[一週目]
「賀茂川さん、放課後ご予定はあります?よろしければ、わたしのお家に
遊びにいらっしゃいません?」
高田通子さんがわたしに声をかけてきた。わたしは軽い驚きを覚える。
通子は「みちこ」と読む。どことなく人を寄せ付けない感じのする、
孤高で上品なお嬢様、といった感じの少女だ。高校の入学式から二ヶ月以上
経っても、誰とも親しく口をきいている姿を見た覚えがなく、わたしも
何となく敬遠していた。だが、半月ほど前、美術の時間にペアで肖像画を
描き合ってから、わたしとだけはなんとなくうち解け、会話も交わすように
なっていた。帰る方向が同じで、何度か一緒に帰ったりもするようになった。
とはいえ、口数は少なく、話にしても、先生の印象とか、国語の授業で
出てきた本の話とか、あたりさわりのない話をぽつぽつとする程度。
わたしがいかにも庶民の娘らしくテレビやらマンガの話をしても、
そういうものを見ないらしく、話が続かない。
そんな通子さんがわたしを自宅に招待してくれると急に言い出したのだ。
断る理由のなかったわたしは答えた。
「え?あの、いいの?予定なんてないし、じゃあ、お邪魔します!」
「ふふ、よかった。楽しみね」
通子さんはにっこりと普段なかなか見せない笑顔を見せた。その笑顔は
ぞっとするほど美しく、わたしは一瞬見とれてしまった。
通子さんの家は案の定、大豪邸と言っていい家だった。門をくぐり、
短くはない小道を通り抜けて玄関に着く。通子さんが玄関を開けると、
黒い素敵なドレスを着た女性がわたしを出迎える。
「いらっしゃい。あなたが賀茂川つぐみさんね?通子がいつもお世話に
なっています!」
とても若々しく見えるのが、通子さんのお母様なのだろう。にこやかに
わたしを迎えてくれたその笑みは、わたしを誘ってくれたときの通子さんの
あの笑顔そっくりで、やはりぞくりとするほど美しい。
お母様に案内されるまま、わたしたちは廊下を歩き、突き当たりの部屋に
通される。
部屋は大広間と言ってもいいほどの、とても大きな部屋だった。
家のちょうど中央にあるらしく、四方のどこにも窓がないのだが、立派な
シャンデリアが煌々と照っていて、とても明るい。
部屋の中では若い女性が紅茶の用意をしていた。
「いらっしゃい。通子の姉です。よろしく。お茶をどうぞ」
お姉様もまた、あのぞくりとするほど美しい笑顔でわたしを迎えてくれた。
勧められるままわたしは椅子に座り、紅茶に口をつける。
紅茶を飲みながら、わたしは行儀が悪いと思いつつも、ついきょろきょろと
あたりを見回してしまう。それからティーカップを眺め、紅茶をもう一口
飲み、やがて、玄関をくぐったときから何となく感じていた違和感の正体に、
おぼろげにだが気づき始める。
――なんだか、趣味が悪い――
わたしの父は貧乏学者で、うちの生活水準は中流か、下手をすると下流に
ひっかかるほどなのだが、母の実家は元をただすと名家の流れで、そちら方の
祖父母の家に行くと由緒ある骨董や高級な食器類が揃っている。子供の頃
からそういうものを見慣れていたせいか、わたしは目だけは無駄に肥えて
いるつもりだ。
そんなわたしが見るところ、この家の調度や、家具や、あるいはこの
食器や紅茶などは、たしかに高そうなものばかりなのだが、お金のかけどころ
を間違えているというか、このクラスの品でなんでこれを選ぶかなあと
いうか、そういう、なんだか品がなかったり、さらには悪趣味なものが
多いのだった。
でも、こんな失礼な感想を表に出すわけにはいかない。そう思いながら、
あまりおいしいとはいえない紅茶をもう一口飲もうとしたとき、背後から
面白そうに通子さんのお母様が声を発した。
「あら。一発でわが家の素姓を見抜くなんて、なかなか見る目がある方
なのね?通子さん、これは『掘り出し物』なのじゃなくて?」
わたしの前に座る通子さんがうれしそうに答える。
「そうでしょう?そんな感じがしたのよ!」
わたしは、背後にいたはずの通子さんのお母様が、なんでわたしの内心を
ああまで正確に見抜いたのか、気味の悪い思いを抱きながらも、頭越しに
なされる会話に割って入りづらい気がして、黙って会話を聞いていた。
通子さんのお母様が言う。
「まずは固定して、わたしたちの姿を見てもらいましょう」
いつのまにかわたしの背後に回っていたお姉様も言う。
「そうね。脱ぎ終わるまでの間、動けないようにしておかないと」
その言葉が終わらないうちに、立ち上がった通子さんと背後から来た
お姉様が、信じられない動作をした。ベルトのようなものを手にして、
わたしの両腕を椅子の肘掛けに固定してしまったのである。手にした
ティーカップが落ち、通子さんがそれを器用に受け止めた。ほぼ同時に、
椅子の後ろからお母様が、やはりベルトのようなものを回してきて、わたしの
体を背もたれに固定してしまった。あれよという間に両足も固定され、
一瞬でわたしは重い頑丈な椅子に縛り付けられてしまうことになった。
わたしは唖然としながら、わたしの様子をにやにやと見つめる三人の
女性に語りかけた。
「な、何をするんですか!悪い冗談はやめて!放して!」
通子さんはあのぞくりとする笑みを浮かべながら言った。
「今、わたしたちの本当の姿を見せてあげる。そしてこれは、あなた自身の
数十分後の姿でもあるのよ」
それから三人の女性は気違いじみた行為を始めた。揃って、自分の
衣服を脱ぎ始めたのである。服を脱いだ後は、下着を外し始めた。
ストッキングやソックスまで脱ぎ捨て、とうとう完全な裸身を恥ずかしげもなく
さらす。わたしは頭が変になりそうだった。それ以上に、このままでは
わたし自身にも何かをされるのではないか、という恐怖が掻き立てられた。
だが真の悪夢はその後だった。全裸になった彼女たちは、その頭髪を
ばさりと外し、次に、頭頂部からお尻のあたりまで走るジッパーを引き
下げた。そして、全身を覆っていた人間の皮膚をぺろりと脱ぎ捨て、
