「こちらがお部屋でございます。どうぞごゆっくり」
「ありがとう。これはチップだ、受け取りたまえ」
にこやかな男が、ホテルのボーイに気前よく紙幣を差し出す。
男は花婿の衣装に身を包んでおり、横には初々しい花嫁がいる。
だが部屋に入ったとたん、花婿の顔から跡形もなく微笑みが消える。
そして男は花嫁をにらみつけ、低い声で言う。
「陽子!あの化け物がくたばるの見て、涙を流していたな。
あれはどういうことだ?おまえ、やっぱりあの男を、山本をぉ…」
言いながら花婿の声は徐々にかん高くなり、しまいに声が裏返ると同時に、
振り上げられた拳が花嫁の口元を襲う。
床にくずれた花嫁は、口を押さえながら立ち上がり、か細い声で言う。
「…シャワーを、浴びてきます」
「初夜のちぎり」を始めましょう、それで機嫌を直して下さい、という
合図だった。婚前の交渉は数知れずあったが、この潔癖性の男、青木は、
いつも行為の前に、相手に体を丹念に洗うことを強要してきたのだった。
青木の言葉を肯定しても、否定しても、二番目の拳が飛んでくるだろう。
そう判断した花嫁、陽子は、まるで逃げ場を求めるように浴室に姿を消した。
うるさい音をたてる換気扇をつけ、衣類を脱ぎ、浴槽の中でシャワーが
温まるのを待ちながら、陽子は複雑な思いで水流を眺めていた。
やはり自分は、結婚する相手を間違えたのではないか?容姿、男らしさ、
将来性…そういった打算めいたものだけで、一生を添い遂げる相手を決める
というのは、自分の中の、何か大事なものを失うことだったのではないか?
――山本さん、わたし、間違っていたのかしら……?――
そのとき、換気扇の下から「あれ」が下りてきた。陽子が気づいた
ときには、「あれ」はすでに、全裸の、やや汗ばんだ陽子に飛びついていた。
悲鳴を上げる間もなく、陽子の口は猿ぐつわをかまされたかのように、
あるいは、柔らかいキスで唇をふさがれたかのように、声を封じられていた。
かつて山本という男だった、緑色に光る不定形の怪生物が、その偽足を
陽子の口に押し当てているのだった。
ほぼ同時に、別の偽足が陽子の手足に絡まり、その動きを封じた。
陽子はそのまま、バスタブの中にぐずぐずとへたり込むしかなかった。
陽子の目は恐怖に見開かれていた。一瞬前まで心に浮かんでいた、
山本への思慕は消えていた。代わりに今の陽子の心を支配していたのは、
自分を殺そうとする恐ろしい怪物である山本への恐怖と、浴室の外にいる
青木にすがり、自分を助けてもらいたい、という思いだった。
しかも、その思いは届かぬままに終わるに違いなかった。
陽子の口と手足はふさがれ、浴室の異変は換気扇の騒音とシャワーの
水流の音にかき消されている。陽子の普段の所要時間からして、少なくとも
十数分、いや二十分以上経たねば、外の青木が中の異変に気づくことは
ないだろう。そしてその頃には、陽子の命はとっくに絶たれているはずだ。
この、かつて山本という名だった怪生物が放つ高濃度の亜硫酸ガスは、
襲われた人間をほぼ瞬時に死に至らしめてきた。陽子の命もあと一分足らず、
いや、数秒もない可能性すらあった。
だが、発作的な恐怖が去ると、陽子は自分がまだ生き続けていることに
気が付いた。他の犠牲者のように、死の苦しみがただちに訪れる気配は
ない。怪生物はたしかに硫黄のような異臭を発しているが、有毒ガスの
濃度は、致死量にはるかに満たない量のようだった。
怪生物の本体は陽子の首の下にとりつき、人間の腕ほどの太い偽足を
陽子の首の後ろに回していた。その表面温度は人体よりもやや高いほどで、
その動きには、山本が人間のままだったらかくあろうという、優しさと
気遣いが感じられなくもなかった。
怪生物は陽子の背後で二本の偽足を接合させ、陽子の体を丸く取り囲んだ。
そして陽子の肩をかき抱くように偽足を下に移動させ始めた。
本体もまた首から胸元、そして露わな乳房へと、滑るように移動を始めた。
怪生物の体が陽子の胸を覆い尽くすと、どこかおずおずとした、
とても柔らかで複雑な刺激が、乳房と乳首を取り囲んで開始された。
人間の指には決して不可能な、不定形生物にのみ可能な角度と力点から、
繊細で気遣いに満ちた愛撫が続いていった。
陽子は思いがけない山本の動きにとまどい、一瞬感じた恐怖感や嫌悪感を
後悔しさえした。そして間もなく、奇妙な非現実感の中で、その柔らかで
巧みな愛撫に陶酔し始めた。それは、山本がもし自分を愛してくれたら
多分こうだろうという、陽子の夢想そのまま…いや、それ以上の現実だった。
山本が陽子との恋愛を夢想していたように、陽子もまた、暴力的な
婚約者とは違う愛を、心密かに山本に求めていた。その夢想は、
