小松左京先生、老人性鬱病だった!

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734名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/28(土) 23:10:42
話の舞台の、和歌山県と大阪府の県府境の葛城山と思われる位置、
グーグルマップでゲットしました。
735名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 02:04:09
大和葛城山、和泉葛城山、南葛城山、中葛城山
736名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 05:01:25
>>735
そんなにあるのぉ?orz どれがどれだかわからないや。
役小角(役行者) に関係するのはどれだろう。
737名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 05:04:08
とにかく 『機械じかけの夢』 が地元の図書館に無い事がわかったので、
これはアマゾンショップとかで買い求めていくしかないのかな。
738名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 05:52:46
第一章 象徴的事件 1 (第1段) のまとめ。

 しめった冷たい空気にみたされ た薄暗い部屋で行われる会話。
 物理の大泉教授と史学の番匠谷教授、それと大泉教授の助手 野々村の3人で交わされる会話。
 その内容は、特異な砂時計(発掘現場からの出土品によるもの)で、重苦しい
 雰囲気も交えている。(でも淡々と話は進む)
 あまりにも謎の物体。それもオーパーツの水準を遥かに超えている産物。
 四次元砂時計?

 1回読んだだけでは駄目だろうけど、なんとなく物語(作中)で起きている出来事の
 ドラマ性や雰囲気、事の深刻さについては触れていく事が出来るような気がする。

 これが第2段に入っていくと、間白で3つに分けられ、その最初の部分(部分第1)
 の明るい野々村と佐世子の恋人関係の描写とコントラスト(好対照)をなす。

 2 (第2段)の、葛城山までへの交通コースから、N大が東京か羽田空港経由になる土地にある
 事がわかる。それから飛行機でフライトで、伊丹空港へ。

 自分がそんな変なものに出会っちゃうと、どういう結果になっちゃうかなぁ、と考えてみる。
 まぁどうしようもないので、そのままにするだろうけど。
 実は兄貴の修学旅行の写真に、幽霊とも言える女の子の生首、4つを森の中で見つけた
 覚えがあるんだけど、どうしていいのかわからない実際経験もある。
 幽霊?、ちゅうのはそれほど珍しくも無いものなのか?写真においては。

 オープニングとしては、1 (第1段) はスリリングでクール、怪奇な始まりだとしてよいのか?
739名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 06:18:59
2 (第2段)

 3つ割で、1番目 33段落
       2番目 19段落
       3番目 16段落

       合計  68段落

 1 (第1段) 65段落 とほぼ同じ段落数と言える。

 ここで、登場人物としては5人目辺りの、謎の「クロニアム」という言葉を口にする
 青年が登場してくる。

 飛行機で出発する前 (野々村の恋人関係の描写)
 飛行機で向かう途中 (番匠谷教授と野々村との会話で、番匠谷教授の学問姿勢が浮き彫り)
 飛行機を降りたあと  (「クロニアム」と名を口にする謎の青年との邂逅・接触)

 3 (第3段) で一行(番匠谷教授、野々村、学生)は葛城山へと移動。
 例の謎の青年もその後を追っていたか、すでに葛城山の新発掘古墳で見かける事になる。
 これからどうなるのか。

 物語はどう進んでいくのか?
740名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 11:51:57
“クロニアム(四次元砂時計)” についている模様の 「梨地」 とか、ベルベット(ビロード) とか、
オレよく知らん単語多いな。orz  というわけでよく国語辞書などを引く。
741名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 12:01:43
小松左京さんのイメージ力の傾向が知りたくて、も一度プロローグから読んだけど、
映像(そして、色、形など)や音にかたよっているのか、もっとマルチ感覚なのかは
いまいちわからなかった。
匂いのイメージもちゃんと有る。
野々村の佐世子とのシーンでは羞恥心も出てくるし。

読んでいて佐世子さんが お寺の娘 だという事を初めて知った。
どんなお父母さんなのか、ちょっと関心が出た。
742名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 12:18:17
まだ読めていないけれども

野々村がどうしてここ、N大の助手として居るのかが、その過程が気になった。
パパの松浦の影響も、潜在的にはあるのかしら?
それはあまり考えられない影響だとしても?、謎の孤児だった野々村浩三は、
どうしてここにいるのだろう、と考えてしまった。

かなり浮世ばなれしたN大理論物理研究所の中でも『隠者』とよばれるほど
ひどくとびはなれた存在の、大泉教授の助手。
この位置にやってくるまでに昭和をどう生きていったのだろう。どう育ったのだろう。
野々村は一体何歳くらいなのだろう。
ふと、なんとなく、佐世子は野々村の年上なんだろうか?
743名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 16:13:24
で、だんだんノート取ること覚えてきた。
744名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/29(日) 20:46:49
“穴から大神宮” (角川文庫版・56ページ)

 これはもうすでに、第二章 現実的結末 1 に入ってしまっているのですが、
 いろんな事知っておかないと著述って出来ないもんだなぁと思う。
745名無しは無慈悲な夜の女王:2008/06/30(月) 06:42:48
やっと出てきた。
大田佐世子さん、三十路超えてたんだ。
746名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/04(金) 03:48:42
エピローグ (その2)

アマチュア郷土史家?鴨野清三郎氏もまたどこへ行ったのか……
大田佐世子さんが、養子手続きで、その伯父(父母の兄)の家を継ぐ。
そして野々村の帰ってくるのを待ちながら、年齢を重ね、ついに老境で亡くなる。
その頃には、訪れた、近在の人もよく見知らぬ老人とよく会話していた……。
その老人も、老婦佐世子さんの死を交番に告げたあと、すぐ亡くなる。

建つのは、野々村浩三 と 野々村佐世子(旧姓鴨野) の二つの碑。(いしぶみ)
佐世子さんは、いったいどのような気持ちで、書置きをしたためていたのか?
(その書置きで、ふたつの墓碑と野々村たちの残した資料が大学に寄贈され、残される。

現実に老いている人を見て、その人がどんな人生を送ってきたのか、自分は考えた事があるだろうか?
「先生」 としたわれる佐世子さんの、のちの姿。
野々村を待ち続けるだけではない姿も有り得ただろうに…… (普通に結婚して、子どもがいたり)

実際には、全体としては継代していく人類の姿。
そこには人類社会の発展が待っている。それをこつこつと見ていったら、
未来だけではなく、過去の歴史だけでもえらいことになるだろうなぁ。
話はそして、まだ等質の時間が未来に向かって開きつながっていく──。
747名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/04(金) 04:38:24
第三章 事件の始まり

 3段 によって構成。それぞれ間白によって幾つか区切られている所あり。

 第一段 73段落 (会話文含む)
 第二段 57段落 (同じ)
 第三段 90段落 (同じ。3つの部分に分かれる)
 合計、約220段落。 (数え間違いもあるかも知れないから)

 イメージしている所を細かく見ていくと、これは静止軌道衛星と、それをつなぐ軌道エレベーター
 の話なんだろうか。いやそれは文中で使われる手段に過ぎないのだけど。
 超科学研究所 的な研究はなお続けられいて、ぞの成果はある一定の 「全体像」 みたいなもの
 をおぼろげながらつかむ、輪郭線を描くことに成功する。
 それは、未来からのふたつの力による、現在と過去への干渉だった……。
 未来から干渉してくる二つの力。
 一方は解読すべきメッセージを発しているようであり、一方はそれを打ち消そうとする。
 そしてその成果をあげた、貴重な資料衛星ナンバー5 が突如ガス化される・・・

