小泉純一郎が安倍の部屋を訪れて、
ある宣言をしたのは終戦記念日前日の朝である。
「安倍君、私は首相職における最後の任務をこれから
果たすつもりだ。君の了解をもらいたいのだが」
「どうなさるのです、小泉さん?」
半ば小泉の返答を予想しつつ、安倍は問うた。
小泉の口調にわざとらしさはなかった。
「終戦記念日、8月15日に靖国神社を参拝する」
安倍は大きなため息をついた。
「ご決心は変わりませんか、小泉さん。後のことは私に任せてもらえれば、
貴方はこれ以上マスコミに批判される事も無く、首相職を終えられますのに……」
5年間、自民党内外とマスコミによる批判と暗躍、陰謀と戦い、
それでも無事任期を全うしようとしている首相は、重々しく首を振って見せた。
「いや、むしろ今私が参拝したほうがいいのだよ。
今更マスコミ辺りから褒められたところで嬉しくもない。自由にさせてくれんものかね」
小泉の風貌に、歳月の刻印が押されていた。
頭髪には白い部分が目立ち、それを視認した安倍は、言葉を失った。
「それに、橋本氏が逝き、亀井や野中もいなくなった。せいせいした反面、寂しくもなったよ。
私は森前首相の不人気のおかげで、才能や実績以上の人気を得、改革を行う事が出来た。
ありがたい、と思っている」
淡々とした声に現在の境地が垣間見えた。
「いま私が参拝を強行すれば、外部からの批判は全て私の元に集まってくる。
アジア外交悪化の責任は全て小泉にある、という形で自己完結が出来るからな。
私が何を狙っているか、わかってもらえるだろうか」
小泉の心情を安倍はある程度理解しえたように思った。
自分の現在の支持率で、この人を止めるのは不可能なことも確かだった。
これまで日本のためにつくしてくれた事を感謝し、こころよく送り出すべきだ、と思った。
「どうぞ首相のなさりたいようになさってください。
お疲れ様でした。本当に、今までありがとうございました」
立ち去る小泉の後姿に、安倍はもう一度頭を下げた。
感情的で、大胆で、改革と目新しさを重んじ、礼儀や規則に重きを置かない人だった。
あれほど肩が薄かっただろうか。
直線に伸ばしていたはずの背中が、いつの間にか丸くなっていたのだろうか。
さまざまなことに気がついた安倍の背中は自然に下がったのだった。
安倍の部屋を出た小泉は、麻生外務大臣と行きあい、
終戦記念日に靖国参拝を行うことを、年少の同僚に告げた。
「私がいないほうが、君たちにとってはよかろう。
“アジア外交を悪化させた首相” という足かせが無くなって」
「否定はしませんよ。ですが、アジア外交における楽しみの半分は、
騒ぐ連中を黙らせる方法を考えることにあると思ってますのでね」
冗談以外の成分を声にこめて、麻生は右手を差し出した。
「世間はきっとあなたのことを悪く言いますよ。損な役まわりをなさるものだ」
「なに、私は耐えるだけですむ。君らと同行する苦労にくらべればささやかなものさ」
ふたりは、握手をかわして別れた。
──8月15日、小泉純一郎は日本国内閣総理大臣の名において靖国神社を参拝した。
その10分後、中国外務省は抗議声明を発表、1時間後には韓国政府も抗議を表明。
小泉純一郎は、最後まで“アジアの敵”として、任期を終えようとしている──