>>545つづき
「文学」と呼ばれる世界は過去の蓄積によって成り立つ。
ん?ちょっとまてまて、「何を当たり前のことを」などと怒るな、人の話は最後まで聞け。
人には物欲があり、これを読者に限定して言えば本屋に行った人間は皆、新しい本を探すもので
なぜなら本を読みたいからだ。自分の知らない本をだ。上で指摘した見ろまるでゴミのような新刊が
ウジムシのように自然発生するのもこの人間の素朴な物欲に端を欲している。
これは文学だけの話ではなく、電化製品でもインターネットでもそして2ちゃんねるですらそうだ。
人間たちは常に目新しいものを欲しつづけている。これを規制することなど叶わぬことなのだ。
だからこそ、文学というのは過去の蓄積によって成り立つのである。新しいものなど、そこには何もない。
新しいというならそれは時代が違う、というだけで実は過去の焼き直しに過ぎない。どこの過去か?
というだけの問題だ。誰の過去か、と言い換えてもいいだろう。
>>546まだつづき
古来より本の読み手たちは自分たちの物欲という虚空を埋めるため、己の心を改革するために、
まず過去の作品と向き合うことから始めていたものだった。それが我々本読みの通過儀式だったはずだった。
ところが昨今の風情は違うらしい。
新刊が山と積まれ、さらにその上に新刊を積み、
どっかの新人作家はどこかのマンガからネタを盗んで書いては売上げ、
どこかのマンガは誰かのSFのモチーフを盗んでは積み上げ、さらに新しい本を層のように重ねていく。
すると、古い本はただただ古い、というそのためだけに絶版になり古書にすら積まれなくなり、
奇特な本も読まない収集家の書庫で蟲のエサと成り果てるのである。
ドイツ人が明細目録作りに躍起になるのも無理はない所業だろう。
思うに、純文学というレーベルが力を失い、
大量再生産のためのレッテルと成り果てたのはこのためなのだろう。
過去の遺産は売れないのではなく、売れてはいけない、という売り手の問題があるから伝わらないのだ。
それでは商品にならないからだし、書き手が困るからだ。
考え方の再生産でもなんでもいいから、
「新しい」というものでなくては商売が成り立たないのだ。
例えば、我々SF読みが新しい本を探そうと思えば、
新刊なんか探さないで古本屋に向かう。
なぜなら読んだことのないSFは常に過去にあるからである。
だが、純文学という世界ではこの方法が成り立たないがために、
いや、成り立ってしまっては出版社が困るのでどんどん過疎化していくのだ、
過去が。