1 :
人間七七四年:
天下という言葉が京都周辺を意味していることが知られていないからか?
ぶっちゃけ鎌倉の北条家よりやりたい放題してた
将軍と戦をして追放してたからねw
室町幕府も応仁の乱後、足利家の影響力がなくなったから戦国時代なんだよね
2 :
人間七七四年:2014/08/26(火) 12:37:43.81 ID:Tsc0gmA/
低くない
終了
3 :
人間七七四年:2014/08/26(火) 17:13:38.03 ID:MqsPFGY3
取ってない
終了
4 :
人間七七四年:2014/08/26(火) 19:50:10.49 ID:Z91TnTqA
関西と東四国だけで天下なん?
5 :
人間七七四年:2014/08/26(火) 21:10:58.07 ID:z6GT5VCN
当時の天下=畿内近国のことだから。
6 :
人間七七四年:2014/08/30(土) 23:07:42.59 ID:HTyWJW/g
>>1 将軍追放くらいじゃインパクトが少ないから
当時は他にも将軍追放くらいならした奴いるし
教科書にも載らないからね
やっぱり信長くらい派手な事しないと
7 :
人間七七四年:2014/08/31(日) 00:21:00.15 ID:DT2Yx/5d
戦国一、大甘ちゃんだったで十分インパクトはあると思うが
8 :
人間七七四年:2014/08/31(日) 08:55:46.55 ID:5EUHQYZj
マジレスしちゃうと怒られそうだけど
三好家がほぼ完全滅亡して歴史を書き残す人がいなかったことと
三好家の都たる堺が衰退してその閨閥も歴史の波にもまれて消えたからかと。
9 :
人間七七四年:2014/09/02(火) 05:41:27.43 ID:6Ryzl+vf
>>1 畿内近国=室町的な「天下」だとかりに知ってても、だ
織田・豊臣・徳川の「天下人」は全国統一政権だけど
(織田はプレ統一政権だけど本能寺なかったら統一確実)
三好の「天下」は畿内近国だけで上の3つとは比較にならないからだろね
あと三好長慶は敵が足利義輝以外地味なのがあかんのやろねせやね
正直一般的には「誰だよそいつ」レベルなのがネック
宿敵:三好宗三(しらんがな)
直接の下剋上相手:細川晴元(わからん)
一番派手な合戦の相手:畠山高政(誰なの)
一般的な知名度・人気の点を考えると難しいだろこれ
10 :
人間七七四年:2014/09/02(火) 10:05:36.13 ID:DjZkw/M9
>>8 これはおれの持論なんだけど
三好は支配地域で後世に残るような大規模インフラ整備しなかったのが
滅亡後、三好の遺風を慕って語り継がれなかった理由の一つだと思う
確かに堺は三好の畿内進出の重要拠点ではあったけど
堺の発展は三好のおかげというより基本堺商人の地力の高さだし
拠点の西宮の越水城、大阪の芥川城・飯盛城は後世の各都市の発展に
ほぼ何の影響もあたえなかった
まあ手間ひまかけて城下町つくるコストをかけなくても
経済拠点押さえれば畿内支配に問題なかったからだろうけど
平清盛「港神戸はわしがつくって遷都したった」
豊臣秀吉「大坂に天下一の城つくったった。ついでに博多も復興させたった」
こうゆうのがあればもっと近畿なり徳島なりで知名度あったかもね
もっとローカルでも
宇喜多直家・秀家「岡山はわしらがつくった」
宇喜多も三好同様大名家としては完全滅亡したけど
岡山という城下町を一からつくったから地元では今でも愛されてる
11 :
人間七七四年:2014/09/02(火) 12:37:40.50 ID:V7Wxxf+I
>>10 良い指摘だと思う
朝倉なんかでも一乗谷が残ってたら大大名扱いされてたろう
12 :
人間七七四年:2014/09/03(水) 06:05:24.84 ID:dilXv7/W
>>6 将軍追放しただけじゃインパクト薄いっていうから
思い切って義輝殺してみたんだけど!
それでも三好家の知名度低いっていう罠…
え、将軍殺しも三好だけじゃないって?
くっそくっそ赤松のせいか…
じゃあどうすればいいんですか?(震え声)
そうだ大仏燃やしてみよう
そうすれば
13 :
人間七七四年:2014/09/08(月) 23:25:12.80 ID:Iwaokrq2
三好は糞過ぎだからかと
信長が焼け太りしたのも三好が雑魚だったから
14 :
人間七七四年:2014/09/09(火) 05:21:03.77 ID:vOVPGGav
これまで松永久秀がとにかく悪人で久秀のせいで三好は滅んだって
わりと同情されてきたよね
でも松永久秀は実は忠臣で別に悪いやつじゃなかったんでしょ?
長慶も別にボケてなくて最後まで正気で実権握ってたんでしょ?
でもそうなるとなにが原因で滅んだの?
三好自身が駄目な子で自己責任で滅んだって結論になるんじゃないの?
そのへんどうなの三好としては
15 :
人間七七四年:2014/09/09(火) 10:51:05.11 ID:DwIrliFO
長慶が死んで十河が死んで実休も死んで安定しないまま信長が来て崩壊
16 :
人間七七四年:2014/09/09(火) 12:15:14.22 ID:KaBD7MIo
なんで残ってた冬康まで殺しちゃうの?
17 :
人間七七四年:2014/09/09(火) 19:05:43.21 ID:JWh+3M/b
朝倉
大内 赤松 畿内
三好 織田 徳川
赤松が出ました
と思いきや赤松力尽き大内が出てきました
おやおや?大内の配下、尼子の裏切り。大内退場です
そうこうしてる間に三好が出てきましたね〜
ですがgdgd状態。新たなる救世主が待たれます
朝倉が来るか?来るか?来るか?
来ません!朝倉来ません
おーーーーとここで織田です!織田が来ましたーーーーー!
あれ?!転んだ?織田の高転び!!!
gdgdが続き最後は徳川でーーーす!
18 :
人間七七四年:2014/09/09(火) 23:20:05.57 ID:dDfPzjD/
三好以前に将軍を戴いてた大内とか細川も知名度低いし(細川は傍系の藤孝は有名だけど)
応仁の乱の細川山名も知名度低いしね
単に信長以前がそもそも注目されてないだけなんじゃないかと
三好家主役のいい小説でもあれば知名度も上がるし信長の野望で三好四兄弟の能力もきっと上がるはず
19 :
人間七七四年:2014/09/09(火) 23:30:32.55 ID:xFZ+Pn3V
>>14 ・三好宗家の義継も三人衆の長逸も松永久秀もみんな同じ従四位下で横並び
ここん家、誰が一番偉いんです?兄弟で2ヵ国ももってる松永派
「おれの死んだあとは宗家と三人衆、松永でなかよく殴りあえ」としか
思えないトロイカ体制を残して長慶退場
→こんな三本の矢がうまくいくわけがない。毛利じゃないから
・三好三人衆(一門のおじいちゃん、旧敵の息子、三好ですらない)
とかいう微妙すぎるメンバーで構成された三好首脳部
・絶対逃がしてはならないVIP・義昭の監視を担当していたのに
あっさり逃げられる松永久秀→三好追討の神輿を織田がget
・絶対死んではいけないタイミングであっさり討死する松永弟
→山城に隣接する丹波をあっという間に三好喪失
・三好三人衆と松永派で畿内一円で殴りあってgdgd
・せっかく三人衆が松永派を追いつめまとまりかけたのに
ありえないタイミングで久秀に味方し再び三好を分裂させた張本人
行動力のある馬鹿・三好義継
・せっかく織田に帰順して河内半国の守護になってたのに
義継が義昭方に寝返って失敗
→信長「死ねや」であっさり三好滅亡End
滅ぶ家って滅ぶべくして滅ぶんだ
織田がすごいっていうより三好が間抜けなんだ
20 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 01:03:11.30 ID:A21Wzwha
義継さん浅井朝倉が滅亡した後も3ヶ月間粘ってたのに、
いつ信長包囲網に参加して、いつ滅ぼされたか知らない人も多そう…
21 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 01:54:54.23 ID:k3jsJtdK
>>20 3ヶ月は三好的には粘ったうちに入るのか!
さすが信長上洛から2週間で畿内失っただけのことはあるなw
義継も謀反するならせめて畠山くらいは初志貫徹して殺っとけよ
こんな甘ちゃんのボンボンに同調して挙兵した久秀は
結果的に三好滅ぼした責任大。やっぱり松永の評価は奸臣でいいんじゃね?
22 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 06:56:26.83 ID:I7H+AkBr
その理屈で言うなら明智光秀に瞬殺されて
領地を子飼いの重臣達に速攻で分割された
織田信長という魔王様もそんな大したことはないわな。
太閤殿下の死から関ヶ原まで何日だったかな?
下剋上の世で強引な手法で勢力を拡大した巨大組織ってのは
カリスマが死んで求心力を失うと強力な遠心力が働くのよ。
あまり意地悪く見てやるなって。
23 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 09:01:33.96 ID:ooX6nlSj
秀吉死んでから関ヶ原までは1年以上あるんだが
24 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 15:35:10.48 ID:EnyYWpmQ
うーん・・・
やっぱり前当主が後継者をはっきり決めて体制を整えておかないとどんな勢力も脆くなっちゃうよね
にしても三好の崩壊っぷりはもうちょっとやりようがなかったものか
他の有力な身内もバタバタ死んでたのが最悪過ぎるし天に見放されたというか天に潰されたとしか思えないレベル
25 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 21:46:00.58 ID:MmLbbgxP
天に見放されたっていうか
大仏「松永・三好に仏罰当てたった」
順慶「キャー大仏サン!!!!ステキー!!!!」
大仏「お、おう///」
筒井順慶はこう思ってたはず(たぶん)
26 :
人間七七四年:2014/09/10(水) 21:52:33.54 ID:tktqMDer
>>6 実弟も恩人の守護を討滅とか、インパクトのある事してなかったっけ。
長慶は何度も刃向う将軍・管領家に対して、いかにも手ぬるい処置だったのに
弟がこんな事をやって、激怒しなかったんだろうか。
27 :
人間七七四年:2014/09/11(木) 02:26:15.20 ID:8jl+6J5y
>>19 それ見ると将軍殺し&義昭逃亡が三好滅亡のはじまりに思える
義輝殺しても結局三好になんのメリットもなかったな
代替りで不安定な時期なのになんであのタイミングでやっちゃったんだろ?
その後の勝算とかヴィジョンとか果たしてあったのか
28 :
人間七七四年:2014/09/11(木) 08:18:01.26 ID:dHEI4GLg
経緯を追うとたぶん側近の粛清が目的で
義輝を殺す気はなかったんだと思うけど。
すでに三人衆と松永派の暗闘が始まっていて
その間隙をぬって敵対勢力が義輝を神輿に担ぎ出す可能性があったから
先手を打って殺したのかもしれないですね。
29 :
人間七七四年:2014/09/11(木) 21:35:04.09 ID:k5xTnkbe
殺す気ないのになりゆきで将軍殺したなら
うっかりミスすぎてそっちの方が末期症状だと思うが
30 :
人間七七四年:2014/09/11(木) 22:18:58.32 ID:kpMZFy8U
ヤラレ役のイメージが凄すぎる
31 :
人間七七四年:2014/09/11(木) 22:46:54.44 ID:dHEI4GLg
うっかりミスっちゅうか大阪の陣の時の秀頼と家康・秀忠の関係と同じ構図かと。
当時は既に天下の実権は三好の掌中にあったのに
未だに天下人のごとく振る舞う義輝。
素直に人質を出して屈服するなら生かしておいて利用するが
反抗するなら天に二日無しで死んでもらわな仕方ないわな、と。
三好が都の主となって14年以上たっていて
都の人心は三好側に移っていたことも理解できずに
三好を倒せると妄想していた義輝とその側近の方が末期的かと思うけど。
32 :
人間七七四年:2014/09/11(木) 23:25:37.13 ID:k5xTnkbe
>>31 義輝殺した直後から、畿内では畠山・遊佐や波多野にせよ
潜在的な反三好勢力が総復活。反三好派の公家と連携しつつ
「三好追討」で団結してしまう
その結果、河内でも丹波でも織田の上洛よりずっと以前の段階で
三好の支配が及ばなくなってるよね
畿内の反三好勢力に格好の大義名分を与えただけでも
将軍殺しは悪手だったと思う
阿波公方の将軍擁立があんなに遅れたのも三好側の内紛もあるけど
義輝の後に三好義継にあるいは将軍宣下もあるか?と
三好側には淡い期待があったからでしょう
>>27 そういう意味ではいちおうのその後の計画・見通しはもってたと思う
でも長慶晩年の2度目の改元申請の時点で朝廷側は完全に黙殺してるし
朝廷としては明確に将軍義輝の権威を三好の上に位置づけていた
要するに三好側の想像以上に足利将軍の政治的権威は重かったってことよ
結局のところ三好側の自己評価が朝廷や周囲の評価とどこかズレてた
それが一連の見通しの甘さにつながったのではないの
33 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 00:24:00.03 ID:nP9JkPua
>>32 三好の衰退は将軍を殺した影響よりも直接的には
松永と三人衆に篠原が絡んだ主導権争いが長引いたことが原因だと思うけど。
畠山は三好追討ではなくて旧領回復のために松永と組んだんだし
丹波での三好勢の決定的衰退は内藤宗勝の敗死からだし。
将軍殺しが反三好の団結の決定的要因という考えは時系列的に無理があると思うよ。
もしも松永と三人衆が分裂することなく義継を支えていたら
将軍家の復活は少なくとも畿内の大多数は望まなかったと思うよ。
応仁以来続いた畿内の戦乱がようやく収束するんだから
わざわざ幕府を復活させて戦乱を呼び戻したくはないでしょ。
34 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 01:31:46.57 ID:2tkrOHxH
>>33 畠山高政は義輝殺害直後から義輝旧側近や和田惟政・義俊らと連携をとって
義秋を支援しつづけたガチガチの反三好だぞ
・時系列的には後に義継・松永が三好三人衆と割れて織田=義昭支持に
シフトしたから結果的に信長上洛時には(一時的に)同陣営になっただけ
・そういう意味では三好(義)・松永の方が生き残りのために
自ら殺した将軍の弟に乗り換えたわけでそこには何の節操もない
「畿内の平和のために将軍を殺した(キリッ)」っていうのは
ちょっと三好以外の畿内勢力には信じろとか無理ゲーすぎる
・河内は畠山家の分国だったんだから
もちろん高政の「打倒三好」の目標は旧領回復が目的に決まってる
本気で「三好死んでどうぞ!朝倉でも織田でもはよ」と期待してた
・丹波の波多野も一緒。もともと長慶の若い頃からの反三好・晴元派
長慶死後の混乱を勢力回復の機会ととらえて挙兵
早々に松永の弟(内藤宗勝)を討ちとって目標達成
波多野は関白近衛家(足利将軍家と近い)と姻戚関係なのも大きく
こっちも将軍側近や他の畿内反三好と連携して義秋を支援した
何が言いたいかっていうと、将軍殺害はもちろん失策なんだけど
ほかにも筒井etc.畿内に多くの反三好勢力が消滅せず存在しつづけている時点で
三好の畿内支配はどこか根本的な戦略的ミスがあったんじゃね?ってこと
35 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 02:24:57.81 ID:nP9JkPua
>>34 当主の高政が反三好でも畠山家中にも親三好の勢力がいるんであって
三好が分裂せずに強ければ反三好を貫徹できないと思うし。
現に河内半国を返してもらって義継と同盟組んでたじゃん。
三好家の戦略に根本的欠陥ってのは
結局のところ強力な統率者がいなかったという点が8割だと思うんだけど。
つまり長慶が若輩の後継者を残して死んでしまったことがやっぱり痛かったのかな。
反三好勢の力は長慶生前の方が圧倒的に強かったんだよ。
六角・畠山・細川全て健在だったし将軍も自前の軍事力を持ってたよね。
だけど三好に圧倒されてしまったよね。
つまり将軍に敵対することで反感を買って衰退したのではなく
長慶死後の内紛に付け込まれたから勢力を衰退したと説明した方が合理的かと。
三好三人衆の衰退の原因はなんだかんだ言っても「戦に弱かった」からだと思う。
武士は勝つ事が本なりで、勝てば求心力が働くし負ければ見放される。
松永相手でも織田相手でも肝心なところで負けたり勝ち切れずに終わってるし。
織田相手には本願寺を引き込んだり畿内の勢力を寝返らせたり相当粘ったんだけど
やっぱり実戦で負けてちゃダメだよね。
36 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 11:51:54.70 ID:6UnlpDrw
個別の武将が合戦に強いかどうか個別の合戦に勝ったかどうかより
(それもすごく重要ではあるけど)
三好は敵を撃滅して最終的に支配地域の国人を地侍レベルで
自家の家臣団に再編成・再配置するとこまでやる余力が
兵力的にも戦略的も長慶時代からずっとないのが本質的な問題だと思うね
それをしないとたとえ合戦に勝っても敵対勢力が確固とした
自家の戦力に転化しないんだけど、三好は版図は畿内近国に広がったのに
それができたのは畿内ではせいぜい摂津の一部くらいだったのが弱い
あとは負けた方の大名・国人領主が一時的に「サーセンw」と
面従腹背してるだけで、播磨の別所なんかまさにそう
だから多くの敵対勢力が負けても家臣団ごと勢力が温存されたまま残ってしまう
その結果三好の威勢に陰りが見えると
オセロゲームみたく支配してたはずの地域で勢力図が入れ替わっちゃう
波多野なんか20年以上にわたって延々と戦ってるのに
三好は滅ぼすことができなかった
長慶死後あっけなく丹波を失陥するのはまさにそのツケが回ってきたかんじ
37 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 19:09:31.02 ID:c0ukswdv
それは三好家に限らず今川家にも同じことが言えるよね
遠江や三河の多くの国人衆を本領安堵によってつなぎとめ再編成再配置までできていない
三好家と違い今川家は駿河守護なので兵力はあるが武田家、北条家、織田家との争いがこれを許さなかった
そのため桶狭間合戦以降、今川家に不安を覚えると遠江と三河の国人衆が動揺して不穏な動きを見せ始める
義元死後の三河離脱なんか典型的なところでしょう
まあ三好家にしろ今川家にしろ直轄領の拡大や国人衆の掌握は簡単に手を出せなかったと言えるね
また永禄年間の代表的な戦国大名である北条家、上杉家、武田家、毛利家もこれと同様と言えますよね
38 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 19:59:06.98 ID:6uA1HrK/
でもちゃんと三好政権っていう言葉があるんやから天下を回していたのは確かでしょ
上杉に権限与えたのも三好だし
39 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 20:32:03.05 ID:po5vu1H5
「三好政権」という概念は今谷明の頃から主に関西(というか京大系)
の研究者の主張で、背景には帝がいる京都(畿内)が日本の中心なんや!
だから畿内基盤にした三好も天下人に入れろや!という部分が
やっぱり関西人の研究者にはあるのよ(だから概して三好倒した織田信長が嫌い)
これに対して関東(というか東大系)はわりと否定的スタンス
三好はあくまで畿内限定の地方勢力であって
将軍と帝のいる京都押さえたら天下人認定とかただの形式主義じゃん?