 事件はタカノリ・バンショウヤ博士の意識のメッセージを込められている古いテレビの破壊から
 始まる? 電気が無くても映る謎のテレビ遺物。謎の人物ムッシュウ・Mの破壊工作の対象は
 これだった。

 第一段、第二段、第三段 の関係は、だんだん通過関門を潜り抜けるようになって来ていること。
 そして第三段 の各3つの間白によって区切られた段は、それぞれの目標がある。
 特に、第一 と 第二、第三 の間の間白 は、一行ではなく 二行の間白で区切られている、という
 違いがある。第一 は資料衛星No.5 の描写、それと超科学研究所の得られた結論。
 第二で、“ムッシュウ・M” は「目的」 の番匠谷教授の映る古いテレビの所在位置を知る。
 そして破壊……第三で、資料衛星No.5 を4番目の事故として失ったあとの、地球社会における
 超科学研究の一時の停滞化する顛末が語られる。

 白堊紀の描写から始まった物語は、現代の謎の事件を経て、約300年後の未来において、
 再び関連事件を引き起こす。何かの破壊工作の芽が、おぼろながら見えてくる。
748名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/04(金) 04:57:04
現実の果しなき流れの果

 かつては、21世紀も現実ではなかったから、21世紀がどんな姿になって出てくるのか
 わからなかった。
 現実になったら、コンピューターというものがこんなにも身近なものになっていて、
 コンピューター通信ネットワークというものが、こんなにも世俗なものにも普及していた。
 90年代に湾岸戦争が起き、その前に 「冷戦の終結」 という重大な事件があり、ソ連邦が
 終末を迎えた。
 そして、アフガン戦争とからんで、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が起きた。
 ’95年にはオウム真理教による毒ガス・地下鉄サリン事件も起きた。

 阪神淡路大震災も起きている。
 未来ってのは、具体的にはなかなか予言(あらかじめ語る事が)できないものだ。
 ただ21世紀になって気楽になっちゃったというか、もう時間の束縛にならなくても現実に
 こうやって、平気で空気のようにアクセスできるのは、悪くない。
 ただ、だとすると現実に自分の死も近づいているわけで、その事をも考える。

 自分の人生には 「果て」 がある。その事をふと考える。
 あとしばらくのあいだ、一体何をすればよいのか、その事をまた考える。
749名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/04(金) 05:01:50
あと10年くらいは何とか生きられそうなので・・・

 どうだかはっきりしないけど。(苦笑)
 その間に、小松左京さんのご著作を、一部なりとも今年のうちでいいから、わかる事が
 できるようになるのか、その事が心配。

 昨日、「小松左京マガジン」 の最新号2号分をオンライン書店で買い注文致しました。
 果たしてどんな雑誌なのかしら?

 とにかく本文、こつこつと読み続けます。
750名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/04(金) 23:18:07
『果しなき流れの果に』 …… 半分まで読んで。

読み返してみて、いろんな事忘れていたなぁと再発見する。
うーん、こういう話だったのか。
751名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/06(日) 21:33:07
一度読み返したけど……

 こ、こ、こ、こんな大変な物語だったとは思わなかった……(笑)
752名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/08(火) 05:03:41
整理がつかない

 どっかまた愚痴っぽくなりますが、まぁいいか、『果しなき流れの果てに』 複雑な物語なんで、
 なんだか整理つかない。
 もうちょっと読むと、そんなに複雑な物語でも無いとわかってくるのだろうけどなぁ。
 なかなか大変だぁ、と思ったりしてます。

 要するに 未来からのメッセージ、過去への改変干渉というのは 野々村自身が考えて仕掛けた
 事にになるのかしら。ルキッフ(←私はこれを組織名と間違って憶えていたorz)のやっていた
 事と、そのルキッフの後継指名としての、野々村の行動には、どう違いがあるのかイマイチ
 わかんなくて。orz

 何章、何段、何段落、何文 で構成されているのか、という事も分析途中です。
 文 は、ある1ページから平均的な文数を取り、それに全ページ数をかけると得られるでしょうね。
 章は プロローグ±n を含めて全11章なんで、また全段数は各章の段数合わせて約45段、
 段落数はまだ途中なのだけど、第三章まで(20段ほど)で 約1300段落くらいなんで、全部で
 約2500段落くらいの構成数にはなるのかしら?
 1ページ約20文だとしたら、約400ページを掛けて、8000文、1万文弱で構成されている物語
 としていいのかな?
 とにかくそのくらいの物語です。

 1万文で出来た物語を、また意味論的に捉え直さないといけないので (プロット・粗筋等など)
 そこが大変。構成は複雑だし、そこに登場してくる人物たちを全部押さえていくのも……
 あぁ、私にはやり切れないわ。orz
 とか言って、読んでいきます。
753名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/08(火) 05:47:02
うーん、プロローグ±n を含めて、エピローグ(その2) と エピローグ(その1) は
本章(10章分) とは違ったものとして捉えるべきかも知れないなぁ。構成成分として。

それでも本章10章分と1プロローグ、2エピローグの13部分から成り立ち、
本章10章分で 42段分け、それとプロローグ・エピローグで 全45段の分けとなる。

推定約2500段落 (これはあとで明確に計算)、8000文〜1万弱の文から構成される。

物語は野々村が 第一章 象徴的事件 で事件で関わって、第二章 現実的結末 で現在
の場所から消える所から始まり、最後にはノアヴィル氏となって鯨座タウ・ケチの第五惑星の
四十五世紀に出現し、ほぼ一千万年先にある“掟の壁”を乗り越えて、アイに意識が吸収
されるまで続く。その前後に、野々村の父松浦の体験した事と、アイの凋落後のアルプスの
謎の遭難者となって第二階梯の存在として復活し、日本の葛城山のふもとで佐世子と出会う
までの姿がある。

全部を思い返し切れないよー。あんまり読めてないので、登場の各人物に感情移入出来ない。
できたら全部にしたいなぁ。読み返すしかないか。
わずかな所で、終わりごろの佐世子さんの住んでいる場所の生えている植物の名前すら
イメージできないんだものな。orz わかるのは 南天 くらいのものか。(無知だ〜)

いろんな部分がわからないので (前述の植物名とか) 、ちょっと情緒的な部分でもこの作品
をより一層深く味わえてなかったりする。あと色彩とか形とか、物体の大きさとか、
具体的にイメージできていなかったり。
ただ最後の葛城山の晴れた日のイメージはよかった。
またいろいろ読み直そう。

映像等になかなか翻訳しづらいです。私個人では、努力しないと。
(例えばタイムマシン、時間機はどんな形をしているのか、というの。)
754名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/08(火) 05:50:32
小松左京マガジン

 うーん、こんな形してたのね。
 あとでちゃんと読んだり、バックナンバー揃えていったりしていこう。
755名無しは無慈悲な夜の女王:2008/07/10(木) 08:07:08
なかなか先へ読めなーい。
段落は、推定2500 から、実際調べたら、2839段落くらいだったみたい。
文も実際は1ページ平均で15文くらいから構成されているみたいだから、
約400ページかける1ページ平均15文で、約6000文から構成されている、
というのが正解な所なのかも知れない。

