わたしの意識は急激に麻痺していった。血血血血、
血への渇望が心を支配し、他の思考を追い出して行く。
そしてわたしの中にいるどす黒いもののが急速に
成長を始めた。破滅へのカウントダウンが始まった。
二つのわたしが混然とわたしの体を支配する。
わたしはヒトミの血をこれ以上見たくないという思いで、
わたしはヒトミの血を一口でも味わいたいという思いで、
ヒトミの血を口に含んだ。そして、
決して飲んではいけない、飲んだら終わりだ、
飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい、
という必死の思いで血を吐き出した。…いつまでもつだろう。
この甘い誘惑にいつまで耐えられるだろう。わたしはあと何分
わたしでいられるのだろう…。
あの声は「意志の力」と言っていた。抵抗は無駄。いつかは
必ず衝動に支配される。しかし同時に声は、意志の力で抵抗して
みせろとも言った。その方がやつらにとっての優秀な怪人が
作り出せるという残酷な理由で。――だがそれは、意志の力で
精神融合を覆すことは絶対にできなくとも、それを遅らせることは
できる、ということだ。そういう風にできている、ということだ。
わたしはこの、なんべんも確認した結論をもう一度思い浮かべ、
自分を励ました。あと何分持ちこたえられる?…いや違う!
あと何分持ちこたえればいい?
そうだ。もう崖は降りたのだ。計画を早めて、今わたしが
姿を消す方が、結局はヒトミの安全のためだ。わたしが
完全に恐ろしいチスイコウモリ女となり、ヒトミがその
最初の犠牲者となってしまう前に、わたしは自分の命を絶つ。
ヒトミが一人で里に逃げ、あのヒーローを呼ぶ。危険はとても多い。
でも、恐ろしい怪人と行動を共にするよりもはるかに安全だ…
わたしは、ヒトミに全てを話し、別れを告げる決意を固めた。
しかしその決意は次の瞬間無に帰した。わたしたちの前に
絶望が立ち塞がったからだ。
光学迷彩。多分わたしに装備されている装置の大規模なもの。
その光学迷彩を施した巨大な壁がわたしたちの道を塞いでいた。
わたしの思いつきは不可能になった。里に降りることは
できない。そしてもう追っ手はそこまで来ている。最後の手段。
それを試してみなければならない。うまくいくだろうか?それが
はたしてヒトミにとって幸福な選択だろうか。わからない。
だがいまはそれしかない。
わたしは決意を固め、増大する黒い衝動に自らを委ねた…
ユミコはいつのまにか本物の怪物になってしまっていた。
いつからなのだろう。最初からわたしをだましていた?
そうじゃない。少しずつ怪物の心に脅かされながらも、
わたしを怯えさせないようにそれを隠して戦ってくれたのだ。
たぶんわたしのせいだ。ユミコはわたしが血を流すのを
異常に恐れていた。きっと、血を見ることでチスイコウモリの
本能が目覚めることを恐れていたのだ。なのにわたしは…
ユミコの牙が首筋に触れる。…いいかもしれない。こういうのも
いいのかもしれない。
あの部屋からの脱出の間、ユミコはずっとわたしの頼もしい
守護者だった。ユミコはわたしの拠り所であり、あこがれであり、
ほのかな恋愛感情の対象にすらなっていた。ユミコの恐ろしい姿は
いつしかとても頼もしい、美しい姿に見えてきていた。
…だから、こういうのもいいのかもしれない。あこがれの人と
似た姿に生まれ変わる。そしてその忠実な人形として生きていく。
それは世間一般の幸せではないけれど、今のわたしには
とても幸せな生き方かもしれない。
ユミコの牙が突き刺さった。わたしの体は熱く火照り、感じた
こともない強烈な快感が全身を貫いた。そして心にぼんやりとした
心地のよいもやがかかり始めた。ああ、マスター、いえ、ユミコ、
わたしに命令をちょうだい。人形のわたしを動かしてください。
偉大なマスター。偉大なユミコ。
ユミコ、いえ、チスイコウモリ女様は早速口を開いた。
「聞いてヒトミ。最初で最後の命令を伝えるわ。その能力で
わたしを殺しなさい。そして、正義の心を失わず、
自分の意志と判断を使い、幸せに生きなさい。命令よ」
「マスター…ユミコ…何を?従えない…従えません!」
「最後の賭けだったの。あの壁を越えるには、翼を使うには、
一度本能に主導権を譲らないといけなかった。そして、
本能に屈服したふりをして身を潜めた。チャンスは一度。
血を吸う瞬間、吸う側も吸われる側も変な快感に包まれる。
その瞬間を待ったの。さあ早く!時間がないの。本能に支配されて、
今の命令を撤回されたら終わりよ。命令!命令よ!!」
ユミコも涙を流していた。わたしも涙を流した。だが
マスターの命令は絶対だった。なかば自動的にわたしの
爪は鋭くとがり、ユミコの右の乳房の下に押し当てられた。
そしてもう人間のものではなくなりかけている強力な
腕で、その爪を斜め上に突き上げた。そこはナノマシンが
教えてくれたわたし達の急所。ユミコはごぼごぼという音を
たててあっというまに泡になった。お別れを言うひまもなかった。
「第一の命令完了。続いて第二の命令に移行。正義の心を
失わず、自分の意志と判断で、幸せに…幸せに生きます」
言いながら嗚咽がとまらなかった。言い終えるとわたしは
大声で泣いた。いつまでも泣き続けた。
ユミコの遺したナノマシンがわたしの体を変えていた。
皮膚の色は薄黒いネズミ色に変わっていった。ユミコの
ようなきれいな半透明じゃない、のっぺりした色。
腕と足に伸びた皮膜もユミコのよりちょっと頼りない。
目と耳と歯が変化するのも感じられた。そして、凶暴な
闘争本能と、どす黒い吸血衝動が育っていくのを感じた。
わたしはもう二度と人間には戻れないことをはっきり感じた。
だけど、ユミコはわたしに「正義の心」も遺して
くれた。わたしの意志と判断力も返してくれた。これさえ
あれば、闇の力に負けることはない。そう思えた。
ユミコ、あなたはわたしに擬態して人間社会でひっそり
生きることを願ったんだと思う。でもごめん。わたし戦うわ。
あんなやつらがいる限りこの世界に本当の「幸せ」なんて
来はしない。あなたの人工筋肉には及ばないけど、強い
力を手にいれた。そしてこの邪悪な吸血鬼の力もある。
戦い方はいくらでもあるわ。例えばあの黒ずくめの男たちを
襲って片っ端からわたしの僕にする。組織は大混乱。
その隙に建物を破壊する。きっとできる。やってみせる。
「キキィィィィィィッ!」
わたしはコウモリのおたけびを上げた。宣戦布告だった。
「でたな怪人!変身!とうっ」
いつの間にかにわたしの後ろにはあのヒーローが立っていた。
ヒーローは問答無用で強力なキックを放った。まっすぐ
右胸に近づいてくるつま先を見ながらわたしは思った。
――もうじき会えるね、ユミコ…。
<了>