>>110 >「へっぽこ」の度合いとして
あとピンクパンサーのクルーゾー警部みたいに
3.実力はまったく無いんだけど悪運が異常に強くて、まぐれで事件を解決してしまう
というタイプもあるのでは?
帆村みさき、十七歳。獅子堂探偵事務所の助手。ショートカットに
眼鏡の、目立たない少女。だがその正体は常人をはるかに超えた能力を
駆使し、悪の組織「ヘルマリオン」と戦う女戦士「ディソルバー・サキ」
である。ヘルマリオンは彼女を改造した組織であり、その主要な構成員は
みな彼女のクラスメート。そんな過酷な運命の中、紗希は今日も戦い続ける。
紗希には日課があった。週に一度、慎重に慎重を期しつつ、両親の
住む家の様子をそっと見に行くのだ。ヘルマリオンの手になる不穏な
事件は日々頻発している。平穏に暮らす両親がいつそれに巻き込まれるか、
紗希には気が気ではなかったのである。
もちろん、両親の元に帰ることなどできはしない。脱走した紗希の
身元は組織の知るところとなっている。クラスメートも、双子の姉の
紗耶も、今やヘルマリオンの一員なのだ。それゆえ、紗希は両親の前に
現れて自分の無事を報告することも、自分や紗耶がたどった恐ろしい
運命を伝えることもできない。できるのはただ、敵の監視の目が光って
いるであろう自分の家を遠くから観察し、両親の無事を確認することだけだ。
この程度の間接的な接触でも、両親や自分自身に危険を招き寄せる
可能性が皆無とは言えない。だが、紗希はにそれをやめることがどうしても
できずにいた。親子の情という自然な心の働きがそれを許さなかったのだ。
いざとなれば、やつらの攻撃を払いのければいい。幸い、自分は「仲間」の
中でもかなり高性能であるらしい。幾多の戦いでの勝利が、紗希に
そんな自信を与えていた。
その日も紗希は、深夜、自宅からやや離れた場所から両親の安らかな
寝息を識別し、安心して帰路につこうとしていた。だがそのとき紗希は、
家の周囲のどこかに、両親とはまた別の、聞き覚えのある息づかいを
感じ取った。その正体を明瞭に判別するよりも早く、紗希の心には懐かしく
心地良い思い出が数知れず湧きあがった。学校帰りの楽しい談笑、休日の
胸躍るショッピング、合宿先で夜通し語り合った興奮。そんな思いが
紗希の心を満たす。これは、この感じは…
紗希は暗闇の中で超感覚を働かせた。そしてすぐ、人通りのない路地裏に、
かつての懐かしい親友の姿を確認した。相良ちさと。中学時代からの
紗希の大親友。どちらかというと内向的な紗希に対して、快活で活動的な
性格で、その正反対の部分が、互いの間に尊重や支え合いを生み出す。
そんな、互いにとってかけがえのないよき友が紗希とちさとであった。
…だが、それはあくまでも、あの悲劇が起きる前までの、遠い過去の
記憶だ。あの日以降のちさとは、もはやかつての陽気で快活な少女では
ない。ヘルマリオンの手でその脳に人工頭脳を埋め込まれた、恐るべき
人類の敵、悪魔の操り人形、モルフォ蝶のソルジャードール・パピオ
マリオン。それが今のちさとである。たしかに目の前に横たわっている
ちさとは人間の姿をしている。だが、これはあくまで擬態であり、真の
姿ではない。それはちょうど「変身」前の紗希あるいは帆村みさきの姿が
本来の姿ではなく、あくまで仮の姿であるのと同じだ。
だが、ちさとの様子は明らかにおかしかった。呼吸が不規則で、今にも
消え入りそうだ。目をこらすとすぐにその原因が分かった。腹部に大きな
穴が空き、大量の体液が流出した形跡があるのだ。
紗希は悩んだ。紗希の「感情」は、目の前の傷ついたかつての友を、
安全な場所に運び介抱すべきことを告げる。他方、紗希の「理性」は
それに反対し、今こそ、恐るべき敵の息の根を止める好機である、と
訴える。どうしたらいい?どうしたらいいのか…
結局、紗希は人としての情に従った。衣服を脱ぎ、ディソルバー・サキ、
あるいはミツバチの改造人間、ソルジャードール・ビーマリオンの姿に
「変身」し、文字通り「虫の息」のちさとを抱き、夜明け前の空を飛翔し、
アパートの自室に戻ったのだ。
自室に戻った紗希は、苦しみ続けるちさとを布団に寝かせ、自らの
乳首をちさとの口に含ませている。体内に、ヒーリングハニーと呼ばれる
物質を送り込んでいるのだ。ヘルマリオンによる一時的な洗脳を解く
など、各種解毒作用・回復作用があり、また高純度の栄養剤でもある。
但し、ちさとに組み込まれた人工頭脳の呪縛を解くまでの効果はない。
「授乳」が終わると、ちさとの途切れそうな息が少しずつ回復を始めた。
あとは改造人間の驚異的な回復力が、腹部の穴すら急速に塞いでいくはずだ。
半ば衝動的に治療を終えた紗希は、冷静になり、そしてため息をついた。
どうしよう。息を吹き返したらやはりちさとと戦い、結局は殺してしまう
ことになるのだろうか。だとしたらなぜ自分はあのままちさとを死なせ
なかったのか?
