未完成体が降伏を呼びかけている。
「オードネートマリオン!あなたの作戦は失敗したわ!洗脳ブローチは
わたしが破壊した!美術展の観客は無事よ!おとなしく観念して…そして…
…もう悪いことはやめて!ミドリ!」
未完成体は、休戦を持ちかける言動とは矛盾する行動をとっていた。
その目から激しい動揺を示す涙液を湧出させながら、鋭利な刃である
自らの翅――コードネーム・ビースラッシャー――を左右に大きく
広げ、高速でわたしの肉体を切断すべく接近してきたのだ。わたしは
急旋回してその刃をかわすが、よけきれずにわたし自身の右翅を切断
されてしまう。わたしはなんとかすれ違いざま、腰の後ろから生える
猛禽類のような爪で未完成体、ビーマリオンの両肩を掴み、翅ごと
その動きを封じる。二体の改造人間はきりもみ状の軌道を描き地面に
落下していく。
落下の衝撃で腰の後ろの爪は損壊し、両足に壊滅的なダメージを
受けたことを感じる。一方の未完成体は、わたしの体が緩衝材となり
ダメージを免れたらしい。体勢を立て直したビーマリオンは至近距離
から生物殺傷用の針――コードネーム・ビースティンガー――の
発射準備に入っている。ビーマリオンが理解不能な表情を浮かべ、
その乳房を激しく揉みしだくにつれ、固く硬直した乳房の先端に発射口が
開き始める。それを目にして、数秒後の自らの死をもはや避けられない
と結論したわたしは、最終手段を選択した。腹部から伸びる触手を
勢いよく伸ばし、ビーマリオンのみぞおちにたたき込み、同時に
自決用カプセルをその先端に移動させる。不意の攻撃に苦悶する
ビーマリオンに対し、わたしはわが組織の勝利宣言もである、
自決用カプセルの解除コードを誇らしく宣言する。
「ヘルマリオン万歳!」
わたしが未完成体の腹部にたたき込んだカプセルには、われら
ソルジャードールの強化細胞を強酸性の物質に変性させつつ全身に
広がる、人工プリオンが封入されている。そのカプセルは、通常は
TNT火薬の爆発にも持ちこたえるが、解除キイが発動されると
溶解し、内部のプリオンを体内に放出するのだ。
解除キイは次のいずれかの条件が満たされるときに発動する。
一つは、ソルジャードールの「糸が切れて」しまう場合だ。つまり、
偉大なるヘルマリオンの支配がソルジャードールに及ばなくなったことが
確認された場合、解除キイが発動され、欠陥品の処分とヘルマリオンの
機密隠蔽を同時に行うのだ。もう一つは、ソルジャードール自身が
自らの肉体の融解を意志する場合である。これは、ソルジャードールが
解除コードを宣言することによって発動する――わたしがたった今
実行したように。
人工プリオンがわたしの尾の先端の組織の変性を開始し、ずぶずぶと
融け始める。そして融解は導火線のようにわたしの尾を伝っていく。
融解はやがて腹部に達し、わたしの全身に及び、わたしは消えてなくなる
だろう。だが、ビーマリオンの腹部に残された人工プリオンもまた
活動を続けているはずだ。それは腹部を浸食し、やがてこの未完成体の
全身の細胞を強酸性の物質に変え、跡形もなく消し去るはずだ。
わたしの命と引き替えに、この忌まわしい裏切り者もその存在を停止する。
これまで幾多のソルジャードールが試みながら果たせなかった使命を、
わたしは遂に果たすことができる。その名誉にわたしの心は震える。
裏切り者は何が起きたかを瞬時に悟り、生身の頭脳を、人工頭脳も
およばぬ速度で駆使し、次の行動を選択した。すなわち、すでに腹部の
融解が始まっていたわたしを抱きかかえると高々と飛翔し、わたしたちの
戦場であった廃ビルの太い鉄骨の一つに突進したのである。
鉄骨のキザギザした先端がわたしの背中を突き破り、わたしを
抱きかかえていたビーマリオンの腹部をも貫き、その背中にまで貫通した。
ビーマリオンは貫通とほぼ同時に背中で翅を羽ばたかせた。
しゃきんという音と共に、鉄骨の先端が切断され、強酸によって
すでに鉄骨を溶かし始めていた人工プリオンともども落下していった。
わたし同様苦悶の表情を浮かべたビーマリオンは、二体の改造人間を
串刺しにしている鉄骨を見ながら、しぼりだすように言った。
「…荒療治…だったけど…これで人工プリオンは『摘出』できたはず。
…あなたも、わたしも、もう融けることは…ないわ…」
ビーマリオンは翅を羽ばたかせ、わたしを抱きかかえたまま二人の
肉体を移動させて、鉄骨から抜き取る。じゃりじゃりと肉をそぎ取り
ながら鉄骨は抜け、二体のソルジャードールは地上へ降下する。
ビーマリオンの言葉は、わたしの使命の失敗を意味していた。肉体の
苦痛以上に、敗北感がわたしの心を満たした。わたしは裏切り者の抹殺に
失敗し、偉大なるヘルマリオンのソルジャードールとして自決する名誉をも
奪われたのだ。この未完成体め。憎い。憎い。
ビーマリオンは依然わたしを抱きかかえている。エネルギーを
使い果たしたわたしはもはや敵の捕縛する腕を逃れる術すらない。
屈辱感に苛まれ、せめてもの抵抗にと憎悪の目を向けるわたしを、
ビーマリオンは理解しがたい表情で見つめている。その胸を見ると、
ビースティンガーの発射準備はなぜか解除されている。
わたしの心に疑問が芽生える――この子は何がしたいんだろう?
