「では査問を開始する……」
重々しい宣告は、だが、前原の心に一片の感銘も呼び起こしはしなかった。
ひたすら、終幕の到来を祈るだけである。
査問会の最初の2時間は、前原の過去の事跡を確認する作業に費やされた。
生年月日から始まって、両親の姓名、父親の職業、民主党に所属するまでの経歴などが
詳細に調べ上げられ、いちいちコメントをつけて紹介された。
前原を最もうんざりさせたのは、菅氏が命名した「次の内閣」での閣僚就任が
自分の経歴としてスクリーンに投影された時で、特に、『ネクスト外務大臣就任』
『ネクスト防衛庁長官就任』 などは赤面に値した。
「……そして、現在、君は40代で民主党の党首であり、第一野党の最高責任者であるわけだ。
人もうらやむ幸運とはこのことだな」
その言い方が、前原の神経を刺激して、彼は羞恥心の泡の中から現実の水面へ急浮上した。
気に入らない表現であり、口調であった。
他に適任者がいるものなら、変わってやってよいくらいのものである。
数千キロを移動した挙句に会談拒否される彼。発言するたびに批判される彼。
それが一段落したと思えば、党執行部による査問会に引きずり出される彼。
同情してくれ、とは言わない。だが、羨望されるような身分だとは、到底思えないのである。
若手や一年生議員からならともかく、生活への不安が一切存在しない裕福な境遇に身を置き、
奇麗事ばかりばかり考えているような輩に、そんな台詞を浴びせられる筋合いはないはずだ。
「……だが、誰であれ、我が民主党においては、規範を超えて恣意的に行動する事は許されない。
その点に関する疑問を一掃するため、今日の査問会となったのだ。そこで第一の疑問だが……」
そらきた、と、前原は思った。
「先日、岡田前代表が辞任した際に、君は、代表選挙に出馬したな」
「はい」
「これは党利のため、やむをえない手段であったと君は主張するだろうが、
しかし、いかにも短期で粗野な選択であった、との感を禁じえない。
党の功労者である菅氏と争う以外に、何か方法は無かったのか」
「お答えします。無いと思ったから、あの手段をとったのです。
その判断が誤っていたとお考えであれば、どうか代案をお教えいただきたいものです」
「私達は選挙戦の専門家じゃない。そのレベルの思考は広報の任だ。
だが、そうだな、もう4,5年待った後に、次の次辺りの代表選に立候補という形でも良かったのではないか」
「その方法を取れば、世論からは旧態依然のレッテルを貼られ、
その4,5年の間に我が民主党に更なる犠牲が出たであろう事は疑いありません」
これは事実であったから、前原としては大声を出す事もなかった。
「一般議員の議席よりベテラン議員の面子が惜しいとおっしゃるなら、
私の判断は誤っていた事になりますが……」
そういう言い方をしたことに、前原は自己嫌悪を覚えたが、
せめてこれくらいは言ってやらないと、相手は応えないだろう。
「では、こういう戦法はどうだ。
どうせ首相は、来年で任期切れになる状態にあった。
君のウリである若さをよりアピールするためにも、今出馬して小泉に対抗するのではなく、
ポスト小泉決定に、タイミングを合わせるというやり方をとっても良かったのではないか」
「その方法は私も考えましたが、二つの点から破棄せざるをえませんでした」
「話してもらいたいね」
「第一に、今回の敗北から期間をおけば、ベテラン議員中心の執行部は、
権力を維持するため、若手議員に圧力をかける危険性があったということです。
あなた方が、私たちの頭に非公認を突きつけて服従を迫ってきたら、
我々としては選択の途がありません」
「………」
「第二は、さらに大きな危険です。現在、自民党内の派閥闘争は沈静化しています。
我々が菅氏を担いだまま、自民新代表の決定をのんびり待っていたら、
小泉純一郎──あの選挙戦の天才が、衆院選の余勢をかり、世論を操って攻撃してきたかもしれません。