…説明などできない。それが人間というものだ。脳をいじられなかった
自分と紗耶たちとの違いはそこにこそあるのだ。そう言うしかない。
しばらくして、ちさとがうっすらと目を開ける。紗希は緊張し、そして
「変身」を解いてしまったことを軽く後悔する。ことによると直後に
戦いが始まるかもしれない。この姿では十分に戦えない。
だが、目を開けたちさとは予想外の反応を示した。一切の邪悪さから
解き放たれた目で紗希を見つめ、童女のような口調でこう問いかけた
のである。
「おねえちゃん、だあれ?」
あれから三日がたった。ちさとの傷はかなり回復した。そして紗希は
ちさとの身に起きた異変の概略を知った。
ちさとは記憶を失っていた。改造されてからのことも、改造される前の
ことも、ほぼすべての思い出を失っている。ちさとに残っている断片的な
記憶は、例えば「ふと気が付くと自分が恐ろしい怪物に変わっていて、
怯える自分を、やはり怪物になった友達が追いかけてくる夢」であり、
また「怪物になった自分が、体に手を差し込み、何かのカプセルを抜き
取っている夢」であった。それは「夢」ではなく、ちさとが力尽きて
倒れる直前までの記憶に違いなかった。つまり、ふとしたきっかけで
脳改造の呪縛から解き放たれたちさとは、自我の覚醒と共に発動する
自爆カプセルを自ら摘出し、追っ手の攻撃を受けつつ、必死に脱走して
きた。そして追っ手はまいたものの、力尽きてあの場に倒れ込んで
しまった。そんな経緯を、その「夢」は指し示していた。実際、今の
ちさとからは、ソルジャードール固有の凶暴な破壊衝動や、ヘルマリオンの
命令への強烈な忠誠心などの禍々しい爪跡は消えていた。記憶は失った
ものの、脳改造が解除されているのは間違いなさそうだった。
やがて、幼い子供のように紗希にすがるちさとを見て、紗希の心に
一つの決心が芽生えた。ちさとの思い出を取り戻してあげよう。ちさとが
もとのちさとに戻ったら、彼女の意志を聞く。もしも一緒に戦う決意を
してくれたら、こんなに心強い味方はいない。もし戦いに背を向け、
安息と隠遁の道を選ぶなら、それもやむを得ない。それは十七の少女
としては当たり前の選択だ。むしろ恐ろしいのは、自分自身が何者か
という自覚もないちさとが、何も分からないまま自分と一緒に戦うと
言い出すことだ。そんな状態は人形と同じだ。そんなちさとを戦いに
追いやるとしたら、自分自身が、ヘルマリオンと同じ穴のムジナに
なってしまう。紗希はそれを避けたかった。
とりあえず、明日の休日、変装して二人の思い出の場所を巡ってみよう、
と紗希は思った。そうすればちさとは過去を思い出すかもしれない。
それはまた、あの事件以降音信を断ってしまった親しい人々の安否を、
紗希自身が確かめられるかもしれない、またとないチャンスでもあった。
最初に向かったのは二人が通学路にしていた学校近くの公園だった。
休日らしく、子供連れや、カップルや、犬を連れた人々が行き来する
平和な場所。
かつて通ったルートを同じように巡り歩く。その途上、紗希は懐かしい
知人を見かけた。あわてて目を背けようとした紗希の動作がかえって
先方の興味を掻き立て、こちらに注目させてしまうことになった。
知人とは、二人が属していた文芸部の部長をしていた、樫輪聡美と、
その同級生佐堂滝彦である。二人とも新本格ミステリとライトノベル
専門の読書家で、八十年代以前の小説は一冊も読んだことがない、と
豪語していた。だがその読書量と速度はすさまじく、このジャンルに
属する膨大な作品をあらかた読み尽くしており、また授業中に分厚い
京極堂シリーズあたりを丸一冊読むなどはざらだった。しかも読書は
授業中と決めているらしく、休み時間や放課後には一切読書はせず、
部室に来るとトランプを始めながら「今回のは長くて、部活が始まる
までに読み終わるかどうか、焦った」などと、わけのわからないことを
言う。そんなことをしながらも二人とも成績はそこそこ上位というのも、
なおさらよくわからない。
佐堂は紗希の初恋の対象であった。だがその恋は、強力なライバル
である聡美の存在によってあっさり潰えた。一方、聡美はちさとの憧れの
女性であった。聡美は多芸で、慰みに書いた小説がある新人賞の最終選考
にまで残ったことがある。中学時代「ラノベ作家になってひと山当てる」
という、がめついのかロマンチックなのかよくわからない夢をもって
いたちさとは、その夢が醒めた後でも、華やかで多才な聡美に憧れる
のはやめなかったのである。
紗希はなんとか他人のふりを貫こうとして、足早に通り過ぎようとした。
だが、眼鏡や帽子による変装にもかかわらず、結局聡美たちは二人の
正体を見抜いたようだ。振り切って逃げ出すかどうか紗希が迷っていると、
いきなりちさとがうれしそうな顔になり、大きな声を上げた。
「かしわせんぱい!」
ちさとの記憶が断片的にであれ戻ったことを知った紗希は、足を止め、
公園のベンチに他の三人を誘った。
聡美たちは揃っていわゆる一流大への進学が決まったらしい。また、
明言はしないが、二人は本格的につきあい始めているようだ。そんな
近況を語った聡美が、今度は二人に質問する。
「で、紗希とちさとは?どうしているの?……何が、あったの?」
いっとき世間を揺るがせた女子高生大量失踪事件の被害者二人が、変装
しながら公園を散歩しているのだ。興味を持たない方がおかしい。
だが、うまく言い出せずに黙っている紗希を見て、聡美たちは深く
詮索するのをやめる。
「まあ、あの後、もっと信じられない事件が毎週のように起こるように
なって、あなたたちの件も世間では忘れられてるんだけどさ。やっぱあれ?
国際的な陰謀団とか?あは…」
紗希たちに何か込み入った事情があることを察し、深く立ち入ろうと
せず、冗談めかして話してくれる聡美が紗希にはありがたかった。それは、
ただならぬ事態に巻き込まれることへの、本能的な警戒心の表れだった
のかもしれない。だが、こうしてくれている限り、この二人をこれ以上
巻き込んでしまうことはないだろう。
ちさとはにこにこしながら憧れの人を見ている。それを見た紗希も、
思い切って先輩たちと話してよかった、とうれしい気分になった。だが
そのとき、聡美の横で笑顔で座っていた佐堂の様子が急変した。突然目が
うつろになり、わけの分からないことを言い出したのだ。
「いんぼうはいやだ!いんもうもいやだ!いんぼうはいやだ!