敵であるわたしを至近距離で確保しながら、なんで攻撃しないの?
――その答えは、その不可解な表情にあるように思えた。わたしたち
ソルジャードールにも理解可能な、反射的な喜怒哀楽のいずれでもない表情。
悲しみと、期待と、後悔と、不安と、決意と、そんな色々な「思い」が
複雑に溶け合った表情。…あれ?…何か、大事なことを忘れていた気がする。
そもそも、わたしはなんで他の個体の内部状態に関してこんな複雑な
情報を入手できるの?…いえ、違う!わたし、なんでこんな簡単なことが
今までわからなかったの?…この子は、わたしを憎んでいたんじゃない。
わたしを救えたらいいとずっと願っていたんだ。だけどわたしは
この子の期待に添うことはできなかった。なぜなら…
――わたしは操り人形だったからだ――
その自覚と共に、わたしの心に一挙に様々な思いが吹き出した。
…わたしは誰?ソルジャードール・オードネートマリオン?
…いえ、違う!わたしはずっと、それとは違う名で呼ばれていた。
そして、目の前の女の子は誰?未完成ソルジャードール・ビーマリオン?
憎むべき敵・ディソルバー・サキ?それとも、その擬態形態・帆村みさき?
…違う!この子には別の名があった。もっとずっと前から知っていた、
懐かしい名前。何だっけ?何だっけ?
「…さき…紗希?…野々村…紗希ちゃん?」
「…ミドリ?碧?ひょっとして『糸が切れ』たの?わたしがわかるの?」
そうだ。わたしの名は堀江碧。わたしは、ごく最近までヘルマリオンの
ことなど何も知らない、普通の人間の女の子だったのだ。ああ、それを
忘れさせられていたんだ…。そして、悪魔の操り人形として、
おぞましい作戦を数知れず実行させられていたんだ…
…あの日、わたしがわたしでなくなってしまった運命の日。サマースクールの
合宿所。哀れな第一の犠牲者であり、同時にわたしたちの拉致作戦の
責任者でもある、フィオナ・マクレガン、いや、ジェリーマリオンが、
人に似て人にあらざる戦闘員プペロイドたちを率い、わたしたちを誘拐して、
絶望の手術台へ引きずっていった日。
わたしの順番は一番最後だった。次はわたしの番?次はわたしの番?
そんな、恐怖と一刻だけの執行猶予が繰り返される中、友達の女子高生たちが
次々に容赦なく様々な異形のものに改造され、あるいは奇怪な人工生命体の
餌食となって消えていった。これから我が身に生じる運命の「前例」と
「仕組み」についての知識のみがひたすら増すだけの、長く辛い時間。
「ユイ!」
最後から三番目になった結も、男勝りの罵声声を上げながら、巨大な
機械に飲み込まれていった。やがて結は、サソリと人間の合体したような
怪物に変わり果てて機械から排出され、力なく身を崩してしくしくと
泣き始めた。精神的ショックだけではなく、肉体的にも自由がきかない
様子だった。次に親友の春子が、わたしをかばうように身を乗り出し、
わたしの方にうなずきながら、悲痛な面持ちで機械の中に運ばれていった。
だけど春子はそのまま帰ってこなかった。不適合者として、機械内部で
培養されている人工生命体「マリオンラーヴァ」に吸収されてしまったのだ。
そしてとうとうわたしの番が来る。…ああ、奇跡が起きればいいのに。
そんな身勝手な願いが叶うはずもなく、わたしはプペロイドの持つはさみで
ブラウスとスカート、次いで下着を切り裂かれ、みじめな全裸の姿で
手術台に引きずられていく。
「…やだ…やだ…やだよう…」
繰り返される恐怖に憔悴しきったわたしは、抵抗する気力も尽きかけ、
小声でぶつぶつと拒否の言葉を唱えるのみだった。
プペロイドがわたしを手術台に寝かせる。目に見えない電磁的な拘束具が
わたしを台に固定する。プペロイドはそれを確認してから、わたしの
靴と靴下を脱がせる。そして巨大な機械の口が開き、わたしを飲み込んでいく。
機械の内側はマリオンラーヴァの放つ赤黒い光で満ちている。天井に広がる、
脈動する、巨大な心臓か子宮を思わせる物体。わたしは、その光に
照らされた自分の裸体が、すでに人ならざるものに変わってしまったような
錯覚を一瞬おぼえる。やがて人工生命体の触手が伸び、わたしの全身に
貼り付き、鼻や口や耳、さらに肛門や女性器、果ては毛穴の一つ一つにまで
侵入を始めたのが分かる。――やだ、わたしの体に入ってこないで!――
繰り返し見続けた悪夢がとうとう正夢になったような、そんな不条理な
感覚にとらわれながら、わたしの心は無駄な抵抗を続ける。感じたことの
