時は1972年の仙台市。朝の広瀬通り沿い、繁華街の少し手前の
喫茶店。広瀬葉子はそこで、マスターが丁寧に入れるコーヒーを
待っていた。今日は久々の非番の日なのだった。
彼女の表向きの身分は国立東城北大学の事務職員。だがその
真の姿はアンチショッカー同盟日本支部東北分室の人事部長。
かつて彼女はCIAにつながる機関に属する有能な女スパイであった。
謀略渦巻く世界に嫌気がさしていた折、アンチショッカー同盟の
さる幹部から「引き抜き」を受け、今の仕事に就いたのだった。
秘密組織の人事管理は極めて重要な職務だ。情報漏洩は即組織の
壊滅を意味するからである。現在、仙台基地常駐職員43名と東北地区
外部構成員95名の個人データを、ほぼ彼女一人が管理している。
ばたんと音がしてウェイトレスが入って来た。遅刻らしい。
「営業中」の札がからんからんと鳴っていた。遠くの救急車の
音が一瞬聞こえた。「交通戦争」か。ゲルショッカー以外
にも物騒なことの多い世の中だわ、と彼女は思った。
ウェイトレスはエプロンをつける間もなく会計をしている。
これでお客は彼女一人。今日はいやにお客が少ないな、と感じた。
基地の安全管理の脆弱さが今の彼女の懸念だった。来週からでも
早速、情報管理体制の抜本的刷新に着手する予定でいた。幸い
現段階では、東北にこれほど大規模な基地が存在するという情報が
漏れている気配はない。今のうちに立て直せば多分大丈夫だ。
この地の構成員の多くは家族を悪の組織に殺された一般人である。
彼らは悪を憎む心こそ人一倍強いが、戦いや組織運営については
素人が多い。込み入った人材管理などはどうしても彼女のような
プロに丸投げになってしまう。しかしそれは非常に危険なことなのだ。
万一彼女自身が敵の手に落ちれば、基地は一挙に壊滅するのだから。
通常の拷問や自白剤の類ならば、なんとか持ちこたえる自信はある。
しかし、ゲルショッカーという組織に常識的な抵抗手段は通用しない。
なぜなら、やつらは…
ようやくコーヒーが入った。葉子は丁寧にその匂いをかぎ、一口
なめて味を確かめ、水を飲むふりをして舌を洗う。スパイ時代からの
機械的な習慣。明らかに上質なコーヒーに申し訳がない気がして、
今度はきちんと味わうためにゆっくり飲んだ。…おいしい。
いつもよりほんの少しおいしい。葉子は何気なくマスターに尋ねた。
「ねえマスター、気のせいかな。豆変わった?香りが上品になった
気がするの…うっ…」
葉子の全身に突然しびれが拡がり、彼女はテーブルにつっぷした。
「…へえ。さすがは元腕利きスパイですねえ。無味無臭、
絶対に気づかれない麻痺剤って話だったのに…」
ドアの前に立っていたウェイトレスが後ろ手にカギを閉めた。
表の札は、先ほど彼女の手で「準備中」に替えられていた。
「一週間前、あるとても偉いお方が、まったくの気まぐれで
このお店に入ったの。そのお方は各国情報部の主要構成員の
顔と名を二十年分に渡り記憶している。そしてあなたに気づいた」
「興味を感じたそのお方は、あんたの引退をめぐる経緯を調査し、
背後に『同盟』の臭いを嗅ぎ付けたんだ」
葉子は身動きできないまま二人の話を聞くしかなかった。
「そしてわたしたちを戦闘員に改造して、こうして網を張ったの。
あなたのお陰で偉大な組織の一員になれた。感謝しているわ」
「そういえば薬の時間だよ」
「そうね」
男と女は胸から何か薬を取り出して飲んだ。二人は見る間に
黄青赤の原色に彩られた禍々しいコスチュームに包まれた。
表では救急車が停止する音。ウェイトレスだった女戦闘員が
ドアを開け「救急隊員」を導き入れた。「救急隊員」は
戦闘員たちと、右手を上げ奇声を発する特有の儀式を行い、
それから葉子のぐったりした肉体を救急車に運び入れた。
葉子は身動きひとつできない状態で車内に寝かされた。
自らの不覚を恥じ、内心で仲間たちに詫びたが、後の祭りだった。
「救急隊員」は注射の準備をしながら葉子に話しかけた。
「深刻な病状だ。早急に『手術』の必要がある」
葉子は痺れた舌をどうにか動かして何か言おうとしている。
「病名かね?まずはその弱い肉体を徹底的に作りかえねばならない。
それから、そのやっかいな病巣を切除する必要がある。
『正義の心』という病巣をだ。今夜までには全て完了するだろう」
麻酔が打たれ、葉子の意識は失われた。「救急車」は山奥に隠された
VTOLの元へ向かい、別の戦闘員が運び込んだ発泡スチロールの箱と
共に、葉子は東京のゲルショッカー基地へと運ばれていった。
葉子が目覚めたのは大きな手術台の上だった。真っ先に
浮かんだのは言うまでもなく「手術」のことであった。
「手術」はこれからなのか?もう終わってしまったのか?
