わたしがこの山奥の小学校に教師として赴任してからもうじき二年が経つ。
中学時代、親の転勤で生まれ育ったこの村を離れ、そのまま東京の大学に
進んだわたしは、教員の免許を取るや故郷に帰り、ここで教育者としての
勤めを果たそうと決意した。記憶にあった以上に不便な村で、色々と苦労は
あった。特に、半年ほど前から携帯電話が一切つながらなくなったのには閉口
した。何度も何度も電話会社に苦情を言ったのだが、「調査中です」の
一点張りで、結局諦めてしまった。それでも、元気な子供たちに囲まれて
過ごす日々は充実していた。今年の全校生徒は特に少なくて、たったの五人だ。
引退した校長先生がときどき手伝いにくる以外は、教師はわたし一人で、全員
同じ教室で授業を行う日々だった。
事件が起きたのはある土曜の放課後。職員室からふと校庭を見ると、五年生の
イチロウくんと六年生のアキコちゃんがつかみ合いのけんかを始めようとして
いた。他の子も何やら険悪な雰囲気だ。わたしはあわてて飛び出した。
「やめなさい!どうしたっていうの?」
「だって!アキコちゃん、オレの言うこと信じないんだ」
「信じるわけないでしょ!お母さんはちゃんと昨日から家にいるんだもん。
あんただって会ったでしょ?」
「きっとあのお母さんはニセモノなんだ!本物はいまごろ…」
「ふざけないで!これ以上言うと…」
わたしと大して背丈の違わない大柄のアキコちゃんが、年の割には小柄な
イチロウくんに今にも拳をふるいそうになっている。
「そうだ!ふざけるな!」
横では、アキコちゃんにいつも「いいところをみせよう」とやっきになって
いる五年生のウミヘイくんがファイティングポーズをとっている。
「何よそれ!なんでイチロウくんを信じてあげないのよ!」
イチロウくんの横には、イチロウくんびいきの、四年生のエツコちゃんが加勢に
回ろうとしている。アキコちゃんの妹の、二年生のオトミちゃんは泣き出して
しまった。
わたしは一触即発の子供たちの間に割って入り、訳を聞いた。
どうやら発端はイチロウくんらしい。イチロウくんは昨日、アキコちゃんの
お母さんが泣き叫びながら、全身真っ黒の男たちに引きずられていくのを見た、
と言い張っているのだ。場所は、半年ほど前急にできた、へんぴな村には
不似合いな近代的施設「応用獣化学研究所」の裏手のことだという。イチロウ
くんは最初建物の中へ追いかけようとしたが、危険かと思いなおし、駐在所に
通報しにいくことにした。だがその途中アキコちゃんとばったり会い、まずは
アキコちゃんの家に向かった。ところが、家に着くと、先ほど泣き叫んでいた
はずの母親がいつも通りの笑顔で二人を出迎えたのだった。腑に落ちないまま
自分の家に帰った彼は、しかし翌日、自分の目は疑えないという気持ちを
アキコちゃんに伝えた。当然アキコちゃんは反論し、そうして朝から続いていた
言い合いが、とうとう掴み合いになったのだった。
「本物のおばさんはきっとまだあの研究所にいるんだ!」
イチロウくんは譲らない。アキコちゃんのお母さんが現に無事だった以上、
やはり嘘をついているか、でなければ、白昼夢の類だろうと思えた。子供に
よっては稀にそういう事例があるそうだ。だが、だとしても、教師として
このまま放置するわけにはいかない気がした。そこでわたしは一番率直な
方法を提案した。
「いいわ。研究所に行ってみましょう。そうして何もなかったら、イチロウ
くん、やっぱりあなたの勘違いだということを認めて、アキコちゃんに謝り
なさい。もちろん、イチロウくんが正しかったらそれどころじゃない。警察に
行かなくてはいけないわ。それでいい?」
実はイチロウくんが、事件に巻き込まれた別の女性を見間違えた、という
可能性もなくはない。だとしたら警察に行くべきだ。だがその可能性はあると
してもとても小さい。まず、この小さな村でそんな事件が起きて騒ぎに
ならない筈がない。加えて、アキコちゃんの母親というのは都会にもちょっと
いない美人で、別の女性と見間違えることはまずないと思えるのだ。
二人は仲直りはしないまでもわたしの提案を聞いた。最初わたしは、イチロウ
くんに恥をかかすまいという思いもあり、イチロウくんと二人で行くつもり
だった。だが、イチロウくんがどうしてもみんなも連れて行くと言い張った
ので、結局、全校生徒五人で出かけることになった。
問題の施設は裏山の向こうにあり、子供の足で歩いて四十分はかかる。「応用
獣化学」とは聞き慣れない名で、多分畜産関係専門の生化学、具体的には
バイオテクノロジー関係の団体なのだろうが、なぜか詳しい情報は誰にも何も
伝わってきていなかった。
施設が近づくと、イチロウくんが道を外れ、山の方に行くと言い出した。正面
からは入らず、裏手にある例の現場に直接行きたいと言い張るのだった。
わたしはやむを得ずイチロウくんに従った。道とも言えない斜面を、木と草を
かき分けて進むと、厳重なフェンスの継ぎ目に、非常に分かりにくい形に
開いた、大人でも何とか通れる隙間があった。子供というのはときに、プロの
スパイさながらに、こんな抜け穴を見つけるものだ。不法侵入というのは
教育上いいことではないが、今回の目的は、イチロウくんを現場に連れていき、
自分の勘違いを納得させることにあるのだ。わたしは、「これは特別なんだから
ね!」を連発しながら、子供たちを連れて中へ入った。
施設の裏は、思っていた以上に薄暗くて狭いところだった。子供の冒険心は
かきたてるかもしれないが、いい大人が無断でうろうろするところではない。
わたしは改めて不安と後悔を感じた。だが、そんなわたしの心境にお構いなく、
イチロウくんが、たっと駆けだして、施設の地下に続く階段を指さして言った。
「ここだ!ここから中に引っ張られていったんだ!…そして…言わなかったん
だけど…おばさんは裸だったんだ!絶対おかしいよ!」
興奮したイチロウくんは、階段を下りようとし始めた。わたしは、これ以上