いんもうもいやだ!…」
そして立ち上がると、前を駆けていく幼女を追いかけて走り出し、幼女を
捕まえるとその下着を脱がせようとし始めた。悲鳴を上げる聡美。
佐堂がおかしな薬をやっている可能性はなくもなかったが、十中八九
ヘルマリオンの仕業と見てよかった。遅発性の洗脳を施されたか、遠隔距離
から狙撃されて薬剤を注射されたか、何かその種の細工をヘルマリオンに
施されたのだ。
紗希は佐堂のもとに駆け寄り、羽交い締めにしようとした。だが、
ヘルマリオンの薬のせいか、佐堂は常人離れした力で抵抗する。やむを
得ず紗希は最終手段を決意して、乳房を露わにし、それを佐堂に含ませる。
ヒーリングハニーによって佐堂を正気に戻そうというのである。
ヒーリングハニーの浸出は、紗希の擬態、つまり人間としての姿を
維持することを許さなかった。徐々に異形化していく紗希。その衣服は
めりめりと破れかけている。それでも、この場が収まれば…。
そう思い、紗希は一心に、かつて恋した先輩に蜜を飲ませ続けた。
だが、蜜を飲んだ佐堂は予想外の反応を示した。洗脳が解けるどころか、
さらに狂乱の度合いが増したのである。加えて、あろうことか、その
前頭部が破裂し、大脳のかなりの部分が飛び散った。そして、代わりに
頭蓋内にむくむくと形成されてきた人工頭脳がその肉体を支配した。
やがて肉体の変形も始まり、最終的に佐堂は、鋭い爪と牙を備えた、
両生類程度の知能しかない凶暴な野獣、マリオンビーストと化して
しまった。
ヒーリングハニーはもともとヘルマリオンが開発した薬剤である。
いつまでもそれが通用すると思っていた紗希が甘かったのだろう。
ヒーリングハニーを触媒にして人間を凶暴な怪物に変える技術を、
ヘルマリオンは開発したに違いなかった。
怪物と化した佐堂は、泣き続けている幼女に今にも飛びかかろうと
している。おそらく今度は下着に手をかけるだけでは済むまい。鋭い爪と
強力な腕は、幼女を一瞬で肉塊に変えてしまうに違いない。大脳が飛び
散った佐堂を元に戻す手だてはない。やむをえない…。紗希は衣服を
脱ぎ捨て、完全に変身すると、変わり果てた佐堂に、乳房から発射される
高速の針、ビースティンガーを打ち込んだ。全身ハリネズミのように
なった、紗希がかつて憧れた男性は、血を吹き出しながら倒れ、息絶えた。
ふと見ると、そんな紗希を聡美とちさとが恐怖の目で見つめていた。
彼女たちの目には、紗希が異形のものに変身し、佐堂を凶暴な怪物に
変え、その上で佐堂を惨殺したように見えているに違いない。いや、
佐堂が狂乱し幼女を襲い始めたこと自体、紗希のせいだと思われている
可能性も大きい。紗希が目を向けると聡美は悲鳴をあげて逃げ去り、
ちさとは腰を抜かしてその場にへたりこんだ。
紗希は脱ぎ捨てた衣服を拾い、ちさとを連れて逃げ出した。幸い、
四人が話をしていたのは公園の奥まった場所だったので、逃げ出した
親子連れ以外、誰もいなかった。紗希は人目につかないところで変身を
解除し、衣服を着ながら、ちさとの誤解をどうにか解こうとした
――自分は気が狂いかけた佐堂先輩を救おうとした。あなたの命を助けた
あの蜜で。しかしその蜜に効き目はなく、佐堂先輩は完全に怪物化して、
女の子を殺そうとし始めた。やむをえず自分は先輩を殺した――
そんな説明を一生懸命ちさとに語った。
ちさとは怯えながらも素直に聞いていた。あの蜜が悪いものである
はずがない、という思いが、蜜を飲みながら治癒したちさとの無意識には
深く刷り込まれている。それが幸いしたようだ。最終的にちさとは、
紗希が、その異形にもかかわらず、自分の味方であると納得してくれた。
…でもまだ、この子に真相を告げるのは早い。今や、ちさと自身も、
自分の同類になってしまっていることを…。紗希はそう思った。
それから紗希は、ちさとを連れ、予定通り、二番目の目的地である
あんみつ屋に行くことにした。和やかに甘味を味わうムードではなかった
のだが、紗希としては、どこかに腰を落ち着けてこの後のことを考え
たかったのだ。また、ヒーリングハニーを分泌した体が猛烈に糖分を
欲している、という事情もあった。
店に入ると気さくな店主が声をかけてくるが、どうやら変装はばれて
いない。だが、ほっとした紗希が奥へ進むと、店の片隅にいた見知った
女性が、驚いた目で二人を認めた。一瞬で変装を見破ったらしい。
女性の名は、文芸部顧問の女教師久家月子。「くげ つきこ」と読む。
二十代後半で、教員になる前は大学院で日本の中世・近世文学の研究を
しており、未だに学会誌に論文を発表している。ミステリファンでも
あり、明治期以降の探偵小説とそれ以前の文学との精神史的連続性、
というテーマが永年の研究課題だ。優秀な研究者だったのに大学に
残らなかったのは、欲得ずくのポスト争いに嫌気がさしたためだという。
少なくともこのジャンルでは、学内政治に奔走している教授たちより、
在野の研究者の方がよほど資料をたくさん読んでいるし、いい研究を
している、というのが口癖だった。文芸部員にしては珍しく「優等生」
である二人を月子は可愛がり、放課後三人で甘味を食べに行く仲だった。
この店に三人でよく入っては、文学談義を交わしたものだった。
入った店を出るわけにも行かず、紗希は観念して月子の前に座った。
月子もまた、二人を見て騒ぎ立てたりせず、目立ちたくない、という
こちらの意向を察してくれているようだった。そしてやわらかな微笑を
浮かべながら、黙って二人を交互に見つめていた。そんな月子を見て、
ちさとが声を上げた。
「せんせい!せんせい!おひさしぶりです!」
ちさとは月子を思いだしたようだ。その目には涙が浮かんでいた。
紗希は、ここに来てみて本当によかったと思った。先生の変わらぬ元気な
姿を確認でき、ちさとの記憶もまた一つ戻ったからだ。
だがそのとき、店の奥で悲鳴が聞こえた。紗希たちの直後に入ってきた
客がヘルマリオンの戦闘員・プペロイドの正体を現し、店内を破壊し
始めたのである。内装ばかりでなく柱や壁までたたき壊し、さらに厨房に
向けて異臭を発する液体を放ち始める。液体を浴びた店主と何人かの
客が、恐ろしい悲鳴をあげながら溶解していく。パニックに陥る店内、
逃げ出す客。凶行を終えたプペロイドたちは速やかに退却を始めた。
あっというまの惨劇を前に、紗希は一瞬唖然として固まってしまった。
だがすぐに我に返り、後を追わねばと判断した。その肉体は半ば反射的に
「変身」しかけていた。だが、店を出ようとした紗希の背後から、
月子の悲しそうな、憤りを込めた声が響いた。
「…紗希ちゃん、あなたも逃げるの?あの化け物たちは、あなたの
『連れ』なの?正直に言って!…先生、知っているのよ。警察や政府から
何回か照会を受けて、自分なりに調べてみたの。あなたと同じ、あの
サマースクールで失踪した子とよく似た子たちが、今回みたいな奇怪な
事件に関連して、何度も目撃されているのよ。ねえ、教えて。あなた
たちに何があったの?」