その下にある異形の正体を露わにさらけ出したのだ。
露わにされた通子さんたちの皮膚は、ぶよぶよしてピンク色に充血した、
ミミズかヒルの体のようだった。その表面をぬるぬるした粘液が覆っていて、
シャンデリアの明かりに照らされ、てらてらと光沢を放っている。全身に
毛は一本もない。髪の毛だけは生えているように見えたが、よく見ると
それはごく細いイトミミズのようなものでできていて、ごよごよと動いて
いる。目玉は、「皮」を脱ぎ捨てた直後は人間の目の名残をとどめていたが、
やがて全体が緑色に染まり、昆虫の複眼のようなものに変化してしまった。
そしてその顎も、アリやカミキリムシなどを思わせる、昆虫の大顎のような
形で、キチキチキチキチと不気味な音を立てている。乳首の部分だけが
血のように真っ赤で、股の部分には、普通なら肉で覆われた隠さねば
ならない器官が、まるで指で押し広げたように堂々と露わにされている。
わたしは悲鳴を上げた。狂乱し、目からは涙が出てきた。
三匹の怪物はそんなわたしの様子を落ち着き払って観察し、それから
脱ぎ捨てた人間の皮の口のあたりから何かを取り出し、自分の口にはめた。
怪物の口の部分だけが人間の口に戻り、そのちぐはぐさがかえって不気味
だった。通子さんだったはずの怪物がその口を開いた。
「これをはめないと人間相手にうまくしゃべれないのよ。家族と話すときは、
こんな邪魔なもの要らないんだけどね。いずれ、あなた相手に話すときも、
こんなもの使わずに済むようになるわ。ふふふ…」
わたしは何とか気力をふりしぼり、怪物に向かって言った。
「…な、何なの?あなたは?あなたたちは?」
通子さんの姉だった怪物が言った。
「説明は追い追いしていくわ。でもまずは仲間になってもらわないと」
その言葉を合図に、三匹の怪物がわたしに近づいてきた。わたしはもう
意味のある言葉を発することができず、大声でわめき散らすしかなかった。
「いくら声を立てても外には漏れないわ。そういう設計なのよ」
「肉体の変化自体にそんなに時間はかからないわ。心の方はちょっと面倒
だけどね」
そう言いながら三匹の怪物はわたしを取り囲み、リクライニングシート
のように椅子の背もたれを倒した。そして、わたしを押さえつけ、わたしを
固定しているベルトを器用にゆるめながら、わたしのセーラー服、スカート、
それにブラとパンティをするすると脱がせてしまった。あっという間に
わたしは靴下以外完全に全裸に剥かれ、不吉なベッドに固定されてしまって
いた。そして、そんなわたしの上に、通子さんだった怪物がのしかかってきた。
「難しいことは何もないわ。わたしたちの肉体から出ている粘液をあなたの
肉体に染みこませるだけ。ずうっとこうしているうちに…」
そう言いながら通子さんの怪物はわたしの腰の上にまたがり、ぬめぬめ
する手のひらでお腹や肩や胸を撫で回す。わたしは抵抗しようとするが、
拘束された体はびくともしない。
「…だんだん体の表面が変化していく。やがて変化は体の内側まで進んで、
完全に違う生きものに生まれ変わるの。わたしもそうだった。お母さんに
襲われて、こうなったのよ」
常軌を逸した内容だが、現にその通りのことをされたに違いない当人が
そう言っているのだ。信じないわけはいかない。羞恥心と不快感に、
とてつもない恐怖が加わり、わたしは絶叫する。
「やめて!やめて!怪物になんてなりたくない!」
通子の化け物がなぜか時折あえぎ声を漏らしながらも楽しそうに言う。
「もう遅いわ。ほら、この辺をご覧なさい。もう変わり始めたわ」
化け物は爪のないぶよぶよの指でわたしのお腹から乳房の下半分を丸く
なぞってみせる。その部分の皮膚が、いつの間にか化け物と同じピンク色で
ぶよぶよしたものに変わりかけているのが分かる。わたしは再度悲鳴を
上げるが、化け物はその手で体中を撫で回すのをやめはしない。
通子の姉の化け物が足下に歩み寄り、足の指先から、足首、そして
ふくらはぎとすねへ、両手で粘液を塗りつけ始める。そして、やはり
どういうわけか呼気を徐々に荒くしながら、わたしに説明を始める。
「ちょっと前まで、母もわたしも普通の人間だったわ。でも、母がある
会社のダイエット器具を使って以来、わたしたちは生まれ変わったの」
通子だった怪物が、さらに呼気を荒げながら、わたしの胸を揉みし
だきつつ、その説明を補う。いつしか変質は胸全体におよび、乳首が
この怪物どもと同じく、血のように真っ赤になってしまっている。
「わたしが子供の頃、父が死んだ。大富豪で、ずっと歳の離れたお父さん。
母よりも三十歳も年上で、若い奥さんをもらって大喜びだったそう
なんだけど、結婚後三年も経たずに、心不全で急死してしまったの。
多額の保険金と莫大な遺産を得た母は、ある時期まで遊んで暮らして
いた。だけどさすがに遺産も目減りして、始めたのが、この邸宅を
倉庫代わりにした通信販売。『背が伸びる薬』とか『幸運の宝石』とか、
二束三文の原材料を高値で売りさばく商売ね。他に得意にしていたのが、
安い原材料で作った、ヒット商品そっくりの模造商品。姉が言った
ダイエット器具もそのために取り寄せたの」
「通子。ちょっと違うわ」
通子さんの母だった怪物が口を挟む。その怪物はぐったりと力の抜けた
わたしを椅子から下ろし、後ろから抱きついてその豊満な胸を背中に
押し当てている。その息づかいはやはり次第に荒く激しくなっていく。
怪物の乳房が背中を這うたびに、自分の皮膚が変質しつつある感触が
伝わってくる。怪物は話を続ける。
「あの器具は試作品でまだ売り出されていない。しかも、もともとは
向こうからわざわざ送ってきたものなの。
最初にあの会社から連絡が来たときはドキッとしたわ。パクリ商品への
クレームかと思ったのね。ところがどうも、うちをあの会社の代理店か
何かと勘違いしていると分かった。適当に話を合わせていたら、
