「大丈夫。危険地帯といってもこの辺は危険度Eだったはず。大丈夫…」
そんな独り言で自分を励ましながら、わたしはかつての自分の家を
目指していた。
山向こうの大きな都市が「敵」の勢力下に入ってしまうと共に、
わたしたちの住んでいた小さな町も放棄された。誰も彼も、ほとんど
着のみ着のままで町を退去し、安全な地域へ疎開せざるをえなかった。
疎開はやむをえないことだし、疎開先の祖母の家はもとの家より
便利で快適ですらあった。
だけど、一つだけ大きな心残りがあった。病院で亡くなった母との
最後の日々を記録した、大事な交換日記を置いてきてしまったのだ。
何の荷物でもないノート一冊。なのに、あれだこれだと下らないものを
詰めているうち、うっかり鞄に詰め忘れてしまった。
「敵」の勢力は時間が経てば経つほどに広がる。ぐずぐずしているうちに
日記は永久に手の届かないところに行ってしまう。行くなら今しかない。
危険だろうか?…いや、まだ大丈夫のはず。でも…
そんな煩悶を一週間続けたあげく、わたしは結局、手遅れになる前に
日記を取り戻しにいこうと決意した。
皆が寝静まった深夜。わたしは叔母が買ったばかりという原付を
こっそり拝借して故郷の町を目指し、明け方には到着した。警備は
思ったよりも全然手薄で、裏道を通れば簡単に潜入できたのだった。
早朝の町は一見したところ一週間前と何も変わらない。だが、この町が
目覚めることはもう永久にない。そして、いずれそう遠くない将来、
町全体が「敵」の…
ぞっとする想像を振り払い、わたしは大通りをとばして我が家を目指す。
家の近くの大きな木の横を通ったとき、後ろの荷台でべちゃっ、
という音がした。
何が起きたのかはすぐに分かった。同時に、後悔と恐怖が心を満たした。
この辺はすでに「敵」の勢力圏に入ってしまっているのだ。町に入った後、
どこかで「境界」をまたいでしまったに違いない…。
わたしは半ばパニックに陥りながらブレーキをかけた。急停止と共に
背中とヘルメットにべちゃりと何かが付着し、生温かい感触が背中に広がる。
わたしは大急ぎでバイクから飛び降りると、無我夢中でジャケットと
ヘルメットを脱ぎ、へばりついたものを包むようにジャケットを丸め、
遠くに放り投げた。そして、あと数百メートル先の我が家へと駆けだした。
がしゃ、といやな音をたててバイクが倒れたのが背後で聞こえた。
走りながらそっと振り向くと、バイクにまだ大量の「それ」が
こびりついていたことが分かった。「それ」――「ゼライブ」と呼ばれる
赤い透明なゼリー状の物体――は、バイクを離れ、人間が歩くほどの
スピードでわたしの方に近づきつつあった。ジャケットにくるんで
放り投げた方もその後を追っていた。
わたしを認識し、追いかけているのは明らかだった。
しかも、やつらは獲物を認識すると仲間を呼び寄せるという。このまま
「勢力圏内」でもたもたしていると、大量のゼライブに包囲されてしまう
ことになるだろう。
来た道を引き返せば案外すぐに圏外に出られるかもしれないが、後ろに
ゼライブたちがいる以上、それは無理だ。
とはいえ、現在家に向かっているのは、日記を取り戻すためだけではない。
わたしの部屋には、日記と共に、やはり置き去りにしてきたスクーターの
キイもあるのだ。このまま追いつかれずに部屋まで行けば、日記を取り戻した
上で、逃げおおせる見込みは十分ある。部屋の窓から外に出ればすぐ車庫だ。
スクーターを全速で飛ばせば追いつかれはすまい。木や電柱の下を避けて
通れば、さっきのような上からの襲撃も防げるだろう。
