「あ、そこ右に曲がって」
「はい」
ナビゲーターの指示に従ってドライバーがハンドルを右に切ると、2人を乗せたRV車は細い上り坂へと入っていく。
「ホントにこっちすか?どんどん道険しくなってきてますよ……」
「何?私のナビが間違ってるって言うの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
心細そうに不満を漏らしたドライバーの若者だったが、助手席の女性の一言ですっかり怖気づいてしまい、
次に言おうとした言葉でさえ少し躊躇いがちになってしまう。
「……でも、マジであるんすかね?その……トランス……フォーマー、でしたっけ?」
「トランスポーター。いわゆる「物質転送装置」ってやつね」
女性が若者の言葉を引き継いで言った。
「あまりにも空想じみた話の上に、匿名のタレコミだから信用性はイマイチだけど……
ガセならガセでここいらの風景でも撮って帰りましょ。ここんトコ大きなネタが続いてたから、たまには気晴らしもいいんじゃない?」
「まったく……美夜子さんは気楽なんだから」
ハンドルを握る若者は、隣に座る女性―――卯月美夜子(うづき・みやこ)に聞こえないように愚痴を漏らした。
「何か言ったかしら、乾君?―――あ、あの建物じゃないかしら?」
そう言って美夜子が指差した先には、木々の合間に聳え立つ古めかしい洋館が見えていた。
「突然のご訪問失礼致します、こちらは牛満(うしみつ)博士のお宅でしょうか。私たちはこういう者です」
洋館の扉を叩いた2人の前に現れたのは、黒を基調としたシックかつ簡素なエプロンドレスを身に纏った少女だった。
突然の訪問客にも関わらず表情を変えることなく対応する彼女に挨拶を述べ、美夜子は自分の所属する地元のケーブルテレビ局の名刺を差し出した。
名刺を受け取った少女は、手渡されたそれと2人の顔を交互に見比べるだけで一言も喋ろうとしない。
ふと美夜子と少女の目線が合う。
美夜子は少女の瞳に人ではない何かの気配を感じ、背筋を強張らせた。
(み、美夜子さん……やっぱ帰りましょうよ〜。この娘、変ですよ〜)
少女の不気味な様子と沈黙に耐え切れなくなったのか、乾が弱気な声でそっと美夜子に耳打ちしようとしたその時だった。
「芽亜、お客さんかね?」
洋館の奥からやや年老いた男性の声が聞こえてきた。
「テレビの人が、わざわざこんなところまで……何の御用ですかな?」
応接間に通された美夜子と乾は、先ほど芽亜(めあ)と呼ばれたメイド服の少女が運んできたコーヒーを一口すすったところで
目の前に座る牛満と名乗った白髪の老人にそう尋ねられていた。
「ええ、実はウチの局に匿名の情報提供電話がありまして……何でもこちらで画期的な装置の研究を行っているとか……
アポイントメントなしで恐縮ですが、よろしければ取材をさせていただけないでしょうか?」
そこで美夜子は、いつの間にか牛満の視線が彼女一人に注がれていることに気づいた。
地方の、決して大きいとはいえないケーブルテレビ局のリポーターとして、現場において衆人の視線を注がれることはあったが
今目の前にいる男のそれは、かつて感じたことのない異様な雰囲気を漂わせており、美夜子は思わずたじろぎそうになった。
しばし沈黙が漂い、美夜子は音を立てて固唾をのんだ。
それまで猜疑の色をあらわにしていた牛満の顔が、急にほころんだ。
「よろしいでしょう……ただし、条件を2つほど提示させていただいてよろしいですかな」
美夜子が牛満に案内されたのは冷やりとした空気が漂う地下室だった。
2人より先に部屋に入った芽亜が、明かりのスイッチを入れると部屋の中の様子が初めて明らかになった。
「これが……」
それまでその存在を半分以上疑っていた美夜子の目の前に、その大掛かりな装置は妙な説得力をもって現れた。
そこには長さ2メートルほどのショーケースのようなガラス製のカプセルが2つ、そしてそれらに接続された2つのケーブルと
その間に挟まれた、一部回路が剥き出しになった機械の塊で構成された装置があった。
装置の存在感にやや気圧されながらも、美夜子は手にしたハンディカメラを回す。