泥棒のような真似を子供たちにさせることに強い抵抗を感じた。イチロウ
くんが何か病的な白昼を見たらしいことも、間違いなさそうな気がしてきた。
「ねえ、やっぱりやめましょう。正門からちゃんと入って見学を申し込む。
様子がおかしければ、それでも何かは分かるはずよ。それでいいでしょう?」
そのときだった。
「だめ!!」
振り返ると、アキコちゃんが涙を浮かべながらわたしの裾を握っていた。
「先生…お願い、中に行かせて!…あたし…気づいてた。…お母さん…いつもと
違ってたの。…きっと、本当のお母さんじゃないの…。本物は…きっと…この
中に…」
わたしは拒めなかった。職員に見つかったら適当に言い訳をしようと覚悟を
決めた。ちょっとした無茶で、この子たちが仲直りできるなら、それが何よりだ
――そんなことを考えていたわたしは、事態の深刻さを本当には認識して
いなかったのだ。
地下へ続く階段を下り、裸電球が並ぶ薄暗い廊下の角を曲がろうとしたときだ。
少し先から、女性の悲鳴のような声が響いてきた。わたしは皆を立ち止まらせ、
ジェスチュアでしいっ、と沈黙を呼びかけた。やがて沈黙の中、異常としか
言いようのない会話が聞こえてきた。
「…お願い!お母さん!お家に帰して!!」
「すぐに帰してあげるわ。あなたの『覚醒』が済んだらね」
「いや!いや!正気に戻って!もとのお母さんに戻って!!」
「正気に戻るのはあなたの方よ。あなた方人類は生ぬるいヒューマニズムに
浸かりきって、本当の生命の力を圧殺しかけている。偉大なるわが組織は、
その生命力を解放して下さるのよ。『覚醒』が済めば、あなたにもわかるわ。
『殺戮』と『増殖』という生命の本質が。そして、それを覚醒させて下さる、
わが組織の偉大さが!」
「いや!いや!そんなのわからない!わかりたくないよ!」
「…すぐにわかるようになるわ。今、準備をしにいくから、ちょっとだけ
待っていてね。うふふふ…」
常軌を逸した会話が止み、笑い声の主の足音が遠ざかっていくまで、わたしは
興奮して駆け出そうとするアキコちゃんとオトミちゃんを抱え、その口を
押さえていなければならなかった――わたしにも聞き覚えがあったが、声の主は、
アキコちゃんたちの母親と、彼らの十七になる姉だとしか思えなかったのである。
とうとうアキコちゃんがわたしの手をふりほどき、駆けだしてしまった。
わたしは慌ててオトミちゃんを抱えて追いかけ、他の三人も後を追った。
やがてアキコちゃんは、廊下の半ばの、部屋と廊下を仕切っている金網の前で
立ち止まった。呆然としているアキコちゃんに追いついたわたしたちが金網ごしに
見たのは、奇妙な形の台の上に、全裸で、大の字の姿勢で拘束されている、
アキコちゃんの姉の姿だった。
金網に手をかけ、呼びかけようとするアキコちゃんに、彼女の姉はすぐに
気づいた。金網に隔てられているが、二人の距離は1メートルもなかった。
姉は驚愕の表情を浮かべた後、苦悩の混じった険しい表情になり、小さな、
しかし切迫した声で、わたしたちに言った。
「逃げて!早く!あの人が戻ってくる前に!早く!!」
言うとおり、すぐに逃げるべきだとわたしは判断した。だが、次の瞬間には
もう、「あの人」つまり、恐ろしいセリフを発していたアキコちゃんの母親の
ブーツの音が、金網越しに見える正面の階段からコツ、コツ、コツと響いて
きた。このままでは、外に出る前に見つかってしまうのは間違いなかった。
「…しかたないわ。そこに!」
アキコちゃんの姉は、やむを得ないという表情で、わたしたちの背後にある、
大きな資材らしきものを目の動きで指示した。わたしは小さいオトミちゃんの
口を押さえたまま抱え上げ、資材の後ろに回った。他の子たちもとても素早く、
そして音もなく身を隠した。こういう身のこなしは都会の子たちにはちょっと
真似できないな、と妙に感心をしてしまった。
何かの機械の一部らしい資材は、大人と子供五人を十分隠せる大きなついたて
になった。しかも、その隙間からは、金網の奥の部屋の様子が、かなりはっきり
と見て取れるのだった。もちろん、全裸のみじめな姿で拘束され、何か恐ろしい
ことをされようとしている年頃の女性など、決して見たい光景ではなく、まして
子供に見せてよい光景ではまったくない。しかし少なくともわたしは、目を
背けるわけにはいかなかった。状況を見届け、この子たちを無事に逃がす義務が
あるからだ。そして間もなく、アキコちゃんの母親であるはずのモノが階段から
姿を現したとき、わたしも、子供たちも、そのあまりに異様な肢体に、目を
背けるすべすら忘れたように釘付けになってしまった。
――全体のシルエットはもとのスレンダーでグラマラスな女性のものだった。
だが、着衣らしい着衣は何もつけておらず、その代わり、首から下の全身に短い
金色の毛がみっしりと生え、わずかに乳首と股間だけが無毛のまま濃いピンク色
にしっとり輝いている。耳は、穴の位置こそ変わっていないものの、耳殻が
頭頂部近くまで広く大きく伸び、頭の上に巨大な三角が二つ並ぶ格好になって
いる。顔の皮膚は真っ白で、全面に祭に使う狐の面そっくりの隈取りが刻まれて
いる。その文様が皮膚の一部であることは、人間にはありえない動きで、
にやりと口元をつり上げた表情筋と共に動く姿が暗示していた。その持ち上げ
られた唇から覗く牙と、手足の指から生えた鋭い爪は、この女性がもう人間では
なく、半ば肉食獣に変じた異形であることをはっきり示していた。
狐面女は、奇怪な笑みを浮かべたまま、上方にいるらしい誰かに合図を送った。
「やめてえ!お母さん!やめて!!いやぁ!いやぁ!」
絶叫も空しく、ベッドの上方から何か機械が降りてきて、少女の身体の少し
上で止まった。そして上部と下部から同時に何かが飛び出した。彼女の全身に、
無数のごく細い針が注射されたようだった。そして針の先から皮下に何かが
注入され、皮膚のすぐ下を細い金色の文様がうねうねと曲線を描き、