葉子はこの上ない恐怖と不安の中、目を開け、自らの肉体が
以前のままかどうかを確認しようと、天井の手術灯に映る
自分の姿を見た。円形の手術台に、全裸に剥かれ大の字の姿勢で
寝かされている女性の肉体が目に入った。少なくとも見た限り、
改造手術によるいかなる変形も受けていない。葉子はとりあえず
安堵した。眠らされてからそれほど時間は経っていないようだ。
…だが、このままではいずれ「手術」は始まってしまう。葉子は
頭脳をフル回転させ、今ここで何ができるかを懸命に思案した。
――お決まりの拘束具はなぜか取り付けられていない。しかし
手も足も鉛のようにびくともしない。多分、先ほどの麻痺剤がまだ
効いているのだ。だが、時間を稼げば麻痺剤の効果は消えていく
のではないか?チャンスはその時…――そこまで考えたときだ、
「お目覚めかね、広瀬葉子君」
天井から低音の男性の声が響いた。恐らくゲルショッカー首領
であると思われた。葉子はこの恐るべき人物との会話をできるだけ
長く引き延ばし、時間を稼ごうと決意した。
「あなたが首領かしら。ここがどこかは知らないけど、
早くわたしを元の場所に戻した方がいいわ。わたしの体には
発信器が埋め込まれているのよ。わたしが変な場所に移動すれば
ただちに仲間に所在が知れるわ」
「発信器ならば『救急車』の中で摘出し、君に化けた元ウェイトレス
の戦闘員に持たせている。正午近くまで喫茶店で過ごし、中央通りで
昼食とウィンドショッピング、その後勾当台公園で読書をし、夕食の
おかずを買い東城北大の宿舎へ帰宅…誰も怪しむ者などいないだろう」
「…ねえ。実を言うとわたし、ゲルショッカーの引き抜きを
待ってたの。あんな素人くさい組織、せっかくの能力が腐っちゃう。
情報は喜んで提供するわ。ただし、わたしの改造手術なんてしてる
暇はないのよ。今日の夜までには情報管理体制の大幅な刷新作業が
終わり、古い書類は焼却される。明日になったらもうわたしが一人で
引き出せる情報はなくなってしまう。今すぐわたしを基地に戻して。
古いデータを集めて帰ってくるわ。時間がないのよ」
葉子は嘘八百を並べ、脱出の機会を作ろうと懸命になっていた。
「なるほど。さすが、元KGBの二重スパイらしい発想だ。だが、
その程度の背信的な職務に良心の呵責を感じて逃げ出した君が
果たして、一切の倫理を超越したわがゲルショッカーの作戦に
協力できるかね?
そして、それ以前に君はどうやら勘違いをしているようだ。
君が眠っている間に、君の改造手術は脳改造も含め全て完了して
いるのだよ。起動電源への充電が始まれば、今は鉛のように
動かない体内のサイボーグ部分が起動し、改造細胞は活性化し、
そして脳内に埋め込まれた電子機器が君の神経システムに
不可逆的な変性を加え、君はわがゲルショッカーの忠実な
改造人間として活動を開始する。刷新された情報の収集は
その後でゆっくりと進めてもらうことにしよう。…まあ、
情報管理体制の刷新云々自体、君のハッタリだろうがね」
葉子の心を深い絶望と恐怖が覆った。まもなく、白い隊員服に
身を包んだ戦闘員が、ピンク色に点滅する「充電端子」を運んできた。
半透明のディルドーに豆電球を仕込んだような外見だ。そして白戦闘員は
葉子の膣の入り口に通電性ジェルをたっぷりと塗り、端子をあてがった。
「いや!やめて!変態!…いやだ!充電なんていや!脳改造はいや!!」
白戦闘員はゆっくりと端子の挿入を開始した。葉子は残された
生身の筋肉をどうにか動かそうとするが、棒のような人工骨格
はびくともせず、葉子の足や肩の筋肉が空しく盛り上がるだけだった。
「挿入完了。通電開始!」
ジジジという音と共に充電が始まり、葉子の股間はまばゆく輝き、
その全身には強烈なエクスタシーが走った。
葉子の肉体の変容が始まった。胸と腹部の皮膚は明るいオレンジ色に
変わり、左腕と背中の皮膚は赤黒いごつごつとした形状に変化し始めた。
赤黒い皮膚は硬質ゴムのような素材で、一面にとげが拡がっている。
ホヤ、特にマボヤと呼ばれる固着性生物の体表によく似ている。
左肩は盛り上がり、まるで大きなホヤが貼り付いたようになり、
ホヤの吸水口と出水口に似た突起も形成された。右腕と両足は
オレンジ色と黒の、昆虫の脚のような装甲に覆われた。右ひじからは
太い針が伸びた。両乳首と膣の外部もホヤの出水口状に変形した。
そして最後に乳房に黒とオレンジの同心円状の文様が形成された。
――通電後十数秒で、葉子の首から下は異形の怪物に変わっていた。