「美夜子一人で取材を行うこと」それが牛満の提示した第一の条件だった。同行したADの乾は外で待機している。
「こちらをご覧いただけますかな?」
不意に牛満に声をかけられ美夜子がそちらを見やると、牛満はテーブルの傍らで別の装置に手をかけていた。
それはさっきまで美夜子がカメラに収めていた装置をそのまま小さくしたような、
50センチほどの2つのガラスケースと、それらを繋ぐケーブル、そして間に接続された機械だった。
「お察しの通り、これはあちらの装置と同じものです。というよりはこちらでの試行錯誤の末、あっちの完成に至った、という方が正しいのですがね」
応接間での訝しげな様子とはうって変わって、人当たりのよい笑顔を浮かべながら牛満はテーブルの上のガラスケースにポンと手を乗せて説明した。
美夜子は黙ってその様子をカメラに収めると、一度カメラから目を離して直にその装置を見る。
「とりあえず百聞は一見になんとやら……実際に確かめられた方がよろしいですね」
そう言うと牛満は、片方のガラスのカバーを取り外すと、いつの間にか戻ってきていた芽亜からあるものを受け取った。
それは一輪の黄色い花が植えられた鉢植えだった。
牛満はカバーを取り外した台の上にそれを置き、慎重な様子で取り外したカバーを元に戻すと、そこで一旦美夜子の方に向き直った。
「それでは行きますよ……よーく見ていてくださいね」
美夜子が再びカメラを構えたのを確かめると、牛満は2つのガラスケースの間の機械のスイッチを入れた。
スイッチが入れられると同時に、鉢植えの入ったガラスケースの中に青みを帯びた電流が走った。
そしてすぐにケースの中が薄青色の光に満たされたかのように思われたが、それさえもすぐにおさまった。
ファインダーを覗いていた美夜子が、その明るさに思わず瞬きををした文字通り一瞬の出来事であった。
光が消えたガラスケースの中はもぬけの殻になっていた。もう一方のガラスケースも同様だ。
「はい、見事に消えました」
何が起こったかわからないでいて言葉を失っている美夜子に、牛満は説明を続けた。
「先ほどの花は今、この機械の中に電子的に分解された状態でその情報が納められています。
要はその情報を別の場所―――もう一方のガラスの中ですな―――で再生してやる、これがこの装置の原理です」
そう言って牛満が機械についたもう1つのスイッチをオンにすると、最初とは逆のガラスケースの中に電流が迸った。
そしてまったく同じようにガラスケースの中が青白い光で満たされたかと思うと、それは一瞬で消え去った。
その後には……紛れもなく最初のガラスケースに入れられていた、黄色い花を咲かせた鉢植えが納められている。
美夜子はただただ言葉もなく、ファインダー越しにその結果を見つめているだけだった。
「もう1つ、実験してみましょう。芽亜―――」
「ハイ」
牛満に声をかけられた芽亜が、言葉少なに部屋の隅から現れる。
薄暗がりに紛れて最初はよく見えなかったが、それは一匹の黒猫だった。
芽亜によくなついているのか、黒猫は安らかな表情で彼女の腕に大人しくおさまっている。
「植物の場合は動かないからいいんですが、動物の場合大人しくしていてもらわないといけませんので」
そう言いながら牛満は中を満たした注射器を黒猫に刺し、中の液体を注入していく。
それまでも大人しくしていた黒猫だったが、注射をされた後はさらにぐったりとなる。
力を失った黒猫の体を受け取り、牛満は先ほどの鉢植えと同じように慎重にガラスの中へそれを納めると、ゆっくりとスイッチを入れた。
そして最初の実験と同じプロセスを経て、もう一方のガラスケースの中に黒猫の体が再生される。
「すごい……」
美夜子は思わず息をのんで、ごく短い感想を漏らすしかなかった。
「手品とか……トリックじゃないですよね、これ……」
ファインダーから目を離し牛満に問いかけた。
「ええ、そうですよ。今しがたあなたの目の前で起こったことは正真正銘、私の研究の成果です」
牛満は満足そうな様子で胸を張ってそう言った。
「凄いじゃないですか!これが実用化されれば輸送業界に確実に革命が起きますよ」