三好なんて細川あたりと大して変わらねぇよ。三好は織田・豊臣・徳川の
統一政権とは同一に論じられないって立場の方が伝統的に優勢
「三好政権」という呼び方・概念自体否定する研究者もいる
40 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 21:28:36.17 ID:nP9JkPua
>>36 領国に強固な支配を確立したはずの朝倉も武田も
あっという間に瓦解したじゃん。
織田だって本能寺後バラバラに分裂したし
豊臣だって徳川に滅亡させられたじゃん。
上杉は謙信死後激しい内乱で滅亡寸前までいったし。
織田は重臣に強権を与えて在地勢力を再編成させたけど
その過程で独自の家臣団を形成した重臣たちが軍閥化して
織田本家を食いつぶしちゃったでしょ?
これだって織田家の戦略の根本的なミスが原因って言えちゃうよね。
ところで内藤宗勝を討ち取ったのはのは赤井直正で
波多野はそのドサクサで八上城を奪還しただけだから。
一貫して反三好ということもなく同盟を結んでた時期も長いよ。
41 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 22:11:02.46 ID:gle1W6UK
>>40 天領400万石 旗本知行地300万石の徳川将軍家が
幕末にあっさり滅亡したことを叩かないでください
42 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 23:07:10.45 ID:po5vu1H5
43 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 23:31:07.09 ID:nP9JkPua
>>42 面白いと思ったけど
たぶん分かってないから
何がわかったか教えてくださいね。
44 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 23:38:30.70 ID:po5vu1H5
>>43 ヒント:
>>40はちょっとひねった皮肉というか否定的コメントになってる
45 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 23:41:19.23 ID:po5vu1H5
46 :
人間七七四年:2014/09/12(金) 23:45:14.98 ID:nP9JkPua
47 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 00:20:54.69 ID:WzY/3eXj
関東は関東で戦国時代の始まりは応仁の乱じゃなくて永享の乱ですって人もいるしどっちもどっちでしょ
まあ最近は後北条を最近は持ち上げてきてるけど関東の方が圧倒的に研究者が多くて進んでるんだから関西非難するのは違うと思うがな。
ぶっちゃけ畿内が日本の中心であったことを否定する方が可笑しいと思うけど
ちなみに三好研究者は織田信長が嫌いなんじゃなくて、信長が全てやりましたって言ってる人らが嫌いなだけですよ
三好政権が短命ってよく言われることがあるけど織田と豊臣と比べたら長い方だけどね
48 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 00:54:29.57 ID:FJoal0R9
三好家、織田家、豊臣家の政権の長さは五十歩百歩で大して変わらないよね
しかし版図や政策などその影響力で比較すると三好家に評価できる内容が少ないかな?
三好長慶が足利義輝を切り捨てないで2度の和解と京都からの撤収が何ともってところでしょうか
三好政権に利することを書いてないけど三好家は好きだからねと言い訳しておきます
49 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 01:03:26.33 ID:TTzpWKmA
単純に四国がほとんどバックアップしてないからだろ。
武田、上杉、織田、豊臣は、山梨、新潟、愛知、大阪の布教活動が壮絶。
毛利と薩摩は更に別格だし。
50 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 02:40:13.79 ID:T/CY6ha4
>>48 自分もあなたの意見に近いです
三好は大好きだけど、織豊政権の畿内以外の地域への影響力・統一政権としての
同時代・後世へのインパクトの大きさは三好の畿内支配とは比較にならないと思ってる
だから三好と織豊を同じ「天下人」というカテゴリで括るのはわりと違和感ある方
でもこれって関東の研究者の見方にむしろ近いのかーw関西人なんだけどな
51 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 02:52:43.30 ID:qLjiSXN9
52 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 04:04:34.25 ID:oaJ1ikKx
信長も三好より規模がでかいだけの天下だし
豊臣も肝心の徳川を滅ぼせなかった時点で天下人にしては中途半端
三好は政治を行っていた時点で織田より上かもね
53 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 06:33:17.75 ID:wuFId54d
イメージにとらわれずにきちんと調べて細川・三傑政権と比較すると
三好政権の独自性ってのはたくさん見えてくるんだよ。
一揆との関係とか宗教政策とか。
なかでも一族ぐるみの宗教政策の巧みさは特筆ものだと思う。
滅んだから「失敗した政権」と切って捨ててしまわずに
きちんとその業績は評価されるべきだよ。
54 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 08:31:33.80 ID:2ww8Pv3f
だって、知名度の低い程度の天下を取ったのだから。
55 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 08:31:53.62 ID:VSw7LEoo
あれってどうだったんだろうね。
私怨を捨てて、それまでの狂気の宗教戦争を終わらせた長慶と、
焼討や虐殺で強引にねじ伏せた信長。
現代の史家は、信長は宗教の影響を絶って近世への扉を開いた云々、とか言うかも知れないが、
当時の人達からすれば、強面の信長よりは長慶の方が優しくて良かったかも、みたいな。
56 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 09:42:34.82 ID:FJoal0R9
>>55 >私怨を捨てて、それまでの狂気の宗教戦争を終わらせた長慶
天文2年の和議ことを書いているなら間違いです
翌年和議は破棄され石山本願寺は蜂起し細川晴元と対立しています
57 :
人間七七四年:2014/09/13(土) 23:45:34.72 ID:wuFId54d
本願寺+細川晴国(高国弟)と晴元が争った天文の錯乱というのは複雑な相関関係がありまして
実は三好元長残党は波多野と組んで本願寺・細川晴国陣営に味方していました。
どうやら三好長慶の認識としては父を殺した一向一揆は晴元・木沢に扇動されたもので
本願寺法主は彼らに利用されただけで真の仇敵ではないと認識していたようです。
天文2年に一向宗・法華宗双方に影響力を持つ長慶が仲介した和議が破られたのは
法主の主戦派側近が暴走したもののようですが
再戦当初は本願寺に味方した長慶は木沢の調略に乗り晴元陣営に寝返っています。
三好家の支援を失った本願寺は天文4年に「滅亡」と呼ばれるほどの大敗を喫し
晴国と主戦派を追放することで晴元と和談を結びます。
しかし追放した主戦派と晴国が分派を起こし蜂起してしまいます。
すると長慶は木沢と共に彼らを攻め滅ぼし(法主に代わって分派を粛清し)ています。
長慶と本願寺の関係は複雑怪奇ですが、お互いの利用価値を認め合った法主と長慶は
その後強固な共闘関係となりタッグを組んで勢力を盛り返していきます。
58 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 00:15:28.14 ID:aJkeIejz
>>57 へー、こんな風に硬軟織り交ぜて
本願寺主流を味方に付けるって結構すごくないか?
後年の織田VS石山本願寺とか見てると
>>9の足利・細川・畠山とかよりもこっちの方がずっと難物に見えるんだけど。
59 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 00:26:49.30 ID:JGJ2V3lj
d
60 :
57:2014/09/14(日) 01:49:31.92 ID:7bbwf+zp
>>58 >>57は実は長慶がカッコよく見えるようにちょい潤色していまして
この当時は長慶は当主ではありましたがまだほんの子供で
実際の活動をしていたのは一門の長逸らだったようです。
この一連の騒乱でボロボロになった本願寺と三好が
お互いに助け合って逆境からの巻き返しを図ったという方が正しい見方かも。
いずれにしても本願寺と三好の同盟は
両勢力の発展を促したことは確かだと思います。
61 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 07:41:42.11 ID:X6FKFz/N
どっちみち、地方政権レベルのあらそいでは、勢力均衡へバランスが取られて手ぬるい結果となる。
織田の場合は総決算的な戦争になるから野合でもなんでも、その他が集まって抵抗。
つまり、最後の勢力均衡策が取られて激しい抵抗となる。
それを並べておだと比べて三好の活躍のほうが上だから・・・とかいうのは贔屓の引き倒しかと。
62 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 12:36:00.59 ID:C3retOkx
誰も三好の方が織田より上なんて言ってないと思うけどな
それぞれのやり方があっただろうしな、信長のやり方、長慶のやり方、秀吉のやり方
信長は武力で抑えるやり方、長慶はその反対
信長の場合は圧倒的武力で抑え込むやり方が一番良かったし結果それで行けた
長慶の場合は武力で抑えつけられるやり方では駄目な時代でもあったし。
63 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 13:26:35.03 ID:5JGR4YEk
源平の合戦も規模敵には小さいからね
だから平氏は関東で苦戦して源氏に負けたと
当時の天下人も京都周辺でしか軍事力を発揮できなかった
平氏は京都を追われたら西国から無視されて敗れたと
鎌倉幕府の初期の源氏3代も京都を抑えていなかった
京都の平氏を追い出しただけで京は朝廷の影響化にあった。源氏は朝廷を助けただけになってたのねw
実朝が暗殺された後、六波羅探題を設置して京都を抑えてやっと天下を取った
それまでの幕府は関東を治めていた武家政権にすぎない
西は朝廷の影響化にあった。だから承久の乱が起きた
三好も十分織田豊臣と同等に評価にできる
細川政権は応仁の乱後50年と長かった。この細川を見ても京都を抑えるのは難しかったと
細川時代に三好織田豊臣より先に天下に一番近づいたのが大内義興で、義興も過小評価されている
実力的には当時一番力を持っていた。ただ尼子や京都の政変のせいでタイミングがあわなかった
64 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 14:16:28.14 ID:jspvY4cE
>三好も十分織田豊臣と同等に評価にできる
織豊政権のうち、豊臣政権は名実ともに天下統一を達成した政権なわけで
これを三好と同列に論じるのはどう考えても無理でしょう
三好の再評価を目指すなら、まだ三好と織田政権の畿内支配との
部分的な連続性を主張するくらいの現実的な路線の方が無難だと思う
65 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 18:57:32.28 ID:OmUTvPYP
三好政権を評価するっていっても教科書に載るような政策はあるの?
66 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 19:48:36.27 ID:cW1sQYIo
三好長慶が何をしたのか?
そこが根本的な問題!
67 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 21:07:34.88 ID:bqfcxgkL
教科書に載るような政策は残念ながらないんじゃないかな
それまでの細川政権よりマシな経済政策と畿内自治権の調整を行っただけで
織田政権がやったほどの革新性はあんましないしまず資料が乏し過ぎる
そもそも長慶がどういう思想で畿内を支配したのかもはっきりしてないし
68 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 22:35:52.03 ID:OmUTvPYP
畿内支配はある意味仕形がなくって感じがあります
細川晴元が三好長慶を優遇していたら
足利義輝が三好長慶と和解していたら
たぶん三好長慶は主君を立てると思います
69 :
人間七七四年:2014/09/14(日) 23:32:47.43 ID:bqfcxgkL
あくまで晴元とその一派に仕掛けたはずが
将軍までびびって京から逃げ出したために空白となった京で政を代行
自らの晴元への私怨で仕掛けた抗争でこうなったのだから
仕方なくって感じですかねやっぱり?
個人的には長慶は最初から義輝とは敵対するつもりがなかったように見えます
晴元に色々吹き込まれて謀反人と信じ込まされたってのが将軍との対立の原因なのかも
70 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 02:00:02.81 ID:pn/FzDhS
三好長慶の思想を反映したと思うわれる旗幟「理世安民」
民が安心して暮らせるように世を治めるという意味です。
つまり長慶は私怨から晴元や将軍を追放したのではなく
天下万民のための政治を実現するためだったと自己の行動を正当化しています。
実際に都の実権=政権を握った長慶はそのスローガン通り
新興層の勃興などで時代のニーズに合わなくなり破たんした旧秩序を
より畿内社会の実情に即した形に再構築していきました。
その過程で管領はその権威を完全に喪失させられ
室町幕府も再起不能なまでにズタズタに解体されました。
過去にも将軍や管領を家臣が殺したり傀儡にしたことはありました。
しかし三好政権は幕府の組織や権威まで解体してしまっています。
この点で三好政権は細川政権の延長と捉えることはできないと思います。
71 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 07:46:43.51 ID:kyCucSPA
細川晴元は管領であるためそれ自体が幕府中枢であるのに対し三好長慶は細川家の一武将
その立場の差が幕府解体に見えてしまいますね
しかし三好政権は幕府役人の取り込みに成功しているし足利縁者も確保しているので厳密には幕府解体とは言えず幕府代行と考えた方が無難かと
傀儡幕府ではなくね
72 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 09:39:55.37 ID:pn/FzDhS
三好家の研究に関してはその再評価に先鞭をつけた今谷氏が
自説に拘泥したために資料を意図的に曲解したりして
以降の三好政権の理解を歪なものにしてしまいました。
永禄元年に成立した三好と将軍家の和議は
将軍家を滅亡寸前まで追い詰めて義輝から人質を取って
つまり長慶が事実上の上位権力者だと認めさせたものだったのに
今谷氏の理解ではなぜか「三好家が将軍家に屈服した」となっています。
到底理解しがたい論理ですがなぜかこれが多くの人に信じられて
その後の三好政権の過小評価に拍車をかけていると思います。
永禄元年に「将軍を屈服させた」後にも三好家は独自に裁許を出しており
幕府側の裁許は三好家に壟断されたあげく事実上の機能停止に追い込まれています。
以上の経緯から幕政の代行ではなく傀儡化から簒奪に向けて
着々と地ならしをしている途上であったと見るべきだと思います。
73 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 14:30:17.70 ID:3Lz0UUec
しかしその結末は仰ることとは程遠く簒奪にも傀儡にもなってない
74 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 17:48:33.92 ID:3NHkE7AJ
傀儡化って何でそんな突拍子もない発想に?
三好長慶は将軍を擁立なんかしてないよ
将軍を擁立してもいないのに傀儡化って意味が分からない
75 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 22:23:49.95 ID:sI9njgkb
将軍を擁立してもいないなら
三好長慶の相伴衆就任とは何だったのか(震え声
76 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 22:43:42.73 ID:GTXX+rPA
そうだけど、立てた訳でもないよな
77 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 23:20:36.05 ID:pn/FzDhS
かいらいせいけん【傀儡政権】
形式的には独立しているが、実質的には他国によって操られている政権。
78 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 23:29:58.21 ID:Uxo8h919
三好長慶ってそんなにすごいの?長寿だったらどうだったか
信長の上洛軍にあっさり敗北して現在の評価ガタ落ちになってそう
79 :
人間七七四年:2014/09/15(月) 23:48:02.92 ID:NLoCt1So
長慶が亡くなり三好三人衆と松永久秀とが対立して内部分裂していた頃に
信長は足利義昭を擁して上洛するわけでつまり漁夫の利を得たわけ
仮に三好長慶含め長慶の兄弟ももうちょっと長生きして政権も安定していたら
まず信長は畿内を掌握するのも難しい
三好長慶の全盛期には四国東部と畿内の10カ国200万石相当を支配化にしていて
やろうと思えば6万人強の兵力を動員することもできたはず
かつ信長と同じく堺の経済力にも目を向けていた
物量的にも当時最強の勢力
80 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 00:13:52.26 ID:dfwQKdkV
まあ、三好家は最強談義には向いてないし一般層からは相変わらず逆風だからな。
まず今の三好研究では旧来イメージとは全く違うイメージになった松永久秀と
江戸時代に創作された松永久秀像のイメージの蔓延でまず三好家と言えば旧来の松永が表に出てくる弊害
『剣豪将軍』と最後の逸話で厨二要素満載で大人気の足利義輝
とその義輝を殺害した三好三人衆に対峙するのは
義輝の弟・足利義昭を擁する征伐した織田信長が悪の三好を征伐し荒れ果てた京を再興する
って構図からまず撤廃させないとダメだからな。
そもそも三好氏や畿内の研究が本格的に始まったのってここ最近の話でしょ?
(織田・上杉・武田などメジャー級は手垢が付いてるから三好や細川などの畿内大名くらいしか目新しいのがいないから)
今谷氏も本を書いた昔と今では違うって言ってたけど、天野氏が出てきたから色々これから三好は発掘されてくるだろう
81 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 02:03:11.34 ID:Rmd1KMDn
三好は研究史の薄さから3冊ほど読めば
誰でも即通気取りできるお手軽アイテム化してるので
これから中二病も狂信者もいろいろ増えていくんですね
このスレ見ただけでわかります
82 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 02:25:02.68 ID:dLJFtMPw
大内なんて2冊だぜ
83 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 03:45:28.66 ID:Rmd1KMDn
>>81 大内厨は三好厨のように抜きがたい「天下人」コンプレックスも
「これまで不当に扱われてきた」という被害者意識からくる
攻撃的な啓蒙活動への意欲もないので
これからも戦国板の圧倒的サイレント・マイノリィとして
誰にも迷惑をかけず細々と活動してゆく未来しか見えません
正直大内は厨が湧くほどのキャラの濃さもないですし
歴代大内家の当主も名将揃いなのに不思議ですが
おそらく大内は戦国大名としては品が良すぎて
いかにも戦国らしい魅力に欠けるんでしょう
84 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 07:00:22.68 ID:DKXcqg2M
>>83 こういう他人を貶めることでしか自己主張できない奴って
本当に哀れとしか言いようがない。
自分はたった3冊の本を読むこともしないし
読んでも正しく理解できないんだよね。
天下人コンプレックスなんて誰も持ってないのに
見えない敵と日夜戦ってるのは自分じゃないの?
このスレのやり取りで攻撃的な啓もう活動なんてなかったでしょ。
ただ誤った情報から貶められることに対して
誤りを正して反論していただけだよ。
85 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 07:56:33.56 ID:rPxV59xM
>>79 漁夫の利は織田信長だけではない
武田信玄、上杉謙信、北条氏康、今川義元、毛利就もやり口は同じ
86 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 20:29:09.54 ID:CweMTe6y
なんか違う方向に流れきたのでしばらく様子見
87 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 20:54:38.31 ID:ZtFrvYOG
長慶って運が良かったからみたいな場面ってあんまりないよな
本当に実力のみで這い上がった感じ
88 :
人間七七四年:2014/09/16(火) 21:40:22.09 ID:WHx+p6+K
近江の六角がいつも三好との挟撃決戦時に間にあわないか
中途半端な出兵になるあたり長慶は結構強運だと思うよ
89 :
人間七七四年:2014/09/21(日) 11:49:56.32 ID:VbZV3/EU
江口の戦いの時は六角は長慶に釣りだされたんじゃないかな?
六角勢一万が摂津に進軍せずに京に留まっていれば
三好勢に摂津は奪われてもその後の総崩れはなく
晴元は都までは失陥せずに済んだと思う。
90 :
人間七七四年:2014/09/21(日) 21:49:04.58 ID:eBTJGzF2
三好家が最終的に戦国大名としては生き残れなかったのは、三好実休とその子の長治の存在が大きく響いてるでしょ。
三好実休不可解な細川持隆の暗殺、持隆の息子真之への扱いと実休の戦死、実休の跡を継いだ長治の悪政・・・。
このへんの流れが三好家の基盤であるべき阿波の混乱と畿内での騒擾とがリンクしている。
阿波がしっかり治められていれば、最悪地方の権力として生き延びる道も有ったであろうのに、
長宗我部の侵攻を許し、阿波・讃岐の混乱を招いたことで生き残る道も自ら閉ざしてしまっている。
細川家が傍流ながら見事に生き残ったのとは対照的ですね。
91 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 00:11:54.79 ID:viJgHnHt
三好家が消滅して忘れ去られた原因は以下の3点も考えられると思います。
三好の名跡が織田信雄に移ったり羽柴秀次に移ったりしてうやむやになってしまったこと。
秀次が三好に養子入りした時に三好系家臣団も秀次配下に合流したものが
後の秀次粛清劇で多くが巻き添えで没落したこと。
三好系と親密だった堺閥が利休(長慶の義兄弟?)の粛清に象徴されるように没落したこと。
三好のネームバリューが長治滅亡後も
まだ一定の影響力を持っていたがのが裏目に出て
権力闘争に巻き込まれるうちに歴史の波にもまれて藻屑と消えてしまっんじゃないかと。
92 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 01:42:20.53 ID:u4PbSWj1
権力者の子弟が三好の名を欲するぐらいなんだから、
やはり、三好の名声は高かったんだろうね。
93 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 01:54:20.62 ID:l2ATK9xw
三好市って町の名前があるから四国の一部じゃ庶民からも人気だったのかな?