迷路のように全身を覆っていった。
「…くっ…はぁ…うっ…うっ…ふぅ…」
哀れな少女は懸命に何かをこらえ、自分を保とうとしている。それが苦痛では
なく、押し寄せてくる快楽の波であろうということは、大人の女性である
わたしにはすぐ分かった。せめて子供たちには勘違いしていて欲しい、と
場違いな思いが一瞬頭をよぎった。やがて切なそうな顔をした娘が、母親の
手許にあるものを見て再度、力ない悲鳴をあげた。
「…いや……やめて…お願い…おかあ…さん」
母親の手にはディルドーのようなものが握られていた。相変わらず奇怪な笑みを
浮かべている怪女は、とても嬉しそうに言った。
「怖がることはないわ。細胞を活性化する覚醒エキスをあそこに注入するのよ。
これを注入すればあなたも生まれ変われる。気持ちよくてあたまがぐちゃぐちゃ
になっているうちに、何もかも終わるわ」
狐面の母親は娘を相手に淡々と作業を続けた。そして挿入後すぐに娘は、
決して恐怖と苦痛だけではない叫びを発し、それが終わるとその顔には何の
表情もなくなった。少し経つと、うつろな目に得体の知れない笑みが浮かび、
同時にその姿は見る間に母親と同じ姿に変貌した。顔の皮膚が白くなり、
狐面の文様が浮かび、耳殻は肥大し頭頂に向けて三角に伸びた。そして全身に
金色の毛が生え、爪と牙が生え替わった。
変貌を終え、むくりと上体を起こした娘に、母親が語りかける。
「終わったわ。気分はどう?」
「とても快調です。お母様」
「『お母様』はやめて。『戦闘員四号』でいいわ」
「では戦闘員四号、早速ですが重要な情報があります」
「何かしら?」
「そこの搬入資材の陰に、侵入者が六体います。確保せねばなりません」
そう言ってアキコちゃんの姉だったモノは、変わり果てた冷たい目でこちらを
指さした。
「あら大変。じゃあ、それをあなたの最初の任務にしましょう」
「了解しました」
二体の異形の目がこちらをとらえたとき、わたしは即座にオトミちゃんを
抱えたまま立ち上がり、他の子たちに大声で呼びかけた。
「立って!逃げるわ!」
子供たちはわたしの声で我に返ったようで、期待以上に機敏に動いてくれた。
金網の横の扉から変わり果てたお姉さんが飛び出し、わたしたちを追い始めた
ときには、わたしたちはもう廊下の角を曲がり、入ってきた階段に迫っていた。
わたしには一つの希望があった。イチロウくんが見つけたあの穴は、研究所内
の者には知られていない可能性が大きい。だとすれば、あそこから裏山に
逃げ込めば、ひとまずの時間は稼げる。そして、ひとまずの時間さえ稼げば、
なんとかなる可能性はある。わたしはそれを手にしている。
だが、追っ手はもはや人間ではない生きものだった。距離は見る間に縮まり、
階段を登り始めるときにはもうその手がすぐ後ろに迫っていた。無事に外に
出られる見込み自体が、限りなく低かった。
そのときだ。意を決したアキコちゃんが立ち止まり、真後ろの姉の方に
向き直って、通せんぼの姿勢をとった。その目には涙が浮かんでいたが、
口元はきつく結ばれていた。
「お願い!お姉ちゃん!もとのお姉ちゃんに戻って!お母さんに続いて、
お姉ちゃんまで失うのはいや!お願い!」
掴みかかろうとする姉に、アキコちゃんは自分からしがみついた。そして
泣きながら、お願い、お願いと懇願を続けた。
ある種の奇跡かもしれないが、アキコちゃんの呼びかけは姉の心に届いた。
狐面女と化した姉は、急にうずくまり、苦しみだしたのだ。そしてゆっくり
立ち上がると、アキコちゃんの肩に手を置き、しぼり出すように声をかけた。
「アキコ…わたし…もう一緒には行けないけど…あなたたちだけは逃がすわ。
行きなさい!」
わたしはアキコちゃんの手を引き、他の子をせき立てて階段を上った。振り
返ると、アキコちゃんの母親と黒い男たちも近づいてきた。子供相手の
「新入りのお手並み拝見」をのんびり見に来たところ、異変に気づき、慌てて
足を速めた、という様子だった。狐面女は階段の入り口に立ちはだかり、
妹たちを守ろうとしている自分の娘に、ディルドーを手にしたまま話しかけた。
「あら、レベル1の覚醒が解除されたの?じゃあ、もっともっとエキスを
注入してあげましょうねぇ」
「ああ、やめてお母さん!いやあ!いやああ!ああぁぁぁぁぁぁぁ!」
痛々しい快楽の声を耳にしたわたしは、一つの純粋な魂が永久に失われた
らしいことを察し、胸が痛んだ。
やはりあのフェンスの隙間は警備の死角だったらしい。アキコちゃんの姉が
追っ手を食い止めてくれたおかげで、わたしたちは見つからずに裏山に
逃げ込むことに成功した。どうやら追っ手がすぐに来ることはなさそうだった。
だが、この裏山に追っ手の捜索が入るのも時間の問題だろう。わたしは休もうと
する子供たちに、もうひとがんばりせねばならないことを告げた。
「みんな、聞いて。とりあえずのピンチは脱したけど、このままじゃいずれ
捕まるわ。まずはみんなで『秘密基地』に移動しましょう。そうして、
しばらくの間…ちょっと長くなってしまうかもしれないけれど、みんなには
その中でじっと隠れていて欲しいの。その間に先生が助けを呼んでくる」
「助けって、警察?」
「違うわ。ああいう連中に警察は無力よ。でもね、先生に一つ切り札があるの。
うまく行けばみんな助かるはずよ」
話しながらもわたしは子供たちを促し、裏山の「秘密基地」に向かって歩を
進めた。「秘密基地」とは、ここから学校へ向かう途中にある、イチロウくんが
見つけた、古い廃屋の地下にある隠し部屋だ。子供の話では忍者の家だったのだ
という。彼らはここに懐中電灯やらマンガやらを持ち込んで子供だけの空間を
作っていたらしい。大人には内緒の場所だったのだが、ふとしたことでわたしは
その存在を知ってしまった。立場上、こんなところで遊んではいけませんとは
言ったものの、子供時代のこういう場所の大切さをよく知っていたわたしは、
他の大人には言わない、という約束を守り、子供たちが相変わらず出入りして
