1 :
大人になった名無しさん :
03/12/15 22:09 無いよね?まだ・・・ 私にとって、思い出といえばおじいちゃんおばあちゃんなんだけど。 血が繋がってなくても、近所のおじいちゃん、おばあちゃんでもOK
親戚のおばあちゃんのところに遊びに行くと、必ず風呂に入れてくれました。 15年以上前に貰ったぬいぐるみ、まだ大事に持ってるよ。 あと、多少スレ違いですが、 私は母方・父方ともおじいちゃんが居なかったので、 かなり年配の高校の時の社会の先生が大好きだったなぁ・・・
浪費家氏ね
>>3 ゴメンナサイ。死んできます。
こんなスレ立てたらまずいかな、とは思ったのですが、
思慮が足らず立ててしまいました。
このスレは終了です。
死んでお詫びします。さようなら。
5 :
大人になった名無しさん :03/12/17 19:31
ええやん別に
たまにわけのわからない方言で喋ると思ってたがまさかチョソだとは思わなかったぜ
7 :
大人になった名無しさん :03/12/17 21:30
4,5歳の頃、父方の祖父母の家へ行った時に玄関に赤いバケツに金魚のおもちゃが入っていた。 それ見た時は「あれは誰かにあげるものだろうな。いいなあ。誰にあげるのだろう?」と 思ったら、後でおばあちゃんが「あれは○○(私の名前)にあげるものだから使っていいよ。」 と言ったのですごく嬉しかった。
8 :
大人になった名無しさん :03/12/18 01:09
じーちゃんごめんなさい。 悪気なかったのヤキモチやいの だからジーちゃん家とびだしたの ごめんなさいじーちゃん最後の時怖くてガンで 変わってる姿が怖くて呼ばれてもいけなかった・・・ 急に気分悪くなってお家に帰ったらジーちゃん死んじゃった 布団でなにも言わないじーちゃん寝てるみたいだったほんとごめんなさい ジーちゃん大好きありがとう 昔じーちゃんにかってもらった時計仕事で毎日だいじにつかってるよ
田舎に帰った小2の夏休み。 俺に口内炎ができていたのを知った祖母は、 何をトチ狂ったのか妙な箱型の機械を取り出し、 患部に電極をあて放電………。 後で聞いたら一種の電気治療に使うものらしいが、 特に治りが早かったということは無い…。
母が弟の出産の時、俺の面倒見てもらうため母方のばあちゃんちによく行った。 よくホットミルクを飲ませてくれた。 砂糖をたくさん入れるから少し甘すぎたけど、今となってはいい思い出。 ちなみに父方、母方両方の祖父母はみな元気です。
間違えて名前欄にsageと入れてしまいました。すみません。
13 :
大人になった名無しさん :03/12/19 13:39
>10 なんのプレイですか?
14 :
大人になった名無しさん :03/12/25 20:45
うちのおばあちゃんは冬生まれ。 私が凄く小さかった頃に、季節は秋だったのだが、 おばあちゃんに”誕生日プレゼント”と言って秋の花を手渡した。 もう10年以上前のこと。 おばあちゃんは今でも実家に帰るたびにその話をする。 今年のおばあちゃんの誕生日には、豪華な赤い花束でも贈ろうかな…
あぼーん
あぼーん
あぼーん
18 :
大人になった名無しさん :04/01/02 18:07
父方の祖母がさっき亡くなった。一昨年くらいから体調が悪かったようで 昨年も入院騒動があったりしてたが、今日実家へ行くか行かないかと いうことで親だけ行くことになり、その親が帰っている矢先に倒れたらしい。 自分が最後に会ったのは去年の10月か11月頃だったかな、元気だったのに… 安らかに眠ってもらいたい。
19 :
大人になった名無しさん :04/01/02 18:53
うちなんて祖父は自殺でしたが何か?
20 :
大人になった名無しさん :04/01/03 00:47
小さい頃田舎でボール遊びをしてて、 大事にしてたボールを裏の山で無くして 結局見つからずに、しょげながら家に帰ったのを おじいちゃんが見てて、 2〜3週間後おじいちゃんが見つけて、 俺の家に送ってくれたのが すごいうれしかった。 広い山の中で小さなボールを見つけるのってすごい大変だったと思うが
21 :
大人になった名無しさん :04/01/03 05:21
祖父の遺言『時の政府を信用するな』
22 :
大人になった名無しさん :04/01/03 07:30
>21 何があったんだ…その爺ちゃん…やっぱり軍隊?
24 :
大人になった名無しさん :04/01/12 22:56
漏れのじいちゃんは父が若い頃死んでて、 子供の頃じいちゃんと思ってた人は「ひいじいちゃん(明治18年生まれ)」だった。 夕方になるといつも相撲を見てたっけな。
25 :
大人になった名無しさん :04/01/14 00:20
75過ぎるととたんにボケまくり出すよな?
26 :
大人になった名無しさん :04/01/14 12:28
おばあちゃんの思い出。 食べ物は粗末にしちゃいけないよ、と教えてくれながら 炊飯器に残った米粒を集めて庭でスズメにやっていた。 美食家とかが一口食べて残してしまうとかいうのは 例えマンガの世界でも心痛む...
27 :
大人になった名無しさん :04/01/14 12:48
うちのばあさんなんか余計に米炊いて鳥にまいてますが何か? そんな余分な金うちにはないんだからやめてくれ!!
28 :
大人になった名無しさん :04/01/14 15:06
"捨てる"じゃなくて鳥だろうと人間だろうと 食物が誰かのカラダに変わるんならいんじゃないの? まあウチにも余分な金はないけど(つД`)
29 :
大人になった名無しさん :04/01/17 16:48
おばあちゃんには色々騙されたなぁ。。。 米一粒に7人の神様が住んでいて、 一粒でも残すと神様が泣くのだ、といわれた。 あと、嘘をついたら地面に向かって閻魔様に謝りなさいとかw 昔はいちいち謝ってた。 子供の頃、自分の世界には閻魔様もホトケサマも神様も居たけど、大きくなったら居なくなっちゃったな…
30 :
大人になった名無しさん :04/01/17 17:49
働き者だった祖父。 花とか綺麗なものが大好きで、頑固だけど暖かい人だった。 最期の言葉は母に言った「死ぬのって怖いなあ」 後から聞いて、傍にいられなかったことを激しく後悔した。 もう一度会って謝りたい。
31 :
大人になった名無しさん :04/01/21 19:50
>>29 >子供の頃、自分の世界には閻魔様もホトケサマも神様も居たけど、大きくなったら居なくなっちゃったな…
なんかマジでセピアな気分になったYO
32 :
大人になった名無しさん :04/01/21 19:57
おじいちゃんの家に遊びに行く度に 「また、おーきくなったなあ」 "たかいたかい"をしてもらった。 今のじいちゃんは重いもの持ちあげるなんて出来ないんだよな。 でも嬉しくて何回もやってもらった事をしっかり覚えてる。 もう25年以上前の事だけど。
33 :
大人になった名無しさん :04/01/21 22:11
私そういうことしてもらった記憶ないなあ。
私が生まれた時でどっちの親の祖父は68歳だったから。
私の父親は末っ子(一番上の姉と16歳差)、母親は中間子だった。
母方の祖父は結婚遅かった(31歳)。
>>32
34 :
大人になった名無しさん :04/01/22 13:43
おじいちゃんが寿命で死んだ時、私は5年生だった。 人が死ぬということを初めて体験するわたしは、怖くてじいちゃんが寝てる部屋に行けなかった。 じいちゃんごめんね。大勢集まってる中に私が居ないこと気づいてくれてありがとう。 ばあちゃんが入院してた時、私は高2だった。 お見舞いに行ったらいきなり「あんた誰?」と言われて怖くなった。この前は普通だったのに。 それから怖くてお見舞いに行けなくなってしまってごめんなさい。 ボケちゃったせいで、看護婦に叩かれたとか、先生が自分を実験台にしてるとか思っちゃって 悲しかっただろうな。誰もそんなことしてないよ、ばあちゃん。 最期に手を握っていた私を見てくれてありがとう。目を開けるのも必死だったよねきっと。 なのに声かけられなくてごめんね。
35 :
大人になった名無しさん :04/01/22 15:36
今でも印象に残ってるが、 ばあちゃんが「闇のパープルアイ」ってドラマの中でヒロインが吐血したシーンを観て笑ってた。 不謹慎だよばあちゃん、あそこは笑うトコぢゃ無ぇよ・・・
36 :
大人になった名無しさん :04/01/25 09:39
いつまでも長生きしてくれ、おじいさんおばあさん 俺は場合幸せなことに四人ともまだ生きてるが、もし死んでしまったらつらいだろうな・・・ 早く一人前になって晴れ姿を見せてあげたい
もう死んでて居ないけど、青森のじいちゃんばあちゃんと違ってすんごく優しかった。
戦争に行って明治天皇に勲章貰ったほど立派な人で、死ぬまで水彩画を描き続けてた。
あの時の俺にとってはよき理解者で頼りになる神様のような人だった。
なぁじいちゃん、何故アンタが死んだのか解んねぇよ・・・俺にとって唯一自慢できる存在だったのに。
やべぇカキコしてたら泣けてきた・・・(つД`)
>>36 わかるよその気持ち。早く定職に就かないと天国のじいちゃんに会わせる顔が無い・・・
ちなみに
>>35 で書いた事は仙台に居るばあちゃんの事だよ。
これがまた青森のばあちゃんに負けずに劣らない嫌味な人でねぇ・・・
>>37 俺今大学三年で、修士まで行く予定だからあと3年間は就職した姿を見せられない
でもそれ以上に問題なのはひ孫なんだよな
母方のじいちゃんなんか口には出さないけど俺が結婚してひ孫が出来るの滅茶苦茶楽しみにしてるっぽいし・・・
しかし俺の弟や従弟の方が早く結婚しそうな罠(鬱
>>38 >俺の弟や従弟の方が早く結婚しそうな罠
禿同。今の漏れもそんな気がしないでもない
モタ×2してたら追い越されるかもしれん。
>>39 従弟はともかく弟は絶対俺より早そうだよ、結婚
高身長イケメソ、性格がすこぶるいい弟に対して、10人並の顔、粘着質で暗めの性格の俺が勝てるわけが無い
勝ってるのは学歴だけ、互角なのは身長のみ
女にモテる性質は全部弟の方にいってしまったよ・・・
8歳違いの弟に先を越されるなんていやだぁぁぁぁ
考えてみたら思いっきりスレ違いだった ごめん
42 :
大人になった名無しさん :04/01/26 14:16
私も妹と8つ離れてるけど妹は絶対19くらいでデキ婚しそうだと思ってる。 すでに一個下の従妹がデキ婚してるからひ孫は私の担当ではなくなった。 金は稼いでやるからな、じいちゃんばあちゃん! この時代に食事にも困ってるなんてありえないよ・・ 腰の骨折って入院したからって泣かなくていいんだよ、ばあちゃん。 じいちゃんの手術で病院通うんならついでなんだから弁当作ってって頼みなよ。 毎日じゃバカになんないだろうに。 つーか、うちの母、ばあちゃん泣かせんな。少ない年金から光熱費取ってんじゃねーよ。 終いにゃ追い出すぞ
俺が零歳、兄貴が一歳で親が離婚して、赤ん坊から幼稚園まで父方の婆ちゃんに育てられ たんだけど、別れる時はいつも冬で雪がキラキラしてた記憶が。札幌だからだと 思うけど。 親父が再婚して新しい母親と迎えに来た時と、大学時代の最期の二回だけど。 迎えに来た時、日が照ってるのに雪の中で婆ちゃんボロボロ泣いて家の前で手振ってて、 俺も泣いてて、兄貴は達観してるのか大人しかった。 入院してた時の婆ちゃんの手は暖かくて、外はパウダースノーのいい天気なのに 寂しくて全然冴えない気分で。 1週間くらい点滴変えたり手握ってたんだけど、その間100回くらい俺が子供の頃道路に 取り残された話とか繰り返してた。多分記憶が混乱してたのと寂しかったんだと思う。 期末試験なんで俺が帰る時にもう最期だなと思って、やっぱ最期だったんだけど 5年間育てて貰ってその後累計三ヶ月くらいしか一緒に居なかったし、長い間 婆ちゃんは一人ぼっちで、何か試験なんかぶっちぎりで留年しても良かったかな と今でも後悔。一つ上の兄は何かと婆ちゃんにはやさしくしてたんだけど 俺はちょっと人間としてどうなのか?事あるごとに昨日の事みたいに思い出す。 婆ちゃん何にも孝行出来ないでごめんでした。
44 :
大人になった名無しさん :04/02/09 16:22
可愛いけど世話かかるさかりを自分が育てたんじゃぁ淋しかったろうな、ばあちゃん。 おまえは十分孝行したと思うよ。 それより、後悔すると分かってて何もしてやれない俺はどうなんだ・・・
>>44 あんたイイ奴だね〜。サンクス。
俺の場合、失敗して凹んでる時何かと理由を付けて行かなかったりしたのを後悔してる。
婆ちゃんの前でだけはいい子で格好付けたかったってのも有ったが…。
親父なんか1年間100万円以上使って土日に会いに行って面倒見てたのに
俺は何となく過ごすだけで月日を過ごしたっつーか。
後悔したくなければ、うざい自分の感情は切り離して、何度も会いに行く事だと思う。
46 :
大人になった名無しさん :04/02/12 17:17
昨年の正月、ばあちゃんが亡くなった。 その前年の年末、餅つきを手伝いに行ったんだよ。 田舎なんで、コンニャクとかも家で作るの。 しかも外で火を焚いてさ。 で、俺さ火を焚くの好きでね、火の番してたんだ。 無事、コンニャクもできて一服してたらさ ばあちゃんが寄ってきて 「火ぃ見てんのもつらかんべ」 訳(火を見てるのも大変でしょう?) って言うから 「火わすらと一緒だよ」 訳(火遊びしてるのと同じですよ。) って笑って答えたら、ばあちゃんも「ヘヘッ」って笑った。 つきたての餅を食べて、車で帰るとき珍しくばぁちゃん縁側まで出てきて ずっと、ずっと手を振ってるんだよ。 ちっちゃくって、なんかかわいくて、にこにこしてた。 ばあちゃん、俺はなんか気恥ずかしくて「ばあちゃん」ってちゃんと呼んだこと 無かったな。ばあちゃん孝行もできなかったな。 ばあちゃんの打ったソバ大好きだったよ。 もう食べられないんだね。
>>45 会いに行きたいけど金ないんだよ。電話とかすると母親が狂って怒るしな。
それすら言い分けだけど、毎日楽しみもなく暮らしてるって言うばあちゃんに何してやればいいんだろ。
まずは母親と喧嘩からはじめるか。
>>47 45とは違うけど・・・。葉書一枚でもさ、なんでもいいんだよ。それが楽しみだし生きる喜びに変わるよ。47のお母さんはお婆ちゃんと仲が悪いのかな。(´・ω・`)
49 :
大人になった名無しさん :04/03/07 18:46
あげー 帰りたいな。 春から就職だから、それまでは家でばあちゃんと過ごしたい。
50 :
大人になった名無しさん :04/03/07 19:11
(´・ω・`)バーチャン、、、。
51 :
大人になった名無しさん :04/03/08 09:58
おばあちゃんの作った、うどんが大好きだった。 おばあちゃんと一緒に、畑からスイカを取ってきて食べた。 なんで、頭が痛いのに車に乗っちゃったんだよ。 俺が二十歳になるまで、いや、もっともっと長生きするって言ってたのに。 何にもできないじゃんかよ。「ありがとう」くらい、言わせてくれよ。 スレ違いでスマソ
きっとお婆ちゃんは君の成長を天国で見守っているよ
53 :
大人になった名無しさん :04/03/09 12:04
おじいちゃんの家の玄関には靴べらがなぜか十数本あった。 それを使ってチャンバラごっこした。どこで憶えたんだかわかんないけど。 手加減無用でぶったたいてごめんなさい。女の子なのに。
お婆ちゃんはまだ生きている
55 :
大人になった名無しさん :04/03/11 22:45
じいちゃんは寡黙で頑固だけど情のある人でした。当時飼ってた犬が脱走した時も 見つかるまで一緒に探してくれたのはじいちゃんでした。体調崩して救急車呼んだ 時も担架に寝かされて運ばれるのが嫌で、ばーちゃんとねーちゃんが止めるのも聞かず 自分の足で庭まで出ていくような人でした。それから入退院を繰り返すようになり、 そろそろ危ないから・・と両親に言われて病院に見舞いにいった時、チューブをいっぱい つけられて顔が膨らんだじーちゃんが俺に向かって「じーちゃん苦しいわ」と言いました。 そのとき初めてじーちゃんの弱音を聞きました。 別の日に母親が見舞いに行ってて、いった 家に帰ってきてた時にじーちゃんは病室で一人で亡くなりました。 みんなは一人で逝かせて かわいそうだったって言ってたけど、俺は自分の汚いところ、弱いところを見せたくない じーちゃんらしいと思った。 明治生まれの男を感じました。
56 :
better ◆GqkQxjAQB. :04/03/13 13:33
おじいちゃんへ 漁師をやっていたときのおじいちゃん、 凄くかっこよかった 俺もじいちゃんみたいになる!って猿のように喚いていたね 三年前やっと漁師になれた でもじいちゃん俺が漁師になるまで待ってくれなかった 入院していたとき、本当は凄く苦しいはずなのに俺が来るといつもにこにこ笑っててさ、 母さんからもう助からないって何度も聞かされたはずなのに 「もしかしたら」とか「あの調子なら大丈夫だろ」って思ってた 俺はガキだったから、バカだったから、じいちゃんが死んでもちゃんとよく分かってなかった いっぱい我が儘言った。 ごめんなさい 再び報告します。 俺漁師になれました そして来月、結婚します。
57 :
大人になった名無しさん :04/03/13 23:55
いいスレだ・・・
脳梗塞で入院しているじいちゃんへ 来週いくからまっててね
59 :
大人になった名無しさん :04/03/15 14:58
60 :
大人になった名無しさん :04/03/15 22:58
60get
62 :
大人になった名無しさん :04/03/15 23:48
泣けた
漏れのばあちゃんは、親父生む時医者から心配されるほど体が弱かったらしい。 だから、盆と正月に田舎に行くといつも「もう次は会えないんだろうねえ」が口癖で 思い残すことがないようにという気だったのか、めちゃくちゃかわいがってもらった。 漏れは覚えてないが、おふくろによると、田舎から漏れ達が帰るときは、ばあちゃん いつも涙流してたらしい。 でも、そんな人だから体に気を使ってたのか、漏れが覚えてる限り、いつも元気で 病気してるとこなんか見たことなくて、90過ぎても自分のことは自分でしてたくらい 元気な印象しかなかった。 ・・・そんなばあちゃんが、こないだ入院した。94歳の誕生日に見舞いに行ったら、 ベッドで管通されて寝てるばあちゃんが、なんだかすごく小さく見えた。寝てたけど 起こすのもなあ、と思ってしばらくばあちゃんのベッドの脇に立ってたら、ばあちゃん 目を覚ました。ちょこっと話をしたけど、ふとばあちゃんに「おばあちゃんが死んだら ○○(漏れの名前)のこと一生懸命守るからね。」って言われた。なんか、ばあちゃん すごく遠くなったようで、ますます小さく見えて、いたたまれなくなった・・・。 おばあちゃん、そんなさみしいこと言わないで・・・。早く元気になってね。
64 :
大人になった名無しさん :04/03/18 14:10
うちのばあちゃんもそれ、いつも言ってた。 車で30分の盆正月と言わずいつでも会いに行ける距離なのに、 車を持ってないばあちゃんには遠く感じたんだろうな。 最近じゃじいちゃんまで言い出したよ。今度は飛行機で2時間半と実際遠いけど まだまだ元気だと思ってたのに不安なのかな・・
ばあちゃんが亡くなって、実家へ帰ったら父親に『弔辞を読む人が数人いるんだけど、 最後に孫のお前も読んでもらう事になったから』と急に言われた。 弔辞なんてどういう事を述べればいいんだ?と全く無知だった私は、下書き用のノートを目の前に 悩んでいた。叔母に相談したところ、ばあちゃんの思い出を書きなさいとアドバイスをもらったので 昔の思い出をあれこれと巡らせてみた。 夏の暑い日に学校からヘトヘトになって帰った私に氷入りでグラスいっぱいの麦茶を すぐに出してくれた事 お湯で溶いて冷やして作るゼリーを作ってくれたんだけど分量を間違えて固めにできて 『ハイカラなの、作り慣れね。』とちょっと照れながら出してくれた事 私の結婚に母親が猛反対で大喧嘩してる間に割って入って私を守ってくれた事 そして息を引き取る前までずっと『あの子は母親に出て行けって言われて可哀想だった』と 付き添いの叔母に言い続けていたという事 弔辞を書くより、ぼろぼろ涙が出てきて大変だった。 やっと書き上げたものをお寺で読み上げる時、また泣きそうになってしまったけど頑張った。 その傍らで父親が声を押さえずに泣き出した。 そんな泣き方をする父親を見たことが無いと、母親は言ってた。 あれから2年、弔辞を書くために引っ張り出した思い出はより一層私の心に 残っている。
いいスレだ!
自分が消防の頃、親やじいちゃんは農作業のため学校から帰ると家には ばあちゃんしかいなかった。だから自然とばあちゃんっ子になった。 学校から帰ると丁度おやつの時間だったのでばあちゃんはよくご飯の余りで 塩だけのおにぎりを作ってくれた。それがすごく好きで毎日楽しみに待っていた。 自分でも喜んで食べてたし、ばあちゃんも嬉しそう顔をほころばせていた。 でも中学生になって人並みに反抗期になりいつしかばあちゃんとの会話もまともに しなかった。当然おにぎりも食べなくなった。親に反抗はしなかったけど代わりに ばあちゃんに反抗してたんだなぁと今になって思うよ。 それが中3のある日、突然旅立った。誰にもさよならを言うことなく風呂場で 静かに亡くなった。葬式中、もう会えない、謝ることも何かしてあげることも 出来ない・・・そう思った瞬間ボロボロと涙が出てきた。死んだ直後や通夜でも 泣かなかったに人目を考えず大泣きした。多分今までの人生の中であれ以上に 泣いたことは無かったと思う。 あの塩おにぎりが食べられないんだなぁと思うと今でも涙腺が潤んでくる。 あれ以上に美味いおにぎりは今でも食べたことが無いなぁ・・・
68 :
大人になった名無しさん :04/04/18 19:14
私の祖母は小学校2年生のときに亡くなった。癌だった。 幼稚園のときにおばあちゃんの家で食べさせてもらった豆ご飯おいしかったなぁ 美味しい美味しいって4杯も食べたらおばあちゃんにこにこ笑ってた。 よく散歩に行ったり、ゲートボールしたりしてて、すごい元気だったのに。 最後に会った時に、辛いのにエレベーターまで見送りに来てくれた。 病室で何を話したのかは覚えてない。 おばあちゃんは死ぬのを怖がっていなかった。 絶対天国に行くって、信じてたから。 悲しかったのにお葬式が始まっても泣けなくて。 しばらくしてお母さんがお年玉をくれた。(年末に亡くなったから) おばあちゃんが取っておいてくれたお年玉だった。 そのとき初めて涙が出てきた。
昔、母方の祖父の家に見舞いに行き、少しボケてきて 体が不自由になった祖父を車椅子に乗せ川原へ散歩しに出かけて 暫くしてから家に帰り祖父をベッドに寝かせた時 私の手を握って「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」 と泣きながら何度もありがとうと言ってくれたあの時の 祖父の泣き顔と、強く握り締められた私の手の痛さとぬくもりを 祖父が亡くなって数年経つ今でも私は決して忘れた事はない。 そして、その時どんなにいい人もわるい人も いつかは必ず死ぬことを改めて実感した。
70 :
大人になった名無しさん :04/04/27 23:48
スレタイ見た瞬間に、万感が胸に迫って涙出てきたよ・・・ 祖父ちゃんごめん、こんな孫に育ってしまって・・・ あんなに大事に手塩にかけてくれたのに・・・自慢の孫だって言ってくれたのに・・・
71 :
大人になった名無しさん :04/05/07 21:26
まず父方のじいちゃん 黒ふちメガネかけていつも着物着て下駄をカラコロ鳴らして歩いてた。 いつも怒られてた気がする。頭ははげてなかったどこに住んでたかもしらない。 記憶に無いまま天に逝ってた。ばーちゃんは父が中学の頃亡くなったらしい。 母方のじいちゃん お金持ちだった。顔出すと必ずお小遣いくれたっけ「おお○○か。こっちこい」とか言いながら。 いつも競馬してたような・・・ ばーちゃん 特に記憶に無いんだけど顔が怖かったな。母が先に逝った時、体調崩してて 葬式に出れなかったんだけど、49日の時めちゃくちゃ泣いてたっけ。 みんな天に召された。 祖父母は俺に対してどんな期待を持ってたんだろう。 ごめんよ答えられなくて、墓参りにも行かなくて。 俺そろそろ母に会いたいよ
72 :
大人になった名無しさん :04/05/09 03:19
70歳のおじいちゃんが、ある日いつものように電話をかけてきて、 「あした行くから」と僕をリザーブした。 そのつもりで次の日待っていると、ずいぶん意気消沈した顔で彼はやってくる。 どうしたのかなと思いつつも、いつものようにシャワーを浴びて おちんちんを舐めていたのだが、いつもなら何とかして勃つおちんちんが今日はまったく勃たない。 15分そのままトライしていると、おじいちゃんが「無理なんだよ」と情けない声で言う。 「だって、きのうアキラ君の声を聞いたら無性にオナニーがしたくなって、 我慢できずに2回もしてしまったんだもの」。 それから、僕たちはガイドラインを作ることにした。 簡単なことで、会う2日前からオナニーを禁止するというものだ。 それにしても70歳でこの精力というか、生命力には驚いた。 驚いたけど、そのあと少しだけ尊敬した。 生きることとセックスすることはつながっているんだと実感した。
2年前、色々嫌な事があって、家出してて、漏れが帰ってきた時、 爺さんは、ちょうど退院したところだったよな・・・。 夜、もうすぐ桜が咲くから、見に行きたいとか、 早く就職しろとか行ってたのに、 2日後に老衰で亡くなるなんて早すぎやろ・・・ 爺さん、もう桜散ったけど、今年も綺麗に咲いたよ・・・ 俺もブラブラしてたけど、3回忌を前に仕事決まったよ・・・ 生きてるうちに言いたかったけど、もう遅いけどね・・・
小学生の時熱がでて早退すると、おばあちゃんが自転車で学校まで迎えに 来てくれた。遠いのにお医者さんにも連れていってくれた。 家から小学校が遠くて近くに友達がいないので、夏になると学校のプール まで自転車でおくってくれた。帰る時間になると、学校から少し離れた ところで待っててくれた。 中学や高校に入って、帰りが遅くなると、駅から少し離れた街灯の明かりの下に 自転車を持っておばあちゃんが立っていた。いつ帰るかわからないから来なく ていいよと言っても、運動になるからといって笑っていた。どれだけの間待ってて くれたんだろう。。 大学で東京に行くことになっても、おばあちゃんのことだけが心配だった。 私がいない間に死んでしまったらどうしようと心配で仕方なかった。 でも生活にもなれてそんなことも忘れていた夏のある日、なぜかお母さんから 「おばあちゃんに電話してあげて」とメールが来た。 でもその時忙しくて、おばあちゃんは元気だったから明日でもいいかなと思って 電話しなかった。 そしたら次の日の早朝、おばあちゃんが畑で倒れて突然死んでしまった。 家に帰ったらもう通夜の準備ができていて、おばあちゃんは冷たくなっていた。 毎日毎日泣いた。どうして電話しなかったんだろう。 おばあちゃんへの感謝やごめんねの気持ちを手紙に書いたら14枚にもなった。 あんなによくしてもらったのに、苦労かけたのに何ひとつお返しできなかった。 3年たった今でも夏の青い空を見ると、この空の下のどこを探してもおばあちゃん はいないんだな、、と思う。
75 :
大人になった名無しさん :04/06/22 18:11
やべっ 8行目で泣いた(ノД`) ってか藻前ヨスギ
76 :
大人になった名無しさん :04/06/22 22:14
昨年の冬、祖父と祖母を続けて失くしました。 思い出をここで話そうと思ったけどやっぱ無理・・・。 寂しいよぅ・・・。
77 :
祖父の思い出 :04/06/23 03:15
私が2歳の時、両親の離婚により父方の実家に預けられた 実家は農家を営んでおり、牛・豚・鶏の飼育もしていた 私も必然的に手伝いをするようになり、そん中で祖父母は非常に可愛がってくれた 決して裕福とはいえないものの、この生活が私には気に入っていた 中学にあがる頃になって祖父は「もう体がもたないから飼育はもう辞める」 と牛以外辞めてしまった それから畜産の規模を縮小したものの、祖父はそれまで以上に働いた それも跡継ぎである叔父の2倍も3倍も・・・・・・ 「どうしてそんなに働くの?」と聞くと決まって「わぁ(自分)さ、これしか無ぇがらよ」が口癖だった 祖父は70歳で、朝5時〜昼〜夕方7時というハードスケジュールで毎日働いた 手伝いに行った私の方が疲れてしまうと「無理すんな!休め」いう 私は休まず働き続けている祖父の姿が未だにまぶたに焼き付いている 祖父に異変が起き始めたのは私が高校にあがる辺りだった まともに飯を食わなくなったのだ(白いご飯に水をかけただけのものと味噌汁くらい) あまりの拒食さから祖母をはじめ、父の兄弟も病院にいくことを勧めたが、 祖父は断固として行こうとしなかった 私も病院に行くようにかなり語気を強めていったことはあったものの、 心のどこかで、じいちゃんは体が丈夫だから平気だなと思ってた
78 :
祖父の思い出 :04/06/23 03:16
そんな祖父も高3の春入院した しかし、私は別段気にならなかった じいちゃんは丈夫だからと思ってたから 心配することもないと思っていたが、父に連れられ一度見舞いに行ってみると 血色もいいし、「退院したらまたバリバリ働くぞ〜!」と非常に元気だった ところが、予定の3週間の入院を終え、実家に帰ってきたと思っていた矢先に 病院を移転するという話・・・なんで元気になったのに病院変えてまで再入院する 必要あるんだよ?と私は全く腑に落ちなかった 転院まで一週間家にいるということで、祖父は畑に少し顔を出したり、 散歩に行ったりした 再入院するということなので私も心配して一緒に歩いた 丁度その頃、家の裏では八戸新幹線の陸橋工事をしていたのだが、祖父は 「すっかり変わっちまったなぁ、ここも・・・わぁが婆と2人で耕した土地が今じゃ新幹線通る 言うがらなぁ何か寂しいもんだ」と私に言った 私は「そうかなぁ・・・?」と返事しただけだった それが祖父との最期のやり取りになってしまった
79 :
祖父の思い出 :04/06/23 03:16
入院してからも私はあまり心配してなかったので、見舞いに行こうとは思わなかった ただ、骨粗しょう症で通院していた祖母が毎日見舞いに行き、その日どうしていたか 漠然と聞くのみで、私はといえば期末考査だーダルィな状況だった 期末考査一日目を終え帰宅すると、叔父が慌しく服を着替えていた 何かあったの?と尋ねると、急に爺のの容態が悪くなったらしいんだじゃ・・・ ハァ?何言ってんのさ 昨日だって見舞いに来た婆ちゃんにソバ食ってけ言ってた らしいじゃないの? 結局それから家に誰も帰って来ず、私は一人で帰りを待った 父から「今テストやってるんだからおめーは勉強しとけ」と言われた訳だが、 どうも落ち着かない 叔父の慌てぶりが気になってしょうがなかったからだ 深夜0時過ぎ 電話がかかってきて「爺死んだじゃ・・・・・・・・」 正直、訳分からなかった 死んだって・・・・・・嘘でしょ?だってオラ転院してから一回も 見舞いに行ってないんだよ!!!そんなヤバイなら俺も連れてってもよかったじゃないか!! 初めてだった 一度も父に怒ったことが無かった私が父に向かって罵倒したのは それに認めたくなかった あんな頑丈な体のじいちゃんがそんな簡単に死んじゃうなんて 一時間後、真っ白な顔をして祖父が家に帰ってきた・・・ 安らかに眠ったその表情を見て私は、声を上げて泣いてしまった 何で一度も見舞いにいってやらなかったんだ俺は!!もう後悔ばかりが胸を打って 涙が止まらず苦しかった 人の死に目にあったのも初めてだったので 人が死んだときはこんな苦しい思いしなきゃならないんだと痛く感じた その後父から祖父は、完治することが出来ない病気をもっていたと聞いた もう罵倒する気は起きなかった
80 :
祖父の思い出 :04/06/23 03:17
祖父が亡くなった後すぐ、父は30年間勤めた会社を退職した 「体がもたねんだじゃ」という父だったが、私には祖父の残した農業を繋ぎとめておきたい のだとよく分かった テストも無事終わり、私も休日父と共に畑に向かった・・・ この畑で汗水流して働いていたんだなぁと思うと、次から次へと涙がボロボロ 父もいつの間にか嗚咽を漏らしていた もう仕事どころではない じいちゃん子だっただけに、私もその死は非常にきつかった と、同時に残された祖母を大事にしていかなければならないと強く決意できた あ〜いかん!!カキコしてたら祖父の元気だった頃思い出して、ボロボロだ 無駄に訳分からん内容+ヘボイ長文で申し訳ない
>>77-80 うっ…読んでたら涙が止まらなくなった。
私もおばあちゃんっ子だからここの板読んでると辛いよ。
おばあちゃんがいなくなったら私どうなるんだろう。
絶対耐えられない。辛い。怖いよ。
おばあちゃんがいなくなる事が怖くて、ひたすら
“時なんか過ぎなければいいのに”
…と強く思う今日この頃。
お願いだから遠くになんか行かないで欲しい。
82 :
大人になった名無しさん :04/06/23 22:57
昨年亡くなったばーちゃんのこと。 ばーちゃんには子供ができなくて、私の父を養子として迎えていたため 孫も私達3人姉妹のみ。特に末っ子の私をじーちゃんもばーちゃんもかわいがてくれた。 3人姉妹の末ともなると、姉からの厳しいしつけ(別名いじめ)があった。 私に見たいテレビがあっても私にはチャンネル権はなく 横から来て歌番組に変えてしまった。 そんな時は祖父母の部屋に行って、マンガ見させてもらったなぁ・・。 あと、姉の分のポテチを私が食べちゃったときにはばーちゃんは 「私が食べたことにしといてやるから」って言ってくれた。 理容師の妻になることになったとき、ばーちゃんは「いつか私の顔を 剃ってくれい」と言ってた。でも、してあげられなかった・・・。 去年の冬、突然脳梗塞で倒れてそのまま逝ってしまった。 ごめんね、ばーちゃん。何も孝行してあげられなかったよ。 孝行の代わりって言っちゃおかしいけど 幸せになれるように頑張るよ。 人って亡くなって姿が無くなったとしても、いつまでも心の中に 生き続けるんだな、と最近思うようになった。
83 :
大人になった名無しさん :04/06/24 13:08
俺のジイさんは元軍人だった。 終戦直後は生活に困窮していたらしくて、 あの頃バアさんのミシンで食わして貰ったとよく言っていた。 俺が前の会社に就職する時、 手に職を付けておいた方が良いのじゃないのか。 会社はいつ倒産するか分らない。 俺など国が倒れたのだから。 と言って忠告してくれた。 俺は業界でも大手と言われている会社に就職したのだが、 やがて経営不振が続いてリストラされた。 人生を長く生きて来た人の言葉には重みがあると今にして感じる。
84 :
大人になった名無しさん :04/06/24 22:43
うちのじーちゃんももうそろそろ危ないような気がする。(今年で91です) ここ見てたら今年の夏休みは田舎に帰って顔を見ておこう、と思いました。
足を骨折した上に、痴呆が始まったから、 もう病院から出てこれなくなったおばあちゃん。 何年も入院してたのに、俺は殆どお見舞いに行かなかった。 仕事が忙しいとか、なんとか理由を付けて行かなかった。 子供の頃、あんなに俺を守ってくれた人なのに・・・ 返しても返しきれないほど、恩があるはずなのに・・・ 2週間前、肺炎になり、もう長くないからと言われ、 久しぶりにお見舞いに行った。 呼吸器を付け、本当に苦しそうにしていたけど、 俺が顔をのぞき込み、「おばあちゃん、○○だよ」と言うと、 本当に嬉しそうに、にっこり笑ってくれた。 もう喋れないくらい衰弱していたのに、笑ってくれた。 そばにいた母が言った、 「あんたを待ってたんだよ。どんなに惚けても、あんたの事だけは忘れなかったからね」 ごめんなさい、おばあちゃん。 何一つ恩返し出来なくて、ごめんなさい。 あの日の笑顔は一生忘れません。 今日、お通夜です・・・・
86 :
大人になった名無しさん :04/06/25 11:48
小さい頃、じいちゃんの禿げ頭をしゃもじで叩いてごめんなさい。 先日ママンから初めて聞きますた。
87 :
大人になった名無しさん :04/06/25 12:14
いつものんびりとみんなを癒してくれた、大好きなジィちゃん。 いるだけでくつろげたっけな。 ジィちゃんはその日、NHKで大相撲見てた。 いつもの風景のはずだった。 だけどいつも元気なジィちゃんが珍しく、 「頭が痛い」 と漏らしていた。 深く考えず、じゃあカゼ薬でも飲んで寝てなよ。と遊びに行った私。 その夜友達と遊んでいると家からしつこく電話がかかってくる。 どうせ帰って来いとうるさく言われるんだろうな…うざったくてシカトした。 2時間後、ふと携帯を見るとものすごい不在着信の数と 留守番電話のマーク。 何かあったのかな? 「ジィちゃんが危篤です!アンタどこにいるの!!今○○病院だから早く来なさい!!」 ……え??何この伝言。 危篤?嘘でしょ。夕方元気だったじゃん。 半信半疑のままとりあえずタクシーで病院に向かった。 到着した私を出迎えたのは、 「霊安室へどうぞ」 無機質な看護婦の声。 まだ信じられないまま霊安室へ向かった。 何だか足元がおぼつかない。 霊安室に横たわる真っ白なジィちゃんを見て、 私の頭の中も真っ白になった。
ごめんね死に目に会えなくて。 電話にちゃんと出てればよかった。 遊びになんて行かないで一緒にいてあげればよかった。 救急車もっと早く呼んであげればよかった。 そしたら大好きなジィちゃん、もしかしたら今も生きてたのかな 5年前の出来事。 やだ本当に泣けてきた。
89 :
大人になった名無しさん :04/06/25 15:56
>>87 ばか。なんのための携帯電話だ。
じいちゃんのこと忘れんなよ。
>>89 うん。今でもジィちゃんのこと、すごくすごく大事です。
だから、
ものすごい後悔してる。
とても苦しい、心の痛み。
脳内出血だったから本当にあっという間だった。
人って、あっけないんだね…
だから今は周りの人みんなを大事にしたいと思っています。
本当にごめんね、ジィちゃん
91 :
大人になった名無しさん :04/06/25 20:56
その気持ちをずっと忘れちゃだめだよ。 でも過去はもう修正できないんだから、それを教訓にして前向きに生きなよ。 それが一番の恩返しなはず。
>>91 はい、ありがとうございます。痛みを忘れずにがんばりますm(__)m
俺もじいちゃんの死に目にあえなかったなぁ。 ある朝、ご飯を食べた後、突然倒れてそのままだったらしい。 会社に「亡くなった」という電話が来たときは、全然実感がなかった。 でも、 実家に帰って、亡くなったその姿を見たとき、泣けて泣けて、どうしようもなかった。 親戚と飲んでいたお酒のせいもあり、 「なんで、もっと優しくしておかなかったのだろう。」 「なんで、あのとき、こうしてあげておかなかったのだろう。」 「なんで、…」 というように、後悔ばっかりが、頭のなかをぐるぐる回っていた。 4時間くらい、酒を飲みながら、泣き続けていた。 (あとで親父が言っていたが、ヘンになったと思ったらしい。)
翌日、遺体を棺桶に入れる際、じいちゃんの体を持ち上げた。 その時、「なんて軽かったんだ。」と、また泣けてきた。 火葬場で棺桶が焼かれるとき、また泣けてきた。 遺骨を壺に入れるとき、また泣けてきた。 とにかく泣き続けた日々だった。
あの日以来、人に対して優しくなった気がする。 気持ちだけかも知れないけど。 人が亡くなったときに、もう後悔をしたくない。
96 :
大人になった名無しさん :04/06/26 21:16
>94 その気持ち分かるよ。私もおじいの体を拭いてあげるときに すっごくちっちゃくなってたの見て、ショックだった。 普段寝たきりだったから布団から出てる顔しか見たことなかったんだよね。 私が小さな頃、よく入っていったひざはもうガリガリで見る影もなかった。 亡くなったときに後悔しないように、人に対してやさしくしなきゃ。って 思うよね。
97 :
大人になった名無しさん :04/06/30 15:11
98 :
大人になった名無しさん :04/07/06 02:43
戦争体験者で、しなくてもいい苦労を沢山してきた じいちゃん。 基本的に昔人間で気難しい所もあったけど普段はニコニコしている人だった。 ただ三年前同居してから重度の痴呆に。 よく父さんも母さんも、オムツを外そうとしていたのを怒っていた。 勿論憎くて怒るわけじゃないけど、24時間介護は尋常じゃない。 それでも、時々子供に帰ったような笑顔で笑ってくれるのが嬉しかった。 私は痴呆でも、どこか、じいちゃんだからと一線を引いていたけれど もっと、もっと、一緒に過ごせば良かったな。ただ受験とかで一緒に住んでいても 顔も会わせない時も会ったし・・・後悔してる。 夜でも度々怖いと言って手招きしたのに、「大丈夫だよ」と言うだけだった。 夜は怖いんだよね。怖くなくなるまで一晩中でも傍にいてあげれば良かったよ。 今更遅いよね。天国には婆ちゃんもいるし、仲良く、楽しくして欲しいな。 次に会えるのはお盆だから、それまで胸張って会えるような生活するからさ。 ね、じいちゃん。
99 :
大人になった名無しさん :04/07/06 07:32
じいちゃんがトイレ入った後に俺も入ったら、床にクソが転がってた ことがあったな。 そんな思い出しかない。
100 :
大人になった名無しさん :04/07/10 14:25
今も生きてるばあちゃん、一緒に住んでたからかよく怒られた。 なんでこんなにだらしないのとか、台所使ったら片付けろとか、 夜中まで起きてるなとか、ステレオタイプの叱り文句はすべて 使われたなあ。でも、ボタン付けてくれたり大学いも作ってくれたり、 料理の仕方教えてくれたりと、何かと助けられた大好きなばあちゃんだ。
小さいころからじいちゃんっ子だった俺 何処へ行くときもいつも自転車の後ろに乗っけてもらってた(らしい) そのじいちゃんが、俺が高校生のときに入院した 本人には告げてなかったが、癌だった もって半年と聞かされた でも病院へ見舞いに行くと、いつも 「よぅ来てくれたなぁ。婆さん、小遣い渡してやってくれ」 と俺への気遣いばっかで泣きそうになった 余命半年と言われても、じいちゃんは頑張って一年生きた じいちゃん、最近墓参り行ってないけど、試験終わったら顔見せに行くからな 俺はどうしょうもない馬鹿のままだけど、どうかこれからも見守ってて欲しい
102 :
大人になった名無しさん :04/07/12 20:36
子供の頃、物置兼車庫の奥に一台の古びた乗用車がおいてあった ダットサン17型フェートン 祖父ちゃんが海軍少佐任官記念に購入したものだ 自動車なんか高嶺の花の時代 当時の少佐の俸給でも非常に高価な代物だった 祖父ちゃんはスマートな海軍を地で行くようなお洒落な人物だったと聞く 手元に一枚の写真がある 念願の自動車の前で、祖父ちゃんと祖母ちゃん 子供の頃の親父が写っている 濃紺の軍服をパリッと着込み、咥え煙草で微笑んでいるのが祖父ちゃんだ その祖父ちゃんは昭和19年、フィリピンのスリガオ海峡で戦艦扶桑と共に戦死した 戦艦扶桑は火薬庫引火で大爆発を起こし、艦長以下生存者は全くいなかったそうだ 無論、遺骨などは無く 愛用のカメラや家伝の刀も海の藻屑 残されたのは代えの軍服と短剣 そして例の自動車ぐらいのものだった 戦後、残された自動車は親父の運転で奮闘する 近くの航空基地からドラム缶数本ごと運んできたガソリンを使い 闇市の買出し 親父の仕事 そして家族旅行 本当に家族の足となり長らく走り回った
103 :
大人になった名無しさん :04/07/12 20:37
時は流れ、家族の足の役目は新しく購入したブルーバードに取って代わり 役目を終えたダットサンは、車庫で休眠に入った 俺が小さい頃は既に休眠状態だったが、たまに祖母ちゃんが車庫の外に引き出して手入れを行っていた 俺もよく手伝わされた 働き通しに働いた、傷だらけの車を入念にクロスで磨き上げ エンジンをかけ そしてその後、祖父ちゃんの思い出を懐かしそうに俺に語るのが常だった 将来俺にこの車を譲るよ、とも言っていた その時の祖母ちゃんの顔は本当に嬉しそうに見えた しばらくして祖母ちゃんが亡くなり、車はある好事家へと売られていった 俺は泣き叫んで嫌がったが、結果的にはよかったのだろう その後その人からも離れ、今はとある自動車博物館へと展示されている 綺麗に手入れされたその車を見に行くたびに、祖母ちゃんの、そして写真の祖父ちゃんの面影が浮かぶ
104 :
大人になった名無しさん :04/07/16 20:42
あの茨城のオバァチャンがこのスレを一度でも読んでいれば・・・
105 :
大人になった名無しさん :04/07/17 10:37
106 :
大人になった名無しさん :04/07/27 22:22
夏休みに祖父母の家に行ったら、朝飯(昼飯?だったか?)は麦飯にキンキンに冷えたみそ汁を掛けた冷や汁だったなぁ。 懐かしいよ。ばぁちゃん。一人暮らしの今でもたまに作ってるよ(漏れ♂だけど)
107 :
大人になった名無しさん :04/07/28 19:38
やさしかったおばあちゃんとおじいちゃん。 俺の母方の祖父母なんだが、母が末っ子で、俺も孫の中では一番下だった。 そのせいか非常にかわいがられた。あのころは親よりもおばあちゃんの料理が おいしいと思った。 おじいちゃんは、近くの山へよく一緒にいってわらびやきのこを取った。 「おいとこしょっしょ どっこいしょ」 こんな掛け声で山登りをしたのを覚えている。 今の俺が釣りが好きなのも、おじいちゃんの影響だ。蜂におっかけられたこともあった。 でもそんなことも束の間。おじいちゃんは体を壊すとあっというまに亡くなってしまった。 おばあちゃんも、小学4年くらいのときに亡くなった。 両親が、おばあちゃんと一緒に暮らせるようにと、新築していた家にはおばあちゃんの和室を作っていた。 しかしそれもかなわずおばあちゃんは逝ってしまった。 今になってから、おじいちゃんやおばあちゃんの昔のことを、母親やおばからよく聞くようになった。 ほんと、今の人とは比べ物にならないくらい激動の人生を歩んできたということを知って、 尊敬するようになった。高校も偶然にも、おじいちゃんが野球部を絶賛していた高校に入った。(部活はやってない) おじいちゃんは厳しい人で、よく怒られもしたが、一緒に外で遊び、いろんなことを教えてくれた。 おばあちゃんはやさしい人で、おじいちゃんに怒られたあと、慰めてくれた。 でも、一言だけおばあちゃんに言いたいことがある・・・。 死んだあとに俺の足元に立つのやめてくれ!!! 49日まで毎晩階段をきしませてあがってきて、霊感のない俺や父さんまでもが余裕で見えるくらい 鮮明に目の前に現れるのはやめてくれよ・・・。 おれ、あのときまじで心臓爆発するかと思ったよ!
108 :
大人になった名無しさん :04/07/29 04:56
中2の時、祖母が骨折して入院したので見舞いに時。 爺ちゃんがいなかったから婆ちゃんにに「爺ちゃんは?」と聞くと 「彼女だわーw」と爺ちゃんがスナックに行くのをネタにしていた。 「ご盛んだねー」なんて行ってたのに… 爺ちゃん、前立腺癌って… 結局3年の闘病生活ののち逝ってしまったけど、俺はダンディで頑固で愉快な爺ちゃんが本当に大好きだった。 そういえば最近婆ちゃんがデイサービス先の男性老人と歌舞伎観に行ったりしているうちに告白されたそうだ。 でも婆ちゃんは「私には剣二(祖父)がいますから。」と断ったらしい。 (・∀・)カコイイ!!
>>107 ばあちゃんは孫が心配だったんだよ。ええ話や。
110 :
大人になった名無しさん :04/07/30 23:09
(⌒─-⌒) ((´・ω・`))おじいちゃんおばあちゃん大好きキュウ ゚し-J゚
111 :
大好きなおじいちゃん、おばあちゃん :04/07/31 02:21
この場を借りて言えなかった事言うね。あんなに孫の誕生を楽しみにしてたのに抱かせてあげられなくてごめんね。私の娘も一歳半になりました、とても元気だよ!今年の彼岸には会いに孫と共に会いに行くから、それまで天国で見守っていてね。
112 :
大人になった名無しさん :04/07/31 07:48
この場が2ちゃんか....。
113 :
名無しさん :04/08/01 22:52
いいじゃんか別にさ。そーいうおまえだって2ちゃんだべ?