それよりも、全体のイメージがより一層つかめない。(『果しなき流れの果に』)
どういう視点で読めばいいのか、はまだこれから。
756名無しは無慈悲な夜の女王:2008/09/24(水) 10:22:54
はぁ。
7月末に試験準備と人付き合いに追われ、ここから先jに攻められない状況が続き。
試験はものすごく難しい感じだったので、6科目中2科目ぐらいしか合格しないと思ったら。
物凄く運がよく、6科目中5科目まで合格した。
それもA○(えーまる)が4個とAひとつという奇跡的な数値。
でも法律の「著作権法概論」がE評価だったもんなー。
再試験だ。美術館関係のエキスパート資格がすぐには取れなくなった。(汗)

これから落ちたの含めて人文関係専門科目4科で5科目を取らないと卒業できないので、
来年1月末から2月初めにかけての試験を頑張らなきゃならない。
(結果が報告されるのが3月)
あははは、小松左京作品の研究にもう一度取りかかれるのは、少なくともあと4ヶ月ほど、
以降の事になりそうだなぁ。(遠い目)

物凄い低い水準の研究レベルだけど、なんとかだんだん小松小説の秘密に近づいていきたいです。
次にアクセスできるのは、半年先くらいなのかなぁ。

案外またあしたからするかも知れないけど。(くす。苦笑)


リナックスのJDがKDE環境でクッキー問題とかで書き込んでくれないので、手打ちで打ち直して
XPマシンから通信しています。
757名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/01(土) 02:58:38
tesuto
758名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/01(土) 03:16:20
ひえぇ〜。テストしたら書き込んでくれたぁ。
LinuxのUbuntu8.10のJDってすげぇぇ。(オレのマシンだけか、哀れなものよの)

しかしとにかく小松左京さんの作品をどんどん読み直さないといけないのよぉ。
誰かさんに教えてもらった、笠井潔さんの評論集もまだ読めてないし。
(探せないのよぉ。ネットで買うしかないか。地元に今のところ見当たらず)
『機械じかけの夢』だっけ? (違ったかな?)

とにかくどんどん読み込んで、考えていかないと先へ進めない。
まずは『果しなき流れの果に』がわからんと……。

大学の中間考査が大変なんでひぃこら言ってます中でなんですが。(ぁぁぁぁ)
759名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/01(土) 05:58:44
kde test
760名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/12(水) 05:28:57
SFには、関係の無い話のようで…、地元の図書館でアーノルド・J.トインビーの『歴史の研究』完訳版全25巻を発見。
長年触れたいと思っていた書物なので、それがなんと地元の図書館に蔵書されているなんてショック。
地元の旧国立(現独立行政法人)の大学付属図書館でも検索でヒットしなかったものが…。
あわわ、今までの私の人生の時間っていったい何? orz
第一巻が1966(昭和41)年、第25巻の完結がなんと1972年(昭和47)だよっ?!

で、第一巻で冒頭の方に、H.G.ウェルズの『歴史概説』についての記述がある事を発見。
これは、岩波新書の『世界史概観』?(上・下巻)の事なのかなぁ。
さすがのトインビーも、きちんとウェルズの著述をちょっと押さえているんですね。

で話はトインビーと小松左京さんの比較という事にもしたかったのですが、うーん、同じアカデミズムっぽいのでも、
両者を同じ俎上に乗せるのは無理があるかなぁ。(トインビーは完全アカデミズム肌、学究一筋の人ですが)
やるなら同じ作家・小説家としての面でのウェルズとの比較とその影響だよなぁ。

ウェルズは『世界史概観』でも知られる通り、いろいろと?通俗教養書を書いた人でもあり…
小松左京さんなら、これに相当するのは、『はみだし生物学』、『空から堕ちてきた歴史』、それと、
集英社文庫の『小松左京のSFセミナー』などの類(たぐ)いかなぁ。

なんかまたゴミレスを書いているようで申し訳無いのですが。orz
トインビーの著作を発見したところで、小松左京さんと比較したくなって仕方が無くなってしまった。
これは、やっぱり無理な問題の立て方なのかしらん?
相手はギリシア語(ギリシア文字)でも詩を書ける人、片やイタリア文学専攻で英語なども読める人…。
う〜ん、主題から相当はずれているかしらん。
とにかく、『果しなき流れの果に』を読みこなすには、そこまで大袈裟な教養は必要ないとして…。
ちょっと小松左京さんを理解したいというのを、トインビーを通じて、知って思ってしまった。
本当にいつもスレの本題と違っているかも知れない事を書いてすみません。
761名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/12(水) 05:44:59
小松左京全集・完全版

 読みこなさなきゃならねぇ、と思ってしまった…。
 いまは時間が無いかも知れないけど、トインビーに負けているヒマはねぇずら。(ありゃりゃ)
 でもねぇ、本当に文献読みこなす力が無いのよねぇ。
 仕方ないか、今からでもとにかく量こなして、「読める」っつーのを、実現していくしかないか?

 まだ小松左京年表を暗記できていません。(ええと、インターネット上で手に入る、スタジオ・イオかのあれですね)
 『果しなき流れの果に』なども、できれば暗記・暗唱するべきなんだろうな。

 ここでふと、「赤毛のアン」でアンが詩を暗唱朗読するシーンだっけ、を思い出してしまった…。
 アン、おまえさんは偉い。
 僕は九九(ピタゴラスの表)さぇも暗記・暗唱できずにいるゾ。(本当の話。本当に恥ずかしい。orz)

 小松左京研究を本当にやりたいのなら、全集、もしくは問題の文献を暗唱・暗記できるくらいの力が必要になるのかなぁ。
 答えは、たぶん「そう」だよね? (当たり前だよね?)

 えーい、学問は結局暗記(脳内情報処理)ができる事を意味するのか?
 それは案外、でもなく、「当たり前」のことだよな。(タメイキ)

 文系の学問、そして例外無く理系の学問も、それはおんなじ事だよね。?
 アインシュタインじゃないけれども、脳内学問、シミュレーション、思考実験が可能な事が、すべての学問の基礎だよね?
 ね?
762名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/12(水) 06:15:25
文学を科学する

 文学をサイエンスする、←っていうのが、小松左京さんのひとつの夢、また課題でもあったらしいのですが…。
 それが 『小松左京のSFセミナー』 ←で 「一般文学論・序説」 (SFは文学の原形質だ!、だっけ?) に僕が
 こだわる理由。
 なんとかこの夢をかなぇてあげたい…、っていうのが、不肖の1読者の気持ちなんです。
 なんか平賀源内 (「天下御免」) のあとを追ってその夢をかなぇてあげたい…、とテレビドラマなんぞ見ながら、
 思ってしまうようなもんかなぁ。

