父親が言った。
「 米国人とは、実はアメリカ人のことではない。
中国、春秋五覇期に越の南にもう一つ国があったのだ。
末広がりの縁起のよさからその名も、"米"国である。
日本に稲作技術が伝来した今から2600年ほど前のことである。
この、"米"という字も由来は深く、もともとは雷紋、
すなわち雷のトーテムから作られたとの説がある。
雷紋を元にした象形図画には他にも、ハーケンクロイツ、マンジ、
旧ユーゴにて発掘される風雷紋章やブッダの髪型になど、
様々な印象図画に応用されてきたが、この国でも遠くインドよりラピュタ人に
よってもたらされた紋章が文字となったものだ。
元々米というのは東南アジアから渡ってきたものである。
この米国人は小さい国ながらも周辺の島々との通商も持ち、
それより昔には中国諸国に宝貝(パオペイ)をもたらすなど交易によってずいぶんと栄えていた。
だが、当時の中国はなにげに戦国。
呉越骨肉の戦いに明け暮れる物騒な時代にあって米国は苦慮していた。
富国強兵に勤めねば列強諸国に瞬時に征服される時代にあって、
中華文明ともインド文明とも離れた米国は消滅の危機に瀕していたためだ。
その時、台湾島にすむ原住民からにラピュタ人の噂を聞き、彼らからもたらされたのが、
この稲作農耕技術だった訳であった。
およそ今から3000年ほど前の話だろうか?
>>608 ただ、ラピュタ人によってもたらされた稲作技術は非常にめんどくさかった。
まず水耕田の構築から始まるややっこしさに遂に米国の人たちは投げ出して、
越国の季節労働者に押し付けてしまったのだ。
これがいけなかった。
この技術の真価を知った越国人労働者はすぐもって国に帰ってこの技術をもたらし、
越は米国に攻め入ることになったのだ。
戦闘能力の高い越国には叶わず、米国は滅亡した。その時の王族はこう言ったという。
「マイった」
…さて、その後この脅威の新技術だけが越から呉、そして春秋各国に伝わったのであった。
名前だけ拝借して”米”と呼んだという。
>>609 さて、クダンのラピュタ人とは何者なのか?
実は彼らは当時東南アジアから東はモアイ島まで足を伸ばす一大海洋国家であった。
各島々に文明をもたらしつつ、それらの主生産品を取引していくというスタイルで、
現在でも見られる海産問屋のような形で国家を成形した世にも稀な体系をとったいた。
似たような形態はギリシャにもあった。
ただ違うのはギリシャ人は都市国家を基礎に置いていたが、
彼らは稲作や養豚などの”技術”によって成り立っていたという違いにある。
現在のフィリピン諸島を根城にしていたが、土地ではなく常に海洋での公海に全人生を賭けていた。
その活動範囲は実に南極まで至っていたという者もいる。
けがれない透明な海の上を、滑るように走る船の様子は空を駆けるようであったという。
だが、彼らは文字はもたなかった。
文字ではなく、縄目に取引すべき物品や秘密の暗号指令などを縫込みそれで情報を保存していたのだ。
よって、現存する情報は、一部日本の八重島諸島に文化として残っているだけである。
そのため現在の世界史には残っていない。
語られる言葉を持たぬ民は決して語られることはないのだろう。
きっと彼らも悔やんでいるだろう。
言語など作ろうと思えばいくらでも作れるだけの知恵のある民族であったから。
草葉の陰でこう言っているのではないだろうか?
「縄しか使わなかったのは、しばった」
>>610 あー、ある日突然、彼らは忽然と消えた。
ある者は大陸の海賊によって駆逐されたと言い、
またある者は巨大な海底火山の爆発に巻き込まれたのだとも言った。
モアイ島に彼らの遺跡が残るのみだが、彼らは必要最小限以上の石器すら持たない民族であり、
あのような巨大遺跡を構築する意味すらなかったはずだ。
だれがあれをもたらしたのだろう?