今目撃した出来事の重大さが段々とわかってくると、しばらく言葉を失っていた美夜子も弾んだ声をあげた。
「でも……これだけの発明がどうして今まで未発表だったんですか?」
「知りたいですか?」
牛満の言葉に、美夜子は固唾をのんでゆっくりと頷いた。
「……まだやらねばならないことが残っているからですよ」
「やらねば……ならないこと?」
美夜子は牛満の言葉をゆっくりと反芻した。
「ええ、今見ていただいたとおり植物や小動物程度のものについては何度も実験を繰り返し、そして成功してきました……」
牛満はそう言いながら、この部屋に入ってきたときに最初に目に付いた大掛かりな方の装置へ歩み寄っていく。
「しかしただ1つ、今まで転送実験に使用してない被験体がありましてね……」
美夜子の中で嫌な予感が頭をもたげてきていたがそれを口にはせず、ただ黙って目で彼の動きを追った。
「こちらの装置も元はそのために作ったのですが、それでもなかなか協力者が現れてくれなくて……」
横に長いガラスのケースを撫でながら、牛満は湧き上がる嬉しさをこらえるような口調で言った。
「そ、それって……まさか……」
美夜子の嫌な予感は確実なものへと変わろうとしていた。
「そう……人体実験ですよ」
「そ、そんな……じ……人体実験だなんて……」
嫌な予感が的中した美夜子は激しく同様していた。
「だってそうでしょう。最終的には人間そのものを遠隔地へ転送できるようになることが目的なのですから」
「それは……そうですが……」
牛満はこちらを振り返り、何事もなかったかのように続ける。
「そこで……第二の条件です」
取材を許可するにあたって、牛満は2つの条件を提示してきた。
1つは「美夜子一人で取材を行うこと」。
しかしもう1つは「後でお話しますよ」と言って、そのままこの部屋に案内されたのだった。
「その……条件……とは?」
嫌な予感は続いていたが、美夜子は一句一句噛みしめるようにゆっくりと言葉を継いでいった。
「ハイ……。実は、あなたにこの『人体転送装置』の被験者になっていただきたいのですよ」
またもや的中してしまった自らの予感を恨む暇もなく、美夜子の心にさらに動揺が走る。
「お断りすると……言ったら?」
「その時は、そのカメラごと置いて帰っていただきます。こちらとしてもまだ未完成の研究を世間に晒されたくはないですしね」
美夜子はしばらくの間逡巡した。
「今回のところは……お断りする……と言うのはどうでしょう?」
「ほほう?どういうことですかな?」
「その……先ほど撮らせていただいた実験について、専門家の方の意見を交えて真偽や安全性を検証したいですし……」
その場しのぎに思いついた妥協案とはいえ、事実の報道のため、というジャーナリズム的に正当性のある意見だと、美夜子は思った。
「ふむ、確かにそれも一理ありますな。しかし……」
そう言ったところで、牛満は装置から離れ美夜子方へ歩み寄ってくる。
「先ほども言いましたとおり、私としてはまだこれを世間の目に晒すわけにはいかないのです……」
その時美夜子は背後に人の気配を感じたが、次の瞬間、カメラを手にしていた右腕を後ろに捻り上げられていた。
「申し訳ありませんが、卯月さん。あなたに選択の余地はないんですよ」
痛みをこらえながら僅かに体を捻り後ろを見やると、彼女の腕を無表情に捻り上げているのはメイド服の少女・芽亜だった。
芽亜は片腕一本で、しかもほとんど力を加えていないように見えるが、美夜子の腕を拘束しているのは少女のものとは思えない強力な力だった。
もう一方の手で、芽亜は美夜子の手からするりとカメラを奪い去る。
「くっ……!」
美夜子も自由にされている左手を使ってポケットから携帯電話を取り出すと、発信履歴を利用して素早くADの乾の番号を選択した。
「外の彼に助けを呼ぼうとしても無駄ですよ。この場所は元々電話は通じません。それに……」
画面の隅に表示された「圏外」の2文字に絶望を感じながら、美夜子は自分の心が恐怖に満ち始めていくのを感じていた。
「彼は今頃、車の中で夢見心地でしょうしね」
(えっ……!?)