94 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 06:47:06.92 ID:uCG3b6xL
>>93 地名のほうが昔から有る、
三好家は小笠原家の支流で阿波に移って三好の地を根拠地にしたから三好を名乗った・・・ということになっている。
小笠原家の支流・・・の部分はまだ未解明で、ホントは別の一族だったが小笠原家から入婿を迎えて小笠原支流を名乗るようになった・・・とか
ただの仮冒とか、いう話も有る。
95 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 08:07:02.36 ID:l2ATK9xw
そうなのか…そもそも四国における三好長慶や三好家の知名度ってどんくらいなんだろ
なんか四国の戦国武将と言えば長宗我部がメジャーになっちゃてるが
全盛期の長慶と比べたらちょっとばかりスケールダウンすると思うんだよね
96 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 09:52:29.17 ID:VDU1dnCJ
三好は長宗我部にボコボコにされたってイメージあるからなあ
97 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 09:58:59.84 ID:uCG3b6xL
>>96 三好家の勢力が衰えていたいから長曾我部が勢力拡大できたのであって、
三好が盤石なら長宗我部は土佐から進出するのは不可能だったでしょう。
最盛期の三好とガチにやり合った訳ではない。
98 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 23:20:28.52 ID:54CYh3Mi
>>96 三好にしたって最盛期の細川京兆家や畠山家と
ガチでやりあった訳じゃないし
細川同族連合が盤石なら三好はそもそも畿内に進出できなかっただろうに
大内義興の在京期間は海路も封鎖されて畿内に入ることさえ不可能だった
そういう意味ではタラレバの無意味な議論だと思うけどねー
>>95 三好は畿内に本国の阿讃のリソースつっこんで
国元の阿波にはろくな備えのある城(だからろくに防戦もできず
コウモリ如きにしてやられるんだよ!)も城下町もつくらなかったし
やっぱり末期が悪政だったのがイメージ悪いんだと思う
三好長治の失政と家臣の篠原長房や主家・阿波守護家との内乱で
阿波は盗賊が跋扈する国状態だろ
長宗我部の侵攻以前に三好自体が統治能力失って自壊したようなもんだもの
その挙句土佐の田舎者のコウモリ如きにフルボッコェ…
足利義昭や織田信長とも最後まで戦っていればそれなりに絵になって
人気がでたかもしれん。でもそのへん三好は節操も意地もない
長宗我部も四国統一の過程で寺は燃やすし謀殺祭で
無茶苦茶やりよったけどなー
オレは土佐人でも長宗我部ファンでもなんでもない四国人だけど
一般的に三好よりは長宗我部元親の方が人気があるのはまぁわかるよ
三好は畿内も阿波も最後がカッコ悪すぎるんだよ
99 :
人間七七四年:2014/09/22(月) 23:49:42.69 ID:0vlIDkt+
しかし三好も長宗我部も最期は仲良く同じ運命に殉じている
所詮は同じ四国勢似たり寄ったりだな
100 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 00:12:28.30 ID:kV7+en8j
大内・細川・長曽我部・三好どれも普通に凄かったと思うけど
置かれた立場や時代が違うんだから
優劣をつけるなんてさほど有意義だとは思わないけど。
元親を蝙蝠なんていうけど事績をきちんと追えば
文武に優れた英雄と呼ぶにふさわしい傑物だよ。
三好長治の悪政に関しては後代の軍記物しかソースがなく信ぴょう性が薄いようだよ。
内乱で盗賊が跋扈したなんて資料あるなら出してきてよ。
三好義継は義昭を守って華々しく討ち死にして賞賛されてるよ。
笑岩も十河存保も三好の勢力を残すために必死に戦った事績が残ってるのに無視するの?
101 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 00:30:33.75 ID:kV7+en8j
あと三好は最盛期には11カ国に勢力を持ち都も支配していた。
長曽我部元親も四国の大半を掌中に収めていた。
この偉業を吹っ飛ばすなんて語るに落ちるとしか言いようがないよ。
102 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 00:51:37.73 ID:kV7+en8j
連投になるけど阿波勝瑞に城下町があったし
他にもいくつも寺内町や港町が栄えていた。
あったものをなかったようにミスリードするのはやめてね。
103 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 03:09:49.69 ID:nXIr7HJ+
勝端城は阿波屋形時代からの旧来の平城・館形式で
籠城や防衛に対応していないつくりだったのは事実だけどね。
中富川の戦いの前に急遽泥縄で砦を増築したくらいだから。
山城としては河内に飯盛城のような大規模な城つくったものの
畿内で城下町の形成に力入れなかった(なくてもやっていけた)のも
阿讃淡に同時代の畿内や中国に見られる大規模な防衛・籠城重視の
山城が少なかったのもよく言われるけどそれはそう。
勝端城も畿内の三好の主要居城も近世の早い段階で破却されたので
後世の地元の記憶に三好とセットで残らなかったんだと思う。
摂津・越水城のようにすでに天正年間に地元民が
「こんな城あっても合戦に巻き込まれて迷惑なだけ。城割してどうぞ」
と織田信長に依頼して破却された可哀想な子もいる。
104 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 08:08:07.88 ID:kV7+en8j
四国全体が100年以上にわたって細川家の影響下にあり
阿波は長く細川領国として安定していたので
防御的城館が発達しなかったんだと思うよ。
戦う相手がいないのに城を建てても不便なだけだよ。
三好が畿内の拠点に城下町を作らなかったのは
103氏の指摘にもあるように
町や村落が戦の巻き添えにならないように配慮したというのも
その理由の大きなものの一つだと考えてるんだけど。
105 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 10:09:10.60 ID:/5p1LZA1
木沢や茨木とかも城下町にしてないだろ
106 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 15:25:40.92 ID:Sn4RPSw5
城下町化を考えなかった三好氏が特別だったわけではない
三好氏が城下町化をしなかったのは主家細川氏に遠慮した
若しくは将軍足利氏に遠慮したと考えた方が妥当だな
そもそも親三好派の堺が存在するのに城下町化は背信行為だよ
107 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 21:18:28.18 ID:4srcEAfJ
畿内での拠点として堺を抑えているのにわざわざ城下町を作る必要性はないもんな
108 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 21:59:41.52 ID:m39u3rIa
三好長慶が城下町に興味を示さなかった理由が資金不足だったら笑う
まさか堺に用立ててもらうわけにも行かないし
用立ててもらうといえば後土御門天皇が細川政元に用立ててもらおうとしたトンデモな件を思い出したよ
109 :
人間七七四年:2014/09/23(火) 23:05:59.37 ID:kV7+en8j
細川家の一奉行に過ぎない茨木直隆や
守護代から戦国大名化に挑んで失敗して滅んだ木沢と
信長以前の最大の戦国大名三好家を同列に並べるのは流石に・・・。
堺・平野・尼崎・富田林・京都など既に発展をしている畿内の諸都市とその経路を抑えているのに
新たな都市を作る必要はないと思うけれど。
自治都市というのはみな自衛のために武装してるし環濠や塀も張り巡らしてるので
防御力という点ではいわゆる「城」と遜色ないものがあります。
ですから都市が外敵に襲われたときに速やかに「後詰」を行えるように
軍事拠点と各自治都市をよく整備された街道や水路で結んでおけば
わざわざ城を建てて軍勢を駐屯させなくても都市の実効支配と効果的な防衛は可能です。
110 :
人間七七四年:2014/09/24(水) 12:40:57.07 ID:JyY1PxQn
そもそも、足利家が健在なんだから
この段階で近畿で拠点を作ると完全に敵対することになるからやらんでしょ
111 :
人間七七四年:2014/09/24(水) 23:04:10.60 ID:HOvPEaUw
でも拠点が貧弱(?)な割には、
妙に機動的・効果的に、四国から援軍を繰り出してるよな。
112 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 00:13:33.94 ID:58ZNUiSv
阿波って長宗我部が来る前と後で全然違うよね
基本的には治世も上手くいってるし争いもそんなにない、で木材と藍と脇の物流で潤ってる
113 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 00:40:02.79 ID:GRP6s+Cz
細川や三好の勢力が弱体化して
大敵不在の四国を掠め取ったのが長宗我部
114 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 01:46:42.62 ID:AA/Aiwo7
でも長宗我部が本能寺の陰の主役かも、なんて新説もあるんでしょ?
この頃の四国って、思ってる以上に中央に影響力があったんかな。
115 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 07:01:59.67 ID:0Fkah5Cf
戦国時代になり地方から畿内への流通が不安定になると
畿内に近く、水運の大量輸送が使える四国の重要度は増しますね。
応仁の乱以後連年の戦で畿内は木材などが大インフレ状態で
四国勢は儲かって笑いが止まらないって状態だったんじゃないかな。
土佐が流刑地として知られているためか凄い僻地と誤解されているけど
船を使えば畿内からそんなに遠いわけではないので
長宗我部は中央の情勢をよく把握して動いていたみたいだね。
116 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 09:56:59.73 ID:CNUSUjCd
三好が安宅水軍をして大阪湾を抑えていたから畿内への介入が容易だったんでしょ
117 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 14:10:57.90 ID:cvjDXS2m
阿波を拠点に大坂に進出し橋頭堡を築き天下を狙う。
日本ハムや大塚製薬みたいなもんか。
土佐にある日本有数の大企業なんて聞いたことないな。
阿波が現在も畿内に影響力があるのは三好のおかげかも
118 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 14:27:05.93 ID:tjfQIsiJ
119 :
人間七七四年:2014/09/25(木) 17:16:24.53 ID:yWljF5I3
岩崎弥太郎は最初から大阪に会社を設立している。
四国の会社が大阪を経て全国へという流れではない。
120 :
人間七七四年:2014/09/26(金) 18:35:43.16 ID:FoEQ/DZI
三好のおかげなんかじゃない
堺の経済力のおかげだ
極端なこと言えば三好がいなくても全く問題ないが堺がいなかったら話にならん
121 :
人間七七四年:2014/09/26(金) 20:32:44.39 ID:4iQ8AyF0
三好は伊予なんか支配していたのか?
讃岐ですら西半分支配していたと言い難いのに
122 :
人間七七四年:2014/09/26(金) 22:26:49.82 ID:VMW5G2Hw
堺の発展は瀬戸内を抑える大内に対抗して
南九州・土佐沖を通る航路の開発をしたことによるものだから
阿波・淡路周辺の水軍を抑える三好家の協力は絶対必要でしょ。
三好長慶が本願寺と同盟したおかげで
本願寺と敵対関係にあった堺に安定がもたらされたことも
その発展に大きく寄与したと思うよ。
西讃岐は永禄年間に香川氏が屈服して三好傘下になってるし
伊予東部も細川家の領地であったのを実休が抑えてます。
阿波西部の三好一門・大西覚養は伊予・土佐の一部にも影響力を持ち
河野氏や村上水軍も香川攻めの時に三好側についてます。
123 :
人間七七四年:2014/09/27(土) 03:10:34.13 ID:YT1/walI
>>122 >西讃岐は永禄年間に香川氏が屈服して三好傘下になってるし
>伊予東部も細川家の領地であったのを実休が抑えてます。
年月や経緯を詳しく頼む
そこら辺の話はありえない作り話が多くて謎が多い
124 :
人間七七四年:2014/09/27(土) 15:38:19.48 ID:cMFD3BP+
香川氏屈伏の史料は年月も経緯も間違っとるかな
つーかありえないことになっとる
125 :
人間七七四年:2014/09/27(土) 23:25:29.76 ID:Klts/lHp
>>124 > 香川氏屈伏の史料は年月も経緯も間違っとるかな
> つーかありえないことになっとる
wikiの記述のことかな?
軍記物ベースでなく確認できる資料だけから追っていくと
実休から村上に香川攻めへの助力を謝した書状が永禄2年に出されてます。
この時は攻め手の阿波三好家に香川家が従属することで和睦になったようです。
永禄6年に香川之景天霧状を退去(之景発給感状から)、毛利家を頼る?。
天正元年篠原の死後の混乱を突いて毛利織田の支援を受けて天霧状を奪還。
(之景に復帰を祝う書状が足利義昭から出されている)
こんな感じですので1559年から1573年あたりまでは
西讃岐は三好の勢力化にあったと言えそうです。
126 :
人間七七四年:2014/09/28(日) 08:10:45.18 ID:lyOh3vVl
>>125 結局その程度の話なんだよね
実態は今もわかってないのが現状
127 :
人間七七四年:2014/09/28(日) 08:17:05.90 ID:g3gLDInV
>>126 詳しく載せるのめんどくさいから端折ってるだけだよ。
自分で調べろよ。
ほんと自分では何もできないのにクサすのだけ熱心な奴ってかわいそうだな。
128 :
人間七七四年:2014/09/28(日) 10:09:07.78 ID:lyOh3vVl
>>127 結局その程度の話ってのはそれくらいのことなら誰でも知ってる内容という意味で別に君を馬鹿にしたわけではない
一般的なことだけだなという意味で書いたんだ
勘違いさせるような文章を書いてすまなかったよ反省する
あと自分では何でもできないくせにというあからさまな煽り文句は控えた方がいいぞ
日本語は難しいので読み手によっては悪意を持って解釈されてしまうことがあるから難しいよな
129 :
人間七七四年:2014/09/28(日) 15:41:34.00 ID:3WZ8Q6ad
>>128 あんたの文章に問題はないから気にするな
あんな文章で被害妄想を炸裂させている方がカルシウム不足
127氏はいちいち突っ掛かるなシラケる
130 :
人間七七四年:2014/09/28(日) 23:40:09.74 ID:2Eu5uoqY
>>125 香川家の記述は毛利家を頼った香川家と、
西讃岐に残った香川家の動向が混ざっておかしなことになってる
但し善通寺合戦があり三好家が勝利したのは、香西氏の事績を辿ると本当かと。
131 :
人間七七四年:2014/09/29(月) 00:57:23.06 ID:ltvAbEtB
永禄〜天正の香川氏には3人の人物、
香川民部大輔行景、香川之景、香川信景が登場する。
この3人は同一人物視する人も居るけれど、3人は別人の可能性が高い。
香川民部大輔行景は、西庄城の城主で十河氏に敗れ毛利氏を頼り(元亀2年)、「元吉合戦」(天正5年7月)を起こした。
香川之景は、天霧城の城主で「善通寺合戦」(永禄6年)で和睦し三好家の参加に入った。
香川信景は、織田信長に近づき偏諱を与えられた(天正4年)。
おそらくこんな感じかと。
132 :
人間七七四年:2014/09/29(月) 01:19:22.46 ID:ltvAbEtB
誤字酷いな。
×この3人は同一人物視する人も居るけれど、3人は別人の可能性が高い。
○この3人は同一人物視する人も居るけれど、別人の可能性が高い。
×三好家の参加に入った。
○三好家の傘下に入った。
133 :
人間七七四年:2014/09/29(月) 23:27:48.58 ID:P06OGTJR
>>132 問題ない
理解できるからきにするな
香川氏を何でもかんでも同一人物にしようとしないところに同意
134 :
人間七七四年:2014/09/30(火) 00:46:08.26 ID:nwwcPp0f
年月や経緯を詳しく頼むとお願いした者です
>>127 >詳しく載せるのめんどくさいから端折ってるだけだよ。
めんどくさいなら書かなくていいよ
役に立たなさそうだしレスの無駄になるしみんなの迷惑になるし
135 :
人間七七四年:2014/09/30(火) 22:41:40.01 ID:KO8eMsWY
125は書状だけ追ってるってことかな。
永禄6年に香川之景天霧城を退去っていうのは、善通寺合戦の根拠になるんじゃないかと。
天正元年篠原の死後の混乱を突いて毛利織田の支援を受けて天霧状を奪還というのは、
おかしいような気がしますね。
織田や毛利は天正元年年末まで阿波に上陸できるような状況じゃ無いし。
136 :
人間七七四年:2014/10/01(水) 08:11:10.23 ID:hyD0eReW
支援だから調略とか資金・兵員援助とかもあるし。
讃岐にわたるまでは毛利方水軍が支援しただろうし。
このあたりの時代の四国と東瀬戸内の情勢はカオスで面白いね。
137 :
人間七七四年:2014/10/01(水) 08:14:48.63 ID:BPYRYaxB
まあ検証とかしてないよな
そのまま並べた感がありあり
138 :
人間七七四年:2014/10/01(水) 20:38:19.07 ID:ylbjrdn2
んだな!
讃岐と東瀬戸内、それに備前も含めマジカオスすぐる
細川、大内、三好、毛利、織田と入り乱れ度がパネ
139 :
人間七七四年:2014/10/01(水) 23:10:55.59 ID:XxeUtsza
結局三好氏による西讃岐の完全支配は確証無しということで
140 :
人間七七四年:2014/10/02(木) 22:37:51.01 ID:/V89uPPH
>>100 >内乱で盗賊が跋扈したなんて資料あるなら出してきてよ。
「昔阿波物語」に天正8〜9年の事項として「阿波の国は盗賊の世となり申し候」
とある。ただ長治じゃなくてすでに十河存保の時代だな。
すでに長宗我部との阿波での戦いが始まってる時期だが、国内の治安が盗賊団の
横行によって自壊してしまったんだと。
日下又之進という盗賊の頭領が貞方を拠点に暴れまわって、強盗・追い剥ぎを
くり返し、勝瑞城下でも盗賊が盗品を売りさばく市を立てる始末で治安が極度に悪化。
城主の十河存保も盗賊を討伐しようにも、三好家の郎党が盗賊に混じっている
有様でどうすることもできず、毎日盗賊の襲撃知らせる早鐘の鳴らない日はなかった。
このような状態は三好笑岩が天正10年に阿波に一旦帰国して日下を討ち取るまで続いた。
同時期に勝浦川河口でも海賊が跋扈し襲撃を繰り返した。とある
阿波も末期はこんな感じで勝端城下の治安維持すらできない状態。
これで長宗我部と戦うとかまぁ無理。
141 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 03:06:52.59 ID:auSt8Dv6
織田と交戦中しつつ篠原父子とも細川真之とも殺しあう三好長治
家臣とも主筋とも殴りあうとかせめてどっちかにしとけば
阿波三好家は長宗我部の侵攻以前にすでにオワコン
142 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 07:04:49.49 ID:S7jb6nqg
三好記とか昔阿波物語とか軍記物ベースでは
あまり語ってほしくないんですよね。
変な記述が満載で三好家の事績が歪められた原因の一つだし。
長宗我部には押されまくりだったけど
織田家の支援を取り付けて天正9年には逆襲に転じてるし
本能寺がなければ天正10年のは三好信孝が上陸していたし
普通にまだまだ逆転可能だったよ。
143 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 20:46:50.08 ID:ViWnuozd
>讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を
>送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けてい
>る。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って
>香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。
この記述からすると香川氏・香西氏は三好家に従属してる。
でも香西氏は教興寺の戦い(河内)や元太城の戦い(備前)に出征してるけれど、
香川氏の名は見えない。
兵役を免除されていたのかな。
144 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 22:35:48.57 ID:UbmURMPh
>>142 この期の阿波三好家には良質な史料がないんだから仕方ない。
かりに否定するに足る一次史料があるなら語ってどうぞ。
宇喜多なども残存している史料が極端に少ないので
軍記物の記述でも毛利などの他家の史料や他の軍記物と照合して
比較的信頼性の高い使える部分を使うしかない。
「三好記」にせよ「昔阿波物語」にせよバックグラウンドも
成立年代も異なるけれど、少なくとも父の世代には阿波三好家に近い
あるいは実際に三好時代の阿波に生きていた著者の叙述なわけで
三好に不都合な記述はすべて後世の補正がかかって歪曲されてるっていう
考え方もそれはそれで逆のバイアスがかかりすぎだわ。
145 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 23:25:06.89 ID:mdHT74CB
>>143 香川氏が三好氏に従属していないため出兵していない
いつもの煽り君だろ?
