クトゥルフ/クトゥルー/Cthulhu -タイタス・九ロウ-

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ミスカトニック大学考古学部
ヘンリー・アーミティッジ先生机下

現在検討されている東京近海の海底調査に反対する理由を述べるのは、言うまでもなく私の本意では
ありません。東京での事件における私の役割と体験については、既に所属機関に詳細な報告を提出し
ていますが、「あまりにも主観的である」との評価により「興味深い参考意見」として処理されるに留
まっており、いかなる外部団体にも―我国政府のしかるべき部署にさえ―公表されていないのが現実
であります。
しかしながら今回のスタークウェザー=ムーア調査団が、その過程で予想だにしない脅威を呼び覚ま
すことになる危険性が確かに存在すると確信する以上、責任ある方々に少しでも警告を発することは、
人類の一員としての私の責務であります。今回、共に事件を体験した同僚の助言を得て、調査団メン
バーの中でおそらくは唯一私の体験を考慮の対象としていただけるであろうとの望みを持って、先生
にこの書簡を差し上げる次第であります。

異変の最初の報告を受けて私と同僚の二名が現場に到着したときには、既に午前零時を回っていまし
た。夜の東京の賑わいについては世界に知られるところですが、現場はオフィス街でしたので、当初
異変に巻き込まれた民間人はごく僅かであったのは幸いでした。
現場を確保した警察の案内で報告にあったビルに踏み込むと、すぐ異変に遭遇しました。当ビルの警
備員と思しき男性一名が呆然と立ち尽くしています。その様子はあたかも立ったまま凍結しているか
のようであり、目は見開いているものの、我々を認識している様子はありません。我々は悪寒を覚え
つつも注意深く接近しました。
検査の結果、彼の体温は室温より僅かに高い程度であり、通常であれば死亡していると考えられたで
しょう。しかし同時に極めて緩慢ではあるものの呼吸と血流が感知され、この男性は実に異様な形で
すが、ある種の停滞状態で生存していると我々は結論しました。このような現象を可能にする技術は、
知る限り今日の人類の科学には存在しないものと思われますが、何が行われたかについてはその後の
私自身の体験から、人体神経系統への高度な介入と操作であったものと考えています。
こうして我々が調査を続けていると、同行していた警官が驚愕の声を上げて我々に注意を促しました。
そこで我々もついにあの存在と遭遇したのです。
当初、私はそのものを何かの工事業者かと思いました。といいますのもその場の不十分な光量では「顔」
に当たる部分がちょうどガスマスクを被ったように見えたからで―先生も既にご覧になったであろう、
何枚かの極めて不鮮明な写真から同意してくださるかと思いますが―奇妙に膨らんだ両手と合わせ、
そのシルエットは何らかの有毒なガスを扱う作業服を思わせたからです。しかしそのものが十分な明
るさのあるロビーの中央へ進み出ると、もちろんそんな印象はたちどころに霧散し、ただひたすらそ
のものの異様さが明らかとなりました。
ここでその特徴を事細かに申し上げて先生を困惑させるつもりはありませんし、私の貧弱な表現では
かえって誤解を招くことと思いますので、ここでは事件後目撃者の一人の画家が述べた、「人体の上で、
蝉と鋏が出会った」という言葉を引用するに留めます。
とにかく我々は案内してくれた二名の警官にもっと注意を払っているべきだったということは弁明の
余地がありません。その場の異常すぎる状況では、どれほど経験豊富な警官であっても対処できるも
のではなかったのですから、彼らの心理状態を考慮するべきでした。二人が一斉にそのものに発砲し
たのは全く最悪の展開であり、大事に至らなかったのはただ幸運というべきでしょう。
いずれにしても「彼」は合計十発の弾丸を全く気にも留めていないようでした。
その様子を見て今度こそ完全に錯乱した二人の警官を同僚に任せ、私は「彼」のほうへ一歩踏み出し
ました。害意がない意味の通じることを祈って、両手を挙げ、ゆっくりと。