うまいことに、来年発売予定の新製品の試供品とやらを送ってきたのよ。
一見して分かったわ。デザインがすごくいい。本当にやせるかはさておき、
見るからに『やせそう』『スタイルがよくなりそう』と思えるデザイン
だった。発売前にこれをパクれば、大ヒット間違いない。
…でも、それより何より、わたし自身がその商品の魅力に引き込まれて
しまったの。何はともあれ、自分で一度試してみたい!と思った。
…そしてその結果、わたしは人間でなくなった。その後すぐに、二人の
娘にも人間ではなくなってもらったわ。それから、思うところがあって、
パクリ商品を売るのはやめにして、その会社とはちゃんとした代理店契約
を結ぶことにした…」
今や三匹の怪物は思い思いの姿勢でわたしの肉体にとりつき、全身から
分泌される粘液を執拗にわたしの皮膚に塗りつけ続けている。やがて、
煩わしくなったのか怪物たちは贋物の口を取り外し、その下から現れた
大顎でわたしの肉体のあちこちを噛み始める。その噛み傷はわたしに
奇妙な掻痒感を与え、わたしは変なうめき声をあげてしまう。そして
噛まれた部分を中心に皮膚が火照り始め、その熱は皮膚全体を覆い、
さらに体内に移動し始める。やがて熱い塊は体内の中心部に集まり、
そこからゆっくりと下腹部に下りていく。
「ああっ!熱い!あついよ…」
下腹部に集まった熱は、わたしの、女としての大事な部分に集中し、
さらにその温度を上げる。わたしはいつの間にか三匹の怪物と似たり
寄ったりの荒い息づかいをしている自分に気がつく。
「…ふう…ふう…ふう…ああっ…ああああああああああああああっ
………あっ!!!」
集まった熱が破裂し、感じたことのない強烈な刺激が脳を直撃した。
わたしの肉体はガクンと痙攣し、その瞬間、人間の下あごがぼとりと
下に落ち、その代わりに昆虫のような大顎がにゅっと生えてきた。頭髪は
ずるりと後頭部へはがれ落ち、あのイトミミズのような触手がぞわぞわと
伸びたのが分かった。同時に、全身から怪物たちと同じ粘液が大量に
じゅわりと染み出し、床一面をねっとりと濡らした。
背後からしがみついていた化け物の母親が身を離し、わたしの肩を
叩いて、後ろの壁を指さしてきた。振り向いたわたしは、指し示した先を
見つめた。壁には大きな姿見があり、そこには四匹の化け物が映し出されて
いる。その中央で呆然とわたしを見つめ返してくる怪物こそ、わたし自身
だった。どこかすぐ近くでキチキチキチという気味の悪い音が響く。
鏡をよく見てようやく、その耳障りな音が、わたし自身の大顎が発している
「悲鳴」だということに気が付いた。
支援
怪物たちはわたしをバスルームに運び、赤ん坊を産湯に浸けるように、
バスタブに用意してあったお湯でわたしの肉体を丁寧に洗い、丹念に
拭いた。興奮状態が去ると、粘液はそれほど出なくなるようだった。
それから、わたしを立たせ、大きなスプレー缶を取り出すと、わたしの
全身にその中身を吹き付け始めた。ピンク色のぶよぶよした皮膚の上に、
白いみずみずしい皮膚のようなものが形成される。
>>569様
支援ありがとうございます。…が、連投規制の基準が厳しくなったのか
まだパソから書けません。まずは30分待ってみます。
30分経っても書けない
●は持っていて、ログイン中の筈なんですが…
もう一度試して
その後試しにアボーンで書き込んでみます(普段はかちゅ〜しゃ)
「乾いたら、わたしたちと同じようにチャックをつけてあげる。時期が
来ると急激に劣化するけど、それまでは何度でも脱いだり着たりできるし、
見た目にはまず、あなたの正体がばれることはないはず」
人工口腔を再び装着した通子の怪物は、なにやら親切そうにそう言うが、
無論、この女とその家族がわたしにあんなことをしなければ、わたしは
人間のままでい続けられたのである。悔しさで涙がにじみそうになるが、
目は乾いたままで、どうも涙腺自体がなくなってしまったらしいと気がつく。
三匹の怪物はその後も着せ替え人形で遊ぶ子供のように、わたしが
「人間のふり」をするための細工を施し続けた。髪の毛ごとずり落ちた
頭皮は、例のスプレーで裏打ちされ、カツラとして仕立て直された。
緑色の複眼と化した目には、強烈なペンライトのようなものが当てられ、
それが終わると複眼の上に人間そっくりの白目と黒目が形成されていた。
人間の目の写真を複眼に「印字」する効果があるそうで、興奮状態に
陥らなければしばらくもつと言われた。また例の人工口腔も装着され、
元通りしゃべれるようになった。通子の観察が丁寧であったのだろうか、
人工的に形成された下顎の形は、わたし自身が見ても以前のそれと
変わらないようだった。
吹き付けられた塗料も乾き、外見上はどうにか「普通の裸身の女子高生」
に見えるようになったわたしは、脱がされた下着と制服を再び身に
まとった。見たところ破れたり汚れたりはしていなかった。そしてわたしは
再び、あの部屋で椅子に腰掛け、正面に座っている「高田通子」と
名乗っていた不気味な化け物――今や、わたし自身その一族になり果てて
しまった化け物――を、無言でにらみつけていた。化け物・母と
化け物・姉は、わたしの両脇で爪や眉毛やまつげなど「最後の仕上げ」
にいそいそと励んでいる。どうも化け物親子は、家の中では普段から
人間の皮を脱ぎ全裸で暮らしているらしく、誰一人としてわたしのように
人間の皮や衣類を身につけようとする気配がなかった。
この化け物に聞きたいこと、言いたいことは山のようにあった
――この親子が妙なダイエット器具の「犠牲者」らしい、というところ
まではわかった。だが、普通に考えて、ただのダイエット器具で人間が
こんな姿になるわけはない。一体、これは何なのか?それに、彼女たちが
こんな姿になったからといって、なぜ他の人間をこんな目に遭わせるのか?
しかも、なぜわたしなのか?それに、わたしをこんな目に遭わせて
おきながら、なぜ何の弁解もないのか?