ない奇妙な苦痛が全身を苛む。細胞レベルでわたしの肉体が人間では
なくなりつつあるのだ。いやだ!いっそ春子のように、この世から
わたしを消して!わたしはせめてもの嘆願を発する。だがまがまがしい
人工生命はそれをあざ笑うかのように、わたしに何かを注ぎ込み、
肉体を粘土細工のように作りかえるのをやめない。
わたしの順番が来るまでの間に、改造に要する時間は徐々に短く
なっていた。マリオンラーヴァの学習能力が所要時間を短縮していく
らしい。なのに、その誰よりも短いはずの改造の時間は、途方もなく
長く感じられた。だが、やがてその長い苦痛の時間も過ぎ去り、
人工生命の触手が収縮を始め、手術台が排出された。そしてわたしは、
夏の日の下にさらされた、自分のおぞましい肉体を直視させられた。
――全身の皮膚は無機質なエメラルド色。幾分原型をとどめている乳房の
真下は、金、黒、緑の、まるで宝石を埋め込んだような楕円形の
プロテクターに変形し、腹部を保護している。腰の後ろには猛禽類を
思わせる、鋭い三本の爪の生えた金色の肢。プロテクターの下部からは
金色、緑、濃紺の、トンボの尾に当たる太い触手が身体の前面に向けて
伸びる。肩口からはイトトンボを思わせる大きな一対の翅が生えて
いる。翅は、金色の翅脈に孔雀の羽のような文様が広がるという
けばけばしいデザイン。手を触れると頭部は硬い外骨格に覆われ、
頭の両側には大きな複眼が形成されている。全体の輪郭を確認した
わたしに、悲しみに加えてみじめな気分が湧きあがってきた。…これじゃ、
アールヌーボーの美術品じゃないか。わたしは生きたまま肉体を装飾品の
ような兵器に変えられてしまったのだ…
「なかなか美しい。トンボの能力をもつ改造人間として、
ソルジャードール・オードネートマリオンと名乗るがよい」
残忍な幹部、骸教授が冷笑と共にそう宣告した。手術台から解放された
わたしは、自分の肉体を自分で支えることができないまま、プペロイドたちに
抱えられて他の少女たち同様電磁牢へ運ばれ、その中でうずくまるしか
なかった。そうしていると、骸教授の声が聞こえてきた。
「改造後しばらく間は強化細胞の定着を待たねばならない。それが済めば、
順に人工頭脳を埋め込んで完全にわが組織の人形にしてやろう」
骸教授はそう言ってから、最初に改造された小夜子を指さした。
「そろそろ、おまえは大丈夫だな。人工頭脳の埋め込み手術に耐えられる
程度に強化細胞の定着が進んだはずだ。時間が経ち過ぎると強化細胞が
本格的に定着し、プペロイドでも捕縛しきれなくなって面倒だからな。
さあ、連れて行け」
さらなる非情な宣告を受けた小夜子が、涙を浮かべて皆を見送りながら
プペロイドに引きずられ、奥の部屋へ姿を消していった。しばらくすると、
奥から、耳を覆うような恐ろしい絶叫が響いてきた。だが、それは徐々に
弱まっていき、またその声には恐怖や苦しみとは異質のトーンが混じり
始めた。やがて完全な沈黙が訪れ、間もなく奥の部屋から小夜子が、
もはや誰に拘束されるでもなく、しっかりした足どりで姿を現した。
うつむき加減だったその頭を持ち上げたとき、その顔にはもはや一切の
苦しみや恐怖の痕跡はなく、ただ、正体を現したフィオナ同様の、
空虚で記号的な笑みが貼り付いているだけだった。かつての内気な少女の
面影はもはやどこにもなかった。
小夜子はそのまま骸教授の足下に移動すると、そこにひざまずき、
平板な喜びを込めた口調で言った。
「骸教授、素晴らしい肉体に改造して頂き、ありがとうございます」
それから立ち上がり、二番目に改造された紗耶の方へ近づいて言った。
「さあ、サヤ、次はあなたの番。わたしが連れて行ってあげる」
紗耶は悲しみと絶望の入り混じった悲痛な声で答える。
「小夜子!そんな恐ろしいこと言わないで!もとの小夜子に戻ってよ…さよこぉ…」
紗耶の心の叫びが届く気配もないまま、小夜子、いや、ソルジャー
ドール・スパイダーマリオンが冷酷にその手を差しだそうとしたそのとき
――奇跡が起きた。海底地震の猛烈な揺れと共に、地下基地が闇に包まれたのだ。
「停電ダ!復旧ヲ急ゲ!」
そう叫ぶプペロイドたちが、明らかに右往左往しているのがわかった。
停電によって指令系統が混乱したのだろう。即座に状況をのみこんだ
紗耶が励ますように皆に声をかける。
「紗希、みんな!脱出するわ!出口はあっちだったはずよ!」
電磁牢は解除されていた。暗闇の中、改造された超感覚を不器用に