いるのも黙認していた。――あそこならば、少なくとも二、三時間程度は、
あの連中から身を隠すことも無理ではないはずだと思えた。
「秘密基地」へ向かう途中、子供たちは、わたしの言う「切り札」について
質問してきた。あまり時間がないわたしは単刀直入に答えた。
「あのね。先生は、正義のヒーローの電話番号を知っているの。その電話を
かけに、学校に戻るのよ。…実は先生も、そんなもの今日の今日まで本気では
信じていなかった。でも、あんな悪の組織があるなら、やっぱりあのヒーローは
本物だったの。間違いないわ」
考えてみれば奴らの仕業だったのだろうが、携帯は使えなくなっている。
電話を使うならば一番手近な学校がいい。もう少し近くの人家で借りる手も
あるのだが、人を洗脳して悪魔に変えてしまう組織を前に、他人を事件に
巻き込むことも、逆にうかつに信じることも、できればしない方がいいと
思えた。学校までは、山の斜面をまっすぐ下りれば十分もかからないが、
あの施設から普通の道を使えばもっと時間がかかる。車を使ったりすれば
さらに遠回りになる。急げば大丈夫そうだと思えた。
とはいえ、子供たちに言っておかねばならないことはあった。
「だけど、聞いて。先生の策は絶対じゃない。もし万一、先生が悪魔の手に
落ちたら…できるかぎりみんなの力で身を守って。精一杯闘って!別の誰かが、
いずれヒーローを呼んでくれるかもしれない。そのときまで…」
やがて「秘密基地」に到着し、すぐに学校に向かおうとしたわたしを、
アキコちゃんが制止した。
「先生。電話番号を教えて。わたしが行く。わたしの方が足が速い。山道だって
慣れてる!」
多分事実だった。他の小学生はともかく、背が高く、足腰もしっかりしている
アキコちゃんならば、華奢なわたしよりも早く行けるかもしれない。だが
教え子を一人で危険な目にあわせるわけにはいかない。判断に迷ったわたしは
こう言った。
「わかった。二人で競争しましょう。早くついた方が電話する。それがベストよ」
アキコちゃんに番号を教えると、わたしたちは急な斜面を信じられない速さで
下り始めた。転んだり木にぶつかったりしたら大けがをするに違いない。神経を
これ以上ないほど鋭敏にしながら、わたしは自分が置かれているあまりに
非現実的な状況を、高校時代の退屈な日常のある一コマと重ね合わせていた。
あの頃、高校の近くに出没する有名な変人がいた。何十回もコピーして
かすれた、手書きの細かい文字がびっしり書き込まれているビラを大量に配って
いた。ビラには「世界征服を企む悪の秘密結社」とか「悪の改造人間」とか、
気の狂ったとした思えない話が延々と書き込まれていた。最初は誰も目すら
合わせなかった。なのにどういうわけか、学期が進むに連れ「あの人は本物の
ヒーローらしい」という噂が広まっていった。結局、わたしは最後まで信じる
気になれなかったのだが、あの手書きのビラにひときわ大きな字で書かれた、
一度覚えたら二度と忘れない、奇妙な「ヒーローの電話番号」だけは記憶の
片隅に残った。――大丈夫。電話さえつながれば、すべてうまく行くはず。
そう。ヒーローとはそういうものなのだから。
わたしとアキコちゃんは同時にゴールした。わたしは、そのまま駆け出そうと
するアキコちゃんを制止し、まずは校庭をぐるりと見回した。とりあえず追っ手が
待ちかまえている気配はなさそうだ。それを確認すると鍵を開けて校舎に入り、
電話のある職員室に急いだ。
職員室に入ったわたしはどきりとした。奥の机に校長先生が座り、書類を
読んでいたのだ。悪の組織に洗脳された追っ手。そんな恐ろしい可能性が頭を
よぎった。だがこちらに気づき、穏やかな笑みを浮かべた先生を見たわたしは、
もしもこの笑みを信じられなかったら、この先一生人間を信じることなど
できないだろう、と自分に言い聞かせた。実際、校長がここにいるのは
全然変わったことではない。すぐ近くに住んでいるからだ。
校長はわたしの恩師であり、わたしが今の仕事を志した直接の動機になった
人だ。引退したと言ってもまだ五十半ば。まだおばあさんと呼ぶには申し訳
ない、あでやかな人だ。だが、脊髄の病が悪化し、数年前から車椅子の生活を
余儀なくされ、後任のわたしが着任すると同時に一線から退いた。親から
相続した遺産を投げ打ってこの学校を支えているらしく、それも含め運営は
未だにこの人任せだ。
「また合併の話が来ていてねえ。来年度からは子供もちょっと増えるのにねえ。
あなたは?」
「あ、ちょっと急ぎで電話をお借りしたくて…」
子供の危機を隠してでも、この人を巻き込んではいけない、とわたしは
思った。それとない態度で旧式の電話に近づき、ダイヤルを必死で回す。だが、
最後に回したダイヤルがゆっくりと元の位置に戻る直前、発信音が途切れた。
ふと見ると、細い上品な指がフックの上に置かれ、回線を遮断している。顔を
上げると、十メートルは向こうにいたはずの校長が何の気配もないまま机の
反対側に立ち、指を置いているのだった。杖もつかずにしっかり二本の足で
立ち、しかも、肌のつやはわたしと大差ないと言っていいほど若々しくなって
いる。そしてその顔には、アキコちゃんの母親と同じ、邪悪な笑みが浮かんでいた。
「『ヒーローの電話』ね。危ないところだった。大事なスポンサー様に大損害
を与えかねなかったわ。でもね、こうして、優秀な教え子を二人もわたしの
手で『組織』に導いてあげられるなんて、教育者としてとても幸せよ。
あなたにも分かるかしら?」
校長は嬉しそうに話しながらも、左右の手でわたしたちの肩をとてつもない力で
掴んでいた。いくらもがいてもその手は離れなかった。そうしているうちに、
職員室の中に二人の狐面女が入ってきた。アキコちゃんの母と姉だった。
「遅いわ。わたしがいなければ手遅れだったわよ!」
「すみません。校長先生」
そう言いながら母親はわたしを背後から羽交い締めにした。隣では邪悪な笑みを