…言葉は渦巻くものの、何から話していいか分からないし、そもそも、
そんな分かり切ったことをわざわざ言うまでもないような気もする。
この通子という女は、口数こそ少なかったものの、今日の放課後までの間、
授業では標準以上の受け答えをしていたし、わたしともごく常識的な
会話を交わしていた。わたしがこの女をこんなもの凄い形相でにらんで
いる理由など、いちいち説明する必要などないはずなのだ。
わたしの憎悪の視線を軽くいなしながら、通子と呼ばれた化け物が
ようやく「贋物の口」を開いて話し始めた。
「わたしはね、お友達が欲しかったの」
カッとあたまに血が上った――お友達?これが「お友達」にすること
だっていうの?悲鳴を上げ抵抗する「お友達」をいたぶるのがあなたの
趣味?――言葉は浮かぶが、怒りのあまり声にならない。
…だが、化け物はわたしをなだめる身振りをしながら続けた。
「怒らないで、まあ、聞いてちょうだい。今のあなたに分かってもらえる
とは思わないけど、わたしは今日の午後までのあなたも、いえ、今の
あなたでさえも、まだ本当の意味での『お友達』だとは思っていないの。
だからわたしはそもそも、自分が『お友達が嫌がるひどいことをした』
とは思ってはいないのよ。
わたしたちはね、もう、人間に対して友情や愛情を抱くことができない
生きものになってしまったの。友達にも、異性にもね。むしろ人間を
見ると強い嫌悪感、殺意すら覚える。不快な害虫のような存在にしか
思えないし、あるいはせいぜい、さっきみたいに、仲間を産み出すための
材料としてしか見られない。
だけど、わたしたちは本能のままに活動する虫けらでもない。ちゃんと
理性や自制心はあるわ。そして、例えば、お腹も空いていないのに
『目で』食べ物を欲しがるとか、『恋に恋する』とか、そういう、
獣や虫けらならばまず感じないような『抽象的な欲望』というやつも、
ちゃんともつことができる。
…わかる?つまりわたしはね、あなたみたいな人間がわたしたちの
同族になったら、きっといい友達になれるだろうな、って『抽象的に』
思ったのよ。…時間が経てばあなたの心もだんだん変質していくわ。
そうなればあなたにもわかるようになると思う。
念のため言っておくけど、人間に相談なんかしちゃだめよ。あなた自身が
今は『化け物』なんですからね。迫害されるのがおちよ。あなたは
もう、『こっち』に来るしかないの。いいわね」
わたしは通子の話に肯定の言葉も否定の言葉も返さず、黙って化け物
たちをにらみつけ、化け物屋敷を後にしていた。化け物屋敷の連中も、
特にわたしを引き留めるでもなく、わたしを見送った。
通子の話はまことに理路整然としていて、何の疑問の余地も
残らなかった。しかし同時にその話は、感情的な共感という意味では、
端から端まで何一つ「分かる」ことができない話だった。
通子は化け物であり、化け物としては当たり前の願望を抱き、化け物
として当たり前の行為をわたしに対して行った。しかし今のわたしに
分かるのは、目の前の化け物がそういう生きものだ、という事実までだ。
その化け物の感情や願望は人間とは違い、今のわたしはそれに何の共感も
抱けない。
…そして、それは通子にしても同じだろう。通子もまた、わたしの
この人間の心が感じる怒りや悲しみや憎しみを「事実」として認める
ことまではできても、「共感する」という意味で「分かる」ことなど
できないに違いない。
…だから、あの化け物に今のわたしが感じたことをいくら伝えても
無駄なのだ。何を言っても通じない。わたしはそう判断して、何も
言わなかったのだ。いくら伝えても、あの化け物には通じない…
…少なくとも今のうちは。
わたしは、そこまで考えてぞわぞわと鳥肌が立つのを感じた。
「少なくとも今のうちは」わたしは通子に共感できないし、通子も
わたしに共感できない。…しかし、それはあくまで「今のうちだけ」
なのだ。…わたしは、もう、化け物になってしまった。そしてわたしは
いずれ心まで化け物になる。そうすれば、こんなにも不可解な通子の
気持ちに、わたしは共感できるようになるのだろう。…そして、その
代わりに、人間の気持ちがわからなくなってしまうのだ。他の人間の
気持ちも、いや、それどころか、今こうやって感じている自分自身の
気持ちすら、だんだん失われ、いずれは理解することすらできなくなって
しまうのだ。
わたしは、自分が、それがどんなことなのか想像すらできない運命に
いきなり追い込まれてしまったのだ、と改めて思い知らされ、これ以上
ないほど陰鬱な気持ちを抱えて家に帰った。通子の家を訪れてから、
二時間も経っていなかった。
わたしは自分のベッドに横たわり、横を向いてぼんやりと机の上の
ぬいぐるみを眺めながら、自分に起きた出来事のことを考えていた。
――これって、ひょっとして、「人類の危機」なんじゃないか?――
犠牲者がわたし一人で収まるとは思えない。あの家族はきっと他の
人間も襲うだろうし、襲われた人間もやがては他の人間を襲うように
なるだろう。考えたくないが、何日か、何週間か、何ヶ月か後には、
わたし自身がその仲間になって、人間を襲っている可能性もある。
いや、多分そうなっているのだろう。この化け物の正体が何なのか、
悪の組織の改造人間なのか、宇宙とか異次元とか魔界からの侵略者なのか、
とても変わった病気に過ぎないのか、それは分からないが、放っておけば
人類の多くが人間ならざるものに変質していってしまう。そうでなければ、
この化け物に「害虫」呼ばわりされて殺戮されてしまう。
そうだ。ことはわたし一人の問題ではないのだ。脅されておとなしく
帰ってきてしまったが、こうして正気が残っている内に、勇気を出して
行くところに行くべきではないのか?もちろん、通報しただけでは誰も
信じてくれないだろう。だから、警察か、病院か、どこかちゃんとした
ところに行き、この体を調べてもらって、偉い人に対策を立ててもらわねば
なるまい。そうすべきではないのか?恥ずかしいとか、怖がられるとか、
そんなことに怯えるのはただのわがままだ。そんな臆病風に吹かれて、
人類の危機を放置していいのか?いや、よくないはずだ…
わたしがそんな決意を固めつつあったとき、携帯が鳴った。案の定
といおうか、通子からだった。
「つぐみ?あなた、勇敢そうだから変なこと考えてるかもしれないと
思って電話したんだ。…あ、マイメロだね!あたしはどっちかというと
クロミが好きだな。マイメロって腹黒いし」
いつのまにか「お嬢様言葉」ではなくなっている。こちらが地なのだ
ろう。それはともかく、なぜ彼女に、机の上のぬいぐるみが見えるのか…
「びっくりした?わたしたちはね、もう見えない次元で『つながって』
いるの。あなたが見ているものは全部見えるわ。あなたがもっと成熟
すれば双方向でお話しできるんだけど、いまはまだ片道だけ。