働かせ、痺れる手足を引きずりながら、改造された少女たちが出口を
目指す。背後ではプペロイドたちが活動を再開した気配。強化細胞の
定着が一番遅れているわたしは、なんとか置いていかれまいと全力で
皆の後を追う。だが、岸壁の細い道をつたい歩いていたとき、重くなった
自重を支えきれなくなったわたしは、崖下の岩肌に転落してしまった。
そして腕をくじいたまま、這い上がれる見込みのない深い縦穴の中に
取り残されたことがわかった。
そのままなすすべもなく長い時間が過ぎ、わたしが絶望の底でうずくまって
いたとき、聞き慣れた明るい声が頭の上から響いた。
「碧!助けに来たわ!」
紗耶の声だった。紗耶はその異形の翅を羽ばたかせながらわたしの
手を取り、わたしを一気に穴の上まで引き上げてくれた。
「ふう。いまいましい翅だけど、役には立つものね」
そう言ってから紗耶はわたしを抱き寄せた。互いに全裸同士のはず
なので、わたしは少しどきどきした。
「碧!無事でよかった!可哀想なわたしの妹以外、みんな無事なの!
みんなでここを出ていく準備をしているわ。あなたが見つからないので
探しに来たのよ!」
それを聞いてわたしの目から涙があふれてきた。あのままだったら
わたしはいずれプペロイドに見つかり、心まで恐ろしい怪物に改造されて
しまっていただろう。こんな極限状況の中で、この勇敢な子は、危険を
かえりみず、わたしを見捨てず助けに来てくれたのだ。
「ごめんね。こんな、足手まといのわたしのために…」
「いいのよ。友達じゃない!」
そう言いながら紗耶はわたしの手を引き、複雑な通路を進み始めた。
恐らく、緊急用の脱出装置か何かを見つけたのだろう。ことによると、
皆で力を合わせ、戦闘員たちやあの下品な幹部をやっつけたのかもしれない。
たどり着いたのは頑丈な扉のついた部屋だった。部屋に入ると、たしかに
皆が揃っていた。だが、様子がなんとなくおかしい。そう思うと同時に、
部屋の一番奥から悲鳴のような呼びかけが聞こえてきた。
「碧!来ちゃ駄目!逃げて!みんな、もう、昔のみんなじゃないの!
紗耶もよ!!」
結の声だった。結の言葉にはっと気づいたわたしは室内の「友達」の
顔を見回した。皆、その異形の肉体にふさわしい無機的で空虚な笑みを
浮かべている。そしてその中には、すでに完全な怪物になったはずの
小夜子も、あのフィオナもいる!真相を悟ったわたしを、紗耶が後ろから
きつく抱き寄せた。わたしの乳房に紗耶の指が食い込む。その力はあまりに
強力で、今のわたしの力ではまったく抗うことができない。わたしは
紗耶を振り返り、その目を見る。紗耶は笑いながら言った。
「何か言いたそうね。言っておくけど、『仲間』が集まっているのも、
ここを出ていくのも本当よ。行方不明の紗希を確保して脳改造したら、
この基地を破棄して、より大規模な活動拠点へ移動する予定になっているの。
だから、嘘なんかついてないわよ。…あ、やだ!どこかで聞いたような
セリフね!あははははは…」
…もうこの女の子は紗耶じゃない。そう思ったとき、奥の扉が開き、
かつて似たセリフを紗耶に向けた張本人、骸教授が姿を現し、
紗耶だったモノに声をかける。
「ホーネットマリオンよ。脳改造直後であるにもかかわらず、未洗脳の
素体を欺くその感情擬態力、驚いたぞ。非常に優秀だ。今回一番の収穫と
言ってもよい」
紗耶がわたしを抱えたままうやうやしく礼を言う。
「有り難きお言葉、光栄でございます」
それから紗耶はわたしに向き直り、哀れな結を指さしながら、
嬉しそうな声で言う。
「見なさい。もうじき結もわたしたちの仲間、スコーピマリオンとして
完成するわ」
結は透明なガラスのカプセルの中にいた。両手を上に上げ、足を開いた
姿勢だ。よく見ると立っているのではなく、地面からほんの少し足が
浮いている。天井から無数に伸びる糸のようなもので全身を吊られている
のだ。腕や足の皮膚と癒合しているらしい糸が、吊られた部分の皮膚を
円錐状に引っ張り、見るからに痛々しい。やがて結の頭部に、前頭部に
太いガラスのシリンダーのついたヘルメットのようなものが装着される。
シリンダーには濃緑色の輝く液体のようなものが入っている。
「ああやって頭蓋の一部に穴を開けて、脳髄液の一部を抜き取り、代わりに
あのマイクロマシンの塊、クレイブレインを注入するの」
シリンダー内部の「クレイブレイン」が結の脳内に注入されていく。
