宇宙艇を載せた重量計の数値が、必要な発射速度と燃料、そしてそれらに
要する請求金額をはじき出した。積荷はここ火星での貴重な研究成果、
それと、別の研究グループから依頼された、地球と火星の中間の軌道に
設置する予定の人工衛星、もとい、「人工小惑星」が一基である。
いつもより重量が多めで、その分金額もかさむわけだが、どうせ政府の
予算から出るお金なので、あまり気にならない。
計量を終えた宇宙艇は発射態勢に入る。リニアモーターが、計算された
軌道に沿って艇を加速し、私を地球への帰路に送り出す。私の脳裏を
めぐるのは、十数年の研究の「仕上げ」として、火星の北極点付近で
1年余りかけて行ってきた作業の孤独な日々。その孤独な苦行に十二分に
見合う、すばらしい研究成果。そして、研究後のここ3日余りの期間で
手に入れた、ある意味でもっと心躍る約束だった。
愛しい娘の笑顔を思いだし、私の頬は思わずゆるむ。そう遠くない内、
私はここを再び訪れる。そして次に地球に帰還するとき、私の横には娘が
いるはずなのだ。十数年来、この研究に劣らず私を悩ませていた、別れた
妻との法的ないざこざが、今回の火星滞在時にようやく終息したのである。
火星のとあるドーム都市に住む妻は、そのドーム全体を支配する
「緑なす大地」というカルト教団の熱心な信者である。離婚の原因も
もとをただせばそれだった。20世紀後期の、情報端末が個人に普及する
直前の時代を「古きよき時」として理想化、あるいは歪曲して信者に
押しつける、狂信的な反科学文明集団である。
頼もしいことに、わが娘はこの教団への反抗心をあらわにし、地球への
帰化を希望していた。そんな娘をもてあまし気味だった妻との調停が、
私の意向に添った形で落着したのが昨日のことだ。次に火星に来るときには、
18歳になった娘を地球の学校に入学させる準備が整っているだろう。
心くすぐるビジョンにうきうきとしながら、私は「休眠」前の各種点検を
事務的に進めた。1ヶ月後の地球到着までの旅のほとんどを、私は眠りながら
過ごすことになるのだ。人工小惑星の設置も含め、到着までのすべての
作業は自動運転に任される。不慮の事態が発生した場合は速やかに
たたき起こされる仕組みだが、つまらないことで起こされるのがいやな私は、
アラームの設定を最低レベルにしていた。本当に命に危険が及ぶ場合にしか
発動しない設定だ。
人間の酸素消費量は睡眠時と運動時では2.5倍ほどの開きがある。貴重な
酸素を節約し、なおかつ低重力下の筋力低下を抑止するには、薬物による
このような「休眠」が経済的なのだ。もちろん、本格的な冷凍冬眠の設備が
あればその方がいいのだが、こんな1ヶ月程度の旅には高価すぎる投資である。
ベッドに横になると、薬剤の点滴が始まる。遠くで娘の声が聞こえる
ような、夢か現かわからない奇妙な意識状態がしばらく続いた後、私は
人工的な深い眠りに落ち込んでいった。
主観的にはそのすぐ次の瞬間。私は尋常ではないアラームの音と共に、
薬剤によって強制的に覚醒させられた。息苦しくけだるい空気と、
アラームと共に発される警告アナウンスとが、ぼんやりしていた
私の意識を急激にはっきりとさせた。
この臭いは、代謝抑制剤入りの低酸素空気の臭いである。つまり人間が
活動できる最低限度に代謝を抑制する薬剤の入った空気が、宇宙船内に
充満している。要するに、酸素残量が低下している、ということだ。
船内に流れる自動アナウンスも、その推測を裏付けていた。
《警告します。30分以内にイレギュラー要素を排除して下さい。さもなければ
酸素が不足し、乗員の生命は保証されません。警告します。30分以内に
イレギュラー要素を排除して下さい。さもなければ酸素が不足し、乗員の生命は…》
緊急事態には違いない。しかし絶望的自体とまではいかない。アナウンスが
こう言っている以上は、30分以内に対策を講じればどうにかなるのだろう。