浮かべたアキコちゃんの姉が嬉しそうに妹を拘束していた。先ほどの苦悩の表情は
もう微塵も残っていなかった。
「わたしはレベル2どまりだったけど、あなた方の勇敢さならば、レベル3の
覚醒が期待できるわ。この子がレベル1のマリオネットからレベル3に到達
できたのも、考えてみればあなた方のおかげ。感謝しているわ」
アキコちゃんの母親が、隣にいる長女を見ながら、嬉しそうに話しかけてきた。
二人とも外見は普通の人間だが、その邪悪な笑みと万力のような腕の力が、
彼女たちがもはや普通の人間ではなくなっていることを告げていた。
抱えられたまま連れて行かれた校庭の真ん中で、校長が何かスイッチを操作
した。すると魔法のように目の前に小型のヘリコプターのようなものが現れた。
「光学迷彩っていうのよ。さあ、研究所へ急ぎましょう。子供たちをどこに
隠したか知らないけど、いつまでも放っておくのはかわいそうよ。早く迎えに
行ってあげなさい…組織の一員となった後でね」
わたしはその言葉が暗示する運命を思い浮かべ、激しく抵抗した。アキコ
ちゃんも同様だった。そうして無駄なあがきを続けるわたしたちを、目に
見えないヘリはあの研究所へ連れ戻していった。
研究所の中、わたしはアキコちゃんと引き離され、先ほどと同じような部屋に
連れて行かれた。部屋に入ると、羽交い締めにされたままのわたしに黒い男たちが
近づき、ブラウスのボタンを外し始めた。ボタンが外れるとブラウスの中に手を
差し込み、わたしを逃がさないようにしながらそでを抜く。そんな不器用で
ぎこちない作業が続き、スラックス、キャミソール、パンティストッキング、
ブラジャー、パンティと次々に着衣が外されていった。耳元では、狐面女の
本性を現した異形が羽交い締めを続けながら、下らないおしゃべりをしている。
「ハサミとかで切ってしまえば楽なんだけど、そうもいかないのよ。改造素体
には、改造後も『人間のふり』を続けてもらわなければならないからね。この
連中も、これでだいぶ上達したのよ。わたしのときは、そりゃ酷かったんだから」
怪女はくっくっくと品のない笑いを浮かべ、全裸に剥かれたわたしを手術台
に運ぶと、黒い男たちとともにわたしをそこに固定した。
「波動解析の結果、あなたは戦闘員ではなく実働部隊指揮官『狐女』へ改造
されることが決まったわ。こんな半端な姿ではない、もっとずっと洗練された
姿に生まれ変われるのよ。うらやましいわあ」
わたしはまた悲鳴を上げた。この台の上で、わたしは狐女に改造されてしまう
のだ。昨日まで、いや、午前中まで、そんなことを夢にも思わない、ただの
平和な山村の女教師だったわたしが、多分一時間もたたない後には、狐女に
なっている!そんなのありえない。嘘だ!いやだ!――あまりにめまぐるしく
ことが進み、現実感がついてこない。いっそ夢であればいいのに!
だが、そんなわたしの思いをあざ笑うかのように、わたしの身体は冷たい
金属に挟まれ、そこから飛び出した無数の針に全身の皮膚を貫かれた。苦痛、
痛痒館、掻痒感、それらが入り混じった、そのどれでもない、生々しく複雑な
感覚の混沌が全身を覆い、這い回った。わたしが現実に改造され始めてしまった
のだ、という事実が厳然たる事実であることを、皮膚感覚がいやというほど思い
知らせてきた。皮下に金色の繊維がうねうねと迷路のように伸びていく。やがて、
全身に渦巻く混沌は巨大な快楽の波となり、わたしの全身を何度も揺すぶった。
「ああ…いや…やだ…やめて…もうやめて…もう…もう…」
身体を上下から挟んでいた針の発射装置はいつの間にか身体を離れていた。
背中の台がなくなり、わたしの身体は両手両足で宙づりになった。上部の装置は
天井に戻り、そのよく磨かれた表面に、改造されつつあるわたしの姿が映って
いた。快楽の波の中、全身の筋肉がだらしなく弛緩し、筋肉ばかりか骨格までも
弛緩したような気がしていたのだが、鏡面を見たわたしはそれが決して錯覚では
なかったことを知った。すでに耳と爪の変形を終え、全身から細い毛が生え
始めていたわたしの身体は、さらに変形を続け、腕と足は狐のようなごつごつした
形に変じ、鼻先と口は細長く突き出し始めていた。それを見たわたしは、
涙を浮かべて懇願した。
「お願い…元に戻して…元に戻して…」
「もうあなたが元の人間に戻ることは決してできないわ。でも安心なさい。
あなたやわたしに移植されたのは、この辺の村に生息していた希少種『化け狐』
の細胞。民話や神話のような集合表象に感応してその姿を変ずる、特異な生態を
もつ動物よ。移植されたこの細胞を使いこなせば、いずれ自由に人間に化ける
こともできるようになるわ。但し…」
「…但し?」
「変身能力は野獣の本能の発動。だから、その力が使えるようになるためには、
脳の構造が完全に変性し、殺戮と増殖の本能が覚醒して、わが組織に絶対の忠誠を
誓うことがどうしても必要なの。人間の心のカケラが少しでも残っているうちは、
変身能力を使うことはできないわ」
「がうぁ…そんなのいやあぁ…うがあぁぁ」
わたしは叫び声まで獣じみてきた自分に慄然とした。
全身の皮膚を襲う快楽の波は、寄せ引きを繰り返しながら少しずつ深部に
移行し、やがて密度を濃くしながら脊髄に集約されていった。それと共に「殺戮と
増殖の衝動」が形を取り、意識に侵入し始めた。目の前に真っ赤なもやがかかり、
この世のものとは思えない禍々しいイメージが脳内に浮かんでは消え、そのたびに
強いエクスタシーが生じて身体がびくんと震えた。やがてわたしの額の中央に、
長さ五センチほどの、葉っぱのような形をした緑色の光が輝いた。
「チャクラが開いたわね。いよいよ肉体の完成が迫っているのよ」
黒い男たちは天井から何かライトのようなものを引き下げ、わたしの額に開いた
「チャクラ」にあてがった。真っ黒な禍々しい波動が額から脊髄を通り、尾骨に
達した。そしてそこに、頭頂から絶え間なく注ぎ込まれる黒い波動がどんどん