とはいえ、あまり猶予はない。玄関にたどり着き、家の鍵を開けながら
後ろを見ると、バイクにへばりついた二体以外に、もう二体が迫ってきた
のが見えた。いずれもまだ百メートル以上遠くだが、当初よりもかなり
速度が上がっている。ゼライブは地面に薄い膜を広げ、その上を滑走して
移動するため、ちょうどスケート選手のように加速度がつきやすいのだ。
遮蔽効果がないことは知りつつも、玄関をしっかり閉め、靴のまま廊下に
上がる。息が上がりかけていたが、このまま廊下の突き当たりの部屋まで
一気に駆け抜け、日記と鍵をとって、すぐに窓から飛び出さねばならない。
廊下を走る背後で、ぼん、ぼん、と鈍い音が計四回響いた。加速をつけた
ゼライブたちが玄関のドアにぶつかった音だった。思わず振り向くと、
すでにドアの周囲から赤いゼリーがじわりと染み出している。
…しかし、これならなんとかなりそうだ。ドアのおかげでやつらの速度は
減殺された。そしてこちらはもう部屋の前だ。時間は十分ある。わたしは
幾分ほっとしながらドアを開け、部屋に入ると急いでドアを閉めた。
ぐるりと見回した部屋の中は、一週間前とまるで同じだった。ちょうど
いつも起きるぐらいの時刻だ。薄桃色のカーテン越しの朝の日差し。そうか、
祖母の家の部屋はカーテンの色が違うんだ。でも、日記と違ってカーテンは
お店で売っている。いつか引っ越し先が決まったらじっくり選ぼう…。
そんなことを思いつつも、わたしはぬかりなく引き出しを開け、日記と
スクーターのキイを取り出した。叔母さんの新車も、これで弁償すれば
いいだろう。こっちも新車で、値段は倍近いのだ。
今頃になってようやく例のぼん、ぼんという音がドアから響く。
ぞっとはするがもう楽勝だ。あとは窓から出て、スクーターを飛ばせば、
追いつけはすまい。
そう思って窓のカギを開けようとして、わたしは凍り付いた。
窓の向こう側に、薄桃色の物質がべったりと貼り付いていたのである。
カーテンは開いていた。さっきわたしを安心させた光は、窓に貼り付いた
ゼライブだったのである。
玄関のドアよりも気密性が高いせいか、窓の外のゼライブはなかなか
中に入れずにいるようだ。だがもちろんそれは、何の救いにもならない。
背後ではめきめきという音がした。ゼライブの圧力で蝶番が外れたの
だ。床に広がったゼライブが、わたしを取り囲むように迫ってくる。
窓の方からはピシっという音。とうとうガラスが割れたらしい。
机の前にいたわたしは、半ば本能的に椅子によじ登り、上でしゃがんだ。
椅子の脚をゼライブが這い上ってくる。恐怖が限界に達したわたしは、
母の日記を抱きしめ、絶叫していた。
「助けて!助けて!おかあさん!おかあさん!!」
絶叫の後に待っていたのは残酷な静寂。頭が真っ白になったわたしの両肩に
ぺちゃりと熱いものが触れた。その熱い何かは猛烈な力でわたしを椅子ごと
机の上に押し倒した。椅子は床に倒れ、わたしは身動きがとれなくなった。
ゼライブの大きな塊が両肩に張り付き、机に固定しているのだった。
やがて両肩のゼライブは腕と首へ、その体を広げ始めた。はじめ
Tシャツごと腕を取り囲んでいたゼライブが、やがて首元と袖口から
Tシャツの中に侵入を始める。そうしてゼライブが両腕の素肌をぐるりと
囲んだとき、膨圧でTシャツがびりびりと破れる。熱いような痛がゆいような
奇妙な感覚が肩と腕を覆い、その面積を広げていく。
――ああ、もうだめだ。わたしはこのまま…
無力感と絶望、そして恐怖が心を染める。