結は目を見開きながらわけの分からない叫びを上げる。
「大丈夫よ。あれは痛がっているのではなくて気持ちよがっているの。
マイクロマシンと共に、大量の脳内麻薬物質も注入されたから」
興奮が去り、虚脱状態に陥ってどろんとした結の頭部からヘルメットが
外される。額には丸い傷跡が残っていたが、その傷跡は見る見る消えていく。
「クレイブレインは頭蓋内で、脳を取り囲んでシート状に自己展開し、
各種センサーを備えた超並列コンピュータを構成する。そして…」
カプセル上部の機械が作動し、同時に結の全身がでたらめな踊りの
ような動作を開始する。やはりその目は大きく開かれ、口からはわけの
分からない叫びが漏れる。
「ああやって全身の感覚神経と運動神経を興奮させてやって、その結果を
クレイブレインに学習させるの。脳では様々なパターンの電気的興奮と、
ありとあらゆる脳内物質の分泌がなされているはず。クレイブレインは
それを逐一記憶し、与えた刺激とその反応を比較して、脳が行っている
肉体の制御法を学習するの。学習を終えると、今度は獲得したパターンを
利用して、ヘルマリオンにとって最適な行動を脳に指令しはじめる。
こうして、いわば脳にヘルマリオンの『糸がつながった』状態になるの」
奇妙な踊りの続く間、結が必死で「何か」に抗い、歯を食いしばろうと
しつつも、徐々にその何ものかに押し流され、圧倒されていくのが
わかった。やがて憂いに満ちた表情のまま、ふとわたしと目が合った
結は、その目と唇で「ごめんね、さよなら」とつぶやいた。そして直後に
あらゆる表情を失い、能面のような顔つきになった。同時に全身の糸が外れ、
カプセルが開いた。今やスコーピマリオンとして覚醒した結は、カプセルから
歩み出ると、他の改造少女と同じ記号的な笑みを浮かべ、わたしに
近づき、口を開いた。
「次はあなたの番よ。オードネートマリオン!」
――思い出した。何もかも思い出した。わたしはそれからずっと
人間としての意志を奪われ、悪魔の操り人形として活動してきたのだ。
そしてこの目の前の紗希、人類の唯一の希望を、「未完成体」と
ののしり、ひどい目にあわせてきたのだ…。
「紗希ぃ!ごめん!ごめんね!…わたし…わたし…」
「いいのよ、碧。あなたが悪いんじゃない!あなたが悪いんじゃないの!」
わたしと紗希は抱き合ったままいつまでも泣き続けた。幸い、互いの
お腹に空いた大きな穴は、忌まわしいマリオンラーヴァが与えた生命力の
せいで、すでに修復を始めていた。
それから五日あまりが経った。わたしは足の再生が完了するまで、
とりあえず紗希のアパートに寝泊まりすることになった。骨が文字通り
粉末にまで砕けた脚部が、戦闘に耐えられる強度にまで再生するには、
それ相応の時間が必要だったのである。
紗希のベッドを借りて横になっているわたしに、紗希が困惑した顔で
相談してきた。
「最近、世多谷地区で異常な事件が多発しているの。ニコニコ笑っていた人が
突然狂乱して、その辺にあるクワやら何やらを振り回し、あたりの人を
惨殺して本人も自殺する。そんな事件がもう三件も起きてる。やつらの
仕業である可能性は濃厚だと思う。…あまり思い出したくない記憶だと
思うから、なるべく聞くまいと思っていたんだけど、何か心当たりはない?」
「…気にしなくともいいよ。人の命が救えるならば、知っていることは教えるわ。
でも、ヘルマリオンという組織には謎が多いの。残念だけど、わからない。ごめん」
「そう…。こっちこそごめんね」
別に謝るとこじゃないよ、と言ってから、わたしは別のことに気がつく。
「ねえ、今回、例の『徴表』はないの?」
「『徴表』か。…確認はできてるんだけど、今回ばかりはよくわからないんだ…」
「徴表」とは、ヘルマリオンが三ヶ月ほど前から導入した、人類征服用の
新たな装備の副産物である。
ヘルマリオンが開発した「邪念実体化システム」は、拉致した人間の
邪悪な願望を実体化させる装置だ。装置に取り込まれた人間はマリオン
ラーヴァの力で異形の者――邪念獣――に変貌し、ソルジャードールと
共に邪悪な計画を実行する。だが、この装置には思わぬ副産物が伴った。
「邪念実体化システム」に取り込まれる人間は大抵、その犯罪のイメージを
既存の犯罪計画に求める。そして、その犯罪計画の大半は、実在の犯罪
ではなく虚構上の犯罪、つまり推理小悦や犯罪小説の類からヒントを
えている。ところが、そのような計画を「邪念実体化システム」が実体化