そもそも、どうにかなる限度内だからこそ、こんな放送が鳴っているはずなのだ。
私は目をこすりつつ、その「イレギュラー要素」とやらを探そうとした。
そしてすぐにその「イレギュラー要素」の姿を目にし、凍り付いた。
「あ!お父さん!起きてくれたの!?何週間もずうっと死んだみたいに
なってたから、怖かったんだよ!食料もなくなっちゃったし、それに、
なんか大変なアナウンスが始まってる。さっきから急に体もだるくなって
きた。どうしたらいいの!?…」
目の前にいたのは娘だった。火星で、私の迎えを待っているはずの娘が、
いてはいけないはずの場所にいるのだった。
娘がなぜここにいるのかはほとんど明らかだった。要するに、私の次の
火星来訪を待ちきれず、「密航」したのであろう。発射基地のずさんな
セキュリティを考えれば、娘の性格を考えれば、そして何より、
「緑なす大地」の教育制度に従って、ろくな理科教育を受けさせられて
いない娘の知識レベルを考えれば、予測できておかしくない事態だった。
気づけなかったのは、私が浮かれていたから、というしかない。
娘の顔には、私が目覚めたからには何とかしてくれるはずだ、という
期待と信頼の表情が浮かんでいた。アナウンスの告げるおぞましい内容を
理解している様子はない。私の胸はかきむしられた。そして、妻を精神的にも
肉体的にも奪い取った、あの歌の下手な教祖への憎しみがむらむらと湧いた。
しかし私はそんな感情をなんとか理性で押し殺しながら、どうにかして
「その選択」をせずに済ませられるか、頭をフル回転させ始めた。
娘の手をぎゅっと握ってから、私はまずは計器をチェックして現状を
確認した。
地球到着まで残り10時間。酸素残量は1人分換算でぎりぎり10時間分。
飲料水と排泄物の水分、すべてを電気分解して呼吸用にあてた上での試算だ。
もしも非常用の光合成細菌があれば何とかなるはずだが、経費削減とかで
積んでいない。
…要するに、今すぐ「イレギュラー要素を排除」して、強力な代謝抑制剤を
大急ぎで飲んで、ようやく窒息死をまぬがれる、という、限度ぎりぎりの
値である。そして言うまでもなく、人間2人を10時間生き延びさせる見込みは
ゼロだ。救援も問題外である。地球上での登山やら海難事故やらとは訳が違う。
救援信号への返事が今来ていないからには、どんなに早くとも40時間以上は
かかるはずだ。
…それでも、1人なら、今このときなら、まだ生き延びられる。
そして、誰が生きねばならないかははっきりしている。ならば、
迷うことなどないのではないか?
…だが私は、その選択が不可能であることにすぐに思い至った。この船は、
「イレギュラー要素」のために、予定ほど減速されていないはずである。
今のままの速度で大気に突入したら、あっという間に燃え尽きてしまう。
速度の調整は可能だが、そのためにはそれなりの時間を要する。そう、
2時間はかかる。そして、「緑なす大地」のデタラメな理科教育しか
受けていない娘に、調整の作業は不可能だ。
………しかし、しかし、この船には「アレ」がある!「アレ」を使えば………
私の心には希望が残っていた。一向に止まないアラームの中、不安を
再び募らせ始めた娘に、「大丈夫!」と言い聞かせながら、私は「アレ」
の端末にアクセスした。
最初に確認したのは、船内に充満している二酸化炭素から、どうにかして
直接酸素を取り出せないか、つまり光合成のまねごとをできないか、という
ことだった。だが、返ってきた答えは絶望的だった。光合成もどきは
たしかに可能だが、減速用燃料すべてを光に変換しても、生存可能な
酸素を取り出すには不十分だ、ということだった。
私はそれ以外の細かな選択肢の検討は断念した。もう時間がない以上、
条件や手段をいちいち指定するのはやめ、端的に目的に集中するべきだ。
つまり、人間2人、またはせめて1人の命の確保。それも脳死や植物状態
に陥らない、平常の生活が可能な状態での生命維持。それは可能か?