青木の目に怯え、そして何より自分自身の心を直視するのに怯えて、山本の
遺した本を開くことすらしなかった陽子の、奥深く秘められた想いであった。
陽子が山本の動きに反応するたび、それを山本はめざとく捉え、
より巧妙に、より強く陽子の反応を引き出すように、愛撫が続いた。
だが突然、陽子は、愛撫が激しさを増すにつれ、ガスの濃度も徐々に
増してきたことに気づき、再び強い恐怖にとらわれた。
――このひとは、やはりわたしを殺すつもりなのだ!!――
だが、その恐怖が陽子の快楽を消し去ることはなかった。むしろその、
恐怖と、徐々に高まり来る肺への苦痛は、甘美な官能的快楽を高めた。
陽子はそうして生と死の境界線の上をさまよいながら、激しく困惑していた。
――山本さん!わたしが憎いの?わたしを慰み者にして、じわじわと
いたぶるのがあなたの目的??……ならば……ならば……なんであなたは
こんなに優しいの??こんなに優しいのに、なぜ、わたしをこんなに苦しい
目に遭わせるの???わたしを殺したいの?わたしを愛したいの?
殺したいの?愛したいの?????……――
ガスの濃度はさらに高まっていく。同時に山本はその不定形の肉体を徐々に
陽子の下半身へと移動させる。心なしか、最初よりも温度の上がった偽足が、
一部は脇腹から、一部はへそを越えて、とうとう陽子の秘部の周囲に達し、
その部分をそろりそろりとまさぐり始める。やがて、すでに濡れ始めている
部分に細い偽足が伸び、粘膜に沿って、ゆるやかな摩擦を開始する。
濃度を上げ、生命を着実に蝕んでいくガスの中、陽子の苦しみと快楽は
さらに互いを高め合うのをやめなかった。
秘部を完全に覆った偽足は、密着する軟体を動かして、中心の穴を
丸く押し広げた。やがて中央に開いた開口部に、ひときわ熱く固くなった
偽足がゆっくりと、そしてどこかためらいがちに、押し入り始めた。
「…んぐ…んぐ……んは……ん……ん」
四肢と声を封じられた陽子は、くぐもった声でそう発するしかなかった。
その内側に渦巻く苦痛と快楽は、いまやはっきりと一つの形を取り始めていた。
――死にたくない!この甘美で、あたたかで、優しい時間を、永遠に
味わいたい!山本さんを、そして山本さんが愛してくれるわたしを、
絶対に、絶対に失いたくない!!――
山本はその偽足を完全に陽子の内部に挿入し、はじめはゆっくり、
やがて激しく、前後運動を開始した。運動は微妙な緩急に富み、
偽足の表面は絶えず微細に波打っていた。乳房や陰核への刺激も波状的に
なされた。だが次第にその動きは陽子の内部の偽足に集中し、偽足はその
硬さと太さと速さを増した。それと共に、陽子の快楽と苦痛はとめどもなく
上昇を続けた。
そしてついに陽子の興奮が頂点に達したとき、ガスの濃度も致死量に達した。
「…う…く…はん…く…はん…はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
体表からの致死量のガスと、偽足の先端から胎内に放出された有毒な
エキスが、陽子の肉体を深部まで決定的に蝕んだ。陽子の裸体が、
かつての犠牲者たちと同じく、金色の妖しい輝きを発する。
――苦しい!死にたくない!死にたくない!!!!――
陽子は目前に迫る死の世界への転落に、必死で抗った。
そのとき、陽子の体に異変が生じた。美しい素肌の表面に「湯の花」の
ような細かい結晶体が一斉に吹き出したのだ。手足、胴体、そして、
鏡に映ったその顔を黄色い結晶体が覆っていくのを、陽子は目にした。
陽子がそのとき感じたのは、意外にも、今まで感じたことのない解放感
だった。これまで窮屈な牢屋の中に閉じこめられていたことに、今やっと
気づいたような、爽快で自由な感覚。ついさっきまでの死の苦痛も、
ぬぐい取ったように消えていた。
過酷な環境とそれを乗り越える「生への意志」が、はるか太古、原始的な
単細胞生物だった頃の人類の祖先が用いていた古い代謝系を覚醒させ、
陽子の肉体全体を別の生命体へと、急激に作りかえているのだった。
陽子は、黄色い結晶体に覆い尽くされた自分の両足が、緑色の燐光を
放ちながらぐずぐずと崩れ始めたのを目にした。痛みは全くなく、
むしろどんな形にも自在に変形できる解放感を陽子は堪能した。
やがて液状化は腕に及び、さらに胴体を下から上へ進んでいった。
山本に優しく抱かれながら、いつしか陽子の首から下は山本と同じ、
緑色の光を放つ不定形生物に変じていた。
黄色い結晶体に覆われた陽子の顔は、極上の歓喜に満たされていた。
――ああ、山本さん。あなたはわたしに、これをくれるつもりだったのね!