実家と爺婆の住んでた家を手放すことになった ものすごく2件とも巨大な家で実家の力が大きいものを実感する。 すまないなあ・・孫が救ってやれないで・・・。
115 :
大人になった名無しさん :04/08/04 09:45
両親が共働きで姉が生まれてから母方の祖父と同居、私が生まれたときからずっと おじいちゃんいました。ご飯つくりもおじいちゃん、学校の参観日も町内の遠足もおじい ちゃんが来てくれました。だからおじいちゃん子で高校になってもよく2人であちこち 出かけたなあー。私20歳で結婚したんだけど、そんときもうおじいちゃん90歳にな ってて結婚式出席するのに両親おじいちゃん高齢だからだめって言ったんだけど どうしても私の花嫁姿みて欲しかったから出席してもらったよ。おじいちゃん私以上に 結婚式緊張しちゃって好きなお酒がぼがぼ飲んじゃって気失って救急車で運ばれちゃった。 死ぬ2年前から寝たきりになってて私の顔もわかんなくなってたけど実家に子供2人 連れておじいちゃんに会いに行っておじいちゃんの部屋で一緒にご飯たべた。今日が 最後になるんかなっていつも思いながら泣き泣き一緒にご飯たべた。最後は間に合わなかった けど死に顔はきれいだった。葬式の前の夜1人で棺桶に入ってるおじいちゃんの顔ずっと 朝までさわってた。おじいちゃん、今までありがとうまた生まれ変わっても私の おじいちゃんになってねって。もうあれから10年たつんだけどいまだにおじいちゃん似た 人が歩いていると泣いてしまう。。
ばーちゃんはテレビ番組で「DAISUKI!」が好きだった。 スペシャルかなんかでゴールデンにやってるのを見て、はまってしまった。 でも深夜番組でそんなに遅くまで起きていられないので、私が起こしにいって一緒に見てた。 私が家を出てからは、放送時間もわからなくて見ることができなかった。 ビデオに好きな回(街歩きと料理)をピックアップして録画しておいたのをおみやげにしてた。 ばーちゃんが危篤になって入院先の病院に駆けつけたときは意識がなかった。 そのまま意識が戻ることはなく死んでしまった。 ばーちゃんが死んだとき、それは「DAISUKI!」の最終回の日だった。 ちょうど放送が始まったくらいの時間。 一緒に見ようと思ってビデオにとっておいた。 私も「DAISUKI!」はよく見てたので、最終回になってくれてよかったと思った。 一人で見るのはつらい番組になってしまっただろうから。
117 :
長文でゴメンナサイ :04/08/19 19:55
今日は父方のおばあちゃんの四回目の命日。 実家に帰ることが出来ないので、写真を前にお線香をたてて旦那に読経をしてもらいました。 おばあちゃん、小さい頃から心配ばっかかけて、我儘いっぱい言ってごめんね! でもいつも笑顔で聞いてくれたね。 毎週動物園行ってその後デパートの屋上で遊ばせてくれてありがとう。 デパートでいつもお菓子買ってくれてありがとう。 お風呂に入るとき、床が冷たいからって先に入ってお湯流してくれてありがとう。 ぬいぐるみの洋服作ってくれてありがとう。(でもぬいぐるみごと捨てちゃってm(__)mね) 熱くて飲めないお茶を毎回冷ましてくれてありがとう。 私の友達にもいっぱい優しくしてくれてありがとう。 ありがとうと伝えたい事が沢山ありすぎてありすぎて・・・ でもごめんねも言いたい。 足が不自由になって車椅子生活のおばあちゃんの面倒あまりみなくてごめんね。 入院したときあんまりお見舞い行かなくてごめんね。 地方に住む私が東京の大学入って実家出た時、久しぶりに帰ると凄く喜んでくれたけど、 照れちゃってあまり喜べなくてごめんね。 そして帰るときもギュってしてくれるのに、そこでもやっぱりあっさりしててごめんね。 おばあちゃんと顔合わせるのが最後になった私が帰る日、行ってらっしゃいって言ってくれたのに、 行ってきますって返さなくてごめんね。 (このことは本当に心残りで今でも後悔しまくってるよ。) 結婚相手と曾孫見せれなくてごめんね。 その分おじいちゃんに見せるからね。 そのおじいちゃんは今も健在で、白内障ながらプロ並(あくまでも趣味)の習字をやっている。 でも最近はリウマチなどもあり調子が良くない為、大好きなお酒も控えめ。 そんなおじいちゃんはもう85歳。 結婚式にわざわざ東京に来てくれてありがとう。 新幹線辛かったでしょ? あと一年後には子供作るから、曾孫見るまで元気でいてよ。 その後も、その子がもっともっと大きくなるまで元気でいてね。 小さい頃はちょっと怖いイメージがあったおじいちゃんだけど、 今じゃ小さくなっちゃって可愛いと感じる。 戦争行ったし今までいっぱい苦労したからもう苦労して欲しくないよ。 一代で会社作って息子(私の父)に継がせて立派だよ。 そんなおじいちゃんを私の旦那は凄く尊敬してます。 2人で帰ると、話し好きのおじいちゃんは旦那相手に話しまくるね。 それ見て楽しそうで良かったって思ってるよ。 とにかく、おじいちゃんおばあちゃん大好きだし本当に色々ありがとう。 すっごい長文の上、文章めちゃくちゃでゴメンナサイ。
118 :
大人になった名無しさん :04/09/05 04:57
今日3時40分におじいちゃんが亡くなりました。 私はこんな時間なんで実家へ帰る術もなく特急が走るまで 待っています。 おじいちゃんは手術が終わって麻酔で眠ってて そのまま逝ってしまったそうです。 母からの電話で詳しいことはまだ聞いてません。 おじいちゃんは私にとっての憧れのヒーローでした。 字も絵も上手で料理も上手で、私が小さいときには 遊び道具を作ってくれて、なんでもできる優しいヒーローでした。 おじいちゃんは私の理想の男性でした。 誰にでも優しくて。 他の板でも家族が亡くなった話とか読んでて、自分にも 起こりうることだと認識してて、自分がひとつ年をとったら おじいちゃんもひとつ年をとるってこともわかってて・・・。
でもやっぱり悲しくて 忘れていた思い出とかを思い出します。 正直実家に帰るのが少し恐いです。 当たり前にそこにいたおじいちゃんがいない。 離れの部屋にはきっと書きかけの絵があって、 おじいちゃんの作った「ブリ大根」も食べれなくて。 でも最期にそばにいれなかったこと後悔はしていません。 お盆に帰ったときに自作の「湯のみ」渡すことができたし。 早く渡せてよかった。もし「敬老の日に渡したらいいや」と 思ってたらと思うとぞっとする。 おじいちゃん湯のみ喜んでくれてありがとう。 私のおじいちゃんでいてくれてありがとう。 私おじいちゃんの孫に生まれてきてよかったよ。 おじいちゃんありがとう。 またね・・・。 *文グダグダでスマソ・・・。 やっぱ私おじいちゃんと違って 文才もないわ〜 でも書いててまた泣いてしまってけど 落ち着いた。呼んでくれた方々に感謝。
このスレの1だけど、まだ残ってると思わなかった。 じっくりよませてもらいます。
122 :
大人になった名無しさん :04/09/25 14:31:29
敬老の日を忘れてたので、祖父にせめてもと、TELしといた。
123 :
大人になった名無しさん :04/10/12 01:30:04
age
124 :
大人になった名無しさん :04/10/13 23:24:03
おばぁちゃ〜ん!おじいちゃ〜ん!
125 :
大人になった名無しさん :04/10/15 00:45:12
あたしがまだ小学生だったころじいちゃんが死ぬ1年前ぐらいに 遠足のために持っていくお菓子を戸棚にいれてたら お菓子で30円ぐらいのドーナッツが3つ入ったのあるじゃないですか? あれをあけられてひとつ食べられてたんですよ それで犯人はじいちゃんで そのときの言い訳 「あんなにいっぱいあったんじゃけぇ、ひとつぐらいとってもええが」
126 :
大人になった名無しさん :04/10/15 01:20:45
127 :
大人になった名無しさん :04/10/16 01:17:26
ウチの場合 母方・・・祖父は五反田で電気工事会社を経営していたが胃がんで早々に他界。 祖母は一人暮らしを謳歌していだが、去年の年末に乳がんを発見し切除。 その後叔父の家に住んで居たが家をチョンどもに荒らされ二度と帰らなくなった。 父方・・・祖父母ともに健在だが自宅をリフォームした直後からボケが発症し、 祖父はあーうーしか喋れなくなった。祖母はまだ軽い方だが・・・・。
128 :
大人になった名無しさん :04/10/16 19:22:02
俺の場合父方、母方共に祖父は既に他界・・・、父方は去年(91歳)、母方は既に11年前(69歳)。 母方の爺ちゃんの時はまだ消防だったせいかあまりはっきりした記憶がないが死んだと聞いてから とにかく泣きまくったことだけは覚えている・・・。 父方の爺ちゃんの時は同居していなかったせいか死んだと聞いたときに泣くことはなかったが いざ葬式の時に数少ない思い出がよみがえって来て涙が出た。 それ以上に父親と伯父、伯母がものすごく号泣していた・・・。
129 :
大人になった名無しさん :04/10/16 20:37:55
俺が厨房の頃の話 居間に眼鏡を置いて小さかった妹を風呂入れた。 しばらく暖まってホヤホヤにのぼせて出て来たら、ご褒美だと冷たいファンタを用意してくれてた。 しかも風呂に入ってる間、ばあちゃんが俺の眼鏡まで磨いていてくれてた。 しかし何かオカシイ…臭いのだ、強烈に唾臭い…。 そう、ばあちゃんは息を掛けて磨いてくれてたんだ。 でも気持ちが嬉しかったので何も云えなかった。 駄文長文スマソ
131 :
大人になった名無しさん :04/10/31 10:58:01
中年になって思う みんな孝行してるよ 生まれてきたのが一番の孝行だと そして、じいちゃんばあちゃんと喋った事 それだけでいいんだ
1年とちょっと前にじいちゃんが死んだんだけどなんか急に昔を思い出した。 小さい頃は色んな所つれてってもらったり遊んだりしてくれたなー。 でも中学生くらいになるとじゃまでうざいと思うようになった。 大学に入ると夏休みと春休みしか帰らなかったから寝たきりになってたじいちゃんは顔見せるとすごく喜んでくれた。 2年目の夏休みに入って少しすると、じいちゃんが死んだって連絡がきた。 あと1週間後には帰ろうかと思っていた。直ぐ帰っていれば最後に顔見せられたのにな。 天国にいるじいちゃんにごめんなさいとありがとうをいいたい。
133 :
大人になった名無しさん :04/11/03 14:09:23
後年母から聞いた話だが 私が小学生当時のこと 祖父は「酒を飲みに行ってくる」といって 何故かランニングシャツを裏返しに着て帰ったことから 実は外でへっぺ(セックス)をしてきた事が祖母に露見し もの凄く怒られたんだとか。
134 :
大人になった名無しさん :04/11/03 17:50:52
135 :
大人になった名無しさん :04/11/04 06:34:37
母方のおばあちゃん。 若い頃から女手ひとつで5人の子どもを育てたりで気の強い人。 お嫁さんにも厳しくあたったりで、正直あんまり好きじゃなかったんだよ。 「畑にいくか?」「祭り一緒にいくか?」って聞かれても 「面倒くさいからいかなーい」なんて可愛くない態度とってたのね。 だから、おばあちゃんも私の事なんて好きじゃないんだろうなって ずーっと思ってた。死んじゃった時も怖くてお顔よく見なかった。 お葬式の後、遺品を整理してたら私の七五三の写真が出てきたんだよ。 それも箪笥の奥に仕舞ってあったわけじゃなくて、 死ぬ前に入院した時、病院に持っていってくれて身近に置いてたみたい。 おばあちゃん、本当は私の事を気にかけてくれてたんだなぁって。 死んでからやっと気づくなんてさ、おばあちゃん、ごめんね。
じいちゃんはいつも『アイス買って』と漏れに100円 握らせてくれた。 その100円で外側がチョコで中にジャムが入ってた アイスを買って食べてた。 じいちゃんはそれから数年後、死んだ。 じいちゃんが死んでから26年。 この前コンビニに行ったら、そっくりなジャム入りアイスがあった。 ちょっと泣いた。
137 :
sage :04/11/12 23:25:18
大学生のとき(10年以上前)、ひとりでじいちゃんばあちゃんの家に行った。 その夜の食卓には俺にだけ立派な花咲ガニが用意されていた。 3日後位に俺の両親や他の親戚が来たが、花咲ガニは出てこなかった。 じいちゃんばあちゃん俺のためにありがとう。 もう直接お礼を言うことはできなくなったけど。
138 :
137 :04/11/13 00:20:49
しまった。sageを入れるところを間違えた。すまない。
親父のじいちゃんが急に入院して末期のガンだった 俺はなんかバカだからいつでも見舞い行けるだろとか、思って パソコンばっかいじってて。深夜2時ごろじいさんが死んだって 親父がおかんに言ってた。 じいさんに申し訳なくてめっちゃ泣いた 見舞い行けなくてごめんね
140 :
大人になった名無しさん :05/02/14 20:17:23
祖父祖母の話は見てられない。 すぐ泣けてくるから。
141 :
鈴 ◆WZ1O0.qbo2 :05/02/15 12:38:58
おじいちゃん子だったからね、思い出すとちょっと泣けてくる・・・ 最後までおじいちゃん孝行が出来なかったのが心残りです。
142 :
うすじ :05/02/15 13:50:50
ばあちゃんが耳遠くなったって聞いた日 耳元で本当に聴こえないか「ばーか」と言った日 あの罪悪感が忘れられない。興奮した。 ばあちゃんと俺孫の中で一番仲いいのに・・・ あと免許取立てのとき実家まで送った時 ばーちゃんだけ寝ててズルイと思ったから 思いっきり段差で衝撃与えて起こしたこともあったな
143 :
大人になった名無しさん :05/02/25 16:13:58
ばあちゃんの命日だ…忘れてた…Orz
144 :
うすびぃ :05/02/25 18:02:47
10日前の俺凄いワルだなw ここだけ読んだら心象悪すぎw
母方のおじいちゃん、父方のおばあちゃんが今月相次いで亡くなった…。 母方のおじいちゃん(76歳)は、遊びに行っても書斎に籠もってたのであまり思い出はないが 新しモノ好きで、PCはWindowsXP、ADSLにも入り、プリンタ、デジカメ、スキャナなど買い揃えたスーパーお爺ちゃんだった。 入院する前、大量の雑誌や本で研究して覚えたメールを、得意げに送ってくれて嬉しかった。 癌が脳に転移して右半身麻痺になり、パソコンはおろか書くこともできなかったから悔しかっただろうなぁ。 紙切れに、左手で「延命治療は不要」と、あと自分で考えた戒名がグチャグチャの字で書かれていた。 ここの病院は癌を本人に告知するらしく、だんだん病状が悪くなるのが分かって辛かったと思う。
146 :
大人になった名無しさん :05/02/27 06:24:43
おばあちゃんが昔ハムスターをネズミと間違って叩き殺しちゃいました。 そんなおばあちゃん好きです。
続き 母方の祖母はうちの隣に住んでいて、祖父母の中では一番一緒にいた時間が長かったと思う。 孫想いで、特に初孫の私をめっちゃ可愛がってくれ、お小遣いもくれるし何でも買ってくれた。 それで調子に乗って、小中学生ぐらいまではおばあちゃんの有り難みは分からなかったけど 最近はこっちもハタチの大人になったからか、少しは孝行できていたように思う。 成人式の振り袖を見せたり、免許取ってドライブに連れていったらすごく喜んでた。 10年ぐらい前は歩くのが大好きだったが、今じゃ腰が曲がって小さくなってしまった。 でも小さくて細くてなんだか可愛かった。 でも先週、風邪だと思って入院したのにいきなり危篤状態になってしまった。 実感がわかなくて(春休みに彼氏と旅行したいから、あまり長引かないでほしい)、とちょっと思ってしまってごめんなさい。 でもおばあちゃんは、先週から昨日まで意識の無いまま1週間も頑張り続けてた。 おととい亡くなったが、その日は2年前に亡くなった父方の祖父の命日の1週間前。 生前はけんかもしてたけど、やっぱり仲のいい夫婦だね。 おつかれさま。 今までありがとう。
148 :
大人になった名無しさん :05/02/27 08:59:35
149 :
大人になった名無しさん :05/03/05 00:55:39
うちのおじいちゃんはくびつり自殺しました・・・ 第一発見者はぼくでした 天井からぶら下がっているおじいちゃんを見て 咄嗟に「おじいちゃん死なないで」って 叫んで足に必死にしがみついた記憶がのこっています・・ 遺書も残っておらず、心配ごともなかったようで 自殺の動機がわからず親族たちはお通夜で一様に首をかしげていました とにかく奇行が多く、人をびっくりさせるのが大好きなおじいちゃんだったけど ぼくにとってはとともいいおじいちゃんでした・・
俺の爺ちゃんは毎月一回、必ず美味いと評判のそば屋に連れていってくれた。 そんなそば屋も跡取りがいなくて閉店。あの時の爺ちゃんの淋しそうな顔は忘れられない。 だが、そば屋の主人の孫が店を復活。その事を爺ちゃんは知らないが、 今度爺ちゃんを誘って食べに行こうと思う。俺の奢りで。
漁師で、大きくて、日に焼けて真っ黒なジジが病院のベッドの上で小さくなって もう五日も目を開けてくれない。祭りと酒と喧嘩が大好きで、喧嘩なら猫の喧嘩でも 張り切って観に行くようなジジ。布の問屋に経営者から倒産寸前だと経営者から泣きつかれると、 一ヶ月の給料全部使って使いようもない反物を山ほど買い込んでくるような人で、数え切れないくらいそんな事があって たくさんババに迷惑かけたりもしたけど、私の事はいつでも可愛がってくれた。 市販のプラスチックのソリは格好が悪いから嫌いだと言うと、外国のお伽話に出てくるような ソリを作ってくれた。今になってみれば今まで思い出さなかったようなことをたくさん思い出す。沈没寸前の船の上で プカプカタバコをふかしてたりしてた事もあったなぁ。本当にキリがない程色んな事を思い出す。 今年初めてお小遣いあげること出来るのにまだあげてないし、父親の代わりに私の結婚式の時バージンロード一緒に歩いて欲しいのに。 ジジがこうなってから毎日泣いてる事が、ジジが元気になってピザでも食いながら笑い話になればいいのに。 まだまださよならするには早いよ。
._,,.. y―;;;;―-;;r‐--;;--、 . ,it!“/゛,ノ./ ./ .,.'"」!''”,゙、;;二,゙.゙ヽ /゙.| l. lソン'"., ;;゙..r彡'''二x巛.iiiiiaソ、. .i《、.l、l,,if!'゙‐''''冖'''''''''''''''''''''-゙´..v-ーr-.l . ,i|]| '/|./ `ーィ←ー.! ..|lli..U./ llヘ.| . !゙'lli〃 , "゙゙゙゙゙''''-、 ト、 !, . ll!Itl゙ ..‐,゙ -''' .-. ,..-'゙ .`''‐ l.;;,゙'| . !lL│.'".'" ._,,,i,iggi、 ._,iiiigiiii、 、 . l 、,] l゙.,゙'l /.,ir'“”.´ `゙ll" !lll゙~_,,,,,,,. ゙'λ . | ',゙,.} .l, .|l、‘.イ -'" ̄'' | . |lli.゛ ` ! !,l勹 l ゙| ._/゙ / ..l.゙゙=、_. l´ ! ..l.|, ._, ´ ,ii .'!liy ゛ ._iil゙,i" | !,ム.゙゙li,、 .illl!,,ィl|lliqlll゙゙'、 ll゙' l、./ ヽ '゙l, il゙ . ´.||´゛ . l .リ / .゛ .l ゙ iili,、_i_iiョllllllliili,tiglili .′ l 'l゙~!!!“゙´,,,,_,_, .`”゙゙ケ / .,-.l, '''´´'“ ゛ !''、 . / .i| \ .__,.... -|L ."、、 _,/ . l `゙゙゙^゙'''''''''″ ! ゙'、, '゙゙′ . !!、 / . " うんうん、そうかそうか
母方の祖母に、チキンライスを作ってもらった事かな。 古い時代の人だから、洋食を作るのには凄く抵抗があったはずなのに。 ちなみに祖母は10年位前に突然亡くなったんだ。 もっと甘えればよかったと、今でも後悔している。
おばあちゃんがどうも嗅覚がおかしいのかわからんが おばあちゃんの家にある冷蔵庫がとんでもない異臭を放っているにも関わらず 平然としているんだ。 それだけならまだしもそのとんでもない異臭の染み付いた食べ物を たまにくれたりするんだ。 味も、もう数年冷凍庫に入れてたみたいな味なんだけど あれを毎日食べてるおばあちゃんが心配だ・・・ 歳取ると嗅覚、味覚が衰退したりもするの?
155 :
大人になった名無しさん :2005/05/19(木) 16:32:00
おじいちゃんは記憶に無い、お婆ちゃんは漏が28のとき亡くなった。 とにかくやさしいお婆ちゃんだった。死に目に会えなかったのが今でも 悔しい。母とばっちゃんと3人暮らし、親父が漏れが6歳のころ病気で 亡くなって、親父の母だったが死ぬまで家で一緒に暮らした。お袋が 看護婦で夜いないことが多くて、一緒に寝てた。小さなアパートだったが やさしさは今考えても、何で?って思うほど・・ 合掌
156 :
大人になった名無しさん :2005/05/21(土) 11:21:30
こんなスレ こんなスレ こんなスレ こんなスレを待っていた。 マジで泣いてる。 ありがとう。
157 :
連載1 :2005/05/21(土) 11:23:16
今から3年くらい前になるだろうか。2002年12月5日に俺のじいさんが死んだ。 死んでから聞かされたのだが、末期の肺癌だったらしい。 もう手術もできない高齢だったし、手術をしても治らないということで、手術はしなかった。 癌の告知はされなかった。でもじいさんは知っていたと思う。自分が癌だということを。 それじゃあ、そのじいさんの思い出話を、ちょっとしてみようか。
158 :
連載2 :2005/05/21(土) 11:24:27
小学校に入った俺は、親が二人とも会社勤めということもあり、じいさんの家で、 親が帰るまで、あずかられることになった。 じいさんの家の近くには遊び場というほどの遊び場はなかった。 でも、てれびくんとか、テレビマガジンなどのマンガがあったから、それを読んだり、 テレビを見たり、じいさんの家で夕飯を食べたり、じいさんと一緒に風呂に入ったりしていたからそんなに暇ではなかった。 そして、小学校2年生くらいになったときには、じいさんの家の近くでも友達ができた。 その友達とじいさんの家の近くの公園とかでサッカーをしたりした。 小学校には夏休みというものがあった。 夏休みの間は、親がずっと会社に行っていたので、じいさんの家でゲームをしたり、 昼寝をしたり、塾に行ったりと、いろいろと忙しかった。 夏休み明けのマラソン大会があったので、じいさんの家の周りを走ったりした。 でもマラソンが嫌いな俺は、マラソンを続けることはできず3日くらいで終わり、じいさんの家で蚊に刺されて、ずっと体を掻いていた。 2学期になったからといって、1学期と特に変わることはなく、いつも通りの生活をしていた。 冬が近くなり、寒くなってくると、コタツが出てきた。 コタツの中に、ネコのぬいぐるみを入れて遊んだ。 小学校3、4年生になると、学校の影響で、性への興味が湧いた。 当時無知だった俺は、じいさんと性の話をした。 俺はほとんど性に対して、そう、いやらしいイメージしかなかったが、 じいさんは久々にまじめになって、性とはなにか、語ってくれた思い出がある。 まだ、そういうことに気づかなかったりしていたので、 毎日のように、好きな女の子を想像して、自慰行為をしていた。 ほかにも戦争の話で盛り上がった。 学校で、戦争の学習をしていたので、じいさんも戦争について知っているかな。と、思い、聞いてみた。 そしたら、実際、じいさんは戦争を体験したこと。 兵士として、戦争を体験したこと。 だが、戦争は嫌いで、早く終わればいいと考えていたことなどを教えてくれた。 そんなこんなで、6年生になった。 名簿が学年で一番早い俺は、卒業式の時一番最初に呼ばれる(卒業証書を受け取る)ことになっていた。 卒業式にはじいさんも来てくれると言ったので、早く卒業式が来ないかとわくわくしながら待っていた。 6月頃からだろうか。じいさんと一緒に風呂に入っている時に、 「腰が痛い。」 と、言い始めた。 その時はまだ、じいさんにも老化がとうとう訪れたか、としか考えていなかった。
159 :
連載3 :2005/05/21(土) 11:26:36
10月か、11月の初め頃、じいさんが風邪をひいた。 すぐに治るだろうと、考えていた俺は、じいさんが、 「まだ、家にいたっていいだろ?」 と、言うのを、「宿題がある。」と、言って家に帰り、自慰をしていた。 その時の「そうか、じいちゃんが嫌いになったか。」と、言う言葉が今でも頭から離れない。 ずっとじいさんは俺を愛してくれていた。 じいさんに嘘をついて、裏切るというのに罪悪感を感じたが、馬鹿だった俺は、 自分の欲求に負けてしまった。 昔、じいさんの財布から金を盗んだこともあった。 理由は自分の欲しいものを買ってくれないから、金を盗って買おうと思ったからだった。 もちろんじいさんにも怒られたが、じいさんは親にちくると言うことはなかった。 その代わり、コロコロコミックを毎月買ってくれるようになった。 ほかにもゲームなど、欲しいと言えば買ってくれるようになった。 そんなじいさんに、疑問を感じてはいたが、自分の欲求を満たせるので、あまり深くは考えなかった。 そんな幸せが、11月の終わりごろに崩れた。 じいさんが入院をした。 俺はまだ気づかなかった。 ただじいさんは風邪をひいたんだ。風邪をこじらせただけなんだと考えていた。 ばあさんもじいさんと一緒に住んでいた。 でも、じいさんが入院してから、デイサービスの人が介護してくれることになった。 なので俺は学校から帰るとまっすぐ自分の家に帰ることになった。 親はいないのでとても暇だったが、テレビを見たり、ゲームをしたりしていたので、暇は解消できた。 時々、じいさんのお見舞いや、ばあさんの家の手伝いに行ったりした。 ある日、じいさんのお見舞いに行くという約束を忘れて、友達と遊んで帰ったことがあった。 電話が親から来たので、言い訳として図書館に行っていたことにした。 そして、親が帰ってきた時、じいさんから伝言があったらしく聞いてみた。 「図書館に行くなんて、勉強熱心だなぁ。がんばれよ。そうか、図書館に行ってるんだったら、仕方ないな。あの子は嘘をつかないからな。」 泣いた。じいさんへの申し訳なさと、じいさんの俺への愛情を裏切ったからくる後悔の念か。風呂の中でないた。 湯船に顔をつけて、泣いていないように見せたが無理だった。
160 :
連載4 :2005/05/21(土) 11:27:34
学校に行った。 たしか4限の体育だったろうか。 教頭先生が、体育館にやってきた。 担任の先生に俺はどこか聞いていた。 俺は鉄棒をしていた。 6年だったが、逆上がりができずに苦労していたときだった。 担任の先生に呼ばれ、教頭先生のところに行った。 「なんですか?」と、聞いた。 ある程度のことは予想できた。 なんという言葉が返ってくるかもわかっていた。 「君のおじいさんが亡くなったから、病院に来てくれとのことです。」 あらためて言われると悲しかった。 でも泣かなかった。 じいさんに泣くなと言われていた。 泣いたら宝(じいさんにとって俺は宝のようなものだったらしい)をやめると言われていた。 廊下を走り、すぐに着替え、とっとと学校を出た。 途中で、ほかの先生に不思議な目で見られたが気にしている暇はなかった。 その日はひどい雨だった。 外に出て、タクシーを待った。 兄がしばらくして、高校の方から来た。 「先生にさようならって言ってきたか?」 兄の言葉に首だけ動かした。 顔を見ることはできなかった。 顔を見ると涙が出そうだった。 だから見れなかった。 タクシーに乗って、病院に行った。 すぐにエレベーターに乗って、じいさんの病室に行った。 今の今まで、じいさんが死んだのは嘘だと信じていた俺だが、 顔の上にかけられていた白い布が、じいさんが死んだのは嘘でないことを俺に教えていた。 母さんや、親戚のおじさんや、ばあさんも病院の中で泣いていた。 白い布を取ってみると、俺も涙が出そうになった。 するとすぐに、葬儀場にじいさんを送ることになったので、俺もついていった。 じいさんを葬儀場の部屋に置かせてもらった。 線香のにおいは好きじゃなかったが、なぜだかそのにおいはじいさんのにおいの気がした。 その夜俺は眠ることができなかった。 ただ単純にじいさんがこの世からいなくなっただけだったら眠れたと思う。 でも、俺はじいさんを裏切り、嘘をついた。 じいさんがまだ居て欲しいと思っていたはずなのにそれを振り切り、自慰の方を優先した俺が恥ずかしくて仕方がなかった。 なぜ、あの時俺はあんなことをしたのだろう。 じいさんは最期の時まで俺を信じてくれていたはずだ。 なのに俺はそのじいさんを裏切った。 葬式の最中も俺は泣かなかった。 と、いうよりも、人前でじいさんに関係のあることで泣いたことはなかった。 宝をやめられるのが嫌だから。もう、じいさんを裏切りたくなかったから。 泣かないということが辛いと感じた。 卒業式には、母さんが、じいさんの遺影を持って来てくれた。 俺は、遺影を確認できなかったがなぜだかじいさんが居てくれている。 そんな気がした。 卒業証書をもらったとき、俺はなんとも思わなかった。 思えなかった。 ひどい緊張で、なにも考えられなかった。 学校から帰り、風呂に入っている時、じいさんについて考えた。
161 :
連載5 :2005/05/21(土) 11:28:22
具合が悪くなって学校を早退すると、じいさんが「病院行くぞ」 って言ってくれた。 小さい頃から、入院ばかりしていた俺をずっと付き添ってくれていた。 俺もじいさんが好きだった。 小学校1年生くらいの頃は、一緒にサッカーをやった。 じいさんは俺が産まれて少しの間はタバコを吸っていたらしい。 でも、医者から「お孫さんに悪い」と言われてからはきっぱりとやめてくれた。 そんなことを考えていたら、いつのまにか泣いていた。 じいさんが寝込んでいたときに戻りたい。 宿題があると、嘘をついた頃に戻りたい。 でも、それは無理だった。 過去に戻るなんてことはできなかった。 自分の無力さに泣いた。 自分のした過ちに泣いた。 今でも時々、じいさんのことを考える。 そして今でも、過去に犯した過ちを悔やむ。 絶対に後悔しない生き方はできないかもしれない。 でも、目先の欲に負けてはいけない。 過去には戻れない。 でも、未来は予想できる。 よく考え、後悔しない生き方をしよう。 それをじいさんは自分の死をもって、俺に教えてくれたのかもしれない。
162 :
大人になった名無しさん :2005/05/21(土) 12:06:37
今日意識不明だったお爺ちゃんが死んだ・・・。 ちょうど一ヶ月前まで元気で話せたのに・・・・。 おじいちゃんは倹約家だったけど、僕の為に、お寺とか、観光地とか、いろんなところに小さいときから 連れて行ってくれた。最近親戚の人が集中的に死んだけど、やっぱ お爺ちゃんが死んだのは本当に悲しい。
163 :
大人になった名無しさん :2005/05/21(土) 12:11:46
>>161 君の見てマジで泣いた(TT)
がんばれ。
164 :
大人になった名無しさん :2005/05/22(日) 11:59:43
めーりさんのひっつっじっひっつっじっひっつっじっめーりさんのひっつっぎっ れれみーれどーみーどー
165 :
大人になった名無しさん :2005/06/10(金) 10:15:33
うちのじいちゃんは典型的な亭主関白だった そのじいちゃんにばあちゃんは苦労も多かっただろう そのばあちゃんが急になんだか珍しい病気にかかってしまった 年をとった痩せた身体に何度もメスが入って痛々しいなと 感じていたんだけど、結局その甲斐もなく死んでしまった 病院側からの要望で珍しい病例なので是非解剖をとの事だった 母や父は断るつもりでいたけどじいちゃんは 「医学のためにどうぞ役立ててください、その代わり かたちだけで良いから麻酔をお願いします」と言って声を震わせてお辞儀をした その言葉からじいちゃんの大きな愛情を感じた
166 :
大人になった名無しさん :2005/06/10(金) 17:04:44
>>165 じいちゃんが亭主関白でありながら、ばあちゃんへの愛情は忘れない。
泣きそうになった。
167 :
かお :2005/06/19(日) 13:48:47
2005年6月14日早朝、大好きなおじいちゃんがなくなりました。 長野の田舎にすむ農家のおじいちゃんなのに 告別式には430人もの人が来てくれました。 会場の係の方も、「あんなにたくさんの人が泣いているお葬式は初めて」 というくらい、たくさんの人が泣きながらおじいちゃんの死を悼みました。 弟が告別式で読んだ孫代表の弔辞です。 お別れの言葉。 あんなに元気だったおじいちゃんにもう会えないなんて まだ信じられません。 お正月やお盆に帰ると、「でっかくなったなー。いい息子になったなー。」と 本当に嬉しそうに出迎えてくれました。 腕相撲が強くて、誇らしそうに力こぶを見せてくれたよね。 おじいちゃんにはとても敵いませんでした。 帰る時間になると、とても悲しそうな顔をして 車に積みきれないくらいのたくさんのスイカや野菜をくれたり 「勉強がんばれよ。」と、土や日焼けで真っ黒になった手で、 お小遣いをくれました。 あんなに温かくて、愛情をいっぱいくれるおじいちゃんは どこを探してもいないと思います。 最高のおじいちゃんでした。 おじいちゃんの作るスイカ、大きくて本当に美味しかった。 いつも自信に満ち溢れていて、まわりのみんなを笑顔にしてくれたおじいちゃん。 これからもずっと私の自慢です。 おじいちゃんの孫として生まれて本当によかった。 たくさんの愛情と楽しい思い出をどうもありがとう。
168 :
大人になった名無しさん :2005/06/20(月) 00:35:30
169 :
大人になった名無しさん :2005/06/20(月) 16:08:30
小学校一年の時 あばあちゃんが余所様から預かってきた上等の反物に そうとは知らずヤクルトをひっかけた 初めておばあちゃんの咽び泣く姿を見た あまりにも激し泣くので恐ろしくて「ごめんなさい」が言えず 影でじっと見つめていた ごめんなさい、おばあちゃん
170 :
大人になった名無しさん :2005/06/20(月) 18:31:33
171 :
うすびぃ :2005/06/20(月) 19:16:21
「じいちゃ〜ん学校のテストで3番になったさぁ」 「一番じゃなきゃ話にならん!」 「え・・・・」 「おじいちゃん!(おばあちゃんの声)」 「(畑仕事終えたじいちゃんに会いに行って)お〜いじいちゃん 早稲田受かりました〜!」 「早稲田は遊び人が行くところだ!」 「え・・・・」 「おじいちゃん!」
172 :
大人になった名無しさん :2005/06/20(月) 22:24:48
173 :
大人になった名無しさん :2005/08/11(木) 14:36:27
喘息に負けるなよ。 こういって俺のじいさまは死んでいった。 俺はそのころ、 喘息を患っていた。 幼稚園のころから喘息もちで、他にも耳や、鼻などにアレルギーがあった。 幸い食べ物にはアレルギーはなく、 好きなものは好きなだけ食べれる。 そんな感じだった。 昔、じいさまはタバコを吸っていたらしいが、 俺のためにやめてくれたらしい。 だが親父が根っからのヘビースモーカーで、 ほとんど意味がないことはわかっていた。 小学生になったので、俺はじいさまとばあさまの家に預かられた。 忍たま乱太郎とかをみたりしていた。 じいさまのつくったシチューおいしかったなぁ・・・。 チャーハンはいろんなものが入ってた。 じいさまは禿とお袋に言われていた。 俺はじいさまが大好きだった。 だから、そんなこと言うなって親にも言っていた。 でも、じいさまは癌でこの世を去った。 なぁ・・・。 俺はまだ中学3年生で社会とかいろんなことまだぜんぜんわかんねぇよ。 でもな、俺はずっと忘れないと思うんだよ。 癌って怖いって。 そして、あんなやさしい、あったかいじいさまを殺した、 神を、俺はずっと信じない。 2ちゃんではネ申降臨とか、ネタっぽく言うかもしれない。 でも、本当の心の奥底では、神なんていない。 神様なんて・・・いてもなんにもしてくれないんだって思うようになったよ。 もちろん、人は必ず死ぬさ。それはわかってる でも、なんでじいさまが・・・。 今おれの机の上にはじいさまの遺影が飾られている。 もうすぐお盆だね。 墓参り行くからね、じいさま。
174 :
大人になった名無しさん :2005/08/12(金) 03:39:24
14日からばあちゃんとじいちゃんとこ行ってきます。 ばあちゃん、電話で『また2人でプレステしようね』って言ってくれたね^^ もう70過ぎなのにプレステをやるばあちゃん。 行くといつも対戦するんだけどこれが上手くてさ。私が絶対負けちゃうんだよね。 じいちゃんも『花火買ったから一緒にやろうな』って言ってくれたね^^ じいちゃんとの花火、私毎年すごく楽しみなんだよ。 だから2人とも長生きしてね。大好きだよ。 早く曾孫の顔見せてあげたいな。私がんばるからね。
高校生のとき、いろいろ面倒くさくなって無性に学校を休みたくなった日があった。 それで体調悪くないのに休もうとしたら当然母に叱られた。 それでもやっぱり学校に行きたくなくて、居間でぼーっとしてたら おばあちゃんが来て、「今日学校休むんか?」って聞いてきたから 「うん。なんか面倒くさくて・・・」って言った。 そしたらおばあちゃんは笑って、「そっか。ゆっくり休め。」って言ってくれた。 なんだかその言葉を聞いたら、くだらない理由でずる休みしてる自分がばからしくて、 おばあちゃんの優しさが申し訳なくて涙が出た。 本当にあの時責めずに味方してくれてありがとう・・・
176 :
大人になった名無しさん :2005/09/06(火) 05:40:01
じいちゃんと血が繋がっていないとわかったのは小学校の時。 じいちゃんが勤めている叔父の会社に遊びに行った時、社員証の苗字が違かったから。 籍入れてなかったんだよね。ばれたと思ってじいちゃんが全て話してくれた。 そんなの関係ないよ、じいちゃんはじいちゃんだよ、みたいな事言ったらすごく 嬉しそうだったな、ちょっと泣いていたと思う。車に乗っけてもらって色んな所に よく連れて行ってもらった。昔話もたくさんしてくれた。 しばらくして婆ちゃんが先に死んでからのじいちゃんの生活って決して恵まれた ものでは無かったって思う。大好きな車も売って、家に金入れて俺の両親に遠慮しながら 細々と暮らしていたように見えた。弱くて小さくなっちゃた。 そんなじいちゃんが俺が二十歳の頃急に倒れて病院のICUに入った。じいちゃんの 弱弱しく衰弱した姿を見たら泣けてきた。じいちゃんの人生を考えた。 決して幸せとは言えない人生だよな、と。それからはほとんど毎日お見舞いに行った。 一時容態は回復したものの入院してから一ヶ月位して急に容態が悪化してついに 帰らぬ人となった。死に目には会えなかった。 車が大好きだったじいちゃん、俺が免許取って車買ったら一番に乗せようと 思っていたけどちょっと遅かったね。もっと早く教習所行ってればと悔やんだ。 俺の運転でじいちゃんの行きたかった所に連れて行きたかった。 血は繋がってないけど本当に、大好きで、立派なじいちゃんだったよ。
177 :
大人になった名無しさん :2005/09/07(水) 03:12:49
私はおばあちゃんとは一緒に住んでいなかったけど 同じ市内に住んでいたから時々泊りに来てくれていた。 私は2人姉妹の長女で幼稚園の時、友達がエレクトーンを習っているのを知って 親に「私も習いたい」と言ったら「うちにはエレクトーンないでしょ」 と言われて習わせてもらえなかった。 なのに妹が幼稚園に入り「エレクトーン習いたい」と言ったらエレクトーンまで買い与え 毎回妹のエレクトーン教室についていってた。 そういう時、私は家で1人で留守番させられていた。 当時私は小学1年生、学校から帰るとテーブルの上におやつと母の書き置き。 私は悔しさと寂しさでいつも1人で大声で泣いていた。 そんなある日、妹のエレクトーン教室の日「今日も1人で留守番だ・・・」 と思い暗い気分で家に帰ると車はないのになぜか縁側(庭側)の窓が開いていて 網戸になっていてそこにはおばあちゃんの靴が! おばあちゃんが来てくれてるんだ!と嬉しくてダッシュで家の中に入り 「おばあちゃーん!」と叫ぶと台所からおばあちゃんの「○○ちゃんお帰り〜」 という声が!そして台所からは甘いにおい。 「○○ちゃんが帰ってくるの待ってたよ、ビックリさせようと思っておばあちゃん来ちゃった!一緒におしるこ食べよう」 おばあちゃんに抱きついて、嬉しさで涙が止まらなかった。 母から妹のエレクトーン教室に行くから私1人で留守番というのを聞いて わざわざ遠いのに私のためにバスで来てくれた。 おばあちゃんのおしるこすごくおいしかった。 おばあちゃん10年前に亡くなったけど、今でもその時のうれしさは忘れられない。 こんな私だけど天国から見守っていてください。
∴(ノД`)∴
179 :
大人になった名無しさん :2005/09/16(金) 11:42:02
何年も前から痴呆症だったじいちゃん。 自分の誕生日は言えるのに、年は言えない。 娘の名前は?と聞かれても、孫ある私の名前を言ったりしてた。 私が1年間の留学に立つ日、私にいつもおこづかいをくれていたばあちゃんに代わって その日はじいちゃんがおこづかいをくれた。 いつももう働いてるんだからいいよ、って断っていたけど じいちゃんがくれるっていうんだからもらっていきな、ともらうことにした。 それから半年、留学先でじいちゃんがもう長くないと知った日 何も手につかなかった。 何度か入退院を繰り返し、私が帰国した時は病院のベッドの上だった。 私が誰だかわかる?かすれた声で私の名前を言ったじいちゃん。 日に日に衰えていく姿をばあちゃんと2人で毎日見るのが辛かった。 どんな治療をされても、一言も痛いと言わなかった。 父に大丈夫、すぐ良くなるからな。と励まされたその夜、 じいちゃんはベッドで静かに涙をこぼし、すすり泣いていたそうだ。 あれが意識のある最後の瞬間だったのかもしれない。 それからすぐにじいちゃんは息を引き取った。 幼い頃、両親は共働きで3歳で保育園に行くまで祖父母に面倒をみてもらっていた。 いつも寝るときに本を読んでくれたのもじいちゃん、朝の新聞配達の仕事の時 バイクの後ろに私を乗せてつれてってくれたのもじいちゃんだった。 私が初めて保育園に通園した日、通園バスに1人でのり、 家を離れるのが初めてだった私がじいちゃんは心配で 保育園に車で先回りして陰からそっと見ていたって。 いつまで経っても降りてこないと思ったら、一番最後にちょこんと降りたのを 見て安心したって。 じいちゃんが亡くなった日の夜、亡骸を前にばあちゃんが話してくれた。 もっと早く教えてくれたらよかったのに。 ありがとうって直接言言いたかった。 じいちゃんが逝ってしまった後のばあちゃんは、ますます小さくなってしまいました。 でもじいちゃんが残してくれたもの、それは家族の絆。 昔は恥ずかしくて家族とまともになんて話せなかった。 じいちゃんが痴呆症で家族が悩んでいた日々、入院中、今まで。 だんだんと父とも冗談まじりで話せるようになった。 弟たちともまじめな話しなんかもする。 父がじいちゃんの最期に病院に駆けつけたとき。 数分前に逝ってしまったじいちゃんに、うちはおれが守るからな!安心しろよ! って言ったそうだ。 そんな家族がいつも私のそばにいることを誇りに思う。 じいちゃん、ありがとうね。 今度のお彼岸にまたお饅頭持って帰るからね。
いま、途中までスレ読んでいたら涙が溢れてもう読めなくなりました。 私の部屋の下には、おばあちゃんの部屋があります。 おばあちゃんと一緒に暮らすようになって9年目。 最近の私は、正直ちょっとおばあちゃんをうざったく感じていました・・・。 しかし生きていてくれるだけで感謝するべき何だと実感しました。 おばあちゃんは最近「もう腰が曲がっちゃってね。歳を取るっていやだね。」と言います。 七宝焼きという趣味があったものの、それをやめてしまってから外出することも少なくなりました。 手先を動かすことは脳に良いとお医者さんに言われたようで、最近は折り紙を始めました。 おばあちゃんに頼まれ、何気なく折り紙の本と折り紙を買ってきてあげました。 そしたら・・・本当に嬉しそうに「ありがとうね。」と言ってくれたんです。 今度、一緒に折り紙しようと思います。あと、ネイルアートやメイクもしてあげよう。 おばあちゃんの大切さを教えてくれてありがとう。
181 :
ぷうぅ :2005/09/29(木) 23:40:05
みんなの話を読ませてもらいました。そして先日私のじいちゃんが亡くなりました。 今日はちょっとだけ書かせてもらいます。 9月の中旬。ちょうど、私の地区で毎年恒例のお祭りをやっていた。バイトで 忙しい私は家のことなんかあまり知らなかった。夏休み頃から体調が日に日に 崩れていく姿を知らず、学校帰り遊んできたり、バイトで10時過ぎに帰った り…。じぃちゃんも自分の事は自分でしていたけど、どうしても無理なときは 私に買い物を頼んだり、「回覧板持ってって」って言って家に戻ると必ずこづ かいをくれた。些細なことで褒めてくれたりしてくれるじいちゃんが大好きだ った。笑顔で話しかけてくれるじいちゃんが大好きだった。 ずっとずっと、私が大人になっても続くと思っていたある日、とうとう入院し た。入院前日、医者に「二週間―…もって一ヶ月です。」って本人同席で言わ れたそうです。 どんだけショックだっただろうなじいちゃん。でも、前々から酷く咳き込ん だり、起きれなくて一日中寝ていたりしていた時があった。 ――――…もう、逝っちゃうのかな……―――― 思いたくもないのにその言葉が目の前をよぎった。 そして9月28日朝9時36分。この世を去って逝った。今頃天国に辿り着い たかな、じいちゃん。みんなで顔のまわりにお花を添えてあげてるとき、口が ちゃんと閉じてなかった。けど、それが嬉しそうに「みんなありがとう」って 言ってるみたいに見えた。 葬儀屋さんがちゃんと目も口も閉じさせてくれたのに、なんだか今にも起き てきそうだよ。なにごともなかったかのように…。 冬になって寒いとき帰って来ると部屋はあったかくて「靴濡れだべ。ここで 乾がせ」ってヒーターをたいてくれた。何気ない優しさが嬉しかった。 じいちゃん今までホント、ありがとう。半年くらいしか一緒にいないけど心 愛(ココア:猫)も最初は急に状況が変わって不安だったけど、元気でね。っ て言ってるよ。 人が死ぬとき、ふたつの悲しみが生まれる。ひとつは死んでいく者の悲しみ もうひとつは残された者の悲しみ。 そして思い出がよみがえる。この悲しみさを受け入れてじいちゃんの優しさ を学ぶ。 じいちゃん、ありがとう。ずっとずっと大好きだよ。 もう明日はじいちゃん火葬されるけど、じいちゃんは家族みんなの心の中にい るよ。そして私たちを支えてね。 ばいばい。じいちゃん……。
182 :
大人になった名無しさん :2005/09/30(金) 14:13:47
母方の祖母は目と耳が不自由だった。 私の顔をみたこと無かった。 そんな祖母を小学校5年くらいになったら急に好きになり夏休み帰省するといつも 甘えていた。 でも人の前では恥ずかしいので誰もいない時に甘えていた。 中学に入り、引っ越してくるまで1時間半ほどの所に住むようになると週末よく 親と行ったがやはり相変わらず人前では恥ずかしくてしゃべれず。 いつか目が見えるようになると信じてたけど18年くらい前にとうとう老衰で亡くなった、 95歳だった。
183 :
大人になった名無しさん :2005/10/09(日) 12:55:02
88才没 おばぁちゃんの事を考えると泣きたくなる
一気に読んだ。年寄りっ子だったから泣けました。 二人のじいちゃんが死んで、今年父方のばあちゃんが死んで、 一人残った母方のばあちゃん。年寄り孝行するからね。 はやく仕事見つけて田舎に帰るからね。 曾孫の顔見せるからね。どうかどうか、ずっと元気でいてください…
週末以外ほとんど親から放置されてた俺達を育ててくれたのは、ばあちゃんとじいちゃんの二人だった。 じいちゃんは物をつくるのが好きでよく色々なものを作ってくれたりしたし、ちょっとした路上の喧嘩の仲裁なんかもやれる昔気質の強い人だった。 それが変わったのは小学校高学年の時。 じいちゃんがすい臓ガンで入院した。 以前から入退院を繰り返していたが、子供心にすぐ出てこれるなら大したことは無いと馬鹿な事を考えてた。 それで、さほど心配せずに家族で夏休みに母の実家まで遊びに行った。 出発前の見舞いで病室に入った時から妙な感じはしていたが、それでも遊びに行く事に頭が一杯で気にはしなかった。 今でも行きの車の中で『まさか』と軽い気持ちで想像してた自分を絞め殺してやりたいと思っている。 その『まさか』がその日の夜に起きた。
電話が掛かってきて両親も母方の祖父母も、慌ててテレビを見ていた俺と姉ちゃんを車に押し込んで病院に向かった。 その時には車の中で必死に祈ったのを覚えている。 俺があんなバカな想像したからじいちゃんが死んじゃうって本気で思ってた。 だから、『言う事聞くから、悪い事しないから』って、ガキなりばあちゃんの影響で信じていた仏様に祈ったよ。 ドラマなんかでよく走って病室まで行くけど、そんな事は無く皆無表情で早足に病室に向かった。 既に家に残っていたばあちゃんや、他の親戚達は病室に居てベットを覗き込んでいた。 病室に到着した時には意識不明。 当時の俺にはそんな事よくわかんなかったから目をつぶっているだけに思えて、必死で泣いてじいちゃんの手を握る大人を掻き分けて枕元で『起きて』って言い続けた。 そんな俺や家族の声に気付き、最後の言葉を残したじいちゃんは、やっぱり強い人だったんだと思う。 じいちゃんが殆ど開かない目で、酸素吸入器と管が通った口を苦しげに持ち上げて笑いながらうわ言みたいに言った。 「ありがと」って。 声が掠れてよく聞き取れなかった一言だけを残して心臓が止まった。 言葉を聴いた瞬間大人達は泣いた。 母は泣き崩れて、父は強く閉じた目から涙を流した。 どんなに辛そうでも笑ってたばあちゃんも座り込んで泣いてた。今思えばきっとこれが最初で最後の涙なんだと思う。 ただ一人泣かなかった俺も、医者が心臓マッサージを止めた瞬間涙が溢れ出た。 これ以上は体を傷つけるだけだなんて、馬鹿な事言ってないで続けろよって言いたかった。 何より、手の掛からない子供だった姉ちゃんはありがとうを言えたのに、手の掛かるクソガキだった俺はありがとうもごめんなさいも出来なかった。
187 :
上の続き2 :2005/11/29(火) 21:43:49
一晩中泣いて、部屋の隅で座ったまま布団をかけられて寝ていた俺が目を覚ました時には部屋に祭壇が出来ていた。 やっぱり、じいちゃんは死んだんだと思い知らされてまた泣いた。 目を腫らしたまま起きてくる中で、ばあちゃんだけが元気だった。 当時ガキだった俺にはわからなかったけど、あれはきっと空元気だったんだな。 それから何時の間にか通夜や告別式は終わっていて、じいちゃんは灰になった。 納骨式で火葬業者がじいちゃんの骨を砕いたシーンを見て、腹が立った後に悲しくなってまた泣いた。 その日は腹が立つぐらい晴天だったが、きっとあの綺麗な空に昇れたのだろうと思っている。 それから10年近く経った今でもばあちゃんは毎朝お経を読む。 迷わないように、大丈夫だからって知らせたいからだと教えてくれた。 じいちゃんが死んでからも、ばあちゃんはいつもニコニコ笑っている聖人みたいな人だけど、ふと寂しそうにじいちゃんの遺影を見ている。 いつじいちゃんの所に行ってもいいよ、とも言うようになった。 なぁ、じいちゃん。俺、でかくなったけどバカのまんまだよ。 だから叱りに来てくれよ。ありがとうもごめんなさいもまだ言い足りないよ。 ばあちゃんにも一度顔見せてやってよ。夢でも何でもいいからさ。 以上、長文スマン。 吐き出して楽になったよ。
188 :
大人になった名無しさん :2005/12/02(金) 16:07:57
父方の祖母が(父・祖父以外の)誰もが認める料理下手で帰省のときは、 地獄だった。(そのせいか現在両親以外誰も帰省しない。)
189 :
大人になった名無しさん :2005/12/02(金) 16:15:03
高校の頃、連れから借りたエロビデオを見るのを楽しみに深夜皆が寝静まるのを待っていた。 やっと皆が寝たところでビデオを見ていたらお祖母ちゃんが起きてきた。 すぐにビデオを消しTVを見てたらお祖母ちゃんまで一緒に見始めた。 早く寝ないかなぁってしだいにイライラしてきて「早く寝な!」って言っても それでも俺と一緒にTVを見ようとするので俺の怒りも爆発して 「早く寝ないからウンコ漏らしたりするんだよ」って言ってしまった。 お祖母ちゃんは「うぅ」ってとても悲しそうな声をして席を立った。 きっと泣いていたんだと思う。 17年も前の出来事だけど未だに寝るときに思い出して涙がボロボロでてくることがある。 それと同時に胸がとても痛み眠れなくなってしまう。 しかしあの時のお祖母ちゃんはもっとつらかったんだと思う。 お祖母ちゃんは高校3年の時に亡くなったが結局謝る事は出来なかった。 ごめんよ、お祖母ちゃん。ホントにごめん。
190 :
大人になった名無しさん :2005/12/02(金) 16:35:10 BE:371304094-
>>189 おまいがそう思うことでばぁちゃんも笑って許してくれると思うぞ。
おいらのじーちゃんばーちゃんはまだ元気でいてくれてる。
だがこのスレ読んでいつ自分に死に目の場面にでくわすかと思うと震えている自分がいる。
俺ばーちゃん子なんだよ…両親共働きで俺は小学校までばーちゃんに育てられたんだ。
いつか死んじゃうって思うと悲しくなるな…
俺が悪いことしてもばーちゃんだけだよ。かばってくれたの…
「あたしが悪いんだって」よ…
191 :
189 :2005/12/03(土) 08:39:06
>>190 ありがとう。
けどこの胸の痛みは生涯無くなる事は無いと思う。
祖父母共に元気なあなたはとても羨ましいです。
今出来ることを精一杯してあげてくださいね!