いい加減理解しろよ
146 :
人間七七四年:2014/10/03(金) 23:41:25.44 ID:S7jb6nqg
>>144 >三好に不都合な記述はすべて後世の補正がかかって歪曲されてるっていう
>考え方もそれはそれで逆のバイアスがかかりすぎだわ。
いや、こんなこと誰も言ってないわけで。
資料として問題のある軍記物から採るなら
せめて一次資料の裏付けのある部分で語ってほしいんだ。
これら軍記物は事実に基づいてより
亡国を語る物語のテンプレ表現を
三好家の末路に重ね合わせて書いている部分が多いんで
一次資料から類推した史実とはきちんと分けて
取り扱いは慎重にしてくれってね。
軍記物のイメージが暴走して松永が大悪人にされたり
長治が暗愚の暴君にされたりということがあったので
きちんと実像を探し出すためにいったんそこから離れてほしいんだよ。
147 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 00:40:15.52 ID:oj5sRy2P
香川氏が従属していないとすると、香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を
送りつけたという話が破綻してしまうよな。
もし従属していないとすると、
・香川氏は三好家に対し天霧城を守りとおした。
・香川氏は三好家に天霧城を退去し、その後も実休や一存に対し反抗を続けた。
どちらだろうか?
148 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 03:24:44.62 ID:OiHfL3oY
>>147 何故二択しかないのか不思議なんだけど他にもたくさん選択肢がありそうな気がするぞ
例えば城を退去したが早期奪還は無理と判断し休戦という選択肢とか
故意に誘導してるの?
149 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 12:14:47.93 ID:oj5sRy2P
香川氏が天霧城を退去したというのは
>>125の書状から確かそうだね。
すると香川氏はどこを拠点とし、誰が天霧城を守備したのだろうか?
150 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 18:26:34.85 ID:ftnnSaQe
>>149 そろそろ自己顕示欲がウザくなってきた
なにがなんでも押しとおそうとする姿勢は如何なものかと
151 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 18:54:33.78 ID:/qh3K9aH
レス149はスルーの方向で
また無駄に荒れるのは避けたい
152 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 20:51:36.66 ID:gOvdvQiW
でもこの頃の香川氏の動向は興味深いと思うが。
153 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 23:32:56.08 ID:DLNoFZBF
永正4年(1507年)大内義興が上洛。
香川氏、香西氏等は大内義興(細川高国)に従い、三好之長(細川澄元)と対立。
永正17年(1520年)三好之長、斬首。
享禄3年(1530年)十河金光、早世。
享禄5年(1532年)三好元長、自害。
天文5年(1536年)細川晴元が管領に就任。
天文18年(1549年)三好長慶が細川晴元(管領)に対し謀反。
天文20年(1551年)大内義隆、謀反により自害。
天文22年(1553年)三好実休、十河一存が細川持隆(阿波守護)を殺害。
永禄元年(1558年)三好実休と香川之景の間で善通寺合戦が起こる。
三好方の香西越後守の仲介により和睦。
永禄4年(1561年)十河一存、死去。
永禄5年(1562年)三好実休、死去。
永禄6年(1563年)細川晴元、死去。
永禄7年(1564年)三好長慶、病死
天正2年(1575年)三好長治が香川之景、香西佳清を攻める。
天正3年(1575年)金倉合戦。香川之景、香西佳清が奈良氏の所領を奪う。
天正4年(1576年)香川之景、信長に属する。
天正5年(1577年)元吉城合戦。三好氏が毛利氏に奪われた元吉城を攻める。
同年、三好長治が自害。
天正6年(1578年)、長宗我部氏の讃岐侵攻。
天正7年(1579年)、香川之景、長宗我部氏からの養子(香川親和)を受け入れる。
風雲戦国史-戦国武将の家紋
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_south.html
154 :
人間七七四年:2014/10/04(土) 23:47:06.97 ID:DLNoFZBF
三好氏の讃岐侵攻を調べてるんだけど、年代の誤記が酷い。
多分、天文22年の細川持隆殺害以降、遅くても永禄5年の
教興寺の戦いまでには、三好家の讃岐侵攻は完了してる
はずだと思うけど。
寒川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/samuka_k.html 大永六年(1526)十二月、十河氏が三好氏から援兵三千余人を受けて、元政を
攻めてきたとき、地理を知り尽くした元政は、柳津に伏兵を起き十河軍の背後に
廻り、前後から挟み討ちにして十河軍に大勝した。とはいえ、十河・植田・神谷・
三谷氏らに加え、阿波の三好氏が加勢となれば、寒川氏にとても勝ち目はない。
元政は要地を守って十河軍に対峙した。十河軍の讃岐侵攻を聞いた香川山城守・
香西豊前守らは、一宮大宮司とはかって、寒川氏を援けるため一宮に大兵を出した。
これを知った阿波軍は戦わずして兵を退いていった。
天文元年(1532)、十河一存は長尾名村の池内城の寒川元政の居館を攻めた。
このとき、元政の臣、鴨部神内左衛門と同源次の兄弟は精兵五十人を以て
十河一存の本陣に突っ込み、神内左衛門のふるう槍が一存の左腕を貫いた。
一存はこれに屈せず太刀をもって左衛門を討った。源次も奮戦したが、兄と
ともに戦死した。一方、一存は槍を切り折り、そのキズに塩をすりこみ、
藤のかづらを巻いて帰陣した。 これを見た世人は一存の人間離れした行動に
対して、「鬼十河」と呼ぶようになったという。(中略)勝端城の細川晴元は
この合戦をを聞き、書状を送って寒川・十河氏との和睦をすすめ、両氏は
これに従い争乱は おさまった。
しかし、安富氏はおさまらず、天文9年正月、寒川郡七郷に攻め入り、四月に双方
合戦におよび、 寒川氏は敗れて敗兵をまとめ、本城を焼き昼寝城に入り、以後、
安富氏との攻防は三年におよんだ。
(天文元年(1532)というと実休5歳、一存0歳・・・)
155 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 00:03:51.81 ID:TReH5vYp
安富氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yasutomi.html 細川氏の内訌をみた周防の大内義興は、庇護していた前将軍義稙を奉じて上洛軍を起こした。義興は讃岐の
諸将に協力をよびかけ、安富氏は香西・香川氏らと大内氏に傾いた。それに対して細川氏は、切り崩しの
ため配下の三好氏に寒川氏を攻めさせたことから、大内氏派と三好氏派の対立となっていった。
安富氏らは勢力を拡大する三好氏に対抗したが、かえって三好氏によって制圧された。その後、
ふたたび大内氏に帰順したが、三好勢との小競り合いが続いた。
大永三年(1523)盛方は三好方の寒川元隣を攻撃したが敗れ、百余人の将兵を失った、この戦いは、
塩木の合戦と呼ばれる。
天文九年(1540)、盛方は塩木の戦いの恨みを雪ぐため、千余人の兵を催して寒川領に攻め込み、
昼寝城に立て籠った元隣を兵糧攻めにした。窮した元隣は阿波屋形細川持隆に救援を求め、持隆は
三好義賢に命じて寒川氏を救援させた。さらに十河一存に兵糧を援助させ、みずからは安富氏の
居城雨瀧城を攻めようとした。この事態に盛方は、細川氏に謝罪して兵を引いた。
その後、細川持隆は三好義賢(実休)の謀叛によって殺害され、三好氏が阿波の実権を掌握すると
盛方は三好実休に服した。盛方は天文十三年に死去し、そのあとは嫡男の盛定が継いだ、
盛定は筑前守を称し、その妻は三好氏の重臣篠原長房の女であった。安富・篠原両氏の
領地の間に寒川氏領があり、両氏は自由に交通できなかった。そこで、安富・篠原氏らは
三好長治の力を借り、元亀元年(1570)寒川元隣の大内郡を奪い、盛定は虎丸城に入った。
156 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 10:40:50.89 ID:jTTQ7TeY
>>125 日本語を理解してない時点でアウト
無知がこのスレにいると荒れる
157 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 12:48:52.27 ID:i+UlDBGI
>>156 最初イミフなレスだなと思ったけどスレの流れを読んで納得した
被害妄想に囚われた125が全ての元凶だったんだね
158 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 13:10:32.20 ID:B8Id5op+
125氏みたいな自分の意見を否定されると悪態言動をとる人は何処にでもいる
自信がない人って意見薄っぺらだから補強する材料がないので感情剥き出しに暴走するんでしょう
159 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 14:13:07.60 ID:uJf3dxuG
三好氏の讃岐侵攻の年代はともかく順番はだいたいはっきりしてるな。
・植田諸氏(十河氏・神谷氏・ 三谷氏)三好氏と敵対せず
1.寒川氏(昼寝城)
2.安富氏(雨滝城:細川四天王、旧東讃岐守護代)
3.香西氏(勝賀城:細川四天王)
4.奈良氏(聖通寺:細川四天王)
5.香川氏(天霧城:細川四天王、旧西讃岐守護代)
160 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 15:24:05.93 ID:Pvm6dHpM
125の人の失敗は被害者意識にとらわれ自己擁護に邁進してしまったところだろうな
それに彼の性格なんだろうけど思い込みが激しいのも災いしてしまった感がある
あとゴリ押しに引っ張りすぎちゃったのも自己顕示が激しい痛い人と決定付けたね
まぁ彼自身の度量の狭さが招いたことだからどうしようもない
161 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 16:07:43.87 ID:uJf3dxuG
西讃岐の奈良氏だけでなく、伊予の石川氏まで三好家の傘下に入ってるのか。
1558年(永禄元年)、讃岐と伊予の「境目城」の城主である石川道清は、
河野家臣であったが三好長慶の娘を娶った。1572年、三好長慶は石川
道清を先陣に伊予国へ侵攻した。河野通吉はこれを察知して高峠城に
攻め寄せ、三好勢を讃岐国に撃退した。
162 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 16:23:45.52 ID:uJf3dxuG
って三好家の伊予侵攻も年代がめちゃくちゃだな。
石川道清と河野通吉の事績を調べてみないとよくわからんな。
163 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 16:33:53.00 ID:u89t5+NR
ID:Klts/lHp=ID:uJf3dxuG
>>161 >1572年、三好長慶は石川
>道清を先陣に伊予国へ侵攻した。
長慶がすでに死んでることも知らん素人は半年ロムって勉強した方がいい
そしていつまで讃岐ネタをごり押すの?
他人を罵倒する自己中心的な荒らしなんか誰もまともに相手しないよ
少しは反省したら?
164 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 16:58:50.01 ID:uJf3dxuG
全然違うけど、反省する!
しかし三好長慶の娘婿の石川道清って人物が、さっぱりわからない。
誰か知ってる人いないかな。
165 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 17:46:09.23 ID:QvMbgwfk
166 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 18:30:01.06 ID:cw/uuHCg
>>125が香川家が三好家に屈服したという通説を
@実休の書状A香川之景感状B足利義昭書状という一次資料を根拠に
史実として肯定的に捉えようって論じているのに対して
>>126>>128が持論をあげて反論するでもなく粘着してる荒らしてるだけでしょ?
下らんことで1週間も粘着できるなんてどんだけ暇なんだと。
167 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 18:42:38.00 ID:cw/uuHCg
知名度と言えばこの間仕事のついでに長慶銅像のある堺の南宋寺に行ったんですが
ボランティアガイドのおじさんに「三好長慶とはどういう人なんですか」と尋ねてみたら
「堺幕府を開いた三好元長という人の息子で、南宋寺を建てた出資者です」
そんだけかい・・・。
長慶銅像を模したミニ長慶像が売ってたのでつい買ってきちゃった。
ちょいチラ裏でした。
168 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 18:49:04.55 ID:Pvm6dHpM
169 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 18:50:25.59 ID:hKpWkEPH
>>166 それは違う。
彼は香川家の末裔か、その生まれ変わりか、幽体で、
香川家の名誉の為に真実を披露する準備をしてるだけかと。
いつか必ず凄い史料を公開してくれるはず。
だから、失礼の無いように!
170 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 18:56:50.44 ID:cw/uuHCg
>>164 この年代の讃岐・伊予の記録は錯綜しすぎてるんで
じっくり資料を当たらないと混乱が深まる一方だと思いますよ。
なんせ讃岐の実力者・香西元載が3度討ち死にしてるぐらいですからw。
あとスレチになってきてるんで三好本スレか四国スレに移動されては?
連投失礼しました。
171 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 19:00:03.25 ID:cw/uuHCg
>>169 そうでしたか、教えてくれてありがとう。
そういえば波多野氏の末裔か怨霊もいましたね。
すごい新資料を楽しみに待ちます。
172 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 19:02:37.64 ID:Af2ZBqwF
>>166-167 予想通り顔を真っ赤にレス入れてきてワロタ
125さんは話題を変えたいなら名誉回復を謀るべきではなかった
自己顕示欲がこの状況を許さなかったんだろな
173 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 19:10:09.50 ID:HbGyyek5
>>166 触れなきゃ正体がバレなかったのに
残念な性格だ
174 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 19:14:06.34 ID:HbGyyek5
>>166 もうあんた信用を無くしてるから書き込まない方がいいと思うよ
175 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 19:22:04.78 ID:hKpWkEPH
全くですよね〜 香川家が三好家に屈服なんてありえないです。プンプン!
176 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 20:42:03.67 ID:cw/uuHCg
>>125 >実休から村上に香川攻めへの助力を謝した書状が永禄2年に出されてます。
これって村上水軍が毛利べったりではなかったことを示す結構重要な書状ですよね。
三好宗家が分裂せず順調に畿内を平定して次が対毛利戦となった場合
毛利家は三好家に村上水軍を引き剥がされて
毛利と敵対していた大友と共同で経済封鎖をされた可能性が高い。
そうなる前に備中あたりを境界に和睦するでしょうが。
こう考えると教興寺の戦いのあとの三好長慶は
本当の天下人まであと一歩だったのに
地元堺でも知名度ほぼ0という、絶望的な知名度の低さだなあ・・・。
177 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 20:51:15.13 ID:Pvm6dHpM
>>176 自己顕示欲丸出しの自画自賛は恥ずかしいよ
178 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 20:57:18.28 ID:cw/uuHCg
誰と勘違いしてるんだか知らないけど
こんなバカにネチネチ粘着してないで
バシッと香川が天下を取った新証拠でも出して
三好厨の鼻を明かしてやればいいじゃんw
179 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 21:05:00.32 ID:Jwcp1bLa
ごめん
俺もあんたが自作自演している様にしか見えない
普通は空気読んで問題あるレスなんかしない
わざわざ荒れるの承知でこだわるのは本人だけ
本人か別人か知らんがあんたが頭おかしいのは分かる
180 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 21:27:01.63 ID:Jwcp1bLa
>>179 禿同
ID:cw/uuHCgはID:Klts/lHpなんだと思う
いつまでも自己弁護を続けてないでさっさと謝罪したらいいのにね
いやレスしない方がありがたいか
181 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 21:30:46.90 ID:Jwcp1bLa
182 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 21:33:54.70 ID:o44GMU4z
何で125のレスをわざわざ取り上げるかわからん
スレが荒れるだけじゃん
183 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 21:36:25.21 ID:o44GMU4z
184 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 21:47:41.10 ID:k1qBUwTa
>>123で詳しくとお願いされているのに
>>127で馬鹿丸出しの本音をぶちまけたのが痛い
人として終わっているとしか言えない
185 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 22:59:06.42 ID:cw/uuHCg
うんそうだね。
>>125はキモいし人として終わってるね。
186 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 23:03:07.31 ID:hKpWkEPH
>>176 村上武吉は元亀2年にも三好側について毛利と戦ってますから、
おそらくその通りになるでしょう。
ついでに香川様とその生まれ変わり様への暴言はやめて、ちゃんと敬ってください。
とても偉い方なのです。
187 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 23:34:26.34 ID:hKpWkEPH
>>181 香川様、一応お伝えしときますけど、
ID切り替えるときにIPアドレスも変更しないと、
全然意味無いですよ。
188 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 23:57:23.57 ID:Pvm6dHpM
189 :
人間七七四年:2014/10/05(日) 23:59:58.09 ID:cw/uuHCg
190 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 01:03:26.69 ID:q8mbwxQU
中心人物だった三好長逸の人望が無さ過ぎだった。
松永久秀、三好義継、三好康長に離反されてたらどうにもならない。
三好長治からも実質見捨てられているし。
191 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 11:28:09.62 ID:1IibT2R1
三好は織田・豊臣の視点からすると全然頑張れなかった駄目な子
同時期に織田方でそれぞれ中国・九州で戦っていた勢力として
大友と宇喜多があるけれど
・信長末期の大友は積極的に攻める余力はないが毛利の抑えとしては
十分機能している(毛利は織田と戦いつつも周防に1万ほど兵力を
常駐させる必要があった)
その後島津相手に本貫の豊後と豊前の一部は九州征伐で豊臣の援軍が
くるまでは独力で死守→戦後、豊後一国は本領安堵
・宇喜多は備前・美作の2ヵ国で実は天正7年から10年まで毛利のほぼ
全軍を相手に独力で互角の戦いを展開(毛利は備前以東の毛利方と
山陰戦線を放棄して山陽の宇喜多に三家の戦力を集中する戦略へ転換)
中国戦線が備前・美作〜伯耆の南条ラインで膠着したことで秀吉の
播磨平定と因幡攻略(吉川が援軍を伯耆以東にだせない)に
非常に貢献した→戦後、本領安堵に加えて備中半国を加増+のちに五大老
192 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 11:31:26.16 ID:1IibT2R1
これに比べると土佐一国の長宗我部相手に阿波・讃岐2ヵ国の三好は
織田の援軍なしでは到底立ちゆかなかったうえに
信長の三好笑岩への支援にせよ、信孝を笑岩の養子にして将来的には
阿讃を継がせる予定以外の何物でもなく伊勢の北畠と同じ乗っ取りコース
しかも最終的に阿波も讃岐も捨てて三好・十河は畿内に退去という有様
織豊政権側から見れば低評価になってもしかたない
四国征伐後豊臣政権と良好な関係だったにもかかわらず
十河存保が讃岐に2万石程度の所領しか与えられなかったのは
客観的にはわりとまっとうな評価ではある
逆に言えばせめて阿波か讃岐どちらかを四国征伐まで死守できてれば
十河存保なり三好笑岩が阿讃どちらかの一国の大名として
三好は残った可能性があった
193 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 18:22:01.52 ID:19JTFI4R
宇喜多、大友、長宗我部とも、
そうして名将の下で上手く乗り切った後、
次の世代で仲良く、三好とあまり変わらないみっともなさで、
滅びたじゃん。
194 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 18:39:17.71 ID:FzOmuPE3
三好政権の欠点はやっぱり長慶の兄弟ばかりに重要な役割を担わせてたことだよね
まぁこんだけ相次いで死んじゃうとは考えなかったんだろうけど
195 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 20:18:32.51 ID:U5/fyyF4
>>194 そんなん、信長・信忠親子が死んだら瓦解した織田政権、
秀吉が死んだら瓦解した豊臣政権も変わらんやん。
豊臣政権なんて自分から身内を粛清して回ったわけだから、さらにアレだけど。
196 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 21:10:43.11 ID:x5c1h35r
織豊政権が日本史上に及ぼした意義は
三好なんかとどう考えても到底比較にならないんですが
特に豊臣政権って名実ともに統一政権なわけで
「最後滅んだから三好も織田も豊臣も一緒だよな!」とかもうねアホかと
「長宗我部も宇喜多も大友も結局滅んだから三好と変わない」とか
三好厨の頭って大雑把すぎてもうねwwwww
歴史なんて過程こそが重要なんだろうに
どうせなら「徳川幕府だって最後滅んだんだから三好と一緒だよね!」
くらい言えばいいのに
197 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 21:47:52.27 ID:d5CGRYNM
>>193 だから三好も含めて全部仲良く知名度と評価が低いんだよ
198 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 22:26:30.35 ID:Ow314Run
>>196 そうじゃなくて、この時代どこも、
有能な当主が微妙なタイミングで死んで後継に難があると、
一気に苦しくなるんじゃないの?