 私は小松左京さんの薫陶をそんなに受けてませんから、あんまり申す事はできないんですけれども、
 人生で一番尊敬する人物が、小松左京さんでした。
 でそういう人生モデル形成があったものですから、平賀源内やレオナルド・ダ・ヴィンチや司馬遼太郎の小説、
 『花神』の大村益次郎やら、と同じように、そのあとの「やり残した事跡」というのを追ってあげたい、という気持ち
 は実際あるんですね。
 そのひとつは、文学を科学する、“一般文学論”(仮称) の実現、ってやつです。
 ほかにも大幅にたくさんのことがあるのでしょうが、たったひとつだけ、と言われれば、自分はこれをやりたい。
 というかデキナイ、できる実力も無いので、他の方に是非やっていただきたい、と思うわけです。

 しゃぁないから、非力でも自分でやる、しか無いのでしょうが。
 小松左京式、文学を科学する、「一般文学論」は、「一般文学論・序説」にしろ、「一般文学論・本論」←にしろ、
 いったいどのような手のつけ方をしたらいいものか、私にはまったくわからない。

 たまたま、最近になって、卒業間際になって、「日本語の歴史」とか「近代日本の文学」とかを大学で科目を
 取る機会があって、少しこんなもんかなぁ、という気はするような気がしてはいる、機会はあるのですが。
 「科学」も「文学」もまだ理解が無いからなぁ。(私の属しているのは教養学部)

 しかし梅棹忠夫氏だっけ、のように、京都大学で魚の動き(集団分布)を数学解析する事をやる事から始めながら、
 文明論にまで行ってしまう、というようなやり方もアリではあるのかな。
 吉川弘之先生の、砥石研究から「一般設計学」へまで行ってしまう手もなぁ…。
763名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/14(金) 03:42:49
小松左京の人格の理解。

 そろそろ“研究方針”(羅針盤) というのを決めなくてはならないだろうから、そのひとつというのは、
 「小松左京さんの人格(パーソナリティ)の理解」、という事に置いてもよいかも痴れない。


 心理学的な研究としても、日本で小松左京氏が出現したのも、ただ一回限りの出来事だから、
 それは、小松左京さんに関する文献にしても一回だったかは誰かが言った事だったわけで
 (梅棹忠夫先生だったかしら?)、心理学的研究 (人格心理学?その他) というのは、やっといた
 方がいいような気もする。

 文化人類学的研究としての小松左京さんの(社会的?)役割ていうやつは、一体どういうもので
 あったのか、というのは、また考えてみなければならない。
 心理学も文化人類学も現代の研究を成す広大な分野であるから、なんか役に立つと思われる。

 とにかく、知と活動の巨人としての小松左京の存在をどう理解するか、を決めないといけない。
 小松左京のこころ、人格性をどう理解していくか。解き明かすか。それは大切なような事のように
 思われる。


 やっぱり中心のひとつには 「日本沈没」 流行現象、も入れなくてはならないのだろうが、
 えーと、氏と会話をこなさないといけないかな。(当たり前の事ですら。) 直接ご本人に
 問い合わせないといけない事は多いはずで…。私はなんて手落ちな事をしているんだろ。

 ともかく、小松左京論というのは、どうやって出来上がっていくんだろ。それには、独自の
 方針づくりが欠かせない。独自の視点は、独自の提供ができるはずであり、その可能性を
 押し広げてくれるはずだ。それは今まで足りなかったものを、満たしてくれる可能性を
 取り入れる事になる。
 もちろん 「的外れ」 はいけないことなんだろうけど。(冷や汗になり)

 きっちりと、「自分の知りたいこと」 をメモ箇条書きにしておいて、それを一種の公準とし、
 引いて定理を見つけ、実現していく事は悪いこと、バッド・アイディアでは無いのではあるまいか?
764名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/14(金) 04:17:32
SFの理解。

 あははは、小松左京理解というと、やっぱりこれの理解が欠かせない。
 また現在ではわからないけど、「SFとは一体なんであるか?」←という事の理解、追求に於いては、
 日本SF界は最少でも 座礁した問題・課題 になっていたような気がする。
 これは現在でも違っているのだろうか?
 これの解決に失敗したか、あまりにも多くの意見でそのそれぞれが要件として容れられた事が、
 日本SFの発展を阻害したりする壁となったり、また逆に潜在的にはかつての 内容の多様性 を
 受け入れる事ができた事のような気がする。

 欧米ではこのこと、問題、課題は 「解決」 を見てきたのだろうか? それと分野(ジャンル。SF)の
 存続や、さらなる発展の可能性は、関係があるであろうか?
 これは知りたい事であり、調べておきたいこと。 (関係は“無い”←かも知れない?)
 とりあえずその 「SFとはなにか?」 については煮詰まらずに分野・ジャンルの存続が行われ許容
 されて来たのが欧米SFであり、日本SFについてはこの問題につまづき過ぎたりしたのかも知れない。

 これはことの許容性の大きさを考えると、(例えばSFはメディアである、といった考え方があったり)、
 ユークリッドの第五公準みたいなものだったのかも知れない。
 つまりは、じつは SF とはどんなものでも受け入れられるものであり、ユークリッド幾何だけではなく、
 ほかに2種の非ユークリッド幾何が見つかったように、多数の公準論理の可能性が多様性として
 保障されているものであり、その事を、解決として無駄に力を使ったり、というか底無しのそれぞれの
 作家や評論、研究家の努力をうわばみのように受け入れられた 「現象」 の根本原因・性質であった
 のかも知れない。

 そう考えると、SFとはなにか といった問題・課題は、底なし沼 だったんだなー、と改めて思う。
 大きな可能性でもあり、危険地帯でもあったのだ。
 そこを大きく解決ができなかったところに、日本SFの失敗というか、成長不全が起きたのではないか?

 この問題 避けてもいい。それぞれはそれぞれのSFの実現を遂げてもいい。(それは作家冥利である)
 やっぱり日本人は生真面目すぎたのかも知れない。
765名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/14(金) 04:41:18
それでも。

 SFとはいったいなんであるか、←といった問題には、一応各個人で「SF観」という形で応えて置かなくては
 ならないもののように思えるのよね。
 てことは、自分は自分なりに、自分のSF観を提出せねばならないという事になるわけで──。
 顕在的に表明する事は必要では無くても、潜在的にはそれを確実に確実な形で持っている事が必要に
 なってくる、という事になる。

 どうなんかしらん。それと小松左京研究をやる上で、枠組みを作るうえで関係は有るかしらん。
 ひととおり適切な言葉をならべられたりすると、研究ははかどり易くなるのではないかしらん。
 では自分にとってSFとは…センス・オヴ・ワンダーとか 「与えられた言葉」では無くて物語をしなければ
 ならないのだとしたら…。
 SFから受けた感銘の初心、といったところだろうか。
 それは広がりということに尽きるのかも知れない。「SFは絵だねぇ」という言葉も与えられた言葉だし。
 与えられた言葉では無しに、自分の内部から汲み出せる言葉としては、SFとは広がりである、と言う
 ことができるかも知れない。
 どんな広がりか?それはイメージの広がりである。だから、ファンタジーを一部取り込む事にもなる。
 それが原因であるかとも思える。
 ただし小松左京にはトールキン系の影響を受けたファンタジーの傾向は無い。が純粋ファンタジーの
 分野、例えば「不思議の国のアリス」とか非トールキン、プレトールキン(トールキン前)、パラトールキン
 (ええと言葉間違ってるかなぁ、トールキンと並行してきたファンタジーの分野)な“ファンタジー要素”は
 入っているかも知れない。

 ん?小松さんでファンタジーの傾向が多いって作品は何があるんだっけ?「愛の空間」か?(およよ)
 小松先生はあんまりハイ・ファンタジーな空間はお作りにならないみたいだなぁ。??