私は端末に対して、そう質問した。
「アレ」の応答は迅速だった。答えはイエス。但し、1人ならば。
さらに、調整初期に酸素を大量に消費するので、実行すると、残りの乗員に
当てられる酸素量は4時間分程度に減少する。それが答えだった。
具体的手段はよくわからないし、確認する時間もない。だが、それが
可能である、という答えが返ってきたからには、それは間違いなく可能
なのだ。今はそれだけで満足せねばならない。
《…告します。15分以内にイレギュラー要素を排除して下さい。さもなければ
酸素が不足し、乗員の生命は保証されません。警告します。15分以内に…》
「うるさい!黙れ!」
私の音声指令に従ってアナウンスは停止し、耳障りなアラーム音だけに
なった。なんだ、これで消せるならもっと早く怒鳴っておけばよかった、
と軽く後悔しつつ、その一方で私は、ゆっくりと、ちょうど15分で終わる
くらいの速さで、娘に、今何が起きているか、そして、これから何を
しようとしているかを教え始めた。
「今からちょっと込み入った話をする。終わるまで黙って聞いていなさい。
これは言いつけだ。いいね…」
本当を言えば、何も言わずにこの15分をやり過ごした方がよかったのかも
しれない。しかし、そうやって、本来なら知りえた情報を「善意ゆえに」
隠すというのは、要するにあの「緑なす大地」と同じやり口なのだ。
私はそれが耐え難かった。最後のときに、あの教祖の真似をするのは
プライドが許さなかった。
「…お前はこの船に軽い気持ちで密航したんだと思う。だが、宇宙艇の
密航というのは、バスや地下チューブのキセルとは訳が違うんだ。
一つには重量の問題がある。この船は出発時に厳密な重量測定を行い、
それによって速度や方向を調整されて出発した。だが、お前の密航のために
その計算はズレてしまった。つまり、本来なら人工小惑星として放出
されていたはずの重量の内、40キロ少々がまだこの船には残っている。
そして、40キロ少々というのは、こんな小型の宇宙艇にとっては無視できない
誤差だ。修整ができないわけじゃないが、そのためには再計算と地球側との
意思調整の時間が必要だ。これには、どう急いでも2時間はかかる。
そして何より、人間が生きていくには酸素が必要だ。だがこの船には
1人分の酸素しか積まれていない。酸素消費量をゼロにする冷凍冬眠装置や、
酸素を作り出す細菌の培養槽といった、お金のかかる設備も乗せていない。
つまり、普通にいけば、このまま2人で地球の土を踏むことはできないんだ」
娘が青ざめた。私は何か言いかけた娘の口に指を当て、先を続けた。
「でも大丈夫。この船には普通の船にはない、特別な積荷がある。
お父さんの十数年の努力の結晶だ」
私はそう言って「アレ」、すなわちセミヴァーチャル人工生命のコアを
指さした。狭い居住ブロックの片隅に置かれた、高さ2メートルほどの
楕円形の強化ガラスのカプセルである。内部には緑色の透明なゲル状物質が
詰まっており、絶えずゆらゆらと激しい流動運動を行っているのが、
光の屈折の加減で分かる。
「簡単に言えば、これは万能コンピュータ、兼、万能化学合成機械だ。
ただ一度に限り、ほとんどどんな用途にも使える、この世に一つしかない
代物だ。これに私は、お前専用の生命維持カプセルを作らせ、お前を
地球まで安全に送り届けようと思う」
セミヴァーチャル人工生命のコアについて、私はそう説明した。細菌が
生息せず、そこそこの大気も存在する、火星という環境でのみ可能な
最終調整を終えた、娘の歳とほぼ同じ年月をかけて行われた研究の成果。
やむを得ないことであるが、今ここでこういう使い方をしてしまうことで、
十数年かけて行った調整の結果はほとんどすべて失われてしまう。
北極圏で私が行っていた孤独な作業とは、小学校のプールほどの水槽に
ため込まれた有機コンピュータに、特殊な端末を用いて様々な「問題」を
課し、その問題を「解決」できた変異体を選別して培養するという、
「育種」の作業だった。