溜まり、膨張していった。
「ああ…跳ねまわってる…」
尾骨に溜まった黒い波動は下腹部全体を跳ね回り、その一帯をぐちゃぐちゃに
かき回しながら出口を求めた。わたしは爆発しそうな快楽と膨張感を懸命にこらえた。
これが放出されたらおしまいだ、という予感があった。だが、容赦なく
注ぎ込まれる何かが、それを許してくれなかった。
「あ…あ…破裂しちゃう!…破裂…しちゃうぅ……ああああああ」
頂点に達した膨張感が一気に解放された。それと共にわたしの尾骨は一気に
伸び、一瞬でふさふさした柔らかい毛に覆われた。それが改造の終了だった。
わたしはぼんやりと鏡面に映った自分を見ていた。頭には三角の大きな耳。
目から鼻筋まではかろうじて人間のままだったが、鼻先と口が長く伸び、そこは
もう完全に狐だった。顔面も含めた全身が短い毛に覆われ、首には特に長い毛が
生えていた。狐面女と同様、乳首と女性器のみが無毛でぬめぬめと輝いている。
胴体は基本的に女性らしいラインを維持していたが、腕と足は節ばった肉食獣の
骨格になり、その付け根にあたる胴体の一部も変形している。二足歩行の人間体型
は維持しているものの、つま先とかかとの間が大きく伸び、いわゆる逆関節に
変わっている。両手足からは鋭い爪。そしてお尻からはひときわ大きな、柔らかな
毛に包まれたしっぽ。
「おめでとう。肉体の改造は完了。とても美しいわ。ただし精神はまだ未完成。
あなたはわたしたちと違って、外部から注入されなくとも、チャクラを使って
自ら覚醒エキスを生成し、さらにはそれを使って人間を戦闘員化することさえ
できる。でもその代わり、わたしたちほどには早く覚醒できないの。わたしたち
にできるのはそれを手伝ってあげることだけ。さあ、待機室に向かいなさい。
おいしそうな獲物がお待ちかねよ」
今のわたしよりもずっと人間らしい姿に見える狐面女のそんな声を背に、
わたしは麻痺する身体を黒い男たちに引きずられていった。
「待機室」で待っていたのは、わたし同様全裸に剥かれたアキコちゃんだった。
おぞましい異形のものに変じてしまったわたしを見て、アキコちゃんは怯え、
後じさり、わけのわからない悲鳴を発した。それを見たわたしは深い悲しみに
突き落とされた。…だが、わたしの内側に棲み着いた獣の本能は、それを見て
まったく逆の衝動を煽り立ててきた。かよわき生きものへの嗜虐衝動。物語に
出てくる残忍で狡猾な象徴的動物としての狐が、わたしに彼女を襲うことを
命じていた。…いや、そんなことは決してしてはならない。わたしは必死に
自分を保ち、自分はまだ人間だということを彼女に伝えようと、彼女に近づき、
彼女の肩に触れようとした。だがわたしの鋭い爪は彼女を傷つけてしまった。
「いやあ!近づかないで、化けもの!」
半狂乱になって叫ぶ彼女の姿にわたしは耐えきれなかった。わたしに怯える
彼女も、彼女に怯えられるわたしも、何もかもがいやだった。
「いや!もういや!がうぁ!……コーーーーーーーーーーーーン」
視界に真っ赤なもやがかかり、わたしの喉は狐の雄叫びをあげた。そしてわたしは
本能の命ずるままに彼女に襲いかかった。だけど、彼女を殺し、引き裂き血を
なめたりはしないわ。それも楽しいけれど、もったいない!もっといいことが
あるのよ。うふふふふふ。――わたしは女狐と一体化した朦朧とした意識で、
夢中で舌を出し、外見のわりに未発達な乳房を軽く噛み、ていねいになめた。
それから同じことを別の部位にも順々に丁寧に行っていった。その都度額の
チャクラが熱く光り、牙の先から何かが出ているのが分かった。覚醒エキスに
よって活性化した化け狐の細胞だ。わたしは最後に彼女の一番大事な部分に、
念入りにその作業を行った。ふわふわしてとてもいい気持だった。満ち足りた
気分の中、わたしは眠りに落ちそうになった。
だがその瞬間、苦痛と苦悩に満ちたアキコちゃんの顔がわたしの目に入った。
アキコちゃんは両手で頭を抱え、頭を振り、ごろごろ床を転げながら叫んでいた。
「やだあ!やだあ!先生!先生!頭が、あたまが、おかしくなっちゃうよぉ!
変になっちゃうよぉ!こんなのいやだよ!いやだよ!」
ごろごろと転げまわるアキコちゃんの身体からは急激に金色の毛が生え、耳が
伸び、その顔は白い狐面に変貌していった。わたしはそれを見つめながら、
残された理性のカケラに何とかすがり、自分がしてしまったことの意味を自分自身
に突きつけた。…わたしが…彼女を悪魔から守らねばならないわたしが…彼女を
母や姉と同じ怪物に変えてしまった…浅ましい女狐に心を支配され、最も
恥ずべき罪を犯してしまった…。もう終わりだ。わたしは心まで人間では
なくなってしまった…………………………………………………。
…………………………………………………………………………………………
……………………いや……………違う!終わりじゃない!こうやって悩んでいる
わたしは、人間として考え、人間として恥じている。…そうだ!「罪悪感」と
「恥辱」だ!…わたしは悟り、そして決意した。この気持ちを手放さないかぎり、
わたしは人間で居続けられる。逆に一瞬でも気を許し、自分から逃げてしまったら
わたしはいなくなり、浅ましい女狐だけが残される。そうなってはならない。
いや、いつかはそうなってしまうのかもしれない。しかし、せめてその前に
「秘密基地」の子供たちだけでも救う。いまやあの「秘密基地」も安全ではない。
彼らを別の安全なところに逃がし、そうして何とかしてヒーローに電話をかける。
人間の心が残っているうちに、それだけはしよう。自分にそう誓った。
「コォーーーーーン。被験者第一号の改造に成功しました。素晴らしい能力を
授けて下さり、感謝いたします!」
わたしは外に向かって、ことさら従順そうな声を装って報告した。待機室の
重い扉が開かれ、ぐったりしたアキコちゃんと共にわたしは解放された。
「以外とあっけなかったわね。身体は怪人クラスなのに、精神はレベル1の