心に湧き上がってくる恐怖に震え始めていた美夜子の体を、突如気だるさが襲う。
「あなたもそろそろ効きはじめてくるんじゃないですか。先ほどコーヒーに混ぜておいた薬が」
意識が朦朧とするとともに足元からも力が抜け、右腕を固定されたまま美夜子はその場に片膝をついてしまう。
「ご安心を。実験の様子はきちんと撮影しておきますから……」
それが、意識が暗転する前に美夜子が聞き取れた最後の言葉だった。
「ん……っ……」
微かな振動に美夜子が再び目を覚ますと、そこは車の中だった。窓外の景色は夕焼けに赤く染まり始めている。
ぼんやりとしていた意識が徐々にはっきりとしてくると、彼女はまず自らの体をまさぐった。
しかし特に不審な点や着衣の乱れなどは見当たらず、牛満博士の館を訪れた時のままだ。
そして手には、館の中へ持ち込んだハンディカメラが握られている。
「……?」
そのことに漠然とした疑問を感じていると、彼女の右側から聞きなれた声がした。
「あ、美夜子さん。起こしちゃいました?」
乾はハンドルを握ったまま、ちらりと美夜子方を見やりながら言った。
「あれ?私、いつの間に?」
「え?」
美夜子の言葉に、乾はすっとんきょうな言葉をあげた。
「美夜子さん、館の中から出てきて「取材は終わったから帰りましょう」って言った後「疲れたから少し眠るわね」って
そのまま寝ちゃったじゃないすか?覚えてないんすか?」
乾の言葉に少し首を傾げたが、どうしてもそのような記憶は美夜子の中になかった。
しかし、記憶にはないそれらの行動をなぜか納得してしまっている自分がいた。
「そう……そうだったわね」
「で、取材の方はどうだったんすか?例の装置はマジでしたか?」
「えと……」
確かに地下室に案内されて「物質転送装置」の実験を見た記憶はあった。
鉢植えや猫が一方のガラスケースの中から、空のケースの中へ移動した、そこまでははっきりと覚えている。
だがそこから先、正確に言えば今車の中で目覚めるまでの記憶についてはどうしても思い出せないのだ。
「どうしたんすか、美夜子さん?」
美夜子が言葉に詰まっていると、乾が声をかけてきた。
「カメラの方はどうなんすか?バッチリ撮れました?」
記憶がなくても記録は残っているかもしれない。テープを再生しようとカメラの電源を入れようとした。
「あ……」
しかし、そこにはバッテリー切れを示すランプが点滅していた。
「ダメっすか……まぁ帰って局の方で再生してみましょうよ」
「うん……あ、それよりもウチのマンションに寄ってくれる?今日はもう帰って休みたい気分なの……」
いつもに比べて活気のない美夜子の様子を乾は不審に思ったが、下手に反論して怒られるのも嫌なので彼女の言葉に従うことにした。
「じゃ、美夜子さん。また明日」
短い挨拶を投げかけて車で去っていく乾を見送りながら、美夜子はやけに疲れ切った体を休ませるべくマンションの中へ入っていった。
そして自分の部屋までたどり着くと、そのままベッドに体を投げ出し眠りの海へ沈んでいった。
美夜子が目を覚ましたとき、部屋の時計が指し示す時刻は日付が変わるか変わらないかというところだった。
「ん……」
眠りに落ちたとき以上の気だるさが体を包み込んでいる。
それでも喉の渇きに耐えられず、美夜子はベッドを抜け出た。
冷蔵庫にたどり着き口を開けておいた牛乳パックを取り出す。
そして食器棚からは皿を取り出しそれにミルクを満たすと、キッチンの縁に手をかけ皿に直接口をつけた。
明かりのついていないキッチンで、ミルクを舐め取るぴちゃぴちゃという音だけがする。
(…………!)
しばらく経ったところで、ようやく自らの行動の不可解さに気づいた美夜子は、ハッとなって皿から顔を上げる。
(……えっ……なんで……なんで、私こんな飲み方してるの?)