するとき、犯罪の着想のもとになった何らかのアイテムが無数に、
雨のように、犯行現場に降り注ぎ、やがて雪のように蒸発して消えて
いくのだ。そして、重度のミステリマニアである紗希は、ほとんどの
事件においてそのアイテムの意味するところをつきとめ、そうやって
悪の計画を何度も阻止してきたのだった。
「ねえ、今回の事件の『徴表』って何なの?」
「これなんだけど…何かわかる?」
諦めたような顔の紗希が差し出した携帯のカメラには、昔の中国の
貴族風の衣装を着た人形が写っていた。
「わたし、今回ばかりはだめ。何も思いつかないの」
がっくりとへこんでいる紗希から携帯を受け取り、それをよく見た
わたしは、すぐにその正体がわかった。
「…これ、ええと、何だっけ、あの、奥さんを絞め殺して死体の絵を
描いた人じゃない?」
「…え?呉青秀?『ドグラ・マグラ』の?…たしかに、そんな時代の
服だけど…何でわかったの?」
「え?だって…映画でこの人形が奥さんの首を絞めてたよ」
「…映画!?…そうか…映画は見てなかったな…」
「…紗希!…ということは…」
「…ということは…」
「「精神病院だ!!」」
二人は即座に、敵の本拠地のありかを察した。世多谷には有名な
精神科の病院がいくつかある。そのどれかが本拠地に違いない。
――そして出動したディソルバー・サキの活躍でヘルマリオンの野望は
くじかれたのだった。
邪念獣を倒し、ついでに探偵事務所のアルバイトを終えて部屋に
帰ってきた紗希はひどく疲労していた。それを見たわたしは
あることに気がつき、紗希に言った。
「紗希、そういえばあなた、一度もアップデートをしていないんだよね?」
「アップデート?」
「パソコンのOSなんかと同じ。強化細胞の遺伝情報のデザインは、
わたしたちが改造された後も何度かバグの修正や改良が施されているの。
…まあ、悪の組織らしい杜撰さよね。で、時々アップデートしないと
調子が悪くなるのよ」
紗希が不安そうに言う。
「…でも、それって『ヘルマリオン印』の再改造を施されるっていう
ことでしょ?何だか怖いわ。実行したとたんに敵に操られたりとか、
しない?」
それを聞いてわたしは笑った。
「何言ってるの。あなた、脳はまったく無傷なんでしょ?ありえないわ。
それより、命にかかわりかねないバグもあるんだから、絶対にやった方が
いいって。それに、操り人形として単純な動作ばかりしてきたわたしたちと
違って、あなたの強化筋肉は複雑な運動パターンを学習している。これに
アップデートが加われば他のソルジャードールたちより強くなれるわよ」
紗希は思案している。ソルジャードールたちが日増しに強力になって
いることを思いだし、それでも自分自身が何とか互角に戦えてきたことの
理由を悟ったのだろう。
「ホ…紗耶だって、以前あなたが戦ったとき以上にパワーアップしてるんだよ」
「…『紗耶』なんて言わないで!『ホーネットマリオン』でいいわ!」
紗希の表情が険しくなった。以前苦い敗北を喫し、あげく、あやうく
ヘルマリオンに連れ去られ脳改造されかけたことを思い出したのだろう。
その言葉をきっかけに、紗希は決心を固めた様子だった。わたしはほっと
しながら、ふと大事なことを言い忘れていたことに気がついた。
「…紗希、ごめん。言い忘れていたけど、アップデートが済むと、
あなたの『変身』後の姿は今よりほんの少し、人間から遠ざかってしまう。
わたしたちはそんなこと気にしないように脳改造されていたけど、
あなたは違う。致命的バグといっても顕在化する確率はすごく低いし、
無理に勧めてはいけなかったかもしれない」
しかし紗希は決然と言った。
「…いえ。いいわ。わたしの強化細胞のアップデート、お願いする」
「いいの?」
「人類の運命がかかっているのよ。見かけのことでわがままなんて
言ってられない」
「わかった。じゃあ、服を脱いで、それから『変身』してそこに横になって」
それを聞いた紗希は、ちょっとためらいながらも服を脱ぎビーマリオンの
姿になって、ホットカーペットの上に横になる。わたしもパジャマを
脱ぎ捨て、擬態を解除してソルジャードール本来の姿に戻る。だが、
まだ幾分怪しい足でよたよたと紗希の方に近づいたわたしは、この期に
およんで、やはり重要なことを言い忘れていたことに突然気がついた。
…わたしたちにとってあまりに日常的な営みだったので忘れかけていたけど
…これって人間の基準で言うと、かなりイケナイことなんじゃないだろうか?