紗希は急に悟った。月子が先ほど見せた、妙に物わかりのよい態度は、
いわば「腫れ物に触る」ような慎重な態度だったのだ。月子の心に、
懐かしさ、再会を喜ぶ心、といった感情がなかったわけではないのだろう。
だが、それと同程度に、月子の中には、紗希とちさとが何か恐ろしい
集団の一員として活動しているのではないかという疑惑もまたあったのだ。
その葛藤が、彼女のあの過度に穏やかな対応につながったのである。
異形化しつつある紗希の姿を見る月子の目は、今や猜疑と恐怖の方へと
強く傾きつつあった。異臭の漂う店内の中、紗希は、プペロイド追跡を
諦め、月子に詳しい経緯を話す決意を固めた。
だがそのとき、やはり店を出かかっていたちさとが、紗希の袖を引き
ながら言った。
「サキ!何やってるの!行くよ!」
ちさとは我慢できないという様子で、外に飛び出した。プペロイドを
追いかけようとしているのだ。一人で追わせるわけにはいかない。今の
ちさとはやすやすと奴らに捕まり、組織に連れ戻されるか、あるいは
ただちに抹殺されてしまうに違いない。紗希は、深い猜疑心を湛えた
目を向けてくる月子に一礼すると、慌てて後を追った。
ちさとは無邪気な憤りを込めた口調で言う。
「よくも、おじさんの大事なお店と、おじさんを!追いかけて、変身して、
あいつらをやっつけてよ!サキ!正義の味方なんでしょ!」
だが、プペロイドはもはやどこにいるかわからなかった。あきらめて
恐る恐る店の方へ戻ると、すでに警察が駆けつけている。そして月子の
姿はどこにもない。
月子は今頃、自分とちさとがプペロイドの仲間として、やつらと一緒に
逃走したと判断しているだろう。そう思った紗希の気持ちは暗く沈んだ。
紗希は途方に暮れていた。このまま部屋に帰るべきなのだろうが、
部屋に帰ったからといって、自分とちさとがこの先どうすればいいか、
はっきりした答えは見つからなそうだった。
それで、紗希は予定通り駅に行き、電車で一時間ほどかかる、三番目の
目的地へと向かった。そこには、相談しさえすれば、今の状況の中で
最善のアドヴァイスをくれるであろう、希有な人物がいるのである。
その人物とは、紗希のかつてのアルバイト先である古本屋の女店主、
四谷志摩子である。二十代後半、独身。大学卒業後、OLを数年勤める間、
運か才能か、デイトレードで巨額の儲けを得て、それを機に退社し、
株からも足を洗う。そして、商店街の外れ、住宅地の入り口に小さな
一軒家を買い、その一階にマニアックな品揃えの古書店を開き、以後
そこに籠もって売り物の本を端から読みふける生活をしているという、
変わった女性だ。欧米のミステリに関して信じられない博覧強記を示し、
紗希の憧れの一人である。
実は紗希は、ヘルマリオン脱走後、この人物に相談しようかという
思いを何度となく抱いた。だが、無関係の人を恐ろしい戦いに巻き込んでは
いけない、という懸念が何度もそれを押しとどめたのだった。しかし
今回紗希は、とうとう彼女に相談する決意を固めた。彼女がちさとの
叔母であるという事情も、それを後押ししていた。
ちさとを連れ店に入る。失踪した二人の突然の出現に、当然ながら
驚く志摩子。紗希が言う。
「すみません。声を上げないで下さい。事情はこれから詳しくお話し
します」
聡明な女性らしく、素直にうなずく志摩子を指し示し、紗希はちさとに
尋ねる。
「ちさと、この人に見覚えは?」
実の叔母を前に、ちさとは首を振る。紗希は、ちさとのその様子を
志摩子に見せる。二人がただならぬ状況に置かれていることはそれだけ
でも十分に伝わった。例によって客が誰もないことを確認すると、
紗希は話し始める。
「志摩子さん、聞いて下さい。ちさとも聞いて。もう、いつまでも隠して
おけない。ちさと自身にもかかわる、大事な話をこれからします」
そうして紗希は、ヘルマリオンによるクラスメートの拉致と改造、
紗希の脱出、その後の、かつての友とのつらく悲しい戦い、ちさととの
再会、それらを順を追って話した。
想像を絶する非現実的な話を、志摩子は強靱な知的胃袋で飲み込み、
かみ砕き、消化していった。その様子を目にしながら、やはりこの人に
相談したのは正解だったと紗希は思った。
やがて志摩子は腕を組んで目を閉じ、深い思索にふけり始める。それは、
紗希にとって頼もしい姿だった。こうして沈思黙考した果ての志摩子が
次に目を開けるとき、必ずや何か、現状を少しでもよくするいい考えが
その口から発されるのだ。
その一方、紗希は、ちさとにこの話を聞かせてしまったのは時期尚早
であったらしい、と後悔し始めた。ちさとは、話に登場する、「サマー
スクールで拉致され、改造人間にされた女子高生」の中の一人が自分で
あることを察している。話が進むにつれ、ちさとの顔面は蒼白になって
いった。
紗希が、店内に侵入したトンボ型の小型殺人兵器を発見したのは
そのときだった。いけない!このままだと数秒後に志摩子さんは火だるまに
なって死んでしまう!恐慌に駆られた紗希は、あわてて服を脱ぎ、
変身した。そして、すんでの所で志摩子の命を救った。
だが、救われた志摩子の命は代償を要求した。殺人兵器の攻撃が
逸れ、店の片側の壁にある本棚一面が炎上したのである。
ほぼ同時に、ちさとの悲鳴が響いた。
「いやあぁぁぁ!何?これ?これがわたし?いやよ!いや!こんなの
わたしじゃない!!いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
見ると、ちさとの擬態が解除され、パピオマリオンの姿に戻っていた。
記憶回復の副作用に違いなかった。
志摩子が目を開いたのはそのときだ。彼女の目に映ったのは何だったか?
炎上する店内。そしてその中にたたずむ二体の、人間と昆虫の合体した
ような異形の生物。
すべてを聞き、すべてを理解していた志摩子には、目の前で何が
起きたのかを正しく推理することは決して不可能ではなかったはずだ。
だが、それはあくまで、志摩子が冷静な理性を備えていればの話だ。
そのときの志摩子は違った。命よりも大事な本が炎上する姿を見て、
理性も分別も吹き飛んでいたのだ。その心はただ、異者を排斥するという、
人間のもつ暗い原初的な衝動に支配されていた。
「何を!何をやった!この化け物!!」
逆上し、般若の形相で紗希をにらむ志摩子。
そのとき、やはり錯乱したちさとが、志摩子の怒りが伝染したので
あろう、紗希をにらみつける。
「あなたのせいなの!?そうなのね!全部あなたがやったのね!友達の
ふりをして、おばさんのお店をめちゃめちゃにして!わたしをこんな
化け物の仲間に変えたのも、あなたがやったんでしょ!?この化け物!
化け物!」
違う、違うの!本能的に目をつぶり、耳を覆う紗希。…だが、冷静にも、
一瞬後に紗希は気づいた。こんなことをしている場合じゃない。今は
この建物から二人を連れ出して逃げなければ!生身の人間と、怪我の
回復しきっていない改造人間。この無力な二人を連れ出す能力と義務が
わたしにはあるんだ!
