベエワが答える。
「その通りだよ。この画面に全部表示されているよ。ついでにもう一つ、面白いことを
教えてあげよう。君の『思い出作り』だがね、あれが母上の意向であることは事実だが、
実を言うとそれはまた、我々の望むところでもあったのだよ」
何?どういうこと?そんなミリカの思考にマトベエワは答える。
「情緒コントロールと言っても、若年者向けと成年向けでは若干やり方が違うのだ。
若年者の場合、情緒の全面的な抑制だけで制御には十分なのだが、成年の場合それでは
足りない場合がある。ところがうまくできたもので、成年の場合、性的快楽をうまく
制御してやることで不足を補うことができるのだ。君の場合、どうやら情緒の抑制
だけでは不十分らしいと思われていたのだが、母上の主義の割に、君自身はオクテだった
ようだからね。『思い出作り』は君の脳に必要な制御スイッチを組み込むための、
格好の機会だったわけだ」
ミリカの心を強烈な無力感が覆う。ミリカをロボットとして操るための仕組みを当の
ミリカ自身にこうまで自信たっぷりに語るというのは、その制御システムがそれだけ
強力だということを裏書きしている。そして実際、そんなものを自在に操作されたら、
自分をいつまでも保ち続ける自信が、正直なところ、今のミリカにはない。数時間前の
トキオとの濃密なひとときは、それほど強烈な経験だった。
相変わらずミリカの心を読み続けているマトベエワは、ミリカのそんな思考に返事を返す。
「そのトキオくんだがね、実を言うと隣の部屋にいるんだ」
ミリカは愕然として思わず声を張り上げる。
「何ですって!?うそつき!トキオには何もしないって…」
マトベエワはにやにやしながら言う。
「約束を破ったわけではないよ。たしかに我々も少しうかつだったが、君のコートの
ポケットに小さな発信器が入っていてね。ちょっと前、彼の方からここに乗り込んで
きたのさ。それでは感動の対面といくかね」
そう言ってマトベエワは内線電話で指示を出す。
ミリカはそれを聞き、思いがけぬ再会にほんの一瞬胸が躍るが、すぐに大きな恐慌に
とらわれる。ここまで来てしまったトキオを、彼らがただで返すはずがない。トキオは
どうなってしまうのか。それに、トキオと再会しても、今のわたしは…
「いやっ!!」
背後で開くドアの音を聞きながら、ミリカは上体を起こし、まだ馴染んでいない
新しい体をぎこちなく動かして、ドアに背を向けて体を丸めた。
ドアの方からは懐かしい声が聞こえる。
「手術室?いったい、なぜミリカが手術室なんかにいるんだ!?まさか事故にでも
……!」
トキオの言葉がとまる。手術台の上にうずくまるミリカの背中を認めたらしい。
「ミリカ?ミリカなのか!?」
こんな風にされてしまった体を、トキオにだけは見られたくなかった。ミリカは
ぎゅっと膝を抱え、絞り出すような声でトキオに言う。
「わたしよ。だけどトキオ、お願い。わたしを見ないで!」
マトベエワがからかうように言う。
「せっかくの新しい体だ。彼氏に見せてやればいいじゃないか。ふむ、そういえば
情緒コントロールがまだだったな」
ミリカは青ざめた声で懇願する。
「いや!やめて!それだけは…」
かちりという音がする。同時にミリカは、自分の心から、たった今まで激しく渦巻いて
いた不安、おびえ、憤り、といった感情が忽然と消失してしまったことに気づく。
「もう一度言おう。トキオくんにその体を見せてあげたまえ。これは命令だ!」
まるで自分で決めたことのように、ごく自然に命令を果たそうと、体と心が
動き出す。…でも…でも……
「……い…や…。い、や、で、す…」
か細い声でミリカは抗弁し、動きそうになる体を押さえ、体を丸める。それは