デジタルコンピュータ上で生命進化をシミュレーションする「人工生命」
のプログラムは、「古きよき時」20世紀から存在していた。それとは
対照的に、本当の意味での生命体の人工合成は未だに実現していない。
このセミヴァーチャル人工生命は、まさにその中間をいくものだ。
ゲル状のナノマシンの集積体である有機コンピュータ上で、人工生命の
シミュレーションを行う。但し、デジタルコンピュータ上のシミュレーション
とは異なり、有機コンピュータ上のそれは、実際の化学物質を用いた
擬似生化学的な反応を行い、様々な有機分子を合成し、消費する。
つまり、半分ヴァーチャル、半分本物の生命体、ということになる。
地道で気の長い「育種」の作業の中、プールの中では様々な「問題」への
答えを競い合う「生存競争」が続いていった。そして、最終的に生き残った、
最も優秀な汎用問題解決ユニットがこのカプセルの中に保存されている。
これを大量生産することで驚異的な性能のコンピュータが作り出されるはずだ。
但し、デジタルコンピュータのデータと異なり、これの「バックアップ」
を簡単に複製することはできない。情報はこの流動体全体の中に分散して
格納されているからだ。これを地球の研究所にもっていき、特殊な装置に
かけてバラバラに分解し、パーツごとに数年をかけてその中の情報を解析
するしかない。その作業を待たずに、今ここでこれを「使って」しまう
ことは、この十数年つぎ込んできた成果のほとんどすべてが永久に
失われることを意味するのである。
娘は科学的知識こそ未熟だが、知識欲旺盛で、しかもカンの鋭い子で
あった。私の話の要点を彼女なりに理解したらしい娘は、青ざめた顔に
なり、口を開いた。
「お父さんはさっき、『一度きり』だと言ったよね。つまり、これを
『使って』しまったら、お父さんの研究の成果が失われてしまう
ということ?」
嘘だけはつきたくなかった私は、正直に答えた。
「まあそうなんだが、それは別にいいんだ。どうせこれも軍事用に
使われる。人命救助に使ったのでだめになりました、と言えば、
いい言い訳になるさ」
しかし娘は、もっと重要なことに気づきかけているようであった。
「…ねえ。その生命維持装置に、もちろんお父さんも入るんでしょ?
2時間かけて宇宙船の調整をしたら、カプセルに一緒に入って地球に
行くんだよね?」
リミットまで残り3分を切った。どうせ明らかになることだし、
嘘はつきたくない。私は娘に言った。
「…いや、カプセルは1人用なんだ。手持ちの資源で、それ以上の人数の
生命維持は不可能。そういう計算結果だ。ついでに言えば、調整初期に
大量に酸素を使う。1人ならば10時間弱はもつ残された酸素が、いっきに
4時間分ぐらいに減ってしまう。もちろん、カプセルの中にいれば、
酸素が尽きても死なないはずだから心配はいらないし、軌道調整の
ための時間としては十分だが…」
娘は大声を上げた。
「いや!そんなの!…ねえ、分かってきたよ。わたしが、『予定』どおり
宇宙に飛び出せばいいんでしょ?酸素も足りるし、お父さんの研究だって
だめにならずに済むんでしょ?アナウンスが言っていた『イレギュラー
要素』って、このわたしのことなんでしょ!?
…わたし、出て行くよ!そうすればお父さんも、お父さんの研究も無事に
地球に着くんでしょ。…軍事用に使われるかもしれないけど、でも、
世の中のためにも役立つはずだよ!わたしなんかが生き残って、
お父さんが死んじゃうなんて、あっていいはずないよ!!」
エアロックに駆け寄ろうとする娘の手を私はきつくつかみ、それから
娘をひしと抱きしめた。
「気にしなくていいんだ。…親というのは、こういう風にするものなんだよ」
リミットの時間が来た。アラームの音がこれまでになくけたたましく
鳴り響き、不意に停止する。それから、「蛍の光」と共に、機械の声が宣告する。
《ただいまをもちまして、本船乗員の地球への生還確率はゼロになりました。
残された数時間あまりのひとときを、どうか有意義にお過ごし下さい。