「…ねえ、紗希。…一つ聞くけど、あなた……処女?」
「…そうだけど。……なんでそんなこと聞くの?」
紗希も何やら雲行きが怪しいことを察したらしい。
「…そうか。じゃあ、わたしがあなたの『最初の人』になっちゃうね。
女で、しかも改造人間が初体験の相手だなんて、変だよね」
そう言いながら、わたしは自分の膣の中からアップデート用端子を
伸ばし、紗希に見せた。紗希は絶句している。
わたしはもう一度聞いた。
「…やっぱりやめる?」
「…いえ。やってちょうだい。紗耶に勝つため…いや、人類のためよ。
…でも……やさしくしてね」
「わかった。…ただ、ちゃんと濡れないと痛くなっちゃうから、
入れる前にあちこちいじったりなめたりするよ」
紗希は泣きそうな顔をしている。そんな紗希の唇に濃厚なキスを
加えたわたしは、粘液でねっとりした舌を首筋から耳に這わせ、やはり
粘液の分泌されている指先で乳房をつまんだ。そうしてしばらく両手で
乳房をもてあそんでから、中指を下腹部に伸ばし、湿潤の度合いを確認した。
「どうかな?まだまだかな」
紗希は黙ったまま身じろぎもせず、微妙な表情でじっと目をつむって
いる。わたしはそのまま中指を前後に動かし、紗希自身の粘液がある程度
増えたところで指を陰核に移動させた。とうとう声をあげた紗希に、
わたしは容赦なく責めを加え続けた。
「もう大丈夫かな。いくよ」
わたしはそろりそろりと端子の挿入を開始した。ふさがった通路に
「道」をつけるのだから滑らかにはいかない。
「痛かったら言ってね」
「…つ…大丈夫…あの鉄骨に比べれば、これぐらい平気…」
…いや、そんなものと比べられても…などと心の中で突っ込みつつ、
端子の挿入を終えると、わたしは腰を前後に動かし始めた。こうして
レトロウィルスを粘膜経由で「感染」させるのがもっとも効率のよい
アップデート法なのだと骸教授が言っていたのだった…
――まてよ。脳改造のせいで気づかなかったけど、よく考えたら
もっとましなやり方はいくらでもあるんじゃないだろうか。いや、
あるに決まっている!…あのエロじじい!!――
不意に、自分たちが骸教授にだまされていたのではないか、ということに
気づいたわたしは、それでも他のアップデート法を知るわけでもなく、
どうにも形容できない思いのまま腰の運動を続けた。いつのまにか
紗希は、大きな声をあげながら首を左右に振っている。
「あ、何これ!あ・あ・あ・あーっ」
やがてレトロウィルスが大量に放出されたのが確認できた。紗希も
ほぼ同時に「イった」ようだった。わたしは役目を終えた端末が体内に
収納されていくのを感じながら、虚脱した肉体を紗希の上に重ねた。
紗希もまた放心しかけた表情で天井を見ていた。紗希がぽつりと言った。
「…あなたがヘルマリオンを脱走したということは、アップデートは
今回限りなんだよね」
「…まあ、そういうことになるわね」
「…そうか」
なんとなくつまらなそうな声でそう言ったのを聞いて、まあ、
悪いことをしたわけではなかったのだろう、とわたしは思った。
さらに数日が経ち、わたしはリハビリがてら、紗希と近所の散策に
出かけた。帽子を目深にかぶり、サングラスをかけ、わざとダサダサの
格好をしての出陣だ。穏やかな春の日。いっときとはいえ、平和で
楽しい時間が過ぎる。くつろいだ様子の紗希が話しかけてくる。
「足が治ったら、あのへっぽこ探偵にあなたを紹介するわ。そうして、
二人目の助手にしてもらいましょう」
「いいの?ちゃんと給料出せるのかしら?へっぽこなんでしょ?」
「いいのいいの。ほっておくと競馬やらパチンコに消えるお金なんだから、
気にするだけ損よ」
紗希の口調からは、きつい言い方とは裏腹の、「へっぽこ探偵」への
好意と信頼があふれていた。きっと「へっぽこ」かもしれないけど、
いい人なんだろうな。わたしもなんだか温かい気持ちになった。
ぽかぽかした陽気の下を歩く内、わたしは、何度か持ちかけあぐねて
いた相談を今してみようかという気になった。
「あの、一つ相談があるんだけど…」
わたしがそう言いかけたときだった。紗希に危険因子が接近してきた。
わたしはあわてて危険因子を排除し、紗希を保護した。すると紗希は
目を剥いてわたしを見て、こう叫んだ。
「碧!何てひどいことするの!?」
ふと見ると、目の前でひざから血を流して幼稚園児が泣いていた。
我に返ったわたしは、自分が何をしてしまったのかをようやく自覚した