「彼」はしばらく私を観察しているようでした。やがて言語ともつかない、歯擦音のような、弱々し
い笛の音のような音が漏れてきました。
「我々の言葉が分かるか?」私はそう口に出していました。このように異質な存在に人間の言語で話
しかけるなどと、ひどく馬鹿げた、想像力の欠如した行為に思われるでしょうが、そのときの私には、
理由はないもののこの存在が極めて高度な知性を有するような印象があったのです。
と、突然極彩色の眩暈に襲われて、私はよろめきました。その瞬間の印象を申し上げるならば、巷間
伝え聞くLSDの幻覚とはこのようなものではないかといったところです。私の様子を見た同僚が駆
け寄ってきましたが、私は倒れませんでした。私の代わりに誰かが手足を操って立たせている、そん
な感覚を覚えました。先程申し上げた体験とはこのことであります。その代わりに気の毒な警備員氏
がくたくたと崩れ落ちましたので、同僚は横飛びに彼を抱きとめました。
その様子を横目で見ながら、私は意識の内に一杯に広がった幻覚に翻弄されていました。昨年のボス
トン万博はご覧になられましたでしょうか。あの折AT&T館で出展された1080°パノラマシア
ターをご記憶であれば、私の体験を類推していただけるかと思います。但し、映像の速度はざっと
300倍速はあったと思いますが。
目はうつろで、額には玉のような冷汗を浮かべ、膝は震えながら、それでも操り人形のように立ち尽
くす私を同僚は油断無く見つめていました。そっと警備員を床に横たえたとき、もうその手には我が
隊の誇るメーザー銃が握られていました。警備員の体の陰で抜いていたのです。私は正直申し上げて
隊の中ではいささか想像力過剰であるとの評価を受けておりますが、この同僚は常に沈着冷静な男と
して皆の信頼を得ているところであり、この時もこのアクション映画の主人公のような判断力と身の
こなしに私は改めて安心感を覚えたものであります。
何故このような一見どうでもいいような私の心象をわざわざ申し上げるかといいますと、このとき私
の精神は決して何らかの支配を受けているという状態ではなかった、ということをご理解頂きたいか
らなのです。「彼」のテレパシー−あえてこの手垢のついたいかがわしい用語を使うことをお許し願い
たいのですが、異質な種族の間に意思疎通を成立させるには、精神感応の存在を否定することは出来
ません−は、あくまで私に情報を与え、それを以って意思疎通を可能にするためであったのです。
完全に見当識を喪失し、ぐるぐるぐるぐると回り続ける中、私は奇妙な冷静さで、「彼」が神経を制御
しておいてくれて良かった、でなければ今頃船酔いした新米水夫のように吐いていただろうに、など
どのんきな感慨を抱いていました。そのうちに次第に、流れ込む情報の奔流に乗る、といいますか、
ちょうど川面から顔を出すように、精神のいわば息継ぎが出来るようになってきました。そのとき私
は「彼」と「彼」の文明、「彼」の種族の歴史を理解し始めていたのです。
彼らの故郷は、暑く、湿った世界でした。彼らも我々と同様、樹上生活者の先祖から進化しました。
しかし彼らには我々にないいくつかの利点がありました。ひとつはあの両手で、生まれつき非常に強
力な鋏を持っていたため、我々の先祖が何万年も黒曜石を砕くのに苦労している間に、彼らは易々と
道具を発達させることが出来たのでした。そして見かけによらず驚くほど器用に動く両手に加えて、
もっと精密な作業には長い口吻の先が役立つのでした。こうして惑星の支配種族となった彼らでした
が、今のような存在へと進化するためには、ある驚くべきブレイクスルーが必要でした。
それは不思議な黒い石でした。彼らのうちで適性のあるものがこの石を覗き込むと、様々な知識を得
ることが出来たのです。彼らはこの石を、遠い昔に栄えた高度な文明の遺産と考えていました。石か
ら得た知識は、彼らの文明を驚異的に飛躍させました。それは物質面に留まらず、彼ら自身の精神能
力−私に話しかけているこの精神作用力もそのひとつです−をも進化させ、彼らは偉大な社会を築き