ぼんやりと見ていた天井によく目をこらすと、天井には、床にいるのの
倍はある量のゼライブが張り付き、うごめいていた。やがて幾筋かの
しずくが胸元へ落ちた。悲鳴を上げそうになるのを必死の思いでこらえる。
口の中に入ってしまうのが何より恐ろしかったからだ。
しずくは徐々に太さを増し、しまいには滝のようにわたしの胸元に
「ゼライブ溜まり」を形成する。そしてぼろぼろになったTシャツの下側に
入り込み、肌の表面を覆いながら広がり始める。
「熱さ」の感覚は徐々に「快感」に変わり始めている。その面積が
これ以上広がれば、正気を保ち続けるのは難しいのではないか、という
恐ろしい考えが頭をもたげる。
上半身を固定されているため、両足は宙に浮いていた。その足の先に
ゼライブが触れる。床に広がっていたゼライブが、十分な高さまで
盛り上がれるほどに寄り集まったのだろう。
ひとたび足にとりついたゼライブは床から足へと急激に移動を始め、
足の先に雪玉のようなゼライブの塊ができあがった。塊の一部はソックスの
内側に入り込み、つま先まで浸透する。摩擦を失ったソックスと靴が
ずるずると滑り落ち床にごとんと落ちる。その一方、塊の上部は足首から
すね、すねからひざと、徐々に上へと広がり始める。
胸元にできた「ゼライブ溜まり」はすでに腕を覆い尽くしているゼライブと
結合し、ぼろぼろになったTシャツの下で、上半身全体をぐるりと背中まで覆った。
Tシャツのときと同じく、当初ブラジャーごと胸を取り囲んでいたゼライブが、
ブラの裏側にその足を伸ばし始めた。
「やめて!」
無駄だと分かっていても叫ばずにはいられなかった。谷間の部分に溜まった
ゼライブが、二つの球体の表面を「ふもと」から「頂上」に向けて覆っていく。
「やだ…やだよう…」
熱いちくちくする刺激が、とうとう両胸の中心の敏感な部分に達したとき、
わたしはそう呻かずにはいられなかった。
膨圧で背中のホックが変形してしまい、いまやブラジャーはだらしなく
垂れ下がっている。そうして両胸を覆い尽くしたゼライブは、お腹の方へ
その体を広げる。ジーンズの内側に侵入し、やはり膨圧で裂けたジーンズが
床へずり下がる。両足を這い上っているゼライブも、すでに太ももの上部まで
達している。このままいけば…
「やめてぇ!おかあさん!おかあさん!おかあさん!」
わたしは右手に持ち続けていた日記をぎゅっとつかんで無駄な叫びを上げた。
お腹と太ももの両側から広がったゼライブが、とうとうショーツを覆い、
そしてショーツの開口部から素肌に広がり始め、足の付け根近くからお尻まで
下半身をほぼ覆った。腰の周りに集まったゼライブの膨圧でショーツが裂ける。
いまやわたしの首から下は赤色のゼリーに覆い尽くされている。全身の
皮膚に、熱く、決して不快とは言えないちりちりしたむずがゆさが広がる。
気を抜くとおかしくなってしまうのではないか、という以前想像した恐怖は、
今や生々しい実感として迫りつつあった。
そこまで来たとき、予想もしなかった動きが生じた。全身のゼライブが、
これまでになく流動性を増し、激しく、そして複雑な運動を開始したのである。様々な速度、様々な向き、そして軟度も弾性も刻々と変化する微妙で複雑な運動。
それは「愛撫」と呼ぶしかない刺激だった。全身に広がっていたもやもやした
痛がゆさが、いまやはっきりした快楽に変わった。乳首と脇腹を中心に
強烈な刺激が全身を走り、それが両股の中央部に焦点を結んだ。結ばれた
焦点で世界が破け、そこから熱い液体がじゅわりと滲み出てきたのを感じた。