でも、分かるでしょ?余計なことをしたら、こちらには丸わかりよ。
警察とか、病院とか、変なところに秘密をばらしたら、あなたの家族を
殺すわ。簡単なことよ。あなたが眠っている間なら、あなたの肉体を
操ることだってわたしにはできるの。それに、わたしは人間を殺すことも、
今のあなたを悲しませることにも、何の躊躇も感じないわ。わかる
でしょ?だから、余計なまねはしないこと。いいわね」
電話はそう言って切られた。わたしの勇敢な決意は見事にくじかれ、
消え失せてしまった。わたしは暗い思いで枕に顔をうずめた。
決意がくじかれてしまうと、ネガティブな言い訳ばかりが浮かんでくる。
…考えてみれば、わたしが人類のためにこの体を実験台に差し出しても、
しばらく経つとわたし自身が心まで化け物に変わってしまうのだ。
そうなったわたしを人類は檻に閉じこめるか、最悪殺してしまうだろう。
…いくらなんでも、それは割が合わない。
臆病なエゴイズムだろう。だがわたしは家族を犠牲にしたあげく、
そんなひどい目に遭ってまで、人類を救おうと思い切ることなど
できなかった。そもそも「化け物の侵略」というわたしの推測だって、
ただの思い込みに過ぎないかもしれないのだ。
…それにしても、やっぱり化け物の思考は歪んでいる。この可愛い
マイメロのどこか腹黒いというのか。
「ねえ?」
そう言って机の上のマイメロに話しかけていたわたしは、現実逃避を
したがっていたのだろう。
[二週目]
あれから一週間が経った。わたしの心は、深い部分から着実に変化
しつつあるようだった。
正直、最初の二、三日はそれが心の怪物化の兆候だとすら気付か
なかった。自分がなんだか普段より怒りっぽい。まわりの人の態度や
言動が意味もなくいらいらする。漠然とそう気付いては、すぐに忘れて
いった。そういうことは体調や気分によってよくあることで、ことさら
珍しいものではなかったのだ。
だが、五日も経つと、自分の感じている違和感や、周囲の人々への
嫌悪感が、ただの「気分の問題」ではないらしいこと、そして、それが
確実に強まっていることに、気付かないわけにはいかなくなっていた。
人間を嫌悪し憎悪する化け物の心が、わたしの中で大きくなり始めて
いるのだ、と自覚しないわけにはいかなかった。
そして一週間目の今日、そんな変化に怯えつつあるわたしに、
通子が言った。
「つぐみ。今日の放課後、あなたの一番の親友をわたしの家に誘い
なさい。そして、あなたの手で、その子を『仲間』に改造してもらう。
言っておくけど、選択の余地なんてあなたにはないのよ。もしうんと
言わなければ、あなたの家族を殺すわ」
いやだと言うべきだったのだろうか。わたしには分からない。わたしは
せめてもの抵抗に、通子の言葉に一言も返事せず、精一杯の憎悪を込めて
通子をにらみつけた。それから通子の前を去り、誰に声をかけるべきか、
思案し始めた。
通子は「一番の親友」と言ったが、大事な友達にこんな思いをさせたく
はない。…だが、よく考えたら、わたしが大事に思っていようがいまいが、
こんな目に遭わされていい人間など本当はいないのだ。ならば…わたしは、
わたしの別な思いを優先させてもいいのではないか?つまり、「この子を
嫌いになりたくない」という気持ちをだ。このまま化け物の心が膨らんで
いけば、やがてわたしはどんな親友でも、相手が人間であるという理由で
憎み、平気で殺せるような生きものになってしまうだろう。それはもう
実感としておぼろげにわかりつつある感覚だった。ならば、誰か一人を
選ばねばならないならば、わたしが一番嫌いになりたくない相手を
選んでもいいのではないか…。
わたしのこんな思考自体、もう普通の人間から外れ始めているのだろう
と思う。だがともかく、わたしはそう決めて、小学校以来の大親友である
根岸みずなに声をかけた。
「みずな、今日の放課後ヒマだよね?高田さんに誘われて、高田さんの
お屋敷にいくんだけど、高田さんが、根岸さんも是非どうぞ、って言って
くれてるんだ。一緒に行こうよ…」
数時間後。他ならぬ親友の手で化け物屋敷に誘い込まれてしまった哀れな
みずなが、あのときのわたし同様、椅子に全裸で拘束されていた。その周囲を
三匹の化け物が取り囲んでいるのも、あのときと同じだ。だが違うのは、三匹は
みずなを襲おうとはせず、にやにやとわたしを見つめていることだ。
化け物の通子がわたしに向かって言う。
「さあつぐみ。根岸さんにあなたの正体を見せてあげて。そして、
根岸さんをあなたの手で改造してあげて!」
ためらわないわけがない。わたしはじっと黙って通子をにらみつける。
みずなが、信じられない、という顔でわたしを見る。視線が痛い。
「早くして。そんなインチキの皮、さっさと脱いで!いやだというなら、
むりやり脱がせるわよ」
通子と他の二匹はわたしに詰め寄ってくる。脅しではなかろう。わたしは
観念した。みずなに声をかけたのはわたしだ。今さら「部外者のふり」
などしても意味がない。
わたしは制服を脱ぎ、下着と靴下を脱ぎ捨てた。そして背中のジッパーを
一気に引き下げ、呪わしいわたしの「正体」をみずなにさらした。
ぶよぶよの皮膚が外気に触れたとき、なんとも言えない解放感が全身を
包んだことを白状せねばならない。わたしの心とは別に、わたしの体は
ありのままの姿をさらすことに、明らかに喜びを覚えていた。
通子が言う。
「さあ、次は根岸さんの上に乗って、わたしがしたようにしてあげて」
みずなに正体をさらすところまではやむを得ない、と思った。みずなを
だました罰を受けねばならないような気持ちもあった。だが、この手で
みずなを化け物の仲間に引きずり込むのは、どうしても抵抗があった。
みずなが涙を流しながら言う。
「…つぐみ…つぐみ…お願い!やめて!わたし、化けも…そんな風に、
なりたくないの。…つぐみだけがそんな風になってしまって…勝手かも
しれないけど…分かって!」
本当にいい子だと思った。わたしが同じように化け物にされてしまった
ことを悟り、そんなわたしに気を遣ってくれているのだ。
じっとして動かないわたしに、三匹の化け物はとうとう強硬手段に
出た。わたしをむりやり引きずり、みずなの上に覆い被せたのである。
それでもわたしは頑なに体を硬直させていた。それを見た通子が言った。
「仕方がない。ちょっと荒療治をするわね」
そう言って通子は人工口腔を外し、わたしの首筋に大顎で噛みついた。
瞬間、脳の中心に電撃が走り、世界が真っ赤になった。全身から粘液が
じわりと染み出してきたのが分かった。そして、最初に改造されたときに
わたしのあそこに走った強烈な快感が、わたしとみずなが接している部分
全体に広がったのを感じた。さらに通子はわたしの手や腰をぐいと掴み、
みずなの体の上をぐるりと動かした。動いた部分から快楽がほとばしり、
わたしの自制心は遂にはじけ飛んでしまった。