混乱しながらも口の周りについたミルクを拭おうと当てた手が、口の周りの違和感を感じ取る。
(……?……!)
言葉にならない驚きとともに、口の周りから頬にかけてを撫で回し違和感の正体を探る。
風に煽られて乱れた髪の毛が顔に張り付いたときのような、しかしこれは髪の毛とは違う。
美夜子は慌ててバスルームに駆け込むと、掛けてある鏡を覗き込んだ。
「なに……これ?」
鏡に映った美夜子の顔、その口の周り、頬の辺りには白っぽい糸のようなものが真っ直ぐ横に向かって、まるで猫のヒゲのように伸びている。
(えっ……?えぇっ……!?)
まったくワケがわからず、美夜子の頭の中は混乱に満たされていく。
やがてその限界を超えた彼女の意識は、現実を否定することでその負荷を和らげるように働いた。
(夢……夢よね、きっと……それよりも……酷く……眠たいの……)
バスルームを出ると、美夜子は気だるさに導かれて再びベッドに倒れこむように身を預けた。
陽はとっくに昇っている。出勤すべき時刻もとうに過ぎている。
しかし美夜子はまだベッドの上にいた。
かといっていまだ眠りから目覚めていないのではない。ましてやまどろみの中にあるわけでもなかった。
彼女は驚きと怯えに身を震わせていた。その原因は、彼女の身に起こった変化にあった。
再び目が覚めたとき、美夜子はまず昨日そのまま寝入ってしまったことを思い出した。
目覚ましも兼ねてとりあえずシャワーを浴びることにした彼女は、服に手をかけた瞬間、服と肌の間にある違和感を感じた。
素肌の上にもう一枚、薄手の肌着をつけているような、しかもその感覚がほぼ全身にわたって感じられる。
その違和感の正体を確かめるため、彼女は剥ぎ取るように自らの衣服を脱ぎ去った。
「!」
取材のために着ていった比較的ラフよりな服装の下から現れたものに、美夜子は思わず目を丸くした。
首から下、つまり頭部以外の体全体が黒く短い毛織の繊維で覆われていたのだ。
「にゃによ……これ……?」
少々発音のおかしな言葉が口から漏れたが特に気に留めもせず、美夜子は腕の一部の毛を摘み軽く引っ張ってみた。
同時に皮膚そのものが引っ張られる感覚が腕に生じ、何本かの毛が抜け落ちた。
「これって……」
すなわちそれは、その黒く短い毛が美夜子の皮膚の上に直接生えたものだということを示していたが、
その事実を認めたくないという意識が、それを言葉にさせなかった。
「…………」
抜け落ちた毛を摘んだままの指をただ呆然と見ていた美夜子は、そこで指先にも変化が生じていることに気がついた。
嗜みとしてある程度までは延ばしていた爪だったが、それは綺麗に丸く整えていたはずだった。
それが今は鋭く鋭角的な、まるで獣のそれになっている。
そこでようやく美夜子は昨夜、夜中に目が覚めたときのことを思い出し、真っ直ぐバスルームに飛び込んだ。
その時、彼女は部屋の床を四つんばいで這って移動したのだが、彼女自身の思考はそのことをまったく疑問に思わないでいた。
洗面台の縁に手をかけ、膝立ちの体勢になってやや見上げるように鏡を覗き込む。
確かに、昨夜も見たのと同じ彼女自身の顔がそこに現れた。
両頬から真っ直ぐ横に向かって何本かの、ヒゲが生え揃っている。
心なしか昨日のそれより、ピンと張っているような気さえする。
「……夢じゃ……にゃかったんだ……」
ため息とともに言葉が、漏れた。
よく見ると髪形がおかしい。眠りを経て乱れたというだけでは説明しがたい違和感が、特に耳の上あたりに漂っている。
鏡を覗き込みながらおそるおそる、不自然に盛り上がっている耳の上、頭の側面あたりに手をやる美夜子。
慎重に、ゆっくりと髪の毛を掻き分けていったその下から現れたのは、体を覆うのと同じ黒い毛の生えた獣の耳朶だった。
「……これじゃ、まるで……」
ヒゲ、黒い毛、鋭利な爪、そして頭に生えた三角刑の耳……
彼女の身に起こったこれらの不可解な要素と僅かに残された昨日の記憶とが、美夜子の頭の中で交錯し、やがて一つの答えに至る。