192 :
大人になった名無しさん :2005/12/03(土) 15:03:55
>>185-187 俺はじいちゃんが死んだとき、そばにいてあげられなかった。
見舞いに行って家に着いたとき、電話で死んだと聞いた。
あれが最後の会話だったのかとおもうと、それが今でもこころ残り。
なくなったのは残念だけど、最後までいてあげられてよかったね。
きっとじいちゃんも気づいていたと思うよ。
193 :
大人になった名無しさん :2005/12/03(土) 15:11:19
近所の杖持ったじいさんに、杖でいきなり背中殴られた。『通行の邪魔!』とか言われて。…端の方を歩いてたのに…。何故?
194 :
大人になった名無しさん :2005/12/14(水) 12:28:28
専門学校に進んでから、学校終わったらすぐバイト、帰って爆睡の毎日。 高校のころは、帰り道にじいちゃんばあちゃんのアパートに寄って、晩御飯食べてお茶してた。 どーしようもない漏れが来ただけなのに、二人ともニコニコして迎えてくれる。 ある日、その日は好きなバンドのメンバーの誕生日だからって、バイト休みにしてもらって 友人とケーキ買って祝うなんて痛いことしてた。 テレビで日本対北朝鮮のサッカーの試合見ながら酒飲んでると、携帯に滅多にこない叔母の名前。 じいちゃんが倒れて、ちょっと、ヤバイと。 ちょっとヤバイってどっちだよ、とわけわからんこと考えながら、友人の車で即効病院に行った。 免許不所持で飲酒してて未成年で、でもかまってられんかった。 死に際に逢えたけど、結局じいちゃんは、あともう少しで明日って時に激しく痙攣して、ゆっくり逝った。 今思い出しても悔やむ。 たまの休み、何で顔見せにいかなかったんだろう。 漏れが運転する車に乗るのが楽しみだったじいちゃん。 結局一回も乗せてやれんかった。 ごめんと言えばいいのか今までありがとうと言えばいいのか今でもわからない。 でもこれからは、6月8日はケーキじゃなくて
この時期になるといつも思い出す。 ばあちゃんが作ってくれるきんとんにはリンゴが入ってた。 私はそれが大好きで、ばあちゃんちのおせちではそればかり食べてた。 毎年毎年、お正月に行くと 「○○ちゃん(私のこと)が好きだからたくさん作ったよ〜」と 優しい笑顔で迎えてくれたばあちゃん。 最近、ウチでは料亭のオセチとか買ってて、それはそれでおいしいんだけど やっぱり、ばあちゃんのが一番だな。。。 「もう永遠にあのきんとん食べられないんだな〜」と思うと今でも涙が出るよ。
やばい、このスレ見てたら本当に泣いてしまった…。゚(゚´Д`゚)゜。 私は生まれたときから祖父母に大切に育てられたので、両親より祖父母に なついていました。祖父母は今も生きていますが、長生きして欲しいと思います。
昨日おれのひいばあちゃんが死んだ。 おれが小さい頃腕にボールペンで時計書いてくれたよね。 水で薄めた養命酒飲ませてくれたよね。 お母さんがご飯できたって呼びにくるまでいつもばあちゃんの部屋でおれと遊んでくれたよね。 おれ今は憶えてないけど昔乳母車で色々な所に連れてってくれたんだよね。 おもちゃもいっぱい買ってもらったよね。 たくさん可愛がってもらったのに…おれいっぱい酷いこと言った。 おばあちゃんがちょっと呆け始めてから何度も台所にお茶を飲みにきたとき「もう寝てなよ!」なんて怒鳴っちゃってごめんね。 台所まで歩いてくるの大変だったよね。一人で寝ててもつまらなかったんだよね。 「家の前車椅子で引いて」って言われたときも面倒だったから「今外寒いから…」なんて言っちゃった。 「そうかぁ」なんて言ってたけど悲しかったよね。昔おれ乳母車で引いてもらってたのにさ。 今すごく後悔してるよ。恩返しできなくてごめんね。 おれどんな映画見たって絶対泣いたりしないのにぼろぼろ泣いちゃったよ。 もう会えないの悲しいよ。夢でもいいから会いたいよ。 みんなは後悔しないようにできるときにできることをやってあげてください。 必ず喜んでくれると思いますよ。 おばあちゃん。おやすみなさい。
母方のばあちゃんの事思い出したから書いとく。 小学生5,6年くらいだったかな、ちょうど夏で暑い頃だった。 俺ら家族は母さんの実家に遊びにきてて、 そこにはばあちゃんと、母さんの弟夫婦達が同居してた。 大人が買い物かなんかで出かけたんだけど、俺ら子供はミニ四駆で遊んでて家に残った。 ずぅっと遊んでて昼近くになった頃だったかな…、 ばあちゃんがおにぎり作って持ってきた。 塩で味付けた、海苔もつけてない真っ白いおにぎりだった。 俺は折角作ってくれたからって食べた。 そしたら凄くおいしかった。何の変哲も無いおにぎりだったけど、 正直母さんのおにぎりよりおいしかったかもしれない。 実家のガキ達はその頃ばあちゃんが嫌いだったみたいで、 それが原因かどうかは分からんけどとにかくとにかく頑なに食べるのを拒否った。 だから俺はその分も「おいしい、おいしい」って言いながら何個も食べた。 そしたらばあちゃん、泣きそうな顔して目を光らせて「そうかいそうかい」って言ってた。 おぼろげだけどそんな感じだったと思う。 思い出したらちょっと涙出てきた。 ありがとうばあちゃん、あの時のおにぎり、本当においしかったよ。 乱文スマソ
199 :
大人になった名無しさん :2006/01/23(月) 16:42:15
おばあちゃんは偉い人でした 耳が遠いので話しかける時は大声なので 他人は僕がおばあちゃんを虐待していると 勘違いしていた。 おばあちゃん子だったのに。 僕がチャーハンとかやきそばをつくると おばあちゃんは必ず食べたいとねだってたっけ 亡くなった時は自分の部屋にこもって涙が 止まらなかった 今年13回忌だけど親戚が集まらないので 僕ひとりでお墓参りをしてきた 今朝も夢に出てきた すごい存在感があった
200 :
大人になった名無しさん :2006/01/24(火) 02:32:05
大学卒業したら…実家帰ろうかな。。。
201 :
大人になった名無しさん :2006/02/08(水) 04:22:10
両親が共働きだった事もあり、子供の頃はずっとばあちゃんに面倒を見てもらっていた。 すぐに妹・弟が生まれ、親に手をかけて貰えず育った俺を不憫に思っていたのか ばあちゃんは妹や弟より、俺の事を随分可愛がってくれていた。 それから随分と年月が経過して・・・ 中学以降荒れた俺は、高校を中退して遊び歩くようになった。 親はほとんどサジを投げてしまっていたが、ばあちゃんだけはいつまでも 俺の事を心配してくれていたらしい。 今は更正してはいるものの、何事もやり遂げる事を知らないままに育ったツケが回り 仕事も長続きせず、すぐ辞めるを繰り返し今に至る。 ばあちゃんはまだ、ピンピンとはいかないものの生きてくれている。 しかし85を過ぎる高齢となった今、きっとそう長くはないのだろう このスレを読んで、生きているうちにばあちゃんを安心させてやりたいと思ったよ。 正直少し人生を投げかけていたが、俺を想ってくれている人が一人でも居るうちは 諦めないで頑張ろうと思う。 長文乱文すまんかった。
202 :
大人になった名無しさん :2006/02/14(火) 21:40:37
良スレ
203 :
大人になった名無しさん :2006/02/16(木) 11:50:29
おじいちゃんは社交ダンスを習っていて、座敷の部屋でよく練習していた。 おじいちゃんがゆらゆらゆれながらダンスの練習をしているところに行って 「なんでおばあちゃんと踊らないの?おばあちゃんの事好きじゃないの?愛してないの?」 と聞いてみた。するとおじいちゃんは 「えーと」とかなんとか言っていたが、しつこく 「愛してないの?嫌いなの?」と聞いたw すると「愛してるよ」 と答えたので、無邪気におばあちゃんのところへ行き 「おじいちゃんがおばあちゃんのこと愛してるんだって!!」 と大声で伝えました。 さらにおばあちゃんに「おばあちゃんもおじいちゃんの事愛してる?」と聞き おじいちゃんの所へ行って 「おばあちゃんがおじいちゃんの事愛してるって!」 と大声で伝えました。 おばあちゃんがおじいちゃんのあと追わなくて本当によかった。
やめろぉぉぉぉ!! 深夜に俺を泣かすなぁぁぁぁぁ!!!!
205 :
大人になった名無しさん :2006/03/16(木) 17:28:14
大正生まれで、お寺の住職だったうちのじいちゃん。 私がお寺に遊びに行くといつも笑顔で迎えてくれた。 茶色い作務衣と下駄ははじいちゃんのトレードマーク。 鼻をかむときはティッシュを使わず、四つ折りの半紙を使ってた。 幼い私を膝の上に乗せて、童話を読んでくれたこともあった。 砂糖水をよく好んで飲んでたっけ。 私、じいちゃんのことずっと忘れないよ。
共働きだったため、おばあちゃんっ子だった俺は小学生の頃 おばあちゃんにジャンプを買いに行ってもらっていた。 確かその週はメカフリーザ襲来の回で、俺は楽しみに帰ったんだ。 でもおばあちゃんはその日に限って間違えてVジャンプ買ってきた。 すごくショックだった俺は「おばあちゃんのバカ!」と言ってしまい、 自分の部屋に引きこもって泣いていた。30分くらいたっただろうか、 おばあちゃんが部屋の前で「〇〇ごめんね。おばあちゃん今新しいジャンプ買ってきたからね。」 部屋の前にはジャンプとおばあちゃんと俺の好きなお菓子のぽたぽた焼が置いてあった。 バカな俺はおばあちゃんに謝りもせずに夕飯まで引きこもっていた。 一週間後にはまた仲良しに戻っていた。でも俺はずっとそのことを謝れずにいた。 小6の卒業式の2日前、家に帰るとおばあちゃんが倒れていた。 俺はすぐに救急車を呼んだけど、午後8時くらいに亡くなった。 不思議と涙は出なかった。あれを呆然自失と言うんだろう。 家に戻り、自分の部屋に入った。机の上には最新号のジャンプとぽたぽた焼があった。 涙が止まらなかった。大好きだったおばあちゃん。俺は一生あのことを悔い続けるだろう。
207 :
大人になった名無しさん :2006/03/17(金) 02:26:14
俺が三つん時ひーばーちゃんにデカイ黒飴を食わされて咽喉に詰まって危うく死に掛けた記憶があるよ‥
たまごっちブームが最高潮の時だった たまごっちが欲しくて欲しくてたまらない俺の耳に、「駅前のパチンコ屋にたまごっちがある、玉1万円分と交換できる」という噂が飛び込んできた。 当時中2だった俺はパチンコ屋には入れないので、おじいちゃんに1万円を渡して「玉を買って直接たまごっちと替えてきて」と頼んだ。 日頃はほとんど口も利かない孫に頼りにされた事が嬉しかったらしいじいちゃんは、「まかせとけ」とばかりに家を出ていった。 俺もおじいちゃんがいて本当に良かったと思った。 2時間後にじいちゃんが帰ってくるまでは。 たまごっちを一つだけ持って帰ってくるはずのじいちゃんは、景品をたくさん抱えて帰ってきた。 お菓子に、変なウォークマンにCDと色々な物を抱えて帰ってきた。 おじいちゃんは、たまごっちはもう既になかったので、店員さんに聞いて中学生の男の子向けの物を色々見繕ってもらったというような事を 言っていたとは思うが、そんな話を聞く冷静さは俺にはなかった。 「この、泥棒ジジイ!なかったんなら1万円返せよ!そんなもの、いらねーよ!」 俺はそう言ってじいさんを責めた。 じいちゃんは何度も何度も、 「ごめんな、じいちゃんは、もう、じいちゃんだから。」 と言って、財布から1万円をくれた。 俺は1万円をひったくるように取ると、自分の部屋で一人で少し暴れた。 それからしばらく、じいちゃんの部屋の前を通ると、背中を丸めて子供向けの菓子をボソボソと食べているじいさんの姿が見えて、嫌な気持ちになった。
209 :
大人になった名無しさん :2006/03/19(日) 13:54:33
じいちゃんに謝ったのか?
210 :
大人になった名無しさん :2006/03/21(火) 22:11:46
このスレ見てると泣いてしまう
おじいちゃんが孫にプレゼント。 母「たかし、さっきおじいちゃんがプレゼント届けてくれたわよ」 孫「プレゼント?なんで?なんかあったっけ?」 母「知らないけど、なんか日本代表のユニホームみたいよ」 孫「マジで!」 バリバリ、バリバリ。 孫「まぁ、無難に俊輔あたりだろうな。」 ワクワク 「え?なにこれ?色違わね?」 「うん?51番て誰だよ。」 「あ!これって・・・・あー!野球じゃん!」 「・・・・。」 孫即死。
212 :
大人になった名無しさん :2006/04/04(火) 13:04:35
先週末の土曜日に婆ちゃんが、 オレが一人暮らししているマンションに遊びに来たんだ。 丁度、お堀沿いの桜が満開の時期だったからブラブラ散歩したよ。 マーケットで日用品やら食材なんかを買ってもらっちゃってサ。 夜は料亭でうどんすきをみんなで食べたよ。 久しぶりに外で会う婆ちゃん、 一回りも二周りも小さくなったように感じたなぁ。 爺ちゃん死んで、もう10年近くになるんだな。
213 :
大人になった名無しさん :2006/04/06(木) 02:30:47
高校卒業前に教習所に通いだした俺。 ばー「あんた今、自動車学校に行っとるとね?」 俺「うん、免許取りに」 はー「はぁ〜、たいしたもんねぇ」 それからしばらくして照れくさそうに俺に封筒を渡すばーちゃん。 ばー「たくさん入ってないから。気持ちね」 表を見ると「入学祝」と書いてた。
214 :
大人になった名無しさん :2006/04/06(木) 02:31:31
去年ばあちゃんが死んだ。 数年前、私と従姉のねーちゃんのために 淡いピンクの振り袖を作ってくれた。 私達がそれに袖を通すのをとっても楽しみにしていてくれて 私もばあちゃんと「成人式は振り袖着てくれる?」「うん」と約束をかわしていた。 しかし成人式を迎える年、 私は、【振り袖より目立つ格好がいいから!】とかいうバカな理由で 振り袖を着ないでゴスロリの格好で成人式に出席。 更に、 ずっと着たかった袴と 好みの青い振り袖をレンタルして写真を撮ることにした。 そのことを知ったばあちゃんは少し淋しそうだったが 「いいわいいわ、●●ちゃん(私)の好きな格好で出ればいいからね」 と言ってくれた。 私は謝らなかった。 成人式から3年後の去年、 ばーちゃんは持病のリウマチから寝たきりになり あっという間に逝ってしまいました。 お通夜の日、 家族で遺品を整理していたとき ばあちゃんの入院中の荷物から 私がレンタルで借りて撮った青い振り袖の試し撮り写真が出てきた。 ばあちゃんが買った振り袖じゃないのに こんな写真を大事に持っててくれたんだ…。 せめて生きてる間に ばあちゃんの買ってくれたピンクの振り袖を着てあげるんだった。 ばあちゃんごめんね。 今更だけどさ、今年振り袖着ようと思うんだ。 天国から見においでね。
215 :
大人になった名無しさん :2006/04/06(木) 07:01:25
4月の春休み、曇りの日だったか・・ おばあちゃんは、俺が幼馴染の家に行くというと、弁当代に千円もくれた。 俺は友達の家で存分に遊んでたけど、幼馴染は勉強家なので 適当に話しながら勉強してた。趣味の話やら学校の話やら・・・ お母さんはそんなおばあちゃんに、金やりすぎだと注意していた。 が俺は、バカだったので、そのまま休になるといつものようにもらってた。 おばあちゃんは、高校1年のとき肺炎で亡くなった。
216 :
大人になった名無しさん :2006/05/28(日) 18:09:16
良スレ
217 :
大人になった名無しさん :2006/05/28(日) 19:06:22
ウチの爺ちゃんは元海軍パイロットで、南方の最前線から本土防衛の任務など、かなりの死闘をくぐり抜けたらしい。 特攻隊の護衛任務の時の話はかなり泣けたな…。
218 :
大人になった名無しさん :2006/05/28(日) 19:20:35
ウチの祖父母は、都内の某地域の大地主で大金持ち。高校生の頃は、一日一万円のお小遣貰ってた。大学に入学したお祝いに、高級車も買ってくれたし。 あまりにもDQNでスマソ!
219 :
大人になった名無しさん :2006/05/29(月) 22:33:53
(つДT) 泣いてないからな。 目にごみが・・・。ヒックヒック
220 :
大人になった名無しさん :2006/05/29(月) 23:12:47
おじいちゃんの入れ歯が、俺のマイコップにポリデントと共に沈んでいた時は、全米が泣いた。。。。
221 :
大人になった名無しさん :2006/06/02(金) 04:26:35
このスレよ永遠に
222 :
大人になった名無しさん :2006/06/02(金) 12:40:17
やさしくしてくれるじいちゃんがなんか鬱陶しくて 邪険にしちゃったことがあったな。 ごめんよ、じいちゃん。 生きているうちにもっと恩返ししたかったなあ。
223 :
大人になった名無しさん :2006/06/07(水) 05:44:23
俺はばあちゃんに育てられた。片親で居ないも同然。 そんな元気だったばあちゃんが突然倒れて寝たきりになってしまった。 もう先は長くないと思っていた。でも寝たきり半身不随になってもばあちゃんは頑張った。 とある日の夜、俺の携帯がなった。胸騒ぎがした。やはり病院からの電話で真っ先に向かった。 病室に入るとばあちゃんは苦しそうに寝ていた。こんなばあちゃんを見たのは初めてだ。怖かった。 ずっと手を握って「ばあちゃん頑張って」と思っていた。 ばあちゃんは目を瞑ったままだった。いや自分では開けないのだ。だから俺は無理矢理まぶたをこじ開けて俺の姿を見せてあげた。 そしたらギョロッって動いて喜んでいるように感じた。 その瞬間心電図は停止してしまった…。そして医者からあの言葉を告げられてしまった。 俺は感情に乏しい人間だが声を出して泣いた。 そして今までばあちゃんにしてきた酷い事が走馬灯の様に流れた。 ばあちゃんが作ってくれた飯をまずいと言って食べなかったり、早く死ねとか言ってしまった時もあった。ばあちゃんごめんなさい。 ばあちゃんは俺がガキの頃、冗談で「ばあちゃんが死んだらお化けになって出てきてやる!」って言ってたよね。 だからいつでも遊び来てね。 大好きなばあちゃんありがと。。 長文スマン。
224 :
大人になった名無しさん :2006/06/07(水) 09:59:54
良スレ乙!!
225 :
大人になった名無しさん :2006/06/07(水) 10:12:36
最近、夢の中に、天国にいる祖父母がしょっちゅう出てくる。綺麗なお花畑で『おいで、おいで』してるし、こりゃ完璧にお迎えに来てるよね。まだ20歳だし、俺まだ死にたくねぇ〜W
226 :
大人になった名無しさん :2006/06/08(木) 01:55:52
おばあちゃんの思い出。 おばあちゃんはゲームボーイが好きで毎日テトリスしてた。ロケット発射させるくらい上手だったよ。 俺が一時期乗ってたVIPカー(ドキュソ仕様)で病院の送迎してあげたっけ。 「乗り心地悪いし、次の車はもう少し高さのある(車高短だったから)車買いなさい」と言ってたね。 ドキュソ仕様の車から降りるばあちゃんは滑稽だったよ。 ばあちゃんは足が悪いから俺に頼ってくれてたけど、面倒臭いときは「バスで行けよ」とか言っちゃった。 年金で生計を立ててて、俺を立派に育てあげた、ばあちゃんに感謝。 ばあちゃん孝行出来なくてごめんね。 ばあちゃんの死目にあえてよかったよ。ばあちゃんの入れ歯は形見にします。
227 :
大人になった名無しさん :2006/06/08(木) 15:04:21
「ばあちゃんと過ごした日」というフラッシュを見てみて下さい 今は携帯からなので、リンク張れずにすみません…(´・ω・`) このフラッシュ、何度見ても泣いてしまいます(´。・ω・)
228 :
大人になった名無しさん :2006/06/10(土) 11:09:46
良スレあげ
心配性でグチっぽくて、口うるさいけど、世話好きで優しいばあちゃん。 私が子供のころは、よく好物のイモ天を作ってくれた。 食べてるそばから次から次へと揚げてくれて、アツアツホクホクのを まるでわんこそばみたいに、お皿に盛ってくれた。 うちの母は「おばあちゃんは料理下手なのよ」なんて言うけど、 ばあちゃんのイモ天は何よりおいしかった。 大人になった今では、揚げ物は太るから、ニキビができるから…って すっかり食べなくなっちゃったけど、今度遊びに行ったら作ってもらおう。 「天ぷらなんて面倒だし、台所が汚れちゃう」なんてグチりながら、 きっとまた、食べきれないほどのイモ天を揚げてくれるはず。
230 :
大人になった名無しさん :2006/06/22(木) 18:18:13
あげ
231 :
大人になった名無しさん :2006/06/25(日) 03:36:37
オレも大好きなばあちゃんが死んだとき 涙も出ないくらいに心がどうにかなってしまった。 そんなとき彼氏彼女の事情って漫画読んだ。 5・6巻だったかな。 主人公の父親と父親の祖父との話。 まとめると、祖父は孫に何か望んでた訳じゃなく ただ生まれてきたというだけで祖父は満たされてたんだと。 詳しくは買って読んでくれ。 これでどんだけ救われたかわからん。 でもじいちゃんばあちゃんがまだ存命のおまえら。 やっぱりちゃんと孝行はしとけよ。 でも特別なことじゃなくて良い。 一緒に話をしてあげるだけで良い。 そばにいてあげるだけでも良いんだ。 それさえ怠って今も後悔しているオレのようになるんじゃねぇぞ。
果実酒造りが趣味だったばあちゃん。 「今年のはよくできてるよ〜〜。さ、さ飲んでごらん!」 と小さい頃から鍛えられた私は立派な酒豪に育ちましたw 最後はすっかりボケて施設のお世話にはなってたけれど 県一番のご長寿さんで、亡くなった時新聞記事になりました。 お葬式が終わって自宅に戻り、近所にあるなじみの居酒屋で一杯やりつつ そこの大将に新聞を見せながら話しをしていたら、一見さんが 「そんな風にお孫さんに自慢して貰えるおばあさんは幸せだね」と。 いやいや、あのおばあちゃんの孫であった私こそが幸せなんですよ。 厳しかったけど、とっても優しかった大好きなおばあちゃん。 ありがと。 お酒の飲みすぎには注意するね。
233 :
大人になった名無しさん :2006/07/06(木) 00:04:01
234 :
大人になった名無しさん :2006/07/06(木) 00:20:51
近所の怒りっぽいじいさんがプロレス中継を見て、 外人レスラーの凶器攻撃に興奮して、心臓発作で 死んだ事件が1年くらい町の話題を独占し、自治会 では年寄りにプロレスを見せないようにしようとか、 年寄りから楽しみを奪うのはいかがなものか、という くだらない議論が続いていた。
235 :
大人になった名無しさん :2006/07/06(木) 04:55:30
俺じいちゃんとばあちゃん大事にするよ。 このスレ見てそう思った。
おばあちゃん、大好きだよ
237 :
大人になった名無しさん :2006/07/19(水) 01:36:29
中学3年生の時、おばあちゃんの身体がどんどん悪くなって、殆ど寝たきりになった。 冬のことだった。もう、おばあちゃんは一人では何もできなくなってた。 まともに歩くことさえもできずに、トイレに行くのも誰かの手が必要だった。 最初は私も手伝っていた。でも、そのうちに自分の時間を邪魔されるのが嫌で、 おばあちゃんが呼んでても聞こえてない振りを何回かした事があった。 春休みに入ると、おばあちゃんはとうとう入院してしまった。 お見舞いにも何回か行った。鶴も折ってプレゼントした事があったな。 千羽鶴みたいな立派なものはできなくて、糸に数十の鶴を吊るしただけの、よれよれの鶴だったのに。 泣くんだよ、ありがとう。って泣くんだよ。 泣くおばあちゃん見て困りながら背中をさすった。流石の私も、もらい泣きしそうになったよ。 それから高校にあがって5月の下旬、おばあちゃんは他界した。 私は後悔してた。あの時何で…と自責の念でいっぱいだった。 小さい頃から私の顔がおじいちゃんに似てると、おばあちゃんはよく可愛がってくれた。 私が生まれた頃にはおじいちゃんは他界していたから、生まれ変わりだ!って騒いでたらしい。 そんなに大事にしてくれたのに、私は…。 あの頃の事を思い出すと胸が苦しい。 鶴、最期まで飾っていてくれてありがとう、おばあちゃん。 おばあちゃんの髪の毛を入れたお守り、今でも大事にしてるよ。 あの時はごめんね…。いろいろありがとう。ゆっくり休んでね。
高校に合格して、学校に提出する書類に身元保証書ってのがあって、両親以外の人の サインとはんこが必要になったんで、親と一緒にじいさんのところに頼みに行った。 親「保証人になってもらえるかね?」 じい「なんだ!借金したんかい!」
239 :
大人になった名無しさん :2006/07/20(木) 07:29:11
、
240 :
大人になった名無しさん :2006/07/21(金) 22:07:16
俺の筋消し婆ちゃんに食われちゃった
241 :
大人になった名無しさん :2006/07/22(土) 00:26:01
祖父母はアイヌ民族でしたよ。
俺の曾祖母(父の父の母)に小さい頃よく体を洗ってもらいました。 そのばあちゃんは3年前、100歳の誕生日で亡くなった・・・・ 死ぬ五時間前ぐらいに一時心拍数が0になった。みんながもうだめぽと 思った瞬間、なんと2秒で75に戻りました。生命力がすごいおばあちゃんでした。 16年前に葦が腕を貫通したことがあったのですが、塗り薬つければ治るといって 3日で完治しました・・・すごい
243 :
大人になった名無しさん :2006/08/08(火) 23:06:28
うちの隣に住んでる半身不随(右の)のおじいちゃん。体は不自由だけど 心はとびっきり元気で、口やかましく病院でも困り者だったそう。そしてどうしても家に 帰りたいと言うので、在宅介護という話になったそうなんです。奥さん(おばあちゃん)と が息子のお嫁さんを説得しておじいちゃんの面倒を見てもらうことになった(おばあちゃんは仕事持ち) んですけど、そときからおじいちゃんの面白パワーが炸裂(笑)したんです。 ある日私が家の前を通りかかると「よいしょー」とか「そーれ」とか聞こえるので、何だろうと思って見ると おじいちゃん、ベッドの脇で介護してるお嫁さんのお尻に必死の形相で右手を伸ばしてたんです。(爆) これがおじいちゃんのリハビリ法と思って思わずふき出しちゃったんです。 暫くたってまた行くと「ほら、後もう少し」と今度はおばあちゃんがおじいちゃんに声援を送ってました。 そしてお尻に手が届くと、おじいちゃん「やったー」と近所に聞こえる大声で叫んでお嫁さんのお尻を震 えながらもナデナデ。その顔が嬉しさでいっぱい。茶目っ気たっぷりのおじいちゃんの 様子に思わず拍手しちゃいました。昔からスケベ心旺盛でお嫁さんによくちょっかいだしてたとか。 でもその力で直ったことにびっくりしました。おばちゃんもおじちゃんのことが好きで時にはお嫁さんをお説教し ながらおじいちゃんを影で支えてました。 今では手が大分動くようになり細かい指の動きをやっぱりお嫁さんのお尻で練習中とか(苦) 私は昔からおじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられてきたこともあって、こんな二人が大好きです。 がんばれー
244 :
大人になった名無しさん :2006/08/20(日) 12:58:50
お盆休みに6年ぶりににおばあちゃんに会いに行った。 会社を辞めてからずっとフリーターだったから 無様な自分を見せられなくてずっと会いにいけなかった。 新幹線と特急と乗車券で1万9千円かかったけど おばあちゃんに会えると思えばたいした出費でもなかった。 岡山についておばあちゃんを見た瞬間泣きそうになった。 何回も入退院繰り返してこんなに痩せてしまって・・・ 駅まで迎えに来させてごめんな。 おばあちゃんが作ってくれた朝ごはんおいしかったで。 俺の好きな鮭用意してくれててありがとう。 1泊しかできんでごめん。今度は長い休みとって行くから。 おじいちゃんのお墓も綺麗に掃除するわ。 おばあちゃんがお土産にくれたトマトホンマおいしかったで。 今日、資格の試験やったけどおばあちゃんに諭されて 心を入れ替えて勉強したからすごいよくできたわ。 俺、おばあちゃんのために財形してて毎月1万ずつ貯めてるから 次に会いに行くまで絶対死んだらあかんで。
245 :
大人になった名無しさん :2006/08/20(日) 13:14:12
>>244 いいこと書くよなオイ。 ゚・(ノД`)・゚・
セピアの底の方に沈んでいると思うけど 年寄りは死ね だったかひどいスレがあるんですよ。
こんな事を語る連中は祖父母のよかった経験がないのでしょう。ある意味かわいそう。
私の最後のおばあさんが昨年逝ってしまった。最後の頃はボケてしまっていたが
もっと見舞いに行けばよかったと悔やんでいます。ちなみに笠岡。
246 :
大人になった名無しさん :2006/08/20(日) 17:05:21
小学生の頃、妹と下校途中に田植え準備の為どろどろの田んぼを発見。 好奇心でずぶずぶと泥状態の田んぼを歩いていく妹と私。 でもしだいに足が抜けなくなって、歩き出すことも出来ずに二人してどうしていいか分からず泣き始めてしまった。 するとそこにタイミングよくスクーターに乗ったおじいちゃんが登場。 私と妹をつかんで引っ張り挙げてくれた。 そしてスクーターの後ろに妹を、前に私を立たせて家まで送ってくれたおじいちゃん。 ほんとそれだけのことなのにこれはみょう〜に頭に残ってる。 でも家帰ったらうしろにいるはずの妹を途中で落としてきてたのに気付いた。
247 :
大人になった名無しさん :2006/08/20(日) 18:44:40
俺は母子家庭で祖父母に育てられたから ここをよむと感動する二人とも70才なので心配だ 幸い病気などはまだないが…
248 :
大人になった名無しさん :2006/08/24(木) 01:32:18
小銭とってごめんなさい。
249 :
大人になった名無しさん :2006/09/04(月) 23:39:39
母方の祖父が脳出血で倒れて入院した時、妊娠中だった私はお見舞いに行けなかった 遠方だから赤ちゃんが心配だとかお金がかかるからとか思ってたけど、本当は面倒くさかったのかも知れない 里帰りせずに産んで、子供が6ヶ月の頃初めて帰省してお見舞いに行った 子供を見て、うんうんとうなずいてくれた それから数時間後、おじいちゃんは亡くなった きっと私が帰って来るまで待っててくれたんだと思う そう思うと申し訳なくて後悔して仕方がなかった 今でも後悔しています ごめんね、おじいちゃん 私達姉妹が大人になってもプレゼントは子供用の宝石箱やおもちゃで、ずっと子供の頃のままだったんだよね 本当に大好きでした 娘は4歳になったよ 垂れてる眉と目はおじいちゃんにそっくりだよ 今、父方の祖父が入院している 同じ後悔をしないようになるべく顔を見に帰ってる もう祖父母も平均寿命を越えていて、近い将来いなくなるんだと思うと悲しいよ この年になっても祖父母がいるのは幸せな事なんだろうけど、もっともっと長生きして欲しい
250 :
大人になった名無しさん :2006/09/05(火) 02:45:28
こないだドラえもんでのび太がタイムマシンで おばあちゃんに会いに行くストーリーがあって 俺も会いたくなっちゃったよ。仏壇にあった お金盗んでごめんなさい。
251 :
大人になった名無しさん :2006/09/05(火) 10:09:40
このスレ見てて辛抱出来なくなりました。 今も一緒に暮らしている祖母ちゃん、すっかり耳が遠くなり独りでお風呂にも入る事も出来なくなってしまい介護センターの人のお世話になってるけど大好きだよ。 祖母ちゃんの大好物のマグロの刺身とザーサイの漬物、毎日でも食べさせてあげるから長生きしてね…。 いかん、カキコしてて涙が…。
252 :
大人になった名無しさん :2006/09/05(火) 13:10:24
253 :
大人になった名無しさん :2006/09/05(火) 13:20:25
妙なやつがいるね
254 :
大人になった名無しさん :2006/09/05(火) 21:00:18
ここは心の優しい人が集まるスレですね…(´・ω・`)
255 :
大人になった名無しさん :2006/09/10(日) 03:51:29
今月の3日におばあちゃんが死んじゃった… 葬式も終わったのに全然自覚がないよ でももっと会いに行けばよかったな 笑ってあげればよかったな 話を理解できなくたっていっぱい話しかければよかった 飴玉が好きだからもっと食べさせてあげたかった 最後の最後に入院したとき何となく手を握ろうか考えて迷ったけど 寝てたしまた今度も乗り越えちゃうだろうと思って結局握らなかった。 今は凄く後悔してる。
256 :
大人になった名無しさん :2006/09/10(日) 07:05:28
俺、じぃちゃん、ばぁちゃんに、かなり可愛がられて育った。 幼稚園の頃まで、一緒に寝たりして村の伝説とか、昔話を沢山聞いた。 だからかな、お年寄りと接するのが大好きなんだ。 将来は介護福祉士目指して、頑張って勉強してる。
小学生のころに4人とも死んじゃった。 母方のおじいちゃんおばあちゃんは離れたところに住んでいたので 殆ど会った記憶がない。 父方のおじいちゃんは小2のとき脳梗塞で倒れて入院を繰り返していたから 顔は何度も見たけどまともな会話をしたことがなかった。 ただ一人だけ、私の中でおばあちゃんだけが思い出として残ってる。 両親は共働きだったので幼稚園の帰りはおばあちゃんの家だった。 極端に狭いキッチン、少しホコリくさい布団、つんとするほど草のにおいが香る庭 私が好きだったチョコボールを毎日買ってくれた いつも私の話を熱心に聴いてくれた。私の幼稚園時代が寂しくなかったのはおばあちゃんが居たからだった。 おばあちゃんは小1の夏死んでしまった。訳は聞かされなかった。今も知らない。 半開きになった目を覗き込んだら、にごった瞳しか見えなかった。 本当に死んじゃったんだ。涙は出なかった。 おばあちゃん、本当に大好きだったよ。泣いてあげられなくてごめん。
おばあちゃん 色々ありがとう ごめんね
259 :
大人になった名無しさん :2006/09/14(木) 16:20:30
おばあちゃん、おじいちゃんとの思い出っていうのは人生の財産だよね。 こういう思い出を沢山持っている人たちは、たとえ涙が出てくるような思い出でも、すごく幸せだと思うよ。
260 :
大人になった名無しさん :2006/09/14(木) 16:25:30
いやぁ、良いスレだ。
261 :
大人になった名無しさん :2006/09/15(金) 09:16:17
朝から涙で顔がぐちゃぐちゃだよ・・・ 私が旦那と結婚報告に行った時、背中丸めて泣いてたな・・・ 子供を産んだ時も泣きながら「ひ孫を見せてくれてありがとう」って言ってくれた。 お正月に帰るのが待ち遠しくなったよ・・・
262 :
大人になった名無しさん :2006/09/22(金) 22:18:28
自分はおじいちゃんを中1の時に亡くした。 おじいちゃんが病気になってから いつもおばあちゃんに『あれやってくれ、これやってくれ』と 命令ばかりするから、 影で、おばあちゃんはおじいちゃんの家来じゃないし、面倒くさいことは 全部おばあちゃんに言いつけてバカじゃないの?とマヂギレしてた。 おじいちゃんが入院した時も、普通に元気だったのに 病院の先生におじいちゃんが自分から『入院とかした方がいいんですかね?』と 頼んだのを聞いて、 『病弱なフリして…元気なくせに。』と全然心配もしなかったし、 家にいなくなってからも、『戻ってきたらまたうるさくなるなあ…』って 正直戻ってきてほしくなかった。 おじいちゃんのお見舞いに行けって親が言ったりしてきたけど 面倒くさかったし、あんな奴の見舞いなんか行くかって思ってた。 1回だけ行ったんだけど、その時はずっと寝てて 『せっかくお見舞い来てあげたのに』と怒ってた。 おじいちゃんが死んでから、 病院に自分から入院したのも、家族に迷惑かけたくなかったからって知ったし、 もう、最後らへんは寝たきりで喋れなくなってたから 言いたいことをメモに書いてたらしいんだけど 震える字で書いたメモには『家に帰りたい、どうか皆に会いたい』とかばっかり書いてあって トイレにも行けないから尿瓶みたいなのつけてたらしいんだけど そのせいで血がたくさんついたパンツとか出てきて… 自分に悪口言われてたの知ってたくせに何も反論して来なかったし… おじいちゃんはおじいちゃんで苦しんでたのに それに全く気づかないで最後までバカにしたりして 本当にゴメン… 今でもこれ思い出して鬱になって泣き叫んじゃう… あー…涙でキーボードが…w
263 :
大人になった名無しさん :2006/09/24(日) 23:06:53
今日掃除してて、さっき花札が出てきたんだ。最近は全然やってない。 そもそも普段住んでる家ではあんまりやらないんだけど、田舎に行く時とかよく持っていったりしてた。 自分はルールも未だによくわかんないし弱いんだけど、そういや父方のおばあちゃんは強かったなー と、そこまで考えて、そういや父方のおばあちゃんは数年前に亡くなっていたんだった。 何とも言えず切ない気持ちになっているのが今です……('Д`)
久しぶりにここへきました。スレ残っていてくれてすごく嬉しいです。安心しました。 読むと必ず泣いてしまうので今日は読まずに去ります。
一昨年亡くなった私のおじいちゃんの話なんですが、良ければ聞いて下さい。 小さい頃よく近くの喫茶店にケーキを食べに連れていって貰っていたのですが、 中高生になると徐々にそういうのが恥ずかしくなって、余り行かなくなってしまいました。 その後少しやんちゃな時期もあり、 ある日遊び疲れて昼間から爆睡してるとおじいちゃんが家に訪ねてきました。 いつもなら「コーヒー飲みにいこう!」と祖父が言う→私が断るパターンなのに、 爆睡してる私に掛ける言葉が無かったのか黙ったまま突っ立ってるので 「また今度久しぶりに一緒にコーヒー飲みにいこうな」と寝ぼけながらあしらうと、 凄く凄く嬉しそうな笑顔を残して帰っていきました。 それからすぐに癌になり入退院を繰り返していたのですが、 相変わらずの私は見舞いへは行くもののやっぱり遊び中心の生活で、その約束も気にとめていませんでした。 それから二年程経って、もう持って一ヶ月程度と言われ最後の入院 久しぶりに見舞いに行くと、いつもガハハと笑うおじいちゃんが涙を流していました。 ここでようやく約束をほったらかしだった自分の浅はかさに気付き、来る日も来る日も「退院したらコーヒー飲みに行こう」と約束し続けていました。 だけどとうとう呆気も出てしまい、飲食物もチューブや点滴で取る事しか出来なくて、退院は到底望めるものではありませんでした でもせめて、約束だけは叶えたいと思い売店で買った缶コーヒーを二本テーブルに置いて、 お互いフタも空けずにゆっくり話をしました。 申し訳無くて悔しくてただ泣くのを堪えながら他愛のない話をしました。
それから二年程経って、もう持って一ヶ月程度と言われ最後の入院。 久しぶりに見舞いに行くと、いつもガハハと笑うおじいちゃんが涙を流していました。 ここでようやく約束をほったらかしだった自分の浅はかさに気付き、来る日も来る日も「退院したらコーヒー飲みに行こう」と約束し続けていました。 だけどとうとう呆気も出てしまい、飲食物もチューブや点滴で取る事しか出来なくて、退院は到底望めるものではありませんでした でもせめて、約束だけは叶えたいと思い売店で買った缶コーヒーを二本テーブルに置いて、 お互いフタも空けずにゆっくりゆっくり話をしました。 申し訳無くて悔しくてただ泣くのを必死に堪えながら他愛のない話をしました。 翌日、病院に行くとおばあちゃんが会うなり 「おじいさんが『〇〇とコーヒー飲みに行った』って言うんやけど、ほんまやないよねえ??」と一言。 もうただ泣くしかなかったです。 約束覚えててくれてありがとう。 守れなくて本当ごめんなさい 長くてすみません。 思い出させてくれて有難うです 明日、コーヒー持ってお墓参りに行ってきます。
267 :
大人になった名無しさん :2006/09/28(木) 15:22:37
A級戦犯の孫と罵声を浴びせられ、ひどいイジメを受ける少年 死刑になった祖父を恨み、くやしいと思うが何もできない ある日、ひょんなことで手に入ったタイムマシンで祖父を助け出しに行く 牢獄から祖父を連れ出すことに成功するが、サングラスにコーンパイプの軍人に見つかってしまう ピストルを突きつけられ観念する少年とその祖父 ソーリダイジン ニ ナリナサーイと意味不明な語りかけをする軍人 何のことか分からず戸惑うが、話してみると助けてやる代わりにアメリカのために働けと言われる そんなアメリカのスパイになることなんか出来るか!と怒る少年 ニコニコしながら軍人と握手する祖父 ズッコケる少年 少年がタイムマシンで戻ってくると、周りから総理大臣の孫とちやほやされる世界になっていた 「安倍少年物語」
268 :
大人になった名無しさん :2006/10/15(日) 17:35:43
弟と二人、おじいちゃんに湘南の海に連れてってもらった。 食事の後 寝転がろうとすると、おじいちゃんは 「タクミ、いかんいかん!北枕だ。死人が海から出てきて足を引っ張られるぞ」と俺を叱り 周りの人とは反対を向いて寝てしまった。小坊の俺たちにはそれなりに説得力があったが、 さすがに頭を海、足を陸に向けるのは違和感があり、寝るのはやめて遊ぶことにした。 小一時間して戻ってみると、おじいちゃんが寝てたとこまで潮が満ち おじいちゃんのカツラが波にさらわれてた。
269 :
大人になった名無しさん :2006/10/15(日) 17:42:00
>268 はいはいワロスワロス
270 :
大人になった名無しさん :2006/10/15(日) 17:49:12
吹いたw
吹いたスレから誘導されてきますた こっちは泣けるスレだったんですね
272 :
大人になった名無しさん :2006/10/15(日) 18:04:46
おじいちゃーん!wwwwww ………うちのじいじもヅラリンなので笑えない
273 :
大人になった名無しさん :2006/10/15(日) 20:06:02
おれのじいちゃんはツルッてたが 鬘なんて被ってなかったぞ
275 :
大人になった名無しさん :2006/10/15(日) 20:29:26
クスッときた
276 :
大人になった名無しさん :2006/10/16(月) 09:23:56
じいちゃんカワイソスw
277 :
大人になった名無しさん :2006/10/18(水) 10:26:58
うちのじいちゃんも北枕気にしてたな。 仏教徒だからだろうか?