 ともかく、自分の内部に独特のSF観を具体的に持っている事は、読者性にしても作家性にしても、至極
 大切なことなのかも知れない。
766名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/14(金) 05:04:39
なんで「SFは音楽だねぇ」←とかいった言葉が出なかったんだろ?

 そしたら日本のSFは音楽とか、彫刻とか、建築とか美学・美論とか演劇とか映画とかテレビとかラジオとか、
 んーと、数え切れないほどのほかの発展の「チャンス」をものにする事ができたかも知れないのに。
 「SFは絵だねぇ」はある特定の人の発言であるのであって、もっとしたら逆に、別に「SFは音楽だねぇ」、
 「SFは演劇だねぇ」等の発言等がどんどん出てきても良かったのでは、本質あるのではあるまいか?

 てゆーと、ちと「反省」の気持ちが出て気もしないでも無いな。
 SFは絵であってもいいが、また他のものでもあっても良かったものでもあったのだ。
 だから、例えば「SFは音楽でもあるねぇ」←と言う事で、“音楽系の人”もSFにもっとどんどん取り入れていく事が
 できたかも知れないのだ。これは、演劇人を巻き込めなかったり、SFの最大の失敗のひとつであるかも知れない。

 てまー、「SFはお茶だねぇ」←とか、言い方はいろいろあるかとは思いますが。

 でも。考えてみると、日本SFの第一世代と言われる人で、例えば筒井康隆さんとか小松左京さんとかが、漫画家に
 なる事にあこがれていて、現実に実際にマンガを描いているという事実はよく知られていても、ふと、このお二人に
 限っても、実は音楽にも手を染めていたり、小松左京さんなら、ヴァイオリンをやっていた文化・教養程度の高い人
 だったって事は、つい「忘れがち」になるんだよなあ。
 SFは別に視覚等にかたよるものではないのかも知れない。し。マルチメディアで、総合的なものである、という考え方
 は生まれても良かったのかも知れない。
 それを小松左京さんは集英社文庫版(1980年頃)の『小松左京のSFセミナー』でSFのジャンルについて今後の注目
 として演劇などにおいても関心を持っていらっしゃられて実現されているわけだし。
 つい最近の『小松左京自伝』とかで、小松さん自身が文芸だけではなく「演劇」もなされていた、放送もやっていたという
 人だという事をつい知らなかった事もあるんだよなぁ。

 SFは**である、はまだまだ何か沢山あってもいいよね?
767名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/14(金) 05:17:42
もう一回日本SFの全体像を。

 歴史的にも、取り描かないといけないなぁ。
 これは巨大なキャンバスで、実現しないといけない事は多いはずだ。
 例えばシンセサイザーの冨田勲さんとの関係とか。
 オカモト・タロー、も、大阪万博とかいった事でSFとクロスワードしているかも知れないんだな。
 この見取り図を描くのは、容易ではないな。そういう著作・研究も無いし。
 とか言って、有ったらはずかしいやら、いやむしろありがたいやらなんだけど…。

 日本でも日本SF百科事典(百科図鑑)みたいなもんが日本SFの文化程度として発表されたら、
 出版されたら、そういうSF界人脈の広がりみたいなもんは自然と整理されて表現され定着されて
 いくのかも知れないな…。
768名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/15(土) 06:10:21
諳(そら)んじる

 私ゃ、ものの本を一回くらいしか読まない。悪ーいl癖がある。
 勉強をするにも、暗譜・暗唱をするほどには、教科書や参考文献などを一回しか読まないか、斜め読みする
 程度の、軽い扱いしか出来なかった気配が毛頭にある。
 勉強が出来ていたら、教科書は丸暗記した方がいい。例証・例題もそうだし、勉強は基礎としてそういう事になる。
 反省材料になる。

 血肉材料として、情報も存在する。何も検索にかけてばかりで、辞書や辞典類、テキスト類を扱うのではなく、
 実際にそれらは暗記か、触れられて暗憶にされてもいい。
 勉強とはそういう事だったんだよなぁ、…と改めて思う。
 何も松岡正剛さんの、編集工学研究所の 『情報の歴史』を記憶しろとは言わないが…しかし、一方ではそういう
 姿勢もあってもよかったはずだ。難しくても、「取り組めば」いい。

 やるしかない事はやるしか無い事なのであって、ものごとを学究するのに記憶は自然と必要になる。
 というか、「やっていれば」自然と記憶は残っていってしまっているはずだ。
 困りものなのは、なにか「考え」はあっても、それを実行せずに「立ち止まって」いる事のほうだ。
 これでは、何か真実に近づけるわけも、発見も無いわけだよねぇ。(ため息)

 テクスチャー(編み物)を読み解くためには、それなりの努力が要る。
 単純に物語を総なめするのではなく、より深い読みに達するには、それなりの熟練と練達を必要とする。
 現象より、より高次のものを発見するには、山の頂きに(頂点に)達するしかない。
 それには、道歩いて、読むしかないかぁ。
 単純な事ですけど、できてなかったです。
769名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/15(土) 06:22:01
で、

 現在 ブックオフで\105円で買った『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)にはまり込んでいるんですけど、
 小松左京さんの『果しなき流れの果に』をかばんの中に必携で持ち歩くことに致しました。
 大学の勉強のほうで中間考査(中間試験・通信指導)もこなす事が難しいけれども、暇なときに書き込み
 入れながら暗記・記憶していけるように頑張ってみようかと思っています。
 物語のあらすじを、まだすらすらと言えないもんねぇ、まだ理解が未然のこと、明白な事だもんねぇ。

 どじで間抜けなカメとは、私のこと。(スチュワーデス物語かぃ、私は。)
 でも一生懸命か一所懸命か、やってみるしか無いのでございましょう。(これは 大奥 的ノリだよな。)
770名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/15(土) 06:25:04
では、

 ここで書いているヒマがあったら研究せぃ、と言われそうなので、
 現実の時間に立ち戻って、読み直してみましょうか。
 なんか読んでくれている人あったら?、ごめんなさいです。
 『果しなき流れの果に』、暗譜します。
771名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 02:01:20
人間の原因 (人間の探求)

 きょう いまになって、ようやくこんな疑問を持つことができるようになった。
 例えば 「人間のかたち」 について、どうしてこんな形をしているのかについて、非常に有機的な
 考え方と機能的な考え方を投入してみると。

 ほね(骨)というのは、生物にとってカルシウムの貯蔵場所である。
 それはまた、骨格という生物が筋肉組織と結びついて、それと運動をする、というよりは生物身体を
 具体的に支えるために、このようなデザインとなっている。重力と強い関係があり、それには外骨格系
 の考え方(仕組み)と、内骨格系の考え方(しくみ)のデザインなどがある。
 生物にとって大切なカルシウム貯蔵庫としての一種のデータベース(物質ベース)が骨格についてへ
 変化を表す。
 他の機能系で内蔵、体表面皮膚(被覆)などについてもいろいろ考えられ…。
 生物学自然史 (進化史) が事には考察とその説明に役に立つ・・・。