「……ん…ふぅ……や…ら……」
力が入らない。意図してもいない声が漏れる。いやだ!こんな風になるのは
いやだ!わたしは自分の正気をつなぎ止めようと懸命に意識を集中させるが、
全身でのたくるゼライブたちが、それを妨げる。
ゼライブの動きはますます激しく複雑なものとなり、今や垂れ下がるブラジャー以外何もまとっていない全身の皮膚の上で、狂乱した赤い波がのたくり
回っている。散乱しそうな意識を集中させてそれを見ていたわたしの目に、
おぞましいものが飛び込んできた。
「いやぁぁぁ〜っ!こんなのやだぁぁ!……ゃらぁあああ!」
波打つゼライブがところどころめくれ上がり、その下にのぞかせたわたしの
皮膚は、いつのまにか人間とはかけはなれた薄緑色に変色していたのである。
わたしは愕然とした。そして無力感と諦念がこみ上げてきた。
ゼライブに机に押し倒されて、まだ数分と経っていない。たったそれだけの
時間で、わたしの脳は狂乱の一歩手前に追い込まれ、そしてわたしの肉体は
人間とは呼べないものに変わりつつあるのだ。
錯乱するわたしの周りに、天井や窓になお残っていたゼライブが集まり
わたしの肉体をさらに厚く覆い始めた。同時にゼライブの強引な「腕」が
わたしの足と腕を折り曲げる。そして今まで首の下で止まっていたゼライブが、
あごから上へと広がり始めた。危機感を覚えて大きく息を吸った直後、
口と鼻がふさがれた。絶望のカウントダウンの始まりだった。
すぐにゼライブは顔全体を覆った。最初赤いゼリー越しに漏れていた光が、
見る見る暗くなり、最終的に視界が闇に閉ざされた。これまでになく
厚い層が自分を覆っているのだと分かった。
その直後、腕と足の拘束が消え、手足の自由が戻った。体を覆っていた
ゼライブが粘性のほとんどない液状に変成したのだ。だが、腕や足を
伸ばそうとするとその先が固いゴムのような層に突き当たり、阻まれるのが
分かった。
わたしはニュースで見た記録映像を思い出した。
これまで「敵」の犠牲になった人間は「繭」と呼ばれる赤黒い球体の形で
発見されるのが通例だった。「繭」の中には赤い「羊水」が詰まっており、
その「羊水」が中にいる人間を人間ならざるものに変質させるのだと
いわれていた。
一番有名な記録映像は凄惨な場面の記録だ。繭から異形の者が
「羽化」し、繭を心配そうに見守っていたかつての仲間に襲いかかる
シーン。中継映像が記録されているだけで、羽化した「犠牲者」や
カメラマンも含め、当事者の誰一人としおてその後の生存は確認されていない。
すべては「敵」のはらわた深くに飲み込まれてしまった事件の記録だ。
――自分はまさに今、その繭の中にいる。あの怪物は近い未来の自分なのだ。
「羊水」と化したゼライブに囲まれた世界は異様なほど静かだった。
だが、これがそう長く続くはずはない。
まず、もうすぐ息がもたなくなる。わたしはいずれ原始的な反射行動で
この呪わしい「羊水」を吸い込んでしまうだろう。それがわたしの命を奪う
ことはたぶんない。「繭」の中で窒息した人間はいないのだ。しかしまた
繭から人間のままで出てきた者も一人もいない。羊水に体の内側から
変質させられてしまうのだ。
それに、ぴくりとも動かなくなったゼライブと反比例して、わたしの心は、
荒れ狂っている。あの強烈かつ繊細な愛撫が不意に中断され、酸欠とは異質の
強烈な渇望が全身を焦がしていたのだ。――むずむずする。もっともっと
いじり回して欲しい。めっちゃくちゃにこね回して欲しい。
お腹やおっぱいだけじゃなく、あそこを!あそこを!どうにかして!