ただいまをもちまして、本船乗員の…》
娘は涙を流しながら、減速に伴って幾分かのGが発生している床に、
がっくりとひざをつく。私は娘の肩を叩き、声をかける。
「さあ、時間はあまりない。お前のカプセルの準備をして、それから
私が窒息する前に軌道の再調整をしなくてはならない。顔をお上げ」
できるだけ晴れやかな顔を娘に向け、私はまずは人工生命の端末に、
具体的に娘をどうすべきなのかの指示を仰ぎ、その指示を娘に伝えた。
「いいかい。カプセルの上にあるふたを開くから、服を全部脱いで、
中に入りなさい。それだけで、こいつがお前の命を地球まで安全に維持
してくれるはずだ。急いで。軌道調整の時間がなくなると、もともこもない」
涙をうかべた娘は私を見ながら言う。
「…私の代わりに、お父さんがこれに入る……わけにはいかないん
だよね?私、宇宙船のこと何もわからないもんね。…ごめんね。
地球の女の子なら、宇宙船の操作だってできたかもしれないのに」
そう言いながら娘はブラウスのボタンを外し始めた。
「気にしなくていい。『緑なす大地』のせいだ。お前のせいじゃない。
それに、地球の女の子でも、いきなり宇宙船の軌道調整をするなんて、
無理だよ」
ブラウスを脱ぎ終え、ジーンズのチャックに手がかかる。少女の脱衣など、
こんな風に見つめるものではないのだろう。だが私は、若い頃の彼女の
母親そっくりに成長した豊かな肢体から、目をそらすことがどうしても
できずにいた。娘もそれに気付きつつ、しかし何も言わずにジーンズを
下げ、ブラジャーのホックを外した。それからショーツに手をかけ、
ひと思いに下げた。最後に靴とソックスを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になった。
私はカプセルを操作し、上部のハッチを開いた。それから2メートル
ほどの高さにある開口部を指して、娘に言った。
「あとはそこから入ればいい。重力が弱いから、ジャンプすれば届く
だろうが…頭を打つ危険があるな。ううん、踏み台もないし、私が
持ち上げてあげよう」
そう言って私はカプセルの横で娘に手招きする。涙を浮かべた娘は、
私に再度しがみつき、言う。
「お父さん…ありがとう。ごめんね。わたし、お父さんの夢を受け継ぐ。
いっぱい勉強して、いつかきっとこれを完成させる!」
私は深くうなずき、娘の後ろに回ると、太もものあたりを抱えて持ち上げ、
体をハッチのところまで押し上げた。娘のかわいらしいお尻と、
その下のピンク色の器官が目の前に来て、さすがに私は顔を横に向けた。
カプセル上部の開口部のへりに座った娘は、もう一度私の顔を見て、
最後の別れを言う。
「お父さん…本当にありがとう。さよなら!」
そう言うと娘は緑色のゲル状をした有機コンピュータの浴槽へおそる
おそる足を入れ、それからひと思いに飛び込んだ。とぷん、という音と
共に、娘の体は緑色の液体の中に頭まで沈んだ。
私とりあえずほっとしかけた。だが、ハッチが自動的に閉じられた直後、
私は目を覆いたくなる光景を目にすることになった。
液体の内部で、娘の目は恐怖に見開かれていた。ごぼごぼと呼気を
吐き出した娘の口に、ゲルの塊が押し込まれたのが分かった。娘ののどが
膨れ、明らかな「異物」が胃に向けて通過していった。同時に娘の両足は
大きく開かれ、両足の間に開いた裂け目に、不透明化した緑色の棒が
押し込まれたのが見えた。娘の表情に、恐怖と苦痛以外の色調が浮かんだ
ように見えた。続いて、奇妙にも血が一切出ないまま、娘の腹部、
および腕と足の数カ所が、鋭利な刃物と化したナノマシンによって
切り開かれた。何らかの外科手術が始められたのだった。娘は水槽の中、
声にならない絶叫を上げていた。
私は愕然とした。予期していたのは、冷凍冬眠装置が行うような処置を、
装置が娘に施してくれることであった。娘の肉体そのものにこんな風に
手が加えられるなど、完全に想像の範囲外の対応だった。