 人間というものの「存在」と、その「現象」の原因について、基礎だけれども、考えてみる必要に迫られている。
 生物的だったり、理科的だったりするだけでなく、文化的に於いても考えてみてる。

 そういう人間的探求、人間の(生命にだったり)原因について、基礎的な考えから入ってみると、
 組み立ててみると、小松左京さんの探求、研究については、よりいっそう深みを増した探求、研究が
 できるんじゃないかと思い始めている。(きょうから現在)

 非常に普遍的で広大な問題だけれども、この基礎は。でも共通して基盤として成り立っている文芸、文学と
 して、あるいは作家業という現象について問いただす事ができるような気がする。
 ぼんやり考えながら、やっとたどり着いた感じ。

 人間を生物的にもやっと捉えられるようになった感じで(今までの自分ならそのようには捉えられ無かった)、
 これからはもっと人間の原因、人間の探求について考えていこうと思う。

 さりげなく香原ユキナリ先生の、『人類生物学入門』 (中公新書) を想い出していたりなんかして。
 「人間(の)理解」が、もっと自分の中で進みますように。
772名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 02:23:43
人文系、文芸(文学)、芸術。

 人間がどうしてこんな形をしているのか、そのひとつには、ナメクジウオ祖先の存在と、その軸索(カルシウム)
 の形成、それが脊椎の形成となって分節し、いわゆる脊椎動物の原型となる。
 さらには、人類等で姿勢が直立化した結果、骨格はほぼこのような、人間の形へと進化(変化)する。

 なんかNHK特集・スペシャルのさまざまな番組を復習している感じ。
 例えばタモリのとかから始まった「人体」のシリーズとか、「地球大紀行」とか「生命」だっけ、といったような
 番組名がずらずらならぶ。こんどの「病の起源」等についてもそうだけど。

 そういった自然史(ナチュラル・ヒストリー)基礎に対して、文化現象の基礎として、いったい人間の文芸、文学
 活動としての文化の基礎、あるいは芸術の基礎というのは、いったいどのように取り組めばいいのか?
 という事はちっと考えてしまう。

 う〜ん、自然学的基礎、教養、科学的基礎、教養、といったものを考えながら、文化的基礎、教養たるものを
 生かして、文明と文学について探求していくのは、決して悪いことじゃないような気がするんだな。
 いずれ、マンガ、アニメ、ゲームといったものにまで探求と言論の手を広げるけど、(漫画については小松さん
 御自身が手をお染めになさっている分野でもあるし)、そこまで行かずとも、また社会科学系としても、
 文化現象としての文学を問いただす事はとても大切な気がする。

 折々の手順を組み立てなければならなくなり、こういうアプローチもいいのではないか。
 それは自分なりの物事に対してのアプローチ(の基礎)を提供する事となり、これから「手段」(「算段」)として、
 役に立っていくような気がする。

 ここでどういうわけか 「海雪」を歌いたくなりましたとさ。
773名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 02:49:35
人類の探求。

 人類(人間)は社会的動物である、というのは、アリストテレス以来の考え方だけれども。
 人類は、いわゆる「社会」を形作ることによって、やがて、文化と文明を育んでくる事になった。

 その人類社会の理解と形成について、自然史・自然科学的理解(人体についての)は、とても役に立つかも知れない。
 生物としての人間の、このかたちの原因、理解について考えていくと、進化論や胎児の形成についても考えを
 及ぼさないといけなくなる。
 それ(ら)は、人体の一部品(有機的な)というとともに、文芸・文学を(文明)社会においてのどのような機能を
 果たしているかについての、考察をもたらしてくれるのではないか?

 成田美名子さんの『花よりも花の如く』(マンガ、第6巻)が出たけれども、これを読んでいても、文芸・文学が
 人類社会に及ぼしている影響と機能について考えを及ぼさざるを得なくなる。
 例えば古代ギリシャのホメロス叙事詩、イーリアスとオデュッセイアとか。というかギリシャ神話体系全般。
 「ハチクロ」とかもそうなんだろうけど…、文明社会(社会体系のひとつのまとまった形。全体社会・総合社会)
 に於いて、いったい文芸、ストーリア、ロマンスといったものは、一体どのような形の機能を持っているのか。

 それは人を慰撫し、またあるいは鼓舞し、また人のイメージを高め、伝達し、昇華・鑑賞し、とか、さまざまな
 心理的、精神的サイドの問題を浮かび上がらせてくる。
 いったいこのように大量に生産されてくるようになった物語、フィクション、小説やマンガといった「ドラマ」の
 類いは、どのように理解する、されるべきなものなのか。
 これへの理解が、またつとに足りない。
 「人類」についての理解が進まないといけない。そのためには、SF、サイエンス・フィクションの役立つ範囲は
 まだまだ広いと思われるのだけれども…。

 小松左京さんのやり残した仕事、というのも、追求していかねばならないもののひとつ。
 もし現在でも活発に活動が出来ている事なら、いったいどのような事に手をお付けになさったのか。
 人類社会への理解の様式が、自分の考えを決定付けるとは、よくよく考えておかねばならない考え。
774名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 03:06:55
サイエンス・フィクションとは何か?

 ↑についても、自分なりに明解な解釈、解答を持つこともとても大切なことのひとつ。
 サイエンス・フィクションが、人類にとってイメージを広げるための手段のひとつである事は、確かな事である
 ようであると思う。
 では、サイエンス・フィクションは、果たして自覚的にその事を率先してその役割を果たすことが出来る役割を
 行動して、率先することが出来てきたか?
 これには、疑問はともなうのかも知れない。
 サイエンス・フィクション(SF)の分野で、そのこと、使命・ミッションを、ほぼ自覚的に分業的にもそれが実績と
 して成されて来たことはなかなか無かったことなのではあるまいか?
 作家業の集まりとして、その存在はあったとしても…。
 例えば勉強会などはあったのであろうか?(えーと、よう知らんことに足を突っ込んでいるな。)

 科学小説界がまず自覚的に行動すべきは、まず科学的知識・意見・識見の啓蒙である、というのは古典的
 過ぎるか。
 どこにいったい科学小説のブレイクスルー、があるんだろう。

 例の、アジモフのSF発展3段階説、というやつを、古典的過ぎるながら復習をしてみたい。
 となると、
  1.冒険的小説時代(スペースオペラ)
  2.自然科学的SF
  3.社会科学的SF …
 のあとで、もし「4.」とそれ以降があるとしたら、いったいアジモフはどのような回答や記述を寄せたであろうか…
 それは、例えば、4.文化科学的SF、といったものも入るのではなかろうか?