マリオネットどまり?くくく」
なにやら勝ち誇った笑みを浮かべる狐面女を横目に、わたしは手術台のそばに
畳んであった自分の衣服を手にすると、出口に向けて脱走した。しびれのとれた
肉体は、追っ手の黒い男たちや狐面女たちを簡単にふりほどき、素晴らしい速さで
駆けることができた。衣服を口にくわえ、四つんばいになるとなお速く駆けられる
ことに気づいた。そうして、あのときと同じく、わたしは首尾よく裏山に逃げ込む
ことに成功した。
裏山でわたしはぎこちなく自分の服を着込み、女狐に心を乗っ取られないように
しながら、変身能力をなんとか発動させようと苦心した。かろうじてそれに成功
したわたしは、念力で成型した骨格や筋肉を崩さないようにしながら、おそる
おそる「秘密基地」に向かった。たどり着くと隠し扉を開け、急いでみなに
呼びかける。
「みんな!急いでここを出て!イチロウくん、たしか『第二基地』があると
言っていたわね!そこを教えて!」
一気にまくし立てたわたしは、ふと子供たちの冷たい視線に気づいた。直後に、
イチロウくんがわたしにパチンコを向けて、何かをわたしの目に向けて発射して
きた。目に鋭い何かが刺さり、ぎゃっと言ってわたしはうずくまった。
エツコちゃんは何か黒いものを投げてきて、頬がざっくり割れた。地面に
落ちたそれらをよく見ると、目に刺さっていたのはマキビシ、頬を切り裂いたのは
手裏剣だった。ウミヘイくんに至っては鎖がまを構えている。どうやら
もと忍者屋敷だったというのは本当だったらしい。
傷ついた顔を触り、拭き取った血を見ようと我が手を見たとき、わたしは
自分が完全にもとの狐女に戻っていたことを知った。どんなに精神を集中しても、
不完全な変身能力では、人間の姿を長くは維持できないのだ。多分、さっきの
わたしの話だってちゃんと発音できておらず、狐の化け物がガウガウ吼えている
ようにしか聞こえなかったのだろう。彼らにしてみれば、わたしの最後の
言いつけを忠実に守っているに過ぎないのだ。
マキビシと手裏剣の攻撃は容赦なく続いた(ウミヘイくんはさすがに鎖がまを
使いこなせず、手裏剣に切り替えていた)。改造人間にとってそれほどの
ダメージではない。しかしわたしの心は一撃ごとに傷ついていった。このままでは
アキコちゃんを襲ったときと同じようになってしまうかもしれない。そうで
なくとも、こんなことをしている暇はないのだ。この基地を知るアキコちゃんが
敵の手に渡ってしまった今、ここにいつ奴らがやってきてもおかしくないのだから。
途方に暮れるわたしの背後を、いきなり強力な衝撃が襲った。わたしは全身が
しびれ、その場にうずくまった。そうして、背後からわたしの声が聞こえてきた
のに気づいた。
「みんな!お待たせ!危ないところだったわね。もうじきヒーローが来てくれるわ。
それに、ちょっといいものを手に入れたの。これでヒーローが来るまでの間、
やつらと戦える!」
背後にいるもう一人のわたしは、得意げに麻痺銃を掲げて見せた。極度の
緊張状態に陥っていた筈の子供たちは、何の不信感も抱かず、安堵の表情を
浮かべ、抱き合って喜んだ。いけない!いけない!わたしは痺れる身体を引きずり、
もう一人のわたしを止めようとした。だがもう一人のわたしはそれを軽く足で
いなすと、つかつかと部屋に入り、大喜びしている子供たちに矢継ぎ早に
麻痺弾を撃ち込んだ。
「大丈夫。そこの狐さんの百分の一の薬剤しか入っていないわ。
死んだりしないから安心してね」
「どうして…どうして…先生!?」
ぐったり崩れ落ちた子供たちの前で、もう一人のわたしは衣服を脱ぎ捨て、
わたしそのままの裸身をさらすと、緑色に輝いた。
「先生じゃないわ。わたしよ、わ・た・し」
現れたのは、わたしと同じ、狐女に改造されたアキコちゃんだった。鼻先だけは、
わかりやすくするつもりか人間のままだが、それ以外はまったくわたしと同じで、
額には木の葉形のチャクラも輝いている。アキコちゃんは邪悪な笑みを浮かべ、
チャクラを指さして言った。
「見て先生!先生の覚醒エキスはすごいわ!このエキスを受け継げば、狐面女から
狐女へ成熟できるし、何代でも新たな狐人間を増やすことができるの!科学陣も
大興奮だったわ。改造人間の新時代の到来だって!」
怯えて彼女を見上げる子供たちの中から、アキコちゃんだったモノはまず
エツコちゃんに目をつけた。
「エツコちゃんはイチロウくんが大好きなんだよね。あなたを狐にしてあげるから、
今度はあなたがイチロウくんを狐に変えてあげてね」
「やだあ!狐になんてなりたくないよ!イチロウくんにそんなことをするのも
いやだよ!」
恐怖にひきつるエツコちゃんの衣服を面白そうに脱がせた狐女は、エツコちゃんの
全身に身体に牙と舌を使って細胞入りエキスを注入する作業を始めた。エツコ
ちゃんは明らかに苦痛とは異なるうめき声を上げ、身をよじり、その興奮は狐女の
舌が下腹部に伸びたときに絶頂に達した。満足そうに顔を上げた狐女の下で、
エツコちゃんが頭を抱えながらごろごろと転げ回っている。
「いやあ!あたまが変になっちゃう!変になっちゃうよお!!」
転がり悶えるその身体からは金色の毛が生え、耳や爪や歯が異形に変じていく。
やがてエツコちゃんはうつぶせになって大きな叫びを上げた。そしてお尻から
見事な尻尾がふわりと生えると、ぐったりと動かなくなった。
「次はあなたよ、ウミヘイくん。きみ、わたしに惚れてるんだよね。いいわ。
お姉さんが、いいことしてあげる」
「く、来るなあ!この化け物!」
「うふふふ。きみもすぐにその化け物になるんだよ」
そう言いながら、アキコちゃんだった狐女はウミヘイくんの衣服を脱がし、
細胞とエキスの注入を始めた。作業が始まるとすぐにウミヘイくんの股間の
ものは一人前に天を衝いた。狐女はそこに牙と舌の洗礼を施し、それから
自分の股間へ導いて、ウミヘイくんを抱きかかえた。狐女の腕の中、