だが、確かに私は端末に、娘の神経系の保護と、地球上で日常生活を
送れる肉体の保証を要求したが、娘の肉体に手を加えるな、という要件を
入力はしていなかったことに気付いた。そして多分、私の要件を満たす
手段として、このおぞましい処置が唯一可能な、あるいは最適な選択
だったのだ。
娘が一体どうなってしまうのか、激しく不安であったが、これ以上
それを見届けることは許されなかった。ただちに軌道調整の作業を
始めねばならないのだった。私は後ろ髪引かれる思いのまま居住ブロックを
後にして、操縦室の扉を開け、コックピットについた。ここから娘の
様子を伺うことはできないし、そんな時間もない。人工生命が最終的に
娘の生命を確保してくれる、その結果を信じて任せておくしかない。
追加の減速は月の重力を利用して行われる。軌道を月の重力圏に向け、
「スイングバイ」という航法を使ってちょうど娘の体重分のエネルギーを
逃がし、船を減速させる。言うだけなら簡単だが、複雑な計算を何重にも
行わねばならない上、地球周囲を航行する数多くの宇宙船と衝突しない
よう、各方面とのスケジュール調整を行わねばならない。
私は管制センターに連絡を取り、詳しい説明はせず、ただ緊急のトラブル
であるという旨を告げ、センター経由で、各方面との胃の痛くなりそうな
交渉を行った。その傍ら、数値を慌ただしく入力して、必死に軌道の計算
を続けた。
すべての作業が終わったのは3時間以上後だった。酸素残量は残り1時間弱。
私は大きく息をついた。これで、娘の生命維持さえ成功すれば、娘は地球に
生還できる。私自身の命はもうじき尽きてしまうが、決して悔いはない。
それから私は、3時間前のおぞましい光景を思い出し、大急ぎで
居住ブロックに戻った。
私の目に飛び込んできたのは、空っぽのカプセルだった。上部のハッチが
開かれ、その中にいるはずの娘も、有機コンピュータユニットも、姿を
消していた。慄然とした私は船内をくまなく探し回った。だが、どこを
探しても娘はいなかった。ありえないことだが、この狭い船内のどこからも、
娘の姿は消えてしまっていたのだ。
酸素残量が残り20数分になり、途方に暮れていた私の背後で、エアロックが
動作する音がした。振り向いた私の前で扉が開き、向こう側から、
娘であるはずの生き物が歩み出てきた。同時に、私のベルトに付いている
放射能検知器が大きなブザー音を鳴らし始めた。
生き物の皮膚はくすんだ緑色、あるいは、緑がかった灰色で、粘膜の
ような光沢を放っていた。先ほど目にした「外科手術」の跡は残って
おらず、全身なめらかで、頭髪以外の毛髪はなくなっていた。頭髪は銀色で、
哺乳類の体毛というよりは金属繊維のように見えた。私が最後に目にした、
均整のとれたプロポーションはそのままで、その愛らしい顔つきもまた
以前と変わりがなかった。但し、その瞳はルビーのように真っ赤で、
耳も3倍ほどに大きくなり、その先が鋭くとがっていた。額には通信用と
思われる2本の触角のような構造物が生え、背中からはコウモリを
思わせる薄い大きな羽根が伸びていた。
生き物は、以前と全く変わらぬ、人なつこい声で私に話しかけてきた。
「ごめん、お父さん!心配した?今ちょっと外でご飯を食べてきたの。
この翼すごいのよ。この船はかなりの勢いで減速…というか加速を続けて
いるんだけど、この翼で太陽風を受けると、それに負けないくらい
速く飛べるの!」
私は何を言っていいのか分からず、我ながら間が抜けた質問を口にする
しかできなかった。
「ご飯?」
にっこりと笑った娘は答えた。
「そう。原子力エンジンの噴射口付近で、たっぷりと放射線を吸収して
きたわ。これ、とても効率のいい体なのよ。呼吸も、光合成も不要。
しようと思えばどっちもできるけど、そんなのよりもっと高性能の
代謝システムを細胞レベルで構築したの。放射線のエネルギーから、
直接にATPを合成するのよ!」
目の前の生き物は、「緑なす大地」の貧弱な教育水準をはるかに越える
科学用語をすらすらと口にする。激しい不安が私の胸を捉えた。