まあ、それはさておき。
彼らは首都も土地も持たなかったが、どこでこれら高度な稲作技術を得たかは判っている。
>>611 彼らの造船技術は彼らの創意工夫のほどがよく見られたというが、
稲作については今のベトナムからもたらされたと考えることができるからだ。
今から3500年ほど前から、かの国は豊穣の国であった。
稲は苗を植えるなどというめんどうことをしなくても、種籾を撒くだけで4ヶ月で収穫可能になるほどである。
そのため、現在でもベトナムでは三連作が普通だ。三連星ではない。
滋味のある食物がたくさんある国には戦争はない。まさにびっくりするほどユートピアなのだ。
当然だろう、奪うものより与えるもののほうが多いのだから。
だが、そのため彼らは米や稲を”生育”させるなどの知識をほとんど考えなかった。
考える必要も無いほど豊穣だったのだ。だから、この土地にも稲作はただもたらされただけであった。
とても便利かつ暇つぶしにちょうどいい作物として。
中国がこの国の存在に気が付くのは三国志の時代まで待たねばならない。
それまでは小さな豪族が家族制の中で人を増やせるだけ増やす、
まさに人類の揺り篭としての役目をこの土地は持っていたのだ。
どっちかというと揺り篭というより爆弾かも知れないが。
奴隷制もあったのだろうが、そんなものに頼らなくても人はほんとうに溢れていた。
石を投げれば金持ちに当るほどの豊かさには、インド人もビックリだったそうだ。
あまりにも驚きすぎてトラウマになる者も出たほどで、
食い物がありすぎて、ショックもつらしい。
>>612 えー、きっと、彼らの中からラピュタ人のような冒険精神が生まれたのだろ―よ。暇だったから。
さて、このベトナムに米作をもたらしたのは、
今から4000年前、インダス文明が勃興する直前のインドからである。
やはり滋養の高い土地であったインダス川流域に稲作はすでに定着していたが、
それには次のような話が伝わっている。
今から5000年ほど前、彼らには解決すべき大問題があった。
いまのチベット周辺から興った拝火教徒である。
彼らは数こそ少ないが、火を中心とした化学技術の進展には目を見張るものがあり、
貧しい山岳地帯から遂に南下を始めたのであった。
人間の数こそ多いがインダス川流域国家は平和に安穏としていたため、彼らが使う火薬兵器に苦慮していた。
拝火教徒が用いる化学技術は火薬兵器だけではなく、
鉱物薬品を応用した筋力増強や様々な生物化学兵器にまで及び、
インド神話の著述はこの戦いを表したものだ。バッタを使った兵器も彼らが開発したものだといわれている。
これらの問題に、遂にインドの王国群は当時最強の帝国を擁していたバビロニア国家に救援を頼んだのである。
このとき、伝来した各種兵器のなかに青銅武器、馬車や稲作があった。
>>613 今も昔も戦争の基本は兵糧であることに変わりはない。
拝火教徒は個々の戦闘能力は高かったが如何せん兵糧不足に常に悩まされていた。
それも当然で、だからこそヒマラヤ山脈から降りてきたのだから、根は深い。
また、穀物を耕すという技術に劣っていたため(無かったわけではない)
インド兵とは戦闘初期には勝っても戦略的には負けるということの繰り返しであった。
そこへ、バビロニア国家からもたらされた機動兵器 馬車や大量の兵糧を克つことができる稲作技術は
戦況を決定的にさせる要因となったのだ。
だが、拝火教徒も負けてはいない。
この米作技術を盗み出すべく野に降り、以降戦乱ではなく、
思想によっての洗脳に重きをおく戦術をとることにしたのだ。
教主は配下に伝え、彼らは仲間内でこう伝えあった。
「戦争はもうせんそうな」
よって!! バビロニア国家の突然の崩壊と同時にインダス文明をも吸収するに至ったのである!