ウミヘイくんは絶望と歓喜の絶叫を上げ、見る間に小さな狐人間に
変貌していった。
その横ではむっくりと立ち上がったエツコちゃんが、耳まで裂けた笑みを
浮かべ、イチロウくんに近づいていた。
「イチロウくん!大好きだよ!わたしが狐にしてあげるね!」
「やめろ!やだ!来るな!来るな!…あぁぁぁぁ」
やがて三匹の子狐が揃った頃、アキコちゃんだった狐女が言った。
「ねえ、本物の先生の麻痺剤がそろそろ切れちゃうんだ。みんな、協力して
くれる?」
こおん、と声を揃えた三匹の子狐が、まだ痺れているわたしに飛びつき、
つい今しがた自分がされた「いいこと」をわたしの身体の上で、そして互いに
対して、再現し始めた。子狐の小さな突起が何度もわたしの中に挿入された。
その間、狐同士の念波の共鳴作用によって、わたしの快感は何倍にも増幅された。
またもわたしの中の女狐が暴れだし、頭に赤いもやがかかり始めていた。もし
ここでわたしが本能の命ずるまま、こちらから彼らを舌や牙で責め始めれば、
共鳴作用はさらに加速し、わたしの心は今度こそ折れてしまうだろう。
いけない。理性を奮い立たせなければ。自分に負けてはいけない。
――この子たちをこんな浅ましい姿にしたのは、もとはと言えばわたしのせい。
アキコちゃんにあんなことをしてしまったから。
――…あれ?でも、「あんなこと」って何だったかしら。それが「こんな
こと」ならば、…こんなに「いいこと」ならば、それのどこが「恥ずかしい罪」
だというのだろう。…ひょっとしてわたしは、依怙地な偏見に支配されていた
だけではないのだろうか。…冷静に、公平に考えれば、殺戮と増殖が生命の本質だ
なんて当たり前のことだ。それを否定しきるのには限界がある。むしろそれを
正しく導くことこそ、よい世界を作る道なのではないのか。
――わたしは軽くうろたえていた。あたまの赤いもやも、凶暴で狡猾で淫猥な
女狐の本能も、いつの間にか影を潜めていた。いや、影を潜めたわけではないが、
勝手に暴れまわることをやめていた。なのにわたしは、いつしか、あの組織の
理想の正しさを自分自身の理性で確認し始めている。これまでの自分が何か
大きな勘違いをしたまま生きてきたらしいことに急に気づき、うろたえ、
戸惑っているのだ。
「先生。覚醒…したのね?」
アキコちゃんがわたしの心理の変化に感応し、うれしそうに声をかけてきた。
「待機室でのデータを解析して分かったんだけど、先生はレベル4の覚醒、
つまり『幹部』クラスの覚醒が可能な素体だったのよ。レベル1のこの子たちや、
レベル2のお母さんはもちろん、レベル3の姉さんやわたしよりも高い潜在能力を
もっていたの。普通の処理を受けるには、器が大きすぎたのね。そのせいで、
他の人よりも覚醒までにつらい試練が必要だった。でもそれもようやく終わったわ。
今の先生は、自分の意志と理性で怪人の本能を導き、そうやって組織の理想を
自分の判断で実現できる、幹部候補として成熟したの。教え子として、わたしは
とてもうれしい!校長先生もきっと喜んで下さるわ」
意外な祝福を受け、わたしはなおも戸惑っていたが、やがてそれは歓喜と、
強い野心に変わっていった。この子たちとともに、殺戮と増殖の本能に根を
下ろした、正しい世界、改造人間が支配する世界を建設する。それをこのわたしが
指揮する――そんな壮大なビジョンが急にわたしの前に広がった。わたしの
これまでの人生が、すべてこの日のための準備であったことに、ようやく
気づいた気がした。
「さあて…じゃあまずは!」
「じゃあまずは!」
わたしとアキコは、同時にそう言うと、理解の限度をとっくに超えている
だろう出来事を前に、部屋の片隅でがたがた震えているオトミに目を向けた。
念派を感応した三匹の子狐はさっとオトミに群がると彼女の服を手際よく
脱がした。
「実を言うとそろそろ、『増殖』の方はお腹いっぱいなのよねえ。いい加減、
『殺戮』の方も満たさないとなあ、という気もするの」
「そうですねえ」
わたしたちは軟らかい肉に爪を立てる様子の想像を感応しあい、舌なめずりをした。
「…だけど、改造素体候補の軽率な殺戮は厳禁よ。組織の損失になりかねない」
「そうですね。それに、なんといっても、わたしには大事な妹ですから」
「さすがレベル3。よくわきまえているわね」
「うふ。うちの母なら、きっと我慢できなくて、自分の子供だとかなんとか
気にしないで、食べちゃってるわね」
「そうそう!うふふ」
お互い思い当たる節があったわたしたちは、くすくすと笑いあった。
「あのね。わたしに考えがあるの。わたしは組織の理想を、教育者として実現
していきたいと思っているのよ。念波感応能力をうまく使えば、この子たちも、
もちろんあなたにも、とても効率的な教育が可能。わたしは、まずは優秀な
エリート怪人を育成して、組織内でのわたしの地歩を固めようと思うの。
そうね、不便になるけど、みんながよければ、やっぱり町の小学校との
合併の話、校長先生に相談してもいいかもしれないわ」
「素敵!すごいです先生」
「でもね。知的能力だけ高くとも、レベル3や4の怪人は生まれない。わたしが
そうだったように、その奥に強い本能が渦巻いていなくてはならないの。だから…」
「だから?」
「この子の中の野生の本能をできるだけ生のまま取り出してあげたいの。それを
上手にていねいに導いて、この子を殺戮と増殖の権化として覚醒させるの。
発育段階というものがあるから、この子の場合、まずは殺戮の方からね」
「素敵!エリート怪人の英才教育ね!」
わたしたちは子狐たちに押さえつけられ、あまりの恐怖に泣くことも忘れている
オトミの方に向き直り、舌なめずりをした。美人三姉妹の中でも、一番母親に
似た器量良しだ。数十分後には、破壊と殺戮の権化に生まれ変わっているはずの
その愛らしい笑顔を、わたしは思わずなめ回してしまうのをやめられなかった。
――晩ご飯までには、みんなを家に帰すことができそうだ。
<了>