長慶って他の英雄クラスに比べても、
かなり早死にだよな……。
嫡男も死んでて、後継が若い養子だし。
199 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 22:34:05.57 ID:q8mbwxQU
>>196 え?三好3代が四国から細川家主力として何度も上陸し、驚異的な粘りで
応仁の乱、両細川の乱、三好政権の成立まで、各地からの強力な上洛勢力を
京都から追い出し続けた結果が戦国時代だろ。
織田なんかは三好氏にとってみれば強敵10連戦の最後に出てきた奴みたいな。
そう考えると、三好氏が日本史に及ぼした影響って、
織田、豊臣なんか比べ物にならないくらい遥かに大きいんじゃないか?
200 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 22:37:31.62 ID:/iCYwqFH
義輝と和睦した後の長慶に明確なビジョンが見えない
ただ単に室町幕府の真似事をしている風に見える
201 :
人間七七四年:2014/10/06(月) 23:05:37.39 ID:59OSqo9H
信長も最初は室町幕府の真似事からはじめてる。
安土城作り始めたあたりから、室町時代とは異なる政治体制に移行したと思う。
202 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 01:33:39.92 ID:MtMSQ7HK
でも、三好家の崩壊は長慶の死亡とかその兄弟一族の死が連続したのもあるけど
一番は、松永長頼が丹波で戦死したのが原因やと思う。
松永久秀は戦略戦争面では大したことない。むしろ才能はない。
松永の成功は、松永長頼の武勇と人柄なんだよね。三好家の軍事にもかなり影響力があったと思われる。
だから、長慶死後、三好三人衆と松永久秀が協力して義継を支えていたけど松永長頼が戦死して、この関係が崩壊したと。
三人衆も長頼が健在だと大きく出れなかった。久秀も弟のおかげで権勢を振るえた。
この三人衆と松永に敵対が三好家分裂の直接的要因。
203 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 01:37:32.23 ID:MtMSQ7HK
あと、秀吉が織田家を乗っ取って天下を取ったように
信長も三好の天下を乗っ取っただけという見方ができる
204 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 02:48:56.43 ID:bQtI1gfh
>>199 上洛を目指す諸勢力を三好が三代か四代にわたって防いだも何も
応仁・文明の乱後、守護大名・守護代が領国経営のために
争って下国したのがそもそも戦国時代の始まりであって
京兆家は摂津・丹波がもともと主要な領国なので
山城を抑えるメリットが大きいから京にいる(こともある)のであって
諸大名にとって在京するメリット&上洛するメリットが一番低下したのが
細川・三好や畠山が畿内で争っていた時代ですがな
細川政元期以降の室町幕府はすでに全国政権ではなく
その実質的な支配圏が畿内政権にまで縮小してしまってる状況な
大内義興の上洛も別に義興自身には畿内を領国化する意図も
いわゆる幕府の実権握って「天下人」になろうとかいう意図もなく
政弘・義興と細川勝元・政元の二代にわたる伝統的な敵対関係の結果だし
(もともと険悪な細川・大内だがこの二代は本当に不倶戴天だった)
10年間の在京の結果、勘合貿易の利権が結果的にちょっと拡大したくらいでは
経済的にも政治的にも大内の上洛はコスト的には全然割にあわないのよ
畿内とその近辺に領国がない諸大名にとって、この時代の上洛は
それくらい具体的なメリットがない
畿内以外の諸大名の上洛志向が高まるのは戦国大名の地域統合が進んだあと
永禄年間もかなり遅くなってからの状況だわ
205 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 03:03:21.38 ID:bQtI1gfh
>>203 豊臣政権は織田の後継政権だが
信長は三好の家臣でもなんでもなく義昭奉じて
真正面から三好を倒したわけで乗っ取りでもなんでもないんですが
206 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 10:31:31.26 ID:1gU7mruo
大内義興の上洛に関しては
大内は畿内から遠いのでもともと在京義務を免除されている守護大名だけど
(その反面中央政界・幕府内での政治的発言力は低い。もともと南朝方だし)
領国数が多く富強で鳴った家なのでとにかく軍事力と水軍力がある
だから歴代足利将軍は三管四職をはじめとする畿内近国の有力大名が
将軍の言うこと聞かないときには「大内ちょっと上洛してこい」と
大内を畿内に呼んで軍事的プレッシャーをかけるカードを切ってきた
だから上洛慣れしてるというか、1万くらいの兵力つれて上洛するのは
大内は室町時代を通じてしょっちゅうだし、義興が義材を擁立して上洛
したのも、将軍が西国に流れてきて伝統的な大内カードを切ったと考えれば
むしろ違和感ないよ
207 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 10:59:51.61 ID:1gU7mruo
(つづき)
・義視−義材は西軍系の将軍で、旧西軍の大内は義材にもともと協力的
・細川政元が明応の政変で義材の首をすげ替えて義澄を擁立
政弘「は?なんで細川が好き勝手に将軍すげ替えるの?」と激おこ
息子の義興は政変当時畠山討伐に参加して兵を率いて畿内にいたが
まだ10代だったので細川政元にしてやられたかたちになった
・何より義材を保護すると九州・中国での大友や少弐・安芸武田との戦いに
大内側に大義名分が発生するという具体的なメリットがあった
・ところが義材を匿ったことに激怒した細川政元が将軍・朝廷を動かして
治罰綸旨をだし大内義興は「朝敵」に。「朝敵大内を攻めろや」と周囲の
諸大名に命じる。義興「あのくそ管領ェ…いつか思い知らせてやんよ!」
・九州で周囲の諸大名と大内優位に戦っているうちに政元が暗殺されて
両細川の乱勃発。大内とすれば仇敵・細川同族連合を殴って大人しく
させる絶好のチャンス到来
義材「いつ上洛するの?今でしょ!」義興「ですよねー」で上洛という流れ
上洛したからと言って別に畿内支配に野心があった訳ではない
管領代・山城守護にはなったものの、大内義興は最後まで幕政のなかでは
お客さん扱いでしたし
3代目までは大内も畿内に領国があったけど、中央政権=幕府の権威が失墜した時代に
本国と離れた畿内に多少領地をもっていても長期的に維持できないのは明白なので
逆に上洛を機に東大寺や興福寺に畿内での大内領を返還して帰国したくらい
208 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 21:55:33.18 ID:29301Pn8
>>201 本気で言ってるのか?
信長と長慶とではやってることが全く違う
長慶は義輝を宥和策で取り込みを図るが
信長は義昭を傀儡化で取り込んでいる
これが同じ真似事と考えているなら君は二人の本質を理解してないと言える
209 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 22:25:05.31 ID:bWNBo/iW
>>208 織田信長と三好長慶の時代は全く違うからなー。
長慶の時代は、旧細川家、六角家、畠山家、丹波衆、朽木家みたいな幕臣連中が
畿内周辺に健在で、特に最初の三家はかなり強大だった。
更に朝倉宗滴や本願寺までいて、簡単に足利家を完全追放できる時代じゃ無かった。
(それでも一度はやってしまったのが三好長慶だったが。)
織田信長の上洛した時は、細川、六角、畠山は揃って弱体化しており、
引き続き健在だったのは本願寺くらいなものだったじゃん。
210 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 23:07:27.34 ID:iwT6LIVl
戦国時代は地方の時代と言っているヤシいるけど、室町前記や江戸時代よりも
はるかに畿内への人口集中しているんだけど。
211 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 23:09:59.06 ID:8NxFUj3l
>>207 大内義興に幕府の実権を握る気が無かったというのは言い過ぎでは?
途中で挫折したという方が可能性は高いだろう。
212 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 23:15:15.96 ID:8NxFUj3l
>>210 活気みたいなのって、人口だけじゃ測れないんじゃない?
その理屈だと20世紀は「アメリカの世紀」じゃ無く、ずっと
「中国の世紀」だったってことになるだろう。
213 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 00:00:41.65 ID:jy0bMBSd
>>210 在京生活ってもともと大名にとっては経費がとてもかかる
でも幕府健在の時代には在京自体が政治参加の機会を意味し
幕府との結びつきは自領の経営にも有利なコネクションを意味したから
大名や在京直臣は負担に耐えていたわけ
ところが応仁・文明の乱以降は本国離れたら自分の領国維持もままならない
状況になったのに、なんでわざわざ在京しなくちゃいけないの?って話
だから畿内に領国がある畠山あたりでもさっさと河内に下国してしまう
幕府権力が強かったからこそ、京都に守護も一部守護代クラスや
毛利のような在京直臣も領国を空けて常時在京していることが可能だったし
コストに見合ったメリットもあった
だから諸大名は明らかに地方(というかそれぞれの領国)を重視せざるを
えない時代になったわけで、もし畿内に領国がないなら
わざわざ畿内情勢に関与する意味がなくなったのよ
そういう意味で政治的には畿内(幕府)の価値は明らかに低下したってことです
214 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 00:51:01.35 ID:jy0bMBSd
>>211 もともと10年も在京するつもりは全然なく義材を擁立して
情勢が安定したらさっさと帰国するつもりだった
いくら上洛前に周囲の敵対勢力と義材の斡旋で和睦を結んできたとはいえ
領国を空けるリスクは高いんだから当然だけど
勘合貿易の利権確保の問題がひとつにはあるけど、帰国を希望するたびに
大内の軍事力で高国政権が安定してるのは明白なので
細川高国や朝廷から詔勅がでて引き留められなかなか帰国できなかった
もし大内に畿内支配に野心があれば、三好が畿内に進出した際に積極的に
荘園押領したように経済的基盤を築こうとするだろうけど
大内は一貫して畿内では荘園押領をまったくしていない
義興には幕政の主導権をめぐって京兆家や畠山ら畿内の諸大名と
対立した形跡はまったくないし、意外にも(?)管領の細川高国とは
良好な関係でした
215 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 01:09:51.60 ID:ibz3IImy
大将 50000
宿老 10000
家老 10000
重臣 5000
部将 1000
侍大将 200
旗頭 20
足軽大将 50
組頭 10
216 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 05:54:39.35 ID:ZoZeTDXQ
>>209 その状況を無視して
>>201は長慶と信長の政策を同一視している
もう少し勉強してもらわないと困る
217 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 12:10:55.62 ID:JqE9heE1
>>201 織田信長は室町幕府の真似なんかしてないよ
むしろ幕府政治を目指したのは足利義昭の方になるか?
その場合真似じゃなく本物になるが
218 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 17:15:02.78 ID:3UDLEMyt
珍しく勉強になるスレ
219 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 17:19:04.94 ID:A9YNs68i
長慶は将軍も管領も認めてた
この度量ある対応は評価してください
220 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 17:31:21.17 ID:Qeo+MIYA
何度も暗殺されかけてるのにそれでも義輝を許しちゃう長慶
そこにシビれる!あこがれるゥ!
221 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 17:59:57.57 ID:JqE9heE1
三好長慶と上杉謙信は保守的な価値観が似てるのに何でこんなに差が出たんだろう
222 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 20:40:50.02 ID:NfS9QhVg
泰平の世を築いた東照大権現を打ち負かした信玄
その信玄と何度も戦い良い勝負した軍神様、これに尽きると思う
あと天下人である信長の軍勢を退けたってのも大きいかな
畿内と四国の一部含め10ヶ国近くを治めた長慶はすごいし
当時の畿内の情勢も面白いんだけど勢力構造が複雑な上予備知識なしに傍から見たら
とことん地味なんだよな
地方で戦国大名化した勢力が争ってるのと比べてもやっぱり地味
223 :
人間七七四年:2014/10/08(水) 23:52:12.75 ID:KlZ2qbHt
小大名の浅井に苦戦していた六角に大苦戦していたんだから大したことないだろ三好は
たぶん信長が上洛してきたら一方的にぶちのめされていたと思う
224 :
人間七七四年:2014/10/09(木) 02:08:27.61 ID:Gi35+iiw
>>209 >長慶の時代は、旧細川家、六角家、畠山家、丹波衆、朽木家みたいな幕臣連中が
>畿内周辺に健在で、特に最初の三家はかなり強大だった。
長慶の時代の細川・畠山なんて健在どころか搾りカスみたいなものだろ
京兆家(いちおう)を除いて畿内には一国レベルで統一できた
守護&戦国大名・国人がいないんだから
摂津下郡+阿讃淡の3ヵ国半の兵力が動員できた三好長慶がこいつらに
勝てなかったら逆におかしい
細川:両細川の乱で京兆家の内衆はほとんど全滅。摂津と丹波が一応領国だよ!
でもどっちの国人も管領兼守護の晴元の言うことなんか全然聞きません><
長慶が摂津で無断で段銭を二重徴収し税収を奪ってもとめられない晴元
「はじめてのむほん」で長慶が山城で勝手に徳政令だしてもとめられない晴元
実質的な畿内デビューの時点でいきなり若造範長(長慶)に舐められてる…
両細川の乱が終わっても、晴国・氏綱が登場して家督争いはまだまだ続くよ!
どう考えてもこんな細川京兆家は末期です
畠山:応仁の乱以前からずーっと2つに分かれて延々と御家騒動しているアホだよ!
守護代も二つに割れて好き勝手するよ。畠山の当主は@守護代に追放される
A守護代に暗殺されるB守護代の操り人形になるの3択から選べるよ
ここん家は戦はかなり上手いです。でも身内で殴りあうのに忙しく
河内一国も統一できませんでした…
腐っても管領家ですが長慶の時代の畠山は本当に腐ってます
225 :
人間七七四年:2014/10/09(木) 02:47:10.44 ID:Gi35+iiw
>織田信長の上洛した時は、細川、六角、畠山は揃って弱体化しており、
>引き続き健在だったのは本願寺くらいなものだったじゃん。
確か信長上洛時は他にも「み」のつく勢力が山城や摂河泉あたりには
それなりに健在だったと思うんだ。大和や丹波は義昭=織田方だったけど
ほら織田に3日で芥川城(畿内政治拠点)と河内飯盛城(畿内本城)の
両方を落とされて海の向こうに一度帰った連中だよ!
でもさ「みなんとか」さんも、その後は畿内に戻ってきたり結構信長相手に
粘ったような記憶もあるんだけど
でも名前さえオレも
>>209も思い出せないみたいだから
たぶん空気みたいなカスだったんだろうな
226 :
人間七七四年:2014/10/09(木) 23:19:51.52 ID:Vdx5tAN+
なるほど。三管領四職に比べると三好は格落ちするから、
幕府の支持を得られなかったというわけか。
227 :
人間七七四年:2014/10/10(金) 00:06:26.10 ID:+6Y7s+2j
>>202 松永兄弟の関係って実際のところどうだったんだろ?
長頼を討ち取った赤井・波多野はすぐに久秀と結んで
山城に出兵して三人衆に撃退されてるんだよね。
実弟が同派閥だとしたらその弟を討ち取った勢力と
即座に同盟なんか結べるだろうか?
状況から三好内乱時には長頼は久秀より三人衆に近かったと考えたくなるけど。
東播・京摂を押さえた三人衆に逆らったら丹波の支配は困難だったろうし。
長頼はとても優れた人物だったようだけど
敵の赤井直正も戦国屈指の名将だったのが不運だったね。
228 :
人間七七四年:2014/10/10(金) 01:05:33.91 ID:+6Y7s+2j
大内と阿波細川(三好)の抗争は
博多(大内)と堺(阿波細川)の抗争でもあったので
義興が上洛して阿波細川家を政権から排除することは
大内にとって大いにメリットがあったんじゃないかな。
大内に敗れ阿波に逃れた三好之長は淡路の水軍を傘下に収めるなど
雌伏中にも着々と勢力を蓄えて後の飛躍の礎を築くんだよね。
悪人イメージが強いけど何度敗れても復活して
三好の勢力を伸ばしたんだから相当なカリスマも能力もあったろうし
実像がどうだったのかとても興味深い人物だね。
229 :
人間七七四年:2014/10/10(金) 01:13:55.81 ID:04nC736d
>>210 畿内で最大規模の「近代無双」の教興寺合戦が三好・畠山両軍あわせて10万
三好勢の方がやや数的に優位で6万程度と言われているので
つまりこれが長慶全盛期の三好のMAX動員数だと考えていい
教興寺合戦に参加した軍勢・国人も5畿内+丹波+東播+阿讃淡から集めてるし
他方で上洛当時の織田の軍勢は同じく6万人規模でした
ただしこれには浅井などの同盟軍が含まれているで
信長単独では4万〜5万人の動員数だったと言われています
ところがこの時点で織田の領国は尾張・美濃と伊勢半国にすぎないんです
つまり信長は伊勢湾一帯の2ヵ国半おさえただけで
畿内を支配していた長慶全盛期の三好と等しい兵力が確保できてたってこと
織田は上洛後も畿内を領国化しなかったので
信長は濃尾+伊勢の人口と経済力だけで元亀騒乱の多面戦争を戦ったわけです
畿内は確かに人口規模も経済規模も大きいですが
実効支配して軍役をかけられるか徴税できるかは別物で
畿内は権門も寺内町も権限が強い地域なのでなおさらそう
何より伊勢湾一帯の人口規模・経済規模が非常に大きかった
実は畿内を抑えても意外に大きなアドヴァンテージはなかったんだと思います
230 :
人間七七四年:2014/10/10(金) 01:28:31.67 ID:+6Y7s+2j
>>229 横からだけどその教興寺の数字は眉唾だし
教興寺のときの三好は和泉大半・河内半国・京を失っていて
松永の大和征服も始まったばかりで
とてもじゃないけど最大動員とは言えないよ。
231 :
人間七七四年:2014/10/10(金) 02:31:42.90 ID:04nC736d
>>230 教国寺合戦も含めて、戦国期の合戦の参加人数が信頼性に欠けるのは
承知のうえです
軍記物でもホントかよ?っていう多めの数字ばっかりだしwww
しかし教国寺合戦は当時畿内最大の合戦規模であったことは事実ですし
三好が実際に行った合戦で教国寺合戦以上の動員数はないでしょう?
