■■■雑談・質問@SF板SF/FT/HR 29 ■■■

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545 ◆GAcHAPiInk
 本屋に行って店頭を見てみよう。すると、うずたかく積まれているのは新書。
そう、どこかのだれかがなにかについていろいろな文法で様々な考え方を”発明”して、
そうして結局はつまらないことを書いた本がぎっしりと積み重ねられている。
毎年毎年、いや毎月毎月、いやいやもはや毎日のようにどこかで誰かが文章を書き、
二束三文の利益のためだけに出版社なるテキヤ風情のような輩が
これらをいかにも”新しく”て、”だれも見たことのない世界”のように啖呵売を斬って売り出し
そして本も”読めない”めくら大人たちが買う。
 ちなみに、ここでいう”読めない”というのはモーティマー・J・アドラーのいう
意欲的な読者、と言われる観点からであり、また理想的には批判的読者という観点である。
これもしょせん理想論に過ぎないが。
 スタニワフ・レムに言われなくても、この大量の情報に我々読者は圧倒され、
遂には白旗を挙げてしまうものだ。
だから、人は知らず知らずのうちに読みたい物を限定していくことになる。
例えるなら、履歴書の趣味欄に「音楽鑑賞」と書くようなものだ、いや、
べつにこれを批判するつもりはない。誰でもすることだろう?
 だから、自分は指摘したいのはそのような読者側ではなく、
これらの情報そのものが形成している世界についてである。
546 ◆GAcHAPiInk :2005/08/21(日) 23:17:14
>>545つづき
 「文学」と呼ばれる世界は過去の蓄積によって成り立つ。

ん?ちょっとまてまて、「何を当たり前のことを」などと怒るな、人の話は最後まで聞け。
人には物欲があり、これを読者に限定して言えば本屋に行った人間は皆、新しい本を探すもので
なぜなら本を読みたいからだ。自分の知らない本をだ。上で指摘した見ろまるでゴミのような新刊が
ウジムシのように自然発生するのもこの人間の素朴な物欲に端を欲している。
これは文学だけの話ではなく、電化製品でもインターネットでもそして2ちゃんねるですらそうだ。
人間たちは常に目新しいものを欲しつづけている。これを規制することなど叶わぬことなのだ。
 だからこそ、文学というのは過去の蓄積によって成り立つのである。新しいものなど、そこには何もない。
新しいというならそれは時代が違う、というだけで実は過去の焼き直しに過ぎない。どこの過去か?
というだけの問題だ。誰の過去か、と言い換えてもいいだろう。
547 ◆GAcHAPiInk :2005/08/21(日) 23:18:17
>>546まだつづき
 古来より本の読み手たちは自分たちの物欲という虚空を埋めるため、己の心を改革するために、
まず過去の作品と向き合うことから始めていたものだった。それが我々本読みの通過儀式だったはずだった。
ところが昨今の風情は違うらしい。
 新刊が山と積まれ、さらにその上に新刊を積み、
どっかの新人作家はどこかのマンガからネタを盗んで書いては売上げ、
どこかのマンガは誰かのSFのモチーフを盗んでは積み上げ、さらに新しい本を層のように重ねていく。
すると、古い本はただただ古い、というそのためだけに絶版になり古書にすら積まれなくなり、
奇特な本も読まない収集家の書庫で蟲のエサと成り果てるのである。
ドイツ人が明細目録作りに躍起になるのも無理はない所業だろう。
 思うに、純文学というレーベルが力を失い、
大量再生産のためのレッテルと成り果てたのはこのためなのだろう。
過去の遺産は売れないのではなく、売れてはいけない、という売り手の問題があるから伝わらないのだ。
それでは商品にならないからだし、書き手が困るからだ。
考え方の再生産でもなんでもいいから、
「新しい」というものでなくては商売が成り立たないのだ。
例えば、我々SF読みが新しい本を探そうと思えば、
新刊なんか探さないで古本屋に向かう。
なぜなら読んだことのないSFは常に過去にあるからである。
だが、純文学という世界ではこの方法が成り立たないがために、
いや、成り立ってしまっては出版社が困るのでどんどん過疎化していくのだ、
過去が。