上げました。彼らの絢爛たる都市は地上を離れ、美しい故郷を見下ろす衛星軌道上に無数に輝いてい
ました。その雄大かつ繊細な都市の姿は、彼に与えられた記憶の殆どが夕闇のように薄れた今も私の
心に焼きついていて、思い出す度に工学者の端くれとして常に憧憬の念を抱かせずにはおかないので
す。
しかし悲しいことに、これほど栄えた文明にも衰退の影が忍び寄っていました。人々は次第に退廃的
となり、宇宙都市は些細なことで争うようになりました。そしてついに、あの黒い石から禁断の知識
を引き出し、おぞましい兵器を作り出す者が現れたのです。地獄のような破壊の末、彼らの母星は消
滅してしまいました。宇宙都市もその多くは母星の崩壊に巻き込まれ、かろうじて難を逃れた彼の都
市も、宇宙を当所無く彷徨うこととなりました。そして長い長い漂流の末、この地球に流れ着いたの
です。
この長い物語を読み終えるのに、後で同僚に聞いたところでは、せいぜい十数秒の間だったそうです。
この悲しい結末に涙していた私がふと我に帰ると、同僚は見たこともないような険しい顔でこちらを
にらみつけており、引き金に掛けた指は真っ白くなるほど力がこもっていました。
「彼に何をした!?」
私は慌てて、同僚を安心させようと口を開きました。しかしあまりにも膨大な、一種族の全歴史を
一度に注ぎ込まれた脳は、まだ全く混乱していたのです。それで口を出た言葉はいささか的外れな
ものでした。
「―その男は―脳が―適応しない―この―男の―脳を―使う―」
「脳を使う、だって?」
同僚はその言葉に不吉な響きを聞き取ったのでしょう。
「彼を放せ!」
今にも発砲しそうでした。
「―我々は―宇宙の―放浪者だ―この―星に―定住―したい―」
ようやく意図した言葉が出ました。主語はまだ混乱していますが。
この意外な言葉に、同僚は驚いた様子で、しばし考えていました。やがて、
「…それは…地球人類と共存する意思があれば、不可能ではないだろう」
私は小躍りしたい気分でした。この同僚がこれほどロマンチストとは!体の自由が利いたら、彼を抱
きしめていたでしょう。
しかし彼の次の質問は新たな衝撃をもたらしました。
「―それで、君たちは何人居るんだ?」
「―二百億だ―」
自分の口から出た言葉に愕然としました。二百億!?
「―殆どの者は―縮小してある―定住したら―復元する―」
「…それは多すぎる。火星に住んだらどうだ」
「―火星には―住めない―」
また新たな事実。彼の宇宙都市には地球軌道を脱出する能力が無いのでした。これほど栄えた都市が、
もはや自律航行能力を失っていたのです。さすらうだけの都市。
「だが、そんなに大勢、地球には収容できないぞ」
これに答えた言葉に、私は今も深い悲しみを覚えます。かつては偉大だった種族の衰退の果て。
「―では―お前たちを排除する―」
同僚の狙いは正確でした。彼は闇に逃れ、私は解放されてその場に倒れました。
その後のことはご存知のとおりです。東京の夜空に屹立した巨大な彼の姿。防衛軍の戦術核も全く効
果なく、かえってその後放射能除去作業のため一ヶ月間に渡って首都機能が麻痺する結果となったこ
と。あの正体不明の銀色の巨人が再び現れ、彼を倒したこと。巨人が東京に降下しようとしていた彼
の都市を破壊し、その残骸が海中に沈んだこと。闘争の間彼が発していた、哄笑とも、呪詛とも、
雄叫びともつかない奇怪な声。
しかし私が申し上げたいのは私しか知らないことです。
彼との精神接触が断たれたあとも、私の中には彼の残像が残っていました。ですから彼が倒れるまで
の間に私の中の彼が考え、感じたことは、彼本体が感じ、考えたことと同じであるはずです。
あの銀色の巨人を見て、彼はひどく恐れていました。そして仲間に指示したのです。自分が倒れたら、
隠しておいた兵器を使って巨人を撃てと。
彼の故郷を滅ぼしたもの、それは次元の壁を越えて呼び込まれたおぞましい存在でした。彼は巨人を
見てそれと同種の存在であると思ったようです。自分たちの敵とは違うが、やはり次元を超えてやっ
てきたものだと。もし彼の兵器が使用されれば、日本列島はおろか、中国沿海州の殆どに至るまでが