すべての分国が理想的に治まった時点で一番効率のいい動員数を仮定しても
そら理論的には可能でしょうけど、それは現実的には動員不可能な数字です
実際におこなわれた合戦の動員規模で判断するしかないですよ
232 :
人間七七四年:2014/10/10(金) 23:54:34.69 ID:dHa3VEsN
>>229 昔は上洛直後に畿内を全て手に入れたことになってたけれど、
最近はほぼ尾張、美濃、伊勢の兵力で元亀を乗り切った事が明らかになってきたよね。
あの多面戦争状態で京都と岐阜を結ぶ街道を4年間も維持し続けたのだから、
信長は戦争の天才としか言いようが無いと思う。
233 :
人間七七四年:2014/10/11(土) 02:10:20.94 ID:TjYr6pid
>>228 この時代の堺や東瀬戸内海に関しては三好はまだ本格的に進出しておらず
京兆家や他の細川一門の方がずっと大きな影響力があった時代
大内義興は上洛直後に足利義稙に恩賞として「堺南荘の相国寺崇寿院領をやる」
=「堺に所領をやるから大内の畿内拠点にしていいぞ」と言われて即座に辞退してる
「畿内では横領された寺社領の返還が幕府の方針なのだから
堺南荘分も相国寺に返還してあげてください」というのがその言い分
しかしもし大内の上洛目的のひとつが良く言われるように
遣明船の派遣をめぐる細川京兆家と大内の対立であればこんな絶好の
申し出を断るわけない。博多に加えて細川の拠点である堺を押えれば
遣明船発着港を両方支配できるんだから
つまり大内の上洛にそういうメリットなり目的は実は薄かったってこと
234 :
人間七七四年:2014/10/11(土) 08:55:09.76 ID:ayeuv9o5
>>229 三好・織田6万よりも畠山の4万の方がすごいな……。
分裂後の細川や六角よりもずっと強いんじゃないの?
応仁の乱以来、拙い内紛続きで碌な事してない印象が強いのに
その末期にどこからこんなに兵が湧いてきたんだろ?
235 :
人間七七四年:2014/10/11(土) 11:40:05.05 ID:/U/TqxWK
和泉、紀伊、河内は伝統的に畠山氏の勢力圏内だったから。
236 :
人間七七四年:2014/10/11(土) 13:58:18.43 ID:8W9k4obB
和泉はちがうでしょ
237 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 00:16:53.38 ID:lOZFCU/e
大和にも影響力があったみたいだ。
木沢長政や遊佐長教の兵力の背景は畠山氏だしな。
238 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 00:39:30.95 ID:pUlsQ5oS
>>233 阿波細川家から京兆家に養子入りして政元の跡目を継いだ澄元は
若年より三好之長の補佐を受けており32歳で亡くなるまで
ほぼ之長と君臣一体という関係にありました。
ですから大内上洛以前から堺や畿内の情勢には当事者として関わっています。
堺南荘は四国・畿内に強力な地盤をもつ細川家の牙城ですので
たとえ将軍からやると言われたからと他国者の大内義興が
易々と手を出せるものでなかったのではないでしょうか?
それに大内義興は幕府を支える実力者ではありましたが
その地位は管領に次ぐ管領代であり政権の主宰者は管領・細川高国でした。
細川家の総領たる高国が堺の権益まで大内に譲り渡すとは思われません。
勘合貿易から得られる利益は極めて莫大なだけでなく
大内家が独占できれば義興の領国での権威はいや増します。
そのライバルたる阿波細川家を政権から追放して
断裂を深くし弱体化させた細川京兆家に強要してその目的を達成させることは
やはり義興上洛の大きな動機の一つになりえると思いますし
得られるメリットが決して小さくないと思います。
239 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 11:30:56.50 ID:QUG5IXBL
>>238 大内義興は永正13年(1516)に初めて遣明船派遣に関して
「大内が永代掌握せよ」との義稙の御内書と奉行奉書を獲得しています
これはすでに上洛から8年が経過し義興の帰国が固まって段階です
遣明船派遣は将軍に決定権があるので、義稙がokすれば認可されますし
義稙の将軍再任は大内抜きでは不可能だったわけで、もし恩賞として
望むのなら大内側も当然もっと早い段階で要請しています
(もっとも将軍に認可されても、実施段階で将軍に反故にされたり
細川から横槍が入ったり勘合符が盗まれたりと何度も大内・細川間で
揉めてきたんだけど)
高国側も義興の御教書要請に横槍を入れた形跡はありません
むしろ遣明船派遣に関しては義興の帰国後、派遣実施の準備段階で
やっぱり今回も細川と揉めて高国と対立することになりました
240 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 12:33:20.50 ID:QUG5IXBL
(つづき)
この当時阿波守護家と大内は特に対立関係ではありませんでしたし
遣明船派遣に関してはこれは京兆家の管轄であって
阿波守護家には権限もないしこれまでも関与していないのでは??
大内と阿波守護家(三好も含めて)が勘合貿易をめぐってライバルだった
と言う主張自体がよく理解できないんだけど
ついでに言うと阿波守護家と将軍義稙の関係は成之-政之-義春代から良好だった
畿内での戦国大名化を目指す京兆家の政元への対抗策から
将軍義材は京兆家からの独立性を強める、野心的な阿波守護家を
引き立てることで細川一門の分断を図ったから、両者の利害は一致したんです
「平島記」によれば義稙の妻は細川成之の娘ですし
実際に大内の上洛が現実化した段階で、澄元は祖父・成之に
大内義興と交渉するよう要請し、義稙側と妥協を図っています
これは現将軍・義澄の反対と細川内部での対立(高国の寝返り)で潰えましたが、
澄元・阿波守護家が義澄を捨てて義稙の将軍擁立に同意したなら
大内・義稙側が管領に澄元を立てた可能性は十分にあったと思いますよ
241 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 15:05:08.91 ID:wCyyeB1a
>>234 紀州国人と根来衆が伝統的に畠山の味方なのが強み
特に根来の鉄砲坊主が味方してくれるのがとても頼もしい
三好の実休さんもズドンだよ!
まぁ教興寺合戦の10万という数字は三好・畠山ともにかなり盛ってるので
実数は畠山も4万よりかなり少なかったとは思うけどね
細川・三好に畿内の合戦で敗れてもとりあえず紀州に逃げれば
畠山は何とかなる。地形的に紀州は攻めにくいので
再び勢力を回復する機会が得られるので意外にしぶといよ
畠山は応仁の乱後、河内を中心に周辺諸国の寺社荘園を積極的に
押領しまくったので、一時は摂津や大和の一部にも勢力を拡大してました
だからもし二流に分裂して戦っていなければ非常に強かったはず
畿内の坊主どもは「王法仏法の敵」って呼んだけどそんなの気にしない!
逆に「持ってる荘園返します。堺もいりません」(キリッ)とか言い出す
大内が室町秩序の優等生すぎて怖い…まぁ畿内が本国じゃないからだろうけど
242 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 16:47:35.30 ID:FPkzScOo
>>241 畠山も協力だけど六角も佐々木家の筆頭なだけあって強かったよなー
総石垣の城とか技術力、経済力も半端じゃ無いし。
日本海からの貿易ルートを抑えていたんだろうか。
243 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 19:04:44.09 ID:3Ougsiwe
>>241 へー、六角高頼にそっくりだね。
六角討伐失敗、細川クーデター、畠山も六角と同じ事やり始める、じゃ
やっぱ明応の政変で、幕府は死んだも同じみたいな感じだったんかな。
244 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 22:39:24.48 ID:AU0Ig5CB
六角は浅井に苦戦し信長に瞬殺されたからそんなに強くないだろ
245 :
人間七七四年:2014/10/12(日) 22:59:53.62 ID:FPkzScOo
六角氏が浅井氏に苦戦てなんの事だろう?
六角定頼が戦ったのは同族の京極高延だよね。
三好氏と戦いながら京極氏を圧倒してたように見えるけど?
246 :
人間七七四年:2014/10/13(月) 09:21:44.72 ID:SOtldGrs
>>239 遣明船の派遣は応仁以降10年に1度3隻までですので
次の出港までに間に合うように文書を発給してもらえれば問題ないですよね?
3隻しか出せない、つまり小さくなったパイの奪い合いですから
大内細川双方とも割り当てを巡って綱引きに必死だったと思いますよ。
どちらも子分や支持母体に十分に儲けさせてやらないと権威が失墜しますから。
公貿易である勘合貿易を行うには将軍の公文書が必要、
しかし幕府実権は堺商人とより強く結託した細川家が握っている。
しかも幕府は義稙を匿うオレ様の討伐綸旨まで出させてやがるし。
なら上洛して自分の意に逆らえない将軍と管領を押し立てちゃえ。
ちょうど手元には流れ公方もいるし、細川家は分裂してるしチャンスじゃん、と。
最大の目的とは言えなくとも、大きな目的の一つと考えても不自然ではないかと。
遣明船の収益は衰退した畿内政権にとっても非常に重要な財源でしたから
後に細川高国は無茶を承知で古い勘合符を持ち出して寧波の乱にまで発展していますね。
大内にしても明との関係を誇示することは巨大組織を束ねるための権威に直結したでしょうから
細川家と同様に勘合貿易の権利を得ることは極めて重要だったんではないでしょうか?
247 :
人間七七四年:2014/10/13(月) 09:37:15.24 ID:SOtldGrs
>>240 > 大内と阿波守護家(三好も含めて)が勘合貿易をめぐってライバルだった
阿波守護家は京兆家が政元の死で事実上断絶した後は細川家で家格・実力とも主導格でした。
ですから政元死後は自然な流れとして京兆家家督は澄元に落ち着きました。
当然幕府政権内の阿波系家臣団の発言力は強まりその政策に反映されるでしょう。
阿波守護家は南海航路の堺と地勢的な関係で密接な関係にありますので
澄元が管領の地位を盤石化させていれば大内家とはより熾烈な競争関係となったと思われます。
> 実際に大内の上洛が現実化した段階で、澄元は祖父・成之に
> 大内義興と交渉するよう要請し、義稙側と妥協を図っています
妥協と言っても澄元が現に在職してい義澄を追放して
義稙を将軍に再任するという選択を取ることは不可能だったと思います。
義澄を支える勢力も強力で下手な妥協は澄元の地位を危うくしたでしょうし
義興にしても大動員をかけてしょぼい成果で終わっては威信にかかわったでしょう。
なんにしろ結果として途中苦戦はしましたが細川家の分裂の固定化・弱体化に成功し
相対的に大内家の地位を引き上げ確固たるものにしたのですから
大内義興が最大の勝者であったことは疑いありませんが。
大内義興は完璧超人というか巨大組織の指導者の理想像のような人物ですね。
その実力と業績に比して本当に知名度が低すぎますね。
義興の寿命が5年伸びていれば三好や織田の台頭もなく
別の形で歴史が推移したかもしれませんね。
248 :
人間七七四年:2014/10/13(月) 17:12:22.41 ID:0SygBXUj
山名氏、赤松氏が争って丁度衰退してたから良かったよな。
遣明船派遣の管掌権の永久保証は、大内義興の上洛の最大の成果なんじゃないか?
249 :
人間七七四年:2014/10/13(月) 21:42:02.87 ID:xKYGQPX3
その永久保証の結果「今回こそ絶対大丈夫!」と
次に出した第5回遣明船(1519年)が
「寧波の乱」というひどい結末を迎えることを
その時大内はまだ知らなかったのです…
250 :
人間七七四年:2014/10/13(月) 22:28:47.00 ID:0SygBXUj
>>249 第5回遣明船(1519年)って、フィラデルフィア沖合で消えたっていうあの?
251 :
人間七七四年:2014/10/13(月) 22:57:37.18 ID:xKYGQPX3
>>250 いやいやいや同一の遣明船だよ。うん!ツッコミだって知ってる
第5回は1519年から派遣を準備し結局23年の寧波の乱で大惨事
(1519〜1523年)か(1523年)って書いた方がよかったね
252 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 01:59:56.45 ID:v5c3VO7Y
一応、貼っておこうかなw
遣明船
入明年 正使 船主
1401年(応永8年) 祖阿 幕府
1403年(応永10年) 堅中圭密 幕府
1404年(応永11年) 幕府
1405年(応永12年) 明室楚亮 幕府
1407年(応永14年) 源通賢 幕府
1408年(応永15年) 昌宣 幕府
1410年(応永17年) 堅中圭密 幕府
1433年(永享5年) 龍室道淵 幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂
1435年(永享7年) 恕中中誓 幕府・相国寺・大乗院・山名氏・三十三間堂
1453年(享徳2年) 東洋允澎 天竜寺・伊勢法楽舎・聖福寺・大友氏・大内氏・大和多武峯
1468年(応仁2年) 天與清啓 幕府・細川氏・大内氏
1477年(文明9年) 笠芳妙茂 幕府・相国寺勝鬘院船
1484年(文明16年) 子璞周璋 幕府・朝廷
1495年(明応4年) 尭夫壽黄 幕府・細川氏
1511年(永正8年) 了庵圭吾 大内氏 宋素卿 細川氏
1523年(大永3年) 宗設謙道 大内氏 鶯岡瑞佐 細川氏
1540年(天文9年) 湖心碩鼎 大内氏
1549年(天文18年) 策彦周良 大内氏
253 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 02:53:26.82 ID:lqb46bUc
寧波の乱以降も大内が一応独占して派遣はしてるのな
大内家滅亡と一緒に勘合貿易もENDになったのは新勘合符が入手できなかったのか
この時期の細川にはもう派遣するような余力がないのか
254 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 05:17:21.07 ID:lqb46bUc
>>1 三好長慶を「公儀」って表現した同時代の記録ってある?
地方の大名も「公儀」という言葉は使うけどここで言う「公儀」は中央政権の
主権者の方の意味で、室町の「公儀」は基本的に(足利)将軍に人格化されていた
豊臣・徳川政権はもちろん公儀
織田政権は信長の右大将就任以降、足利義昭という現役の将軍がいるにも
かわららず朝廷からも諸大名からも「公儀」と見なされるようになる
逆に義昭を擁していた時期の毛利は信長を「公儀」とは表現しないし
信長上洛後も「公儀」といえばそれは義昭を指して使われている
つまり信長は途中から足利将軍という権威を超えて公儀化した
255 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 05:21:45.04 ID:lqb46bUc
これに対して三好長慶は畿内の公権力ではあるけれど(だから裁可状を出せた)
「公儀化」は最後までできなかった
足利将軍という「公儀」の政治的権威を最後まで必要としたのではないかと
三好長慶は「天下執権」と表記される場合があるが
室町の「執権」は「管領」の意味で使われるので「畿内を治める管領」
つまり長慶は細川家の管領に準じる・延長線上の存在として旧来の
政治秩序の連続性のなかで同時代人から認識されていたのだと思う
やはりこの差は織田政権と三好を比べた場合とても大きい
信長の場合征夷大将軍と同様武家の棟梁という意味合いの右大将就任を
朝廷が認め、足利将軍と同じ儀礼で就任させ公認したのが転換点になった
256 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 11:46:34.06 ID:Z3L4fU42
長慶晩年の2度目の改元要請は朝廷から完全に無視されて失敗してるので
最晩年の時点でも長慶を室町殿(義輝)を越える政治的権威だとは
朝廷側は少なくとも見做していないな
三好宗家の修理大夫・左京大夫は有力守護大名が任官する官位で
もともと守護代格の三好家からすれば確かに家格は上昇している
しかし官位的にも右近衛大将や右大臣(織田)・関白(豊臣)などの
征夷大将軍と権威を張りあえる・凌駕する官位ではまったくない
257 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 14:06:33.58 ID:YHltwW/H
信長が高い官位 (従三位参議) をもらったのは、足利義昭追放後の天正二年だものなぁ。
上に足利将軍家がいる以上、管領家や大内義興のように従三位で右京大夫・左京大夫ぐらいが
限界なのかな?
258 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 15:13:48.33 ID:sika9sTI
>>254 公儀って言葉は三好政権時代には必要でなかった権威ってことでしょう。
信長辺りから官位に意味を持たせるために没落していた朝廷を利用したと。
要は戦国時代が収束しだしたから、朝廷の権威が必要になった。ここで初めて公儀って言葉が意味をなす。
足利幕府と朝廷がガタガタだから戦国時代ってことで、三好政権時代には必要でなかった言葉。
要は朝廷も幕府もいらなかった。
259 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 15:18:06.39 ID:YHltwW/H
>>258 あんだけ足利将軍家を立てているのに、調停も幕府もいらなかったって…
260 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 15:48:13.14 ID:sika9sTI
>>259 足利や朝廷を立てた所で、意味がないから戦国時代なんでしょw
将軍を援護したら、逆に将軍から反撃される。朝廷も信長秀吉が援助して復活したら反撃するw
そして、朝廷は徳川に凹られると
三好と織田は基本、将軍に対して同じことをしていた。
三好の場合、その勢力が近畿中心だったから、外から権威という圧力を示すことができなかった。
とりあず、このスレを見ると
織田を過大評価しすぎ、三好を過小しすぎ
261 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 21:40:59.91 ID:39HKVl2s
>>258、260
三好時代には公儀がなかったとかアリエンティ
当然長慶の時代も公儀という概念も権威もあるよ?いやあるに決まってんだろ…
毛利も上杉も武田も公儀として立ててるのは現役の将軍である足利義輝だよ
もちろん三好長慶も義輝を公儀だとみなしてるよ
262 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 21:48:52.12 ID:39HKVl2s
戦国時代になって将軍・朝廷の権威が低下したからと言って
なくなったわけでもそれなしで新たな政治的権威を確立できるわけでもない
上杉謙信や武田信玄はかなり公儀に対して真面目な態度をとってます
反対に毛利家はドライで現実的だから内心公儀を結構舐めてました
だって畿内とか遠いしー。公儀に逆らっても毛利を武力制裁する力は
義輝にも義輝を擁立している三好長慶にも実質的にないんだもん!