普段なら決して口にしないような卑猥な言葉を転がしている自分に
ふと気づき、その事実のいやらしさが情欲をさらに倍加させた。
他方で、息苦しさは限界に近づきつつあった。
ふと、自分の手足が、繭の中でなら自由に動くという事実に思い至る。
重力のほとんど相殺されたこの繭の中で、自分はどんな姿勢でも自由に
とれるのだ!
――ねえ!いじくっちゃおうよ!!
――息も吸っちゃおうよ!
他ならぬわたしがわたしを誘う。
――わたしはわたしだ。わたしがわたしの主人だ。
――わたしがわたしの体を好きなように使って、何のいけないことがあるの?
――なんで、好きこのんで、こんな苦しい思いをしないといけないの?
決して開いてはならない、そんな思考回路を、わたしはわたし自身で開いた。
そして自分が自分に与えた提案に促され、わたしは左手で乳首をぎゅっと
つまみ、それから乳房全体を揉みしだいた。爆発しそうな快感に
気を失いそうになったわたしは、とうとう右手の日記を手放し、
指先をあそこにあてがい、ゼライブとははっきり違う大量の粘液の
感触をたしかめると、指を一息に割れ目の一番上までしごき上げた。
脊髄を電撃が突き抜け、とうに限界に達していた気道の緊張が緩んだ。
「ごぼっ」
大きな泡をはき出したわたしの肺に、ほとんど自動的に大量の「羊水」が
流入する。羊水は酸素を肺に供給したが、同時に脳の中に、原色の赤に
染められた狂気が流入してきた。
「あああああああああああああああああああああああああああ」
人間の言葉では表現できないイメージの奔流。何かとてもおぞましい光景。
この地上の人間だけではない。どこか違う世界のまったく違う生き物たちが
抱く、まるで異質の、しかし根本的には同じ感情。憎悪。恐怖。苦しみ。
悲しみ。そして、そのような感情を糧にして肥え太る、「敵」と呼ばれる
不気味な存在。そんな風な、知識とも幻覚ともつかないイメージが
めまぐるしく頭をかき回し始める。
「ああん…ああああん…」
そんな中でも、わたしの指は休むことなくあそことおっぱいをいじり回す
のをやめなかった。だが、そうして自慰を続けるほどに、不満は募っていった。
――だめ!こんなんじゃ全然だめ。さっきのがいい!さっきのあれがいい!
狂おしいイメージは絶えることなく送り込まれている――「憎い」
「おぞましい」「逃げろ!」「あいつは敵だ!」「いやだ!」「怖い!」
「苦しい!」「助けて!」――数知れない世界での無限に多様な、
しかし生命を削り浸食するという意味では常に似通った、痛ましく
つらい感情が際限なく送り込まれる。
そして、どの世界でも「敵」は常に「敵」なのだ。
わたしがぎこちなくあそこや胸をまさぐり続けているうち、わたしの
焦げるような思いに、いつしか羊水、いやゼライブが反応を始めた。
羊水が徐々にあの粘性を取り戻し、わたしがして欲しいのと近い
動きを、少しずつしてくれるようになり始めたのだ。
「ううん…そうよ…そうよ…!」
ゼライブと自分の意志が連動し、快楽が高まるにつれて、絶え間なく
頭をかき回すイメージの嵐の見え方が、少しずつ変わってきたことに
気がついた。当初、漠然とした黒い塊にしか見えなかった、様々な世界の
様々な苦しみや悲しみ。その微妙な差異や陰影、その各々がもつ独自の個性、
あるいは独特の「味わい」。それが少しずつだが識別できるように
なってきた。
