この数年の間に僕がとくに面白かったSFはYU-NOである。PC-98がMS-DOSベースでやっていた頃のゲームなので
けっこう古いとはいえ、95、96年くらいか、そんなに古くもないとも言える。パソコンの変化の方が早すぎる
のである。これをやっていたときはけっこう面白かったとしうかかなり面白かったし、感心させられ、素直に
面白いと言うことが出来る。このゲームは18禁の、いわゆるアダルトゲームである。後にセガ・サターンにも
移植されたらしいが(システム、ストーリーともに秀逸だから結構なことだ)、家庭機ではたぶんいい部分が
ぼかしまくられていはずだからやりたいとは思わないが、MS-DOS版のものならまた苦労してもいいと思うので
ある。当然ながらYU-NOはその年の日本SF大賞などにはかすりもしなかったが、僕はこの年の最良の収穫であった
ろうと思う次第である。18禁ゲームなどをやっているというと、高尚ならざる趣味ということで、まあ勝手に
いろいろ思われたりするわけだが、面白いからやっていたのである。先にブッ叩いて蹴りを入れればそれでいい、
というようなゲームよりは遥かに面白いと思った。確かにソフトハウスによってはエロなCGさえ見せておけば
それでよし、というような志の低い、ユーザーを舐めたようなゲームも腐るほどある。いただけない。生き残る
にはアダルトというだけではダメなのである。とくにPC-98末期は販売されるゲームの半数以上がアダルトであった
というような無茶苦茶な戦国期であったのである。そこで淘汰されずに生き残ったソフトハウスには、エロ以外
の強い武器が備わって、磨かれていたわけだ。当たり前の話だがゲームとしての面白さというものである。
紙芝居のようにエロCGを見せるだけのところは次々に潰れていった。当然だ。志があり、ポリシーがあり、HなCG
を載せる土台としてのゲームをきちんと考えていたところだけが生き残った。それどころかコンシューマー機にも
多大な影響を与えることすらあった。今、売れている家庭用ゲーム筋で、18禁著名ソフトからさまざまにパクって
きたものはかなり多いのである。ともかくエルフというソフトハウスは18禁ソフトメーカー中、常にトップクラス、
三本の指に入るくらい優良だったのであり、僕のひいき筋なのだ。ただ優良すぎるとまた(優良であるということ
はすなわちより広く売れ、世間に知られてしまうという意味となる)、これが足かせとなったりして、思い切った
ゲームを作れなくなったりしがちであるが、エルフには世間体を無視して自主規制などせずに頑張っていただきた
いものである。パソコン18禁ゲームには家庭用ゲーム機などが決して持ち得ない大きな可能性があるのであるから。
とにかく何でもありが好きなのだ。ただしゲームの命はシステム。革新的なシステム。それがあれば基本的になん
でも受け入れる用意がある。が、革新的システムなんて滅多に作れるものでもないことは確かであり、毎回新シス
テムを求められればソフトハウスも困るだろう。エルフにはいいシナリオスタッフがいるらしく、けっこう泣かせ
ます。オチも何もそこまでせずともいいのに、というくらいひねるのが好きな作品も多い。YU-NOのストーリーにも
引き継がれているのだがこれを無理と感じさせないのは「A.D.M.S」というシステムがあったればこそである。「オート・
ディベレージ・マッピング・システム」の略で「アダムスと読みます」とあった。このシステムは平行宇宙モノ
を描くための画期的なシステムであった。
SFでは平行宇宙、パラレルワールドの概念はかなり当たり前なのであるが、いざパラレルワールドの面白さというか
その秘密を堂々と書き切れたかとなると成功したSFはあまりないのが実状である。小説という形式では同時に交錯する
次元、時間空間の流れの多様性を表現するのは難しいのである。しかもそれはまた同時発生している無限の世界であり、
時に重なり合い、それぞれに意識が生きているのだとなると量子力学的にはいいのだろうが、文章にするのはおそろ
しく困難である。しかも面白くそれをせねばならないとなると、このあたりは小説の限界なのかも知れぬと思ったり
する。YU-NOはこの問題に挑戦している。堂々と。しかもかなり成功しているのである。パソコンゲームの可能性を
さまざまと見せられたのであった。「アダムス」は、何の工夫もしなかったらたんなるアドベンチャーゲームになって
しまうところを、画面上に敢えてルートを示すことにより、プレイヤーが通った道が分かるようになっている。クリア
の折りにはあみだくじのような複雑なルートが表示されることになる。このシステムで面白いのは、初めのうちは何も