私の祖父母は、夫婦そろって長生き 祖父は98歳、祖母は95歳になりますよ 今だに畑仕事に精を出してるからビックリする もっともっと、長生きしてもらいたいな
小さい頃からじいちゃんっ子だった。 毎月デパートに連れて行ってくれて、好きなもの買ってくれた。 じいちゃんは大食いで、いつも決まってデパートの食堂で大きな丼に入ったカツ丼食ってた。 俺が泊まりに行くと刺身をたくさん用意してくれて、夜は一緒にTV見て じいちゃんの隣の布団で寝た。 俺が中学に入ると、部活やらで忙しくなり、じいちゃんと会う機会は徐々に減っていった。 でもじいちゃんは月に2回は週末に菓子や畑で取れた野菜を家に持って来てくれた。 俺は週末は塾で家を空けてたので、じいちゃんと顔を合わすことはなかった。 おふくろから「おじいちゃん『○○(俺)は留守なんだなあ』って寂しそうだった」 と聞いてもふーんとしか思わなかった。 それから俺は高校に入学すると同時に寮に入った。じいちゃんと全く会わない 生活が2年続いた。 ある連休の日、俺は実家に帰っていて、一人で家にいた。車が入ってくる音がし チャイムが鳴る。ドアを開けたらじいちゃんがいた。じいちゃんなんでこんなに 老けてるんだよwなんでこんなに小さくなってるんだよ。 じいちゃんは俺が長い間会わなかったので俺が自分と会いたくないと思っていたのか 野菜の箱とお菓子を置いてすぐ帰った。まだ帰るなよ、お茶飲んでいきなよ、と言おうと 思ったのに、何も言えなかった。 じいちゃんが帰った後、部屋に篭もって数年ぶりに大泣きした。
280 :
大人になった名無しさん :2006/10/26(木) 14:05:28
このスレ見てたら、じいちゃんとばあちゃんが、 すごく大事な存在ということに気づいた。 なんでキライになったんだろう・・・ 今は何もしてやれないけど あと二年したら好きなものいっぱい食わしてやれるから それまで、生きてくれと願ってます。
母方の祖母は近所に住んでるので、良く顔を合わせていた。 父方の祖母は行き返りだけで3日費やす所に住んでるので、 1年に1回会えるかどうかで、また自分は多数いる孫の中でも 最後の方に生まれたので、何となく素直に甘える事のできない遠い存在だった。 母方の祖母に比べると今までほとんど贈り物をした事が無かったけど、 今年は何だか気になって、誕生日プレゼントを贈ってみた。 すると到着して直ぐ、電話が掛かってきた。 耳が遠いので電話が苦手なのに。「ありがとう。ありがとう。」と何度も言ってくれた。 そして「せめてものお返しに」と、自分の畑から取れた野菜をたんまりと送ってくれた。 もう90歳なのに、体力も無いのに、畑で一生懸命いい野菜を見繕ってくれてる 祖母を想像して泣けた。嬉しかった。 遠い存在だからと勝手に垣根を作ってしまってごめんね。 これからはどちらのおばあちゃんも、平等に接していきたいと思います。
おじいちゃんが亡くなって今日で1週間です。 血縁者の中で多分、おじいちゃんが一番好きだったし 尊敬してた。私のおじいちゃん、人命救助で新聞にも載った ことがあるんだよー。ずっと仕事をしてたけど、 最後は病気で苦しんでたから、天国でまったり愛犬と過ごせていれば いいけど。本当に長い間ありがとう。楽しかったです。
283 :
大人になった名無しさん :2006/12/11(月) 23:43:09
このスレ、いいなぁ。 みんな、じいちゃんの思い出がいっぱいつまってるんだな。 俺も、大好きなじいちゃんがいた。 長くなるけれど、じいちゃんの事を書かせて欲しいと思う。 うちのじいちゃんは、頑固で短気で、けっこう近寄りがたかった人だった。 女遊びが激しくてばあちゃんを泣かせていた。うちには余りお金も入れず、遊び歩いていた時期もあったりした。 ばあちゃんはじいちゃんの愚痴をよくこぼしては涙ぐんでいた。 俺はあまり、じいちゃんを好きになれなかった。 でも、じいちゃんはずっと勤めてきた会社を定年退職して、ばあちゃんといつも2人でいるようになってから、 いろいろ出かけるようになってから、少しずつ笑顔も増えて、優しくなっていった。 山に山菜取りに行くのも一緒、映画を見るのも2人で、ファミレスに入って2人でクリームソーダも食べたらしい。 まるでばあちゃんとの欠けた時間を取り戻すかのような、どんどんまるくやさしくなるじいちゃんが、俺は好きになった。 毎週日曜日はお菓子を持って遊びにいく。犬の顔をごつごつした手で撫でながらじいちゃんはにこにこ笑う。 このころまでは、まだ元気だった、じいちゃん。 おかしいな、と気づいたのは、学校のバスが故障で送ることができなくなって、迎えを頼んだときだった。 軽トラで迎えに来たじいちゃん。 学校を出てすぐの信号が赤だ。赤なのに止まる気配が無い。そのまま、通過した。 「今、赤だったよ?」といっても「おっ、いけね、わからなかった」というじいちゃん。 そのときは、あまり気に留めていなかったけど、ここからじいちゃんはおかしくなっていった。 長くなりそうだから続く。すまない
284 :
大人になった名無しさん :2006/12/12(火) 00:00:58
>>283 です。続き。
夜中に電話がなった。おじさんからだった。
じいちゃんは、ばあちゃんとおじさん(じいちゃんの息子)の3人暮らしだ。
じいちゃんが夜中に暴れたという。叫んで、暴れて、おじさんが力ずくで止めたという。
次の日には、じいちゃんは腰が抜けたようになり、自力で立てなくなった。
トイレも、ばあちゃんに捕まえてもらってやっとの思いでいく。自分ではズボンも上げ下げできない、拭けない。
心配になり、じいちゃんのところへ行った。
「じいちゃん。」
じいちゃんは着物を着せられて座っていた。
俺が話しかけると、明らかに、俺がいないほうをみて「だ、だれだ」といった。
「じいちゃん、わかんないの?」俺がもう一度話しかけて、やっと「○○か?」といってくれた。
でも、じいちゃんは目なんて悪くない。耳も悪くない、はずだ。でも、
「誰が来たか、わからんかった」
じいちゃんはそうつぶやいた。
検査入院のためにじいちゃんは病院にいくことになった。そこでじいちゃんは悔しい思いをする。
うまく身体が動かなくなったじいちゃんはベッドの上で看護師さんの介助で、ごはんを食べることになった。
目もよく見えなくなっていたので、じいちゃんはおかずの魚をうまく取れず床に落っことした。
看護師さんは、落ちた魚を、そのまま皿に戻したらしい。
じいちゃんは、完全に目が見えていないと思われたのにカッとなって、看護師さんに腕を振り回してしまった。
「困ります、暴力を振るわれるのは」おじさんは看護師と医師からそう怒られたらしい。
でも、じいちゃんは悔しそうに俺らに話して聞かせた。このことを。
俺はじいちゃんのほうが正しいと思ったのだが、この日からじいちゃんは暴力的で危険な患者として扱われることとなった。
そして下った診断は、アルツハイマーだった。
病院にいてもよくならないから、と退院させられたじいちゃん。
日に日にじいちゃんはじいちゃんではなくなっていった。
目が見えなくなり、耳も聞こえなくなった。完全に昼夜逆転し、夜はおじさんとばあちゃんが寝ずにじいちゃんに付いた。
ごはんも食べられなくなり、言葉もしゃべらなくなり、ひたすら「こわいよーこわいよー」と何かに怯え、子供のように泣いた。
病院に連れて行くときも、暴れるのを大人四人で押さえつけて連れて行った。
再診断結果は、クロイツフェルト・ヤコブ病だった。
285 :
大人になった名無しさん :2006/12/12(火) 00:16:19
>>284 の続き。
即入院させられたじいちゃんは、ヤコブ病特有の退行していく意識のなかで、幼児から赤ちゃんまでさかのぼり、言葉は「あー」としかいえなくなった。
ごはんも、鼻から管を入れて無理やり流し込まれてた。やられるたびに、苦しげに冷や汗を流していた。
見舞いに行くたび、じいちゃんの病室は、なんだか異様な匂いがするようになった。
骨と皮だけになったじいちゃんの指は、いつにもまして黒く、ごつごつしている。
動かない手を、ずっと握ってあげた。その手はいつも暖かかった。
そして、、じいちゃんが危ないと連絡があった。
駆けつけると、ゆっくり、はー、はー、と浅く息をつくじいちゃんが、こっちをみつめていた。
あの異様な匂いが充満するなか、意識はもうとっくの昔に無いのに、はっきりとこっちを見ていた。
たまらなく悲しくなって、またいつものように手を握った。冷たかった…。
涙が抑えきれないほど溢れて止まらなかった。
苦しいよな、じいちゃん…楽になりたいんだよな…
じいちゃんは、次第にぼんやりと宙を見つめていった。
昼過ぎ、じいちゃんは逝った。まだ六十歳だった。
内臓はほとんど朽ちて、脳ももう息をしているのが不思議なくらい、やられていたらしい。
じいちゃんの血と骨髄は、ヤコブ病の研究のため、採取された。死んでからも、痛いことをされているようで、俺は嫌だった。
ヤコブ病は特異な病気なため遺体はすぐ荼毘にふされ、密葬という形でお骨になってから行った。
じいちゃんがおかしくなってから、死ぬまではわずか二ヶ月ほどだった。
怖かったじいちゃんがやさしくなって、嬉しかったのに、なんで、こんな病気にかかってしまったんだろう。
いまだにばあちゃんは出先で入ったファミレスの、メニューの隅に載ってるクリームソーダをみると、
2人で食べに行った思い出が忘れられずに、じいちゃんを思い出して涙ぐむ。
だから、俺もクリームソーダは、なんだか悲しい気持ちになるから、苦手になった。
・・・長くなってしまってほんとにごめん。
でも、俺のなかで駆け抜けていったじいちゃんという存在は、いつまでも忘れない。
286 :
大人になった名無しさん :2006/12/23(土) 14:29:20
良スレはホシュ
287 :
大人になった名無しさん :2006/12/23(土) 20:46:59
あれ?目から水が流れてくる(ToT)/~~~
おばあちゃん、去年の11月になくなった。 母親と仲悪くて、母親がおばあちゃんに意地悪していた。 力も弱い老人を虐めるなんて最悪な親だ、私は母親を恨んでいる。 今でも・・・自分がおばあちゃんになった今、孫に囲まれ楽しそうに している姿を見ると憎しみを感じる。私はおばあちゃんに可愛がられて 育った。きっと孫が可愛いのはどこのおばあちゃんもそうだろう。 それを10年以上前に母親が厄介者扱いして追い出した。母親に殺気を覚えた。 お前がお婆ちゃんになったら追い出してやる、とも思った。 結局おばあちゃんは親戚の家に引き渡され、最後は老人ホームで老衰のような 状態でなくなった、90歳だった。 半分信じられなかった。おばあちゃんが生きていたということも正直驚いていた。 なんで探して会いに行かなかったんだろう・・・ おばあちゃん、本当にごめんなさい。毎年お墓参りはいきます、おじいちゃんと 一緒にゆっくり休んでください。何も出来なくてごめんね・・ごめんね・・・ 母親の顔をみると、全身の毛穴がムズムズしてきてものすごい不快感を覚えている。 これは私が中一の時から変わらない。自分の事と体裁しか考えない自分勝手な女。 おばあちゃんを追い出した後、しきりに話しかけてくるようになった。上機嫌で・・ 私はアンタがいなくなって欲しいよ。世の中お婆ちゃん子とかオジイチャン子とか 色々いるんだよ。全てお前の言うとおりにならないんだよ。 自分になつかないから、おばあちゃんを追い出してうまくやろうと思ったのかもしれないけど 逆効果だよ。アンタが死んでも得体の知れない恐怖感が頭をよぎる程度で 悲しみはまずないだろう。残念だけど、弟に期待してくれ。 弟とは仲良しこよしでなつかれてるんだからいいだろ?これ以上の我侭は ゆるされないよ?おばあちゃんが亡くなっただけでこっちはお前に対する憎しみが また倍増したんだから・・ 長文スマソ
289 :
大人になった名無しさん :2006/12/31(日) 23:33:13
test
290 :
大人になった名無しさん :2007/01/15(月) 23:27:28
age
おじいちゃんは、ずっと入院してたから、先に逝くのはおじいちゃんだろうと思ってて まさかおばあちゃんが死ぬなんて、想像もしてなかった。 小学校の時に両親が離婚して、父親が再婚して新しい母親ができて おとなしかった私は、反抗期も甘えも全部、おばあちゃんにぶつけていた。 おばあちゃんは、私の事を怒ったりもしたけど、とても優しくて、いつもそばにいてくれた。 親とうまくいかなくて、大学に入ってからは、おばあちゃんちに住んでいた。 夜遊びして夜中1時すぎに帰っくると、おばあちゃんはウトウトしながら起きて待っていてくれた。 私は、後ろめたい気持ちもあって「先に寝ててって言ったじゃん」って怒った。 おばあちゃんは「せっかく待っててあげたのに」って怒ったけど、それから2人でケーキ食べて寝た。 おばあちゃんがいる毎日は幸せで、でも、バカな私はそんな事全然気づいてなかった。 お正月あけた時にふとした事で大ケンカになって「うるさい!どっか行って」って怒鳴った。 おばあちゃんは泣いてた。 その後、ちゃんと謝れないまま、おばあちゃんは叔母ちゃんちに泊まりに行った。
1週間くらいしておばあちゃんが帰ってくる日、 私はスポーツジムに行こうとしてて、玄関でちょうど帰ってくるおばあちゃんに会った。 私は急いでいて、あんまり話もできなかったから、帰る時にケーキでも買って帰って、こないだの事を謝ろうって思ってた。 でも「疲れたからお風呂はいる」って言ってたおばあちゃんは、そのままお風呂の中で死んでしまった。 (あとで聞いたら確か脳卒中だったと思う) スポーツジムから出た私のポケベルに、お父さんからの連絡があって、 公衆電話でおばあちゃんが死んだって聞いた。 私の成人式を楽しみにしてたおばあちゃんは、その姿を見ることもできなかった。 就職したら、一緒に旅行とか連れて行こうと思ってたのに、なにもしてあげれなかった。 なんで、あの時、一緒に家にいてあげなかったんだろう。 そしたらおばあちゃんは、死ななかったかもしれない。 あれから10年以上たつけど、いまだにおばあちゃんの事を思い出すと涙がでてくる。 おばあちゃんがいなくて、寂しい。寂しい。寂しい。 おばあちゃん。あの時はごめん。 ばかな孫でごめん。なにもしてあげれなくてごめん。 ずっと守ってくれていてありがとう。いつか私が、歳をとって死んだら、また一緒にいてください。 それまで頑張るから、天国から見ててください。
293 :
大人になった名無しさん :2007/02/07(水) 13:46:39
ハゲ始めて外にでるのも億劫になって半引きこもり状態 だったから気晴らしに久しぶりに実家に帰ってきた 相当実家に帰ってなかったからついでにじいちゃんにも会って来た もうほとんど歩けないくらいに体が弱っててちょっと寂しかった 「俺さぁ最近禿げちゃったんだ〜」ってじいちゃんに言ったら じいちゃんはこう言った「ハゲには偉い人が多いんだぞ」 って。俺のじいちゃんはハゲてはないけどな そのじいちゃんがこの前亡くなった 何かそこで吹っ切れた気がした 俺に最後のアドバイスをしてくれたんだと思う 少し前向きになれた
なんか書いてたら長くなったんでスルーしてくれ おれんちってじいちゃん、ばあちゃんも一緒に住んでたから 親姉弟合わせて7人家族だったんだよね 一緒って言っても渡り廊下で棟が並んだ家だったんだけど で俺と上の姉貴達とはちょっと年が離れたんで、 朝の活動時間がちょっとずれるわけよ そこで俺だけ隣の家に行ってジジババと一緒に朝ごはん 大体8:15から食べ始めてた 今のテレビでテレ東の再放送アニメ(タイムボカンシリーズ)とか フジのポンキッキー見てるんだけど いざ食事が並ぶとちょうど「おしん」 幼稚園児がおしんなんて面白いと思うわけないじゃん? しかもアニメとか途中だし でも否応なしにおしん見せられてたけどね 朝食は基本的にじいちゃんが作ってくれてた ばあちゃんは脳溢血で倒れたから右が不随だったんだけど ご飯炊くのは絶対ばあちゃんの役目だったみたい 今更思うとすげえ気丈な人だったなぁって思うな で、話戻ると じいちゃんがおかずやら味噌汁やら作ってくれたんだけど じいちゃんの卵焼きってしょっぱいかったのね お陰で未だに卵焼きはしょっぱくないと納得いかない お袋が作る卵焼きは甘いんだよ で甘くないので頼んでも、当たり前だけどじいちゃんの味じゃない 三つ子の魂・・・多分一生あの味には会えないんだろうなぁ もし最後の晩餐は何がいいって言われたら ばあちゃんの白米とじいちゃんの卵焼き ってお願いしたい
>>294 全米は泣かないかもしれないが、
少なくとも俺は泣けた。・゚・(ノД`)・゚・。
296 :
大人になった名無しさん :2007/02/08(木) 00:02:20
長いけどなんか書きたくなったんでごめん 大好きな おじちゃん 俺 もうすぐ結婚するよ 家事はあんまりできねーけど、かわいくてやさしい子だよ 俺が20歳のころ遊ぶのが楽しくて一緒に住んでいたのにあんまり話さなかったよな おじちゃん 海に連れて行けなくてごめんな 後から叔母さんに聞いたよ 一緒に海行きたかったんだよな 俺が親に買ってもらった車でスーパーに買い物行ったよな 糖尿病だったから健康食品買ったりしてね 俺が中学生の時に一回も腕相撲勝てなかったの覚えてる? 畳職人だったおじちゃんはめちゃくちゃ強かった 柔道も剣道も強かった 母ちゃんに内緒でいっぱいおもちゃ買ってくれたよね 聖闘士星矢買ってもらった 早くして息子を亡くしたおじちゃん 俺が生まれたとき俺のこと“宝”だって言ってくれたんだってね 葬式の時に母ちゃんから聞いたよ じいちゃんが倒れた時も遊びに行ってた俺 めちゃくちゃ馬鹿だ 脳梗塞で入院して御見舞に行った時 言葉は出ないのに俺が来たら顔をくしゃくしゃにして笑ってくれたよね 男らしくってやさしいおじちゃん 返ってこないとわかっていてもお金を貸すおじちゃん 孫に甘いおじちゃん 飲んじゃだめなのに酒飲んで怒られたおじちゃん 葬式のとき坊さんに言われた 人は人の命を喰らって生きてるんだって 俺はおじちゃんの命を家族の命を喰らって生きてんだよな だからこの命を子供に孫に喰らってもらえるように精一杯生きるわ あと 俺消防士になったんだぞ 少しでも人の役に立ちたくて まだまだおじちゃんの足元にも及ばないけどね 俺はおじちゃんのような男になりたい 俺の子供におじちゃんの名前を一文字もらいます おじちゃんのように真っ直ぐ やさしく育ってほしいから
297 :
大人になった名無しさん :2007/02/08(木) 00:03:19
大好きな おばちゃん 俺 もうすぐ結婚するよ 家事はあんまりできねーけど、かわいくてやさしい子だよ おじちゃんの看病ご苦労様 自分の体もボロボロだったのにね ごめんねおばちゃん 小さい時からずっと一緒だったよね 保育園に迎えに来てくれたり病院に連れてってくれたり 馬鹿でわがままな俺を大切に大切に育ててくれてほんとにありがとう おばちゃんの作ってくれたごはんあんまり食べなくてごめん 仕事帰ってきても肉がいいとか言ってほんとにごめん わがまま言って困らせてばかりだったよね おじちゃん死んでから自分なりに考えてなるべく一緒にいたかった 一緒に畑にいってジャガイモつくったり、ネギつくったり 余命半年の人があんなに一生懸命働いて つらい顔なんて見せなかったけどほんとはいたかったしこわかったろ 畑の帰りにパンクした自転車で二人乗りしたよね 畑の帰りに近所の人に俺のこと自慢したり 俺はそんなに立派じゃない ただおばちゃんが大好きだったんだよ 消防士合格しても心配してたよね 危険な仕事だからって 危険な仕事だけど毎日頑張ってるよ 亡くなる2日くらい前に痛くて辛くてうめき声だしてたのに 俺が病院から帰る時に「気をつけて帰れ」って 最後まで俺の心配して 今でも天国で心配してんでしょ? 最後の入院の時 おばちゃんが毎日来てもらって悪いって言ってさ 俺はおばちゃんに世話になったからいいんだよって それしか言えなかった ありがとうってずっと素直に言えなくて もう最後なのに言えなくて わがままで生意気で体が弱くって人一倍手のかかった孫だったよね こんな俺でも見捨てないで育ててくれてありがとう 大好きだよおばちゃん 言葉に出来ないほど感謝してます 精一杯生きるから 俺がそっちに行く時はまた甘えてもいいですか?
298 :
大人になった名無しさん :2007/02/08(木) 00:59:04
亡くなった婆ちゃんの遺品を整理してたら、 大事そうに、絹のハンカチに包まれた古い写真と手紙がでてきた。 戦時中の戦闘機パイロットらしき格好をした、笑顔の若い男性と、達筆な文字で几帳面に書かれた手紙。 その男性は、明らかに祖父とは違う人物。 伯母に聞いてみると、 戦争末期に学徒出陣で特攻隊となり、沖縄で戦死した祖母の初恋の人だったそうだ。
私が小学生の頃、 おばあちゃんがどこかの神社でもらったらしい大事にしてた5円玉が無くなった。 何故か私が盗んだのではと疑われ尋問された。 その日の夜、おばあちゃんが呼吸困難で近所の市立病院に運ばれた。 レントゲンをとったら喉にくっきり5円玉が写っていて、それが原因だったらしい。 昼間おばあちゃんが甘納豆と一緒に誤って飲み込んだのだそうだ。 あれから11年、おばあちゃんはいまだにあの時の事を謝ってくれない。
300 :
大人になった名無しさん :2007/02/08(木) 13:08:46
>>298 何十年経っても、亡くなった初恋の人の事が忘れられなかったんだろね
なんかセツナイ話だな…
携帯からの長文なので、読みにくかったらヌルーしてやって下さい。 おばあちゃん、私の成人式を見届けて、その夜に亡くなった。体は弱ってたけど元気だったのに。 私は末孫だったから、ばあちゃんは嬉しくて、私がいない間に色々な人に報告の電話かけてたらしい。お葬式でそのことを知った。 命日から一ヵ月、アルバム見てたら、まだ若いおばあちゃんに抱かれて写ってる私のお宮参りの写真があった。 それを見てたら堪えてた涙が止まらなくなった。 去年の敬老の日、バイトもしてなくてお金が無かったから、手作りで渡したお手伝い券、大事にじいちゃんの仏壇に飾ってくれてたね。半分はシャレのつもりで作ったから、ちょっと照れくさかったんだよ。 まだ恩返しも何もできなかったけど、お手伝い券の有効期限はずっとだから。 これから頑張るから、心配しないで見守っててね。
小さい頃、親に怒られるとよく物置小屋に閉じ込められたんだけど、いつも暫くするとばあちゃんが出してくれた。 泣きわめく俺をおんぶしてばあちゃんの部屋まで連れていってくれた。 その時のばあちゃんの背中大きくて温かかったな…。
他スレで叩かれたから避難…携帯からだから、読みにくかったらスルーして。 大好きだった爺ちゃんが3年前無くなった。今でも会いたいって思う。死因は急性白血病。厨房時代いじめられていたオレは泊まりがけで爺ちゃんの介護に言った。いじめに遭わなくて良いし、爺ちゃんとずっと一緒に居られるから楽しかった。
でもそんな中爺ちゃんの娘息子の中が険悪になり、病状は更に悪化。挙げ句オレは介護をしなくて良いと引き戻された。息子(伯父)は家に居着かず介護に協力はしないし、母は金銭的に苦しくあまり来れなかった。この時生まれて初めて、
母を憎んだ、母はオレ達の為に働いてくれてただけなのに…ごめん。でも伯父だけは許さない。病気前、爺ちゃんの年金で無駄吠えするバカ犬を飼いやがった。その世話までオレに押し付けた。帰って来たら来たで、文句ばかり。
まあ爺ちゃんの病気はタダでさえ悪かった家系をズタズタにしたよ。オレは全く気にしないけど。そうして数年後、爺ちゃんはオレの高校入試に受かったその日に静かに息を引き取った…。 数日後、葬式で遠くからはるばる爺ちゃんの兄弟達がやって来た。聞けば爺ちゃんは若い頃かなり荒れていたらしい。でもその後は真面目にやってたろうし、兄弟達がどんなに思って様とオレにはたった1人のかけがえのない爺ちゃんだ。
エピローグ 伯父は祖父が亡くなってからは、人が変わった様になった。お墓を探したり、授かった1人娘に爺ちゃんの名前の一部を付けたり…だけどそう思ってんなら生前に優しくしてやれよな… 以上
308 :
大人になった名無しさん :2007/03/23(金) 01:25:09
去年の12月いきなり亡くなったおばあちゃん。 その一ヶ月くらい前から体調悪いのは知ってたけど、みんなただの風邪やろうて思ってた。 もう結構歳いってたし、風邪が長引いてるやろうって。 でも本当にしんどかったんやってみんながわかったのは、おばあちゃんが亡くなってから。 80過ぎても元気で、車の運転もしてた。 夏休みにお父さんと二人で遊びに行ったら、駅まで車で迎えにきてくれて、すごい頼もしかった。 高校生になってからは1度も会ってない。部活で忙しいとか、家が遠いのとかを理由に 1度も遊びに行かなかった。 それでもおばあちゃんは毎年お正月にお年玉を送ってくれた。 わたしはそれを何も考えずに、自分のために使ってた。 おばあちゃんが亡くなってから、おばあちゃんの家には誰も住む人がいなくなるので 長男であるうちのお父さんがお仏壇を家に持ってきて、置いた。 毎日寝る前、お線香をあげていた。 ある日、お仏壇の前に葉書が何枚かあるのに気づいた。 見たら、おばあちゃんの年金の額が書いてあった。 びっくりした。 こんなんでどうやって生活してたんやろうってくらいの、少ない額。 お父さんが少しは援助してたって聞いたけど、それでも絶対生活に困る。 そやのにおばあちゃんは、毎年、ちゃんとお年玉をくれた。それだけじゃなくて、 たまにおこづかいも送ってくれた。 添えられてた手紙にはいつも「少なくてごめんね」って書いてあった。 おばあちゃんは必死に生活を切り詰めて、孫5人全員に、お年玉を送ってくれてた。 何で何も考えずに使ってたんやろう・・・。。 大事にとっとけばよかった。 離れて暮らしててもいつも気にかけてくれた。 もっと電話で話せばよかった。 もっと手紙書けばよかった。 高校の制服姿見てほしかった。 大学受かったことも、将来看護師になろうと思ってることも話せへんままやった。 今になってやっとおばあちゃんがいなくなったこと実感して、おばあちゃんが どれだけ自分たちを愛してくれたかわかった。 気が強すぎて、妹と仲良くできへん私を、おばあちゃんは心配してた。 「優しい人間になりなさい」って言った。 ごめんねおばあちゃん。 おばあちゃんに言われたとおりの人間になるには、まだまだ時間かかると思うけど 4月から大学生になって、がんばって看護学を勉強して、 たくさんのお年寄りに慕ってもらえる看護師になります。 ありがとうおばあちゃん。
309 :
大人になった名無しさん :2007/04/20(金) 00:03:23
304泣いた
310 :
大人になった名無しさん :2007/04/20(金) 17:03:55
みんなのおじいちゃんイイ人で裏山シス
311 :
渡辺 はま子 :2007/04/21(土) 21:45:20
見るからに80歳は超えている婆さんが尻をめくって立ったまま小便をしていた。 女性でも立ちションが出来るンですね! 我が家の花壇に肥料をあげてくれて有難う。
おとついの夜おじいちゃんが亡くなった 別々に暮らしていたし、高校生から8年ほど会っていなかったから 聞いたときに「そうなんだ」ぐらいにしか思えなかった。 でも、昨日の夜からずっと小学校のころに一緒に畑に行った思い出や ご飯残して怒られた思い出、いろんな思い出が涙と一緒にあふれてくる。 なんでかな、涙がとまんないや
313 :
大人になった名無しさん :2007/05/03(木) 00:02:27
うちのじいちゃんは透析してた。そのせいか、うちの親はじいちゃんが病原菌をいっぱい持ってるからじいちゃんが触ったモノは食わせないようにされてた。 そんなある日(俺の14歳の誕生日)、晩ご飯はステーキだった。俺の大好物だ。 じいちゃんは俺の隣りに座っていて、嬉しそうに俺の事見てた。 楽しく喋りながら食べてたら、じいちゃんが急に俺の皿に自分のステーキを2切れ置いてくれた。 俺は正直悩んだ。 食べて良いものか、病気は移らないか、等々。 ふと親を見ると微妙な顔で俺を見てた。 それに腹が立って、俺は食べた。飛び切りウマそうに。 じいちゃん嬉しそうだった。 じいちゃんは世間からは偏屈であまり好かれてなかったし、うちの家族の中でもちょっと浮いてた。 でも、俺が正月の朝に家族の誰よりも早く起きて、じいちゃんの耳元で大声で(じいちゃん耳遠かった) 「明けましておめでとう!!」 って言ったら、俺に 「お前が一番か。じゃあこれやろか」 といって、1000くれるようなじいちゃんだった。 そんなじいちゃんが死んだ。 俺が高校受験の時で、公立高校の合否待ちの時だった。 親は 「タイミング悪過ぎやわ。これから金かかるのに」 と不満そうだった。 葬式が終って、遺品整理してる時に写真があった。 それには風景がいっぱい撮ってあった。 その中に一つ、俺とじいちゃんの写真があった。それは俺がふざけて撮った写真で、じいちゃん、触りまくってたみたいで角は曲がってるし、手垢で裏面は茶色くなってた。 それを見つけた時初めて悲しくて泣いた。 駄文ですまん。 思い出した事を片っ端から書いてたらこうなってしまった。 これでも書き足りない。
うちの母はあまり色んな事を話してくれない性格。 だから昔の話とかは母の姉である叔母さんから聞くことが多い。 そして、耳にした事実。 おばあちゃんはおじいちゃんが亡くなった後も一人で住んでた。 通ってた高校の近くに家があったので、帰りに寄ってオヤツ食べたり。 (そんな頃はお小遣いもアテにしてたりしてw) とても元気でいつも優しい、大好きなおばあちゃん。 それを遠方に住む長男が引き取って暮らしてるうちにボケて施設にはいってた。 年も年だしボケたのもしかたないのかな・・・と思っていたらそうじゃなかったみたい。 知らない土地で狭い部屋に閉じ込められて・・・。 粗相してしまった時、冬の寒い時期に水のシャワーを浴びせられて・・・。 ↑ これはその長男の嫁がいかに介護が大変なのかを周囲に話してまわったらしい。 なんで、あんなに優しいおばあちゃんがそんな目にあいながら最期を迎えなきゃいけなかったのかと思うと、 ツライよ。涙が止まらない。 みんながここでほんわかとした思い出話しをしてる中、 こんな話しでごめんなさい。 でもおばあちゃんと過ごした楽しい時を私は絶対忘れない!! おばあちゃん、ありがとう。
先日、祖母が亡くなった。94歳だった。 大往生だと他人は言う、けど最後はそんな安らかなものじゃなかった。 あんなに人が苦しんでいる姿、見た事なかった。 息ができなくてどんなに苦しかっただろう辛かっただろう・・・ 主治医は不在、看護師さん達もみんな若く経験不足だったのか、 付き添っていた私に焦って『他の家族も呼んで』と言われたのは既に心停止した後だった。 一体何なの?! 危篤の症状見逃したの?! 今思えば、臨終間近のサインであるらしい下顎呼吸を始めて 意識もなくなったのに啖の吸引したりしてたし。 その後2〜3分で息が止まり死んじゃった・・・ 納得できないよ まだ大丈夫だって言われたから、交代して親を家に帰してしまった所だったのに。 ごめんね もっと私に知識があれば看護師さんに注意したり皆に見看られて逝けたのにね 結局死に目に立ち会えたのは私だけだった。 優しくていつも穏やかで微笑んでたおばあちゃんがこんな目に会うなんて。 いなくなったなんて、まだ信じられないよ。 おばあちゃん おばあちゃん おばあちゃん ごめんね 怖がりな私のために、昼間に逝ってくれたおばあちゃん 寝ぼすけの私が来るまで苦しいのに待っててくれたよね ごめんね 本当にありがとう おばあちゃんの孫に生まれてこれて幸せだった
316 :
大人になった名無しさん :2007/05/17(木) 10:50:08
大好きだった祖母が亡くなったのは二年前の時でした 祖母は喘息で入院をしていて二日後に退院する予定だった 家からの電話で祖母が危篤と聞かされたときはショックで頭が真っ白だった 私が病院に来た時には既に祖母は死んでいた その時の祖母の手が冷たかった事は今でも鮮明に覚えている 前の日はあんなに元気だったのに… 毎日お見舞いに行ったのにこの日に限って仕事が忙しくてお見舞い行けなかった とても悔しかった クリスマスや誕生日の時は私が頼んだ物をプレゼントしてくれた祖母 私の就職が決まった時に一番喜んで嬉し泣きまでした祖母 悩みを相談したら誰よりも真剣に聞いてくれた祖母 そこまでしてもらったのに私は祖母に何一つお礼も出来なかった 最期に一緒に居てあげる事すら出来なかった… 今でも思い出すと涙が出そうになるよ… ごめん…おばあちゃん…本当にごめんね…
317 :
大人になった名無しさん :2007/05/23(水) 18:21:19
何このスレ 泣ける話ばかりじゃねぇかよ…('A`)
うーんやっぱりおじいちゃんから貰った戦前の辞書は宝物だなぁ 古書価はあんま高くないようだけど 今読んでも十分使えるし 今年90だったかな 長生きして欲しいなぁ 足とか大変そうだけど
319 :
大人になった名無しさん :2007/05/27(日) 01:44:14
父の伯母が近所に住んでいて、おばあちゃんと読んでいた。 私や兄をとても可愛がってくれていて、母もおばあちゃんのことを悪く言うこともなかったし、慕っていた。 私が結婚・妊娠した頃、おばあちゃんの癌が見つかりベッドで過ごす日が続いた。 森山良子さんのファンで音楽を聴いていたので、そのつながりで森山直太朗のアルバムを貸したら 「夏の終わり」が気に入ったらしく、少しでも元気になればとシングルをプレゼントした。 おばあちゃんはすごく喜んで、毎日のように聴いていたらしい。 葬式の後、おばあちゃんの娘さんが遺品を整理するという名目で、母と私がお茶のみに誘われた。 そのときに娘さんから「これ、(私)ちゃんに。」と安産のお守りを頂いた。 他の遺品を見つつ母と娘さんが泣きながらおばあちゃんの思い出を始めた。 おばあちゃんの旦那さんは妊娠中に太平洋戦争で兵隊に取られ、一度沖縄から手紙が来たっきり行方不明。 今も遺骨が見つかっていない状態。 生活のため夫が戦争で亡くなったと届出を出したものの、旦那さんがいつ帰ってきてもいいように服や布団をきちんと用意して 駅や家の玄関には特に注意を払っていたとか。再婚話があっても断わっていたよう。 今年、たまたま森山直太朗のコンサートに行く機会があり 「夏の終わり」が戦争のことをテーマにしていると知って涙が止まらなくなった。 歌詞の内容がおばあちゃんと重なり、どんな気持ちで何十年と旦那さんを待っていたか と思うと切なくなった。 あの世でおばあちゃんが旦那さんと逢えていて欲しい。
320 :
大人になった名無しさん :2007/06/05(火) 12:37:30
321 :
大人になった名無しさん :2007/06/19(火) 14:52:14
がばいばあちゃん
>>314 年寄り大切にしない奴は本当にムカつくよな。
記憶にはないんだけど、 幼い頃は日中、母の実家に預けられていたらしい。(共働きだったので) 古い引き戸の戸を開けて 「おば〜ちゃ〜ん!ただいま〜!あのね〜おじいちゃんとね〜○○公園で鹿見てきたよ〜」と 玄関口でクツを脱ぐ間ももどかしく話し続けていると 家の奥から小走りに 「そ〜かい〜。よかったね〜」と出てくるおばあちゃんの姿。 なんでかいまだにそのシーンを鮮明に覚えてる。 もう数十年も昔の話。 大好きなおじいちゃん、おばあちゃん、今頃は向こうで仲良く暮らしているのかな?
七夕が近づいてきた。明治世代を筆頭とした三世代家族だったが 普段キツイお祖母ちゃんが七夕の短冊のためのコヨリを作るのが凄く綺麗で上手だった。 子供心に魔法のように見えた。三人いる孫のために目の前で大量に作ってくれた。 不器用な人だけど、孫の事(特に内孫)かわいく思ってくれていたんだなと思う。 もうそのお祖母ちゃんもお祖父ちゃんもこの世にいない。
325 :
大人になった名無しさん :2007/07/12(木) 17:11:01
大学に入る前、俺が高3の時に父方のじいさんがガンで死んだ ウチは共働きでひる両親がいないんで、父の実家から幼稚園・学校に通っていた。 幼稚園なんかは毎日、終わったら自転車で迎えに来てくれていた そんなわけで、じいさんばあさんと一緒にいる時間は長かった。 友達には怖いじいさんで有名だった。親父も見た目は怖かったが、じいさんは何度も怒鳴っているのを目撃されている。 もちろん怒らせなければ気のいい人だが、怒った印象はやはり強い。 そんなじいさんが、高2の時に肺炎になった。親父達も諦めていた中、じいさんは見事に復活した。 親族全員が驚きと喜びで油断していた、その次の年だった。 肺癌が見つかった時には、既に全身に転移していたようだ 大学病院に入り、抗癌剤治療を始めた。じいさんは口内炎だらけになり、やせ細っていった 薬のお陰で意識ももうろうとし、あんなに元気だったじいさんは遂に心まで壊した。 常に付き添っているばあさんに噛みつき、息子である親父を殴り、弟に「おまえや知らん」とつばを吐いた でも、俺だけは違った。 毎日、「S(俺の名前)を遊園地に連れてってやらな・・・温泉に連れてってやらな・・・」と言っていたらしい 実際、急にばあさんから電話がかかって「じいちゃんがSに会いたい、こづかいやるって」と言われることもあった まっとうな思考能力がなくなっても、俺にあげるためのこづかいを置いた場所は覚えていた じいさんは、大好きな阪神の優勝も、俺が地元の国立大学に受ることも知る前に逝った。 最後の言葉は聞いていない。学校で急に先生から「おじいさんが亡くなられたと電話があった」と言われた。 親戚はたくさん亡くなっている。が、これだけ近い人間が死ぬのはそう経験したことがなかった。 一週間後、夢にじいさんが出てきた。俺は遊園地で遊んでいた。じいさんは嬉しそうに笑っていた。
小5の冬休みに毎日かなり朝早くにおばあちゃん家に行ってたから、 おばあちゃんがすぐ起きてストーブつけてくれていたのが懐かしい 笑うせぇるすまんとかドラえもんをよく一緒に読んだけどそばに居るってだけで落ち着いたなぁ
327 :
大人になった名無しさん :2007/07/15(日) 20:37:39
昔からのじいちゃんの口癖。 「じいちゃんはお前達が小学校を卒業する頃には死んでるからなー。」 「じいちゃんはお前達が中学校(ry」 「じいちゃんはお前達が高校(ry」 「じいちゃんはお前達が大学(ry」 「じいちゃんはお前達が成人(ry」 「じいちゃんはお前達が結婚(ry」 ・・・じいちゃん、最後のパターンだけ本当ダターヨ。・゚・(ノД`)
328 :
大人になった名無しさん :2007/07/15(日) 21:54:43
うちのじーちゃん、ギターがめっちゃうまい。今度ライトハンドを教えてもらう予定。
うちのばあちゃん、畑でまむし(毒蛇)に噛まれて、救急車も呼ばずに自分で 車運転して病院(小さい町医者)行って、びびった医者に救急車を呼ばせた兵。 じいちゃんはまむしを生け捕りにし、その場で捌いて湧き水で洗って持ち帰り、 干して食ってた。そういえば生きたまむしを私に持たせたこともあったな。 まむし関連の思い出が強すぎて、どうにも他の事が思い出せない。つーかどんな 老夫婦だ。
330 :
大人になった名無しさん :2007/08/02(木) 00:27:12
母親が料理が出来なかったので朝食を作ってくれるのはいつもお婆ちゃん それがなぜかお粥と生ぶしの甘辛く煮たの、漬物、それだけw 何か変だったけど今となってはなつかしい。 目が悪いのに夜なべしてちゃんちゃんこを作ってくれた。 思い出すよ、お婆ちゃん。
331 :
大人になった名無しさん :2007/08/02(木) 00:35:15
そんで爺ちゃんは赤ん坊の頃から風呂に入れてくれて、自転車のかごにいれて どこまでも一緒についていった。夜寝るときはなぜか@水戸黄門の話(時代劇 ファンでもあったw) 夏休みや春休みは一緒に野球の練習したりナイターを見に行ったり。 それがある日突然歩けなくなって病院にに行ったら癌が骨に転移してた。 必死で徹夜で看病した。ダメだったけど病院でいつも看護士さんや周囲の人に 自慢の孫だと自慢してくれてたらしい。 爺ちゃんと暮らせて幸せだったよ。 両親がダメダメだったから、爺ちゃん婆ちゃんがいてくれなかったら どうなってただろうか、と思うと怖い。
332 :
大人になった名無しさん :2007/08/19(日) 02:03:22
俺のジイチャンとバアチャンはほんとに俺達家族を可愛がってくれた。 もぉ二人ともこの世にはいないけど、今までほんとにありがとう。 一生忘れないし、心の中では生き続けてる。 今までほんとにありがとう。これからは俺ももっと頑張るから二人で安心して見守ってね。
この間くも膜下出血で倒れたおばあちゃんは、木曜日、手術を受けた。 手術後に痙攣が起きたらしくて、そのまま話せない状態になっている。 医者の話だと、もって明日までだそうだ。 今週の日曜日、僕はおばあちゃんのお見舞いに行った。その時までは元気だったんだ なんで敬老の日、僕はお見舞いに行かなかったんだ。 おばあちゃんが亡くなってしまったら、僕はそのことを一生後悔するだろう。
334 :
大人になった名無しさん :2007/09/26(水) 00:21:41
今日おばあちゃんが亡くなりました。 私の母の話によると、朝ゴミを捨てに行った後、ベッドで眠るように逝ってしまったそうです。 知らせを受けて、嫁と子供2人を連れておばあちゃんの家に行きましたが、 本当に眠ってるみたいな安らかな死に顔でした。 私は共働きの父母に育てられた関係で、おばあちゃん子でした。 またおばあちゃんも私を非常に可愛がってくれ、 私の子供も可愛がってもらってました。 明日の通夜に向けて、親戚一同で遺品の整理をしていたのですが、 お茶を飲むためにコップに氷を入れようと冷凍庫を開けてみると、 そこにはカキ氷のカップが2個。 2〜3日前までここ(関西)はかなり暑かったため、私の子供に買ってくれてたんだと 母から聞きました。子供がケンカしないように同じ種類のを選んで。 それを聞いた瞬間に泣き崩れていました。 おばあちゃん 寂しいよ、帰ってきてよ。11月の誕生日にはデジタルフォトフレームに 曾孫たちの写真を入れて渡すって約束したのに。 すみません、自分でも何を書いているかわからなくなってきました。 明日は通夜・明後日が告別式。 お別れを言ってきます。
335 :
大人になった名無しさん :2007/09/27(木) 03:33:12
こんな夜遅くだけど、このスレ見て婆ちゃん、爺ちゃんのこと覚えました。 長文になったけど、すみません・・・・ 俺の母方の爺ちゃん90歳、婆ちゃんは85歳でまだまだ元気に生きてます。 爺ちゃんは昔、検事やってて結構出世したとか。 だから、結構大きい家に住んでいる。 俺んちはマンションで小さいけど・・・・ 俺は現在大学一回生、親と一緒に日本で住んでます。 小さいころ、親父の仕事の関係でアメリカに引っ越したりしてて そして、年に1回、1ヶ月ほど夏休みに日本に帰国してた。 俺は爺ちゃん、婆ちゃんが大好きで 毎年いつも楽しみにしてたけど・・・・ 母がめちゃ、親孝行者でさ・・・ 正直、「爺ちゃん、婆ちゃんを大切にしなさい」だの マジでウザかった。 だから、中学生で日本に引越しして以来、会わなくなった。 母は結構会いに行ってたけど・・・ 大学生になって友人の爺ちゃんや婆ちゃんが亡くなったり、 親戚が死んだって話を良く聞くようになった。 そして2ちゃんの孝行スレを見始めた。 めちゃ、感動した。 ほんと、爺ちゃんと婆ちゃんに会わなきゃいけないと思った。 だから、夏休みに爺ちゃんと婆ちゃんの元に行った。 少しだけど、夕食をおごった。 婆ちゃんはそのレストランで俺が小さいころの話をしてくれた。 スイカを食べるために学校からダッシュで走り、 汗だくになって帰ってきたことを。 話終えたら婆ちゃんは泣きはじめた。 しばらく見ない間、こんなに成長したんだなって・・・・ 母ももらい泣きしてた。 爺ちゃんはガンコだったから泣かなかったけど、 すっごい嬉しそうだった。 俺ももらい泣きしちゃったw でも、良かったと思う。 可愛がってくれてありがとうって言えたっぽいから。 爺ちゃん、婆ちゃん死なないで欲しいなぁ・・・
336 :
大人になった名無しさん :2007/09/27(木) 22:59:23
おばあちゃんは、家で介護していたけど、体が動けないからイライラして家族に八つ当たりして、 家の中がメチャクチャになっちゃって、同居をやめた。 辛かったな〜。おばあちゃん、大好きだったのにな・・・。
337 :
大人になった名無しさん :2007/09/29(土) 22:52:47
こんばんは。私のおばあちゃんも19日の朝、亡くなりました。 一年前に脳梗塞で倒れてしまい、一年間意識も戻らないまま、 ずっと入院してました。 私は東京、おばあちゃんは大阪で、なかなかお見舞いに行けませんでした。 私はおばあちゃんにとって初孫ということもあって、 本当に本当にいっぱいかわいがってもらって、 離れて暮らしてたまにしか会えなくても、 おばあちゃんはいつも私の心の支えでした。 おばあちゃんが倒れたときも、親戚の皆が話し合って、 私に事実を伝えたらショックでどうにかなっちゃうだろうから、 しばらく内緒にしておこうというくらい、 私にとっておばあちゃんの存在は大きなものでした。 なのに、いなくなっちゃったよ。
338 :
大人になった名無しさん :2007/09/29(土) 22:53:45
朝、母からおばあちゃんが亡くなったと連絡を受け、 三歳になる息子を抱えてすぐ大阪に行った。 お通夜の時は自分でもびっくりするくらい気丈でいられた。 でも、お葬式で、棺にお花とか遺品とか入れる時からは、 意識が飛んじゃうくらい、泣いた。 おばあちゃんの棺に、おばあちゃんがまだ元気なときに撮った、 おばあちゃんと私と私の息子の写真くらい入れてあげればよかった・・・ おばあちゃんにしてもらってばかりで、 私は何にもおばあちゃんにしてあげられなかった。 おばあちゃんのお誕生日に電話いっぽん、してあげた事なかった。 初任給で何かプレゼントすればよかった。 私の結婚式に、しんどいのに大阪から来てくれたおばあちゃんと もっと話せばよかった、友達とばかり話して、全然気に掛けられなかった。 もっともっと・・・ こんな後悔ばかり。 私がこんなにメソメソしてる事、一番おばあちゃんが望んでないと わかっているけど、どうしてこんなに涙が毎日止まらないの。 もう一度だけ、会いたいよ。 今は、おばあちゃんがとってもかわいがってくれた、 おばあちゃんのひ孫が、いっつもおばあちゃんの写真見て、 「ひいおばあちゃん、おはよ」 と毎朝言うんだよ。 こないだなんか、自転車乗ってる時、お空見上げて、 「ひいおばあちゃんが笑ってるよ」 なんて言うからびっくりしちゃったよ。 おばあちゃん、いつも見守ってくれてるんだね。 ネンネの時は、「千の風になって」を、 「ひいおばあちゃんのお歌歌って」と言うんだよ。 だから、私も泣いてばかりいないで頑張るね。 おばあちゃんの分まで、ひとりになっちゃったおじいちゃん大事にするね。 おばあちゃん、28年間たくさんの愛をありがとう。 何も出来ない孫だったけど、きっとおばあちゃんを想う気持ちは 世界一だよ! おばあちゃんを想う気持ちは誰にも負けないよ。 いつか五月山から二人で見た夕日、きれいだったね。 いつか私がおばあちゃんのトコロに行く日が来たら、迎えに来てね。 きっとその時はわたしもシワシワおばあちゃんになってるかもだけど、 また二人で夕日みようね。 またいつか生まれ変わる日が来ても、 私のおばあちゃんになってね。 長々とすみませんでした。 皆さんも、おじいさん・おばあさんご健在でしたら 私のように後悔しないように、大事になさってくださいね。 なんか、自分の気持ちを文字にしたら、すっきりしました。 読んでくださってありがとうございました。
339 :
大人になった名無しさん :2007/10/06(土) 21:41:44
大好きなおばあちゃんが亡くなった。すごくおばあちゃん子だった私はおばあちゃんの 名前の一部(漢字)を未来の子供の名前に入れたいと考えた。 でも昔の名前だから今の時代にマッチせず、あまり可愛くない名前になりそうだったので、 何となく自分の名前の一部の漢字の意味を調べようと思って、見ると、 同義語に、なんとおばあちゃんの名前の漢字が。 とてもびっくりしたし、私の名前はお父さんからとったもので(お父さんは婿なので他人) すごい縁だなあと思った。 おばあちゃんと私は四柱推命も、星座も、細木数子の占いでも同じですごく運命を感じて いたけど嬉しい。
340 :
大人になった名無しさん :2007/10/09(火) 01:44:51
おばあちゃん、今、入院してます。 まだまだ元気だけど、病院は辛いみたいで、お見舞いに行くと泣きながら帰りたいと言います。 家に帰してあげたいよ、、、。 また泊まりに行くからね、ばあちゃん。 一緒に遊ぼうね。
341 :
大人になった名無しさん :2007/10/09(火) 01:52:18
↑思い出がなかった; 小さいころ、よくダイヤモンドっていうボードゲームしたな。 あと、俺が風呂で裸踊りしたのに凄く笑ってくれて、 小5くらいまで毎回してた。 寝る前は昔話聞かせてくれたし。 毎年、年越しはばあちゃん家で迎えてたなぁ。 紅白見てさ。 行かなくなったのいつからだろ、、、。 ばあちゃん菊育てるのが好きだったな。 ほかにもいろんな花育てて、綺麗な庭だった。 遊びに行くと必ずおこづかいくれたし、、、。 手作りの服も作ってもらった。
342 :
大人になった名無しさん :2007/10/09(火) 08:09:49
うまれて初めて食べたハンバーガーは 母がお盆に帰省したときに ばあちゃんに近鉄八木駅前で買ってもらったドムドムのハンバーガーでした (今はもうない) ほっぺたが落っこちるくらいうまかったよ! ばあちゃんありがとう (昭和53年ぐらいだと思います)
343 :
大人になった名無しさん :2007/10/12(金) 18:45:13
ばあちゃん、元気ですか!!? 入院生活頑張ってください。 一番のおもいではなんだろう。 お人形にお化粧したり、日記つけたり、机買ってくれたり、 オサダに行ったり、遊園地行きかけてやめたり、お墓参りいったり、 もちつきしたり、いとこたちと遊んだり、 近所の女の子とアイス食べたり、 いっぱいいっぱいあります!!!! これからどんどん孝行するからね・・・。
344 :
大人になった名無しさん :2007/10/18(木) 01:14:22
スレチごめん 明日おばあちゃんと遊ぶ。 町田にいこうと思うんだけど おばあちゃんもたのしめるスポットある? いい思い出つくりたいんだ スレ誘導していただけるとありがたいです
345 :
大人になった名無しさん :2007/10/20(土) 06:51:53
>>344 そら〜おばけマンションじゃねえの?やっぱ
>>340 死んじゃうかもね
あはは
ごめんごめん 長生きするといいのにね あはは
349 :
大人になった名無しさん :2007/10/26(金) 02:37:00
じいちゃんもばあちゃんも今入院してる。 さっきなんとなく二人の部屋入ったらなんでかわからんが 涙が止まらん。 共働きの親の代わりに私と弟を一生懸命育ててくれたじいちゃんとばあちゃん。 ばあちゃんのカレーは世界で一番美味しいんだよ。 じいちゃんは誰よりも物知りで優しいんだよ。 どうしてもっと早く気づかなかったかったんだろう。 二人ともずっと元気だと思ってたのに 早く退院してよ、元気な顔見せてよ、二人とも大好きだよ
350 :
大人になった名無しさん :2007/10/29(月) 09:12:35
このスレ見てるとたまにはばあちゃんのところに遊びにいかないと…と思う。 手も足も悪いが、「あんたが嫁貰ってウチに来るまでボケてもいられん」と、冗談を飛ばすばあちゃん。 ごめんよばあちゃん。 童貞どころか来年から無職確定なんだ…。
351 :
大人になった名無しさん :2007/11/01(木) 01:51:29
この間じいちゃんが亡くなった。 病状が悪くてずっと入院してて、しんどいはずだったんだけど 一度も弱音は吐かなかったそんなじいちゃんだった。 7人家族で俺だけ実家離れて一人暮らししてるんだが、じいちゃんは 自分の体より俺の小遣いのことばっか心配してたそうな。 じいちゃんがなくなる1週間前に実家帰ってじいちゃんに会ったんだが、 じいちゃんはベッドの上で酸素吸入器つけてしんどそうな表情してた。 「ほんならじいちゃん、俺帰るけーなー」って言ったら、じいちゃんは 小さくうなずいてた。今思えばあれが最後の会話だったな。 それから1週間してじいちゃんは亡くなった。 あれだけ大きいお腹してたじいちゃんは、めちゃくちゃ痩せてた。 冷たくなったじいちゃんの前で、俺は涙をこらえきれずに声をあげて泣きまくった。 夏休みにもっと会いにいけばよかった。もっと話すればよかった。後悔しても仕方がなかった。 小さい頃じいちゃんにもらった50円玉握りしめて近所の駄菓子屋に走っていた頃が懐かしいなぁ。
352 :
大人になった名無しさん :2007/11/01(木) 02:16:19
おじいちゃんの思い出か・・・ 俺も語ってもいいかな?