脳内の電子機器も作動を開始していた。
脳改造によって埋め込まれる装置は、改造人間の言語中枢、知覚中枢、
運動中枢とフィードバックを繰り返し、改造人間の精神構造に一定の
改変を行い、それを定着させる。
第一の改変は改造人間の倫理感覚、道徳的自制心の鈍化・解体と、
破壊的で反社会的な諸々の欲望の昂進である。ニューロンに発信される
強力なパルスの洪水を浴びる内、どんなに穏和で倫理意識の高い人間も、
快楽犯罪者のような危険な心理構造の持ち主に変わってしまう。
――俗に言う「悪の心」の植え付けである。
第二の改変は自らの帰属意識ないしアイデンティティに関する
体系的な錯覚の誘発である。自らが属する家族、仲間、団体、国家などへ
向けられた愛情、連帯感、義務感などの感情が全て、巧妙なイメージ操作
によってゲルショッカーに対して向け直され、同時にゲルショッカーの
外部に対する激しい敵意と恐怖が、やはり錯覚として刷り込まれる。やがて
感情レベルの「錯覚」は「確信」に、そして当人にとっての「真実」へと
成長し、世界の中心にゲルショッカーが位置すると感じられるようになる。
それまでの人生の意味や価値観等すべてがその感情に基づき半自発的に
書き換えられる。やがて唯一の拠り所となったゲルショッカーを客観視し
批判的に反省する意欲や意志も失われる。「忠誠心」の植え付けである。
葉子は調査によりこのような脳改造のメカニズムについてかなりの
知識を有していた。そしてその知識と強い意志の力で、脳内に休みなく
暴力的な変容を加えてくる機械に対し、はかない抵抗を試みていた。
葉子の目は薄く開かれ、眉間には深いしわが刻まれ、口は半開、その
首はゆっくりと力無く左右に振られている。
半ば閉じかけた目は葉子の意識レベルが低下し、朦朧とした状態に
近づいたことを示していた。眉間のしわは、葉子の心の中に拡がり
根付こうとする「悪の心」に対する葉子の必死の、そして空しい抵抗を
表していた。半開の口は通電に伴うエクスタシーと、徐々に力を増す
邪な欲望たちが差し出す、甘美な快楽の効果だった。そして振られた首は、
変わりゆく自分自身への恐怖からの唯一安らかな逃げ場たる、「ゲルショッカー
への忠誠」という選択肢が差し出す甘い誘惑への、力無い拒絶であった。
「ほう、予想以上の意志の力だ。これはかなりの逸材だ」
「変性がこれだけ緩慢に進めば、知的能力の損傷は最小限に抑えられる」
「これほど有機的に精神変容が進めば、イソギンジャガーのような
脳改造の解除も起きようがない。完成後に装置を外しても大丈夫なほどだ」
「これは幹部クラスの優秀な怪人として完成するのではないか?」
科学陣は驚嘆の声をあげていた。
長い抵抗の果て、首の振りは緩慢になり停止した。眉間のしわが
ひときわ深く刻まれやがて静かに消えた。一筋の涙が流れた後、葉子の
表情は全てを納得したような、あるいは母親に抱かれた赤子のような、
安らかな面立ちに変わった。同時にその顔の皮膚もオレンジ色になり
紫の隈取りが浮かんだ。目は複眼に、頭髪は紫になり、触角が伸び、
頭頂部には蜂の腹部のようなオレンジと黒の外骨格が形成された。左肩の
ホヤの皮膚は首の左側から上に拡がり、左の頬から後頭部全体を覆った。
しばらくすると安らかな笑みは徐々に邪悪で狂気に満ちたものに変わり、
複眼が輝いた。
自分の心を支配する黒い欲望を受け入れ、それをゲルショッカーに
委ねる決意が、安らかな表情の意味である。そして母なるゲルショッカーの
導きの下でその欲望を満たす光景の想像が、凶悪な笑みを引き出したのだ。
広瀬葉子は今や完全なゲルショッカー怪人だった。
肉体は、ショッカー怪人の蜂女の青色をオレンジ色に変えて、強固な
外骨格とホヤの外皮をまとわせたような姿になった。その内面は、
自らの高度の知性と強い意志を、明晰な確信をもってゲルショッカーの
栄光のためだけに捧げる、狂気の戦士に生まれ変わっていた。
「広瀬葉子よ。お前はただ今より凶暴なスズメバチと、三陸沖直送の
新鮮なホヤとの合体怪人、ホヤスズメバチに生まれ変わった。
立ち上がり、ゲルショッカーに忠誠を誓うのだ」
「ピュピュピューッ!ゲルショッカー首領閣下!このホヤスズメバチ、
ゲルショッカーに永遠の忠誠を誓い、まずはアンチショッカー同盟の
東北分室を、そしてゆくゆくは同盟全てを、仮面ライダーともども
葬り去ってみせることをお約束します」
ホヤスズメバチは舌なめずりをして、自らの古巣を壊滅させる
悪魔の計画を早くも練りはじめていた。
<つづく>