だが、決然と目を開いた紗希の前から、なぜか二人は姿を消していた。
店のどこを探してもいない。紗希が目をつむり、耳を覆った一瞬の内に、
二人ともどこかへ逃げ出した――あるいは、何ものかに連れ去られた。
そうとしか思えなかった。
誰かが呼んだらしい消防車の音を耳にした紗希は、変身を解き、脱いだ
衣服を大急ぎで着込むと、その場を後にした。
紗希は今や、今日の一連の事件が、自分とちさと双方にゆかりのある
場所や人物を標的にしていることに気づいていた。ならば次に狙われる
のが、二人の次の目的地でもある、紗希たちの家である可能性は大きい。
その家は、中学時代にちさとが足繁く通った場所でもあるからだ。
紗希の父は普通のサラリーマンだが、母の紗羅は、名所旧跡を舞台に
した軽いミステリーを年に何冊か書く作家である。若い頃の文学少女の
プライドが邪魔してか、通俗ミステリの中に突然、場違いな実験的手法
やら難解な表現やらを挿入する癖が抜けず、そのせいで、コアなファンは
つくものの、大ヒットには今ひとつ及ばない。
そんな紗羅のもとに、中学時代のちさとが家出して、押しかけ弟子入りに
来た。もちろんすぐに家に連絡が行って連れ戻されたのだが、その後も
ちさとは、作家志望の夢を諦める…というよりは、熱が冷めて飽きるまで、
紗羅のもとへ通い続けた。それがもとで紗希とちさとの友情が始まり、
結局同じ高校に進むことにもなったのだ。
紗希が駆けつけたとき、家にいるはずの母はおらず、居間の中央に、
ズボンをぐっしょりと濡らし、茫然自失となった父だけが取り残されていた。
紗希の姿を見た父は、うつろな目ににわかに恐怖の色を濃くし、
わめきながら紗希に向かい、凶器のようなものをかざした。
「来たな!紗耶の化け物が言っていたぞ。おまえもあいつらの仲間
なんだな!この化け物!化け物!おまえなんか娘じゃない!」
目を見開き、真っ青な顔で凶器を振り回す父の言葉を聞き、紗耶は何が
起きたかを悟った。紗耶が来たのだ。そして、母を拉致した上、なにか、
とてつもなく異常で残酷な仕打ちを父に与えたのだ。
ヒーリングハニーを飲ませれば、この狂乱は静まるだろうか。薬物や
装置による洗脳以外にあの蜜を用いたことはないが、ある程度の治癒は
期待できそうな気がする。だが、佐堂と同様のトラップが父にも仕掛け
られている可能性は大きい。紗希には、とても使う勇気はなかった。
父は凶器を振り回し、こちらに近づいてくる。
「おまえもか!おまえもぼくにあんなことやこんなことをするんだな!
わはははは。やめろう!やめろう!」
いったい紗耶は実の父親に何をしたというのか。子供のような口調で
わめきながら振り回す凶器が肩口をかすり、肩の肉がひとかけら切断
される。そしてようやく、父の振り回している凶器が、ただの棒ではなく、
ヘルマリオンの超兵器であることを知る。紗耶がわざと落としていったに
違いない。こんなものを未変身の状態で受けたらかなり危険だ。そう
思った瞬間、正面から父の一撃が迫った。慌てて紗希は服も脱がずに
変身する。変身と共に周囲に布の切れ端が散乱し、その中から、
ミツバチと人間の合体したような奇怪な生物が姿を現す。
変身した紗希を見て、父は狂乱の度合いをさらに深めた。
「ひゃはははは!やっぱりだ!このやろう!紗耶を返せ!紗希を返せ!
ひょう!わひゃぅ!」
もはや意味のない言葉を口から垂れ流しながら、ぐるんと父の目が
裏返った。そしてそのまま父は、超兵器を自分自身の首に当てた。父の
首が床に転がり、大量の血が居間の絨毯を黒く染めた。
「いやあぁぁぁ、お父さん!お父さん!」
紗希は絶叫した。
長い絶叫の後、我に返った紗希は、背後に人の気配を感じた。振り向くと、
後ろにはパピオマリオンの姿のままのちさとがいる。遠くから様子を
見るだけの予定とはいえ、この家を第四の目的地に決めていたのだから、
現れても不思議はなかった。
ちさとはまた一つ記憶を取り戻したようだ。かつて、実の父のように
慕っていた紗希の父親の首を手に取り、それを見つめながら、紗希の
肺腑をえぐるような残酷な言葉を、その言葉の含意には気づかない様子
のまま、発した。
「おじさま…ひどい表情!何か、よほど恐ろしいものを見てしまったのね。
可哀想なおじさま…」
父の死はもとをただせばヘルマリオンのせい、さらに言えば紗耶の
せいだ。だが、父の死の直接の原因は、紗希の変身を目の当たりにした
ことにある。ちさとの言葉は、その紗希の行動を責め立てているよう
だった。少なくともその言葉は、そのような意味をもって紗希の心に
突き刺さった。
「やめて!やめて!仕方がなかったのよ!仕方がなかったのよ!」
紗希は地面に突っ伏し、頭を抱えはじめた。
すると、うずくまり続ける紗希の上から、トーンの異なる冷酷な声が
響いた。
「それがヘルマリオンに背いた報いよ。紗希、いや、ビーマリオン!」
見上げるとそこにいるのは、もはやちさとではなかった。その表情に、
もはや先ほどまでの無邪気な面影はない。そこに浮かんでいるのは、
ソルジャードール特有の記号的で冷ややかな笑みだった。
「ふふふ。いいもの見せてあげる」
そう言ってちさとがスイッチを入れたテレビに、ヘルマリオンのアジトと、
その中に囚われた四人の女性が映し出された。六十倍速の再生速度だが、
紗希の改造された知覚系はそこに含まれた情報を漏れなく受容した。
最初に現れたのは聡美の姿だ。だまされて連れてこられたらしく、
プペロイドによる拘束はない。
聡美の目が、部屋の中にいる紗耶の姿をとらえる。緊張した面持ちで
紗耶を見つめる聡美に、やさしく微笑みかけて紗耶が言う。
「あ、樫輪先輩!お久しぶりです!」
「沙耶ちゃん?本当に沙耶ちゃん?妹さんが…妹さんが…」
「妹が、どうかしたんですか?」
「さっき、妹さんが、化け物に変身して…いえ、違うわね…妹さんに
化けた怪物が現れて、佐堂くんを狂わせ、化け物に変えたあげくに
殺してしまった。そしてわたしも襲われかけたの!そうして逃げ出したら、
政府の機関の人が、この場所なら大丈夫、あの怪物なら心配ない、
我々が引き受ける、と言って、ここにかくまってくれたの。あなたも
ここに保護されていたのね?政府の人から何か聞いていない?