353 :
大人になった名無しさん :2007/11/01(木) 02:28:18
先月の27日におじーちゃんの13回忌があったんだ。 ちなみに命日は30日。 俺のおばーちゃんは嫁に来たわけだけど、 嫁に来た人が13回忌までやるのは珍しいらしい。 正直言って久しぶりにおじーちゃんに手を合わせたよ 言い訳じゃないけど、正月の墓参りとかもバイト入ってたし行けなかったんだ。
354 :
sage :2007/11/01(木) 02:35:04
俺のおじーちゃんはさ、すごい手先が器用で何でも作ってくれたよ 割り箸と輪ゴム使ってゴム鉄砲つくってくれたり、 俺が「卓球したい」って言ったら、学校から帰ってくると手作りの卓球台があったりもした。 そんとき流行ってたミニ四駆なんか、小さい俺には作れなくて一緒に作ってくれた。 とにかく俺はおじーちゃんが好きだったし、おじーちゃんも好きでいてくれたと思う。 思い出いっぱいありすぎて困るぐらいなんだけど、さすがに13年も立つと 声とか忘れちゃう訳よ。それに顔だって思い出せなくなる。おれそれがすごい悔しくてさ・・・ んでこの前かーちゃんがカセットテープもってきてさ、それにおじーちゃんの声入っての おれすげー嬉しくて親の前だったけど泣きそうになった。
sage間違えた笑。ごめん おじーちゃんが病気で倒れて、ある日俺が見舞いにいったんだ。 そしたら、もうすでに意識とかない状態で寝てる感じだった。 でも俺が来たらパッツて目を覚ましてくれて、 俺も答えようと「おじーちゃん!おじーちゃん」って言って手繋いでた。 普段ならお見舞い終わったらすぐ帰るんだけど、その日は帰りたくなくて ダダこねまくって、親に引きずられながら渋々帰った。 んでその夜におじーちゃん行き引き取った。
葬式とか俺の人生の初めてで、おじーちゃんがいなくなったとか 深く考えて無かったから、まったく泣かなかった。 けど何日かして夜寝るときとかに思い出すんだよな・・・ んで気づくんだ「もう会えない」って すげー悲しくて毎晩おいおい泣いてたよ。 てな感じの事を法事の時にずーっと考えてた。 13回忌で終わりだから、もうこーやってちゃんとすることないからさ。 焼香の時に手を合わせたときに「いままで全然墓参りいかなかった」こと謝って 「おじーちゃん。いろいろありがとう」てお礼を言った。 以上で終わり。 ありがとう。
357 :
大人になった名無しさん :2007/11/03(土) 23:14:12
携帯からスマン中学の時の話 理科の授業でカエルを使って実験をするから、斑でジャンケンして負けた奴が 次の日生きたカエルを持って行かなきゃならなくて、見事ジャンケンに負けた。 いつもなら自販機にへばりついてるのにその日に限っていない。どこにも じいちゃんに山に連れて行ってもらい何とかカエルを二匹ゲット。 じいちゃんが、ビニール袋に入れてくれて、穴あけないと死んじゃうからって気を利かせて少し 穴をあけて、一晩放置。次の日、カエルを持って行こうとしたら脱走していなくなっていた。 何で穴あけたの!!カエルどうすんの!ってじいちゃんにぶち切れた。 じいちゃんは今から取りに行くと行ってくれたけどもう学校行かなきゃだから いいよ!!って行って学校に行った。カエル一匹くらい他の班から譲って もらえるだろうと思って班のみんなには謝った。理科の授業の前の休み時間 何やら廊下が騒がしい。廊下に出てみると、そこにはカエルを持ったうちの じいちゃんの姿が…。あたしが怒られたらまずいと思って取ってきてくれた。 そのカエルはオーソドックスなタイプのやつじゃなくてデカいやつだったし… でかいわりにクロロホルムかがせたらすぐに息絶えて結局実験には使えませんでしたorz でもじいちゃんありがと。
携帯からスマソ 兄貴の嫁さんのばぁさまが今日亡くなった。 まぁ、血の繋がりもなにもない人だ。 今までに5回も会っちゃいない。 兄貴と姉様は見合い結婚だ。 姉様の家はクリスチャンだった。 で、見合いの時言ったらしい。 自分の弟もクリスチャンですって。 (我が家はひいばあちゃんがクリスチャンで、亡くなってからは俺だけ教会に行くようになってた。) その話しを聞いたからなのか、ばぁちゃまは俺に優しかった。 兄貴が家に行ったのに、 「今日はお兄さんは?」 とか勘違いしてたらしい。 まぁ多少ボケてたんだろう。 家に遊びに行った時も、俺だけ刺身だの酒だの沢山食わしてくれた。 俺だけにお土産持たせてくれた。 行けなかった時も兄貴に俺のお土産持っていってくれって言ってたらしい。 今日、仕事の帰りにたまたまペンダントトップの十字架買った。 3種類買った。 家に着いたらおかんに言われた。 姉様のトコのばぁちゃま、亡くなったよって。 なんなんだよ、ちくしょう。 また来るからねって言ってたのに。 今度来たら兄貴の家まで俺が連れてったげるって言ったじゃん。 ばぁちゃま、2年前に亡くなったじぃちゃまが迎えに来ちゃったのか? そんなことを部屋でぼ〜っと考えてたら、 パッと頭にさっき買った十字架の意味?が解った気がした。 一つは俺の。 後の二つは二人の姪っ子、ばぁちゃまの曾孫の。 きっとばぁちゃまがそーしてほしいと思ったような気がする。 ヤツラが成長したら、この十字架をやろう。 お前達のひいばぁさんからだって。 ばぁちゃま、俺、またおばあちゃんが自分にできて嬉しかったよ。 ゆっくり休んでね。 読みにくい文、チラシの裏スマソ。
359 :
大人になった名無しさん :2007/11/07(水) 01:32:19
携帯からごめん。 昨日の朝おじいちゃんが亡くなった。 一昨日誕生日で68歳になったばっかだったのに。 癌が全身に転移して歩けなくなってて、余命1ヶ月って言われてからまだ1週間。 こんなに早く逝くって思ってなかったよ。 昨日の夜中は苦しくて、枕もとにずっと私が「誕生日おめでとう」って書いた手紙握りしめてたらしい。 おじいちゃん、母さんに「孫の成長が見たかった。それだけが心残りや」って言ってたみたい。ずっと「大学資金は俺が出す。年金貯めとかなな」って言ってくれてたもんなぁ。 誰も最後の言葉聞けてなくて、誰もみとれてやれなかった。ごめんね。でも、おじいちゃん私の声に反応してくれたね。 おじいちゃんは働いている両親と、病気で思うように動けない祖母の代わりに、全部の家事をやってくれたなぁ。 何もしてあげれなくてごめんなさい。 私おじいちゃんが自慢できるような孫になるから。おじいちゃん、今まで本当にありがとう。 長文で見にくい文でごめんなさい。
361 :
大人になった名無しさん :2007/11/10(土) 22:12:52
母方のおじいちゃん。 孫の中で私を一番かわいがってくれた。 大学で東京に上京した私が里帰りをした時、10時には必ず就寝する祖父が 9時過ぎの駅の改札で私を待っていてくれたことがあった。 時刻表を見れば列車の到着時間はわかるのに、一時間も駅の改札で待っていてくてれた。 そして、おじいちゃんは微笑みながら「ひいちゃん、ようこそいらっしゃい」と言って、 重たい私の荷物を持ってくれた。 帰郷する度、今もチェック柄の帽子を目深にかぶったおじいちゃんが 改札の前で待っていてくれているのではないかと探してしまう。
同居してたおじいちゃん ある晩御飯の時に大きなスズメバチが入ってきて 蛍光灯付近をぐるぐる回り出したので 「怖い!」と言ったところ、タイミングを見計らって まるで武蔵(だったけ?)のように、箸でパっと捕まえて すぐに台所の洗い桶に沈めて窒息死させたのをおぼえている。 まぁ逃がしてやっても、裏庭に巣を作られたら困るしね。
ちょっとガチで泣ける
昨日祖母が他界して、今通夜に来てる。 仕事がいつも夜勤なもんで休みが取れるかどうか微妙だったけど、半ば強引に休ませて貰った。 何だかちゃんと見送ってやらないと、恐らく一生後悔しそうな気がしたから… 取り敢えず誰かに聴いて欲しかった。 長文・駄文スマソ
今日は祖父の命日。 2年前の今日、離れて暮らしている父から夜中電話があって亡くなった事を知らされた。 頑固で人の意見を聞かず、上手くいかなくなってきてた商売をどうにかしようと画策。 余計にひどい事になって借金いっぱい作ってしまったおじいちゃん。 そのせいで両親は別居状態になり私も大好きな父と離れて何年も暮らしてた。 お通夜・お葬式の日は、不謹慎な言い方かもしれないけどとても楽しかったよ。 家族が揃ったのは4年ぶりだったし、お父さんも嬉しそうだったさ。 遺影の写真、なかなかいい写りだね、ってみんな褒めてたよ。 棚を整理してたら昔の100円札が出てきて、誰のだろう?きっとおじいちゃんのだってなったから 棺おけにいれておいたけど、もう使っちゃったかなぁ。 おじいちゃんいっつもぜんこがねぇぜんこがねぇってお金の心配ばっかしてたから 入れてやったら喜ぶべ、っておばあちゃんが言ってちょっと悪ふざけかもしれないけど入れといた。 あとイトコが、偏食なおじいちゃんがこればっかり食べてたから持ってきた、って言ってた豆パンは食べた? 外出する時いつもかぶっていたかっこいい中折れ帽子。 あれは絶対入れないとね。 あれを見た時、それまで泣かなかった私は一気に涙が出たよ。 あの帽子は、私にとっておじいちゃんの象徴だったのかもしれない。 悲しい席なはずなのに、思い出すのは楽しいことばかりです。 家族全員揃った最後の思い出。 あの後お父さんとお母さんは離婚したから、もう全員揃う事はこの先ないと思う。 それを思うとさみしいけど、でもあの2日間は本当に楽しかった。 私はこの家族が大好きだ、この家族に育てられて良かったな、って思った。 最後の思い出が楽しいもので、良かった。 ありがとうおじいちゃん。 借金のこと、今は誰も恨んでいません。 弁護士の先生が良いようにしてくれたから、家族バラバラだけど、それぞれの地で頑張ってるよ。 またお墓参り行くからね。
>>356 自分も園児の時おじいちゃんが亡くなって、でも葬式の時は訳が分からなかったなあ…
後からもう会えないんだって気づいて泣いた。
本当によくわかるよ。
先日母方のおばあちゃんが亡くなった。末期の胃がんだった 入院する直前までデイサービスに通ったり、 私の家にも泊まりにきてくれたりした 歌が大好きで私の家族みんなでカラオケに行ったときすごく楽しそうだった おばあちゃんはボケててすぐ忘れちゃうけど私の家の電話番号だけは忘れなかった 今年の6月くらいから入院しててずっと点滴で何も食べられない状態で 私が病院に行くととても喜んでくれた。 入院してて足もふらついてるのに「カラオケにいきたい」って言ってたから 一回だけカラオケにいった。 そのカラオケはシダ○クスみたいな個室じゃなくて大広間でやる感じの カラオケだった 入院してるときのおばあちゃんは声もあんまりでなかったのにカラオケで歌うときは ものすごくしっかりとして一曲歌いきったらしい その話を同行した母から聞いて泣いた 最後は誰も間に合わなかったらしい。 今思うともっと病院に行って上げればよかったと思った。 昨日の昼。そのとき家には家族はいなくて私一人 インターフォンが鳴って出てみても誰もいなかった。 いつもは誰か人が来ると犬が吠えるんだけどそのときは静かだった それを家族に言うと「きっとおばあちゃんが来たんだね。」って言ってた 私の姉も焚いてもいないのに線香の匂いがしたらしい 通夜は明日。斎場でおばあちゃんの歌が録音されたテープを流すらしい 元気だった頃のおばあちゃんの声が録音された歌なんて流されたら余計に 涙が出てくる
368 :
大人になった名無しさん :2007/12/13(木) 20:14:18
>>365 金は稼いだら入ってきますが、家族の懐かしい思い出はどんな大金を
出しても買うことはできない。
世界一の金持ちにも買えません。
懐かしい家族の思いではこれから生きていく人生のこやしになるよ
ガンバレ!
369 :
大人になった名無しさん :2007/12/14(金) 21:18:24
おじいちゃんから昔貰った壷出来心で売っちゃったよ・・・ ごめんね
正直、祖母には長生き云々ではなくさっさと死んでほしい。 ぼけて長生きなんてやめろ!
371 :
大人になった名無しさん :2007/12/21(金) 09:21:21
今朝父方のじいちゃんが亡くなった。 俺が小さい頃両親は共働きだったからどこ行くにもじいちゃんと一緒だった。 夏の暑い日に駄々こねてスーパーで買ってもらったメロンシャーベットのアイス。 いまだに忘れてないよ。 じいちゃんが今朝方夢に出てきたんだよ。 元気にしてるか?仕事がんばってるか?って。 俺は「うん。元気だよ。忙しいけどなんとかやってるよ」って答えたら電話が鳴ってるのに気がついて出たら病院からだった。 最期を看取れなかった。 一人で寂しく逝っちゃった。 「おまえの子供の顔見るまで死ねん」って言ってたのにね。 ごめんなさい。生きてる間に見せられなくて。 ばあちゃんより先に涙流してちゃダメだよな。 でも我慢できないんだよ。
372 :
大人になった名無しさん :2007/12/22(土) 20:10:51
今朝、大好きな大好きなおばあちゃんが、 静かにあの世へ旅立ちました。 重い心臓病をかかえていたのに、 最期まで立派でした。 わたしの手を握ったまま息を引き取って・・。 まだ暖かいのに、眠っている続きみたいな顔をしているのに、 生きていないおばあちゃんを見ると悲しくて涙が止まりませんでした。 だけど、 やっと楽になれたんだ、って思って、 もう苦しくないねよく頑張ったねおばあちゃん、って。 何度も自分に言い聞かせてます。 おばあちゃんたくさんの愛情をありがとう。
373 :
大人になった名無しさん :2007/12/27(木) 02:14:42
近所のおじいちゃん、口やかましくて行儀に細かい人で他人の私でも杖で叩かれたり、 叱られてたりすることは一杯ありました。でもちょっと私が元気のない時 誰よりも先に声をかけてくれる、温かい面もありました。厳しくしながらも息子と 孫のことをいつも心配している人だったそうで、周りの子供もよく話を聞きに遊びに 行っていました。 怖いところと優しいところ、面白いところ全てを備えていたおじいちゃん。 酒が大好きで飲むと酔っ払って、孫の自慢と息子の嫁さんの悪口を 声高らかに歌い上げる楽しい人でした。 そして踊りながら挙句には・・・ 台所に立っている嫁さんのお尻に顔をくっつけてちょいと一眠り(笑) 「おじいちゃん、やるねぇ」と私達がからかうと むきになって「大人をからかうな」と言ってる側から、懲りずにお尻にタッチ(爆) スケベも一人前、最後まで元気な方でした。 そんなおじいちゃんが大好きです。
374 :
大人になった名無しさん :2008/01/07(月) 01:07:50
淳ちゃんのおばあちゃんが安らかに眠れますように
今さっきおばあちゃんが亡くなった。 くもまっかしゅっけつで6日前に急に倒れた。 結局意識が戻らないまま今さっきというか2時間前に亡くなったよ。 毎日お見舞い行ったよ。でも辛いからあまり手を握ってあげられなかった… もう脳死状態だったからみんな覚悟はしてた 病院から呼び出され急いでついてみんなでがんばれ!って言ったら心電図が戻ったり乱れながらがんばってた でももう楽にしてあげようってなって、みんなが「がんばったね」って言うと静かに心電図が消えていった なんか人間あっけないなあ 死んでるなんて未だにピンとこない おばあちゃん、お正月遊び行かなくて本当にごめんね 「来て」って電話までしてくれたのに行けなくてごめんね…後悔してる お年玉準備して冷蔵庫に貼ってたんだってね?ちゃんと受け取ったよ、ありがとうおばあちゃん…大好きだよ 打ってて涙が止まらないよ
376 :
大人になった名無しさん :2008/02/02(土) 02:13:05
うちのじいちゃんは、私が中学校1年のときに肝臓癌で死んだ。肝炎だったから、自分でも長く生きられないのを知っていたらしい。 孫、特に内孫の私たちをすごく可愛がってくれて、週末にばあちゃんと、弟と4人で健康センターによく遊びに行った。 お父さんはじいちゃんは厳しい人だと言っていたけど、私はそうは思わなかった。 お父さんに怒られてご飯が食べられなかったとき、夜中にラーメンを作って持ってきてくれたり、 朝寝坊して朝ごはん抜きで学校にいったときは学校までパンを買って持ってきてくれたり。 優しいじいちゃんしか思いつきません。 ビデオを撮るのが好きだったじいちゃん。 うちには、私たち兄弟をとったビデオテープがいっぱいあります。運動会、学校祭。あんまり一生懸命なもんだから、PTAの役員の人に間違えられて、すごくいい席で撮ってくれたよね。 この間、久しぶりにビデオをみたらじいちゃんの声がいっぱい入っていて、涙が止まりませんでした。 お父さんとお母さんが共働きだったから、いっつもじいちゃんとばあちゃんといっしょだった。じいちゃんとばあちゃんは、私たちにとって第二の両親だと思っています。 私も、今年から社会人。ごめんね。じいちゃんは間に合わなかったけど、そのぶんばあちゃん孝行をたくさんするから。だから、さみしいかもしれないけどまだまだばあちゃんを連れて行かないでね。
377 :
大人になった名無しさん :2008/02/07(木) 21:22:00
今さっき父から危篤の連絡。 急いで会社から帰ってるけど電車はマイペース。 2、3日前にもらったじいちゃんから言葉は忘れません。 健康には気をつけろ。 お前に敵う親類はいないと思ってる。 お前はすごいやつだ。 初めて人から本音で誉められた気がしました。 じいちゃんオレ頑張るよ。
血繋がってるワケじゃないけど、、、 地元の祭りの婦人部を牛耳るババァが祭り終了後に亡くなった。 当時婦人部を束ねてたオレは山車の陰で説教されまくりだった。 ババァへ 「100%じゃねぇだろうが、今年も精一杯やるから上から見ててね」
379 :
大人になった名無しさん :2008/02/10(日) 19:38:47
ありがとう、おじいちゃん。
380 :
大人になった名無しさん :2008/02/12(火) 00:56:21
去年の夏にお婆ちゃんが亡くなった。96歳。大往生。 私が高1の時に骨折して以来、6年くらい入退院を繰り返してた。 寝たきりだったから、ボケも進行してた。 たぶん私が孫の誰かとかは分かってなかったと思うけど お見舞いに行くと嘘のように食欲が湧いて、ごはん食べてたらしい。 お婆ちゃんが亡くなったって仕事中に親からのメールで知った。 仕事を早退させてもらって、途中の駅で1人暮らししてる姉と待ち合わせた。 電車を待ってる間「いつ通夜とお葬式だろう〜。今週、旅行なのに!」って 姉がブツクサ言ってた。ムカついた。 まるで、「なんで、こんな時に死ぬんだよ!」って言ってるみたいで。 2日後、お通夜とお葬式。 お婆ちゃんの家で親族だけでやった。坊さん呼んで。 私は父親の横に座ってた。 優しくて綺麗だったお婆ちゃんを思い出して泣いた。 父親は泣いてなかったけど数珠を持つ手が震えてた。 だから堪らず父親の手を握ったら泣き出した。 それにつられて私も余計に泣いたし母親も泣いてた。 そんな中やっぱり姉は知らん顔してた。 隣りに座ってる兄とボソボソと会話して時間を潰してた。 兄弟でこんなにも感じ方が違うんだということにショックを受けたし悲しかった。 「なんでお見舞い行かなかったのか!!!」とも思った。 だけど私だって数回お見舞い行っただけで偉そうにしてた。 姉も兄もお見舞い行かないのに私だけはちゃんと行ってるって。 だけど休みの日の多くはゴロゴロしてたしお見舞いなんてたまにしか行ってない。 姉たちと何にも変わんない。 なんでもっと会いに行かなかったんだろう。 なんでもっと話をしなかったんだろう。 ずっとそんな事ばっか考えてお婆ちゃんに申し訳なくて、涙が溢れた。 最後の方はガリガリに痩せ細って元気もなかったのにお婆ちゃんの手を握ったら ビックリする位に強く握り返してくれた、あの感覚を今でも忘れられない。
おばあちゃんが居なくなって2ヶ月経ちました。 亡くなったばかりの頃はあまり寂しいという実感がなくて、 わたしってなんて薄情なんだろう・・って思ったけど、 最近とても寂しいです。 実感を伴って不在を感じるのはこのくらいの時期なんでしょうか。 ほんとうに、もう二度と会えないのだと思うと、 苦しいです。 おばあちゃんまたいつか会おうね。きっとね。
ちょいスレチかもしれんが書かせてくれ。すまん。 おばあちゃん。 今日息を引き取りました。 まだ「ました」って書くと本当になってしまいそうで書きたくないくらい信じられない。 長い間、1年に1度会うか会わないかだったけど、今年からおばあちゃんと一緒に住む予定だった。 まだおばあちゃん10年は生きるって皆思ってた。 だからおばあちゃんちも風呂綺麗にしたり、今週末には電動ベッドも届く予定だった(足腰ピンピンしてたけどw) ついこないだ一緒に京都まで行った。「行き方覚えたから、今度はもっとスムーズに安く行けるよ!」ってゆったら「ほんまぁ」って言ってくれた。 3日くらい泊まって私が帰ろうとしたら「もうちょっと居り」って何度も言ってくれた。1人暮らし、寂しかったよね。 もう直ぐ一緒に住むから。また来るから。そうやっておばあちゃんち出た。 おばあちゃん。おばあちゃん。 おばあちゃんちにいくと「いらっしゃい」だったのが「おかえり」になってた。嬉しかった。私もまだ住んでないのに「ただいまー!」 綺麗になったお風呂。おばあちゃん結局一回しか入らなかったみたい。しかも私が温度調節良く判らなくってぬる〜いお風呂。今度来た時はぬっくいお風呂にいれてあげようって思ってた。 大好きだよおばあちゃん。 旅行にいったお土産もってったら「愛想良くなって」って。今まで何もしてあげられてなかったなぁって思って、これからたくさんおばあちゃんと一緒にいて、一緒に楽しいことたくさんするつもりだった。 おばあちゃん。 まだ何もしてないよ。 大好きって言葉も伝えられてないよ。 おばあちゃん。 うそだよね。
383 :
大人になった名無しさん :2008/03/13(木) 02:39:30
おばあちゃん いつも可愛がってくれたよね ごめんね 私おばあちゃんが思うほど いい子じゃない 従姉の子供、おばあちゃんのひ孫 その子たちを大事にしてやって 私みたいな出来損ないは忘れて ごめんね、おばあちゃん
384 :
大人になった名無しさん :2008/03/13(木) 23:17:03
じいちゃん貴方は俺の誇りです。
じいちゃんの最初の孫が俺。 感謝しきれないくらい可愛がってくれた。 恩返せないまま数年前に逝っちゃった。 嫁さんの顔くらいみせたかったけど叶わず。 ばあちゃんには必ず見せるからねって墓前に誓ったよ。
ばあさんが死んだとき、ちょうどうちの父親も入院中で最期を看取ってやることができなかった。父の見舞いに行った帰りに知らせを受けた。 私達も残念だったけど、母が「一番可哀想なのは父だ」と言ってたのが忘れられない。父は電話口で泣いてたらしかった。 その年は年明けすぐばあさんが風邪をひいて入院→気管切開して喋れなくなるわ、父はガンで入院→手術になるわ、地震はくるわ…大騒ぎの年だった。 おしゃべりなばあさんだったから、気管切開して喋れなくなったのは本当に辛そうだった。言いたいことが伝わらず顔をしかめるばあさんの顔をはっきり覚えてる。 唯一自分に分かったのは猫の名前くらいなもんだった。入院して1年くらいでばあさんは死んだ。 最期の一年は毎日欠かさずじいさんが見舞いに行ってたのがせめてもの救いだろうか。 しょうもないじいさんだけどさすがに通夜では泣いてた。もともと同級生だから付き合いは相当長かったようだし(家も近所) 3年経ったけど今でもお菓子を作ると仏壇にばあさんの分をあげにいく。たまに忘れてごめんよ、ばあさん。
去年8月から東京で一人暮らしのおばあちゃんをいい歳だし何かあったら困るからということで、 こっちに呼んで一緒に住むようになった。 93歳で、物忘れがひどい。ちょうど俺の隣の部屋が空いていてそこがおばあちゃんの部屋。 夜中2時くらいにいつもトイレにいってタンスを開けたり閉めたり大きな音を出していた。 その度にいつも起こされる。多くて1週間に3〜4回。正直、いい加減にしてほしいとも、ふざけんなとも思った。 一昨日、おばあちゃんが脳梗塞で倒れた。今日ようやくお見舞いに行くことができた。 そこに寝ていたのは、まったくの別人のように思えた。ついこの前まで、出された食事は残さず食べ、毎朝新聞を 隅々まで読んで散歩に行ってた人物のようには思えなかった。多少麻痺しているみたいで、こちらの呼びかけには反応 するがしゃべっても何を言っているのかわからない。本当に別人だ。医者には一応覚悟をしといてねと言われた。 俺は泣きそうなのをこらえて、「おばあちゃんわかる?早く元気になるようにがんばって!」本当にこれしか言えなかった。 おばあちゃんにムカついてた気持ちを本当に本当に後悔した。おばあちゃん本当にごめんね。まだまだ話たいことあるからさ 早く元気になろうよおばあちゃん。
388 :
大人になった名無しさん :2008/04/04(金) 17:31:44
俺は祖母に恵まれなかったから、 良い思い出があるお前らが羨ましい。
389 :
大人になった名無しさん :2008/04/05(土) 00:19:36
まだ実感が湧かない。というか、ずっと入院中だったからな。 まだ入院してる気がするんだよ。 ついぞ嫁さん見せられなくて、ごめんね。 人生で一番、大好きな人で決して失くしたくない人でした そして、これからもずっと大好きです。元気なうちに、 どっかへ旅行へ行きたかったねぇ・・・・。
390 :
大人になった名無しさん :2008/04/07(月) 19:25:34
両親が共働きだったので遊び相手はいつもおばあちゃん 夜食もいつもおばあちゃんとだった でも小学生だったあのときはどうしてもおばあちゃんの味付けが苦手だった 中学生1年になったある日母親の仕事の時間が減り夜食は母親が作ってくれるようになりおばあちゃんとは食べなくなった それでもあの時は母親と食べれるのがうれしくてそんなことはどうでもよかった けれどおばあちゃんとの仲はよかった でも中学生2年生になってしきりに勉強のことを言われるようになった そしてそれがうざくておばあちゃんと話すことも減った そんな関係が続いたまま僕の誕生日の2日前、学校に行くとき 「今年の誕生日は何にしようかねぇ」といつものように玄関に出てきて言うおばあちゃん 「・・・別になんでもいい」って言って出ていった そしてその日の夜だった 下からやけに『ドンドン』という音が聞こえてくる 最初は気づかなかったけど5分くらいしてやっと異変に気づき下にいくとおばあちゃんが苦しんでいた 元々心臓が悪かったおばあちゃん この時は心配で急いで救急車を呼び救急車を誘導するため家を出て行った 病院に後から家族といくとおばあちゃんが横たわっていた もう苦しんでもいなかった 看護婦さんが 「大きな声でおばあちゃん!と呼んであげてください!!」と家族に言いみんな必死に 「おばあちゃん!戻ってきて!!」と言ってる中、僕は恥ずかしくて何も言えなかった そしておばあちゃんはそのままいなくなってしまった誕生日の前日だった テストが重なっていたり葬儀が忙しいこともあり泣く暇もほとんどなかった 葬儀も一通り終わり少し落ち着きはじめたときおばあちゃんの部屋を掃除していた そうしたらなにやら大切にしまわれているものを見つけた ネックレスだった 仲が悪くなっていたとしても誕生日だからと少ないお小遣いから必死に選んで買ったネックレス 「何こんな安いのにこんなに大事にしまってるんだよ・・」 でもなぜか涙が止まらなかった 僕はいい孫だったでしょうか? 心臓が悪いのは知っていたから中学生なりにできる限り負担はかけさせないようにした いくらお金がなくても誕生日にはプレゼントを買った でもそんなことじゃないよね もっと会話、したかったよね 本当にごめん、何もできなくてごめん、あんな態度とってしまってごめん ありがとうって素直に言えなくてごめん ごめんなさい。 高校はおばあちゃんと 「ここいいね」と話していた高校に合格したよ? もう今年で卒業だけどちゃんといい大学入れるようにがんばるから だからどうか見守っていてください 大好きだよ。
おばあちゃん、火葬されて雨雲に乗っかって自然に帰って いってしまった・・・・・。 何でいっつもニコニコしてて、あんなに怒らないでいられる のかねぇ。すごく尊敬するよ。 俺は、ばあちゃんの血をいくらかでも受け継ぎたいね。 うちの親戚は本当、まともなのがいないから。 一緒に入れた手紙、読んでくれたよね?
おばあちゃん、あいたいよ。 もっともっと長生きして欲しかった。 87歳で十分長生きなんだろうけど、もっと生きて欲しかった。 12日に亡くなったおばあちゃん。 12日は次男の誕生日だよ。 忘れないでね、って12日を選んだの? 忘れるわけないじゃん。大好きだったんだから。 いつも私の味方をしてくれて、遊びに行くたびに お小遣いをくれたおばあちゃん。 社会人になって初めてお年玉を渡したときすっごい喜んでくれた。 肩や手をマッサージすると 「お前がつかれちゃうだろう?ばあちゃんが揉んでやる」って 逆にマッサージをしようとしたり。 私はおばあちゃんの喜ぶ顔が見たかったんだよ。 もっともっと見たかったよ。 おばあちゃんに会いたいよ。 涙が止まらないよ。 今までありがとうございました。 おばあちゃん、大好き。 私はおばあちゃんの孫で幸せでした。
ついさっき、母から祖父が亡くなっていたことを聞いた。4日に本当に安らかに亡くなったそうです。 母も入院中の出来事で、退院後に父に聞かされたそうで、 私が県外にいてつわりが酷くてつらいと言っていたため、父は私にも言えなかったようです。 小さい頃一緒にいったお散歩、連れていってくれた海釣り、教えてくれた山菜の取り方。背中の銃弾の破片。 具合が悪いときに結婚式に来てくれたこと、私がはじめて産んだ子が早産児で 中々あわせてあげられなくて、始めて子供に合わせられた時の顔。ずっと忘れないからね。 最後に合ったとき、またねって言ったのにもう会えないなんて嫌だよ。 上の子の成長も見てほしかった。お腹の子にも会ってほしかった。 でも、色んな事から解放されて、会いたがっていた戦友さんとも会えたよね。 長い間ご苦労様でした。ずっとずっと大好きだよ。
394 :
大人になった名無しさん :2008/04/19(土) 12:05:13
なんでじいちゃん死んじゃったの? 91までいったんだからついでに100まで生きたらよかったじゃん。ばかばか。 まだまだ死ねんていいよったたい。ひ孫7号まで女の子だったから、お前が男の子産むまで死ねんていったたい。 嘘つき。なんでよ。私妊娠したよ。12月にうまれるよ。 まだなんにもしてあげとらんたい。 勝手に死んでからなんしよると。 誰が庭の面倒見るの?変な果物の木まであるのに。 びわ食べれなくなったらどうすると。じいちゃんのばかー会いたいよー
まだ元気だけど、いつかは居なくなってしまうんだと思うと物凄く辛い 進学で田舎から出てきて数年。卒業後一度離職して、数ヶ月前に再就職。 すごくいい会社で、自分の描いてきた夢にも近い会社。 でも最近田舎のばあちゃんとじいちゃんの傍で生活したくて仕方が無い。 このままずっと、年十数回会うだけでいつか亡くなってしまうのかと、考えるだけで泣きそうになる。 共働きの両親に変わって面倒を見てくれたじいちゃんばあちゃん。 特にばあちゃんは殆ど母親代わりだった。 小さい時は体が弱くて、しょっちゅう具合が悪くなってたけど、 小学校から連絡が行くたび、ばあちゃんとは思えない速さで自転車飛ばして迎えに来てくれた。 寝る部屋も一緒で、いつも色んな話をしたり一緒の布団で寝たりもした。 そんな自分も社会人になったけど、初任給で食器を買ってあげたぐらいで、殆ど恩返しも何も出来て無い。 結婚も恋人もまだなので、連休の度に寂しくて田舎に帰ってはいるけど、 元気にやってるか?ちゃんと食事してるか?なんて言いながら昼食作ってくれたり、 アパートに持って行く食料くれたり、果てにはお小遣いまでくれたり。 肩でも叩こうって言ったら、うっかり最近肩がこってると自分が言ったのを思い出したのか、 何故かこっちがばあちゃんに肩たたきしてもらう羽目になったり。 昼食後の片付けとかも、いいからゆっくり休みと言われて、いわゆる至れり尽くせり状態。 返す恩が増えるばかりで、ちっとも与えられた分を返せない。 家族全員好きだけど、特にじいちゃんばあちゃんが大好き過ぎて仕方が無い。 もし介護が必要になったら、喜んで介護する。 というか、多分離れて暮らしては居られないと思う。 だから今のうちに帰った方がいいのかとか、もっと恩を返したいって思うのに、 今の仕事が理想どおりの仕事過ぎて離れられない。 じいちゃん、ばあちゃん。私どうしたらいいかな。考えれば考えるほどどうしようもなくて泣きそうになる。 思い出と言うよりはどちらかというと現状ですみません
396 :
大人になった名無しさん :2008/04/20(日) 12:59:13
ここを見て、じいちゃん、ばあちゃんが大好きなのが自分だけじゃないって、嬉しくなりました。親族争いが起き、8年前から会えなくなり、昨年死去。もう1度会いたい。今年、恐山に行こうと思ってます。
おばあちゃん、会いたいよ お見舞いに行ってあげられなくてごめん こんなに大好きなのに、おばあちゃんのことおざなりにしちゃって本当に後悔してる 涙が止まらないよ おばあちゃんいつまでも大好きだよ
398 :
大人になった名無しさん :2008/04/21(月) 22:09:27
じいちゃん、ばあちゃんと、また話したい。恐山について、詳しい方いたら情報お願いします。スレ違いm(__)m。
>>398 恐山は2度行く山だよ。
一度行って霊が憑いて、二度目で霊を祓う山だ。
ネタで、イタコにジミヘンの霊を降ろさせたら津軽弁だったと、、、、(笑)
400 :
大人になった名無しさん :2008/04/22(火) 13:41:21
情報サンクスです。確かに疑問はありますが…、話すには他に手段がないし、行ってみようと思います。引き続き情報ありましたら よろしくお願いします。
401 :
大人になった名無しさん :2008/04/22(火) 21:45:35
俺の祖母は生前スーパーマリオが好きだった。操作してる時マリオの動きと供に腕もおもいっきりつられて動いてるのを見て俺は爆笑してた。毎回1面でやられエンドレスで1面ばかりやってたが本人は楽しんでいる様だった。たまたま二面の地下まで進んだことがありビビった
402 :
大人になった名無しさん :2008/04/24(木) 01:56:44
17年前天国に行ったお爺ちゃん 口数は少なかったけど、いつも穏やかで優しくて私と遊んでくれましたね。 親に怒られてもかばってくれて、漫画でも本でも何でも買ってきてくれた。 大きなごつごつとした暖かい手で抱き上げて撫でてくれたよね。 ドリフやクイズ番組見て一緒に笑ったよね おじいちゃんの優しい声と匂い、笑顔、今でも覚えてるよ。 家族の中で一番大好きで、今もそれは変わってないんだから。 ずっと一緒に暮らしていけると思ったのに その日は突然やってきた。 いつもどおり学校から帰るといつもと様子が違った。 家の中があわただしくて母の様子がおかしい。 入るなり「お爺ちゃんが倒れたんだよ!」と父と母は病院へ行く支度をしていた。 私は留守番を頼まれたけど、風邪をこじらしただけで、すぐに戻ってくるだろう と思っていた。だけど、病名は脳内出血。 当時はその病名すらピンと来なかったけど、周りの様子で事態は深刻なんだなと察した。 病室に入ると全身管につながれて青ざめたお爺ちゃんが横たわっていた。 呼んでも目を開いてるのに返事がない。いつものように笑ってくれない。 私は涙をこらえた。 お爺ちゃんが長い足でスタスタ歩く事も、 喋る事も出来なくなるなんて幼い私には想像付かなかった。 親からも事情を聞かされてなるべくお見舞いに連れて行ってもらうことにした お爺ちゃんがいない家は火が消えたように寂しかった。 「お爺ちゃん、もうそんなに長くないの。だから、これからはしっかりするんだよ」 母は帰りの車で言った涙声を聞いても 私は「誰がそんなの信じるもんか」と思っていた。 それから2ヶ月が過ぎた冬の初め、眠るように息を引き取った。 葬式の時は絶対に泣かないようにしたけど、お爺ちゃんと私が寝てた布団 に蹲って声を押し殺して泣いた。 あれからずっと時はたつけど、お爺ちゃんの喜ぶ事は何一つしてない。 一番かわいがってくれたのに一番馬鹿な孫でごめん。 実家に帰ったらお墓参りに行くからね。 私がいつかそっちにいったら、酒でも飲みながら 会えなかった間の事、思い出話、 沢山話したい、小さい時は分からなかった昔話も聞きたい。 その時まで待っててね。いつまでも、いつまでも大好きだよ。
403 :
大人になった名無しさん :2008/04/24(木) 06:05:55
バーチャン('A`)
今朝、亡くなってから初めておばあちゃんの夢見た。ちょうど亡くなったのが金曜日。
夢見たのも、金曜日(!)会いに来てくれたんだよね?夢の中で最後、泣いてたのが
ちょっと心配だけど・・・・・。
>>398 恐山に行きたい気持ちはわかるが、元々あの土地には盲目の人が
生まれることが多くてね。そういう、目が不自由な人が生活していく上で、イタコ
っていう口寄せする課業が出来たのだ・・・。
会いたい気持ちに水差すようだが、あまり信じないほうがいいぜ。もちろん、お布施
を払うのはあんただから、口寄せしてもらって納得できるだけの金額ならいいん
だが、どれだけ要求されるか、わかんないだろう?
>>395 ごめん。 きついこと、言わせてもらうけど、何で一緒に片付けないんだっつーのw
>昼食後の片付けとかも、いいからゆっくり休みと言われて、いわゆる至れり尽くせり状態。
洗った食器をふきんで拭う、作ってもらった料理を配膳するなんて出来ると思うがなぁ・・・どうよ?
おじいちゃん、おばあちゃんは孫の顔見れただけで幸せで、あんたも優しい人みたいだけど
たまには昼御飯でも作ってあげるとか、それとなく食べ物の好みを聞いておいて
リサーチして美味しい店へ食事に連れ出してあげるとかいろいろできるでしょ?