実際、それは、この宇宙で生まれうるありとあらゆる可能な生命体の
目録に等しいものだった。わたしは、憎悪や悲しみこそ、生命がその真の姿を
発揮するかけがえのない瞬間だという真理に、少しずつ気づき始めていた。
「あ……はん……」
わたしが真理に近づき、生きるものすべての「苦しみ」を賞味する喜びを
より深く知れば知るだけ、ゼライブとわたしの意志の連動は強くなって
いった。わたしはゼライブを自在に操ることができるようになり始め、
それによってより貪欲に、より巧みに、快楽を引き出す業を追求していった。
そうして快楽により深く溺れば、それだけわたしは、世界の中心に位置する
あの存在に、ゼライブを媒体としてつながっていることをより強く実感
するようになっていった。様々な生き物の、様々な形の負の感情を糧にして、
果てしなく進化する崇高な存在。そしてわたしはその存在の一部であり、
道具である。この事実をよりはっきり自覚すればそれだけ、ゼライブは
ますます自在にわたしの意志に従うようになる、より高度で洗練された快楽を
提供するようになっていった。
「ううううん…あああぁぁぁぁぁん」
今のゼライブは繭に入る前にわたしに与えていた快楽をはるかに超えた
快楽をわたしに与えている。…いや、わたしが自らの意志でわたしに与えて
いるのか?しかしゼライブを動かしているのはわたしなのだろうか?
わたしの意志がゼライブに適合してるのではないのか????
快楽を自ら与え、受けるという果てしない連鎖の中、わたしは自分が
どこにいるのか分からなくなりかけていた。そうして出口のない回路の中で
途方に暮れかけたとき、天啓のように「真理」が降りてきた。
――実のところ、わたしはあのお方の一部であるだけではなく、
ある意味ではあのお方そのものなのだ。
――多様などす黒い感情を吸い込み、時空を越え永久に進化し続ける存在。
あのお方は未来のわたしであり、わたしは過去のあのお方だ。あのお方は
進化し続ける我々の同胞すべての未来の姿であり、逆に我々すべては
あのお方の過去の発展段階の一こまだ。そして永遠の相の下で見れば
過去と未来はなくなる。限りなく進化を続ける永遠なる存在が
ただ一つあるだけなのだ。わたしはあのお方であり、あのお方はわたしだ!
…この神々しい認識にわたしが達したとき、久しく待ち望んでいた
瞬間が訪れた。羊水の一部が凝縮し、固く太い棒と化したのだ。
じれるような渇望をこらえながら、わたしは両足を大きく広げ、棒の先端を
あそこにあてがう。そして腰と羊水をゼライブの自在に動かしながら
棒の先端であそこをかき回す。
高まる期待に胸躍らせたわたしは一度棒をあそこから外し、それを
両手で丁寧に撫で回し、先端に熱いキスをする。そして今度こそ
挿入するために、再びあそこへあてがう。
高まる期待は決して性的快楽だけへのものではない。
この熱い棒こそ、今この時空でのあのお方そのものなのだ。それと一体に
なるとき、わたしのすべての過去は消え、わたしは真にあのお方の一部、
すべての時空に同時に存在する、あのお方そのものへと転成するのである。
ああ、そのときが、もう、いますぐにでも、目の前にあるのだ……!
…だが、挿入はなされなかった。何かみすぼらしい異物がわたしと
あのお方を隔てたのだ――……みすぼらしい異物?……ノート……
……交換日記……………おかあさん!