美夜子はバスルームを抜け出すと、リビングの床に転がっていた取材用のハンディカメラを手に取る。
震える指先で中のテープを取り出すと、テレビの下に備え付けてあるビデオデッキにそれを突っ込んだ。
「おやおや、思ったより早いお着きでしたね」
芽亜に連れられて入ってきた、フード付きのロングコートを身に纏った女性に、牛満は歓迎の意をあらわにした。
「来てくださるのなら、一言連絡を下さればよかったのに」
あくまでも平生な対応を続ける牛満に、フードを被ったその女性はつかつかと歩み寄ると突然その胸倉を掴み激しく揺さぶった。
「一体にゃにを……にゃにをしたんですか、私の体に!」
牛満の体を揺さぶった動きで、彼女が被っていたコートのフードが後ろにずれその顔が現れる。
それはヒゲと耳の生えた卯月美夜子の姿だった。
「おぉ……素晴らしい。たった一日でここまで変化が現れるとは……」
胸倉を掴まれながらも、感嘆の声を上げる牛満。その様子に美夜子の声と息は荒さを増していく。
「答えて!昨日、ここで……私の体に、にゃにをしたのか……!」
それはもはや一介の女性レポーターの口調ではなく、獣性さえ漂わせた一人の怒れる女性のそれであった。
「それは……自分の目でもご覧になったんでしょう?お返ししたあのテープでね」
テープをデッキに入れた美夜子は、それが最初の方まで巻き戻ったのを確認すると、恐る恐るながら「再生」のボタンを押し込んだ。
短いノイズについで画面に映し出されたのは、美夜子の記憶にも残っている、鉢植えと黒猫を使った物質転送装置の実験の様子だった。
やがて2つの実験が終了し、僅かな画面の乱れに続いて次の場面が再生され始めた。
「芽亜、それの使い方はわかるね」
画面の中央に立つ牛満博士が声をかけると、それに続いて短くただ「ハイ」と答える声が聞こえた。
おそらくあのメイド服の少女がカメラを手に構え撮影を行っているのだろう。
「よし……ではこれより人体を用いての転送実験……いやもとい、このトランスポーターを用いた人体と他生物の融合実験を開始する」
高らかに宣言された牛満の言葉に、美夜子は思わず目を丸くした。
実験開始の宣言とともに牛満が画面の外に消えると、その後ろにあったガラスのカバーを開け放たれた手術台のようなものが画面に映し出される。
その上には一糸纏わぬ姿の美夜子自身が横たえられていた。
「被験体の女性は卯月美夜子……そして今回彼女と融合させるのは……こちらのメスの黒猫であります」
そう言いながら、その手に先ほどの実験でも登場した黒猫を抱いて、牛満が再び画面の中に現れた。
まだ注射された薬が効いているのかややぐったりとした様子で、黒猫は彼の腕の中でピクリとも動かず大人しくしている。
「これを、彼女とともにこの中にセットいたします……」
淡々とした説明口調で話しながら、黒猫の体を美夜子の上に置くと再び、牛満が画面の外に消えた。
「そうそう忘れていました」
わざとらしそうに言いながら、中に液体を満たした注射器を持って三度牛満が画面に現れると、
彼はその注射器の針をを静かに横たわる美夜子に刺した。
「これには転送の際に混入してしまった異物質の結合を安定させる働きがあります」
注射器の中の液体を注入しながら、そう説明する。
「さて、これで準備完了、と」
そう言うと牛満はガラスのカバーをゆっくりと閉めて画面から消えた。
「それでは、いよいよ融合開始です。5……4……3……」
画面の外から牛満の声でカウントダウンが始められた。
「……2!」
目を背けたくなるような相反する気持ちとともに画面を食い入るように覗き込んでいた美夜子は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……1!」
そして最後のカウントが告げられた。
「……スタート!」
「ええ、見たわよ!見たけど……あれじゃ約束が違うじゃにゃい!物質転送装置の実験だと言っておきにゃがら……」