 「演劇」を科学する、というのでもいい。
 アジモフの考え方の果てには、このあとに無限のリストアップが続く、という予感も感じられる。
 逆にゼロには、「0.ランポー、ヴェルヌ、ウェルズ時代」←みたいな事も言えるかも知れないし。
 いずれにしてもサイエンス・フィクションとは一体何か?、制作姿勢としても理解姿勢としても、考えて置きたいねぇ。
 必要だろうと思う。
775名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 03:26:19
パラレルの考え。

 SFが1.冒険小説時代、その他の時代にパラレルに他のジャンルがどうなっていたか、を見ていくのも大切な事と思われ。
 「映画」なんかのジャンルだと、一体どうなっていたんかしらん。
 映画には、割と古典的な無声映画のスタイルの時代で、スラプスティックは別として(アクション的)、SF的な要素は
 出てくるのよね。
 演劇なんかはどうだったんだろう…。時代背景として、どんな演劇が流行ったのかなぁ。
 パラレル(平行・並行)的に、どんな社会事象が、てか文化事象があったのかは、考えておかねばならないのよね。
 他ジャンルの傾向と比較発展して、SFを考えてみるというのは、巨大な文化現象としてのSFのその中での位置づけ、
 という物事を、割と今まで達成されていなかった?、探求の方針を探るについてのヒントになるのでは無いかしらん?
 こういう広範な事情に関するSFの研究・提出論文というのは出されていなかったような気がする。
 不明ならごめんなさいですが、SFをその内部からではなく、文化史の面から広大なまでに捉えなおすことは出来ない
 ものなのかしらん。

 パラレルサイドの考えを、SFシリアルサイドの考えに、併せて持っている事は大切な事、武器にもなれると思う。
 もしそんな実力者が居れば、のことだけれども。
 文化論とか社会論とか、といったことはもちろん大切なことなのです。もちろん自然科学とそのエンジニアリング、
 自然科学技術等の発展についての歴史的背景、知識というのも必要なことではあるのだろうけど。
 このあたりは科学史家、サイエンスライターの仕事なのかしらん。

 アジモフの3段階発展説は、そのままより多段階発展説に分節して延長して考える事のできるもんだよなぁ。
 ほかにテレビドラマや映画やアニメ、マンガといった諸メディアのことの発展についても考えないといけない要素
 も持っている。
 小松さんの個人史についても、文集寄稿から漫画を描いた時代、同人誌を立ち上げた時代、ラジオ放送時代、
 など様々な要素が浮かび上がってくる。
 なんだかなぁ、大変だなぁ。
776名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 03:57:33
暗譜の進行度。

 あれから、(レス770番)以来、少し努力しているのだけど、あはは、冒頭の一行分も出てこないや。
 まだ。『果しなき流れの果に』。

 あれから、大学の一部残っていたテキストや、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、『歴史の研究』第一巻・序論、
 それに妙にリアリズムなものも載っている『西洋名画の読み方』1,2など、様々な写真、文献に目が触る
 程度のことをやっているけれど、どれも暗記するにはなかなか大切な、いや大変なものがあるよね。

 なんかもっと正確に、効率的に暗記する方法は無いもんかーい、と思うのだけれども。
 ちょくちょくとやっていくうちに、そのうちにコツをつかむ事がありましょう。

 この世には、旧約・新約聖書を暗記したり、広辞苑や百科事典を読破しちゃったりする人たちも居るのだ
 そうだなぁ。文化教養として、これは大切なことのようだなぁ。いや何も広辞苑を読破せいという事じゃなくて、
 「自分の基礎となる物事、教養について暗誦・暗記をしておく」というのは、とても大切な事のように思える。

 というのは、自分にはなーんにも、身に付いていないからだね。(汗)
 よく、他の人が明白な、その人の基礎となる事について細かな事・詳細な事についてもちゃんと記憶に
 残っていたり、する事をおうかがい、体験するたびに、自分は、う〜ん、と考えてしまう。
 みんな、自分を見失っていない。
 その見失いを防ぐためにも、自分なりの記憶は大切なものであるように思う。
 取り組むためにも、大切なものである事のように思う。自分が今、大切に取り組んでいる事についても。
 
777名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 09:10:31
ああぁ

 だんだん自分の表現場所を持ちたくなってきた。
 不慣れながら、本当にブログでもやろうかしらん。
 関心あること多過ぎるのよねー。とここで愚痴っても仕方ないか。(ふむ)
 でもそのくらい好奇心旺盛でなけりゃ、小松左京さんに追い着きはしないとしても、
 触れ合うことは出来ないんじゃないんかしらん。新鮮な好奇心をたくさん持ち合わせる
 事は、小松さんの生き方、姿勢に繋がって来る事なんじゃないかしらん。

 豊富に、物事に関心を持ち続ける事は、継続として大切な事なのだけれど、
 豊かな事には、記憶が必要で大切になる。
 てまぁ、なんだか中卒程度でも(物理とか)、高卒程度でも(様々な分野に関してとか)、
 いま通信制の高等学校に行ってる子の通信指導で、保健体育とか見てると、本当に、
 オレ忘れているなぁ、これレベル(水準)の高い教養をやっているなぁ、オレもう忘れてるわ、
 と再度勉強し直さないといけないんじゃないか、という気分にさせられる。
 作家・小松左京の遺産とは、あの旺盛な好奇心とそれらをまとめ上げる力なんじゃないか、
 と思えてくる。
 私もそういう力は持ちたいなぁ。能力は持ちたいと思う。
 また根本的に勉強し直さないといけない。これというのも、物事をごく表面的にしか勉強しない
 癖が今まで有った所為(せい)だ。

 中途半端な知識を持って、中途半端な見識、それで物事考えている、かも知れない。
 そう思うと危険だなぁ。
 とにかく、これも危険な事かも知れないけど、勉強につぐ勉強だなぁ。
 (自己)検証は、欠かせない。
778名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 09:33:06
一般文学論・本論のイメージ。

 どんな構成を採ればいいのか。
 考える事、多々有り。
 文学の歴史というのは、起源論から必ずはめ、踏まなければならないと思うので。
 歴史と、基礎論としての言語論をやっておかなくてはなるまいか。
 文章というべきなのか、そもそも活字時代や(筆記)文字時代だけではなく、
 口承文学時代も踏まえて、文学というのをやっていかなければならない。
 文学というのに、どういうイメージを持つべきなのか。
 「文学」というのは、定義不能だという話もあるけれど、ここで扱う「文学」とは一体
 どのようなものにすべきなのか。
 実際作品論、具体論に至ると、実際の作品をたくさん読み込んでおく、深く読んで
 おくという必要に迫られるので、これが一番の大変な作業になる。
 ジョイスとかプルーストとかになると、一体どうなるんだろう。
 一般教養だけじゃなく、何か専攻を持った方がいいだろうな。(どの作家さんに就く
 べきなんだろう。(僕の場合は、小松左京さんについて専攻してもいいだろうか。)
 (なんかメタ小松左京みたいな話になっちまうなぁ、一般文学論・本論が。)

 文学の本道、王道ってなんだろう、と思っていると。
 あまりにも素人なので、よくわかんないという事になる。
 いまたまたま「日本の近代文学」をやっているのだけど、そう言えば一応形ばかり
 ではあるが、イギリス、フランス、ドイツの文学(史)についてやった事があるか。
 (すっかり忘れてたわ。)
 でも主要なもの、例えばシェイクスピアとかゲーテとかフランス文学とかロシア文学
 とか、セルバンテスとかはやっておかなきゃ(読まなきゃ)いけないかなぁ。
 世界文学全集くらいはらくらくこなしておく程度の事は普通にやっておかなきゃ駄目か。

 あは、大量労働だわ。いつになるかわからない。
 「文学とは一体何か」という事と、「文学の科学」に関する事だから。
 やるしかないか。スケッチ(素描)が欲しいなぁ。
 文学の明治の初心(「小説真髄」以前)に関わる事でもあるなぁ。
779名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 09:53:56
サンプル。

 一般文学論・本論のための、つまりは文学全般を代表するための、一般基礎研究に
 モデルとして成り得る代表的作品、というのはあるだろうか。
 逆に、あるいは「一般」が成り立つとしたら、それは「小松左京にも含まれている」はず
 なので、特殊・小松左京論(特殊文学論・序説&本論)をやることで、そこを拡大や拡張
 をして、→「一般文学論」へと漸次あるいは急挙に近付いて行く、という方針も成り立つ
 だろうか??