汚職事件とか、復讐とか、そんなことはきっとどうでもよかったのね!!
あなたはわたしを、この素晴らしい世界に誘うために来てくれたのね!!!
素敵よ!山本さん!!素敵!!!――
それが、陽子の人間としての最後の意識だった。やがて陽子の頭部もまた、
緑色に発光し、人間としての形を失っていった。
そうして、浴室には二体の絡み合う燐光人間が残された。
二体の燐光人間はそのまま、燐光人間にしか味わえない、深く親密な
交わりを、改めて開始しようとしていた。
だが、そのとき、無粋な闖入者の、野太い恐怖の叫びが浴室に響いた。
陽子だった生物は、迷わずにその声の主に飛びかかり、自分がなすべき
ことをなした。
* * * *
実験室から、顔面蒼白の牧がフラスコをもって飛び出してきた。
「大変だ!山本は死んでない!事件はまだ終わっていなかったんだ!!」
的矢が驚いてたずねる。
「どういうことだ牧君?いくら燐光人間でも、あの猛烈な炎の雨を、
いったいどうやって生き延びられるというんだ!?」
「詳しい説明は後です!ともかく、陽子さんと青木君が危ない!彼らは今
どこに?」
さおりが言う。
「たしか、今夜は都内のホテルに泊まっているはずよ。ここのすぐ近く。
ハネムーンには明日出発だとか」
「急げ!急がないと…」
牧たちが駆けつけたときには、現場には青木の死体が転がっている
だけだった。野村が悔しそうに言う。
「…遅かったか。所轄署に電話を入れないと!…それにしても、
陽子さんはいったいどこに!?」
野村が首をかしげる。その横で牧は手袋をはめ、青木の死体を検分し、
次いでそのカバンを調べ始める。SRIの鑑識は本職よりもずっと優秀で、
文句を言う警察関係者はこの近辺にはいない。
「なあ、ノム。いったいどういう愛し方をすると、こんなところに口紅が
付くんだろうな」
そう言って牧は青木の拳にこびりついた口紅をみせる。
「それに、花婿の持ち物にしては、なんだか妙なものが入っているなあ」
牧は青木のカバンの中から、何かの薬瓶と、女文字で「遺書」と書かれた
封筒を取り出す。薬瓶を見せられた野村が驚いて言う。
「これは…青酸カリ!?」
封筒を開きながら、牧が言う。
「例の『黒い霧』だがね、町田警部の話では、捜査の手が下級の職員にも
伸び始めていたようで、どうもこの青木君の立場も微妙になっていた
らしいんだが…」
中の便箋を取り出し、読み始めた牧は、うめくように言った。
「ううむ、この青木という男、かなりの曲者のようだ。…ひょっとすると、
陽子さんは、命拾いをしたのかもしれない…」
野村が怒ったように言う。
「牧さん!何わけのわからないことを言ってるんです!陽子さんが
生きているか死んでいるかすら、見当もついてないんですよ!!」
牧は野村の言葉を聞いていないのか、マイペースで指示を出す。
「ノム、ケミカルスプレーを頼む。なるべく広い範囲にだ」
野村がしぶしぶ指示に従い、床に複雑なパターンが広がる。
「なあノム。これは燐光人間が這った跡に違いないが、どうだい?
跡が二本ついているようには見えないか?」
「…はあ?ということは、燐光人間が二体??…どういうことですか???」
「つまり、事件は本当に終わったかもしれない、ということさ」
「????」
数日後。燐光人間の消息はつかめず、陽子の行方も依然不明だった。
牧だけが何かを得心した顔で、ある情報を待っていた。
やがて電話を受けていた三沢が、受話器を置いて牧に言う。
「先輩の言ったとおり、阿蘇で二体の燐光人間らしき生物が目撃された
そうです。しかも…まるで二匹のネコみたいに仲良くじゃれ合いながら、
火口の中に入っていったとか…」
「そうか。これで事件は終わったようだ。もう燐光人間が人を襲うことも
ないだろう」
一同は怪訝な顔で牧を見つめるが、牧は意に介さず話を続ける。
「多分今頃、二人でハネムーンを満喫しているんだろう。気弱な男が花嫁を
さらって逃亡する。この間見た映画にそんなのがあったよ。なんだか…
…そう…うらやましいよ」
(了/♪恐怖の町)