分からず、物語の流れに連れて行かれていたものが、プレイヤーは徐々にこの世界、パラレルワールドの航海技術が
分かってきて、自分の意志で時空をよぎることが出来るようになることだ。たとえば、さっきのルートではあえなく
見殺しにしてしまった友人を、もうそのルートに至る秘密は解明されたのであるから、次にはその時必要であったアイ
テムや選択肢をもって、助けに行くことが出来るのである。ただしパラレルワールドの掟に従えば、友人救助に成功した
世界は決して友人を見殺しにしてしまった世界とは同じではない。幾多の危機、幾多の謎、幾多の不幸、幾多の幸福、
実に様々なある世界でのラストが存在することになるが、普通のアドベンチャーゲームであればそれで終わりであるところだ。
YU-NOはすべての平行宇宙の結末は有機的に連鎖しており、If、あそこでこうしていたらどうなったかが表示されているわけだが、
ほんの一筋隣のルートではまったく別だが、同じ登場人物とのまったく別のシチュエーションでの結末が存在している。
そしてプレイヤーはさらにそのルートを避けるべく時空を移って未知のシチュエーションに飛び込んでゆく。選択
の連続が人生なのだ、とはいうが、選択の有無、選択していなかったら今の自分はどうなっていたか、その複雑な
選択の順列組み合わせが「アダムス」のように一目瞭然となっていたならどうなのか。そして自分という人間が
選択する可能性のあった膨大な網の目とは、その個人の可能性をすべて表している生命の木となる。IfSFといっても
あそこで信長が死んでいなかったらとか、ミッドウェーで帝国海軍が勝っていたなら、とか、僕はあまり興味がない。
それよりも人間個人の潜在能力と可能性、誕生と終焉の間に存在する可能性のある全ルートを見ることが出来る
システムのほうにより興味がある。人生ゲームではないが、億万長者となるか、奴隷農場に行くか、は重ねられた
選択の結果なのであり、奴隷農場に落ちたプレイヤーに「アダムス(敢えて簡易の選択可能人生因果関係マップと
いうが)」を見せて、ここでこうしておれば、またこのルートに飛べば、ここで結婚していなかったら君は億万長者
になれていた、という事が出来るのだ。
ただし僕の意見では「アダムス」はやはり存在しないシステムである。だからSFであり何でもありなのだ。
大抵の人間の選択は性格に強く拘束される。無意識によるのであり、事故すらそれによる可能性すらあるのだが、
つまりは自業自得、「なるべくしてなった」というのがオチとなる。大抵の場合、人生は一時空に一つの選択しか
ないような機会しか見せてくれないからである。そして人生は二度ない。ただ選択の度にコイン投げ占いで生き方を
決めているというある意味で強い意志を持つ人には「アダムス」はあり得るかも知れない。で、YU-NOは、自在に航海し、
すべての可能なルートを体験し終えたところから、最後の隠れたルート、この作品の背骨たるルートへ抜けて、本題が
始まるという、プレイ時間六十時間オーバー必至の重厚ゲームである。この点には賛否両論あるだろう。ゲームを評価する
場合、操作性、シナリオやCG、音楽なども含めた上でのシステムごとの評価となる。一部を切り取ってあそこだけよかった
などということは基本的にあり得ない。全部を含めて一作品なのである。何故かと言えばシステムがそのゲームの世界観を
作るものだからである。そしてSFが平行宇宙を扱う場合、突き詰めるべきと思われる根本的問題がある。YU-NOはこれまた
見事につきつけていた。「世界の始まりと終わり」「時空の始源」というわけである。「アダムス」が平行宇宙とは何かを
ゲーム中に具体的に存分に描き出した上でのことであるから必然的説得力がある。主人公(プレイヤー)は愛する女と時空の
始まり、時が植物の根のように枝分かれする以前の場所にこの宇宙の全ての根源を求めて向かうのである。これは凄いことです。
最近のSFでこのような根本的問題に大上段から切り込んだものなどない。けっこうみみっちいものが多いのだ。僕だっていつか
やりたいが、何しろテーマが巨大すぎて腰が引けるところである。もうSFの真骨頂のようなテーマに敢えて真正面から取り組んだ
SF的哲学的な志の高さには脱帽するしかあるまい。誰か「原初の時空、時の始まり」について、ビックバン理論のような味気ない
解釈ではなく、非科学的で感動的なSFを書く心意気を見せてもらいたいものだ。「宇宙の果て」とか「時間と空間の彼方」とか、
子供の頃はこういう言葉を聞くとシビレたものだが、やはりたまにはSFはこういう根本的テーマに挑まねばならないだろう。
僕もいつかそのうちにやらんといけないな、です。