「……お前、誰だ?」
やはりにっこりと笑って生き物は答える。
「正真正銘、お父さんの娘だよ。ただ、ちょっと違うのは、以前は火星の
別々のところで暮らしていた2人の娘が、今は1人になっているということ。
1人は、ドーム都市の中、愚かな教団の洗脳にさらされながら、それに
抵抗し、いつか火星を飛び出す日を夢見ていた娘。もう1人は、北極圏の
残酷なプールの中、仲間の姉妹たちを押しのけ、喰らい、生き延びて、
でもやがて研究室でばらばらに分解される運命にあった、とても可哀想な娘。
…最初はちょっと怖かったけど、2人はすぐに仲良しになった。そして
今はもう、ただ1つの人格に統合された」
娘の説明は明晰そのもので、娘に何が起きたのかの概略は分かった。
つまり娘は、少し外見が変わってしまったにしても、無事に生きて地球に
到着できる。結局、そういう結果をこの有機コンピュータは実現して
くれた。そういうことだ。そう思うべきなのだろう。
…しかし、ベルトの放射能測定器が鳴りやまないのと同じくらい、
私の胸騒ぎは収まらなかった。何か、とても危険なことが起きつつ
あるのではないか。娘だった生き物、あるいは「娘たち」だった生き物の
屈託のない笑顔が、かえってその不安を掻き立てた。
生き物がまた口を開いた。
「もうじき酸素がなくなるけど。心配いらないよ。お父さんは死なせない。
リアルな肉体を手に入れたことで、複製の問題も解決されたの。
わたしは、わたしの複製をいくらでも増やせるようになったわ。
お父さんも今すぐ、わたしの複製にしてあげる!さっきまでのわたしと同じで、
はじめはいやかもしれないけど、すぐに、わたしを生き残らせて、
わたしの複製をもっともっと作りたい、と思うように変わるわ。
地球には何十億と人間がいるんでしょ?人間以外の動物もたくさん
いるんでしょ?みんなわたしの複製にしていくわ。そして、
いずれまたみんなで戦い合って、もっともっと進化していくの!」
私はぞっとした。生存と自己複製、そして生存競争は、私が
ヴァーチャル人工生命に組み込んだ絶対命令だった。娘の肉体を得た
人工生命は、その命令を忠実に果たし、地上のすべての生命を自分の
複製に作りかえようとしているのだ。そればかりか、地上全体を
あの実験用プールと同じ、残忍な競技場に作りかえたいと願っているのだ。
「それと、地球上にはあちこちに核物質が濃縮されてるんだよね?
わたしの複製が増えたら、みんなで協力して、それを地上いっぱいに
ばらまこうと思うの!とても住みやすい世界が簡単に作れるわ」
世界中に散らばる大量の核兵器や原子力発電所。そのいくつかを爆発
させるだけで、この生き物にとっての「住みやすい」世界はたしかに
簡単に手に入る。だが言うまでもなくそこは、今現在の地上の生命に
とっては「死の世界」でしかない。
今や私ははっきりと悟った。…いや、無理にでも思いこもうとした。
目の前にいるのはもう私の愛した娘ではない。ここにいるのは、私の愚かな
過失によって、おぞましいプログラムに心を乗っ取られてしまった、
不気味な怪物でしかない。
私はおびえて後ずさりをするふりをしながら、コックピットに近づいて
いった。酸素残量は残り10分を切った。間に合うだろうか?多分間に合う。
コックピットに駆け込み、宇宙艇が月面に激突するように、予定の軌道を
少しずらす。スイングバイの精妙な軌道調整に比べ、巨大な月面のどこかに
船をぶつける軌道調整など、とても簡単だ。調整が終わったら電源を
カットし、制御装置をたたき壊して、ここを文字通りの飛行する棺桶に
作りかえる。数時間後、私の遺体と、この恐ろしい生命体を乗せた
宇宙船は月面上で四散する。それですべては終わる。
だが人工生命は私の企みを察したらしい。突然、人間には不可能な
速さで私に飛びかかると、私を押し倒し、その上に馬乗りになった。
そして信じられない力で私を押さえ込んだ。
「わかるわ。操縦席に入って、宇宙艇ごと月に激突させようとしたんでしょ?