意志の力というよりは、少女としての「意地」のようなものだった。
「ふむ。なかなか強情だね。でもまあ予測の範囲内だ。性欲の回路を開こう」
再びかちりという音がして、今度は獰猛なけだものの情欲が自分を動かそうとして
いることにミリカは気づく。その奔流にミリカはもはや抗えない。
「…はう……いや……だめ……あ…」
切ないあえぎ声を上げながらミリカは上体を起こし、手術台から降り、トキオの前へと
歩み出る。そして自らの肉体がトキオによく見えるように両腕と両足を軽く開き、
くるりと一回転までしてしまう。
マトベエワがうれしそうに言う。
「よし。上出来だ。まあこれはあまり使わない方がお互いのためだ。いずれだんだん、
余計なことを考えることもなくなってくるはずだ」
ミリカの前では、呆然とした表情のトキオがいる。両腕を後ろに縛られ、背の高い
サイボーグがそのひもを握っている。ミリカやその母とは、頭髪がない点、衣類が
短いパンツのみである点のみが違っている。
「ミリカ…その体は……手術…サイボーグ手術を…受けてしまったのか?」
嵐のような情欲の支配が去ったミリカは、なけなしの「意地」をふりしぼり、
トキオに言う。
「そうよ。もうわたしはあなたの知っている碓井ミリカではない。サイボーグ第16号が
今のわたしの名前。外見だけではなく、もうじき心の中まで完全にコントロールされた
ロボットになってしまうわ。こんなわたしのことは忘れて…」
トキオは首を振り、ミリカじっと見つめながら言う。
「そんなこと言うなよ。君はミリカだ。改造されても、とても美しいよ!」
その言葉が、ただの慰めやお世辞ではないことをミリカは知る。トキオの肉体の一部が
激しく突出しているのが目に入ったからだ。
見つめ合う二人に、無粋な男が水を差す。
「それで、トキオ君の処遇だが、ここまで我々の秘密を知ってしまった以上、もう君を
見逃すことはできない」
トキオはマトベエワの方を向いて言う。
「どうするつもりだ?殺すのか?」
マトベエワは答える。
「普通ならそうせざるを得ないところだ。だが、先ほど上層部や何人かの科学者に君の
名を出したところ、君を我々の計画にぜひ引き入れたい、という声が少なからず上がってね。
君の論文は一部で相当高い評価を得ているらしいんだな。だから、君をサイボーグに
改造して我々と共に働いてもらうのがいい、ということになった。言っておくが選択の
余地はないよ。ちょうどスケジュールの谷間で、向こう三日は手術の予定がないことでも
あるし、これから直ちに君の改造手術を始めることにする」
逃れようのない運命を知らされたトキオは、うなだれて答える。
「サイボーグに改造されてロボットのように使役される。それが僕の運命ですか。
ミリカのいない人生よりも…その方がいいかもしれない」
しかし、やはり納得のいかない、という顔でトキオは問いを発する。
「それにしても、あの論文がいったいどんな研究の役に立つというんです?想像が
つかない。あれは理論上のパズル、頭の体操みたいなもので、解くのは面白いけど、
実用性なんてまったくない代物でしょう?…まあ、質量爆弾でも本当に作るとなれば
話は別ですけどね…」
そこまで言ってからトキオははっとした。マトベエワもかすかに動揺したようだ。
「…そうか!質量爆弾!あんたらはあれを真面目に作ろうとしているんだ。なるほど!
そのためのサイボーグというわけか!!」
トキオの目に、妖しい喜びの色が浮かぶ。その目の輝きは、奥にいるマトベエワの目
そっくりだった。
「すごい!コントロールなんてされなくとも、進んで協力しますよ!いや、コントロール
だって何だってしてくれていい。改造手術?受けますとも!どんな肉体労働も厭いませんよ!