まだ、お体丈夫なんでしょう?<おじいちゃん、おばあちゃん。
俺なんかなぁ、いろんな場所へ連れ出してあげようかと思ったら、寝たきりになっちまって
おまけにボケてしまったのだよ。後悔、先にたたず。孝行をしたいときには祖母、祖父はなし、
ってね・・・・(涙)
拝啓お爺ちゃん 私の事を末は大臣か大女優かと言って成長を楽しみにしていたそうですね。 ごめんなさい。とんでもないドブスでうつけものになってしまいました。 生きてるうちに何か恩がえしをしたかった・・・。
407 :
大人になった名無しさん :2008/05/04(日) 10:49:33
この間、先日亡くなったおばあちゃんの夢を見た。 おばあちゃんは本当に優しくて元気で明るいおばあちゃんだった。 悪いことしたら叱ってくれたし、お金とか物とかお菓子とか、そういうのを孫たちにあげるのが大好きだった。 5月のこどもの日とかでも、孫に一人5000円ずつくれたりして 母さんや姉ちゃんは「こんなにもらって悪い・・・」って言ってたけど 私はやっぱお金もらって嬉しかった。 もちろん思い出すのはお金くれて嬉しかったってことじゃなくって 可愛いねぇって可愛がってくれて、おばあちゃんもおじいちゃんもパチンコ好きなんだけど パチンコで買ったときはいつもお菓子に変えてもらってそれをくれたりして。 そういうのが凄い嬉しかった。 私がある一生治らない病気になったときも 母さんや父さんや色んな人がいっぱい心配してくれたけど おばあちゃんとおじいちゃんは色んなお寺?とか行って病気の治るお札なんかを買ってきてくれたりして。 (ばあちゃんじいちゃんは結構熱心な仏教徒さんで) いっつも心配してくれてた。心配ばっかかけてた。 妹や従妹とおばあちゃんちの掃除手伝いに行ったときなんかも500円くれたりして なんていうか、私たちの喜ぶ顔が見たくて喜ぶことがしたいおばあちゃんだった。 高校入学したときもすっごい喜んでくれてスクールバックを買ってくれた。 なんかもう買ってもらったとかそういう思い出ばっか出てくる。 してもらったことばっかりで自分は何もしないでいつもいつも心配かけてばっかで。 私が8月に入院したとき、あとで聞いた話しではそのときもうばあちゃんは癌が分かってたらしいけど (ばあちゃんは知らされてなかったんだけど) 凄いしんどい体で、それでもお見舞いに来てくれた。 「もう立つんもしんどくてなぁ」って言いながらも、お土産に「暇するやろ」って言って がばいばあちゃんって本を2冊くらい買って来てくれた。 「2冊読み終わったら次の買ってやるからなぁ」って言ってくれて。 そのあと私は退院したけどばあちゃんは入退院の繰り返し。 これもあとで聞いた話だけど、もう生きていれる時間はほとんどなくて じいちゃんやみんながちょっとでも家に帰らせて…と頼んで退院してたんだって。 私や姉ちゃんや妹や従妹らへんの子供にはそういうこと言わないようにしてたらしくて 私も何となく気づいてるはずなのに、ばあちゃんが入院したときだって 「また帰って来たらいつでも会えるし」って思ったりしてて。 それでももう家に帰るのはとてもじゃないけど無理な状態になって このまま病院で過ごすか、たった5分のために死ぬかもしれないけど家に帰るかってことで おばあちゃんは帰るって言ったの。 親戚のヘルパーやってる人が二人いてその人たちに色々手配とかしてもらって おばあちゃん、自分の家に5分だけ帰ってきた。 寝たきりのまま玄関から入って一番近くの部屋へ。 寝てるのもしんどくて起きてるのもしんどくて畳の部屋に布団で5分、たったそれだけが本当に辛い状態で。 姉ちゃんとかみんな泣いてて、私もわけわかんないけど泣いてて妹も他のみんなも泣いてて それでも私にはまだばあちゃんが死にそうなんて分かってるはずなのに分かんなくて でもおばあちゃんに言いたいこと言わなきゃって
408 :
大人になった名無しさん :2008/05/04(日) 10:53:16
おばあちゃんありがとう、私が病気で甘いものあんまり食べられないからって パチンコで買ったお菓子もあげていいのかなぁ、でもあげたいなぁって思ってくれたり コーラだって毎日毎日カロリーゼロのやつを買ってきてくれて いつ行ってもカロリーゼロのコーラが冷蔵庫に入ってて コーラありがとうって言った。他に色々言いたいことあるはずなんだけど とにかくコーラありがとうって。毎日ありがとうって。 そんで入院してるときにくれた本ありがとうって。 2冊とも読んだから早く次の買ってよって、早く読みたいよって そしたら笑うのもしんどいのに笑ってくれるんだよねばあちゃん。 本面白かったよ、コーラありがとうって、やっぱしてもらったことしかないなぁって思った。 本当は5分、それよりかもうちょっといるはずだったんだけど おばあちゃんあんなに強いおばあちゃんが「もう辛い、帰る」って病院に帰るって言うの。 私たちはもっともっといてほしいんだけど辛いおばあちゃんも見てられない。 飼ってた犬もコタツから出てきて右往左往してて。 最後におばあちゃんが「悪いことされても、悪いことはしたアカン」って言うの。 そんで去年の11月の夜なんだけど、 ばあちゃんが必死で家に帰ってきた日から4日くらい経ったときだったかな 病院にいるお母さんから電話があって 急いで来なさい、でも車に気をつけてって。 こりゃもうダメだってことでもう何が何だかで姉妹で自転車乗って病院行って。 おばあちゃん、私らがつく前に一度「もうだめだ」の状態になったんだって。 でも私らと従妹がついたときにまた意識が吹き返して 目があいてるの。最近ずっと、こっちから喋りかけても聴こえてるんだろうけど おばあちゃんは話せなかったんだけど 目があいてて泣いてるの。おばあちゃん泣いてて。 孫らでおばあちゃん、おばあちゃん来たよーって言って ありがとうとか色々言うんだけど、おばあちゃん、おばあちゃん。 それで死んじゃった。 夢見てもう会えないんだなぁってぼんやり思った。 なんか、ぼんやりとしか思えないんだよね。 おばあちゃんちに行ったらいっつもにこにこして笑ってるおばあちゃんがもういなくて。 ほんとまだいそうなのに。 おばあちゃんごめんなさい、もっと色々してあげたかった。 壊れかけのオーブントースター、私が社会人になって働いたらそのお金で買ってあげたかった。 おばあちゃんごめんね何もできなくていろいろしてもらてばっかりで。 おばあちゃんごめんね。もう1回でいいから会いたいよ。おばあちゃんありがとうごめんね。 長文杉田スマソ
409 :
大人になった名無しさん :2008/05/04(日) 11:00:16
田舎のじいちゃんは、6年くらい前に亡くなった。 じいちゃんは姉ちゃんが生まれた次の年くらいに 熱中症か何かで倒れちゃって、それからずっと介護が必要な状態になっちゃって。 喋ったことはあるような気がするけど、遊んだ覚えはないや。 田舎のじいちゃんとの思い出がない。 喋ったことあるはずだけどそれも覚えてないから思い出がほんとない。 写真見ると、赤ちゃんの姉ちゃんを抱っこして立って笑ってる写真はあったりするんだよね。 でもそのあとは車椅子に座ってたりして、どんどん病気も悪くなっていったから。 でも一度だけちゃんと覚えてるのは、田舎帰ったときに 妹と騒ぎすぎて「うるさい!」って言われたことくらいかなー。 悲しいくらい良い思い出も悪い思い出もないや。 駅の車掌さんみたいなお仕事してたらしいってことと 切手集めと昔のお金なんかを集めるのが趣味だったことと そんで畑とか田んぼとかよく知らないけどそういうことやってたらしい。 もう人から聞いた話ししかない。 亡くなったときのことも、実はあんまり覚えてない… 田舎のおばあちゃんと、お母さんがすっごく辛そうで泣いてたってことくらいかな。 自分はもう小6か小5だったはずだけど、 死ぬってことがよく分かってなかったし。 覚えてない。覚えてないのが悔しい。
410 :
大人になった名無しさん :2008/05/04(日) 11:15:47
で、今日は2年ほど前に亡くなったばあちゃんが夢に出てきた。 ばあちゃんも私の持病のことをすごく心配してくれた。 たまーに小遣いもくれたりして、太ってて温厚なおばあちゃんだった。 太ってたから病院で言われた食事制限してて 味のあんまりないご飯作って食べてた。 お花の先生をやってていつも忙しそうに色々してたなー。 朝は早く起きて裏の畑や花を見に行ったりして お節料理のお豆さんが私の好物だったな。薄い味のお節だったけど、お豆さんは大好きだった。 玄関をあけたらいっつも花が生けてあって。 帰るときなんかはそこまで来なくていいのにってとこまで車を見送ってくれて。 おばあちゃんパソコン覚えたばっかだったから メール毎日するねーって言ってたのに、私飽きちゃってすぐメール送るのやめちゃって。 メール送るまでは手紙送ってたんだけど。 一度妹と二人だけで夏休みにおばあちゃんちに泊まったときは はじめてじいちゃんとの馴れ初めを聞いたりね。お見合いだったらしいけどw パスタ屋さんに連れてってもらったり。 そんでその夏休みが終わったあとの冬くらいに体調を壊して これまた孫(私たち姉妹だけだけど)には癌だということは教えてもらわないで。 最初はばあちゃんが田舎好きだから田舎の病院で入院してたけど ちょっとして私たちの住んでるところの近くにマンションを借りて 近所の病院に入院したりそのマンションに帰ってきたり。 ばあちゃんは色々やりたいことがあったみたい。 生け花とか色々してた人だから。 私が高校に入学したときも、すっごい喜んでくれて。 んでまた田舎へ帰って田舎の病院に入院して、そのまま亡くなっちゃった。 悲しいんだけど悲しさが分かんない。 思い出があんまり思い出せなくて、寂しいけど分かんない。 でもたまにすっごくわかんなくなる。 なんでマンションにいたときにもっともっと一緒にいなかったのかとか なんでもっとおばあちゃんとお喋りしなかったのかなとか 今思ったって全部全部遅い。 夢でばあちゃんに会ったって意味ない。ばあちゃんにはもう会えない。
411 :
大人になった名無しさん :2008/05/05(月) 14:42:02
ばあちゃん…
412 :
大人になった名無しさん :2008/05/06(火) 00:09:32
溢れるくらいたくさんの愛情を貰いました。 感謝してもしきれません。 どれだけ大きな愛情でわたしを包んでいてくれたか。 おばあちゃん。 居なくなってやっと気付きました。 ありがとう。
このスレ見てて、父方のじいちゃんのこと思い出した。 オレの父は二人兄弟の弟で母のところに婿としてやってきた。 じいちゃんは叔父さん(父のお兄さん)と同居していて農業をやっている。 そんなことで米や野菜ができるとうちに電話がかかってきて「取りに来い」って言ってくれる。 オレが行くと畑まで連れて行ってくれて野菜の収穫とかやらせてくれた。 うちはいわゆる教育熱心な家であまり外で遊んだ思い出が無くこの体験がとても楽しかった。 農業しかやってなくてそんなにお金も無いはずなのに行く度に「親には内緒だぞ」と言ってお小遣いもくれた。 中学、高校になったら部活が忙しくなってなかなか行けずにいたがお盆や正月に行くとすごいうれしそうだった。 でも、会うたびにじいちゃんが小さくなっている気がした。 大学に入学してからはさらに行かなくなった。 しかし、2年生くらいのときに体調を崩し入院した。 タバコが好きで会うたびに吸っていたけどそれが原因らしい。 オレが見舞いに行ったときはすでに集中治療室で意識もあるか無いか良く分からない状態だった。 そして、その半年後にオレの知らない遠い世界に行ってしまった。 葬式のときに叔父さんから封筒をもらった。 表には「○○君へ」と書かれていて中にはどこの国のものかも分からない金貨が入っていた。 火葬が終わり骨が出てくると人間ってこんなに簡単に形がなくなるんだと思って信じられなかった。 じいちゃんがオレに残してくれた形見の金貨はいつも財布に入っている。 つらいとき、苦しいときいつもじいちゃんはそばにいてオレを助けてくれていたんだね。 今、修士2年で来年から就職で社会に出るけど正直やっていけるのか不安な気持ちでいっぱいです。 でもオレにはじいちゃんがいつも一緒にいてくれている。 いつまでも頼ってばかりで申し訳ない気もするけど、きっとじいちゃんに「立派になった」って言わせるような大人になってみせるよ。
お前らの中にも祖父母から授かった知恵が役に立ってるという奴はいるはず
415 :
大人になった名無しさん :2008/05/15(木) 21:05:20
おばあちゃん、もう亡くなってもう7年。今もたまに夢に出てくる。 子供の頃一緒に暮らしてた頃が懐かしく、自分にとって幸せだったとは今頃になって気付く。
416 :
大人になった名無しさん :2008/05/18(日) 22:40:39
私の祖母は、20歳の時に夫を戦争で亡くした。 周りから幾度も再婚を勧められたが、夫が戦死しても、その一途な愛は揺るぎ無いものだったらしく、87歳で亡くなるまで、頑なに未亡人を貫き通した。 「おじいさんはな、立派な海軍さんじゃった。今頃は神様んなって見守ってくれとる」と、毎朝仏壇に手を合わせ、惚れ惚れした様子で、白い制服姿の若かりし祖父の遺影を眺めていた姿が今でも忘れられない。 60年以上の歳月を経て、天国で再会した二人は一体どんな会話をしたのだろうか…
天国など無い
418 :
大人になった名無しさん :2008/05/24(土) 14:19:17
おじいちゃんが入院してるんだけど今朝電話があって意識レベルが低下してきてるっていわれた。 お母さんとお父さんが見に行ったんだけどなかなか帰ってこない。 おばあちゃんはでかけてて昼過ぎに帰って来たけどご飯食べてしばらくしたら病院見に行った。 私家に一人。 ついさっきおじいちゃんあんまりよくないってメールが来て呼ばれたらすぐ来れるように宿題終わらせときなさいっていわれた。 小さい頃よく川に連れていってくれて水切りとかやった。 まだいかないで。
大好きなおばあちゃんが亡くなって1年半…。 実家に帰って台所に行くと料理をしてるおばあちゃんの後ろ姿を思い出す。 うちは親が共働きだったから平日は、いつもおばあちゃんが夕飯を作ってた。 味付けは濃いめだったけど、おばあちゃんの料理おいしかったなあ…。
じいちゃんが亡くなった。 憧れて警察官になろうと思ったこともあったよ。 試験落ちたけど。就職決まったことを伝えられて良かった。 じいちゃんの言葉は重みがあった。 信心深いのはついてけなかったところもあったけど 年をとっても新聞を切り抜いたり日記を書いたり知的でかっこよかった。 今までありがとう。
先日、爺ちゃんが亡くなった。98歳の大往生だから 葬式も泣かずに済むと思ってたが、出棺の時に昔じいちゃんに 連れて行ってもらった事や懐かしい思い出が蘇り、とめどもなく涙が溢れた。 じいちゃんの親戚も遠路はるばるやってきて初めて会ったけど、その人が じいちゃんの元気な頃にそっくりで、分身のように思えて泣けた。 最後の数ヶ月は介護で親は大変だったからほっとしているけど、 当たり前だった日常がなくなるのは悲しい。婆さんも寂しすぎて 一気に逝ってしまうような気がしてならない。
7月16日、おばあちゃんが亡くなりました。 心臓があまりよくなったのですが それでも90歳まで生きました。 大好きだったおばあちゃん。 わがままも一杯言ったね。 おばあちゃんは足が悪いから 歩くときはいつも手を繋いで歩いていたっけ。 しわしわだけど暖かい手・・・ それももう出来ないんだね。 最後にもう一度だけ一緒に歩きたかったなぁ 今まで本当にありがとう。 オレ、もう少しだけ頑張るから。
423 :
大人になった名無しさん :2008/07/21(月) 01:38:59
おじいちゃんが死んだときすげぇ泣いた 人目なんか気にせず鼻水垂らして病院でずっと泣いてた おじいちゃんが入院してた時は「元気なおじいちゃんに会いたい」と思ってた おじいちゃんが死んで少しした時は「入院して元気無くしたおじいちゃんでもいいから会いたい」 死んで5ヶ月経ったいま思う、「死んでてもいい、亡骸でもいいからおじいちゃんに会いたい」 残された俺たちを天国で見守ってるのかな 見守ってて欲しいなって思う
今年73のおじいちゃんと花火見に行っていろいろ話をした。 もう定年したっておかしくないのに、gdgdすぎるおじいちゃんの家族を養うために 痛い腰をかかえて電気工事の仕事をがんばるおじいちゃん。 いつもヘヘヘって言いながら、みんなに「ボケてる」「またバカな事言って」 なんて煙たがられてるけど、そうやって自分のテンションを上げてがんばってるんだよね。 優しいから、悪口言われても何も言わずに、頑張ってるんだよね。 私は知ってるよ、そんなおじいちゃんが大好きだよ。 「おじいちゃん」で検索したら出たこのスレ読んで 今日思った気持ちを忘れたくないので、いつかおじいちゃんとさよならしても ずっと忘れないようにかいてみた。 一緒に逢えるうちに、たくさんデートに誘っておこう。 おじいちゃん程のいい男になんて、そうそうめぐりあえそうにない。
425 :
前よりは大人になった名無しさん :2008/07/25(金) 17:16:30
おばあちゃん・・・・ もう亡くなって五年くらいたつのか。。。 五年もたつのにはっきりとした実感がまだ沸いてこないのはなんでだろうw なんだかおばあちゃんが死んだというよりはおばあちゃんがどこか遠くにいて ただ長い間あってないだけのような気がする 私はとっても馬鹿だからおばあちゃんになんにも喜ぶこと してあげられなかった気がする だってあんなに短い間しかいられないなんて思ってもみなかったから。。。。 今でも時々おばあちゃんのこと思い出してまだ後悔してるよ。。 なんでもっと優しくできなかったのか なんでもっと一緒にいる時間を大切にできなかったのか おばあちゃんが優しいから甘えてたのかな おばあちゃん 会いたいです。。。 会って一緒に笑いたい まだおじいちゃん、おばあちゃんがいる人は羨ましいです あたしみたいな馬鹿にはならないで、もっと一緒にいる時間を大切にしてください
426 :
大人になった名無しさん :2008/08/03(日) 20:39:03
私が小学生のころ、両親そろってひどいパチンコ依存症&仕事中毒 になって、朝飯はもちろん夕飯もほとんど作ってもらえなくなった。 だからいつもひもじい思いばかりしていた私たち孫三人は、じいちゃ んばあちゃんがくれる小遣いで、カップラーメンやお菓子を買って 何とか生き延びてきた。 でも、母親がひどいヒステリー持ち女で、「孫を甘やかすんじゃない」 ってじいちゃんばあちゃんにいつも、怒鳴りかかっていた。 そんな風に、母親にいびられるじいちゃんばあちゃんの姿を見ていて いつも、私たち孫三人は申し訳ないという思いをしていたけど、じいち ゃんは何だかんだとしっかりしたもので、母親にはばれないようにして こっそり毎日一人1000円ずつ小遣いをくれて、「これで飯を食いな」 って助けてくれた。 ばあちゃんもばあちゃんで優しくて責任感のある人だったから、毎日駅前 のスーパーで野菜やら焼きそばやら、もちやらを買ってきては私たちに 一生懸命、朝飯と夕飯を作ってくれた。でも、ばあちゃんはその当時仕事 をしていたから、どうしても忙しいときには、庭で作っていたさつまいも のうち、細く成り過ぎて売り物にならない分を甘くふかして、どんぶり 一杯山盛りにして食卓の上にいつも置いといてくれた。 小学校時代には、まともに両親とそろって夕飯を食べた覚えは無かった けれど、ばあちゃんが一生懸命、フライパンを焦がしながら作ってくれ た焼きそばの味は今でも覚えている。水を一杯入れすぎて、ちょっと メンがべっとりしちゃったヤツなんだけれども、お腹のすいている私達 にとってはちょうどいい量だった。 そんな優しいばあちゃんだったけれども、今では半分ボケちゃって、 毎日実家で母親にいびられている。 ボケてはいるけれども足腰は丈夫だから、自分の洋服は全て自分で洗濯 するし、自分の部屋や身の回りの掃除整頓なんかもバリバリこなす。 たまに、電球の玉を替えようとしてイスからおっこちて、ヒザの骨を 折ったりしちゃう、おとぼけばあちゃんだけれども、同じく天然ボケの 私は、そんなおばあちゃんが他人には思えず、大好きだった。 じいちゃんが死んでから、ずっと自分の部屋で一人テレビを見ている ことが多くなってしまったばあちゃん。・・・時々、自分のご飯を作ろ うとして、うっかりして鍋やフライパンを焦げ付かせてしまっては、 母親に酷く叱られるばあちゃん・・・。 実家に戻ったとき、いつもしんどくてあんまり相手してあげられなかった し、今、私もウツと戦っている最中だから直接会って何かをしてあげられ ないんだけれども。 今年の夏は必ず、暑中お見舞いの手紙を書くからね。ばあちゃんの好きな 絵葉書を一緒に同封して送るからね。 それまで元気にして、待っててね。ばあちゃん。・・・・
たった今、実家からの電話でじいちゃんが亡くなった事を告げられた。 滅多に実家に帰らないけど今日たまたま家に帰ろうとじいちゃんの好きなおかきを買って電車に乗ってたらいきなり…
俺の家は共働きだったから小さい頃は休みになるとよくおばあちゃん家に 泊まりに行ってた。よく自分の畑で作った野菜を入れたカレーを作ってくれた。 コーンが入ってるのが俺はお気に入りでおいしかった。お風呂にも入れてもらった。 俺は生き物が大好きで夏休みはばあちゃんと一緒に小川に魚とかザリガニとったり、 夜にカブトムシとりにいったり、早朝には夜に仕掛けたバナナトラップに集まる カブトクワガタを捕まえるため4時ごろ起こしてくれて一緒にとりに行った。 それにばあちゃんは俺を喜ばせるために農業用のでっかいケースにカブト虫の 幼虫を大量にそだててくれた。めっちゃうれしかった。ばあちゃんも女性なのにな。 俺の為にわざわざありがとう。 それから俺が中学生ぐらいになるにつれて、ばあちゃん家に行くたびにいっつも 親にばれないようにお小遣いをくれた。それを目当てでばあちゃん家んいいくことも しばしばあった。最低だった。ごめんね、ばあちゃん。 そんなダメ孫の俺が帰る時、1ヶ月に1〜2回は合える頻度なのに車が見えなくなるまで手を振って 見送ってくれてたばあちゃん。雪が積もってる時でも見送っててくれてた。 そんなばあちゃんが癌で入院して手術。腫瘍は全部取れなかったんだけど、ばあちゃんには ないしょにしてたらしい。その後は元気で元旦も親族集まって楽しくやってたけど、 取れなかった腫瘍が転移したりで2ヵ月後ぐらいに入院。 その頃は部活が忙しく、なかなか見舞いにいけなかったんだけど、もうあんまり長くはない と聞いてからはたまに見舞いに行った。 最初の頃は結構元気だったんだ。こんな元気なら大丈夫だろうと勝手に解釈してた。
でも、体調がどんどん悪化して今週いっぱいが限界とか言われて、それから部活も途中でやめて 毎日自転車で見舞いに行ってた。そのうちしゃべるのもきつくなってきていた。親も見舞いに来てた時 俺とばあちゃんを二人きりにするためにわざと買い物行ってくると言って出て行った。 俺は、「いままでありがとう」とか言おうかとも思ったけど恥ずかしがって 黙って小説を読んでた。場所で言うと寝てるばあちゃんの足のほうでイスに座って読んでたんだけど ばあちゃんがさぐりさぐりでベットのスイッチをいじって、角度を変えて俺が見える高さまであげて俺をずっと見てた。 そして、俺は本に顔をだいぶ近づけて読んでたんだけど、「目、悪くすんなね」みたいなこといって ベットの高さ変えて自分の体のほうがキツイのに俺のほうのこと心配してくれてた。 親が戻ってきて、俺が帰るとき手握ったら、「勉強がんばるんだよ」って最後の言葉みたいに言ってきて 目が潤んできてめっちゃ泣きそうになって「うん」とだけ言って帰った。 その翌日も見舞いにいったけど痛み止めをだんだん強くしていって、その副作用でなんか寝てる状態がずっと続いて 昼間は起きてる時もあるようだが、俺が見舞いに行く夕方には完全に昏睡状態だった。 手、握っても反応しないし、それが2日続いていて、寝てるなら見舞いに行っても意味ないじゃんと思いながらも その日(木曜)も行って、相変わらず寝てたんだけど、帰り際に手握って顔見てたらばあちゃんが目開いて、目が合ったんだ。 俺だと気づいてくれたよね。そのときは毎日見舞いにいってた甲斐があったと思った。それで、「また明日(金曜)会いに来るね」 って行って帰った。でも、次の日(金曜)は雨で自転車ではいけず、明日が土曜日だから今日、一日ぐらいいかなくても 明日いけるから大丈夫だろうと思ったんだけど・・・。 土曜日の朝の5時ごろばあちゃんが死んだって、起きてから聞かされた。 でも俺は木曜日に目があった、それだけで悔いがないように自分に言い聞かせた。それで満足して涙は全然でなかった。
通夜、葬式となり棺おけに入ったばあちゃんのまわりに花を置き、ばあちゃんが大好きだった甘いお菓子を 置くとき、涙があふれてきた。泣きながら「ありがとう」って何回も言った。 なんで生きてるときに言わなかったんだろうと思った。 なんで恥ずかしがって読書なんかして、「ありがとう」って言わなかったのか。 なんで木曜日に「また明日来るね」って言ったのに金曜日いかなかったのか、めちゃくちゃ悔やんだ。 この時が人生で一番泣いた。 その後火葬場で従姉妹の母親から、ばあちゃんが生まれたあと、ばあちゃんの母親はすぐ亡くなって ばあちゃんの父親が再婚したあと新しい子供が生まれて、ばあちゃんはあんまりかわいがられなかったらしい という話を聞かされた。ばあちゃんは愛されなかったのに、ばあちゃんは俺たちをとても愛してくれた。 一生尊敬できるばあちゃん。 今でも時々思い出して涙ぐんでしまう。 ばあちゃんがいなかったら今の俺はなかったよ。俺を愛してくれてありがとう。 ばあちゃんとの思い出ずっと忘れないからね。ありがとう!! 下手糞な分&長文、失礼しました。
>>428-
>>430 泣いた。
部活を辞めてお見舞いに行っていたんだね。
中高生とかある程度の年になったら、おじいちゃんおばあちゃんよりも友達や遊びに夢中になってしまうのが普通なのに
あなたはそこまでしてお見舞いに行っていたんだね。素晴らしいよ。
最期とか後悔することもあるだろうけど、最愛のお祖母様だもの、どれだけのことをしていても亡くなったら何らかの悔いは残ってしまうものだと思います。
お祖母様にはあなたの想いはしっかり伝わってるよ。
あなたは十分お祖母様孝行をしたよ。
うまく言えないけど、お祖母様はあなたを可愛がることで本当に幸せだったと思う。
幼少期に寂しい思いをした分、あなたを愛することでご自分自身も満たされたのではないだろうか。
ましてやその愛情があなたからきちんと返ってきているのだから。
お祖母様はあなたのようなお孫さんを持って幸せだったと思う。
これからもずっと見守っていてくれるよ。
しばらくは喪失感で辛いだろうけど、お祖母様の願いはあなたが幸せに人生を歩んでいってくれることだと思うから
お祖母様からもらった愛情を大切に誇りを持って生きていって下さいね。
長文ごめんなさい。
っていうかこのスレ涙なしには読めないよう。
432 :
大人になった名無しさん :2008/08/21(木) 01:01:42
おばあちゃんが亡くなって4年。 冬になると早起きして、庭の落ち葉で一緒にたき火した。 やきいも美味しかったなぁ。 小6まで一緒に寝てた。 寒い日は毎晩のようにおばあちゃんの足でぬくもりもらったり 怖いから、とトイレについてきてくれた。 毎年連れてってくれた「ドラえもん」の映画。 ドラえもんみると思い出すよ。 おばあちゃん。 おばあちゃんには命を救ってもらいました。 大学受験のとき、父ともめにもめて険悪になって 家族もメチャクチャ。 母、妹、弟、友達・・・本音をさらけだせなかった。 私も馬鹿で未熟で「逃げたい、死にたい」と 雨の降る夜、家の裏の大きな河に飛び込もうと家をぬけだした。 結局飛び込めなくて、また家に戻ったのを おばあちゃんに見つかったんだよね。 ずぶ濡れで泥だらけの裸足の私を、何もいわず 「とにかく寝ろ!」と布団に押し込んだ。 何年かぶりに一緒に寝た。 そして泣いた。 泣いて泣いて、嗚咽にまみれながら気持ち全部はきだした。 怒って慰めて話を聞いてくれたね。 おばあちゃん、ありがとう。 そしてあの時は辛い思いさせてごめん。 甘ったれでごめん。 もし死んでいたら、夫にも娘にも出会えなかった。 おばあちゃん、またいつか上で一緒にお茶飲みながらお相撲みようね。 それまでこの命大切に生きます。 たくさんたくさん思い出をありがとう。 人の温もりを気づかせてくれた おばあちゃんの優しさと強さ忘れない。 おばあちゃんの孫で幸せだよ。
433 :
坂井輝久 :2008/08/21(木) 01:54:55
今日は東京のおばあちゃんの命日。 昭和63年だから今年で20年だなぁ。
434 :
大人になった名無しさん :2008/08/23(土) 10:59:47
母方の祖母は私が生まれる前から目が見えなかった。 一度でも私を見て欲しかった。 小さい頃は苦手でしゃべるのもイヤだったけどなぜか小学5年生くらいから 言葉は悪いけど興味がわき好きになった。 耳も悪かったのでしゃべるには補聴器に向かって大声で、でもそれがイヤで 人がいるときはあまり話さなかった。 手先が器用で折り紙をよく折っていて、はさみも使いこなす人だった。 舟の降り方は祖母から教わった。 でもそんな祖母は私が24歳の時老衰で亡くなった。 両親は葬儀に行ったけど私は犬の面倒見るのを口実に欠席。 だって見たくなかったから・・・・・・・・・・。 そんな祖母の写真は結婚した今もリビングに飾っている。
俺の婆ちゃん、脳梗塞になってしまって脳の半分がやられたとかでさ 俺との記憶とか無くなっちゃったんだろっか、 昔の思い出なんていっぱいあるんだ、おばあちゃんトコ行けば毎度トランプで占いを一緒にやったり 畑仕事の手伝いもやったり、演歌いっぱい聞かされたり色々した どれもがすごい楽しかった 発症後は親が呼んでずっと一緒に住んでる、俺との会話が全く無くなっちまった 雰囲気が違うんだ、元気なお婆ちゃんって感じだったのに(でも笑顔は変わってなかった!) 話し掛けてくれたと思ったら、〇〇って呼んでくれてたのに〇〇君って呼ぶようなっててさ 風呂場で泣いた。 だが俺の婆ちゃんに対する思いは変わってないんさ! 大地震か何かが来るときには婆ちゃんを守る その後に昔みたいに喋れる気がするんだ
436 :
大人になった名無しさん :2008/08/30(土) 15:31:00
ちょっと長くなるけど今日の事を書きます。 僕の祖母はワケあってバツニです。 祖母が最初に結婚した人は別の奥さんと結婚しました。 ある時母が 「実の父に会いたい・・」 と、父に言い父が電話帳で調べたところ、最後に見つかり、その人との関わりが始まりました。 しかし長くは続かず元の実家の祖母がおばあちゃんになりました。 それから数年たったおととい、実の父から一通のメールが届きました。内容は 「サチ子(仮名・実の父の奥さん)がもう長くない」です。 せめてお世話になった人なので一目会いたいと福島まで行く準備をしていたところ、亡くなったと電話がきました。 ・・・・・・・・・・。おばあちゃん、もう少し待っててよ。1日でもいいから待っててよ。いま逝っちゃうことないでしょ? 僕は泣けなかった。 信じたくない。いっしょにトンボとってたころの元気なおばあちゃんはどこに行ったの? 頑張ってよ。もう一度だけ一分だけでいいから生き返ってよ・・・。 涙で前が見えない・・・。
437 :
大人になった名無しさん :2008/08/31(日) 23:38:30
家族四人と、父方と母方の両親が一緒に何かを祝って集まってるビデオを見た。 10年以上も前のビデオでおじいちゃんはもうどちらともこの世に居ない。 私は二人のおじいちゃんの記憶がほとんどなくて、 あるとしても一緒に買い物いったなーくらい。あとはうっすらとだけ。 ビデオの中で、まだ幼い私は二人の肩叩いて遊んでた。 おじいちゃん達嬉しそうに方言か何かで歌ってた。 ただ、それだけなのに何故か涙が溢れてとまらなかった。 寂しいというか、二人を覚えてない自分が悔しくて、ビデオの中の自分が羨ましかった。 となりで一緒に見てたお母さんの顔は見れなかった。 そんなおじいちゃん二人。 父方のほうは自殺だったんだってついこないだ知った。 今まで知らなかった…やっぱり自分が悔しくてまた涙がでた。 なんで私今この時代に生きてるんだろう・・・会いたい
おじいちゃんが危篤で明日実家に帰るんだけど。 後悔がないように見送れたらいいな… おじいちゃんが死ぬところ見るのは怖いし辛いけど…
439 :
大人になった名無しさん :2008/09/16(火) 17:45:20
ここ見てたらマジで泣けてきた・・・ うちはさ、父方の祖父母はもう亡くなってるんだけど、母方の祖父母は元気なんだ。 めちゃくちゃ大好きなんだ。こないだも学生時代以来に久しぶりに泊まりに行っちゃったよ。 だれよりもおばあちゃんが大切なんだ・・・ 婚約者もいるけど、婚約者よりも両親よりも一番大切なんだ。 でもさ、こないだおばあちゃんと話してたら 「死んだ時の話」なんかするんだよ。今の家は、おじいちゃんとおばあちゃんが死んだら売ればいい。 娘2人(私の母親とその妹)に少ないけど定期を残してる。ひいきは出来ないから、私の母親には死んだ時には500万入る様に保険を払い済みだ・・・ってね。 孫は4人なんだけど、私名義の定期に100万入れてるって・・・ 学生から社会人になって、おばあちゃんにも少ないけど毎月2万送ってたんだ。(馬鹿だったから、私立高校の入学金おばあちゃんが払ってくれた) 実家にも5万入れてたから、お金なくなって結局おばあちゃんには3ヶ月しか渡せてなくて、そんな事してたのも忘れてた。 その定期に私が渡した6万円が定期にされてた。 たった3ヶ月しか出来なかった馬鹿なのに「○○がくれたお金やでぇ」ってニコニコして言うんだよね・・・ 恥ずかしくてさ・・・ おじいちゃんとおばあちゃんは少ない年金暮らしで、自分の為にお金使えばいいのに、ボロ屋に住んで。 「お金なんか残さなくていいから、家でもリフォームしちゃえば?」って言ったら、もう何年も住めないし、私達しか住まないんだから無駄なお金になるって言うんだ。 おばあちゃんの前で号泣してしまった。 私は初孫なんだけど、順位をつけるわけじゃないけど、やっぱり私の事を一番心配して可愛がってくれてるって自負してるんだけど、死ぬとか本当に嫌なんだ。一緒に死にたいって思う。 本当に涙止まらないや・・・ なんか意味不明なレスでごめんね。これからもっと頻繁におじいちゃん・おばあちゃんと会う事にするよ。
>>439 ここにレスする人は439みたいに思っても、もうそのおじいちゃんおばあちゃんがいない人が多い。
たくさんおじいちゃんおばあちゃんに顔見せてあげてください。
うらやましいよ。おばあちゃんに会って話しができるなんてさ。
おばあちゃんに会いたいなぁ。向こうでおじいちゃんと仲良く楽しく暮らしてるかな。
441 :
大人になった名無しさん :2008/09/22(月) 08:34:45
補聴器つけてるほうがまだマシだよ 自分の声もよく聴こえないみたいで、大声で喋るようになるから
おばあちゃんごめんね。 お葬式のスピーチ、小6だった私には泣いて出来なかった。だって一緒に桜見るって約束したし、中学受験も応援してくれてたじゃん。 でも頑張ってちゃんと合格したよ。 おじいちゃんにもごめんなさい。葬式のあと、おじいちゃんの手帳読んじゃった。 昔の手帳だけどさ、おじいちゃんの誕生日のとこに、連絡ない。ってメモがあったよ。 ごめんね、電話すればよかったね。子供のころ送った絵は喜んでいつも飾ってくれてたのにね。私には泣く権利ないとか思って我慢したよ。 それもやっぱごめんね。素直じゃないよ、おじいちゃんに似て。 出来ることたくさんあるんだよね。幸い母方の祖父母は健在だからさ、大事にしてあげようと思う。 長文スマソ。
ばあちゃんありがとう。 月並みだけど、やっぱり 「本当に大切なものは失ってから分かる」 のかな。今ならわかった気がするよ。 いっぱい愛をくれてありがとう。
444 :
大人になった名無しさん :2008/11/07(金) 00:43:03
私が高校生の頃、ばあちゃんが毎朝早起きしてお弁当を作ってくれた。 クラスの皆も「おいしそうなお弁当だね!優しいおばあちゃんだね!」って褒めてくれた。 だけどいつもいつも同じおかずばかりのお弁当に飽き飽きした私は思わず 「これからコンビニで買うから弁当作んなくていいよ」と言ってしまった。 あの日の事を今でも後悔するよ。 「じゃあ好きにしな!」と怒ったばあちゃん。 それでも事あるごと「今日はお弁当いらない?平気?」と言って、昼食代くれたよね。 「おばあちゃんの弁当よりコンビニの方がいいよ、自分の好きな物食べられるし」 「弁当もう飽きたよ。毎日同じおかずじゃん。もう少し考えてよ」 そんな馬鹿な事言って本当にごめん。馬鹿な孫で本当にごめん。 昔から共働きの両親に代わって育ててくれたのばあちゃんなのに、 寒い朝も毎日早起きしてご飯炊いて弁当作ってくれたのばあちゃんなのに、 私の好きな卵焼きをかかさず入れてくれたのばあちゃんなのに。 何であんなこと言っちゃったんだろう。 卵焼き本当においしかったよ。いつも焦げてる、からあげもおいしいよ。 世界中の人が何と言おうとばあちゃんの料理最高においしいよ。 あの日あんなこと言って本当にごめんなさい。 貴方の卵焼きを覚えていつか自分の子供振舞うのが私の小さな夢です。
445 :
大人になった名無しさん :2008/11/07(金) 18:18:19
1番かわいくない孫だったので、思い出なんて何もない。 外孫ばかりかわいがる祖父母なんか大嫌いだった。 本家の長男の子供、内孫なんかかわいいなんて思ってなかった。 老人が汚いと思うのも、介護職につかないのも祖父母にかわいがってもらえなかった影響だと思う。 4人とも新じゃったからもうどうでもいいけど。 孫に優先順位つける年寄りなんか新じゃえばいい。
446 :
大人になった名無しさん :2008/11/08(土) 10:14:36
3姉弟で末っ子長男 俺の事可愛くて仕方なかったんだろうなぁ 親父が仕事で忙しかったからなのか 爺ちゃんがよく色んなとこ連れてってくれた でもやっぱ年寄り臭いとこがメインだった 遊園地もたまに連れてってくれたけど 魔法の絨毯とか一緒に乗ってくれたんだよ 乗り終わったらなんと爺ちゃんの眼鏡が吹っ飛んで 暫く遊戯ストップさせて従業員に眼鏡探させてたのがかっこよかったw
今日じいちゃんが死んじゃった。 急なことで看とれなかった。 大好きで尊敬してるかしこいじいちゃんだった。 もっと会いにいったら良かった。 あんなに優しかったのに今でも大好きなのに。 お正月一緒に過ごすの楽しみにしてたんだよ。 花嫁姿、ひ孫みせてあげれなくてごめんね。 じいちゃんの話は難しいって聞いてあげなくてごめんね。 書いたら少しすっきりしたよ。携帯からスマソ
2年半前に亡くなったばあちゃん。 社交的で趣味が多くてかわいらしいばあちゃんだった。 ばあちゃんは兄や弟には甘くて女の私にだけは躾が少し厳しかったから、反抗期にはよく口答えしてたのを反省してる…。 でも、高校生の時私が家に彼氏を連れて行ったときなんかは、 ニコニコしながらクッキーと緑茶を出してくれたし、〇〇君は最近元気なの?ってたまに聞いてくれてた。 友達が遊びに来たら「××ちゃんと仲良くしてくれてありがとうね」ってニコニコしながら言ってくれたりした。 若い時のモテ自慢とか苦労話なんかをいっぱい聞いた。 最後癌で入院してる時もニコニコ楽しそうにいっぱい思い出話をしてくれた。 死ぬ何日か前には、お父さんにもっと優しくしてあげなさいって言われた。 もっといろんなこと話したかったな。 あいにく私には、ばあちゃんの社交性とアクティブさと可愛らしさは遺伝しなかった。 そしてあんまりお父さんに優しくできてないな…。
赤ん坊の頃から母親として私を育ててくれたおばあちゃん 他の誰よりもおばあちゃんが大好きだった。 おばあちゃんの炊き込みご飯が大好きで必ず3杯はおかわりしてた 誕生日には必ず私の大好きなから揚げと骨のついた大きなチキンを買ってきてくれた 国語の本読みの宿題を料理しながら聞いてくれた 参観日の日、早くおばあちゃんが来ないかなって廊下を見てはそわそわしてた マフラーを編みたいと言った私に優しく教えてくれて一緒に編んだ お風呂でおばあちゃんが好きな「北国の春」を一緒に歌った 私が高熱を出したときは、必ず氷水を入れた水枕を用意してくれた おばあちゃんが好きで好きでたまらなくて、嫌がるおばあちゃんのほっぺたにいっぱいキスした 一昨日、昨日のおばあちゃんの安らかな顔まだ生きてるみたいだった。 でも触れるとすごく冷たかった。 数日前に握った手も温かくはなかったけど、まだ私と同じくらいの体温だったのに おばあちゃんとお別れなんかしたくなかった。 火葬場へなんて連れて行きたくなかった。 骨になった姿なんて見たくなかった。 おばあちゃん、ほんまごめんね。なんの孝行もしてないよ… 今まで育ててくれてありがとう。おばあちゃんのお陰で二十歳過ぎたよ。 おばあちゃんに会いたい。元気な頃のおばあちゃんにもう一度会いたいよ…
ひいばあちゃん。 今日も寒いね。 こんな日は、大好きだった蕎麦ボウロをいつものように熱いお茶で柔らかくして食べているかな。 耳掃除をするのが好きな私は、よくひいばあちゃんの耳を見てあげた。 たまにしかやってあげられなかったから、その度に乾いた大きな耳垢があった。 掃除が終わると私に手を合わせて、 「ありがとう、ありがとう。こんなことしてくれるんはあんたしかおらんよ。ほんまにありがとうね」 私が部屋を出るまでそう言ってた。 ひいばあちゃんの具合が悪くなってからは、大学が忙しくなってなかなか病院に顔を出せなかった。 やっとのことで病院に行けた3月の暖かい日。 ひいばあちゃんは前会ったときよりも、もっともっと小さくなっていた。 「ひいばあちゃん。○○よ、わかる?」 耳元で問い掛けた私に、 「○○ちゃん…わかるよ。来てくれたんね、ありがとうね…」って。 目だって殆ど開いてない、耳だって殆ど聞こえないんじゃないの? なんでこんなになるまで会いに来なかったんだろう。 明日からは絶対毎日来るからね。 次の日、ひいばあちゃんは亡くなった。 「○○に会えてやっと安心したんだね」と母は言った。 100歳越えの大往生。 それでももっとしてあげられ
祖父が亡くなって何年になるでしょうか。 幼い頃の思い出といえば、祖父と遊んだことしかありません。 毎日のように遊んでいましたよ。 ところがある日、祖父がいないんですね。 祖母に聞いたところ、アイスを食べ過ぎて病院に入院したと言われたんです。何をしてるんだ、おじいちゃんは…。 幼いながらに呆れたものです。 勿論、祖父好きの私は毎日お見舞いに行きました。 そのたびに祖父は売店でお菓子などを買ってはくれたものです。 本当に病気なのかと思うほど、祖父はいつも通りでした。 入院生活は思ったほど長くはありませんでした。 死をもって、祖父は家に帰ってきました。 幼い私には、死なんて良くわかりませんでしたが、ただ祖父にはもう会えないということがわかり泣きました。 骨になり、壷に納められた祖父。 私はお供え物などを動かすため、手を伸ばしました。 その瞬間、手に蝋燭の火がうつったんですね。 今おもいかえせば、祖父は私に着いてきて欲しかったのかも。
452 :
大人になった名無しさん :2009/01/16(金) 20:09:18
ばあちゃん、じいちゃんと仲良くやってるかな? ばあちゃんが急に死んで1年以上経つけど、今でもみんなばあちゃんの事思い出してるよ。 一緒に過ごせて幸せでした。ありがとうね。 じいちゃん、ばあちゃん、向こうでも幸せにね。 もう60年くらいしたらそっち行くよ。
ばあちゃん夢にでてきた かわいかった
454 :
大人になった名無しさん :2009/01/21(水) 01:10:42
「千の風になって」 を初めて聴いた時は涙が溢れて止まらなかった。 今でも泣いちゃう。 また、「私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私は居ません。死んでなんかいません」 とあるけど、泣きながら、「死んでるからいないじゃん!」って突っ込んでしまう。 あの曲は本当に辛いなぁ。
私は6歳でばあちゃん事故死。しかも家の前でだから血まみれの姿も 見てしまい相当なショックだった。 その後しばらくは無事に小学校に上がれるか心配されたほど無表情だったらしい。 でも今思い出すのはばあちゃんにかわいがってもらった良い思い出。 生きていたらばあちゃんとどんな生活をしていただろう、お小遣いもらったと 喜び、プレゼントをあげたり温泉に連れて行ってあげてたりしてたかも知れない。 などどかわいい想像をしていた今日この頃。 …のはずが兄ばかりかわいがって私は虐げられていた、とは母の回想。 お菓子は兄だけに、たまに面倒頼めば兄だけしか見ず私は階段から 落ちる始末。友達には私がいかにかわいげのない子か言いふらし、 母の目から見ても明らかなひいき。 結果的に早く死んで良かったのもwでも記憶のばあちゃんは大好きだよ。
子供の頃から偏屈だった自分は家族といるより母方のばあちゃんと一緒にいるのが好きだった。 ばあちゃんの作る漬物や味噌汁、煮しめ、梅干しを小さい頃から好んで食べていた。大人になって田舎に帰っても、よく婆ちゃんの家で過ごした。 夏の暑い盛り、縁側で二人、西瓜を食べながら談笑していると、 『ばあちゃんは幸せだよ。娘やあんた達が大きくなって…曾孫の顔まで拝めた。もう何時死んでもいい…』 俺はキョトンとして笑ってしまった。なにしろ身体の丈夫な人だったからだ。 そんな婆ちゃんが亡くなったのは秋。十月中旬のことだった。 通夜の日。親戚一同泣いていた。とくに兄貴が号泣する姿に狼狽した。同じ県内にいながら自分は祖母の家にあまり行けなかった…元気な時にもっと行くべきだった。…と。 何故か自分は涙が出なかった。葬式でもそうだった。 つづく
つづき 一周忌はお盆に繰り上げようという事になり、未だ残してある祖母の家(戦死した祖父が建てたもの)に親戚一同が集まった。電気ガス水道は生きている為、料理の準備には困らなかった。 料理は女性陣に任せ、男連中は掃除や枝打ちといった力仕事だった。古い家なので冷房がない為、縁側の硝子戸を開け放していた。 自分は縁側に面する庭掃除をしていた。中から昼餉の匂いが漂ってくる。 ふと見ると、一匹の蜻蛉が飛んできた。よくよく見る…オニヤンマだ!流石田舎だ。普通にオニヤンマがいるのだな…夏の強い日差しに照らされて、羽根がキラキラと輝いている。 ぼんやりと姿を追っていた所、吸い込まれるように縁側から中に入っていく。不思議な光景だった。 蜻蛉はまるで確認するかのように部屋中を二度、三度飛び回っている。そして…祖母が何時も座っていた場所でホバリングしていた。 つづく
帰って来た!ばあちゃん帰って来た! 直感でそう思った。近くにいた叔母に声をかける。 「おばさん!ばあちゃん帰って来たよ…」 叔母は少し驚いた感はあったが、 「…あぁそうねぇ…あんた帰ってきたんねぇ…よーわかったねぇ……」 と話しかけていた。蜻蛉は頷くように何度か上下にホバリングをすると、再度確認するかのように部屋中をぐるりと周ると縁側から飛び去っていった。 ばあちゃんがいなくなって、初めて泣いた。 ばあちゃんありがとう。 スレチスマソ…
祖父は何かと自分を可愛がってくれた。 沖縄と東京。離れた距離でもいっつも気に掛けてくれててた。 普段は寡黙なのに、たまに電話すると、 自分にはほぼ聞き取れないウチナーグチ(沖縄弁)で 嬉しそうに饒舌に話してくれたのを覚えている。 たまに沖縄に帰ったときも、嬉しそうにしてくれるものの 口下手でどのように接したらいいのかちょっと困った様子の祖父。 自分はそんな不器用な祖父が大好きだった。
その祖父が2年前に突然死した。 それまでも肺癌や肝硬変で何度も生死の境をさ迷ってきた。 それでも毎回奇跡的な回復力を見せて、定年とっくに過ぎてる はずなのに、職場復帰してきた祖父。 だから最初に訃報を聞いた時は、信じられなかった。
自分はその日、大学のテストを控えており、 すぐには沖縄に向かわなかった。 テストが終わり、すぐに沖縄に向かう。 夜に祖父の家に着くと、親戚中、皆神妙な面持ちだった。 いつも沖縄に帰ったときはわいわい賑やかだった大広間は その日はやはり特別だった。 「ああ、○○。おじいちゃんは、ほら、そこだよ。 ちゃんと挨拶しなさい。」と伯父。 見ると祖父はいつもと一緒。でもずっと寝てるんだ。 自分はすごいおじいちゃん子で、帰郷時はよく祖父と二人で寝ていた。 祖父はとてもとても安らかな顔をしていたが、 死に化粧をしていたこともあってか、顔色は蒼白だった。 それからしばらくのことは、あまりに取り乱したため覚えていない。
その日は通夜。 自分は神経が高ぶっていたこともあって寝付けなかったので、 従兄弟と祖父と一緒に通夜を過ごす。 「じいちゃん、かっこよかったよなぁ」 「うちらはじいちゃんを越えられるのかな」 そんな話を、泡盛を飲みながら朝まで続けてた。 その間、一時間に一回くらい、祖母が泣きながら起きてくる。 「とおちゃん、とおちゃん、、、」 と悲痛な声で泣きながら。 二人は戦後のどさくさで孤児になった似た者同士。 60年間ずーっと支えあって生きてきた。 その二人の最後の別れ。 あまりにも辛くて悲しいものだった。
翌日、午後から告別式。 数日後、また翌日に別のテストを控えていた自分は午前中ずっと勉強。 周りの目も気になったが、なりふり構ってはられなかった、、、 やがて正午過ぎに住職が見えて、最後のお経をあげていく。 それが終わると、いよいよ火葬場へ運ばれる。 沖縄の人は涙もろいのか、それとも祖父の人望の大きさのためか 本当に親戚一同みんなむせび泣いていた。
告別式には実に千人単位の人が参列していた。 戦後、沖縄の復興のために尽力した祖父。 彼のしてきたことの大きさを、垣間見たような気がした。
告別式が終了し、すぐに自分は帰らなければなかった。 薄情かもと思われるけど、、、 最後に祖母に挨拶をする。 「ばあちゃん。ばあちゃんの病気は俺が全部治すから 絶対長生きするんだよ。」
じいちゃん。。。 あの時すぐに行ってあげられなくて、本当にごめん。 葬式準備そっちのけで勉強してごめん。 こんな薄情な孫でごめん。 でも、俺、医学の勉強頑張ってるから。 ばあちゃん長生きさせるために頑張ってるから。 いい医者になるから。 じいちゃんは、今、天国で一人ぼっちだけど、 でも、もう少し我慢してもらえるかな? ばあちゃんに俺の子供とか見せたいんだ。 いつかばあちゃんが天国行ったときに、 ばあちゃんから可愛いひ孫の様子を聞いてね。 そして、いつか俺が天国行ったときには、 一緒に泡盛でも飲みながら、夜通し語り合いましょう。 だから、それまで、ばあちゃんのことは任せてくれ。 長文駄文自己満レスすまん でも俺は頑張るぜ
じいちゃんはきっと全てわかっているよ。 安心して勉強ガンガレ (´;ω;`)ブワッ カッコいいじぃちゃんの話、ありがとう。
468 :
大人になった名無しさん :2009/02/11(水) 02:24:34
沖縄のおじいちゃん泣いたage
ふと、おじいちゃんのことを思い出して検索して着いた 小6のころタバコが原因でガンになって入院して治らずいなくなったおじいちゃん そのころ小6なのにまだ精神的に子供で23時ごろに母からじいちゃんが危ないって聞かされて 急いで病院へ 病院へ着いたら親戚のおじさんとかも全員おじいさんの周りにいて一人ずつおじいさんの手を握って がんばってって言ってた。 おじいさんはずっと呼吸器をつけて「えらい。えらい」(こちらの方言でつらいって意味) って言ってて、いつも元気なおじいさんがこんなになるなんてって現実を認めたくなくて ちょっとしか手を握らす病室から逃げてしまった。 今思えば何故あの時、もっと手を握ってあげなかったのか 何故がんばってってもっと声をかけてあげられなかったのか 何故、次の日学校でも帰らずおじいさんの近くにいてあげなかったのか 後悔ばっかり出てきてもう嫌になる 今思えばおじいさんにワガママいっぱい言ったし色々買ってもらったのに なんであんな別れ方してしまったんだろう。 多分、次の日一命を取り留めてきっと家に帰ってくるだろうと思ってたんだろう あの時の自分に戻りたい。 これが最後だと分かってたらもっと色々言えたのに もっとギュっと手を握ってたのに おじいさん 私はあなたにとっていい孫でしたか? 私はあなたが誇れるような孫でしたか? 私はあなたが大好きでした。 あなたは私の大切な一部です。 けど、今思えば私はあなたの誕生日とかそういうのを全く知らなかった家族だったのに それが悔しくて悔しくてなりません。一緒に暮らしていたのに あなたの軽トラで色々なところへ行きました。 ザリガニ採りに行ったり、畑や田んぼに連れて行ってもらったり、スーパーとか行ったり おもちゃ屋さんへ行ったり。 今おじいさんが生きてたら連れて行ってもらえた場所全部連れて行けるのに、他のもっと 遠く、おじいさんが行きたいって言った場所へも連れて行ってあげるのに。 もういないんですよね。 そのかわりとは言えないけど、おばあさんをあなたへ出来なかった恩返しの分もこめて 大切にして行こうと思います。 文章がぐちゃぐちゃでごめん。 書いてたら色々思い出しちゃって長文で駄文で自分の思いで語りで
小さい頃は夏休みと大晦日は必ず泊まりに行ってた母方のおじいちゃんおばあちゃんの家 おばあちゃんの作るご飯美味しかったな〜 母が作るご飯に味が似てたけど数段美味しかった。 働き者で寝る時以外は働いてる記憶がある。性格も明るくてよく笑うおばあちゃんだった。 私が毎回駄菓子屋にみんなの分のアイスを買いに行ったら自分は余った奴でいいよって… おじいちゃんは若い頃はとんでもなくどうしようもない男でボケてからは更に皆から嫌われてたけど 私や兄に何でも買ってくれてボケてるせいもあるけどニコニコ話を聞いてくれて嬉しかった。 もっと本音を聞いてみたかったな… 二人は3年前、事故で死んだ。 おじいちゃんが運転中脳震盪起こしてガードレール突き破って崖から転落したらしい。 なんだってそんな最後を迎えなくちゃならなかったの… おばあちゃんは即死だったからあんまり痛い思いはしなかっただろうけどすごく怖かったんだろうな… おじいちゃんも1週間苦しんで逝った… 中学生になったぐらいから部活もあって泊まりに行くのがめんどくさくなって気恥ずかしくて家にも行かなくなった。 泊まりに行って実家に帰る時はいつも見送ってくれて姿が見えなくなるまで手を振っててくれた。 最後の方は寂しがってたって母から聞いた時は胸が詰まった… ごめんね…本当にごめんね… 大大大好きだったよ。
小6のときにおじいちゃんが脳梗塞で倒れた。 それまでオセロやったり囲碁やったりたくさん遊んでくれた。 私が喜ぶことばっかりしてくれたしすごい優しかった。 なのに倒れる数年前から友達と遊ぶことが多くなってきてあんまり会わなくなっちゃったね。 脳梗塞のせいでおじいちゃんは歩けなくなってまともに話せなくなった。 もっと優しい言葉をたくさんかけてあげれば良かったのに。 私は何て言ったらいいのか分からなくてそれから全然話しかけられなくなっちゃった。 おばあちゃんが言ってたけどおじいちゃんは 私がなんにも話してくれなくて寂しいって泣いてたらしい。 そしておじいちゃんはまた倒れた。 今度はかなり酷くておじいちゃんは入院し始めた。 痩せちゃったけどリハビリ凄く頑張ってた。 なのに私は頑張れ、とか大丈夫?とか何にも言ってやれなかった。 そのままどんどん衰弱して死んじゃった。 葬式のときは死んだなんて信じられなかった。涙も出なかった。 でも家に帰ってふとんに入った途端涙が溢れてきた。 もう会えないんだって思うとすごい悲しいよ・・・。 あの時は素直になれなくてごめん。おじいちゃんは私の願いを全部叶えてくれたのに 私はおじいちゃんが喜ぶこと一つも出来なかった。 本当はもっとおじいちゃんといろんな話がしたかった。 たくさん遊んで思い出つくりたいしいろんな所に行きたいよ。 わがままな孫でごめんね。いなくなってからいろんなことに気づいたんだよ。 おじいちゃんが私にしてくれたことずっと忘れないよ。 五年後も十年後も二十年後も。大好きな自慢のおじいちゃんだよ。 おじいちゃんの分もおばあちゃんやお父さんやお母さんや友達や これから会う人たちみんなに優しくするよ。全部大事にするよ。 おじいちゃん大好きだよ。ありがとう。
優しいじいちゃんばあちゃんに恵まれたここの人は幸せだ じじばばはいい人でも親兄弟には恵まれなかった という人もいるだろうが、優しい爺ちゃん婆ちゃんがまだ生きてる人は 顔を見に行って話をしてあげてね それが最後になるかもしれないのだから おじいちゃん、おばあちゃん、一緒にいてくれて赤ん坊の頃から 育ててくれてありがとう 幼稚な両親に代わって子育てしてくれてありがとう まさに親にも勝る家族でした 爺ちゃんばあちゃんがいなかったら、どんなにあの親に苛められたり 虐待されたり、心の奥をえぐるような虐待を受けたかと思うと ぞっとする あと5年、いや3年でもいい長く生きて欲しかった
俺のじいちゃんは戦争中は軍曹だったらしい。戦争が終わってからは小さな酒屋を経営していた。 じいちゃんにとって俺は初孫だったのですごく可愛がってくれた記憶がある。 俺が保育園児だったとき、じいちゃんの酒屋に遊びに行って店内を走り回っていたら 壁に作り付けの棚の高さがちょうど当時の俺の頭くらいで、俺は棚の角に額をぶつけて大泣きしてしまった。 まあコブができたくらいで大した怪我ではない。じいちゃんはすぐに俺をあやしてくれたんだが、 何を思ったのかノコギリを持ち出してきた。 そして俺が頭をぶつけた棚の角をみんなが見ている前で斜めに切り取ってしまった。 大学生になった時、末期の癌で入院していたじいちゃんを見舞うために久しぶりに帰省した。もう意識が 朦朧としていて俺のことはよくわかっていなかった。 お見舞いの後で酒屋に立ち寄ったら、角が斜めに切られた棚がまだあった。 じいちゃんはその後しばらくして亡くなって、酒屋も閉めて店は他人の手に渡って何年も経つけど 角が斜めに切られた棚はまだあるのだろうかと時々思う。
>>472 じいさんばあさん親兄弟全てに恵まれなかったうちは負け組
全員卑屈
>>445 だよね、血がつながってるのに。
あんたの気持ち痛く分かるよ。
生きている間に逆襲とかできなかったの?