美夜子は牛満の胸倉を掴んだ手を離したが荒げた口調は変わらなかった。
「そうです。私は確かにあなたを被験体にして、転送装置の実験を行いました。しかし……」
一方、牛満の方も顔色一つ変えずに言葉を続けた。
「装置の、『もう一つの使い方』については説明の方をしておりませんでしたね……」
「卯月さんは『蝿男の恐怖』という映画をご存知ですか?」
牛満は唐突に質問を投げかけたが、美夜子は肩を震わせ彼の方を睨みつけたまま答えようとはしなかった。
「1958年に公開されたカート・ニューマン監督作品のモンスターパニック映画なんですが、
物質転送装置を発明した科学者が自らの体を使って装置の実験を行った際、偶然にも紛れ込んでしまった一匹の蝿と融合してしまうお話です。
その後も1987年にデヴィッド・クローネンバーグ監督によって『ザ・フライ』というタイトルでリメイクされております」
牛満の口から映画に関する知識がすらすらと出てくるのを聞きながら、美夜子の頭の中にあったある憶測が確信に変化しつつあった。
「まぁこれ以上は詳しく説明するまでもありませんが、私の作った装置でも同じことが可能なのです。しかもある程度は意図的にね」
その言葉で、美夜子の確信は決定的なものとなり、彼女はそのショックに言葉も出なかった。
「もちろん最初は純粋に物質転送装置の開発と実験に取り組んでおりました。しかし、そのような機械は夢物語でしかなかった当時、
私と私の研究は学会から異端視され、私が居場所を失うにはそう時間はかかりませんでした。
ですが学会を追われてもこの館に篭って研究を続けていた私に、名前は明かせませんがとある組織が資金提供を持ちかけてきました。
先立つものが底をつきかけていた私は喜んでその申し出を受け、さらに研究に没頭しました。
ですが……彼らが本当に望んでいたのはこの装置の『もう一つの使い方』の方だったのです」
「私はあなたに1つ、嘘をついておりました。それはあの装置で人体実験を行ったのは初めてではない、ということです」
その後牛満は、組織が連れてきたいずれの者ともわからぬような人間を使用して、人体と他生物の融合実験を行ってきたことを告白した。
しかし彼らのすべてが、融合に失敗、もしくはまったく別のグロテスクな生き物になってしまったり、
また僅かな確率で融合に成功した者も不明の拒否反応を起こし、その命は長くは続かなかったこともあって、
現在までに生き残った成功例は1つもなかったという。
「しかし、私は試行錯誤を重ねついに、「効果の発現を段階的に処理することによって融合の安定を得る」という結論に達しました。
実験直後にではなく、昨日から今日にかけてあなたの姿が徐々に変化していったのはそのせいです。
説明があったと思いますが、実験の直前にあなたに投与した薬品もそのためのものです」
美夜子はビデオで見た映像を思い出し、映像の中で針をつきたてられていた首筋のあたりを思わず手で押さえた。
「そして実験は成功しました。その成功例こそがあなたなのです」
牛満は顔に満面の、しかし狂気と不気味さの入り混じった笑顔を浮かべながら美夜子を指差した。
「素晴らしい。実に素晴らしい。卯月美夜子さん、この先も実験の成果を見たいので私に協力していただけませんか?」
年甲斐もなくはしゃいだ声で申し出る牛満に、美夜子は握り締めた拳を震わせながら反論した。
「そんにゃ!冗談じゃにゃい!私はあにゃたの実験動物じゃにゃいわ!」
「な」と発音すべきところが「にゃ」に変わっていたが、もはやそんなことはまったく気にもかけなくなっていた美夜子は再び牛満に詰め寄ろうとした。
「戻して!私を今すぐ、元の体に戻して!」
「元の体に戻る方法ですか?もしかしたら見つかるかもしれませんな……あなたが私に大人しく協力していただければ、の話ですが」
「誰が!私、あにゃたを訴えるわ!とんでもにゃい人体実験を行った悪魔のようにゃ男がいるって!」