民主党にはその時、菅氏の他に、鳩山氏、小沢氏など、古い顔が並んでいるだけなのです」
ひと息ついた。水が欲しいところである。
「以上の二点により、私は、菅氏を破るというセンセーショナルな形で世代交代を成し遂げ、
民主党は変わった、という強いイメージを世論に与える手段をとらざるをえなかったのです。
それが非難に値するということであれば、甘んじてお受けしますが、
それにはより世論へのイメージ効果の高い代案を示していただかないことには、
私自身はともかく、次の選挙戦を控えた議員達が納得しないでしょう」
この程度の脅しを含んだテクニックは、前原といえども弄するのである。
それは功を奏したらしく、査問官たちは低いささやきを交わし、
その合間にいまいましさをこめた視線を前原に投げた。
再反論の余地がないようである。
唯一の例外が野田で、横を向いて小さくあくびをした。
やがて、大きな咳をひとつして、羽田が言った。
「では、その件は一応置いて、次の件にうつる。
訪米するにあたって、君はワシントンでの講演でこう言ったそうだな。
中国の軍事力は現実的脅威であり、日本は憲法改正も視野に、防衛に当たらなければならない、と。
それを聴いた複数の人間の証言があるが、間違いないかね」
「一字一句間違いなくその通りとはいえませんが、それに類する事は確かに言いました」
前原は答えた。証人がいるなら、否定しても意味のないことである。
何よりも、自分が間違った事を言ったとは、前原は思わなかった。
彼は常に正しいわけではない。だが、あの時言ったのは、まっとうな事だった。
「不見識な発言だとは思わないかね」
耳障りな声が言っていた。
大学時代、生徒がミスをすると目を輝かせる教官がいて、
これとそっくりな、悦に入って舌なめずりする猫に似た声を出していたものだ。
「はあ?何がです?」
前原が恐れ入らなかったので、最高顧問は不快感をそそられたのであろう、
声に険悪な響きがこもった
「君は日本の民主主義を守るべき責務を負った政治家だ。
しかも若くして第一野党の党首の座に着き、日本有数の政治的影響力を持つ身ではないか。
その君が、憲法を軽んじ、ひいては隣国を煽るが如き発言をし、
さらには党内の混乱を招来するのは、君の立場として不見識ではないかというのだ」
今お前が必要としているのは、虚しさと馬鹿馬鹿しさとに耐える忍耐心だ──
前原の理性はそう告げていたが、その声は彼の内面で弱々しくなりつつあった。
「お言葉ですが、最高顧問閣下」
それでもせいぜい声を抑えて、
「あれは私には珍しく見識のある発言だったと思います。
憲法改正が日本の権益を侵しているのではなく、
隣国の海軍が現実に日本の海洋権益を侵し続けている以上、
どちらを優先すべきであるか、日本の政治家にとっては自明の理でしょう」
「自明の理かね。私の見識はいささか異なるがね。日本にとって憲法9条は不可欠な価値を持つ」
「そうでしょうか。日本は9条がなくても生きられますが、日本国なくして9条は存立しえません」
「……こいつは驚いた。君はかなり過激な軍国主義者らしいな。ちがうか」
「ちがいます。私は共産主義者です。
もっとも、あなた方の大好きな中国共産党などを見ると、すぐ偏向してしまいますが」
「前原君!当査問会を侮辱する気かね」
声に一段と危険な気配がこもった。
「とんでもない、そんな意思は毛頭ありません」
じつは大ありなのだが、むろん正直にそう言う必要はない。
それ以上、抗弁も陳謝もせず前原が沈黙していると、最高顧問も追及の方法を見失ったのか、
前原をにらみつけたまま、分厚い唇を引き結んでいる。
「どうかね、ここはひとつ、休息ということにしては」
それは、自己紹介したきり一言も発しないでいた野田佳彦の声だった。
「前原君も疲れているだろうし、私も退屈──いや、くたびれた。
一休みさせてもらえるとありがたいな」
その意見は、おそらく複数の人間を救った事であろう。