消滅するほどの大クレーターが穿たれる筈でした。
私の恐れているのは二つのことです。もし調査団が間違ってこの兵器を起動させることがあれば、ど
のような大惨事になるかはお分かりと思います。
そしてもうひとつ。彼は巨人を恐れる一方、この兵器を使うことを同じくらい恐れていました。彼ら
の故郷を滅ぼしたものがこの兵器を嗅ぎつけるのです。彼らはずっと逃げ、隠れていたのです。たと
えこの最終兵器を誤射してしまうことが無くとも、何らかの信号を発してしまうことがあれば、これ
ほど恐れられている存在をこの地球に呼び寄せることになるかもしれないのです。
再三申し上げましたように、すべては私の脳内のことに過ぎません。しかしわずかでもこの警告をお
取り上げ頂けるのであれば、どうか先生のお力をもって、せめて調査団には適う限り最高レベルの警
戒態勢を敷いて頂くよう、重ねてお願い申し上げます。

                          科学特捜隊日本支部
                          分析主任 イデ・マサヤ
親愛なるイデさん

スタークウェザー=ムーア調査団の調査結果を貴方にお知らせできることは、私の喜びとするところ
です。意外なほど速やかに解除された機密指定については、貴方も色々と思うところがおありでしょ
うし、各方面から流れる噂についてもお聞き及びのことと思います。調査団はついに残骸を発見でき
なかった、あるいは余りにも恐るべきテクノロジーを入手したため速やかに隠蔽したのだ、等々、世
上に喧しいところですが。
結論から申し上げますと、我々は残骸を発見した、とも言えますし、発見できなかった、とも言えま
す。といいますのも、正確には我々の発見したものは、海底に残された、何か巨大なものが着底した
痕跡だけだったからです。あの日本海溝の深淵へと落ち込んでいくその縁に、確かに何か巨大なもの
が、一時その身を横たえ、海底に積もった泥をかき乱した後、深淵へと去っていった。それが我々の
結論でした。貴方の下さった警告については、それを公開した場合の影響を考え、できる限る伏せて
おくつもりでしたので、結局公開せずに済みました。そうでなくても、欲の皮の突っ張った馬鹿者ど
もが、まさに貴方の恐れているようなものを手に入れたがって、調査団をストーキングしていたので
す。そうした連中が最終的に上げることとなった不平不満の大合唱は、聞いていて実に心地よいもの
でした。
そうした次第ですので、貴方のご懸念については、人類はさしあたりその脅威を免れたものと思って
頂いてよろしいと思います。地球には多くの優しい懐があり、我々を危うくするものから隔ててくれ
ています。これもそのひとつとなったのでしょう。
貴方と異星の友人との交流については、前回も申し上げましたが、きわめて興味深い貴重な知識であ
ると信じています。ご承知のように、我々はそうした精神世界のものごとについて、世の人々とはい
ささか違う立場をとっています。かの「ネクロノミコン」を所蔵していることを、我々は誇りにして
いるのですから。もちろん大学図書館の蔵書の多くはたわ言に満ちていますが、今はまだ人類が受け
止めることの出来ない恐るべき知識が、そのなかには隠されているのです。我々はそのような知識を
預るものとしての自負を持っています。
こうして事態も一応の解決を見たことでもありますし、お気持ちが許せば、ぜひアーカムをお訪ね下
さい。貴方の体験についてお話頂きたい。我々は貴方を歓迎します。
おっと、つい自分の欲ばかり出て、忘れるところでした。実は海底調査の際、いささか気になる事が
ありましたので、お知らせしたく。残骸の跡とは別に、何か鯨が這って行ったかのような、巨大な引
きずり痕が発見されたのです。地震活動によるものとの説も出ましたが、もしや貴方のお仕事に関わ
るものではないかとも思いましたので、ご参考までに。資料を同封します。
では、貴方に健康と幸運がありますように。
                            貴方と共に歩む
                            ヘンリーより