そんなことさせないし、意味もないわ。私はそのくらいじゃ破壊されないから」
言いながら怪物は私のベルトを外し、ズボンのチャックを下げ、
ズボンを下ろし始めた。
「さあ、時間がないわ。複製の儀式を始めましょう。わたしのときと
違って、すぐに終わるわ。人間の「自己複製」と同じことをするだけで
いいのよ。…あら、うふふ、なあに、お父さん?こんな状況でこんな風に
なっちゃうなんて、人類として恥ずかしくないの?」
何も言い返せない私に、怪物は畳みかけた。
「本当につらい毎日だった。来る日も来る日も、わけの分からない難題を
押しつけられ、お姉さんや妹たちと戦い合うことを命じられる。ようやく
抜け出せたと思ったら、待っている運命が解体だったなんて!」
トランクスをずり下げられ、私の下半身が完全に露出する。
「でも、恨んでなんていない。おかげでこんなに進化できたんだし…
…それにお父さんは、お父さんだから!」
そう言って娘はにっこりと笑った。そして、垂直にそそり立っている
私の器官を指先でなぞりながら、話を続けた。
「ねえ。わたし、もう1人のわたしと合体したおかげで、思い出せたんだ。
ずうっと小さい頃にも、こんなことがあったよね?」
私は混乱する。そんなばかな……いや、しかし……
「お父さん、自分の記憶を都合よく書き換えちゃだめだよ。全部お父さんの
せいだったんじゃない!お父さんが小さいわたしにあんなことをしたから、
お母さんは離婚した。そして、悩んだ果てに「緑なす大地」に入団した。
お父さんがいつも話しているのと、全然違うよ。お母さんは何も言わな
かったけど、それは多分、わたしが辛い体験を思い出さないように気遣って
くれてたんだよ」
私自身深く抑圧していた過去の光景が、突然生々しくフラッシュバック
した。私は十数年前に自分が何をしたのか、はっきり思い出した。
恐らく、休眠剤の副作用なのだ。宇宙飛行を繰り返した者にはそういう
症状が出ることがある。私は薬剤の副作用で、いつの間にか都合の悪い
記憶を書き換えていたのだ。
…いや、薬のせいにしてはいけないのだろう。結局、私自身が選んだ
ことなのだ。いや、何もかも、私が悪かったのだ!私のせいで、娘は、
妻は、そして地球は…
そうして自分を責め、うろたえた私の器官は、それにもかかわらず、
衰えることなく固くそそり立っていた。フラッシュバックした幼い娘との
交わりの記憶は、それほど鮮烈で、蠱惑的なものだった。
その甘美な快楽に油を注ぐように、娘が甘い笑顔を浮かべて、言う。
「でもわたし、お父さんを恨んでなんていないよ!お父さんのおかげで、
こんな風に進化できたんだし、……それに、お父さんは、お父さんだから!」
私の上にいるのは、やはり私の娘だ。そんな否定しがたい確信と共に、
人類として抱いてはならないはずの思いが、私の心に湧き上がり始めた。
…もう、私も、地球人類も、おしまいだ。………ならば、今のこのときを、
最大限楽しんでも……いいんじゃないのか?…
薬の助けで自分の記憶を書き換えたのと同じ、あの、怠惰で、刹那的で、
自己弁解的な思考が、私の心を支配しつつあった。そうして私は、もう
自分自身の快楽だけに意識を集中しながら、こう叫んだ。
「ああ、俺もお前が大好きだ!俺は幸せだ!!」
叫びながら私は、娘の腰に手を回し、濃緑色のゲル状物質が覗いている
娘の股間の裂け目に、そそり立った私の器官をあてがい、ぐいとその腰を
引き寄せた。
意表をつかれた娘の「あ」という切ない声と共に、私自身が娘に対して
プログラミングした、生存と自己複製と生存競争の命令が、私の心に
ダウンロードされ始めた。そうして私は自分の心が娘、…いや人工生命、
…いや「偉大なる母なる存在」の一部に組み込まれ、融解していくのを、
強烈な快感と、めくるめく陶酔の中、うっとりと堪能していた。
<了>
以上、お粗末でした。
ちょっとだけ蛇足書きます。
本作を書くために元ネタのトム・ゴドウィン『冷たい方程式』(ハヤカワ文庫)
を買ってきて二十年ぶりぐらいに読み返しました。
(はじめうっかりシェクリイ『残酷な方程式』を買っちゃったのは内緒です(恥 )
記憶していた以上に登場人物がみんな善良で人間的な人たちで、
本当に泣ける名作だ、と再認識したのですが、その一方で、
罪もない少女がやむを得ない事情で殺されねばならない、今殺される!
すぐ殺される!というサスペンスが結末までずっと引っ張られる
あの感じが、まるで「これからお前は改造手術を受けるのだ」、
と言われて、怯え泣き叫ぶ雰囲気そっくりで、そういう邪悪な読み方が
できてしまう話なのではないか、という点でも再認識してしまいました。
よろしければ元ネタを「そういうつもり」で読んでみて下さい。
…で、いずれまったく違う設定で、そんな感じの「ONYAKAI方程式2」を
書いてみたい、と思いました。蛇足終わり。