わたしは自分の下にいる生きものが、さっきまでとは全然違うように
見えていることに気付いた。人間に対して感じてしまう嫌悪感はきれいに
消えていたが、かといって、親友としてのみずなへの友情が回復したわけ
でもなかった。そこにいたのは、抗えない魅力でわたしを惹きつける
一体の「獲物」であった。
わたしは本能の赴くまま、手や足や腰を動かして、粘液をみずなに染み
こませていた。止めようにも止められない強烈な衝動がわたしを動かして
いた。怯え泣き叫ぶみずなの声が、わたしの衝動にかえって火をつけた。
やがて、あのときと同じ、びくんびくんという痙攣を自分自身の内に
感じた。ほぼ同時にみずなもびくんびくんと痙攣していた。気がつくと
わたしの下にいたのは、もう人間・根岸みずなではなかった。そこに
いたのは、悲痛な表情で横たわる、五匹目の怪物だった。
わたしは、人間の皮をかぶせられ、嗚咽を漏らしながら歩くみずなの
肩を抱き、みずなを家まで送り届けていた。泣きじゃくるみずなの目
からは一滴の涙も出ておらず、それがこの親友がもはや人間では
なくなっていることの証だった。
みずなはわたしを責めはしなかった。それはみずなの善良な性格のため
でもあるが、多分、通子のおかげでもあった。通子は、どういう意図
だったのか、泣きじゃくるみずなにこう説明していたのだった。
「根岸さん、賀茂川さんを恨まないで。全部わたしのせい。恨むなら
わたしを恨んで。賀茂川さんを無理矢理改造したのも、賀茂川さんを
脅してあなたを改造させたのも、全部わたし。賀茂川さんはわたしに、
あなたを誘わなければ家族を殺すと言われてあなたを誘い、わたしに
よって増殖本能を刺激されて、あなたを襲っただけ。だから、
賀茂川さんを恨まないであげてね」
わたしも怪物になりつつあるとはいえ、完全な怪物である通子の気持ち
など、やはりわからないと言うしかない。だが、通子は、わたしのために
なることを言ってくれたのではないか。そこには「善意」があるのでは
ないか?そんな思いもまた浮かぶ。
横を歩くみずなはとても愛らしかった。「仲間」になったせいだろう。
今日の放課後まで感じていた、あの嫌悪感はきれいになくなっている。
少なくともわたしは、みずなと一緒に人間でなくなっていくことができる。
わたしはそれにある種の安堵感を感じてしまう。…そして、これはやはり、
通子の「善意」に発したことではないのか?とわたしは急に気がついた。
それは人間の感覚では間違っている「善意」に違いないのだが…
家に着いたみずなが、しゃくりあげながら言った。
「どうする?上がっていく?」
「ううん。遠慮しておく。…許してもらえるとは思わないけど、でも、
ごめんね」
「…いいよ。つぐみのせいじゃない」
そう言ってわたしはみずなと別れた。実を言うと、誘いを断ったのは、
彼女への罪悪感ばかりが理由ではなかった。彼女の家に上がり、部屋で
みずなと二人っきりになることに、わたしは恐怖を覚えていたのだ。
なぜなら、二人きりになったとたん、みずなをまた襲ってしまいそうな
気がしたからだ。お互いの偽りの皮膚を脱ぎ捨て、ぶよぶよした皮膚を
互いにこすりつけ合って、あの強烈な快感をもう一度味わいたい。
そんな誘惑に抗しきれない気がしていたのだった。
[三週目]
あれから二週間が過ぎた。わたしは通子に言った。
「通子、例のスプレーと人工口腔とペンライト、それに付け爪付けまつげの
セット、新しいのを三つもらえる?」
「…いいわよ。放課後、一緒にわたしの家に行きましょう」
人間への嫌悪感がますます強まっていたわたしは、昨夜一つの決意をした。
――わたしの家族を、「仲間」に改造しよう――
二週間前の、改造されたばかりのわたしなら、こんな恐ろしいことは
決して考えなかっただろう。いや、今だってわたしは、自分が完全な
化け物になってしまったとは思っていない。だが心の深い部分で変質は
着実に進行していて、それが意識的な思考にも影響している、という
ことも否定はできない。
日増しに強まる人間への嫌悪感は、日々の生活の苦痛を強めていた。
そして、自分にとって大事な人々への自分の愛情が、日々弱まり、
薄れ、憎悪へと変質していくことに、わたしは強い恐怖と抵抗感を感じて
いた。そしてそれを逃れる方法は、多分一つだけだった――つまり、
愛する者、愛したい者を「仲間」に改造することだ。みずなを改造した
ことで、みずなを憎まずにすむようになった。それと同じことを、
家族にもする。それ以外の道はないように思えた。…そう。通子の母が
自分の娘たちにそうしたようにだ。
実のところ、わたしはこれでも自制心が強く、そして変化が緩やかな
方なのだと思う。みずなを見ているとそう思わざるを得ない。
みずなの心の怪物化は明らかにわたしより早く、一週間後の今日にして、
すでにわたしを追い抜いているようだった。そして、それはみずなが
すでに「仲間」をたくさん増やしていることと関わりがあるようだった。
みずなはあの翌日、中学時代からの彼氏を改造した。それは当然、
男女間の性交渉と限りなく近い、いやそれを伴う行為にならざるをえない
はずで、事実それは彼女の「初体験」でもあった、とみずなは打ち明けた。
その後も、人一倍寂しがりの彼女は、一人で怪物になるのはいや、
友達への愛情を失うのはいや、という、わがままだが無理もない思いから、
他の友達も何人か襲ったらしい。もう家族も改造してしまったそうだ。
そして、人間を襲うたびに、みずなの心は人間から遠ざかっていって
いるらしい。他方のわたしはといえば、みずなを改造して以降、人間を
襲うのは、今日これから襲おうとしている母で二人目なのだ。
怪物になって人をどのくらい襲うのかは、たしかに個体差があるようだ。
通子の言葉を信じるならば、通子が襲った唯一の人間は、今のところ
わたし一人なのだそうだ。他方、通子の姉は主に自分の短大で相当数の
人間を襲っているらしい。また、通子は言葉を濁したが、どうやら
通子の母は、それに輪をかけた乱行ぶりであるらしい。
父の帰りは十一時以降、大学生の兄もコンパで遅くなるとかで、
わたしは母と二人で夕食を食べていた。予定通りだった。後片付けが
終わり、母がお風呂に入った。本当はわたしが先に入るよう勧められた
のだが、友達から電話が来たと嘘を言い、半ば強引に譲ったのだ。
チャンスは今だった。わたしは廊下でそっと服を脱いで全裸になり、
脱衣所をくぐり抜け、風呂場の扉を開けて言った。
「お母さん!たまには一緒にはいろ!」
母は面食らっている。そんな歳ではないし、大人が二人でゆったり
入れるほど広い風呂場ではない。だがわたしは強引に風呂場に押し入り、
体を洗っている母にいきなりしがみついた。
「お母さん、大好き!」
それからわたしは泣き始めた。涙こそ出ないものの、演技ではなかった。
自分が陥った運命、そして、それに母を巻き込もうとする身勝手さへの