 1.小松左京研究 → 2.特殊文学論 → 3.一般文学論

 ↑といった手続きも、これからやる事を考えると、効率的には考えられるものなのかも知れない。
 小松左京が文学ではない、あるいは特殊な文学なのである、といった場合にはこれは成り立たない。

 この方針から成り立つと、小松文学の特殊性を超えて“一般性を獲得する”という事が必要
 に成って来る、という事があるかも知れない。
 とすると、小松文学でもっとも一般性が高いと思われるのは、一時日本最高のベストセラーに
 なった『日本沈没』が、未完成ながら向いている研究素材と言える・言い得るのかも知れない。
 『果しなき流れの果に』は、その点で日本SFのローカルな名著・名作、と言えるのかも。

 暗記するなら、日本沈没 なのかなぁ。そして研究材料としても、ベストセラーの一般性としても、
 日本沈没 の方が 果しなき流れの果に よりも向いているのかも知れない。

 まぁ文学というのには、多々多様性がある。ベストセラー作家と言われる、デュマとかそういうもの、
 通俗小説、ポピュラー小説の分野だけでなく、ファインアートとしての芸術としての文学作品もある。
 それらを含め、一般性を文学内で獲得するためには、いやひょっとして文学外ででも一般性を
 獲得するためには、どうしたらいいんだろう。?

 文学を科学するとは、一般文学論序説ではなく「本論」とは何か、という事は、いま考えている最中なのです。
780名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 10:22:48
特殊文学論。

 うーん、突然こんな言葉が浮かび上がってきたので、素っ頓狂にびっくりしているんですけど。
 これは、やっぱりアインシュタインの特殊相対論と一般相対論から来ている言葉なのかなぁ。

 一般文学論が(もし)あるのだとしたら、もちろん特殊文学論もしくは独特文学論 みたいなものが
 あってもおかしくは無い訳だよね。
 特殊論、という事で一般のそれぞれの文学作品もしくはジャンル、時代等に対する研究を、一括
 して取り扱う事が出来るようになる。
 それらを一括して、一般に持ち込む事で、インスタントに一般文学論が出来上がる、という構図も
 無くはないが、一般というよりは「普遍」文学論という意味合いを持っているかも知れない事を思う
 と、そーんな事は簡単ではないなぁ、と思う。
 「文学の科学」を標榜している事を思うと、文学の科学って何?という基礎を打ち立てないとこの
 企望は無いわけだし。

 一般文学論は、単に今までの具体・特殊文学論を統合して→「概論」「総論」に持ち込むのではなく、
 それなりの、つまりそれ自身の基礎論を持たなくてはならない存在であろうと思う。

 小松さんの「一般文学論序説」相当の文章を思い出してみると(原本を自分は失っているので)、
 小松さんの考え方には「情報」という考え方がたぶん中心にあるであろうかという事に気が付く。
 (違っているかも知れないけど)
 情報論というのが、つまりは情報科学という事になると思うけど、他には諸心理学とか、認知科学、
 文化人類学・民族学 といったものは基礎として、それらを基礎として語らないといけない、という
 事があるのかも知れない。もちろん、他には哲学も大切になるだろう。
 でも情報の科学と言うには、デジタルの情報だけでなしに、「アナログの情報」も大切になるだろう。

 寺田寅彦にならえば、情報にも、固体・液体・気体、という相だけでなく、粉体といった相で考えないと
 いけない場合もあり、レオロジーというか、粘体、といった情報論もあるのかも知れない。
 情報科学を拡張する事が、そのまんま一般文学論に近づく事になるかも知れない。

 とにかく、あせらず続けること。
781名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 19:29:42
三重県立相可(おうか)高校 栄養調理科?

 いまTBS系の「夢の扉」だっけ、という番組で取り上げているんですけど。
 この教育はいいなぁ。即戦力の歴史家とか出来ないかしらん。(無理を言う ^^;)

 高等学校で一体何かになりたい、としたら、そのための教育をやってくれる。
 これは、ある意味ではベストでいいこと。
 私も、こんな学校があったら授業とクラブ活動を受けたいなぁ。
 かどうか知らんが。このくらいの密度の活動には、負けてられんなぁ。と思ふ。

 本格的なその事について学べるのはいいなぁ、と思う。
 その分野に関する、本格的なこと。

 自分のやりたい事でも、こんな風に自身を鍛え上げられないものかしらん。
 とふと思う。
782名無しは無慈悲な夜の女王:2008/11/16(日) 19:33:37
検索したら。↑

 「食物調理科」のまちがいでしたね。
 三重県立相可高校のは。
783名無しは無慈悲な夜の女王
文学のジャンル。

 ごく基礎的なこと…に立ち返って。文学、文学って言ってないで、いったいどんなジャンル
 があったんだっけ?と問い直してみると…。

 文学の使われ方、というのを見ると。追悼する挽歌とか、賛美する賛歌とかいろいろなものがあり。
 てなー。基礎的なことがわかっていなかったりする。orz

 ふつうには、小説、詩、戯曲?(シナリオ、脚本)、…といったものがたくさんあるだろうけど、
 また日本では、短歌、俳句、川柳、狂歌、みたいなものもあるし。
 詩形式では、海外から入ってきたものだけれど、ソネット(十四行詩)その他があり、
 小説では、形式にとらわれずに、様々なものがある。
 わーん、たくさんあるんで言いづらいよー。また基礎から勉強し直さなきゃ。
 何かいい教科書ないかしらん。これは概論的、基礎論的知識ですな。(冷や汗)

 言語を使ったもの一切が、文学なんだとすると、これは相当に幅広いものになる。
 文章の問題、文体の問題、といった、もののかたちのことにまで触れなければならなくなる。
 尊敬語、謙譲語、といった敬語遣いのことも入ってくるし、国語学/日本語学にまで手を伸ばさない
 といけなくなる。国語学概論の知識が是非とも必要になってくる。
 国語史、言語史の知識も必要になってくる。
 出版物の多くのものが、文学のジャンルに入ってくる事になる。ほぼ全体と言っていい。

 うーん。結局文学ってよくわからないや。高校でも使ってる国語便覧にでも立ち戻って、また
 もう一回考え直してみようかな。
 その程度じゃ、駄目だろうなぁ。orz

 歴史書とか、美術書とか、の記述や解説といったものにまで目を通すと…文学っていうのには、
 狭い意味だけではなく、広く、文章を扱う言語技術、言語テクニック(表現の方法論、具体性)
 ってやつにも入ってくるものもある。
 とにかく、自分を鍛えなきゃ。