わたしの中の異質な感情の覚醒によって羊水のバランスが急激に崩れた。
羊水の一部が凝固し、一部が再び完全に液体化した。やがて繭の外皮が
破け、わたしは異物であるかのように地面にはき出された。
部屋中に、砕け散った繭の破片が散らばっていた。固体と液体に分離した
ゼライブは、もはや「媒体」としての機能を果たさないただの残骸だった。
わたしは立ち上がり、自分の姿を姿見に映してみた。
鏡に映った姿は、もはや完全に人間のものではなかった。
全身は濃い緑色の、ぬめぬめした両生類のような皮膚に覆われ、
ネズミのような尻尾が生えている。両手の爪はかぎ爪になり、よくみると
指が八本もある。髪の毛と陰毛は真っ赤な触手になり、額には二本の角。
目は円形の真っ赤な複眼。口は昆虫のような大あご。背中には昆虫とも
コウモリともつかない、グロテスクな肉質の羽根が生えている。
女の子としての救いは、体型そのものが以前と大差ないか、ちょっぴり
グラマーになったというところか。また乳房も陰部も大きな変化は
ない。乳首や陰部の色が毒々しい黄色になっているぐらいだ。
そして心の中も、もう取り返しのつかないほど変貌してしまった。
今のわたしは生命体の負の感情を味わい、それによって精神的進化を
続ける、どす黒い歪んだ魔性の存在である。幸か不幸か中枢システムへの
完全な同化を果たしそびれてしまったとはいえ、今のわたしは以前として
「敵」や「あのお方」と呼ばれる高次元多階層知性体の一部分を構成する
存在ではあるのだ。ついでに言えば、今のわたしは、性的快楽を貪欲に
追い求めるように調教されてしまった、薄汚れたメス豚でもある。
母の形見を取り戻しに、危険な「敵」の中へ飛び込んでいく、けなげで
純真で初々しい少女は、残念ながら――ああ、なんていい言葉!――
もうどこにもいないのである。
…とここまで考えたとき、わたしは自分が繭から最終的にはじき出された
経緯の記憶をはっきり取り戻した。そして自分が両手に持っているものに
気づき、軽くうろたえた。
わたしの右手には多少よれよれになった母の形見の交換日記があった。
そして左手には、あろうことか、この時空での現在の「あのお方」
そのものである、ゼライブ製の巨大な男根があったのである。
わたしの最初の反応は涙だった。こんな複眼のどこに涙腺があるのかと
思うのだが、流れるものは仕方がない。
涙のわけは、自分の中に、ほんのカケラでも、女の子らしい気持ちが
残っていたこと、そして形見の日記が無事だったことへの喜び、そして
何より、亡き母への感謝の気持ちだった。
母の日記がはさまったおかげで、わたしは「敵」との最終的な合体を
回避できたのだ。母との思い出が消え、そもそもわたしが母の娘であった
という事実そのものがこの時空から消失してしまうことを回避できたのだ。
母の日記を取り戻したいという純真な思いだけは守り通し、そして
母の日記そのものも無事だったのである。
それだけではない。ここには、母の日記のおかげで、恐るべき「敵」の
本体があるのだ。ゼライブでできた男根にすぎないこれを、今
粉々に破棄すれば、この地上から、いや、今現在のこの時空から、
「敵」は消滅するのだ。
もちろん、永遠なる存在である「敵」を本当の意味で消滅させることは
できない。しかしまた永遠なる存在とはいえ、その時空での肉体が
なくなれば、もうそこでの活動はできなくなる。
例えば「敵」が、大昔に永遠なる存在として覚醒する以前は、やはり
どこかの時空で生まれ、普通に修行していたただの生き物だったはずだ。
仮にそのときの「敵」をその時空で殺していたら、その時空で「敵」が
悪事をなすことはなかっただろう。そして今この時空でのこの男根は
そういうまれな存在なのだ。
なんでそんなことになったかと言えば、言うまでもなく「敵」は
わたしを中枢に取り込み、つまりはわたしの肉体をこの時空での
あらたな寄り代にして、さらなる高みを目指そうとしていたからだ。
その最後の儀式を母の日記が阻止したのである。