罪責感、そして母が、いやこの家の全員がこれから被るであろう災厄。
それらを思って冷静ではいられなくなったのだ。
母はわたしの様子が尋常ではないことを察し、この二週間、わたしが
ひどく悩んでいたことに思い至った様子だった。そしてわたしの手を
取り、わたしの目を見て言った。
「つぐみ。何があったの?」
予定では、この後わたしは皮を脱ぎ捨て、強引に母を改造してしまう
つもりだった。そうして、有無を言わさず怪物としての自分を受け入れ
させる。通子たちがわたしやみずなにやった方法だ。
だが、母の目を見て、わたしは考えを変えた。わたしはかつらを
とり、後頭部から背中へ続くジッパーを母に見せ、言った。
「お母さん、これを見て。何だと思う?ジッパーよ…」
それからわたしは、とりあえず人間の皮はかぶったまま、この二週間の
話を母に報告し始めた。そして、自分が母に対して何をしようとして
いるのか、はっきりと語り、最後にこう言った。
「…多分、わたしの心はもう半分人間じゃなくなっているんだ。だから
こんな恐ろしいことを平気でやろうとしているんだと思う。でも、わたし、
このままお母さんを憎み嫌うようになりたくないの。…ねえ、お母さん。
選んで!わたしがお母さんやみんなの顔を二度と見なくて済む、どこか
遠くへいなくなるか、それともお母さんたちも怪物になって、このまま
一緒に暮らすか。…今のわたしにはどちらかしかないの」
…言いながら、そんな選択肢もあるにはあるのだ、と気付いた。同時に
自分はずるいと感じた。こんな質問に母が何と答えるか、十分分かって
いたからだ。
「…わかったわ、つぐみ。その皮を脱いで。お母さん、つぐみと別れる
のはいや。わたしも怪物に改造して」
わたしはジッパーを下げ、皮を脱いだ。母は息をのんだが、悲鳴を
上げたり、錯乱して逃げ出したりすることはなかった。そしてわたしは
改めて母にしがみつき、粘液を染みこませる作業を開始した。
母の反応は、悲鳴ばかりあげていたわたしやみずなとはずいぶん違って
いた。皮膚が変質するたび、母はわたしが感じているのと似た快感を
感じるらしく、声をあげ、身をよじっていた。
「ああ…つぐみ…そこは…だめ…お母さん、おかしくなっちゃう…はん…」
納得ずくで改造を受けているから、というだけではないようだった。
これはつまり、母が大人の女性であることと関係しているのだろう。
ウブでオクテなわたしでもとうに気付いていたが、改造時のあの快感は
強烈な性的快楽そのものなのだ。性的な快感、いわゆる「オンナのヨロコビ」
に目覚めて久しい母には、それを簡単に受容できる準備がすでに整って
いたのだろう。
改造が終わり、風呂場では二匹の怪物がぐったりとけだるい快楽の
余韻に浸っていた。わたしたちたちは粘液を洗い流し、それからわたしは
母に予め整形しておいた人工口腔を装着し、スプレーで人工皮膚を
作り、カツラや付け爪などの細かい細工を施した。そして母に言った。
「お父さんの改造、お願いしてもいい?…ええと、お母さんたちは
夫婦でしょ?なんていうか、自然に…できると思うんだけど」
「大丈夫。心配しないで。それよりつぐみ、お兄ちゃんの方は?」
「…うーん、それは明日にでも、わたしがする。なんとかなると思う。
今夜は酒臭そうだから近づきたくないけど」
「お友達に頼むのでもいいんじゃない?」
「いいよ。めんどくさいし、みずなは彼氏がいるから悪いよ。大丈夫。
あたし、お兄ちゃんのことオトコだと思って見たことないから、そういうの
なしで、事務的にできると思うんだ」
「…そう。何となく分かるわ」
よく考えると親子で恐ろしい会話を交わしているのだが、わたしは
久しぶりに母とうち解けて話せた気がして、とてもうれしかった。
翌朝、二日酔いの兄を寝かせたまま、両親とわたしは朝食を取っていた。
父の改造は無事に成功したようで、わたしたちは人間の皮をかぶりつつも
三匹の怪物として会話をしていた。
軽く驚いたのは、たった一晩のうちに、母も、父も、わたしと同じか、
下手をするとそれ以上に、人間の心がすり減ってしまっているらしい
ことだった。…考えられる仮説は一つしかない。性的快楽を長く、深く
感じれば感じるほど、心の変質はそれだけ早く進むのだ。そしてこの
夫婦はどうやら、欲望の赴くまま、新しいヨロコビを一晩のうちに何度も
何度も試したのだ。色々な意味で親のそういう情景を想像するのが
いやだったわたしは、そのことについて考えるのをやめ、無言で食事を
済ませて学校へ行った。
その日の晩、わたしは兄の部屋に行って兄を改造した。語るべきことは
大してない。母にも言ったとおり、わたしは兄を男として見ていない。
ある時期以降、わたしはいわゆるダメ男タイプの兄を、おちょくって
遊ぶオモチャのように扱ってきた。その日の晩も、わたしは面白がって、
「凶悪な怪人へと改造された妹」をとびきり恐ろしげに演じ、さんざん
悲鳴をあげさせながら改造してやった。近親相姦まがいの行為への抵抗感
など、さして感じはしなかった。
ただ、猛烈に悔しいのは、兄が「悪の女怪人に襲われて改造または
洗脳される」というシチュエーションに興奮する変態だったらしい、
と後になって知ったことだ。そんな趣味がこの世にあるなどわたしの
想像外だった。わたしとしては兄をからかい、いびっていたつもりだった
のだが、どうやら兄を思いきり喜ばせていたらしいのだった。
[四週目]
三週間が経った。わたしの人間への嫌悪感や、人間らしい感情の麻痺は
その度合いをますます増し、とどまる様子もなかった。それでもわたしは、
正気が続く限り、せめて心だけは人間でい続けたいし、人間でい続け
なければならない、人間の側にい続けたい、と思っていた。そんなわたしは、
わたし自身が改造したみずなやわたしの家族が、人間であることをさっさと
やめ、嬉々として怪物としての自分に満足していくのを複雑な思いで
眺めていた。自分一人が、怪物にもなりきれず、かといって体も、心も、
もう明らかに人間ではない。こんな煩わしい思いをするなら、「人間で
い続けたい」などという無駄な思いを吹っ切ってしまえば多分楽になる。
だが、それだけはいやだ、という意地のようなものが心のどこかに残り続ける。
「通子の孤独」ということに考えが至ったのは、学校から帰り、ベッドの
上でそんな思いを巡らせていたときだった。マイメロとクロミと
うさみみ仮面のぬいぐるみがこちらを見ていた。
通子は「友達が欲しい」という「抽象的な欲求」を抱き、その欲求に
導かれてわたしをおびき出し、襲って改造した。今のわたしは、もう
そんな通子の気持ちに共感できる程度には、人間でなくなっている。
…だが、通子は何か、もっと深い孤独を感じていたのではないだろうか?
そして、それは、わたしが今感じている複雑な違和感に似たものでは
ないのか?こんなわたしを、わたしが「こんな風」だからこそ通子は
選んだのではないのか?