あの化け物は何?」
「…先輩、化け物も結構素敵ですよ。わたし、先輩にも是非仲間に
なって欲しいな」
そう言うと紗耶は擬態を解きホーネットマリオンの姿になる。同時に
現れたプペロイドたちが聡美の衣服をはぎとり、手術台の上へ運ぶ。
均整のとれた裸身をはりつけにされながら、聡美は狂乱の悲鳴を上げている。
「三十分後には、先輩も『化け物』の仲間入りよ。そしてその四十分後
には、『化け物』になれたことを、わが母なるヘルマリオンに、心から
感謝するようになっているわ」
「いやぁ!放して!放して!化け物なんていやよぉ!!」
その声が改造装置へ消えていく。
月子が紗耶の話を聞いている。やはりここを政府機関の施設だと
思いこんでいるようだ。
「…色々と調べていたつもりではいたけど、まさか、そこまで恐ろしい
組織だったなんて…。…じゃあ、紗希ちゃんは、その『ソルジャードール』
にされてしまったの?」
「まあそうなんだけど…そこのとこの事情はちょっとこみ入っているの。
いずれにしても、これ以上の話をするにはそれなりの準備がいるわ」
紗耶はそう言いながら擬態を解除する。同時に、いつのまにか月子の
背後に回っていたプペロイドたちが月子を拘束し、その衣服をはさみで
切り裂く。月子は悲鳴を上げて抵抗を試みるが、それも空しく、すべての
衣服を剥かれて手術台に固定され、すらりとした裸身をむきだしにされる。
手術台の上の月子に、ホーネットマリオンになった紗耶が話しかける。
「先生、もう探偵まがいの調査なんてしなくていいのよ。もうすぐ、
先生は組織の全貌を知ることになるわ」
恐怖と当惑に包まれた月子が、変容した紗耶を見上げ、問いかける。
「沙耶ちゃん…あなたがソルジャードール?いったい、何がどうなって…」
紗耶は愉快そうに説明する。
「何か勘違いしているみたいだけど、ここは、先生が調べていた組織、
ヘルマリオンのアジト。わたしは栄誉あるその一員。そしてわが組織には
鉄の掟がある。組織の秘密に深く立ち入った者は、組織に入り、組織に
忠誠を誓うか、死あるのみ。死ぬのはいやでしょ?だから、あれ以上の
情報が得たければ、こうするしかないのよ。よかったわね。晴れて望みが
かなうわけね」
月子は手術台の上で泣き叫ぶ。白い肉体の全面を鳥肌が覆う。
「いや!そんなの望みじゃないわ!いや!いや!放して!」
「もうすぐ『いや』じゃなくなるわ。脳改造が済めばね。だから
それまで、あんまり駄々をこねないでね」
「いやよぉ!それがいやなのよぉ!いや!いや!」
月子が涙をぽろぽろとこぼし、もがきながら改造装置に運ばれていく。
その後、古本屋店主と、紗希と紗耶の母親も順に、各々の成熟した美しい
裸身を手術台に固定され、悲痛な絶望の叫びをあげながら同じ運命を
たどっていった。
装置から排出された彼女たちの外見は、ソルジャードールやプペロイド
とは異なるコンセプトの生物兵器だ。聡美は、顔の上半分が半透明の
プラスチックのマスクのような形状に変形している。プラスチックの
下は、金属繊維のようなものに覆われている。両手両足は鉄の輪が
連なったような形態、胴体は鋼鉄色をしているが形態は全裸の人間体
そのままで、股間には豊かな恥毛が生える。月子は、顔の上半分が
青銅の仮面のようなマスク。両腕両足も青銅のような固い装甲に覆われ、
胴体は、青銅色である以外はその豊かなプロポーションをそのまま
とどめた、全裸の人間体。股間の豊かな恥毛も聡美と同じだ。志摩子は
全身が紫と緑と黄色の縞模様の、爬虫類のような皮膚に覆われ、顔の
上半分は銀色のマスクのように変形している。手足は銀色の装甲、
背中からコウモリのような羽根、胴体の形状はやはり人間だったときの
豊満な肉体のシルエットを残し、股間の恥毛も露わだ。そして紗羅は
黄金のマスクと、黄金の装甲に包まれた手足、黄金色の全裸の胴体。
やはり股間の恥毛も含め、皮膚の色以外は人間だったときの形態を
そのままとどめている。いずれも、昭和中期の少年探偵ものに登場する
悪趣味でチープな悪役をモチーフに、成熟した裸身を誇示する、
エキセントリックなデザインの怪人たちである。
脳改造への待機時間、銀色の顔の志摩子が、これ見よがしに設置された
大きな鏡を見ながら、べそをかいている。
「いやだ…乱歩だったら、もっと耽美で文学的な作品もいっぱいあるのに、
よりにもよって、何でこんな…」
それを聞いた紗耶が、面白そうに言う。
「あら、そういうのがいいの?じゃあ志摩子さんだけ特別に、
『怪奇芋虫女』か『猟奇イス女』あたりに再改造してあげましょうか?」
「いやあぁぁ!どっちもいやああああ!」
志摩子は悲鳴を上げる。
黄金の仮面をかぶったような姿に改造された紗羅は、中空を見ながら
ぶつぶつとつぶやいている。
「紗耶ちゃん、紗希ちゃん、大きくなったわねえ、うふふ、うふふ」
紗耶は幾分慌てて言う。
「やだ、お母さん、狂っちゃったの?大変!これを飲んで!」
そう言って紗耶は自分の乳房をこね回す。やがて乳首の先端に大きな
穴が空き、そこから芋虫のようなものがにゅるりと搾り出される。
寄生バチの改造人間たる彼女の体内で生成される擬似生物で、その名を
「ヒーリングワーム」という。紗希のヒーリングハニーに当たる物質で
ある。そのヒーリングワームを、紗耶は母親の口をこじ開けてのどに
押し込む。母親はびくんと震え、やがてはっと我に返る。そして
ホーネットマリオンの姿の紗耶と、大きな姿見に映った自分自身の異様な
姿を順に見て、やがて、黄金仮面の目からはらはらと涙をこぼし、言う。
「ああ、紗耶!やっぱり夢じゃないのね。現実なのね。いや!狂って
しまえば楽になれると思ったのに!なんで現実に連れ戻すの!?」
「お母さんには色々とやってもらう予定だからね。しっかりしていて
もらわないと。でも、狂ったらまた虫を食べさせてあげる。何度でも
正気に戻してあげるから、心配しなくていいんだよ」
「おおおおおおおおおおおお」
母はまたも錯乱した声を上げ、紗耶は新しいヒーリングワームを
搾り出す準備を始める。
やがて脳改造が終了し、カプセルから改造人間たちが歩み出る。その
表情に、もはや先ほどまでの恐怖や絶望はなく、代わりに平板で記号的な
笑みが口元に貼り付いている。邪念獣のプロトタイプ、いや、
カスタムタイプである、「邪念四怪女」の誕生である。
怪女たちは、満足げな表情の幹部・骸教授の前に並び、まとった
マントをひるがえし、聡美、月子、志摩子、紗羅の順に、得意げに
名乗りを上げる。
「電嬢M!」
「青銅魔女!」
「宇宙怪女!」
「黄金面女!」
今後、拉致してきた人間の実体化した邪念を、この邪念四怪女が加工する
ことで、「邪念実体化計画」という凶悪な計画が実現していくのだ。
恐ろしいビデオを半ば強制的に見せられた紗希は、怒りの形相で
ちさとをにらみつける。
「あなたが…すべての糸を引いていたのね!」
「まあ、そうとも言えるけど、そうじゃないとも言えるわ」
パピオマリオンは謎めいた返事をした。そして冷笑を浮かべながら
言葉を続けた。
「あるところに、週に一度、未練がましく昔の家族を偵察に来る、
愚かで弱い未完成体がいました。ふふふ。その未完成体の行動は、
すぐに組織の知るところになった。そして、その未練と弱さを標的にした
精神攻撃の作戦が立てられたの。その作戦遂行のために、わたしは
選ばれた。あなたが毎週訪れる自宅の周囲でああやって死にかけていれば、
あなたが拾ってくれるのは間違いなかった。そうしてあなたの元に飛び込み、
あなたとわたしの愚かな人間時代の思い出の場所を一緒に訪れるふりを
しながら、一つ一つ潰していく。――いわば、ワトソン役が犯人だった
というところね。新しいトリックじゃない?さすがの推理マニアの
あなたにも盲点だったかしらね」
「そんなトリック、ずうっと前に偉い作家がやってるわ!そして、
そんな知識を使うまでもなく、あなたが一番怪しいことは、最初から
わかっていた。冷静に推理すれば、そう結論せざるを得なかったのよ…」
紗希の目には涙が浮かんでいる。
「負け惜しみ?…違うわね?本当にわかっていたみたいね。でも、
だとすると、かえってわからない。どうして、あなたにはそんな不合理な
ことができるの?」
ちさとは心底、紗希の心が分からない様子で首を傾げている。
紗希が泣きながら言う。
「…わたしは…わたしは…あなたを信じたかったのよ!最後の最後まで!