尼子とあとで破るための和睦の仲介を義輝に頼んで「公方の和議を破って
評判が下がってもそんなことどうでもいい。これまでもあったし
将軍に気を使って家が滅んだらどうしようもない」と隆元が本音を
書いた文書が残ってます。でもこれは義輝じゃないと駄目なんです
将軍という公儀が仲介することに意味があるんです
義輝の方でもわかってるので別に毛利にクレームとか言ってません
仲介をする・できること自体が将軍権威の維持に意味があるからです
また毛利に頼まれて和睦の仲介をしてます
263 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 21:51:32.26 ID:39HKVl2s
毛利という地域権力は公儀という中央の権威を自家の利害にあうかたちで
利用もするし、支持もするわけです
足利将軍家という政治的権威は実にしぶといんです
だって天正年間に毛利が流浪の義昭を擁立した時でも
まだ一定の公儀としての影響力があったんだよ?
このとき義昭を擁立したことで毛利や小早川は御内書に副状を
発給するようになり毛利の家格はとても上昇しました
264 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 22:00:34.83 ID:39HKVl2s
連投で申し訳ないけど関連があるから最後まで書いてしまう
>>257 織田政権成立に関して果たした権大納言と右大将任官の重要性は
@右大将は朝廷の常設武官のうち最高位で、歴代足利将軍も右大将以下の
官位で将軍宣下を受けてからのちに右大将に昇進している
A権大納言も武家が文官として叙任する官位としては破格の官位で
義昭の参議の上。その両方に任官した信長はここで名実ともに
公に「天下人」になったってことです
B大内義興は公卿(従三位)ではあるけど信長のような
実質的な意味のある顕官にはついていない。意外にも赤松政則が
従三位になってる。従三位自体は有力な守護大名ならすでになれる時代に
なってました。でも信長の右大将兼権大納言任官は例外中の例外だったの
265 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 22:26:21.24 ID:39HKVl2s
>>260 自分は実は三好長慶大好きでかなり重度の三好厨
信長はむしろ苦手かも…
でも反対の印象を受けて思わず連投してしまった
このスレは三好がやや過大評価気味で織田が過小評価気味だと思う
好き嫌いは別として織田はやっぱりいろいろな点ですごいのは確か
266 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 22:36:22.91 ID:dH4J3MBV
>>264 だからなんなの?
それは信長個人が朝廷から位階を授けられたってだけの話でしょ?
朝廷に尽くしてくれてありがとうねってだけじゃん。
諸大名が信長になびいたのは実力があったからだよ。
他の諸侯からしたら位階なんて「うらやましい」ぐらいのもんだよ。
戦国時代ってのは位階に実力を兼ね備えた超名門の大内家ですら
家臣のご機嫌損ねたら一朝で滅亡するそんな時代なんだよ。
右大臣まで昇った信長も家臣の裏切りで高転びだよ。
公儀そのものの義輝は殺害され義昭は信長に追放されたよ。
精華家の公卿が一介の土豪に娘を嫁をやり
天皇は食いぶちを稼ぐために自らせっせと歌集を書き写す有様だよ。
下剋上の世に朝廷や幕府の権威なんて実際には
実力に箔を付ける程度の値打ちしかなかったんだよ。
267 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 22:55:57.38 ID:39HKVl2s
>>256 んんんwwww????
じゃあなんで当の三好長慶自身が幕府からのさまざまな栄典授与と
それをつうじた三好の家格上昇にあんなに前向きに努力したのって話だよ
それが三好家の政治的権威の確立にとって
重要だったからに決まってるじゃないですかヤダー
268 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 23:09:13.71 ID:39HKVl2s
>諸大名が信長になびいたのは実力があったからだよ。
そうだよー実力がないと官位だけあっても仕方ないのは当然だよ
「朝廷の官位は軍事的実力が伴わなければ何の意味もない。
しかし軍事的実力がある者が就いた場合には、正当な武家政権として
朝廷が認めた指標になる」(山本博文)
だから官位・官職は戦国史研究では「天下人の地位につくための通過儀礼」
と位置づけられてるわけよ
天正3年以降の信長にはその実力があった
三好は長慶全盛期でも残念ながらそれほどの軍事的実力はなかったし
まだまだ長慶の時代には足利将軍家の権威が残ってたってこと
三好好きとしての自分としては残念だけどね
269 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 23:34:01.96 ID:v5c3VO7Y
>>268 三好の頃は官位なんてそれ程意味無かったんじゃない?
寄付すれば貰える程度のものだったけれど、信長が足利義昭への対抗上、
価値を引っ張り上げたのは有名な話。
こんなもので織田>三好の評価をしていいものだろうか?
むしろ議論するとしたら、「三好長慶が朝廷の有効利用をしていたかどうか」では?
ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/busi/kansyoku.html >例えば近衛大将などは、本来「上の下」くらいの官職ですが、
>重要度が高いため、大納言相当でした。
>左近衛大将は公家が任命されるので、武家にとって武官の最高
>官職は右近衛大将でした。
>衛門督、兵衛督、征夷大将軍、鎮守府将軍も武官なので武士に
>人気がありました。
>征夷大将軍は序列としては高くありませんが、交戦権(宣戦布
>告権)を持っている唯一の官職なので、武士にとっては重要な官職でした。
>左馬頭は源義朝が就いた官職であり、右兵衛佐は源頼朝(実際は権佐)が
>就いた官職なので源氏である足利氏にとっては重要な官職でした。
270 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 23:49:52.74 ID:v5c3VO7Y
最後には泥棒なんかまで〜右衛門だの〜兵衛だの名乗ってしまうんだから、
官位がどうこうとか今の感覚とは大分違ったのだろう。
271 :
人間七七四年:2014/10/14(火) 23:53:56.33 ID:39HKVl2s
>>269 永禄年間の修理大夫任官も相伴衆就任は長慶にも三好家の家格上昇
にとっても非常に大きな意味をもったし
望めるならもちろんそれ以上の官位を望んでるよ?
大内義興の公卿成り以降、全般的に官位の家格破壊は進んだけど
それでもこの当時もともと守護代格出身の三好家にとっては
従四位下修理大夫・左京大夫が望める官位の天井だったんです
之長以来、三好は頑張って家格を上昇させてここまでやっときたのに
官位が三好時代には重要じゃなかったなんてありえないよ
272 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 00:35:39.42 ID:4bEZMS9I
三好長慶は天下の執権になったんだから武家の筆頭として
それなりの官位は必要とは考えたでしょうけど
例えば北条高時は修理大夫が極官でしたが
武家の棟梁として後醍醐天皇を追放しています。
同じく修理大夫の長慶の位階が天下人として足りないということはないかと。
まあもっと上をくれるって言うなら断りはしないでしょうけど。
でも長慶は朝廷権威の影響力にそれほど期待はしていなかったと思いますよ。
長慶は皇室の領地も押領していますし
在京せずに飯盛山城にいて自らより位階がはるかに高い公卿を呼び寄せています。
長慶は義輝を迎えた後も幕府の役職についてないし
家臣にも独自の権限で領地を与えています。
これは幕府は利用するが自らはその権威の枠外に置くということですよね。
これには幕府を超克しようという意思表示でもあり
武家以外の勢力も同質的にとりこんだ三好政権を安定化させるための
新たな秩序を模索してのことだったと思います。
長慶の勢力が信長に及ばないと言いますけど
長慶晩年には六角家は三好家にほぼ従属、畠山も時間の問題。
毛利も長慶があと数年健在なら屈服したでしょう。
それほど両者に差があるとは思えません。
273 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 01:09:52.61 ID:vFL/3zVO
>>272 鎌倉殿はあくまで征夷大将軍の守邦親王でそ。名目上とはいえ。
鎌倉幕府は将軍はいずれも高位だったけど、御家人の官位は基本的に低かった。
それは執権でも例外ではない。
274 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 01:20:19.21 ID:mAjYb5mz
>>268 信長の官位上昇は朝廷を最大限利用したい信長と、
数年前の状況に戻りたくない朝廷との利害の一致によるものだと思うが。
(なんか買いたくなった↓)
戦国の貧乏天皇
http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4760141537/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392 レビュー
戦国と言っても織田信長の時代ではなく、その前の戦国時代初期の後花園天皇、後土御門天皇、
後柏原天皇、後奈良天皇について書かれた本。全く知らない歴史であるという意味では面白い。
しかし、結局関心事は、即位とか葬儀とかの儀式、それを実行するための金銭作りのための
官位売り、とかの話になる。武士の歴史に比べて、なんだか退屈なのも事実だ。
レビュー
足利幕府の弱体化、荘園制の崩壊、相次ぐ戦乱によって
室町時代末期の朝廷は収入や幕府からの支援を断たれ、困窮を極めていた。
宸筆を売って糊口をしのいだ、葬儀を出せなかった、御所に盗賊が入った…など
信じ難いゴシップ的なエピソードも伝えられている。
正親町天皇wiki
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は
すでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を
挙げられなかった[1]。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という
位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。
275 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 01:28:45.80 ID:vBM+JtXd
>>272 修理大夫に任官してもその官位には「武家の第一人者」という意味はなく
権大納言・右大将は官位序列のなかで明確にその意味を帯びてる
主観的な必要・不必要の問題じゃなく、客観的な官位序列の問題です
だから手続きとして「天下人」=「武家の第一人者」の公認を
朝廷や諸大名から得たいなら将軍宣下を受けるなり
権大納言や右大将に任官される必要があった
鎌倉時代の官位序列は残念ながらしりません。少なくとも室町時代にはそう
単純に織田の領国数と三好の領国数を比較してみれば両者の軍事的実力は
やはり歴然としていると思う
「もし」を言いだせば信長だってあと数年生きていれば
かなり高い確率で豊臣政権のように名実ともに天下統一してただろうけどさー
上杉はほぼ滅亡確定、毛利の降伏は秒読み段階、長宗我部も交戦すれば
圧勝してた予想が濃厚だったんだから。残りは九州と東国だけよ
それは長慶が毛利を数年のうちに屈服させられた可能性よりも
(毛利を舐めてる!?)ずっとずっと高い確率でそうだったと個人的には思う
でもそんなIFを持ちだして何になるのか…
信長も長慶も寿命がきたんだからその時点での実際の結果から
判断するしかないじゃない
276 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 01:46:12.52 ID:4bEZMS9I
>>275 三好家が幕府を屈服させているんだから
畿内においては武家の第一人者です。
室町時代の先例や秩序が崩壊しているから戦国時代なのであって
だから幕府役職を持たない長慶が将軍や管領を倒して都の主になってるんでしょ?
武家政権てのは軍事政権なのよ。
一番強い奴が棟梁になるの。
だから豊臣秀吉だって天下を取れたんだよ。
関白になったから天下人になったんじゃないです。
秀吉や信長が朝廷の官位を利用したのは自前で作るより
あるものを使った方が手っ取り早かったからでしょ?
三好も織田も最盛期には他の諸侯を圧倒する力を持っていた。
しかしどちらも志半ばで倒れて天下を保つ事が出来なかった。
こう見るとさほど変わらないと思いますよ。
277 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 02:16:13.45 ID:vBM+JtXd
>>276 単純に織田と三好では支配した領国数が全然違うんだけど?!
織田政権はプレ統一政権(全国政権)ですが、三好はそうではないです
畿内以外のどれだけ広い地域が比較的短期間のうちに
織田の領国・勢力圏に組み込まれたか
さほど変わらないところか結果的には大ちがいだと思うよ
うん織田も豊臣も徳川もみんな軍事政権だよ
でも権力(軍事的実力)だけでは政権が完結しないから権威(官位)が
必要になるんでしょ?それぞれの前政権を克服するためにも必要なのよ
自前で官位とかつくれないですし><
特に秀吉の武家関白は足利将軍家がまだ存在していた状況の中で
(しかもその足利将軍家を否定した織田政権の後継政権だった)
豊臣政権としては非常にスマートな解決方法だったと思います
三好長慶は応仁・文明の乱以降、細川同族連合によるまとまりが崩れ
長らく分裂傾向にあった畿内とその近国が再び地域的な統合にむかう
まさにその転換点に登場し要の役割を果たした人物だと思っています
いかにも畿内らしい戦国大名だったところがとても好きです。本国阿波だけど
278 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 03:14:12.66 ID:vBM+JtXd
>三好家が幕府を屈服させているんだから
畿内においては武家の第一人者です
政権の正統性を主張するためには何らかの政治的権威が必要なんです
だからいくら幕政の実権を握っていても、長慶は相伴衆という
幕府内部での地位を必要としましたし、細川氏綱も廃さなかった
特に相伴衆に加えられ直臣になるまでの弘治年間に
氏綱という管領(というか京兆家家督)を形式的に戴いていたことは
しかも彼が長慶に協調的だったことは晴元や義輝と戦ううえで
大きな価値があったと思います
完全に実力で治められるならなんで氏綱なんか必要なの?って話だよ!
戦国大名は鶏や犬同士が戦ってるわけじゃないから(震え声
下剋上だってそんなに単純にいくもんかー
もう眠いから寝る…疲れたんだパトラッシュ…
279 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 03:38:05.64 ID:YH0G3S8e
秀吉の関白を見たら、いかに官職がどうでもよかったのかわかるだろw
秀吉の都合で関白の使い方が変わっているわけよ。
徳川時代の関白は天皇陛下を押さえ込む為に使われた。秀吉の関白は天皇の次の地位としての役職。
関白は摂政と同じ役目の時代もあったし、適当なんだよ。
秀吉は関白になるために全国を統一したわけじゃないの。関白の職も秀吉と朝廷の都合で使い方が変わっている。
公儀って言葉も一緒で、信長秀吉が勝手にアレンジを入れたもの。当初は朝廷だけを指す言葉だったんだよ。
だから三好政権時代は、わざわざこういう言葉を持ち出す必要性がなかっただけ。逆に公儀なんて言い出したら三好政権的には面倒臭い。
官位や幕府の役職なんてのは、使う側が自分の都合で利用していた。関東管領の職をもらった所で武田や北条は従ったかね?w
上杉に付いた連中も、不戦同盟の口実で参加しただけ。
まず、戦国時代はとは、なんぞや?ってことをよく考えた方がいいよ。朝廷と幕府の権威が没落したから戦国乱世なんだよ。
280 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 11:11:33.94 ID:sgZRG35r
>>272 長慶は確かにあまり幕府への接近は見られないけど、嫡男義興とその補佐役的な松永はがっつり義輝・朝廷と関わってる
実際の歴史はああなったけど普通に年齢的に考えれば長慶が先に没するはずで、そうなると後には義輝と密接な関係築いている義興が残される
これじゃあ「三好は幕府に取り込まれまいとした」と言えないんじゃないかと思う
長慶の京から遠ざかるスタンスは隠居のような状態だったってのもあるんじゃないかな
281 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 11:35:54.95 ID:YH0G3S8e
>嫡男義興とその補佐役的な松永はがっつり義輝・朝廷と関わってる
>実際の歴史はああなったけど普通に年齢的に考えれば長慶が先に没するはずで、そうなると後には>義輝と密接な関係築いている義興が残される
これ自分で書いてておかしいと思わないか?w
レベルが違いすぎて、これじゃ議論できないよw
282 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 11:44:07.59 ID:as1vFcFi
前から覗いてたけど、三好から歴史に入るとどうしても信長との連続性を意識してしまうのがネックだね
特に三好長慶隊とか南宗寺に像立てた人たちとかを見てるとそう思う(大事な活動ではあるが順序が違う気がするがw)
地元の戦国大名(大阪北摂)とは何ぞやと(秀吉・・・は大阪城がアレだけど長浜のが秀吉らしいし違うよなあ)と
いきなり畿内(応仁・細川畠山三好)から始めた俺が言うんだから間違いない。
俺も初めは細川晴元・足利義輝・細川氏綱・畠山高正とかバイアス掛かった視点でしか見れなかったし
織田信長の存在感に負けたくないってのは滅茶苦茶あった、7年目でやっと色々な視点で見れるようになってきたし。
議論が白熱しているけど、官位に関してはまず三好・織田も朝廷の存在を蔑ろにしすぎな気がする
朝廷が利用される弱者であるという概念から崩さないといけないんじゃないかな。
三好時代〜織田時代で朝廷+足利+側近衆の対応があまりにも未解明すぎる所為で
細川〜三好〜織田の連続性が、三好好きとしては主張したいし織田好きとしては認めたくないって所があると思う
まず時代が違うからってのはあるけど
朝廷がそれぞれ時の政権に対するスタンス(三好時代・織田時代・豊臣時代・徳川時代)
をもっと明瞭にすべきだと思う、結局第3勢力のここがはっきりしないから
三好時代が三好長慶VS足利義輝+αでしか語られない(三好政権 対 室町幕府)
それぞれの政権でメリット・デメリットがあっただろうし内部抗争もあった筈
長慶が死んだ後の三好三人衆 VS 織田信長の時代なんて思っている以上に複雑な状況なのに
今は三好三人衆が悪役になって収まっている現状だと思うし
283 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 20:29:48.16 ID:rwa/wVMU
織豊政権と朝廷・官位との関わりなんて先行研究も多く
議論も大いにされてきた論点なんだから(三好はしらん)
三好厨はせめて概説書でもいいから読んでから語れよ としか
284 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 20:53:56.36 ID:rwa/wVMU
>>279 豊臣政権と官位の関係について云々したいなら
せめて武家関白制度とは何か?について1冊でもいいから読んで
理解してから語れカス 信長と公儀論も同様
285 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 21:07:56.11 ID:rwa/wVMU
「三好は織田や豊臣と変わらない」と連呼するわりに
ほとんど織豊政権について知らないとしか思えん
三好側で織田に関して知識があってまともな議論してるやつが
1人くらいしかいない
286 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 21:09:20.75 ID:mAjYb5mz
熱いなwww
287 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 22:18:01.50 ID:/nYfC56e
ところで、岩成友通や松永長頼って阿波の人間じゃないんだね。
というか阿波の人間、重用されてなくね?
三好長慶の人材登用っていくらなんでも極端すぎなんじゃ?
288 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 22:56:51.07 ID:Yxdr8WXW
>>194 三好家の全盛期はすごく短かったからね、まあ織田、豊臣もそれぞれそんなに長くないんだが・・・。
>>287 阿波の人間だと元同僚格いるから面倒なんじゃね?
289 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 23:11:14.91 ID:VsbBDbCS
>>287 意図して阿波の基盤から切り離した家中作ろうとしてる感じがあるよね
そういう長慶の姿勢って元長よりその敵の晴元・政長に似てる感じなのが皮肉というかなんというか
290 :
人間七七四年:2014/10/15(水) 23:44:06.12 ID:/nYfC56e
篠原長房や赤沢宗伝は、三好実休の下にずっと居たのか。
確かに阿波の人間の抜擢は避けているみたいに見える。
291 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 00:02:03.07 ID:i7o3B7q9
天野さんとかは長慶は自分だけの言うこと聞く家臣団を
畿内につくりたかったって解釈だけど
でもわざわざ本貫地の阿波と切り離した家臣団を意図的につくりだす
メリットや必然性って長慶の場合そんなにあるか?って疑問に思った
(京兆家継いだ晴元はよくわかる)
特に長慶が摂津下郡で守護代だった時期は、むしろ阿波三好家の方が
畿内の長慶よりも動員兵力多くて軍事力の中心だったんだから
もとからの旧臣の多くを阿波に残さざるをえなかっただろうし
三好は短期間で膨張したから、阿波の旧臣だけでは人材をカバーできず
結果的に三好宗家では畿内で登用した家臣団が有力になったと考えても
別におかしくない気がしてる
292 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 00:54:27.29 ID:oO6UL9T3
>>282 >細川〜三好〜織田の連続性が、三好好きとしては主張したいし
>織田好きとしては認めたくないって所があると思う
むしろ細川との連続性を否定する(したい)のが最近の三好好きでは?