実用可能な質量爆弾の製造!大学院に進学するより、ずっとワクワクする!!」
ひもにつながれたまま、トキオはいそいそとズボンと下着を脱ぎ始めた。
マトベエワは軽くあきれた顔をしながら、手術の準備に入った。
トキオは再びミリカの顔を見て、言う。
「ミリカ。もう一度言う。今の君は、とてもきれいだ!」
トキオの股間のものは、今のミリカにとって喜ぶべきことなのかどうか、部屋で見た
ときよりも急角度でそそり立っていた。トキオはどうも、改造されるとか、マインド
コントロールを受けるとか、その種のシチュエーションに激しく興奮する性癖らしいと
いうことに、ミリカは思い至った。思い返せば、つきあっている間、それを伺わせる
言動は少なからずあった。あの膨大なファイルの中には、一体どんな画像や小説が
入っていたのかしら…
そこまで考えたとき、ミリカはふと、いつの間にか自分の思考や感情が幾分自由に
なっていることに気づいた。それはどうやら、今のトキオの話によって生じた、心の
変化に関係しているらしかった。つまりトキオの話を聞く内、この研究所の「計画」
への反感や抵抗感が薄れ、それに呼応して心を縛るコントロールも緩んだようだった。
質量爆弾。マスコミでは悪魔の兵器などと呼ばれ、実際理論上はすさまじい破壊力の
兵器ではあるが、しかし科学者の間では「強すぎて役に立たないもの」の代名詞のように
言われている。それはひとたび作動するや付近の質量を見境なくエネルギーに変換して
しまう、危険すぎて使いようのない兵器というだけでなく、製造が並はずれて困難という
意味でも、机上の空論に近い発明なのだ。ある試算では、実用化できる規模の質量爆弾を
製造するには、惑星の軌道間ほどの真空の中で、数年をかけて微細な調整を何度も繰り返さねばならない。つまり事実上不可能だ、というのが常識だった。
この研究所の母体である組織、マドベエワや各種機材からみて、おそらくは東側の
政府に関わる機関は、その非常識な計画を実行し、質量爆弾の現物を作ってみようという
途方もない計画を立てたのだ。さっきのトキオのような反応を示す科学者の数はたぶん
非常に多く、技術上の協力者には事欠かなかったはずだ。そして東側が質量爆弾を手に
することで、東西のパワーバランスは大きく変動する。そして、それはたぶん好ましい
結果につながるだろう。
母の受け売りではあるが、ミリカは現在話題になっている「完全軍縮」にはかなり
懐疑的だった。そんなきれい事で国際政治がまとまるはずがないというのが母の見解で、
ミリカもそれには賛成だった。そして、やはり母の熱心な教育の影響なのだが、ミリカは、
腐敗した西側よりも、合理的な計画で社会と経済をデザインする東側が世界を掌握する
方が、結局は人類のためであると固く信じていた。
ならば、抵抗する必要など何もないのである。大好きなトキオと共に、未来人類の
ために黙々と使命を果たせばいいのだ。これ以上余計なことを考える必要もないとすら
言うべきかもしれない。あの勝ち気な母があれほど簡単に情緒コントロールに服して
しまったのも、考えれば当然かもしれない。母はサイボーグ化へのとまどいこそあれ、
計画そのものには大賛成であるに違いない。
トキオはすっかり服を脱ぎ終え、手術台の上で剃毛を受けている。そんなトキオと
ミリカにマトベエワが言う。
「サイボーグ計画には、夫婦が多く含まれている。そしてサイボーグの肉体には擬似的で
あるが『夫婦生活』が可能な機構も組み込まれている。もし望むなら君たちも夫婦として
登録できるが、どうするね?」
トキオはほぼ即座に「はい!」と返事したが、ミリカは黙っていた。それは精神操作の
ためでも、「研究所」への抵抗の意志によるものでもなく、「結婚」の二文字を
突きつけられたとき、男女問わず多くの人に生じる躊躇によるものだった
――トキオに選択の余地はほとんどないだろう。しかし自分は違う。この80年代に
なっても、自然科学は依然として男が圧倒的に多い世界である。だからサイボーグ化される
科学者に独身男性が相当数含まれるのはまず間違いがない。そしてその中にはこの
美形だが変態のマッドサイエンティストよりも素敵な男性がいてもおかしくないのでは
ないか…?情緒コントロールのせいか、母親からの遺伝か、ミリカの脳内にはそんな
したたかな打算が渦巻き始めていた。
「…少し、考えさせて下さい」
ミリカそっけなくそう答えた。
(了)