わからないの?脳改造を受けると、そんなこともわからなくなっちゃうの!?」
「ふふ。本当、不合理ね。作戦立案者の紗耶が言ってたとおりよ。さすが
紗耶は優秀な改造人間。人間の不合理な心理をよく分析している。
わたしが、こんなバレバレの作戦、通用するかしら、と紗耶に言ったら、
大丈夫、最後の最後までわたしは疑われないと太鼓判を押してくれた。
その言葉は本当だったわ」
それから、心から楽しそうにパピオマリオンは言葉を続けた。
「あのね、わたしや紗耶や骸教授が今回の計画をしかけたのは本当。
でも忘れちゃだめよ。佐堂先輩や、あんみつ屋のおじさんや、あなたの
お父様、そして、それに巻き込まれた多くの人たちが死んだのは、
そしてあの四人の女性があなたの敵に生まれ変わったのは、全部あなたの
せいなのよ!
あなたは口先で『相良ちさとの記憶を探す』という口実をでっち上げ、
その実、あなた自身が人間だった頃の憩いの場所を再び訪れ、親しい人の
交わりを求めた。その人たちが、あなたと接触することで戦いに巻き
込まれることを予想できなかったはずはないのに。あなたは、自分の
エゴを満たすために、大事な人を何人も何人も巻き込んだ。全部あなたの
せいよ!」
その言葉は紗希の心を深く貫いた。紗希の心は揺れ、その戦意はくじかれ
かけた。紗希が過度に理性的であったなら、このとき紗希は永久に
起きあがれなかったかもしれない。だが、合理的な人工頭脳を搭載した
他のソルジャードールにはありえない紗希の人間性、あるいは、未成熟な
幼児性が、いわば紗希を救った。紗希は、過度のストレスで思考が停止し、
逆上して闘争本能に身を任せたのである。
「うるさい!うるさい!黙れ!黙れぇぇぇぇ!!」
怒り狂った紗希の攻撃で、ちさとの両腕は瞬時に切断され、全身に
ビースティンガーが打ち込まれて、ちさとは地に伏した。
弱々しい息の中、ちさとが語りかける。
「…思い出した…思い出したよ、紗希。わたし、操られていたんだね。
…ひどいこと、いっぱいしてゴメンね。やっつけてくれてありがと…。
これ以上悪いことしなくてすむよ。…最後に正気に戻れてよかった…」
涙を浮かべて駆け寄り、その最後を看取ろうとする紗希。だがその
腕の中、閉じかけた目がかっと見開かれ、満面に邪悪な笑みが浮かぶ。
「…なあんて、言うと思った?甘えてんじゃないわよ!わたしは精神攻撃用に
徹底的に再カスタマイズされたの。戦闘力を大幅に犠牲にしてまでね。
人間の心なんてカケラも残っていないわ。
よく聞きなさい。あんたはこれから親友殺しの罪を背負って生き続ける
のよ。もちろん、数多くのクラスメート殺しの罪も!ヘルマリオンに
背いたあんたは、一生その罪にまみれて苦しみ続けるの。修羅の道を
選択した自分自身を呪い続けるがいいわ!わたしも、あんたを地獄の
底で呪い続けてやる。あんたに殺された仲間と一緒に、呪い続けてやる…」
呪詛の言葉と共にかつての親友が融けていった。自爆カプセルの除去は
なされていなかったようだ。何もかもが紗希を欺くための策略…
消失した友を呆然と見下ろす紗希の前から、ふいに不自然に明るい
声が響いてきた。
「ただいま♪」
顔を上げると、人間形態の紗耶が立っていた。庭へのサッシ窓が開いて
いる。母の拉致改造後、いつの間にかに舞い戻り、庭に隠れて一部始終を
見ていたようだ。
「自分でも言っていたけど、その子はあなたへの精神攻撃用に、頭脳に
集中して徹底的にカスタマイズされていたからね。戦闘には不向きなの。
だから予定通り退場してもらったわ。で、今回は戦闘要員にわたしが
来たってわけ。あなた、なんだか強くなっているからね。あなたの帰る
場所を奪った上で、精神攻撃で弱らせて、わたしが相手をする作戦
だったんだけど、うまくいったかなあ」
紗耶の、友の死を悼む気配すらない、冷ややかな口上が終わる前に、
紗希の体は宙を舞い、家族の写真を切り裂きながら紗耶に迫った。高速で
飛び、鋭い翅で敵を切り裂く技、ビースラッシャーだ。だが、紗耶は
一瞬早くジャンプし、天井に張り付いていた。その姿はすでに擬態を
解除したホーネットマリオンだ。着ていた服が周囲に四散していた。
「ふふ。お互い、ここでなら着替えの心配をせずに擬態解除できるわね。
なにせ自分の家ですもんね。わたし、これが終わったら、お気に入りの
服をいっぱい持ち帰るつもりよ」
ふざけたセリフを口にしながら、紗耶は攻撃に転じた。紗希はそれを
かわし、反撃する。ソファは裂け、壁の絵は砕け、食器棚は倒れる。
そうして、大事な思い出のこもった家をめちゃくちゃに荒らしながら、
二人の死闘は続く。だが、紗希は徐々に追いつめられていく。万事に
つけて紗耶の方が一枚上手なのだ。
紗耶が意地の悪い挑発を口にする。
「ああっ、紗希ひどいわ。大事な花瓶を!あとでお母さんに謝りなさいね」
間の抜けたセリフと裏腹の、鋭い攻撃が立て続けに浴びせられ、紗希は
追いつめられる。そこにすかさず紗耶のホーネットスティンガーが
雨あられと打ち込まれる。だが、その針は紗希の手足の自由を奪うだけで、
急所はことごとく外れている。針に仕込まれた薬剤も毒薬ではなく
麻痺剤である。
崩れおちる紗希が、紗耶をにらみつけて言う。
「どうしたの?とどめをさしなさいよ!」
それを聞いた紗耶は、頬に傷を作り、一筋の体液を流しながらも、
薄笑いを浮かべて言う。
「ばかねえ。せっかく戦闘経験を積んだ優秀なソルジャードールが手に
入るのよ?やっと大事な妹と仲直りできるのよ?殺したりするわけない
じゃない!」
その言葉の意味を理解し、紗希は青ざめた。
「…いやよ!お願い!いっそ殺して!脳改造だけはいや!!」
哀れな懇願も空しく、到着した偽救急車に、毛布にくるまれて紗希が
担ぎ込まれていく。擬態し、介助の家族をふりをして一緒に乗り込む
紗耶は、いつの間にかお気に入りのドレスに身をかため、替えの衣装で
ぱんぱんにふくれたカバンを小脇に抱えている。
アジトに運ばれた紗希は脳改造カプセルに投げ込まれた。全身に接着し、
癒合し始める操りの糸、マリオンワイヤー。この糸を介して人工頭脳への