あと一歩というところまで牛満ににじり寄った時、美夜子は背後に人の気配を感じ取った。
「残念ですが……力ずくで従っていただくしかないようですね」
「っ!」
だが、美夜子が気づいた時には時すでに遅く、彼女の首筋は金属の冷たさに締め上げられていた。
一瞬だが、少女の白く細い指先が美夜子の後方に引き込まれるように消えていく見た。
いつの間にか音もなく彼女の背後に忍び寄っていた芽亜が、気配を極限までに殺した行動で美夜子の首に金属製のバンドを当てたのだった。
バンドは美夜子の肌に触れると一瞬のうちに収縮し、彼女の首を軽く締め付ける。
「……かっ……はっ……にゃに……これ……」
美夜子はバンドを必死に取り外そうとしたが、皮膚とバンドは完全に密着しており指を挟み込む隙間もない。
彼女の口からは苦しげな呻き声と、短い息が漏れるだけだった。
「それ、何だと思います?」
そう言うと牛満はポケットから厚みのない方形をしたプラスチック製の黒い物体を取り出した。
首を締め付けられる苦痛の中で美夜子が目にしたそれは、先端に受光機のような透明な球形の物体が取り付けられている。
昨日から何度目かの嫌な予感が、美夜子の頭の中に湧き上がる。
「組織の人が、何かの時のために、と置いていってくれたんですよ。私はそちらの方には疎いんですが、
脊髄を通じて電気的な信号を送り込むことで、その「首輪」を取り付けた人間を支配下に置くことができるそうです」
そう言って牛満は、黒い物体に掛けた親指をゆっくりと押し込んだ。
「……こんな風にね」
「や、やめ……っあぁっ!」
牛満の手にした物体の先端が発光した途端、美夜子はうなじの辺りで電気が弾けるような瞬間的な痛みを覚えたかと思うと、
ブレーカーが落ちたように彼女の意識は弾けとび、体は床に崩れ落ちた。
「くくく……」
体を支える力を失いしどけない様子で床に横たわる美夜子の、コートの裾からはみ出た黒い毛の生えた肌を見ながら、牛満の口から短い笑い声が漏れる。
「そういえば実験に使ったあの黒猫、しつけるのに随分と苦労したものです。あの時にこの「首輪」があればねぇ……。
でもこれからは、彼女の代わりにあなたを飼い慣らすことにしましょう」
牛満の指がもう一度押し込まれると、床の上の美夜子の体がビクンと痙攣を起こした。
「さぁ、起きてください……」
牛満のその言葉に、眠りから目覚めるように美夜子の瞼がゆっくりと開いていく。
その下から現れたのは、生気に満ちた人の瞳ではなく輝きを失った虚ろな猫のそれであった。
そして床に手をつきゆっくりと立ち上がろうとしたが、牛満がそれを制して言った。
「あぁ美夜子さん、あなたは猫なんですから2本の足で立つのは間違いですよ。
それに……そんな人間の身につけるものを着ているのもおかしい。今すぐ脱いでしまいましょう」
そう、自分は猫なのだ。2本の足で立ち上がるのも、コートを着ているのも間違っている。
牛満の言葉が美夜子の思考そのものと化した今、彼女がそれらを疑問に思うことはなかった。
美夜子は頷くと、身に纏っていたコートを脱いでいく。彼女の背後に控えていた芽亜が、言葉も無くそれを受け取る。
黒い毛に覆われてはいるが、若い女性のボディラインは損なわれていない美夜子の体があらわになる。
いつの間にか、彼女の腰の辺りからは同じく黒い毛に覆われた細く長い尻尾まで生えていた。
そしてゆっくりと身をかがめ、両手を床につき四つんばいの格好になる。
「ニャ〜ォ」
美夜子の口が何事かを発しようとしたが、それはただ普通に猫の鳴き声となって顕れた。
今や彼女は完全に猫なのだ。猫が猫の泣き声以外の言葉を発しようはずがない。
「さぁさぁ美夜子……いやミーヤ、こちらにおいで。たっぷりと可愛がってあげよう……」
先ほどの黒い物体をポケットに納め手招きする牛満に、猫と化した美夜子は文字通り猫なで声をあげて擦り寄っていくのだった。
(了)