自分は病気で弱ってるじいさんに「あんたなんかさっさと死ねばいいのに」って言ってやった。
ワザと宅急便呼んだりして弱ってるじいさんを見せ付けてやったりした。
死んだ時はザマア見ろ!って思った。
あんたが幸せになることを祈るよ。
ザマア見ろぐらい生きているうちに言えば良かったのに。
いつだったか、「婆ちゃんが凄い勢いで白玉作ってます」って いうスレがあって大笑いしたんだが・・・
幼いころ、婆ちゃんが髪を編んでくれたり、色々やってくれた 爺ちゃんも一緒にいろんなところに自転車で連れて行ってくれた 孫の世話が大変だなあ、と思ってたけど 爺ちゃん婆ちゃんにとっては孫の世話をするのこそが楽しみだったんだなあ
479 :
大人になった名無しさん :2009/05/28(木) 00:13:59
お爺ちゃんやお婆ちゃんとの交流というか思い出って 特別に郷愁を感じる 婆ちゃんは実は料理がすごく下手だったw でもむかしの人で田舎育ちで都会に出て働きに来て 働きづめで家事もやってたから、美味しい料理の作り方なんか 覚えてるひまがなかったんだろうな お婆ちゃんのぬめりの取ってない小芋の煮っ転がしが懐かしい
480 :
大人になった名無しさん :2009/06/01(月) 10:54:31
俺の祖父は、戦後、シベリアに抑留されていた。 徴兵された当時35歳と、年齢的にもぎりぎりだった祖父は、軍隊の中でもかなり年上 だったらしい。 −30度という寒さが毎日続く中、食料も十分でなく、過酷な労働で皆フラフラになっていた ある日、祖父が将校を何人も相手に大喧嘩を始めたらしい。 そこに、一人の将校が通りかかり、何事か?と問いただした。 すると祖父は「我々が必死でフラフラになりながら食事の用意をしている時、あの 連中が、我々を罵倒していた。人の上に立ち、手本となるべき者として、許せなかった」 と言ったらしい。事実将校とは言え、祖父よりも年下だったのだ。 祖父の正義感???、勇気に圧倒されたその将校は、話を上手く取り持ってくれ、何の 処罰も無かったという。
481 :
大人になった名無しさん :2009/06/01(月) 10:58:20
ある夜、祖父が、その将校の所にお礼を言いに来て、小さな包みを渡していった。 その中にはタバコやパンなどが詰められていたという。餓死者が続出している中で、 その行為に感激されたそうだ。 そして、引き揚げの時、歩ける者のみが帰還でき、そうでない者は異国の土と化した。 そんな中で、動けない祖父を何とか連れ帰ってくれたのが、その将校と仲間たちであった という。
482 :
大人になった名無しさん :2009/06/01(月) 11:08:52
戦後、公職追放で、職業軍人に対する冷遇が続き、祖父を救ってくれた将校=後の親友も、 長いこと職に就けず、貧しい日々を送っている中、初めての来賓があった。 物資不足が続く中でありながら、祖父がすき焼きの肉を持って訪れたという。 その味が今でも忘れられないと仰っていた。 そして日本の経済の発展と共に、祖父は漁業関係で、親友は出版業界で成功された。 そして、この話を聞いたのは、それから40年ほど経った、祖父の葬式の時であった。 今の俺はというと・・・無謀なケンカをする辺りはにているが、祖父のような 人望は無いな・・・。
483 :
大人になった名無しさん :2009/06/03(水) 23:55:03
スレチかもしれないけど書かせてね。 嫌だったらスルーおながいします。 私も、小さい頃両親が共働きとかでおじいちゃんおばあちゃんに育てられたんだよね。 おじいちゃんが早くに亡くなったからおばあちゃんは私たち孫が生きがいって言ってる。 けど、あんまりお母さんおばあちゃんの仲がよくなくっていろいろ大変だったんだよね。 よくケンカしてるのを止めてたけど本当に大変で兄弟でよく仲裁してたよ。 お母さんもお姑さんがいて同居だったからきっとたくさん苦労したに違いない。 だけど、おばあちゃんにバカにしたような態度とったり、友達のお姑さんが亡くなったのを 楽になっただとか、呆けたらおばあちゃんの年金の中でやれそうな介護施設に入れるだとか そういうのを聞いてると悲しくなる。家族だってケンカする時もあるんだけど、そこまで言っちゃダメって思う。 嫁と姑の問題は宿命的なんだろう。 ある板の嫁姑スレでトメは早く孤独氏しろとか書いてあって、それをきっかけにしばらくロムってみたんだよね。 それで、自分の家庭を簡単に説明して、自分みたいに家族が争うことで心を痛めてる子どもいるはず。 って書いたんだけど、おばあちゃんを庇うお前が悪いとかその後も早くトメにいってほしいとかたくさんかかれてた。 その人たちもいろいろ苦労してるんだろうけど、なんだか自分の家庭とかぶる気がした。 最近、お年寄りとかに対して皆すごく冷たい気がする。お年寄りの孤独氏とかも面倒みるのめんどくさい からって放置してた結果だと思う。自分がいずれ夫や妻に先立たれても孤独に生きてく覚悟はあるんだろうか? おばあちゃんの話聞いてると昔はもっとお姑さんは厳しかったけど家族は助け合ってたって言ってた。 かなりスレチでスマソ。 けど、ここに書いてある人はおじいちゃんおばあちゃん子が多いみたいだし少し理解して もらえるかと思った。 最後まで読んでくれた人ありがとう。
484 :
坂井輝久 :2009/06/04(木) 02:15:18
東京のおじいちゃんの命日に書き込みすんの忘れてた。 墓参り行ったけどな。
485 :
大人になった名無しさん :2009/06/06(土) 21:29:32
>>482 戦争を体験したお年寄りの中には素晴らしい人がいるよね
486 :
大人になった名無しさん :2009/06/27(土) 17:21:49
家の爺ちゃんはたった3ヶ月で急な病で亡くなった もうかなりの年だったが、直前まで元気だったので その前の年に母親に「ずっと家族旅行してないから、一度行こう 爺ちゃんももう年だし、今元気でもいつどうなるかわからない(持病があった) 自分の金も使うから」 といったのに、爺ちゃんが嫌いな母親がなんのかんのと 屁理屈をいってダメだった それから半年後に爺ちゃんは亡くなった 今考えたら、爺ちゃんと2人でも旅行に行ったらよかった 孫との旅行を喜んでくれただろうに 考えつかなかった自分が悲しい
487 :
大人になった名無しさん :2009/07/01(水) 01:45:23
お婆ちゃんの作る煮物はいつも味が薄くて文句いってた でも今はその方が体にいいことがわかって、感謝してる 病院食ですら味が濃いと思うような舌になってしまった・・・
488 :
大人になった名無しさん :2009/07/20(月) 19:30:55
もうお盆だな
489 :
大人になった名無しさん :2009/07/23(木) 12:28:37
じいちゃんは元警官で凄く厳格な人だった 曲がったことが大嫌いで怒ると本当に怖かったから 近所の人からは嫌われていたけど 俺のことは本当に可愛がってくれて、俺は何をしても怒られたことはなかった 因みに浅間山荘事件とかかなり大きな事件の時にもけっこうお偉いさんだったのに 召集がかかったらしくて 「あの時は本当は凄く怖くて手足が震えてたけど、耐えるしかなかった その中で初めて食ったカップヌードルはうまかったなぁ」 っていう話は小さい頃から何回も聞かされた そんなじいちゃんを俺は本気で尊敬してた 去年、葬式の後にじいちゃんの悪口を言う親戚を許せなくて いい年こいて取っ組み合いの大喧嘩になったけど じいちゃんは許してくれるよな 後で嫁にはバッチリ叱られたからw
おじいちゃん、おばあちゃん大好き。 少しでも長生きして下さい。
母方の祖父母は大好き。
特に祖父はとても可愛がってくれて、週に2回は車で会いに来てくれた。
地元を離れた今でも電話やメールで連絡を取り合ってるし、いつも私のことを気にかけてくれている。
元気で長生きしてほしいと心から願っている。
が、父方祖父母は
>>445 で書かれてるようにあからさまな孫差別をする人だった。
人間である以上ヒイキの感情があるのは仕方ないが、せめて子供の前では隠す努力をしろよと思う。
同い年で同性の従姉妹と比べられ、遊びに行ってもその子の写真を片手に自慢ばかりされた。
笑顔で相槌を打ちながら疲労と寂しさだけが残った思い出しかない。
だから、445みたいな感情もよく分かるし、もし父方祖父母しかいなかったら私も年寄り嫌いになってたかもしれない。
うちのばーちゃんがじいちゃん死んでからうるさい。 いちいち私達家族の悪口を親戚にぶちまける。 死んでくれ。
民主勝ったらここでカキコされてる奴らみんな悪者になるな ざまあみやがれわははは
494 :
大人になった名無しさん :2009/08/21(金) 11:49:34
ざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれ ざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれざまあみやがれ
495 :
大人になった名無しさん :2009/08/21(金) 16:51:37
このスレはキチガイに汚染されています。
祖父がついに危篤になってしまった すぐに亡くなるわけではないけどもう意識は戻らないかもって 涙たくさん出るけど、今おじいちゃんと過ごした日々を思いだしてるよ。 意識がないから苦しくないって言われてすごく安心した。 幸せな夢をみながら迷わず始まりの日に帰れますように。 みんなそばにいるからね。
母方のおばあちゃん、とにかく人として出来ている人で 自慢のおばあちゃんです。 母が中学1年位の時におじいちゃんは交通事故で亡くなり、 女手一つで子供5人を育てました。 お祝い事なんかを大事にする人で、 何かあるとテーブル一杯に料理を作って祝ってくれました。 高校時代に300km近くある道のりを自転車で行ったことは ボケてしまった今でもはっきり覚えていてくれています。 (たぶん相当心配したんでしょう) 翌日の帰り道に作ってくれた、ガスで炊いたご飯でのおにぎりの味は 格別で忘れられません。 ちなみに、社会人になってバイクで会いに行ったことは 忘れられてました。 最近、なかなか会いに行けなかったけど、結婚2年目にして ようやく嫁さんと会わせることが出来ました。 会わせた時は泣いてしまいそうになりました。 本当は血が繋がっていないのに、兄弟の中で一番覚えててくれてどうもありがとう。 結婚するまで知らなかったんだけど、おばあちゃんの孫として 差別なく育てられて本当に幸せものです。 おばあちゃんは、母が再婚となる父(自分は連れ子)と結婚するとき 「(仮に夫婦の間に子供が出来ても)絶対に分け隔てなく育てなさい!」 と強く何度も母に対して言ったそうで、結婚後は 「男の初孫だ。」 と言って近所に紹介して回ったそうです。 絶対にひ孫を見せるまでは長生きして欲しいです。 長文すいません。書いていてぐっと来てしまいました。
498 :
大人になった名無しさん :2009/09/12(土) 01:49:44
おばあちゃんゴメンなさい
499 :
大人になった名無しさん :2009/09/12(土) 10:29:36
この前、母が祖父母の墓参りに行ったら、見知らぬ年配の女性が祖父母の墓に 線香をあげてお参りしていたので、声を掛けてお話しをしたらしい。 ウチの祖父は工場を経営しており、その女性は、昔そこで働いていたという。 そして、彼女の給料が、当初の予定より多目に支払われており、間違いだと 思い、私の祖父に申し出たところ、「君は仕事の段取りが上手だからいいんだよ」 ってことだったという。 そうやって彼女は祖父の元で金を貯め、資格を取って新しい職種に就いたらしいが、 あの時の祖父に随分と助けられたと、今でも感謝しているということだった。 自分の事は一切喋らない上に、派手好きで経営者としての資質は些か疑問視された 祖父であったが、こんな一面があったとは、改めて驚かされた思いがする。
500 :
大人になった名無しさん :2009/09/13(日) 22:16:59
おじいちゃま、すごく大好きです おじいちゃまは私が2歳の時、脳梗塞で左半身が動かなくなりました。 若い頃は水泳や射撃が得意だったのに、おじいちゃまはそれ以来走れなくなってしまいました。 それでも頑張ってリハビリを続け、自力で歩けるようになり、私はゆっくり歩くおじいちゃまと手をつないでよくおもちゃ屋さんに連れて行ってもらいました。 おじいちゃまは射撃をやっていたのが原因でとても耳が遠く、こちらが話しかけてもほとんど聞こえていないようでした。 そんなおじいちゃまが私がしょっちゅういじっているパソコンに興味を持ったようなので、教えてあげることにしました。 初めはデジカメで撮った写真の現像方法を。 次に年賀状の作り方を。 さらにはインターネットを。 休日におじいちゃまの家に遊びに行くたびに、私はおじいちゃまとパソコンの前で過ごしました。 メールを教えてあげたときのこと。私の携帯におじいちゃまからメールが届きました。 普段、耳が聞こえないため無口なおじいちゃまとは思えないほど、そのメールは話題にあふれていました。 それ以来、私はおじいちゃまとメールで会話を楽しむようになりました。 高校生になって、私が進路を美術系に決めたときのこと。 おじいちゃまは高校生が使うにはもったいないくらい高級な絵筆(ラファエルの筆。)を9本、私に手渡してくれました。 驚く私におじいちゃまは 「このまえ知り合いからもらったんだけど、こんなもんおれは使わねーからな。お前なら使うんじゃないかと思って。」 嘘付かないで下さい。 そんなにお金持ちじやないからって、いつも贅沢するのは我慢してるくせに 少ない年金と家賃収入で生活していて、支出金はちゃんとエクセルで細かく管理してるくせに そのエクセルの支出金欄に打ち込んである 筆 ¥78000 ってなんですか? もうすぐ大学受験。毎日予備校にいかなけれなならず、しばらく遊びに行けなくなりそうなので夏休みにおじいちゃまの家に泊まりに行きました。 美術館に連れて行ってもらったり、近所をぶらぶら散歩したり。 大満足の休暇を過ごして家に帰る電車の中、勉強しようとおもいいつも持ち歩いている問題集を開いてみると1万円札が挟まっていました。 「もうすぐ俺たちの金婚式だから、受験で忙しいかもしれないけど次はその時に」 私はおじいちゃまにいただいた大事な1万円で絵の具と普段使わないような高級画用紙を買いました。 おじいちゃまが 俺の宝物 といってくれた私を含む6人の孫の絵を、おじいちゃまから頂いた筆で描きました。 金婚式まであと2ヶ月。 私の成人式まであと3年。 ずっと長生きして下さい。
501 :
大人になった名無しさん :2009/10/13(火) 20:50:26
大学、おばあちゃんの家の近くだったのにほとんど行かなかった。 ごめんね。。。
502 :
大人になった名無しさん :2009/10/20(火) 16:20:19
503 :
大人になった名無しさん :2009/10/23(金) 21:54:57
じいちゃん、ばあちゃん。あんなに可愛がってくれたのにホントにごめん。 そしてありがとう。 絶対に忘れない。
504 :
大人になった名無しさん :2009/11/06(金) 04:34:05
凄い泣きそう まだ生きてるけど できる限り実家に帰る
505 :
大人になった名無しさん :2009/11/08(日) 22:06:09
おばあちゃんが亡くなりました。 2年位前から老人ホームに入所し、後半は会いに行っても殆んど反応もないくらいで 夏からは体調を崩しずっと入院してたけど 頑張ってたおばあちゃんの心臓も、とうとう力尽きて、先月静かに息を引き取りました。 病院まで車で2時間半位かかるので、家族の誰も最期を看取ってあげられなかった。 元気な時も、欲の無い人だったから、何して欲しいとか言った事ないおばあちゃんで いつもニコニコと人の話を聞いてるような人だった。 一緒にいると、その有難味も分からず、何1つ孝行してあげられぬまま逝ってしまった。 帰って来た身体はやせ細って、石の様に冷たくなったおばあちゃんの顔を撫でながら、枕元で毎晩独りで泣いた。 何もしてあげられなくてゴメン。もっと会いに行かなくてゴメン。ただ謝ることしか出来なかった。 「おばあちゃんは幸せだったかな?」 「何か言いたかったことあったかな?」 葬儀が済んだ夜、家族でおばあちゃんの話をした。 遺影を見てもまだ実感がなくて、元気だったころのおばあちゃんが帰って来る様な気がして… 何も出来なかった自分が言うのもあれだけど、おじいちゃん、おばあちゃんが元気な人は いっぱい優しくしてあげて欲しい。 どれだけ優しくしても、「もっとこうしてあげらば良かった」という想いって残るから 悔いは少しでも少なくて済むように。 自分もこれからの人生、見つめ直します。天国で安心して貰えるように。
506 :
大人になった名無しさん :2009/11/11(水) 06:34:55
じいちゃんには釣りを教えてもらった。 って言っても、じいちゃんは鮎釣りで俺は雑魚釣りだけどw 和歌山の綺麗な川で、一緒に石に巣作ってる虫を取って餌にする。 後は流して、浮きが沈んだら竿を上げる。 家に帰ったらそれをばあちゃんが天ぷらにしてくれて、美味しかった。 ばあちゃんは、俺と弟が喜ぶならって、 サワガニを取りに沢に降りたりしてくれた。辛いだろうに。 川でメダカを取りたい時は、タオルを沈めて川底を蹴って水を濁らせると良いって教わった。 そしたら不思議とメダカが集まってくるから、タオルを上げるだけ。 一番好きなのはじいちゃんばあちゃんと畑に行くこと。 じいちゃん運転、ばあちゃん助手席、俺と弟が荷台に乗って山を登ってく。 さつまいもとかじゃがいも掘ったり、ナスとかトマトをハサミで切って収穫したり、 重たいスイカを抱えたり。秋冬はみかん。 蛇、狸、猪に驚いたりもしたw 夜も好きだった。 じいばあと従姉妹達と花火をしたり、肝試ししたり、夜の散歩したり。 花火大会があれば屋上で蚊取り線香焚いて皆で見た。 山を登って沢に蛍も見に行った。綺麗なんだこれが。 じいちゃんはせっかちで、ばあちゃんはのんびりしてた。 いつも俺の憧れの夫婦だった。
507 :
大人になった名無しさん :2009/11/22(日) 23:14:29
田舎のじいちゃんばあちゃんの家に行く時早く会いたくて駅出た瞬間一人で走りだしたなぁ そしたら「おんや?○○一人で来たのか?わはは」みたいな感じに言ってたw
508 :
大人になった名無しさん :2009/11/26(木) 15:49:57
毎日夕食後に 「戦時中は……」「俺の若い頃は……」で始まる じいちゃんの愚痴と説教を正座で聞かされるのがうちの伝統だった。 それを叩き潰したのが俺の母(父の後妻で継母なんだが、母で通す)。 当時小学生だった俺の授業参観に来て、 先生がいいことを言ったと喜んでいた。 で、その日の夜もじいちゃんが 「戦時中は……」と始めようとしたのを遮って、やっちまった。 「で、勝ったんですか?負けたんですか?」 「これを正確に答える戦前生まれの日本人は存在しない」というのが 先生の教え。 もちろんじいちゃんも答えられず、その日はそのままお開き。 翌日以降も「で、勝敗は?」と聞かれても返事ができない日が続いたが、 ついにキレたじいちゃんが手をあげると、母は即通報。 やってきた若い警官に正直に事情を話すと、呆れた表情で 「おじいちゃん、戦争はとっくに終わってるんですよ?」 ますますキレたじいちゃんは、 その警官にも暴力を振るって現行犯逮捕された。
509 :
大人になった名無しさん :2009/12/04(金) 22:12:18
つい最近無くなったじいちゃんへ 今からちょうど7、8年前、じいちゃんが 病院で寝たきりの状態になっていた時、 家族一同で会いに行き、終始和やかなムードの中 じいちゃんの嬉しそうな笑顔は今も忘れない。 そして『また、病院にいくからね』と約束して その病院を去った。 しかし、あれから一度も会いに行けず、とうとう 死んでしまった。 実は、あれからずーと、仕事がうまくいかず ニートと転職の繰り返しで(今もニートです) 恥ずかしくて、会わす顔がなくて 会いに行く勇気が無かったよ。今となって、俺は なんて白状で自分勝手な人間だったんだろうと、 自責の念が募るばかり...。じいちゃんに じいちゃんに こんな姿 見られるのが 辛かったんだ 小さい時から 可愛がってくれた よくせみを取って遊んでくれたね 俺が良い大学に受かったときも 喜んでくれた 親孝行で安心できる子とまで いってくれた だから その期待に応えたかった いや 裏切りたくなかった 勉強しか出来ない出来損ないのクズだった じいちゃんの 思っているような 人間になりたかった 愚痴っても じいちゃんが悲しむだけだから やめておく じいちゃん ごめんよ そして これから 頑張って じいちゃんの孫として 恥ずかしくない 立派な人になるよ そして いつか じいちゃんみたいに 死ぬ前に多くの人が 泣いてくれる 人望のある 人間になるよ だから 温かく 見守って下さい 安らかに...。
じいじ
511 :
大人になった名無しさん :2009/12/14(月) 12:52:36
o
512 :
大人になった名無しさん :2009/12/14(月) 13:54:26
シャイでエッチなおじいちゃん。 いつもは大人しいのに酒を飲むと色んな悪戯をしてくる。 おばあちゃんの財布からお金を盗って、それを孫の私たちの小遣いにしていたり、 しようとして怒られたり、仮眠を取ってた長男のお嫁さんを起こすよう、おばあちゃんに 言いつけられ、しぶしぶ部屋に行ったついでに嫁さんのお尻を枕に自分も寝ていたり、 更にカンカンに怒っている嫁さんをいなすかのように「まあまあ」となだめながら、 そっと手でお尻をタッチ。(これにはみんな笑ってしまいました) 困り者でみんなに怒られてばかりだけれど、照れ笑いする姿に怒ることもできず。 でもおばあちゃんが肝臓の病気で入院したときは一日中付き添ったり、 親がいない時、ご飯を作ってくれたり、孫である私たちの宿題を見てくれたりと おばあちゃんと孫のことをいつも気に掛けてくれる優しい部分もあり、おばあちゃんも おじいちゃんのことが大好きだったようです。 そんなおじいちゃんの75歳の誕生日におじいちゃんの知り合いを呼んでみんなで歌を歌って 祝福してあげました。 「うちのおじいちゃん、元気なおじいちゃん いつも無言だけど、酒を飲ますと、元気なおじいちゃん 夜中におきて、こっそり時計をいじって、迷惑なおじいちゃん おばあちゃんの財布から、お金を取って、お菓子を買ってくれた お茶目なおじいちゃん。 お嫁さんの寝室にしのびこんで、お尻を嗅いでた、助平なおじいちゃん 怒った嫁さんのお尻をさわって、さわってやっつけろ だけど優しくて、憎めないじいちゃん ありがとう、いつまでも元気に、おじいちゃん」 最初はおばあちゃんと私たちだけで歌ってたものの繰り返すうちにみんな も入ってくれ、おじいちゃんもそれにあわせて踊りだす 悪戯は元気の源。おじいちゃんを見ているとそんな感じがして仕方がない。 「頑張れおじいちゃん」
数年前に亡くなったじいちゃん 酒が好きでいつも旨そうに飲んでた。で、飲むといつも戦時中の思い出を自分に聞かせてくれた 後数ヶ月で自分も一緒に酒が飲める年齢になるなって話してた。一緒にビヤガーデンとかに行こうって話してた そんな矢先、ぶっ倒れてそのまま病院で亡くなった。葬式は自分の二十歳の誕生日 二十歳になった瞬間、葬儀屋の近くのコンビニで二つ買ったワンカップを開けて棺の前で酒を飲んだ 正直その時の酒はじいちゃんが飲んでたように旨くは感じなかった 今自分は就職して、付き合いや憂さ晴らしでしか酒を飲まない。じいちゃんみたいに旨そうに飲むことができない 昨日久しぶりの休みで、仏壇の前で酒を飲んでそのまま寝た 夢にでてきたじいちゃんは少し寂しそうな顔で何も言わずに自分を見てた。何か自分が情けなくなった いつか自分もじいちゃんみたいに楽しく旨い酒飲みたい。で、夢の中のじいちゃんと笑って話したい
今年亡くなったおばあちゃん 私が高校生になるころに肺がんになってしまった。 手術、退院の繰り返しだったのだけどお見舞いに行くと元気そうで 家の猫の様子ばかり気にしていた。 妹も成人して二人暮らししようと話すと、心配だから私も!って。 敷金・礼金・家電製品にお小遣いを「おじいちゃんには内緒ね」なんて 出してくれて、感謝してもしきれない。 肺がんは何回か転移して手術を繰り返してたけど、お見舞い・家に遊びに行くとずっと元気そうに喋っていた。 それから彼氏と同棲しだしてからも頻繁に連絡しあい、 毎年クリスマスと誕生日には手紙付きのカードを貰ってた。 もともと物心つく前に、離婚した母親についてきておばあちゃんちに居候。 ほとんど休みなく働いていた母だったので、おばあちゃんは母親代わりだった。 彼氏と結婚するときになって、再婚した父親に反対されて、 こっそり入籍(母と妹には連絡している)。 その頃、おばあちゃんの体と調子とともに精神的にも暗くなってきた。 何を言っても「私はもうすぐ死ぬから、病気になった私の気持ちなんかわからない」 と叔母たちに愚痴などをこぼすようになったと聞いた。 そんなおばあちゃんに会うのが怖かったけど、夫とともに お見舞いに行った。たくさんのチューブが繋がれていた。 今にも消えそうな声で起き上がり、初めは少し暗かったが 夫を紹介すると涙しながら 「この子は父親がいなくて、父親がまだわからないかもしれない。 でもいい人が見つかって本当に良かった。幸せになってね。 ひ孫が生まれるまで頑張ろうかな」 と。二人で大泣きしてしまい。夫はとても困ってたけどw それからおばあちゃんが何も喋らなくなったのは1週間後。 亡くなったのは2日後だった。 毎月、旦那とお墓参りに行ってるよ!妹とも! いつになるかわからないけど、子供が産まれたら報告しに行くからね。 「私死んだら、化けて出るわよ!」って言ってたwから どこかで見てくれればいいな。
515 :
たまきはる過敏性大腸症候群 :2010/02/17(水) 16:06:56
英語の教師が家に電話したら お婆さんも心配しとったぞ と行った時に涙を抑えきれなかった 結局 高校で 教師 生徒 養護教諭 四面楚歌 すべてが敵 だけど自殺はしなかった お婆ちゃんがいたから 何とか通った 単位を貰った 岐阜県大垣市の みくび神社まで 行って貰った 本当は自分で行かないと わざと内科医がIBSを隠していた それを見抜けなかった 自分で図書館に行けなかった 腹を治せなかった クラスの先生に遠足のバス酔いみたいに 理解して貰うように医学的な知識が無かった 4階で離れた校舎で頻便を笑われても何も反論が出来なかった ナースの勉強を調べて IBSを先生に言う事が出来なかった お婆ちゃんの霊が行く所に行ってくれないのは 自分が悪い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 過敏性大腸症候群で お婆ちゃんに心配掛けてまった でも金を出せと言われた時は交番まで走り切ったよ 相手は青ざめて去って行ったよ 後は特に頑張らんかった
516 :
大人になった名無しさん :2010/02/18(木) 20:33:08
いま80歳くらいなのに美人のうちのおばあちゃん。 今日知ったんだが、ばあちゃんは18歳の女子高生の時に、じいちゃん一家に半ば無理矢理結婚させられたらしい。 理由は、じいちゃんがばあちゃんにベタ惚れで、高校卒業まで待てなかったからwww 当時じいちゃんは機関車の運転手で21歳。 しかも、じいちゃんのお母さん(私からみて曾祖母)が一緒に学校へやってきて 曾祖母「(ばあちゃんを)娘にもろていきますんで、学校辞めさしてもらいますわ。」 と先生に言って、ばあちゃんを退学させたとかwww 今そんなことをしたらDQNだと叩かれると思うが、今も二人とも健在で幸せそうだから羨ましい。 ばあちゃんは学校辞めてからも、家事を完璧にこなしながら(料理うまい。整理整頓が完璧。家は隅々までピカピカ)、仕事(幼稚園や小学校の食堂料理人やアパレル販売)もやったりと自由に生きてた。 尊敬する。
517 :
大人になった名無しさん :2010/05/08(土) 14:41:36
test
518 :
大人になった名無しさん :2010/05/13(木) 19:10:59
小学校の頃に亡くなった爺ちゃん じいちゃんはすごいパワフルで、出かける時はいつもバイクを乗り回してた。 姿勢もまっすぐで、叩かれるとかなり痛かった。 ちょっと厳しかったけど、すごく優しい爺ちゃんだった。 1月の朝、学校に行く時、爺ちゃんはいつも通りに木魚を叩いていた。 私はめんどくさくて、いつもは言う「いってきます」を、なぜかその日は言わなかった。 学校から帰ると家が騒がしくて、婆ちゃんに理由を聞いたら 「爺ちゃんが心筋梗塞で死んだ」 その言葉を聞いて、凄くビックリした。信じられなかった。 部屋にこもって声をあげて泣いた。後でお姉も部屋にきて泣いてた。 布団に横になってた爺ちゃんは、すごく穏やかな顔で、眠ってるみたいだった。 死んだなんて嘘なんじゃないかと思って顔を触ると冷たくて、 やっぱり死んでるんだと実感させられた。 その時当時2歳の妹が爺ちゃんを見て 「爺ちゃんバイバイしてる。」と言った。 その言葉を聞いて、よくわかんないけど涙がボロボロでた。 爺ちゃん大好きです。
519 :
大人になった名無しさん :2010/05/15(土) 06:21:17
お祖母ちゃんが危篤になり、親戚一同病室に集まっていた。 気づくと、さっきまでいたお祖父ちゃんが居ない! 皆で探して、見つかった場所は自宅。 「婆さんが元気になったらば、皆さ、退院祝いで赤飯つぐんねばなんねがら家さ帰って小豆研いで準備してだぁ」 祖母はその後位まもなく亡くなった。 祖父は、その日から、息子の顔も孫の顔もわからなくなった。 ところかまわず、おしっこしたり、真夜中にわめきだしたり。 そして、数年後、お祖母ちゃんの待つ場所に旅立って行った。 今は天国で、幸せにくらしていると思う。
じいさん あの世は寂しいか? 先に死んだ友達とか家族とかいるだろうか。 ごめんな。 死んだときにそう思ったよ。 人付き合いが下手で、頑固で、酒を飲まなきゃ言いたいことも言えない。 そのくせ寂しがりで、誰かに傍にいてほしかった。 俺に似ていて、大嫌いだった。 お袋に愚痴を言うことも、親父と喧嘩するのも嫌いだった。 高校を辞めて家にいた俺が作った飯を「母さんのより旨い」と言ってくれた。 お袋への嫌味にしか聞こえなかった、何でだろ。 夜中に寝ぼけて叫び声を上げ、酔っ払っては立てなくなり、トイレがうまく出来ず床を汚す。 そしてその始末を俺がやっていた。 本当に早く死んでくれと思っていた。 でも本当に死んだらそんなことも思う必要がなくなった。 死んでいく枕元でごめん、としか言えなかった。 思えばここ数年貴方が笑った顔を見たことがあっただろうか。 もっと笑わせてあげれば良かった。 飯を褒めてくれて有り難うと言えば良かった。 じいさん、貴方が死んでもう直ぐ一年です。
521 :
大人になった名無しさん :2010/09/14(火) 01:19:39
上げ
522 :
大人になった名無しさん :2010/09/25(土) 17:29:12
ちょwじいちゃんの若い頃の写真イケメンすぎワロタwww
523 :
たまきはる不思議17人4名 :2010/11/01(月) 11:48:12
新婚さん いらっしゃい 間違えーへんもん 毎回 見るの 日曜なのに 部屋で寝る事が出来ないの その時間帯 公園に居たりとか 放送の会話が嫌なの!!!!!!!!!
524 :
大人になった名無しさん :2010/11/01(月) 17:45:25
小学生の頃、たまに福島から遊びに来てくれた。一緒にご飯食べたり、お風呂入ったり楽しかった。
525 :
大人になった名無しさん :2010/11/10(水) 11:41:54
私は父方の祖父母と薄っぺらいベニヤみたいな板でできたドアひとつで同居してたが、おじいさんとの言葉のやり取りひとつさえ記憶にない…だから葬式でも泣けなかった
高校の時、祖父が肝臓癌で自宅で寝ていた。私はレッド・ツェッペリンやイエス、キッスなどを大音響で自室(二階)でかけてた。それほど祖父に関心、愛情、同情なかった。父方の祖父母は近所でも「孫に愛情ない」と評判だった
じいちゃんが他界して数年立つけどもっと沢山話しとけばよかったと 今になって思うようになった。 一緒に住んでたわけじゃないからたまに合うと照れちゃって上手く話せなかったんだよなぁ それだけが後悔だ、ばあちゃんは生きてるけどやっぱ照れちゃってあまり話せてないなあ 後悔しないように電話でもしてみようかな。
528 :
大人になった名無しさん :2010/11/30(火) 22:39:25
おばあちゃんと話してたほうがええよ
思い切っておばあちゃんに電話してみたよ。 こっちから電話したのなんて初めてだから本当に喜んでくれてた。 普段無口な孫なのにあんなに喜んでくれるんならもっと早く電話すればよかったなあ こちもうれしくて電話切った後少し泣いてしまいました。
父方の祖父の臨終に立ち会えなかったのが今でも悔やまれる。 家族と5年ぶりに母方の祖父母に会いに行き、二日目の晩に危篤だと ショートステイ先から連絡があった。その日が丁度祖父の誕生日だった。 途中サービスエリアで電話したら息を引き取ったと言われ、初めて父の 泣くところを見た。運転も出来なくて母が代わりに8時間自宅まで運転し、 やっと祖父と対面した。不思議なくらい涙も出なくていつの間にか葬儀も終わり、 小さな箱に入って帰ってきた祖父を見て、そこでやっともう会えないんだと気付いて 大泣きした。この間13回忌が終わった。今でも夜中に高速を走ると思い出して 泣いてしまいます。じいちゃん最期にありがとうっていいたかった。 身体自分で動かせなくて辛かったのに何もできなくてごめんなさい。 今私は介護の仕事をしてます。じいちゃんに何もできなかった分、他のお宅の 大事なじいちゃんとばあちゃんの手助けができるよう頑張ってるよ。 どこかから見ててくれてるといいな。
531 :
大人になった名無しさん :2010/12/28(火) 16:52:47
今日、母方のおばあちゃんの命日だ。 実家の大掃除を手伝いに行ったら(本当は飯狙いに)。 ひょんなことから棚から商品券やビール券、お米券が出てきた。 んで、母親にもらったが、これはおばあちゃんからのお小遣いかなぁと思ってビールを買った。 ありがたく大事に飲みます。 来年は頑張ります。
532 :
大人になった名無しさん :2011/01/02(日) 01:10:06
明治時代のミッションスクールでアメリカ人と一緒に育った婆様。 某藩家老の家系。 大学生になるまで英語の発音を直された。 日英同盟を皮肉った替え歌を教わった、 最期の時にうわ言を言ったが、入れ歯を全部外してあったので、 ただ一語 "myself" しか聴き取れなかった。 ハイカラだったんだ・・・
自分の仕事の関係で、母方の祖母(祖父は既に他界)に年に3回くらいしか会えなくなったのが4年前。 ある時、「おばあちゃんに手紙を書くよ」と言い、週に1〜3回くらい、ハガキを書くようになった。 両親や親戚によれば、おばあちゃんは私からのハガキを楽しみにしてくれていたそうだ。 おばあちゃんに会いに行くと、束になった私からのハガキを見せてくれた。 昨年6月のある土曜日、渋谷郵便局でハガキ200枚(未開封)を購入。おばあちゃんに出すためのハガキ。 次の週に、おばあちゃんが亡くなった。 最後におばあちゃんに出したハガキは、おばあちゃんが亡くなる前に届いたが、おばあちゃんは読める状況ではなかった。 おばあちゃんの棺桶に、私からの最後のハガキを入れ、火葬した。 涙が止まらなかった。 ハガキ200枚(未開封)は、購入してから半年たつが、いまだに開封していない。
534 :
大人になった名無しさん :2011/03/10(木) 23:20:13.70
お爺さん、本当に優しかったなぁ 離れて暮らすようになって、時々帰るとヨロヨロなのに果物やら何やら色々買ってきてくれた 散々甘やかしてもらって、本当に幸せな孫だったよ ただ、もう少し待ってくれたらひ孫が産まれたのにな 遅くなってごめんね 赤ちゃん抱いて欲しかったよ
うちの爺ちゃんは将棋のルールを間違って覚えとったなあ 「歩兵で王手をかけることはできない」って 違うで爺ちゃん… 持ち駒から歩兵を打って詰ませたらあかんだけや… もともと出とる歩兵の前に王が逃げたってあんたの負けは変わらんのやで…
536 :
大人になった名無しさん :2011/03/24(木) 01:16:06.15
どれもこれも泣けてくるよ。。 もっと孝行すればよかったって激しく後悔orz
537 :
大人になった名無しさん :2011/03/25(金) 02:16:05.82
一人暮らししてたときのこと。今もだけど 当時、初めて親元を離れて一人暮らししたもんだから親とかばあちゃんが心配して電話よこすんだ。 しかし、まぁ面倒なんで軽くあしらってた。あ〜はいはい的な感じで。 特にばあちゃんは俺が唯一の孫息子(?)ってだけあってめっちゃ可愛がってくれたと思う。しょっちゅう電話きた。 そんなとき夢を見た。 ばあちゃんがいるんだ。どんな夢かは覚えてない。ただばあちゃんが出てきて、目が覚めたら無性に悲しかった。寝てる間に涙も出てたと思う。 起きたあと、めっちゃ不安になって、もしかしたらと思って急いでばあちゃんに電話した。 案の定ピンピンしてました。親戚が来て世話が大変だとぼやいてた。 そして今もばあちゃんは元気です。定期的に連絡入れないと文句いいながら家にやって来ます。 ばあちゃん、長生きしてくれ。まとまった金入ったら旅行連れてくよ
538 :
大人になった名無しさん :2011/04/20(水) 01:27:58.55
本日おばあちゃんの葬式が終わりました 今でもまだ実家に帰れば温かなおばあちゃんの胸にとびこんでいけるんじゃないかと,笑顔が見れるんじゃないかと馬鹿な期待をしてしまう… いつも120%の愛情で私達を包んでくれたおばあちゃん。 ありがとう! そして入院中あまりいけなくてごめんね 植物状態になってるお祖母ちゃを見るのが辛かったんだ 自分勝手な孫でごめん また会えると信じています
539 :
大人になった名無しさん :2011/04/21(木) 01:12:58.52
じいちゃん、関東大震災(@大正12年)では帰宅難民。 日本橋から上野まで歩いて帰ったそうだ。 あまり変っていないな。
540 :
大人になった名無しさん :2011/06/20(月) 01:40:11.50
母方の祖父が死んで2ヶ月と20日くらい まだ辛い もう居ないのが悲しい こんなずっと考えていてもどうにかなるわけじゃないけど 今日、親戚からもらったパジャマが祖父の家と同じ匂いがして いまそれに包まれて寝てる 少し甘いような萎びたような、落ち着く匂い 生きてたら、もっと勉学に励みなさいと言ってくれるかな? もう日付が変わっちゃったけど、父の日、おめでとう。
541 :
大人になった名無しさん :2011/06/20(月) 03:00:34.77
なんかすごい名スレっぽいね。 今日初めて発見したけど。 のび太のおばあちゃん並に泣きそう。 今度じっくり拝読します。
じいちゃん、49日過ぎたから、もう浄土に行ったよね。 俺はまだ泣いてばかりです。ごめん。 最期間に合わなくてごめんね。 もっと脚さすってあげればよかった。 優しいじいちゃんの顔が浮かんできて、さみしいよ。 じいちゃん、大好きだよ。 泣き止まなきゃね。俺が泣いてたら供養になんないよね。 がんばります。
ここ数年、おばあちゃんが段々愚痴っぽくなってきました。私はおじいちゃんの事も好きだから、おじいちゃんの愚痴を聞かされるのが嫌で、最近はあまりおばあちゃんと話さずおじいちゃんと一緒にいる事が多くなっていました。 今日たまたまここを見つけてみてたら、ずっと可愛がってくれてたおばあちゃんとのいろんなことがたくさん思い出されて涙がとまらなくなりました。 子供の頃文房具屋さんでシールをたくさん買ってもらったこと、いつも可愛い洋服や靴をプレゼントしてくれたこと、おばあちゃんと一緒に料理をしたこと… 美人でお洒落で、大正生まれだけどピアスをしていて、私がピアスをあけたら、自分の宝石箱から素敵なピアスをたくさんプレゼントしてくれました。 ずっとやさしくされすぎて、いつのまにか可愛いがってもらうのが当たり前になってました。 同じ事何回もきかれても愚痴っぽくても良いから、まだおばあちゃんと話ができるうちにたくさん話そうと思います。 私をどれほど大切に思ってくれてるか、おばあちゃんが生きてるうちに気づけてよかったです。
544 :
大人になった名無しさん :2011/08/31(水) 00:45:42.09
生きてるときに、もっとやさしく接してあげれば良かった何年も後悔してる トイレの神様聴くと必ず泣いてしまう
545 :
大人になった名無しさん :2011/09/07(水) 13:18:42.26
祖母さんが後妻で俺とは血縁が無いが俺は小さい時は全く気にならなかったのだが。 小学生の時、土曜の夕方祖父さんが泊まりに来いと迎えに来た、喜んで行ったが祖母さんは聞いていなかった様子、 俺は夕飯もテンションが上がり何度もお代わりをし飯が空になった、祖母さんが 「私の分が無くなった、勝手に他人の家に来て遠慮もしないで図々しい、あー迷惑だ!!」 大ショック受けた。 祖父さんは祖母さんを怒鳴りつけて怒っていたが、俺は酷い罪悪感 以来トラウマになりよその家で飯が食えなくなった。
おばあちゃんは車に引かれても普通に立ち上がったり真冬の夜に裸で外出られるくらい人間超越した存在。 いつもお使い頼むとき2000円くれる。 ほんとは500円で済むのに、好きなもの買えと言って多めにくれる。 そしてやった今日も儲かった!と喜ぶ私。 イチジクはあったけどスイカが無かった。 帰ってお風呂に入ってるおばあちゃんにドア越しに話しかける。 "スイカは無かったよー。明日また行くー。" "そーか。そーか。そらゃええわ!な。サンクスです。あぁーいたたー。あぁーあかん" いつもの口癖の"あぁーいたたー。" でもなんか気になって、"大丈夫?手貸そうか?" "まぁーえーわえーわ。まぁえーわ。サンクスです。あーいたた。" いつものことだからと、リビングに戻る。 1時間くらい経って、外出するから支度のために洗面台に行った。 いつものようにお風呂のドアは空いてた。 でも、お湯が、ぴちゃぴちゃぴちゃ、とお風呂からあふれてた。 あぁーまたおばあちゃんはもー。と、おばあちゃん!!って注意しようとお風呂を覗いたら、おばあちゃんが、倒れてた。 え?なんか訳わかんなくて、何?ドッキリなの?ってまぬけなこと言ったけど、なぜか心臓バクバク。 それからあんまり覚えてないけど、119押して、大人がたくさんきておばあちゃんにいろいろコード繋げて、口に何がつけて、口からいろいろ出てきて、おばあちゃんバスタオル一枚と一緒に運ばれていった。 救急車だおばあちゃんはマスクをつけて呼吸してた。 自分から呼吸してる。大丈夫だ。 おばあちゃんは大丈夫だ。きっと。 けど、先生は、脳出血を起こした。生きてても、意識は戻らない。植物人間。って言った。 えっ?じゃあもう話せないの?歩けないの?え?イチジクはどうするの? えっ?えっ?えっ? 呆然と帰宅なう。 明日スイカは買ったほうがいいの?