さて、バビロニア国家は、世界最初の12進法巨大演算技術で世界に君臨した最初の国でもある。
彼らが稲作の技術を開発したのだ。彼らは米発見の前に大麦の生産が盛んであった。
世界最初のビール酵母の発見も彼らによるものである。
これらの技術、すなわち、苗の生育、苗挿し、収穫時期、種籾、水田の構築などなど各種技術は
まさに彼らの演算能力から抽出されたのでものでこれらの応用から稲作は生まれたのだ。
今から6000年前のことであった。
当時は奴隷制国家。奴隷とは各種揃って運用して初めて扱えるシステムである。
彼らの中から特に計算能力に秀でた者たちと記憶能力に秀でた者たちを組み合わせ、
それぞれに12進法での計算方法を訓練したのだ。
これらの入力、出力やデータの受け渡しはは粘土板により行なわれた。
出力されたデータはやはり専門の技術奴隷によって解析され、
彼らを取り仕切る神官らによって宣託として布告されていたのだ。
これらの演算はもともとは天体気象を観測し、これらを事前に知ろうとする活動が最初であったが、
当時の人間の能力を越える何者かによって、
人間の言葉の原初ともいえる”秘密の言葉”ビット単位のマシン語のようなものがもたらされ、
これにより、人間演算システムの構築による巨大な生活支援システムが組み上げられたのであった。
だが、彼らの悲劇はこれを推し進めて36進法に移管しようとしたことにあった。
複雑な計算方法、そして必要とされるリソースは奴隷の選別をさらに厳しくすることになり、
またそれ以前の12進法とのデータの併用問題も解決されなかった。
そして止めとして、データ上のバグや致命的なウイルスの混入が発生するなどあらゆる作業が煩雑になり、
遂に計算奴隷たちが切れた。演算で怨嗟を呼んだわけだ。
これが直接の没落の原因となったのだが、それはまた別の物語。
>>615 米作はこうして生まれた。と言われているのだが、実はこれは間違っている。
さて、ここで話を離れて、ちょっと聞いて欲しいんだが、古代史を読んでいておかしなことに気が付かないだろうか?
戦史において、まずもって最初の記述は戦車からである。歩兵ではなく、戦車から発生しているのである。当然のように。
これには、このバビロニア国家成立の前にはグレートジャーニーと呼ばれる人類の大移動があった時期に秘密がある。
いまから約1万年前のことだろうか?実は米作はこれらと深い関連があるので、すこし話をしておきたい。
新人とよばれる我々の先祖はそのころ、滅亡の危機に瀕していた。
各人類の亜種たる原人や類人との生存競争は激烈を極め、ついにアフリカの生態系にすら影響を与えるほどの戦いになっていたのだ。
このただ中にあって、我らが新人『始まりのヒト』たちは遂に一反、戦線を脱して
その頃アフリカに接続された新大陸に生存のチャンスを賭けることにしたのだ。
だが、歩きでは肉体能力に優る原人の追走に勝てず全滅するだろう。木材なら大量にあった。
また、家畜を飼う技術から始めた彼らはウマとの遭遇という好機を得る。
こうして、馬車は生まれたのだ。まだ、ウマに跨るという技術が確立する前は馬車が一般的だったのだ。
だが、これだけではまだ旅には出られない。なぜなら、糧食の問題があったからだ。
>>616 保存食の問題はただ技術の問題だけはない。それは文化とも密接に関係する。
例えばモンゴルでは飼っている牛一頭をビーフジャーキーにして牛の睾丸に溜めて移動する。
これは牧畜の文化があって初めてなしえるのである。
北海道ではシャケの乾物、鮭トバが保存食として持て囃されているが酒のつまみにもいい。
当時、狩猟文化が基本であった彼らには保存食の技術はあってもそれは大旅行に絶えられるものでは決してなかったのだ。
この時、米の前進である稲食物が見出された。肉食が基本であった彼らにとって大転身であっただろう。
だが、保存の利く穀物は大旅行には非常に有利であり、また狩猟との併用も可能であったのだ。
これを発見した彼らの喜ぶ様が目に浮かぶようだ。
稲を見つけ、食べた彼らはきっとこんなことを言っていただろう。
「これ、いーねー」
>>617 あー。まだある、まだある。
実は新大陸、現在のユーラシア大陸にもすでに原人や類人がいた。
人類の元祖たちはこれらと殺し、犯し、交わって遂にいま我々のような新人の形になったのだ。
その間にも稲は主食になっていった。
様々な加工法によって食されていったが、火の発見がなかったらこれらもなかっただろうが、これはまた別の物語だろう。
米とはかくのごとく深遠な歴史の歯車によって各地に伝来されたものだ。
今貧しいものが辛酸努力によって富むものに変わる。その過程のなかに稲作米作の技術は磨かれていったのであった。
だが、その過程は面倒なものを他人に頼ろうとする過程でもあった。畑作に比べても稲作は大変に面倒なものである、
その過程を輸出という形で他の労働力で補おうとしたのが米作伝来の大きな要因になったのだろう。
そして、遂にその考える力の力点が逆転したとき、その力関係もまた移り変わっていったのだ。
その中にあって、我々日本はまだまだ米の自給率は100%なのだ。その米はたくさんの人たちが残してくれた遺産なのだよ。
だから、残さず食べなさい。いいね?」
子どもが答えた。
「お父さん、話長い。」