確かめよう!そう思った。わたしは大急ぎで人間の皮を着込み、洋服を
着て、家を飛び出して通子の家に向かい、インタフォンのボタンを押した。
「通子!いる?つぐみだよ。話があるの。入れて!」
玄関の鍵がリモートで解除された。わたしはドアを開け、通子の部屋に
向かった。通子は机に向かって本を読んでいた。当然皮はかぶっていない。
わたしも少し前から自室にいるときはそうするようになった。
「お母さんと、お姉さんは?」
姿が見えないのでわたしは聞いた。いない方が気が楽だった。
「外出中よ。どうしたの?」
それだけ答え、あとは黙ってこちらを見ている通子の前で、わたしは
服と皮を脱ぎ捨て、人工口腔を通して言った。
「通子!さっき、気が付いたの。やったことないけど、これから
テレパシーで伝えてみる!」
そう言ってわたしはわずらわしい人工口腔を外し、のびのびと大顎を
伸ばしながら、さっき考えたことを丁寧に言葉にして、頭の中の回線を
開き、通子に送った。
通子がそれを「受信」したことは間違いなかった。それでもしばらくの間、
通子はじっと黙り、身じろぎ一つしなかった。わたしも同じように
固まっていた。だがやがて、通子の大顎がチッチッチッチと小刻みに
鳴り始めた。それに呼応して、わたしの大顎も同じようにチッチッチッチと
リズムを刻んだ。歓喜の表現だった。人間で言えばうれし涙にむせび
泣いている状態だった。
伝わったのだ!そして、わたしは正しかったのだ!通子は、人間でも、
完全な怪物でもない自分に悩み、そして怪物特有の超感覚でわたしという
自分によく似た人間を見つけ、わたしとならば本当の意味で「友達」に
なれると信じ、わたしを改造した。そしてわたしは彼女の期待に応え、
彼女の元に戻ってきたのだ。事実、今のわたしには、通子の悩み、
葛藤、そして孤独が痛いほどにわかる。そして通子はわたしがそれを
分かっているということを分かっていて、わたしも、通子がそれを
分かっているということをテレパシーで直に感じている…
感極まったわたしは、通子に飛びつく衝動を抑えられなかった。
二人の肉体はすでに粘液でべとべとになっていた。
<<だめ!こんなことしたら、わたしたちも、人間の心がなくなっちゃうんだよ!>>
通子がうろたえてそんなテレパシーを送ってくる。その通りなのだ。
こんなことをしたら、わたしと通子が失うまいと決意した「人間の心」
がどんどんすり減ってしまうのだ。
だが、深い次元でつながりあえたとわかった「友達」とのこんな結合を
中断できるほど、わたしの自制心は強くはなかった。通子もそれは同じ
だった。孤独の深さが、二人の絆を強めた。二匹の怪物は互いの肉体を
密着させ、湧き出す粘液を何重にも互いの肉体に塗りたくった。互いの
思念もまた、さっきよりもさらに深くふれあった。これまでとはまったく
異質な、そして、「回線」を介してこっそり覗き見た両親やみずなの
ラブシーンよりもずっと深くて濃い快楽が、わたしたち二匹の怪物を
つないでいた。
キチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチ…
キチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチ…
二匹の大顎はリズミカルに鳴り響き、その響きは快楽のさらなる高まりと
呼応して激しくなっていった。やがて二体は同時にガクンという地震の
ような痙攣を見せ、直後にぐったりともたれ合った。
<<やっちゃったね…>>
<<ごめんね…>>
<<ううん。仕方ないよ…>>
人間の心が一挙にすり減ってしまったのがはっきり自覚できた。外に
出たら、もう、世界が今までとはまったく異なって見えるに違いなかった。
人間らしい気持ちとか、人間の人間らしい美しさとか、そういうものが
今やただの言葉以上には思い出せなくなっていることが自覚できた。
…だが、しかし、それでも…
<<ねえ通子、「抽象的な人類愛」は残ってる?>>
<<残ってるよ、つぐみ。これって、感覚じゃないから。むしろ意地と
いうか、性格の問題よね>>
<<人類って、正直気持ち悪いけど、いなくなったらまずいよね>>
<<よかった。わたしもまだそう思ってる。これなら、わたしの悩みも
話せるわね>>
通子には、さらなる悩みがあるのだろうか?わたしは問い返した。
<<悩み?>>
<<お母さんのこと。お母さん、テレパシーも遮断して、「何か」をやって
いるの。多分…多分だけど、わたしたちを改造したあの会社に言われて、
やってるんだ。あの会社の正体が悪の組織なのか、異界からの侵略者
なのか知らないけど、何か、人間の基準で言う「凶悪なこと」を企んで
いる気がする。最近はね、すっかり化け物づいた根岸さんとか、その彼氏や
お友達もよくお母さんに会いに来るの。多分あれはお母さんが「やつら」
の命令を伝えてるんだと思う。人間を害虫だと信じて疑わなくなった
根岸さんたちに、破壊工作でもやらせてるんじゃないか、って思うんだ…>>
通子の話は人類に対する深刻な危機を告げていた。たしかにわたしも、
人類は気持ち悪いし、駆除したくなる気持ちは分かる。だけど、そんな
生理的嫌悪感のまま行為するのはやっぱり間違っている。人間であれ、
わたしたちの仲間であれ、意味もなく命が失われるのはやっぱりいけない
ことだ。わたしたちと人間が争いを始めたら、どちら側にもたくさんの
死者が出る。そんなことは、やっぱりあってはならない。そんなふうに
なるのはいやだ――「抽象的な」願望だけど、でも、心からそう思う。
<<…通子、あなたはどうすればいいと思っているの?>>
<<わからない。でも、お母さんと戦わないといけないかもしれない…>>
<<それで、いいの?>>
<<…………>>
<<…………>>
重苦しい沈黙が二人を包んだ。そのとき、不意に部屋の扉が開き、
他でもない通子の母が姿を現した。外から帰ったばかりで、まだ人間の
皮をかぶったままだ。
「あらあら賀茂川さん、いらっしゃい!あ、ちゃんと覚醒したみたいね。
時間がかかったから心配したわ。これでようやく商売ができるわね!」
それを聞いた通子が怪訝な顔で問いただす。
<<…商売?>>
「そうよ!賀茂川さん、当たり前の話だけど、スプレーも人工口腔も
ペンライトもつけ爪も、ただじゃないのよ。スプレー代が一万五千円、
人工口腔六万円、ペンライト二万円、付け爪その他が五千円で、しめて
擬態セット一人分十万円、あなたの場合四人分で四十万円だけど、
初回特典で最初は半額だから、三十五万円でいいわ。ちゃんと払って
ちょうだいね」
わたしと通子はぽかんとして通子の母親を見つめていた。
「ご両親に言えば出せない額じゃないでしょ?それに、回収する方法は
あるわ。他のお友達を改造して、擬態セットをわたしから仕入れて、ちょっと高く転売すればいいのよ。お友達の根岸さんなんて、そうやって
もうだいぶ稼いでいるのよ…あ、そうそう、その人工皮膚、そろそろ
寿命よ。一ヶ月経つと一気に劣化してぼろぼろになるから、新しいのを
買ってもらわないとね。
うふふ。こんなぼろい商売ができると分かれば、パクリ商品なんて
作ってられないわよね。あははははは…」
通子は何も聞かされていなかったらしく、大顎をぽかんと開け、
あきれて自分の母の話を聞いている。たしかに、ある意味かなり凶悪な
作戦である。だがとりあえず、悪の組織だか侵略者だかの破壊工作、
という説は通子の勘違いだったわけだ。
わたしもやはり大顎を左右にあんぐりと開けながら、ぼんやりと思った。
カネは異種間の壁をも越える。ひょっとしたら、人類とわたしたちは
なんだかんだでうまくやっていくのかもしれない…と。
<了>