| | | |__| .::|______ | |:| |:|:| |:| | | |/´ └‐┘ | |:| |:|:| |:| | | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |:|_______,|:|:|_______,|:| | |,.' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|_|───────┴───────|_ / ̄ -O-(~)- ぴったりだねぇ。 (|_|_|_|_|_|) o アリガトウ! ( ゙^ω){i:i:i:i:i:i} ∬―‐―‐-.、 (:::::::つと)(´∀`*) (´旦 ) と__)_) ゜し-J゜ [i=======i] o o __ | o | {i:i:i:i:i:i} | ∴ (・ω・` ) おばあちゃん・・・ ──┐ ∀ (∩∩::::)
548 :
大人になった名無しさん :2011/09/22(木) 20:40:33.44
大好きなおばあちゃんがいきなり入院した。 母「腸の病気で手術したら退院できるから」 安心した。 それからはおばあちゃんとたくさん出掛けた。 そして一年くらい経っておばあちゃんがまた入院した。けれどなぜかすぐに退院。 ある日両親に呼ばれた。 父「おばあちゃんね、体中癌だらけでね、余命一ヶ月なんだ。本当は一年前から知ってたけどお前には言えなかった。」 私「…」 辛くて辛くていっぱい泣いた。 でもおばあちゃんに会うときはいつも笑顔でいた。 そしたら奇跡的に少し体調も良くなって3ヶ月経ったところで、おばあちゃんが可愛がってた飼い猫が車に引かれた。 それから一ヶ月して、すでに寝たきりのおばあちゃんとその猫の話になった。 祖母「モカちゃん(猫)が死んだのはいつだったっけ?一週間くらい経ったかねぇ」 私「もう一ヶ月近く経ったよ。時間って早いねぇ」 祖母「そんなに経っただねぇ。おばあちゃんはあと一ヶ月も生きれるかやぁ。」 その瞬間涙が溢れた。 おばあちゃんの弱音なんて聞いたことなかった。 でも私は「何言ってるだね。生きれるに決まってるじゃん。」って笑って言った。 目もあんまし見えてなかったみたいだから気付いてないはずたけど、正直私の声震えてた苦笑 もちろんおばあちゃんが眠ってから部屋で号泣した。
ばあちゃんは、小学生の頃交通事故で急逝した。 その頃、俺はお菓子作りにはまってて(女子みたいだろw)、チョコレートムースは自信作だった。 何度か家族に振る舞い、好評だった。特にばあちゃんは、「また作ってね」と何度も言ってくれた。 何故かそれが小っ恥ずかしく思え、俺がチョコレートムースを作ることはなくなった。 ばあちゃんがあんなにすぐに逝ってしまうなんて。 恥ずかしがらずに作ってあげれば良かったとずっと後悔してる。 今度、帰省したら、チョコレートムースを作って仏前に供えたい。と思った。
550 :
549 :2011/10/01(土) 21:48:07.77
連投スマソ。 ひいばあちゃんは、それから程なくして痴呆状態となり、母親がかいがいしく看護していた。 それから6年後、眠るようにこの世を去った。 家族の名前は忘れてしまったが、90を越え、幸せな最後だったといえるだろう。 だが、彼女の半生はけして平穏なものではなかった。 夫(ひいじいちゃん、俺の生まれる前に他界)をシベリア出兵に送り出し、 息子(じいちゃん)を太平洋戦争に送り出した。 幸運にも2人とも生きて帰ってきたが、特にも抑留生活を送った息子を待ちわびる思いは格別であっただろう。 俺は小学生の頃からゼロ戦に興味を持った。 いつだったか、夕食のテーブルで得意げに戦争について語る俺がいた。 ひいばあちゃんはただ一言。「戦争なんてこりごりだ」 年端もいかぬ俺だったが、どんな反戦教育よりも心に沁みた。 最期は自宅で眠るように息を引き取ったひいばあちゃん。 骨と皮ばかりになり、「こんなにも頑張って生きてきたんだ」と思った俺は、家族で一番に「本当に良く頑張ったね」と伝えることが出来た。 若造が偉そうに、とも思ったけど。諸事情でひいばあちゃんの最期に立ち会えたのは俺だけだったから。
551 :
549 :2011/10/01(土) 22:45:45.05
これが最後の連投です。 就職が内定し、修士論文のとりまとめと追加実験に追われていた頃。 その日はなぜか、いつもと違い夕方から深夜にかけて研究室にいた。 突然、携帯が鳴った。母からだった。 じいちゃんが逝去したと。 その年の正月に帰省した際、入院先の病院を見舞った私は、おそらくそう永くないことを感じていた。 それでも、その日妙な時間帯に実験していたことは虫の知らせというやつか。 東京の弟に連絡をとり、夜行バスを手配し、徹夜のままやりかけの調査を済ませ、バスに飛び乗った。 バスの中では、悲しみより、じいちゃんとの楽しい思い出が去来していた。 生涯の趣味となる釣りを教えてくれた。 理科や数学を教えてくれた(戦後は教員) エコーを愛していた。 日曜大工が得意だった。 工業学校を出た祖父は、戦前、東芝に就職するも、大東亜戦争(※)の勃発で応召。工学の技術を買われ工兵隊としてソ満国境の陣地構築に当たるも、志願して士官養成過程を経て少尉に任官。得撫(ウルップ)島守備隊の小隊長となった。 幸い戦火を交えることなく終戦を迎えるも、ソ連の侵攻により抑留され、得撫島、次いで樺太にて強制労働。帰国は昭和23年。 シベリアでなかっただけ幸運といえるかもしれない。しかし、戦中からの許婚は既に結婚していた。 ・・・というような辛い過去について、祖父はあまり語ろうとしなかった。 多くは、軍人会への寄稿文をこっそり読んだり、死後に親から聞いたものだ。 俺が興味を持ちそうな話(手榴弾で魚を獲っただとか、百式司偵を見たことがあるとか)ばかりしてくれた。 じいちゃんと過ごせて幸せだった。 ただ一つの心残りは、帰省してタバコをすってたら、「一本くれないか?」と言われたとき断ってしまったこと(当時、すでにタバコは止められていた)。 あの時、一本ぐらい吸っても大勢に影響はなかったろうに。 だから、棺桶には釣竿(木製で燃えるやつ)とセブンスターを入れてあげた。 じいちゃん。 おれはまだまだこっちで暮らすつもりです。 でも、いつかそっちに行ったら、一緒に一服しましょう。 じいちゃんの形見の灰皿、大切に使っています。
うちのばーちゃんは可愛い。 家族皆でご飯食べてた時の事。 (ワイワイガヤガヤ) ………………プゥ。 皆「!」 誰かが屁をこいた。 雑談してても聞こえるくらい大きな音だった。 皆「………。」 ばーちゃん「………/////」 皆「………………。」 ばーちゃん「……………………………………ブフッwww」 皆「!」 ばーちゃん「フッw(プッ)フッw(プッ)フッwww(プッ)」 自分の屁で自分でウケるばーちゃん。 笑った勢いで出まくる屁。 あんなに笑った夕飯は最初で最後だった。
553 :
大人になった名無しさん :2011/10/21(金) 23:44:05.52
おばあちゃんが握ってくれたお握りが食べたい。豪華な具もない、ただの塩味だけだったような気がするけど。 無駄に甘ーい金時豆も、今となっては食べられないと思うけど、おばあちゃん作なら、出された分は完食するよ。 キャベツとリンゴとチーズとたまごのサラダ、自分で作ってみたけど全然美味しくないよ。 帰らないでとあんなに泣き叫んだのに帰っちゃったけど、色々事情があったんだね。 従兄弟のHがある意味羨ましいよ、孫の中で一番早くおばちゃんのいるところへ行けたんだものね。 いつも見守ってくれていてありがとう。生まれてこのかた、ずっとだめだめな私だけど、なんとかここまで来てるのはおばあちゃんと連れ合いのおじいちゃんが見守ってくれているおかげだと思っている。 もう少しだけ頑張ってみるよ。それで本当にだめなら、おばあちゃんのところに行くよ。怒らないでね。
554 :
大人になった名無しさん :2011/11/29(火) 01:26:37.28
今日母方のおじいちゃんが緊急入院した。 意識が無く、もう意識が戻らないかもしれないと言われておじいちゃんとの思い出が急に溢れ出してきてやばい。 自分が2歳の時親が離婚。引き取った母は子供が嫌いでおじいちゃん達に世話して貰ってた。 授業参観も運動会もおじいちゃんが来てくれたし、 「お前たちには父親がいないから俺を父親だと思えばいい」とパパと呼ばせてくれた。 大人になってパパとは呼ばなくなったけど一生父親だと思ってる。 実はおじいちゃんも子供が苦手だったのだと大きくなっておばあちゃんに聞かされたけど そんなことも感じさせないくらい、いっぱい叱って、いっぱい可愛がってくれた。 ハンデを感じさせず、普通の家庭のように自分達を育ててくれたおじいちゃん感謝してもしきれない。 遊園地や動物園、色んなとこ連れて行ってくれたのも、誕生日に何軒も回ってプレゼントを探してくれたのも おじいちゃんだったなあと弟と話しながらお見舞いの帰りに大号泣した。 まだ恩も返せてないんだ。ねえ早く目を覚ましてよ おばあちゃん一人にさせないって言ったじゃないか。 まだ早いよ。
555 :
大人になった名無しさん :2011/11/29(火) 22:22:36.18
平成2年夏に亡くなった祖母。 それに至る「倒れ」に、私が早く気づいていれば・・・と悔やまれる。 当時、同じアパートの隣の部屋に祖母は居住していたのだが、 ある日の午後、物音がしないなぁ、寝ているのか、大丈夫かなぁ と思いつつ、放っておいた。 私の心に、どこか「倒れていたら嫌だ、それを見たくない」という気持ちがあったのは間違いない。 やがて、母が帰宅し、隣を覗いたら、やっぱり倒れていた。
軽トラのドアに指を挟まれました。 それで凄く謝ってた。 指は大丈夫でしたが、おじいちゃんは後に癌で死にました。 どうでもいいが俺はおじいちゃんが両方ハゲだった。 父親もそれで悩んでる。 俺に遺伝しない事を祈ろう。
母親代わりで私を育ててくれたおばあちゃん。 なのに痴呆症になったおばあちゃんの介護をわずか3年しか出来ませんでした。 私が病弱じゃなかったら出来たかと思うと自分の事が未だに許せません。 死ぬ間際迄私の将来を心配してくれてました。 おばあちゃんから沢山の愛情を貰ったのに返す事が出来ませんでした。 世界中でおばあちゃんが一番大好きだったのに。 ごめんね・・・ばぁば。
558 :
大人になった名無しさん :2012/04/11(水) 02:29:51.78
おじいちゃんが死んじゃった 私の世界で一番大切な人だった。 東京で就職すればよかった おじいちゃんともっと会いたい 会いたい
559 :
大人になった名無しさん :2012/04/11(水) 14:29:16.57
生きている状態の方がかわいそうだと最期は思ってしまった…。 ホント、人付き合いの少ない漏れとしては… 冷酷だったんかぁ…?? どうしようもないけどしかたない スレ汚しスマソ
560 :
大人になった名無しさん :2012/04/11(水) 23:07:28.84
延命治療のバカバカしさ 心臓に注射グサリ突き刺して 本人は苦痛の真っ只中なのに 親族の自己満足と気休めのためにたかだか数分 心臓の動き引き伸ばす愚かな行為 静かにやすらかに逝かせてあげようとか思わんのかね
父方の祖父母、母方の祖父はもう他界していて、唯一長生きだった母方の祖母 私は就職してからいつも、休日の前日に仕事が早く終わったときは、ほとんど祖母の家に行っていた 車で三時間の距離だったけどいっぱいおばあちゃんと過ごしたかった 90才当たりから段々記憶が曖昧になってきたみたいで、私の名前やら年やらはわからなかったみたいだけど(うちは親戚が多くて紛らわしいし)、 「誰だかわからないけど、元気そうだから誰でもいいんだ」と笑っていた 名前がわからなくても、孫だということはわかるみたいで会いにいくといつも私の手を握ってその手を頬に当てながら 「来てくれてありがとう」と言っていたおばあちゃん 私が帰る時はいつも「もう帰るのか?」と悲しそうな顔をした だからいつも「また来るからね」って言ってハグして別れるのが恒例だった おばあちゃんが亡くなって一週間 思い出が多すぎる おばあちゃんに会いたい話したい手を握りたい抱きしめたい 支離滅裂なチラ裏ごめん吐き出したかった
562 :
大人になった名無しさん :2012/04/29(日) 03:22:03.42
小学6年生の6月におじいちゃんが、8月におばあちゃんが亡くなった。 うちは両親が離婚し、母は遅くまで働いていたから、色んな面倒をおばあちゃんが見てくれていた おじいちゃんも昔職を転々していて、そこで身につけた技術らしいけどけっこう本格的なマジックをやってくれたりして、 毎日楽しませてくれた。 中でも印象深いのがおばあちゃんの手料理。 おばあちゃんのつくる料理はプロ並みにおいしかった。 ただ、そんな料理の中でもなぜかおばあちゃんのつくるハンバーグだけは口に合わなくて、 いつも「あんまり好きじゃない…」といって残してた だんだん年齢があがっていくにつれて、小さい頃はよく言ってたご飯を一口食べた後の「おいしい!」も ハンバーグに限らず言わなくなっていった。 そしてすぐにおじいちゃんの後を追うようにおばあちゃんは逝ってしまった お通夜や葬式で母や姉は泣きじゃくっていたけど、不思議とそのときは涙が出なかった 本当に悲しいときは涙がでないんものだって思った。(そのときは現実を受け入れられてなかっただけかもしれないけど) 次の日の夜から、私は狂ったように毎晩泣きじゃくった おばあちゃんにはごはんだけじゃなく、身の回りのことも何から何まで世話を焼いてもらっていたから それに対して、全然ありがとう言えてなかったなって思うと、涙が止まらなかった ご飯も、おいしいって言えばよかった。 毎日食べれるものだから、当たり前のことだからって言わなかったのをものすごく後悔した。 おばあちゃんのご飯が食べたい。 一緒におつかいにいって、今日は何にしようかなんて会話を、またしたいな。 今は私と母で交代制で夕飯を作ってるけど、 母の作るハンバーグはおばあちゃんの味によく似ていて、やっぱりあまり私の口には合わない。 でも、「おいしいね」って言葉は忘れずに言うようにしてる
563 :
大人になった名無しさん :2012/05/11(金) 12:27:20.64
俺の母方のおじいは沖縄戦でお袋が4歳のときに戦死していて俺は母方のおじいの顔は知らない。 お袋も覚えてないらしい。沖縄戦が終わった後、おばあが女手一つで子供四人を 育て、俺はいつも沖縄戦で亡くなったおじいのこと、そして戦争の悲惨さをよく聞かされていた。 そのおばあも俺の娘(おばあにとってひ孫)が誕生する前に亡くなった。 父方のおじい、おばあは石垣島に暮らしていて、子供の頃は夏休みに帰省し、漁師をしていた おじいの船に乗って釣りを教えてもらったり。
564 :
大人になった名無しさん :2012/05/11(金) 12:36:00.91
俺の母方のおじいは沖縄戦でお袋が4歳のときに戦死していて俺は母方のおじいの顔は知らない。 お袋も覚えてないらしい。沖縄戦が終わった後、おばあが女手一つで子供四人を 育て、俺はいつも沖縄戦で亡くなったおじいのこと、そして戦争の悲惨さをよく聞かされていた。 そのおばあも俺の娘(おばあにとってひ孫)が誕生する前に亡くなった。 父方のおじい、おばあは石垣島に暮らしていて、子供の頃は夏休みに帰省し、漁師をしていた おじいの船に乗って釣りを教えてもらったり、おじいは大酒飲みで三線を弾きながら泡盛を飲ん だりしていたのを覚えている。おばあは沖縄そばなどを作ってくれてとってもおいしかったのを覚えている。 おじいは俺が大学生のときに他界したが、おばあは健在。現在96歳で、腰などは曲がっているが、 元気でたまに帰省するときはいつも俺の娘たちをかわいがり、おいしい沖縄そばを作ってくれている。 おばあ、いつまでも長生きしてください。
565 :
大人になった名無しさん :2012/05/12(土) 14:55:17.03
核家族が羨ましい 年寄りは悪口ばっかり 人の人生破綻させる事まで平気で言う
天国にいるおじいちゃん、おばあちゃんをよろしくおねがいします。 今のこの命があるのはおじいちゃんおばあちゃんのおかげです。 存在に本当にすくわれました。逃げ場があってよかった。 おじいちゃんおばあちゃんの孫ということに恥じないよう これからは生きていきます。
昨日、おばあちゃんが意識が無くなって病院に運ばれた。 おばあちゃんが、いろいろ問題抱えてて、体も調子良くなくて・・・事情を知っていたけど 自分の事を優先してしまっている自分がいた。何度か、おばあちゃんからの電話も無視してしまった(泣) それでも、ずっと心配してた。毎日忘れる事なかった。 自分も持病を抱えてて、本当に体調が悪くて、手術も覚悟に入れてて、自分の事で精一杯だった。 ごめんなさい。許してください。 小さい時、私の面倒を良く看てくれたね。いっぱい手を焼かせちゃったね。でも、おばあちゃんがいたから助けられたこといっぱいあった。 きちんとお礼がいえなくてごめんなさい。 もう一度、話がしたい。ありがとうって言いたい。
ばーちゃんがオカメインコを飼い始めたのが5年ほど前。 当時ばーちゃんは75歳。オカメインコは10年以上生きるらしいので、 ばーちゃん最後まで面倒見れるかな?wとか当時は冗談半分で思ってたりしたけど 病気知らずでかなり健康な人だったし、ばーちゃんの母(俺の曾祖母)は100歳まで生きた人だったので 普通にオカメ看取るまでは元気でいるんだろうなと根拠もなく思ってたけど、先日亡くなった。 残されたオカメは父が引き取って育てることに。 不思議とあまり悲しい気持ちにはなってなくて、楽しかった時の思い出と感謝の気持ちの方が強い。
ゴメンネおかあちゃん いつだって会いに行けたはずなのに、そのうちそのうちと自分の都合を優先してしまった こんなに近くにいたのにね ごめん本当にごめん 自分のいい加減さに腹がたつ
親兄弟に虐待を受けて、「血縁」じゃなくて、「心」で家族と言えたのが 母方の祖母、ただ一人だったな。 ただ、俺が小学生に上がった時に痴呆症にかかって 俺が誰かも分からなくなった時は泣いたわ。 まあ色々あって、自暴自棄になりつつも、犯罪者にならなかったのは さっき書いたように「心」の面で、あの人が俺を支えてくれたからだわ。 おばあちゃんがいてくれてよかったよ。。
またこいよ、って言ってくれた8日後に行ってしまうなんて いつも不細工な私に かわいいよ って言ってくれた ぐずって泣いてる時は ◯◯、泣くなぁ って言ってくれた 出会った日からずっと、一番大好きだったよ。声、聞きたいよ… いつも居てくれるだけで感謝してたのに、それも伝えられなかった… 一番大好きなこと、伝わってるつもりでも伝わってなかったかも… 一日でも戻ってきてくれるなら、あなたに私の全てをあげてもいい。 一緒に行きたい、離れたくない、優しいおじいじいに会いたい 最初で最後、たった一人の私のおじいちゃん
居なくなって初めてわかる感覚…。 自分の中では母さんの次に大切な人だったな…。 10年くらい時が巻き戻れば、まだじいちゃん元気なのにな…。 5年前は認知症が発覚するちょっと前か…。 なんか辛くなってきた…。
小学校の夏休み 宿題で、お爺さんお婆さんに戦争の話を聞くってのがあった 俺は自転車をこいで話聞きにいった お爺さんは4回戦争に行って無事帰ってきた お爺さんの弟はフィリピンで19歳で死んだ 田舎の家で俺が戦争の話を聞きだすと 婆さんは西瓜と海苔巻きを出して あんた、学校は楽しいか、友達はおるかって訊いた 爺さんは畑のかぼちゃの話をしだした 結局防空頭巾も空襲も戦争も何も聞けなかった 爺さんも婆さんも孫に戦争の話をすることなく死んだ
爺さんが先に死んだ 俺が中学3年の時 いちご買って持って行った 美味そうに食った 寝たきりだったけど 死ぬ最後に食ったのは母が持っていったイチジクだった 10年寝たきりだった 死んでから写真を探した 戦友会でとったどっかの集合写真 58歳くらいの写真が出てきた 爺さんは戦後800円で家を建てたらしい
575 :
大人になった名無しさん :2012/11/15(木) 02:49:47.43
ここを読んでたらアルツハイマーになった祖父の話を生々しく思い出したので。 ちょっと長くなるし、若干スレ違いかもだけど、祖父との思い出なんで吐き出させてください。 祖父母と言うと私には母方しかいませんでした。父方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっていました。 父が長男だから勿論別居なんだけど、家は同じ県内にあって車で一時間以内の距離。 母は長女だし、私も二人姉弟の上の方だから、祖父母にとっては初孫。 しかも祖父母には私の母とその妹しか子供がいなくて、叔母(母妹、既婚)には未だ子供がいないので、孫がたった二人だけ。なので、正直な話、祖父母にはかなーーーーり甘やかされて育った。 祖父は日曜大工が得意で、シルバニアファミリーの玩具の家(市販と同じようなクオリティ)を作ってくれたり、和室にミニ四駆のコースを作ってくれたりして、私と弟(2つ下)と一緒に遊んだりした。 どちらかと言うと寡黙な祖父だけど、私達と遊んでくれる時はすごく優しかった覚えだけはある。 よく地元の本屋まで散歩てがら連れて行ってくれたり、本を読んだり、遊園地へ連れて行ってもらった。 あとあと聞けば、祖父は外出嫌いだったそう。でも、孫とならどこへでも行ってくれた。 株をやるくらいしっかりしていて、オシャレでしかも男前な、自慢のおじいちゃん。私の父は私服で仕事してたんで、祖父のスーツ姿がとってもかっこよくて本当に憧れていた。 けど、五年くらい前からかな。すっごくしっかりしていた祖父が、物を探したり、同じことを二回聞いたりし始めた。 よく覚えてるのは、私と弟が祖父母宅に遊びに行って2階の部屋で2人でゲームをしている時に突然ふらっとやってきて、「どうしたの」と尋ねても「何もない」って言ってすぐ下の居間に降りちゃったり。 「ちょっと」って呼ばれてついて行ったら「あれがないねん」と言いながら家中を探し回るのに付き合わされたり。「あれってなに?」と聞いても「あれはあれや」みたいな…途中で諦めて探すのやめるんだけどね。それが一時間に何回も起こるようになる。 家中全員が、嫌な予感がしていた。ううん、予感じゃないね、ほぼ確信だね。 でも、決定打が嫌で嫌で、引き伸ばしてた。主に祖母が。 でも、母(長女)と父(うちの祖父母には男の子がいなかったので割と信頼があり発言力も強かったりする)の説得で祖父を病院に連れていった。それが三年くらい前かな、私が大学へ入った頃。 結果、アルツハイマーでした。 その数年前に、祖父の職種が世間的に叩かれたことがあった。あの職業叩きがあったからだ、っていうのが我が家の結論。趣味も持ってなかったじーちゃんは、辛いことと一緒に色んなことを忘れてしまったように見えた。 祖父がアルツハイマーだって聞いた時はショックで仕方なかった。何ができるのかなって考えて、でも大したことはできないしで、週末にはできるだけ泊まりに行った。 結果、当然のことなんだけどアルツハイマーになっても祖父は祖父だった。 手を繋いで一緒に散歩に行けば、必ず車線側を歩いてくれる。正直言って私が祖父を車から守らなくちゃいけないのに、祖父は自然と私を守るように歩いてくれた。 祖母が地域の集まりとかで出かけ(割と頻繁だった)2人になると、一生懸命私の話を聞いてくれた。 気の利いた話ができなくて、サークルの話とかしょうもない笑い話ばっかりだったけど、一生懸命、首を縦に振って相槌を打ちながら聞いてくれた。 台所からバナナを持ってきて「これ、食べ」と言ってくれた。どんなにお腹いっぱいでもそのバナナは食べました。ご飯の後はキツかった……。
576 :
大人になった名無しさん :2012/11/15(木) 02:52:59.84
以下、ちょっと汚い話です。嫌な人は飛ばして。 そんなことが続く内に、祖父は排泄すら自分で出来なくなった。今から一年ちょっと前くらいかな。 汚い話になるけど、踏ん張ることができなくなるらしい。異物感はあるけど、出せないの。 あと、「排泄はトイレですること」っていう前提が吹っ飛んじゃってる。 だから、手で大便を掻き出して取っちゃうんだって。 勿論そんなことしたら駄目だから祖母とか母とかが必死になってトイレまで連れて行って世話をしていた。祖父はすげー抵抗するんだけどね。次第に、おむつをするようになった。 流石にその辺りの世話を孫にさせることは、祖母が難色を示しまくったので殆どしなかった。祖父のプライドにも関わるし。 …だけど、一回だけ祖母が長時間家を開けている時、もう祖父の状態も進行してたから私が留守番に行ったのね。 簡単に夕食作って、食事も綺麗にできなくなっていた祖父と2人でなんとか食べて、私が片付けをして台所から居間へと戻ったら、祖父がパンツを下げて指で大を掻き出しているところだった。 私は一瞬、本当にショックで固まったけど、すぐに祖父の手を引いてトイレまで連れて行きました。 「ごめんね、嫌だろうけどやらせてね、ごめんね」って言いながら。 大だらけになった指を洗って、アルコール消毒もして、お尻拭いて、おむつを変えて…って祖母達のを見よう見まねでやってた。 そしたら祖父がぽつりと「すまんのぉ」って。 泣きそうになったけどなんとか笑って「気にせんでええよー、家族やん」とか言ってた。全部綺麗にした後、祖父は居間でテレビ見てた。私は、台所に駆け込んで自宅の母に電話をかけた。 私が行った対処であってたのか分からなかったから確認って意味もあったんだけど、涙が出てきて止まらなかった。 昔は私をお風呂に入れてくれた祖父の用足しの世話をするんだ、って思うと、近い将来が見えて仕方なかったから、電話越しにめちゃくちゃ泣いた。母も泣いていた。
577 :
大人になった名無しさん :2012/11/15(木) 02:53:54.40
続き。 B 結局その一年後、つまり今年の春頃には祖父のアルツハイマーは益々酷くなっていて、専門の病院に入院しました。アルツハイマー発覚からそれまで通っていた病院とは違う病院。と言うのは、それまで通院していた病院に不信感を抱いたから。 私はと言えば祖父の入院後、程なくして資格の実習に入り、丸々一ヶ月祖父には会えなかった。弟は足繁く通っていたので、そっちから話を聞く程度。 で、ようやく実習も終わった次の日。前日までの怒涛の実習に疲れ果てていた私は昼頃になってやっと起き出したんだけど、父と母が起きた私を待っていた。かなり神妙な顔つきで。 何事?と思って、朝食兼昼食を取りながら話を聞きくと父の口から信じられない言葉が飛び出した。 祖父はアルツハイマーの他に癌を患っている、と。S状結腸癌という癌で、一年以上前から発症している。 口の辺りにも転移が見つかっていて、もう長くない。長くて盆くらいまでだと言われた、と。 本当は半月くらい前に医者から言われていたんだけど、私の実習中にそんなことを言ったら私が混乱してしまうから実習後にしよう、と父と母で祖母に伝えたそう。 その日一日、私は使い物にならなかった。バイトもボロボロ。 癌?癌ってあのよくドラマとかでやってる?なんで祖父が?つかなぜ今頃判明したの?盆っていつだよあと二ヶ月もないじゃんかよ。 そんな感じで頭の中がぐるぐる。 要するに、入院する前の病院で癌を発見することができなかったんですね。簡単に言うと誤診ってやつです。 ネットで調べてみたらアルツハイマーの人の癌って、早期発見は難しいんですね。アルツハイマーのおじいちゃん・おばあちゃんを持つ方は注意してあげてください。 自分の痛みを自分で上手く表現できないんです。私達家族は、誰一人として祖父のサインに気づいてあげられませんでした。 その後、私は大学の講義が無い日は絶対に祖父の病院へ行きました。祖母は毎日毎日、電車かタクシーで病院まで通っていたので。 食事介護を手伝ったり、ただテレビを一緒に見ながらたわいのない話をしたり。勿論私からしか話さないけど、祖父は私の目を見て話を聞いてくれました。 私が手を握ると一生懸命握り返してくれました。 時間が来て「帰るね」って言うと、手を掴んで離してくれませんでした。「またね」って言ったら、もう殆ど話せないのに「うん、うん」って言ってくれました。 その度、「おじいちゃんは頑張ってるんだから、泣いちゃいけない」って思ってたのに涙が溢れて仕方なかった。何度も祖父の前でぼろぼろ泣いた。祖父は不思議そうに私を見ていた。 主治医の先生はすごくいい人で、危なくなってきたら「○○さーん、よくなりましょうねー、奥さんに聞きましたよ。よくなったら有馬温泉、行くんでしょ?がんばりましょー」って、すごく親身になってくださった。 この言葉のせいで私多分、一生有馬温泉行けないけどね。 祖父はアルツハイマーだったけど、時々ふっと「あれ、何もかも分かってるんじゃないかな?」って感じる時があった。けど、その瞬間以外は何もわからない状態。時々、「なんでここにおるんや」ってごねてた祖父はかわいかった。 祖父は私の父が運転する車に乗るのが大好きで、入院する直前まで魚市場とか花の市とかホームセンターとか、祖父の好きな場所に色々行ってた。だから父や母もずっと「退院して、また色んなところに遊びに行こう」って言ってた。 男の子らしい不器用さを発揮しまくってた弟も、家族が誰も病室にいない時、祖父に優しく話しかけてた。 口の中に癌が転移してたし入れ歯を入れることも分からなくて拒否してたので、次第に咀嚼もできなくて、流動食か柔らかいものしか食べなくなった。点滴を何本も打った。 よく家族で見舞いに行って、病院の近くのコンビニでアイスを買って行った。大体、ハーゲンダッツのバニラアイス。超高級だけど、祖父が美味しそうに食べるのはそれだけだったから。 でも、それすら食べられなくなった。諦めきれなくて買ったアイスを、祖父が一口も口にしなかったアイスを、よく弟と2人で処分した。あんなに美味しくないダッツは生まれて初めてだったよ、畜生。
578 :
大人になった名無しさん :2012/11/15(木) 03:03:40.31
続き。 そんな日は一ヶ月も続かなかった。 ある日祖父が危篤にまで陥った。私と弟は講義、父は仕事だったので祖母と母、それに叔母が一晩中付きっきりだった。 その次の日は私が叔母と交代。昼も晩も付きっきりで祖父と過ごした。 血管と皮と骨だけになってしまった祖父の手を握ったり、さすったり。 その日、祖父が私の手を握り返してもう片方の手で私の手をさすってくれた。 もう、涙腺決壊どころか消滅した。 弟に「普通逆だろwww」って言われたけど、背後から聞こえた奴の声が若干震えてたことには突っ込まないでやった。 その内父もやってきて、その日はうちの家族全員が病院に泊まった。病棟の長椅子とか借りて。 その日も一日乗り切って、次の日叔母夫婦もやってきたので私は一旦大学へ向かった。 用事済ませて急いで祖父の病院へ。行こうとしたら電車が一時間以上遅延。 ふざけんなよ!と心中叫びながら病院へ。もう夜九時過ぎてたので、わざわざ病院を開けてもらった。本当、ご迷惑をおかけしました。 祖父はもう寝てました。母には「祖父母家へ戻ってもいいよ」と言われたけど、病院へもう一泊。夜十時とかにもう一回病院を開けてもらうのも悪いしね。 でもこの日、祖父は鼻からチューブを通した割には落ち着いていて割と気持ち良さそうに寝ていました。時々、目を覚ましてたけど。 私もほっとして寝てしまいました。 そして次の日、午後三時前になって祖父の容体が急変。息を引き取りました。 最後の最後、祖母や母が声を枯らして呼びかける中、私は震えて殆ど声が出せませんでした。何かうわ言を言っている祖父の口元だけ眺めてた。 必死で祖父の手を握ったけど、もう握り返してくれなかった。 涙で前も見えなくて、でも必死で「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかけました。走馬灯なんて駆け巡らないよ、「死なないで!」で頭いっぱいだったよ。 祖父の死顔はとっても男前でした。入院前の、アルツハイマーになる前のとてもすっきりしておしゃれでかっこよかった祖父その人だった。 「もう苦しまなくていいんだね」って、少しだけ安堵した。 それからは怒涛の勢いで葬儀屋さんが来たり云々。その日、祖父母宅での夜の線香の番は私が務めました。 一晩中、冷たくなってしまった祖父と、昔一緒にミニ四駆で遊んだ和室で夜を明かしました。 何度も白い布を取って、祖父の冷たい顔に触れました。 けど、何度も呼びかけたけどもう返事はしてくれない、此方を見てもくれない。 心電図が停止したところまで見届けたのに、その夜も一人で泣きました。 そこで久々に、私は祖父が撮り溜めた写真を見ました。 祖父はどうやら、私が生まれる少し前から写真を始めたようです。 アルバムは実に四十冊程。 一枚目の写真は母が嫁に行った頃のものなんですが、二ページ目くらいからは初孫の私の誕生の写真でした。 殆どが私や弟と、家族の写真。 時々、私が祖父に抱かれている写真なんかも出てきました。 そのアルバムの存在は知っていました。祖父がアルツハイマーになる前に、アルバムを山ほど買い込んで整理していたのは知っていました。 今思えば、自分で自分のことを不安に思っていたのかもしれない。だからあんなに、取り憑かれたように熱心に写真を整理していたのかもしれない。 けど、祖父がその進捗状況を教えてくれても、私は自分の写真を見るのが恥ずかしくて一緒に見ることもしなかった。一緒に見ようと遠回しに誘われても「また今度」とはぐらかしていた。 その日、祖父が死んでしまった日に初めてそのアルバムを見たんです。 運動会、お遊戯会、家族旅行、クリスマス、誕生日、ひな祭りにこどもの日。 どの写真も私か弟が写っていました。 行事が変わるごとに、祖父の字で西暦と行事名が書かれた付箋が挟まっていました。 どうして私はこれを祖父と一緒に見なかったんだろう。恥ずかしがって拒否しちゃったんだろう。 もっともっと、祖父と話したかった。大好きだって伝えたかった。
579 :
大人になった名無しさん :2012/11/15(木) 03:06:03.97
ほんっと長くなってすみません、もう終わります。 私と弟のことを心底可愛がってくれた、大切な大切なおじいちゃん。いなくなって、そろそろ五ヶ月が経ちます。 今でも祖父母の家に泊まって、祖母が寝静まったあと一人になると、祖父が出て来て「早く寝ーや」と諌められそうな気がします。 まだまだ、実感も湧きませんし祖父の好物を見たり、一緒に行った場所に通りかかると「もっとこうしてあげたかった」「もっとああしてあげたかった」と思い出す日々です。 そんな私は今、喪中葉書を作成中です。 gdgd長くて本当にすみませんでした。 おじいちゃん、大好きだよ。 おじいちゃんのつけてたブレスレットを形見に貰ったよ。 毎日毎日つけてるよ。 時計ももらったよ。 でも人にぶつかられて外れて、電車の線路に落ちちゃって壊れちゃった。 泣きながら帰ったら、お母さんに「おじいちゃんが守ってくれたんや」って言われたよ。 泣き虫でごめんね。おじいちゃん、大好きだよ。
ウザイから送るね
画面をスッキリさせました 長文の人は、もう来ないでね
うちの母方の祖父すごく優しくって面白かった人です。 小5の夏で亡くなった朝起きたら倒れててそして1週間で・・・・ 祖母も高2の4月に亡くなりました。 長生きしてほしかったな 会えてよかったよ こんな孫でゴメンネ!
584 :
大人になった名無しさん :2012/11/19(月) 22:49:28.79
私は幼い頃親父を亡くしたのでじいちゃん、ばあちゃんは親みたいな存在だった。 じいちゃんは大正生まれの戦争経験者典型的波平タイプ。ばあちゃんは日本の肝っ玉母さんみたいな人。 夫婦漫才みたいで楽しかった。 じいちゃんは他界してしまったが、ばあちゃんは元気だよ。 じいちゃん亡くなったとき、ばあちゃん泣いてた… ばあちゃんの弱音聴いたのは最初で最期だった。 切なくなった。
うちのおじいちゃんは、私が熱を出すと私の耳たぶをさわって熱を確かめる人だった。 (耳たぶさわって、そのあと首に手をあてて、「ずいぶんあるな」とか「だいぶ下がったな」とか言う。) 熱があるせいか、おじいちゃんの手はいつもひんやりと感じられて、大きくなってからはなんか気恥ずかしかったけど、 私はそれが嫌いじゃなかった。 大学に入ったばかりの頃、軽い熱を出した。 何か薬でも飲んでおこうと台所でごそごそやってるところにおじいちゃんが通りかかった。 熱あんのかー、とか言いながら、いつもみたいにおじいちゃんは私の耳に手を伸ばした。 あの時のおじいちゃんの戸惑ったような悲しいような微妙な表情は今でも忘れられない。 私の耳には数日前に開けたばっかりのピアスがあった。 高校はピアス禁止だったから、やっと開けられるぜー!って意気揚々と開けに行ったピアス。 その場はへらへらと笑ってごまかして、部屋に戻った。 ピアスを開けた事を後悔したのは後にも先にもそれっきりだったけど、なんとなく忘れられない思い出。
去年最愛の祖父がなくなりました。 祖父が倒れて入院してから、病院近くの自動車学校の合宿に入った。 講習が終わると病院へ直行して見舞う日々が楽しかった。 仮免取れた報告をした。おじいちゃんドライブ行こうねって言ってたのに、本免は間に合わず叶わなかった。 祖母はアルツ。 祖父が危ないとわかった朝、ついていたのが祖母だけだった。 主治医に家族に連絡してくださいと言われた祖母は、父や叔母には連絡したのに、 折角近くに居た私には教えてくれなくて死に目に会えなかった。 祖父が倒れてからの自分の行動には後悔が殆どないのはせめてもの救い。 私が病院へ駆けつけてからというもの、みるみる元気になって9月末までと言われていたのが10月半ばまで頑張ってくれた。 私に恩返しする少しの猶予をくれたのだと思ってる。辛かったのに私の前でいつもにこにこしてくれてありがとね。 祖父が元気だった頃もっと孝行できたのになんでしなかったんだろうってどれだけ沢山思ったことか。 私の小さい頃の祖父はちょっと近寄りがたい感じがしてて私はどちらかというと 祖母になついてたのを覚えてるけどホントはもっとおじいちゃんといっぱい話したかったよ。
今でこそ母親は丸くなったけど、私は成人前までは本当に親には恵まれなかった。 特に父なんか酷くて、沢山言葉でも身体的にも暴力奮われていっぱい傷つけられた。 母も助けてくれないばかりか傍観したり父に加勢したりした。 父が人格者な祖父の子どもっていうのが不思議なくらいだった。 経済的には不自由しなかったが気持ちの面では傷つけられるばかりで一切助けられたことはなかった。 祖父がいなかったらとっくに自殺してたと思う。 私には家庭での温かい思い出が希薄で、そのことで虚しくもなるけど、 小学生の頃、夏休みに祖父母の家に泊まりに行って、祖父にいっぱい遊びに連れてって貰った思い出があるから。 川でメダカや鮒をとったり、夏祭りに連れてって貰って金魚すくいしたり、掬った金魚は祖父が大事に育ててくれて、 冬休みまた遊びにいくとメダカや鮒や金魚たちが成長してた。 春休みにはつくしをとったり桜を見にあちこち連れてってくれた。 祖父はお花が好きで、庭中お花でいっぱいだった。暑くても寒くてもお花を世話してた。 今思うとこの世の天国か楽園みたいだった。 仕事やめたら猫を飼いたいと言っていた祖母の退職祝いに当時大学生の私は頑張って仔猫を買ってあげた。 祖父のほうがとても喜んでくれてとろけるような顔してそれはそれは可愛がってくれた。 仔猫の一挙手一投足に可愛くてしょうがない様子でげらげら笑う祖父の方が可愛くて見ててとても幸せだった。 もしも曾孫を見せてあげられていたら、おんなじように喜んで可愛がってくれたんだろうなって思うとその光景が見られなくてちょっと残念。
祖父にもっと恩返しをしたかったけど叶わなかったから、私は残された祖母を大事にしようと決めた。 おばあちゃん大好きだけどさ、でもね、なんか素直になれなくてごめん。 どんなに孝行しても、後悔しないのは絶対無理だってわかってるけど、できるだけのことはしたいのに。 元々偏屈できついとこあって、口が悪い祖母。 祖母とはうまくいかない時期もあったけど、今はなんとかたまに遊びにいく仲。 アルツになって、ひとりになって、しおらしくなったりすることがあって、そういうときはちょっとかわいいなって思う。 でも、アルツのせいか人のことなんにも考えないで発言することが多くて、 よくもそんなひどいことが平気で言えるもんだとムカついたり、憎たらしいと思ったりもする。 アルツのせいであってばーちゃんは悪くないんだと自分に言い聞かせるけど、言われたその時は冷静になれなかったり。 しかも年寄りによくある、同じことを何度も話すもので、いい加減うんざりして腸煮えくり返ることも。 嫁いびりならぬ孫いびりなのか?そうやって鬱憤晴らすサンドバッグに私をしているのか? 元々の性格もあってどこまでわかってやってるのかどこまでアルツのせいなのかわからないけど、 全てアルツのせいということにして、できるだけ許そうと努力している。 この間祖父の一周忌が済み、鳥居をくぐれるようになったので神社を参拝して廻ろうと、祖母と初めて二人で旅行した。 楽しい話をすればいいのに旅行先でさえ態々嫌な話されたり憎まれ口たたかれたりうんざりすることもあったけど、まあ行けて良かったな。 アルツでゆくゆくはきっと何にもわからなくなっちゃうからその前に私にできることはやってあげたいと思ってるし、 祖父がいなくなったときの後悔を忘れないから、できるだけ優しくいい孫でありたいのに、 祖母に平気で酷いこと言われるとその瞬間見事その気持ちは怒りで吹っ飛んでしまいます。 ちょっといびつな関係かもしれないけど、できるだけのことはしてあげようと頑張る日々です。 長々ごめんなさい。
今の子供はおじいちゃんおばあちゃんに会いに行くって言っても 田舎じゃなくて普通の住宅街だったりするんだろうな 自分が子供の頃は親の実家の田舎に行ったもんだが もし自分に子供ができたらただの新興住宅街にしか連れて行けない
590 :
大人になった名無しさん :2012/12/07(金) 09:46:20.47
プートイン
>>589 言えてる。
うちも両親の代で東京出てきちゃってるからねー。しかも今持ち家。
田舎の祖父母の家は誰も居なくなったら土地もろとも売っちゃうらしいし。
幼少の私の田舎へじーちゃんばーちゃんに会いに行くことや自然を感じられるというわくわくした気持ちを
自分の子供には味わわせてあげられないと思うとちょっと寂しい。
もうすぐばあちゃんが思い出になってしまう… あと4、5日と言われた 苦しくないように薬で眠ってる状態であとは体力次第 病室で思い出がよみがえってきて泣いてしまう…もっと生きてくれよ…たのむよ
>>592 うぅぅ。しんどいねー。。
私は死に目に会えなかったから、悔やんでも悔やみきれなくて
リミットがわかってるのって酷だけどちょっと羨ましいよ。
でも死ぬほど辛いよね。。
自分の命削ったってもっともっと生きて欲しいよね。
年末からはるばる来てくれてたばーちゃんが今日帰っちゃった。 今日はあんまり具合がよくなくて東京駅までお見送りしたかったのに行けなかったよ。 目の前で倒れて心配かけてないといいなぁ。 来てもらっても何にもお構いできなくてごめんね。 美味しい料理いっぱいありがとう。 甘酒一緒に飲もうと思って買ってきたのに温めて出してあげるの忘れてごめん。 シャキシャキ動けてたのに、料理はプロ級だったのに、手元が鈍くなって包丁で指切っちゃった話しを聞いて、 なんかちょっと寂しい気持ち。まだまだ元気でいてよね。
おじいちゃんの死に目に会えなかった。 じいちゃん、会いたいよ。 花嫁姿や私の子供ができたら見せたかったのに。 長生きして欲しかったな。
596 :
大人になった名無しさん :2013/04/26(金) 04:33:46.23
人が死ぬと後悔するね だけど突然ふといなくなってあーああしておけば良かったとか思うけど やらなかったんだよね なんでやらなかったの? いろんな理由あるよね おそらく自分優先にしてできる限りラクしたかったわけだよ 他人のめんどう背負いたくないわけだ 確かに恩を受けて感謝はしてるよねでもそれとこれは話が違うっていうか 自分の問題で手一杯だから人に構ってるヒマないってね それなのに死んでからああすれば良かったとか語るのは都合良すぎないかな 自分の都合>>>>大切な人の死っていうどうしようもない事実 遠くにいるから会いに行くのめんどうだし家でテレビ見てようなんてね 人間器小さいよね いかに自分が自己中心的に生きてるか身にしみるね
597 :
大人になった名無しさん :2013/04/26(金) 08:03:01.28
598 :
大人になった名無しさん :2013/05/18(土) 02:19:43.64
おばあちゃん死ぬ一日前に会ったとき手を振ってたな・・・ 自分で分かってたのかな? 迷惑ばっかり掛けて恩返しのひとつもできなかった 今のうのうとゲームとかしてる自分を殺したくなる おばあちゃんごめんね、本当にごめんね
599 :
↑↑ :2013/05/18(土) 04:14:09.37
謝って済むなら警察要らないだろ
600 :
大人になった名無しさん :2013/05/27(月) 11:59:04.12
祖父母と同居してて、祖父母の部屋に毎日のように入り浸ってた。 ある日、テレビ見てたらお墓のCMやってて 「じいちゃんが死んだら、お墓どうすんの?」なんて聞いた数日後に じいちゃん、事故で亡くなっちゃった。 後々思い返したら、お墓の話した日から祖父が事故に遭う日までの数日間 全然祖父母の部屋に寄り付かなくなってたなぁ。何か感じ取ってたのかな。 それから祖父と一緒にいなかったことを後悔して なるべく祖母の傍にいたけど、数年後、祖母が癌で入院してからは 全然祖母に会いに行かなかった。あんなに祖父のことで後悔してたのにね。 亡くなってから、もっとお見舞いに行けばよかったって後悔して 何かもう後悔の連続で自分、本当に阿呆だなと思う。 楽しい思い出の方が多いはずなのに 祖父母の死に際のことばかり思い出してしまって 今でも祖父母のことを思い出すと泣いてしまう。自業自得なんだけどさ。
601 :
大人になった名無しさん :2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN
祖母との二人暮らしを四年間したけど平和で楽しかったわ 祖父は二人暮らしの直前に死んだ 祖母のぬか漬けまた食べたいなあ
602 :
大人になった名無しさん :2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
>>600 お前全然後悔なんてしてないだろ(笑
お前の文章には愛の欠片も感じられないからな!
>>600 本当に後悔してるなら今すぐ会いに行ってやれよ!
爺さん喜ぶぞ!
604 :
大人になった名無しさん :2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
直接のおばあちゃんじゃないけど、亡くなったって連絡が来た。 こないだ会いに行けばよかったな。 ずっと元気だったから次でもいいかな、なんてなんで思ったんだろ。 いろいろ含めて子供に戻りたい。
生きてるばあちゃんでもいいかな? オレの兄弟はばあちゃんっ子で祖母といれば楽しいのよ。 だけどやっぱり生活費は稼がないといけないから みんな仕事や育児の間は介護の人に頼んでる。 ばあちゃんも100歳超えてからは痴呆みたいなのも出てきて、 ほとんど眠ってるか、訳わからないことブツブツ言ってる。 ところが、このお盆休みに珍しくはっきりしててさ、 オレの名前も家族の名前も全部言えたんだわw あんまり嬉しかったから妹にも聞かせてやりたくて、 携帯から電話したんだよね 妹もばあちゃん大好きだけど嫁ぎ先が遠くてなかなか来れないし、 来れたとしても祖母は眠ってる時ばっかりだったからね。
妹「どうしたの?」 オレ「いや、珍しくばあちゃんがはっきりしてるから、 声を聞きたかろうと思ってさ…」 妹「え? 本当に?」 ここで祖母に代わる 祖母「○○ちゃんね? 元気ね〜?」 祖母「会いたいね〜 いつ来るね? いつ来ると〜?」 祖母「うんうん、何て言いよるかよく聞こえんばい」 電話を一旦戻す。 オレ「何て言いよるの?」 妹「こっちに遊びに来てって…」 オレ「ばあちゃん、○○が遊びに来てって」 祖母「うんうん、行くばい。 明日にでも行く」 オレ「○○、明日遊びに行くってさw」 妹「来て欲しいね、けど今日はこれから子供を迎えに行くねよ」 オレ「わかったわかった」 妹「既に時間が過ぎてるからもう行かないと…」
オレ「わかった、最後にもう一言!」 祖母に代わる 祖母「いそがしかね〜? そいじゃまたね〜」 祖母「会いたかばってん、いそがしかなら仕方なか またね〜」 祖母「今度来る時まで待っとるけん、またね〜」 その後10回以上「またね〜」を繰り返してる祖母 祖母「ばってん、耳ん遠かけん よ〜聞こえんとだもん ごめんね〜」 祖母「何て言いよるかわからん ごめんね〜」 祖母「今度来たらゆっくり話すけん、本当にごめんね〜」 謝りながら泣いてるもんで携帯を祖母の耳元から離して見てみた。 ……既に画面は待ち受け、、ずっと前に切れてたんだろう。 切れた携帯相手に一生懸命謝ってた祖母を思うと涙が出た。あとで妹にも話したら妹も泣いてたよ。 あとどのくらい生きるかわからない祖母だが、 本当に、本当に楽しく生きて欲しい。
609 :
大人になった名無しさん :2013/12/02(月) 20:08:45.90
色んな思い出があって書ききれないけど 可愛がってもらったなあ 一緒に住んでたからね
610 :
大人になった名無しさん :2013/12/03(火) 01:25:47.85
明治生まれの人は今の爺さん、婆さんと違って孫を猫可愛がりしたり 甘やかしたりしなかったね。本当に厳しかった。 祖父母の家に夏休みに遊びに行くと、毎日のように廊下の雑巾がけや 庭掃除をやらされたもんだ。
611 :
大人になった名無しさん :2013/12/03(火) 11:46:33.01
じいちゃん毎朝パンと味噌汁食べていた
612 :
大人になった名無しさん :2013/12/03(火) 11:51:17.93
じいちゃん毎朝パンと味噌汁食べていた
613 :
大人になった名無しさん :2013/12/03(火) 11:57:44.38
じいちゃん毎朝パンと味噌汁食べていた
じいちゃん毎朝海パンで糞汁食べてた
615 :
大人になった名無しさん :2014/02/18(火) 00:41:12.59
昭和の末期に祖父の法事(第13回忌)を祖父の家に30人くらい集まった。 お坊さんが見える前に、祖父の部屋の庭のほうで写真をとった。 お坊さんが見えてから、祖父の部屋で法事が行われた。 法事が終わったときに食事だけど、おじさんやおばさんたちは祖父の部屋で食べたけど、オレたちは祖父の隣の部屋で食べた。 たぶん残り物かもしれないけど(笑) ふたがついてるおみそしるは食べた記憶なかった
616 :
大人になった名無しさん :2014/02/18(火) 01:23:37.98
617 :
大人になった名無しさん :2014/02/22(土) 13:06:49.71
嫌な思い出が無いな 同居してたしな 色んな所に連れて行ってくれたよ
618 :
大人になった名無しさん :2014/05/07(水) 02:08:40.27
沢山思い出があるんだけど 遊んできて外から帰るとおじいちゃんの大きな手で私の両手を包む様に持って石鹸で洗ってくれるのが大好きだった
お菓子作りも料理も上手だった祖母に、大学芋が食べたいって言ったら作ってくれたんだが、 その時に飴で軽く火傷してしまったらしい。 色々な物をを作ってくれたけどそれだけはっきりと覚えてる。 小学生の時に亡くなったから、今は私がお菓子作って仏壇に供えてる。 一回くらいは一緒に何か作りたかったなー。
620 :
大人になった名無しさん :2014/09/01(月) 13:00:30.95
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621 :
大人になった名無しさん :2014/09/02(火) 01:06:45.36
じいちゃん、91年前の9月1日、地震が起きた時、正午前、 ばあちゃん以外の女性と鰻を食べていた。 さすがに、ばあちゃんが心配になって日本橋から上野まで駆けて帰った。 余り長距離ではなかったから帰宅困難者にならずに済んだ。
ばあちゃんが常に近くにいた幼稚園、小学校時代が一番幸せだったかな あの頃に戻りたい
物静かで人と争うことや騒がしいことが嫌いな祖母は、 思い通りにならないと泣いて騒ぎ、男の子のような遊びを好んで暴れる孫娘の私を敬遠していた 幼少のころは本人(私)も気づかない程度に、それでも周囲の大人たちには「騒がしい◯子のことが苦手で避けてるな」と気付く程度 だけど、認知症の症状が出始めた頃から状況が変わり、意地の悪い言動が増え始めていた 主にターゲットになったのは私で、認知症の進行とともに敵認定が深まりいろいろとあったが割愛 私が大学を卒業する頃には完全にボケて家族の顔も忘れ、寝たきりで自宅介護されている状態だった そして寝たきりになって3年以上を経て、介護生活は終わった 通夜の席で、読経を聞きながら祭壇の遺影を見つめて、悲しくないのが悲しかった ボケ始めてからはともかく、祖母は表面的には私を邪険には扱わなかった 良い祖母だったかと言われれば疑問だが、悪い祖母ではなかったはず 祖母も私を極力避けていたから思い出は少ないが、それでも懐かしむ過去はあるはずだ 小学生の頃に一緒におはぎを作ったこと、ぬか漬けの美味しい漬け方を教わったこと いろいろと記憶を引っ張りだしてみては、微笑ましいはずの子供の頃の出来事は、 最後にはやんわりとした祖母の拒絶にあうことで終わっていることに気付いた 当時の私には気付かず、周囲の大人たちが「避けてる」と感じたのがこういったやりとりだったことを思い知った 楽しいはずの過去を、楽しいままで残してくれなかった祖母に、初めて泣いた 先日、親族で集まる機会があった その時に高齢者介護、特に認知症介護の話が出た 意識が10代に逆行して息子を見ても「あんた誰?」状態だという嘆きを聞きながら、思い出したことがある 学生の頃、深夜にテレビを見ながら夜食をとっていたら、トイレに起きたらしい祖母が、リビングの明かりに引かれたのか顔をのぞかせた 「どなたですか?」 実の息子である父の顔ですら時々わからなくなっているという話を聞いていたから、特に戸惑うこともなく淡々と名前を名乗った 「まあ。うちにも◯ちゃんって小さい女の子がいるんですよ」 祖母はうれしそうに笑い、少し言葉を交わしたあと、ごゆっくりと言って出て行った あの当時は、ちょwその◯ちゃんは私だwwwと内心で苦笑しつつ、 本当に記憶が逆行するんだなーくらいにしか思わなかった だけど、今になって思う 見知らぬ来客(祖母主観)に会い、孫と同じ名前だとうれしそうに笑える程度には私への親しみはあったんだろう 嫌っていたのではなくて、苦手だっただけなんだ と、自分に言い聞かせて、あの笑顔だけを覚えていようと思う
624 :
大人になった名無しさん :2014/10/13(月) 07:25:22.64
ばあちゃん特製の焼き飯が食べたい
625 :
大人になった名無しさん :2014/11/14(金) 08:06:45.16
良スレ保守上げ
里帰りするたび、岐阜の婆ちゃんは母と俺に「えらかったね〜えらかったね〜」と労って 食堂の出前をとってくれた(´;ω;`)ウッ…
祖母におまえが敬遠されていた理由は 本当に、うるさく泣きわめいたり、わがままで暴れたりすることだったのか うそ臭い自己満足に酔う前に そこを疑った方がいい
生まれてから大学の四年間以外はずっと実家暮らしでいまだに同居のじいちゃんもばあちゃんもボケもせず元気な俺(34歳)は恵まれてるなぁとスレ見て思った。
爺さん普段は優しかったけど、怒らせると半端なく怖かったな〜。 特に他人や友達に迷惑かけた時なんか相手の家まで連れてかれてパンツ脱がされて膝の上に掴まれて相手が許すまでお尻ペンペンされたり。 今は感謝している。
630 :
大人になった名無しさん :2014/11/23(日) 23:08:54.57
よく一緒に遊んでくれたし幼稚園の送り迎えもしてくれたおじいちゃん。 そんなおじいちゃんが今日の朝に亡くなった。 悲しくて言葉にできなかった。
631 :
名無しさん :2014/11/26(水) 19:23:40.01
おじいさんゴールデンバットというタバコを 吸ってた たまたまコンビニで見つけ 購入吸ったとたんに 涙かぼろぼろ おじいさんの匂いだ
632 :
大人になった名無しさん :2014/12/05(金) 12:24:57.25
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1307829.html 1980年時点での約12000人、1592の通名苗字のうち件数上位から記載。
新井303 山本199 金本173 木村161 金田158 安田150 岩本145 金山145 松本135 大山131
平山119 高山118 山田106 金光100 金沢100 徳山100 田中98 松山94 大原92 金子85
木下85 中村83 金城81 吉田80 金村80 西原79 林79 宮本78 松原77 国本67
河本66 金井64 星山61 坂本57 松岡56 松田56 伊藤52 安本49 清水49 岡本44
松村44 光山43 金岡42 金原42 野村42 井上40 福田40 高田39 青木39 南39
平沼39 山下38 成田38 金海37 西山37 橋本36 夏山35 大城35 中山35 梁川35
原田34 吉川33 玉山33 鈴木33 神農33 青山31 東31 池田30 岡田29 吉村29
金谷29 豊川29 ◎巴山28 三井28 石川28 白川28 斉藤27 大島27 平田27 豊田27
岡村26 金森26 杉山26 西村26 大野26 高橋25 山口25 長谷川25 加藤24 高木24
小林24 柳24 玉川23 高島23 山崎23 小山23 太田23 武田23 森山22 中島22
吉本21 石山21 大川21 平野21 三浦20 星野20 柳川20 ◎青松19 安東19 永田19
延山19 秋田19 谷山19 田村19 藤田19 平川19 ◎呉本18 広田18 高原18 佐藤18
春山18 松井18 村田18 中原18 葉山18 福本18 秋山17 石原17 川本17 大谷17
竹山17 竹本17 神田17 河村16 岩田16 金川16 新本16 森本16 長田16 富永16
伊原15 吉原15 原15 山村15 重光15 村上15 谷川15 竹田15 藤井15 ◎完山14
安藤14 永川14 岩城14 宮田14 金島14 清原14 川島14 中野14 徳永14 徳原14
本田14 木山14 ◎月城13 ◎梁本13 丸山13 岩崎13 今村13 大村13 大林13 渡辺13
島田13 武本13 福山13 河東12 岩村12 香山12 高村12 山中12 松浦12 上田12
森田12 水原12 大宮12 内田12 富山12 茂山12 ◎文山11 ◎良原11 花田11 金林11
光平11 高本11 三原11 新田11 杉本11 星本11 川村11 村井11 大倉11 竹村11
藤原11 ◎利川10 安川10 伊山10 横山10 華山10 吉野10 近藤10 広川10 高野10
佐々木10 小川10 成本10 清本10 石井10 大本10 藤本10 富田10 木本10
子供の頃からばーちゃん子で、小さい頃はよく一緒に寝てたくらいなんだけど、18の時に上京して楽しくて全然帰省しなかった。 数年ぶりに帰省したら、ばーちゃんボケてて俺の事分からないでやんの。 それがショックであまり顔合わせないでいたら突然倒れて余命は一ヶ月って言われた。 後悔しながらも見舞いに何度も行った。 ばーちゃんそこから頑張って頑張って二年近く生きていてくれた。 俺が結婚報告するまで生きていてくれた。 意識のないばーちゃんに嫁さんを報告出来たけど、ばーちゃんが亡くなってからも後悔が半端ない。 ばーちゃんゴメンなー。糞みたいな孫でゴメンな。
634 :
大人になった名無しさん :
2015/02/03(火) 12:32:26.06 俺のじいちゃんは(俺が)2歳の時事故で亡くなったから思い出ないのよなぁ(´・ω・`) 親父や親せきから聞いた話だけど、普段怖い感じなのに、俺と遊ぶときは穏やかな感じで背中に乗せてお馬さんごっこしてたそうだ・・・ うちは古くから農家してたから野菜とか市場におろす時ばあちゃんに連れて行ってもらったりしてた。 市場に野菜おろした後スーパーでお菓子買ってもらったりしてた。 そんなばあちゃんも俺が小6の時に病気で亡くなってしまったけど。 最後お見舞いに行ったとき、まだ生きてるのに手足が冷たかったのを今でも覚えてる。 そして最期は穏やかな顔してた。闘病生活辛かったはずなのに・・・亡くなる日の朝危篤状態になった時見舞いに行けなくてごめんよ・・・ 母方のじいちゃんばあちゃんは盆と正月にちょこっと身内で集まる程度だったからそれほど思い出もないんだよなぁ・・・ばあちゃんは俺が生まれる前に亡くなってたし。 じいちゃんの最期は老衰でしわだらけで少し黄疸出た安らかな顔だった。 葬式のとき祭壇に軍服があって、その時は何とも思ってなかったけど、戦争を体験した世代だったんだなと今感じてる。