それはたぶん偶然ではない。母の強い思いが因果律に多少のひずみを
もたらしたのである。母の愛がわたしの人間としての生を救った。
そして、いまこの男根を破壊すれば、「敵」の知性を構築している
莫大な情報は失われる。そして、わたしたちが知りうる範囲で
「敵」が自分の進化のためだけに生み出そうとしてきた
すべての悲しみ、苦しみ、その他から人々は救われるのである。
「くくっ、なあんだ。なら、すべきことは一つじゃない!あははは」
わたしはそこまで考えると思わず口に出して笑い出さずには
いられなかった。
そうだ。すべきことは一つだ。母の日記をいますぐ燃やし、
そして改めて「あのお方」と一つになるのである。他の選択肢は
思いつかない。
今のわたしにとって最も甘美なものは憎しみや悲しみの感情である。
たとえそれが自分自身に生じる感情でも、それは変わるところがない。
いたいけな少女がかろうじて守り抜いた母の形見。それを無情にも
火にくべる。そのとき生じる怒り、悲しみ。亡き母の踏みにじられた
思い。そんなステキな悲劇がもうすぐ見られるのだ。
それに、せっかく封印した「敵」をむざむざとまた解放する。
そうして世界に苦しみと悲しみがさらに満ちあふれる。これは、
ただ単に世界を苦しみと悲しみで満たすより、はるかに面白いことでは
ないだろうか?希望というスパイスが一さじ入るだけで、絶望の味は
何倍にもなるだろう。
そして、それよりも何よりも、わたしは「あのお方」とのセックスの
機会がまだ失われていなかったという事実に、目が回りそうな喜びを
おぼえていたのである。
この男根は決してただの張り型ではない。これと交わることは
あのお方と交わることだ。時空を越え永劫の過去から蓄積してきた
様々なテク。それを駆使して絶頂に達し、その果てにあのお方自身と
一体化することができる。あのお方に調教して頂いたこの貪欲な性欲を、
あのお方自身に満たして頂ける。こんな機会をどうしたら見逃せようか?
わたしは高まる期待で胸が張り裂けそうだった。
* * * *
結局、わたしは母の日記を燃やすこともなく、「あのお方」ないしは
「敵」と一体化することなかった。かといってこの男根を破壊する
こともしなかった。
世界は絶望と希望の宙ぶらりんの状態にある。わたしがこの二つの
アイテムをこのままにしておく限り、この状態は続くだろう。
世界を絶望から救ったのは、一つにはわたしの中の「魔性以上の魔性」
であり、もう一つには、おそらく母の日記が残してくれた人間の良心だ。
どちらが本当の原因なのかは永久に分からないと思う。だがいずれにせよ、
あのあと、わたしの中の魔性がこうささやいたことは事実だ。
「ねえ。色々楽しみにしているようだけど、あんたのお楽しみって、
ちょっと陳腐じゃない?もっとずっと味わい深い負の感情はあるのよ。
考えてみて。いたいけな少女の苦しみ、世界の絶望、そして
めくるめく『あのお方』との一体化。そんなすばらしい『ごちそう』に、
何の根拠もなく『待った』をかけられた魔女の苦悩ってどう思う?
交わろうと思えばいつでもできる『あのお方』と、なんの理由もなく
交わってはいけない、というルールを自分に課すの。
理不尽きわまりないルールを、それでも守り続けないといけないの。
…どう?苦しみといえば、こんな不条理で複雑な苦しみなんて、
ちょっとないんじゃない?」
結局、わたしは自分自身に説得された。たしかにその通りなのだ。
燃やそうと思えばすぐに燃やせる日記、交わろうと思えばいつでも
交われる男根、また反対に、この時空の幸せのために、壊す気になれば
いつでも壊せる「敵」の本体。それを手にしつつも、何もしない
宙ぶらりんの状況を維持する。こんな意味不明の苦行は存在しない。
それに苦しんでいるわたしの苦しみは、たしかに、他のどんな苦しみ
よりも甘美で味わい深い。…これは、わたしにとって、否定しようのない
事実なのだ。
結局のところわたしは、母も「あのお方」も好きなんだろうと思う。
どちらかを選ぶなんて、できはしないのである。(了)