プログラミングがなされるのだ。紗希はなけなしの力をふりしぼり、
忌まわしい糸をビースラッシャーで切断しようとする。だが糸はびくとも
せず、翅の方がぼろぼろになってしまう。
紗耶の高笑いが聞こえる。
「脳改造が済んだら、早速新しい作戦に取りかかってもらうわ。組織は
新型の改造装置を本格的に投入するの。適合者と不適合者の区別なく、
高性能の怪人に改造できる新型よ。あなたにはその素体集めを
してもらう。ふふふ」
その冷酷な笑みに紗耶の心は凍り付く。
「あなたは、あなたがこれまで助けてきた人々を訪れる。もちろん、
脳改造なんて受けていないふりをしながらね。わたしの妹なんだから、
感情擬態力も抜群のはず。そして、不遜にもヘルマリオンの秘密に近づいた
危険な連中を、順々に拉致して、改造装置へ送り込んでいくの。人類の
最後の希望、ディソルバー・サキに裏切られた人々が、あなたを呪い、
絶望の底で苦しみ、やがて従順な操り人形に変わっていくのよ。ははは」
血も涙もない作戦。紗希の脳裏に一瞬、近い将来の自分の姿が
ありありと浮かび上がる。…ああ、あのかわいらしく、健気で勇敢な、
中学生のよしこちゃんも…
――ある日、よしこの前に、もう会うことのないと思っていた紗希が
姿を現す。よしこは、その正体が正義の戦士、ディソルバー・サキで
あることを知っている。その異形の姿に秘められた熱い正義の心に、
彼女はかつて命を救われたのだ。
突然現れた紗希によしこは問いかける。
「紗希さん!どうしたの?まさか、また…」
「そうよ。ヘルマリオンの魔の手があなたを狙っていることがわかって、
駆けつけたの。無事でよかった!」
そういって紗希はよしこを抱きしめる。それからよしこに手を
差しのべて言う。
「さあ、ここは危険よ。安全なところに案内するわ」
かつてヘルマリオンが与えた恐怖と悲しみを思い出しながら、
よしこは紗希に導かれて逃げ出す。
だが、たどり着いた先は奇怪な装置の据えられた部屋。部屋の中には
異形の者どもが動き回り、装置を起動する準備をしている。ただならぬ
空気を察し、振り向いた先にいるのは、後ろ手でドアのロックをかける、
擬態を解除したビーマリオン。その顔には冷たい笑いが浮かぶ。
よしこは青ざめて問いかける。
「紗希さん!ディソルバー・サキ!どういうこと?ここは…」
「おめでとうよしこちゃん。あなたは新しい技術でソルジャードール
に生まれ変わる最初の人間に選ばれたわ」
よしこの顔に困惑と怒りが生まれる。
「だましたのね!あなた、紗希さんじゃないわね!何者?紗希さんの
お姉さんの怪人?」
「違うわ。わたしは正真正銘、あなたの知っている紗希よ。ただ、
ちょっと違うのは、以前のわたしはまだ愚かな未完成体だったという
こと。あなたが会ったときのわたしは、ヘルマリオンへの恩義を忘れ、
ヘルマリオンにたてつく、愚かな存在だった。でも今は違うわ!わたしは
完全な存在に生まれ変わった。もうわたしは、ディソルバー・サキなど
といういびつな危険因子ではない。偉大なるヘルマリオンの
ソルジャードール・ビーマリオンよ!」
そう言って哄笑する紗希のかたわらで、よしこの衣服ははぎ取られ、
その肉体はマリオンラーヴァの待ちうける手術台に固定される。
紗希は面白そうに言う。
「さあ、あなたは何の改造人間になるのかしらね。楽しみね。うふ、
うふ、うふふふふふふふ…」
「いやだ!もとの紗希さんに戻ってよ!改造人間なんていやだ!
放して!放して!」
「大丈夫。もうじきまた仲良しに戻れるわ。二人で人間をいっぱい
殺しましょうねえ」
「いやぁ!そんなのいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…」
泣き叫ぶよしこを、無情にも改造装置は飲み込んでいく。それを心から
うれしそうに見送る紗希…――
糸の癒合が完了する。おぞましい未来の地獄絵図を思い浮かべた紗希は、
もはやその未来を逃れられる見込みがないだろうことを悟る。
…駄目なのだろう。わたしは意志の続く限り脳改造に抵抗するつもりだ。
だが、今のわたしが、どんなに熱い正義の心を燃やしても、愛しい人々を
悪の魔手から守りたいとどんなに強く念じても、多分無駄なのだ。
なぜなら、目の前に、未来のわたしがいるからだ。わたしと同じ遺伝子を
もち、わたし以上に、純粋で、まっすぐで、優しく、心清らかだった
紗耶。その紗耶をこんな風に変えてしまうヘルマリオンの悪魔の技術。
それに抵抗するなど、恐らくは不可能なのだ…紗希の勝れた理性は、
そんな冷徹な結論を引き出した。
絶望的な結論を認めざるを得なくなった紗希は、もはや狂乱に身を任せ、
想像の中のよしこさながら、叫び続ける以外のことができなかった。
「いやだ!脳改造なんていやだ!放して!でなければ、いっそ殺して!
いやだよ!ヘルマリオンの手先になるのはいやだ!いやだぁ…」
泣きわめく紗希の声も空しく、頭部にヘルメットがかぶせられる。
そして頭蓋骨にメスが当てられ、激痛と共に、人工頭脳・クレイブレインを
注入するための穴が額に開けられてしまったことを紗希は知る。
「ふふ。穴が空いたわね。もうおしまいよ。仮に今、あんな停電が起きても、
もう脳改造は止まらない。もうすぐクレイブレインは、自律的に頭蓋内に
侵入し、その中で展開を開始する。そうなってしまえば、クレイブレインが
初期化され、脳改造が完了するまでの間、あなたは体を動かすことが
まったくできなくなる。ふふふ、もう少し、もう少しの辛抱よ…」
そんな紗耶の勝ち誇った声のかたわらで、紗希の絶叫は続いた。
* * * * * *
読者諸氏もご承知の通り、この後紗希は、人工頭脳クレイブレインの
注入を免れ、ヘルマリオンのアジトを脱出することになる。「事実は
小説よりも奇なり」ということわざそのまま、その脱出劇は、どんな
作家の想像力も及ばぬほどの意外な出来事によって果たされることに
なるだろう。
――だが、それはまた別の物語である。
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