――紗希と顔なじみらしい女の子がタンポポの花を紗希にあげようと
近づいてきた。わたしはそれをどういうわけか「危険因子」だと判断し
「排除」してしまったのだ。はじき飛ばしたタンポポはガードレールの
向こうへ落ちてしまったようだ。わたしは女の子に駆け寄り、女の子に
謝りながら、二人で傷の手当てをしてあげた。そうして歩き出した紗希
にもわたしは謝った。
「紗希、ごめん!何か勘違いしてしまって…血なまぐさい戦闘ばかり
続けてきたからなのかな…」
「…ううん。きつい声出してしまってごめんね。それより、相談って?」
紗希の声は固い。正直、切り出すタイミングとしては最悪だった。だが
どうせ答えは分かっていた相談なので、わたしは思い切って口に出した。
「あの、わたし、足が治ったら、家族の様子を確認に行きたいんだけど
…だめかな?」
「だめよ!!わかってるでしょ!?」
案の定、紗希は猛烈に反対した。聞くまでもないことだった。紗希に
思いやりがないのではない。むしろその逆だった。
ヘルマリオンの度重なる破壊活動で、日本中、いや世界中が混乱状態に
陥っている。家族と音信不通のままだとしたら、その安否が気になるのは
誰しも同じだ。そして紗希自身も例外ではなかった。だが、以前、
その思いに駆られた紗希が自宅の様子を見に行ったばかりに、紗希の
両親はヘルマリオンの恐ろしい作戦に巻き込まれてしまった。しかもそれは、
脳改造されていたわたし自身が、間接的にではあるが関与した作戦だった。
紗希が諭すように言う。
「あなたの脱走はすでにヘルマリオンに察知されているはず。だから、
あなたの自宅にはヘルマリオンの監視の目が光っていると思った方がいい。
そんなところにのこのこ出かけて、戦闘にでもなってしまったら、
ご両親や茜ちゃんがどんなことになるか…あなたのためよ。我慢して」
紗希の声は心底辛そうだった。わたしはせめてもと思い、こう訊いた。
「…なら、紗希、あなたが見に行ってくれる?」
「同じことよ。もっと悪いかもしれない。…でも、いい案があるわ。
敵からまるっきりノーマークのへっぽこ探偵に頼んでみる。浮気調査
より簡単な仕事だから、いくらへっぽこでも失敗はしないわよ。料金は
ツケにしてもらう。あなたが将来バイトでも始めたら払ってあげて」
「へっぽこ」という形容詞が一切外れないことに一抹の不安を
おぼえつつも、たしかにそれが最善の策だとわたしは納得した。
そうしてまた歩き始めたとき、わたしは紗希に危険因子が接近している
ことを感知した。目標は急速に接近している。わたしはやむをえず
非常措置をとった。なんとか危険因子の排除は成功し…同時に、
紗希の悲鳴が聞こえた。
「いやぁぁ!碧!碧!?あなた、何をやっているの!?」
ふと気がつくと、目の前で何か毛むくじゃらの黒い物体がずぶずぶと
融けている。そして紗希に借りた服の胸の部分が融け、そこから
エメラルド色に変色した乳房が覗いている。わたしは自分が何をしたか
すぐに思い出した――紗希になついているらしい飼い犬、しかも小型犬で、
やや長めの鎖につながれた犬が、うれしそうに尻尾を振りながら紗希の方に
向かってきた。わたしはそれをどういうわけか「急速に接近する危険因子」
と認識し、犬に溶解液を放射したのだ。
「碧!わんちゃんには気の毒だけど、人に気づかれる前に、逃げるわよ!」
そう言いながら、あきらかに犬の死を悲しむ涙を浮かべて、紗希は
わたしの手を取り、わたしの胸を隠しながら大急ぎで下宿に向かった。
運よく誰にも目撃されずに部屋に戻れたわたしたちは、ほっとして
へたり込んだ。そして紗希は、悲しみと、困惑と、幾分かの怯えを
含んだ目でわたしを見た。その感情は、わたしが、わたし自身に
抱いているものと同じだった。
――わたしは、紗希とは違う。脳にまったく手をつけられていない紗希と
違って、わたしの脳には人工頭脳が埋め込まれている。そしてそれは、
たとえ「糸が切れ」た後でも活動を止めてはいない。わたしはもう、
散歩一つ平和にできない、狂った戦闘兵器になってしまったんだ…――。
あの犬と幼稚園児が逆だったらどんなことになっていたか?それを思うと
ぞっとした。わたしは無言で、自分が寝ていたベッドに戻り、布団に
くるまった。無理に明るい声を繕って紗希が声をかけてくる。
「大丈夫よ。あなたは人間よ。もとの優しい碧だよ。あまり落ち込まないで」
わたしはそれには答えず、布団の中で体を丸めた。