でも当然連続性あるよなぁって自分なんかは思う
いろんな意味で三好長慶は畿内戦国の転換期を生きた
過渡的な現象・人物だと思うけど
過渡的な人物を過渡的なまま評価するのって意外に難しいんだろうね
どうしても古い(室町的・細川的)か新しいか(近世的・織豊的)の
二分法で、どちらかに引きつけて極論されがちな気がする
あと自分もあそこらへんの団体の天下人コンプレックスが苦手でさぁ…
三好という単語に自動的に「戦国天下人」ってつくんだよ?枕詞か!www
293 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 02:07:21.47 ID:bMPTbJFC
近世的というと真っ先に思い浮かぶのが豊臣政権の国替え。
これのおかげで織田信雄を初めとする敵対氏族をほぼ自由に辺境に放逐できるようになり、
支配力が飛躍的に上昇し、つまらない事に、多くの著名武家の菩提寺が廃れ、書物も失われた。
室町の流れであれば領地没収でも本拠地は最後の最後まで残されるものだったし、
たとえば、尼子、長宗我部、赤松、武田みたく、滅亡寸前まで敗れても親族による氏族継承が認めらてきた。
三好長慶はどちらかというと近世的な気もするし、織田信長は実は部下の国替えに苦労していたと思う
(おかげで信雄は危機感が薄かった?)。
294 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 02:52:45.45 ID:oO6UL9T3
>>293 織田にはじまり豊臣〜徳川政権期に大規模に実施された国替えですが
国替えを可能にする土地政策的な前提があって
@検地の実施とそれにともなう(最終的には)A石高制の導入なんです
この2つとも三好はほとんど実施できませんでした
織田は石高制の導入は部分的にとどまりましたが検地自体は早くから実施し
最終的には畿内も含めて広範に実施しました
三好は土地政策全般について「近世的」性格は薄いです
家臣団の編成にせよ、長慶が国人・地侍レベルで家臣団を
再編成・再配置できたのは摂津下郡くらいだし
織豊的〜近世的な預地思想的な発想も長慶にあったような気はしません
295 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 03:05:59.48 ID:5wBnyux9
>>284 官位と公儀がどう意味があるか反論しろよw
問題は戦国時代の戦争をしている時に、こういう役職にどう意味があったかなんだよ
平安 鎌倉 室町 戦国 江戸時代とじゃ、その意味が違うのは当たり前なわけ。ここを無視している時点で低レベルなだよね。
どう見ても同じ意味で使っているからおかしいという流れなんでしょw
ものすごく低次元の話をしている。
わざわざ指摘してもらっているんだから、素直に認めないとw
一気にクソスレになったわ
あと、反論できる部分だけ都合よく持ってきて言い返すのはNGな、荒れる原因だよ
296 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 03:42:32.72 ID:5wBnyux9
あと、スレ的におかしいのは
天下の意味が時代によって違うから揉める。
ちょうど戦国時代は、中世から近世に変わる時期。
三好は中世の大名。秀吉は近世の大名なんだよ。
だから、三好も中世なら天下人の条件を満たしている。三好を近世からみたら物足りないってこと。
問題は、信長は中世か近世かで揉めていることね。
だれも三好と豊臣を同等に比較しようなんてしていない。問題は信長の評価が人によって変わる。
297 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 03:43:27.43 ID:oO6UL9T3
>>295 自分のレスにはろくな内容もないのに居丈高に
誰かれ構わず他人を低次元・低レベルだと罵倒するあなたの方が
よほど低レベルに見えるしクソスレ化して荒れている原因にしか見えません
横から率直な感想ですみませんが
いなくなれ
298 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 04:49:39.04 ID:oS6NA0Lc
299 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 05:34:39.46 ID:5wBnyux9
>>294 自分も横から言わせてもらうけど
アホみたいに必死に長文書いているけど、あんたのレスも中身がないんだよw
で?
終わりw
結局、コピペ合戦しているだけ。
俺のレスは、タダ単にアホところを指摘しているだけ。
「なんか官位や公儀を一緒くたにしていませんか?」って言っているだけ。
指摘しているのに、反論ができないでいるバカw
ただこれだけ言っているだけなのに、なにがいけないんですか?w
300 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 05:38:20.57 ID:5wBnyux9
「なんか官位や公儀を一緒くたにしていませんか?」
は
時代を無視してってことね
こういうことを言わせる時点で、コピペだけ張って満足しているオナニースレってこと
301 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 08:01:12.98 ID:Ur1JzNiK
歴史の連続性に興味があれば最新の研究でようやく闇に光が差してきた
明応の政変から三好政権による義輝殺害までの畿内・西国情勢の流れって
むちゃくちゃ面白いんだけどね。
一昔前の歴史の教科書には「信長登場以前の畿内は権力闘争の混沌の最中にあり
歴史として語る値打ち無し」って書かれてたんだもん。
たぶん今の教科書もほぼ同じ扱いだろうけど。
とにかくこの時代の畿内は古い秩序が崩壊して新しい秩序を求めて
万民が右往左往していた時代なのよ。
その時代のニーズを捉えて時代の転換者となり
天下人にのしあっがったのが三好家だと思ってるの。
織豊政権と政策の優劣を競ったり権力の強さがどうだったかとかを
比べたりしたいんじゃないんだよ。
信長との対決によって叩きつぶされて断絶してしまったけれど
三好時代の畿内にもにもきちんと旧秩序に代わる新秩序が形成され
新たな時代を歩み始めていたんだよということを
まずは認めてもらいたいってことなのよ。
時代の連続性の観点で言えば畿内で抗争を繰り広げた
三好・本願寺は新勢力代表で
織田・足利は旧勢力代表なんだけど
なぜか世間の常識では両者が逆転して語られちゃうのね。
困ったもんだよ。
302 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 10:07:21.18 ID:oS6NA0Lc
>>300 はいはい、わかったからもう二度と湧いて出てこないでね
303 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 21:35:05.60 ID:AjJvI85m
>>294 検知と国替えはそれほど密接な関係無いと思うよ。
国替えの最初は、天正18年(1590年)豊臣秀吉が徳川氏を駿河国駿府から
武蔵国江戸に移した事例からだと思うけれど、検知が関係あるとは思えないよね?
織田信雄はこの時、家康領への国替えを拒否したのだけれど、
これも検知とは関係無いように見える。
結局のところ、国替えも関白政治も、武家社会や貴族社会のしきたりを屁とも思わない
農民出身の秀吉による力技としか言いようが無いかと。
304 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 22:41:40.43 ID:1+jTfe65
国替えは石高制によって領地の石高による換算ができ
家臣と土地との結びつきが検地・石高制の導入によって弱まり
領国間の交換・家臣団の移動が容易にならないと難しいのよ
305 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 23:01:16.62 ID:AjJvI85m
>>304 いやいや、
徳川領はもちろん、後北条領の石高換算なんてできてなかったでしょ?
さらに徳川家の家臣と土地の結びつきなんて完全に無視されて、完全に力づくで
移動させられてるよね?
それとも徳川家の家臣団の移動が容易だったとか言ってる史料なり分析があるの?
306 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 23:03:01.21 ID:1+jTfe65
>>301 マジレスするとここ20年ほどで東国戦国史研究が飛躍的に進み
それと連動する形で織豊政権の東国政策の実態が解明され
惣無事体制を中心に、信長晩年から豊臣政権期の全国秩序の形成が
注目されてきたのよ
同時に豊臣政権の研究が活況を呈し再評価が進んでる最中で
織豊政権のさまざまな歴史的連続性が再検討され、織田政権の評価も
かなり大きく修正されている。学問的にはホットな話題ですごく面白い
このスレを見ていると三好ファンの前提としている織田政権の位置づけや
イメージ自体が一昔以上前の古いままだと逆に感じるね
ただ織田の畿内支配に関しては三好時代の都市政策や自治の面で
むしろ断絶より連続性もかなりあるんじゃないの?
天正7・8年以降は都市・土地政策に織田の独自色がでてくるけど
信長は上洛後も畿内は基本的に三好体制のまま放置して
先に畿内近国から支配・新たな政策の実施をしたから
畿内の本願寺系の寺内町特権も天正8年頃まで三好時代同様認めていたし
もっとも上洛直後に権門の強い畿内の関所を廃止したのは
非常に信長らしい思い切った政策だと思うけど
もっとも社会史・経済史的な領域では政権替っても連続性がある方が
普通ではある
ただ歴史的連続性を問題とするなら、畿内という地域的な統合の連続性や
三好・織田政権の連続性より
織豊政権の政治・経済秩序の連続性の方がダイナミックで全国規模での
秩序形成だけあって影響力が大きいから、研究も多いし一般的にも関心が高い
ってだけ
307 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 23:08:47.53 ID:1+jTfe65
>>305 豊臣・徳川政権下ではなぜ大規模な国替えが可能だったかという
一般論です
北条は早くから検地を実施しましたが貫高制だし
徳川の関東移封が強制性を帯びてるのも別に否定してません
308 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 23:29:52.84 ID:AjJvI85m
>>306 豊臣家の東国政策は確かに飛躍的に研究が進んだけれど、
織田家の東国政策の方は半年で崩壊してて、やっとその崩壊の模様が
明らかになりつつあるだけだよ。
自分は織田家と豊臣家の政策は実は大きく異なるという認識がもっと必要だと思う。
織田家の政策は城郭に代表されるように、六角や三好の良いところを継承しつつ、
革新性を持ったものだと思う。
豊臣家の政策は、武家政権とは異質の超権力志向であり、既成概念の破壊を次々に行っている。
一見、織田と豊臣は連続しているように見えるけれど、根本の思想は全く別物。
織田家は幕府を否定し革新を行ったのに対し、秀吉は伝統的武家を実質的に否定し刷新した。
三好家の思想もおそらく幕府の否定だと思う。
309 :
人間七七四年:2014/10/16(木) 23:46:04.44 ID:Ur1JzNiK
>>306 マジレスって言われても
何が言いたいのかまったく分からないレスなんで困惑ものだけど
いちおうレスついたから反応しておくね。
私は
>>301で織田政権と三好政権にはその権力志向に
明らかな断絶があることを強調しているんです。
織豊政権との類似性とか制度に与えた影響については問題にしてないの。
310 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 00:06:02.45 ID:QhfQcZnF
前のレスの人と内容が被っちゃったので便乗させてもらうと
幕府を屈服させて取り込んだ後の三好政権は
「相伴衆」を乱発してるんだけど
これは三好家の家格上昇という側面より
意図的に旧来の幕府の身分秩序を
破壊する目的があったと思うんです。
最高の貴種にしか与えられないはずの肩書を
こともあろうに松永とかいう素性も定かでない成り上がり者にまで
ほいほいと与えてみせることでその価値を棄損し
もはや幕府の権威が地に落ちたことを
広く天下に知らしめたのではないかと。
311 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 00:16:42.96 ID:2oxzWomZ
>>309 >>306の僕のスレは、前半はここしばらくスレの流れがあなたも含めて
細川〜三好〜織田〜豊臣政権の歴史的連続性を問題にしていたので
織田政権に関しては、三好より織豊政権の連続性の方が
歴史的にはやはり重要だと思うという意味で書きました
もし唐突に感じて困惑させてしまったならすみませんね
後半は、三好・本願寺は新興勢力で織田・足利が旧勢力代表だとあるけど
(旧勢力というのが実態として何を指しているのか不明ですが)
しかし実際の政策・制度面では織田と三好の畿内支配の実態には
断絶とともに連続性がかなりあるよね?三好体制の延長線上で
展開した部分も多い訳で、そんなに両者をニ項対立的に捉えられるの?
っていう疑問です(これで伝わるだろうか?)
312 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 00:33:34.08 ID:2oxzWomZ
もう少し言えば「権力志向」というのは政治思想・統治理念と
言い換えてもいいと思いますが
三好長慶に関しては現時点で体系だった彼個人の政治理念を
実証できるほど史料的な裏づけが本当に十分あるのかな?
という疑問もあります
北条や織田に比べると判物として残っている史料数自体が
三好は非常に乏しいですし
313 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 01:12:13.10 ID:QhfQcZnF
>>311 織田政権も義昭追放後はその性質をやや変質していくんだけれど
その政権のもともと持つスタンスは相当に相容れないものだったと思います。
三好政権はその政策から分かる通り
本願寺や自治都市・惣村や一揆などで新しく生まれた権力主体に親和的で
それらと相容れない旧来の身分秩序や権力構造に対して
ラジカルな態度で接していました。
対して織田政権は「天下布武」の印象を使い
足利将軍を推戴して幕府を再興したところからも分かる通り
武家を頂点とした旧来の権力・身分構造を基本的な理想スタンスとし
本願寺や自治都市などは武家に従うことを強制しました。
三好家に比べると反動的と評価できると思います。
以上から端的に(あえて挑発的な意味も込めてですが)
三好・本願寺は新勢力代表で
織田・足利は旧勢力代表と呼ばせていただきました。
三好政権というのは幕府を推戴して
その権威をかりて権力を握ったのではなく
新興層の支持を背景に実力で強大化した権力で
幕府を屈服させて呑みこんだという点を理解しないと
その本質を見誤ることになると思います。
314 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 01:20:43.30 ID:PS2CPi2t
なるほど。織田家は武家を頂点とする支配体制を目指したのに対して、
三好は武家の意識が弱かったと。興味深い話だね。
315 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 09:24:28.31 ID:lIhpNRdX
どうもその三好の「幕府の屈服」理論が納得できないんだよな
幕府を否定したいんなら幕府の役職貰わずに信長が最終的にやったように朝廷と直接結び着いて官位上げていけばいいじゃないか、と
ついでに最近聞く「楠木氏の赦免が幕府の否定になった!」ってのにも疑問。周りの記録見ても幕府を含めて赦免に反発的な空気は感じないし
残ってる記録は義輝や上野信孝がむしろ積極的に赦免に協力していた記録だけだ
あと松永が任じられたのは御供衆じゃないの?なんか相伴衆扱いされてるけど
316 :
人間七七四年:2014/10/17(金) 21:59:52.98 ID:FawkPqlp
おれも同じような感想をもった
三好実休も相伴衆になっているし幕府を屈服という理屈がよくわからない
やはり三好家全体として家格をあげようとしたと考えた方が自然では?
あと三好と同じく惣中を直接対象とした保護・支配は後北条氏も意識的に行っているが
しかしそれが旧来の武家社会の秩序そのものの否定につながるとも思えない
後北条や三好のように外部から遅れて進出した勢力にとって
すでに当該地域に存在している幕府・守護の上位の権力、あるいは国人領主らの中間権力を弱める
ため惣中等と直接結びつくのは現実的な選択肢であり、ある意味当然と言えば当然
そこから武家社会の身分秩序・論理そのものの否定まで当時の三好が念頭においていたと
つなげるには論理的にかなり飛躍がある
317 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 00:40:10.40 ID:IthSi2O3
三好が義輝から様々な栄典を授与されたことは周囲の反発からして特異なことであり、裏を返せば三好家にとってそれだけ意義のあることだったのだろう
ここまでは納得できる
でもそれはあくまで幕府という組織内の変革であって幕府という存在自体の否定には至らないんじゃないかと思う
仮に本当に三好がその方法で「倒幕」を考えていたのなら回りくどすぎる
318 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 20:01:20.45 ID:GTJ6lDKW
どうして阿波公方を担がず義輝と和睦したんだろう。
氏綱が反対したのかな?
319 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 22:06:56.15 ID:2KSSTugX
>>317 やっぱりどう考えても回りくどすぎるよね
近刊の三好長慶の伝記を読んでいてもそのあたりの説明が全然腑に落ちなかった
三好長慶が本気で倒幕を考えていたなら、北条が堀越公方を倒して滅亡させ
古河公方も消滅させたように義輝もろとも幕府を滅ぼせばいいだけじゃない?
あるいは義輝・晴元を追放したままで京を維持し続ければよかっただけじゃない?
しかし三好がそれをしなかったのにはできなかっただけの理由があり(あったと思う)
長慶にそもそも倒幕という一貫した理念や幕府に代わる具体的な政権構想が
なかったからだと思う
320 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 22:32:46.11 ID:PdaG2Qnq
家康が豊臣をすぐに滅ぼさなかったのと同じ理由じゃないかな?
321 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 22:52:22.42 ID:2KSSTugX
>>320 関ヶ原の後、徳川が現行の公儀である豊臣政権を倒すためには
家康が将軍宣下を受け、秀忠が2代将軍に就任し世襲化という手続きを経て
新たな公儀として確立してゆくわけだけど
じゃあなぜ三好は足利幕府を倒すためにそういう手続きをとらないのか?ってこと
>>315が言うように、幕府を否定したいなら幕府の役職もらわず
直接朝廷と結びついて官位・官職で将軍を超える手段の方がスムーズなのに
322 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 23:02:06.63 ID:HxZ8ZK9r
後北条と三好だと家格が違うと思うんだが、腐ってもあそこ伊勢だろ?
堀越公方ぶっ殺せたのも細川政元の指示だったんだし
てことは大義名分を伊勢盛時は持ってるし後ろ盾には今川氏親と十分。
三好長慶というか三好家は大義名分持てないでしょ、義輝倒す理由がない
だから京に呼び戻して手元に置いて監視するようにした、その方が地方でやりたい放題されるよりヨッポド良い
三好長慶をカリスマの絶対君主として政治を行う事で畿内近辺での指示を得ていたとしたら
長慶達の後の世代を考えると一族全体の家格を上げるってのはあったと思うな。
323 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 23:13:43.05 ID:2KSSTugX
>>322 そう。自分も長慶が足利将軍家を滅ぼそうにも実力的にも
大義名分的にも無理だったと思うよ「できなかっただけの理由がある」
と書いたのはそういう意味なの
問題は三好長慶に幕府そのものを否定するような
「倒幕」という理念なり一貫した政治思想なりが(実現可能かどうかは別として)
果たしてあったかどうか?ってこと
324 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 23:20:40.84 ID:HxZ8ZK9r
どうだろうね、実力的には普通に圧倒できるだけの圧力は持っているけど
やはり長慶の性格上できないって問題が見えてくるんだよな
後に起こる永禄の政変を見る限り足利の扱いに関しては
長慶とそれ以外が考えてることは確実に違う(三好長逸・篠原長房・松永久秀・三好義継)全員違う考えな気が
三好の研究ってやっと始まった所なんだろ?しかもその資料の殆どは東寺やらの寺社に埋まってて発掘すら出来ていないって
325 :
人間七七四年:2014/10/18(土) 23:32:04.46 ID:HxZ8ZK9r
とりあえず、三好長慶が足利義輝を手元に置いたのはベストではないがベター
足利義輝にとっては発給文書は出せるようにはなっただろうがストレスの堪る展開になったと思う
義輝があまり好きではない他の三好家臣にしてみれば放浪していた義輝が
京に帰ってきて色々あれこれするようになって糞目障りって所じゃないのかな。
まあ他にも細川やら国人衆やら外せない、無視できない要素から事実が解ってくるって
展開がありすぎるのが畿内なんだよなあ…三好と足利だけでは語れねえよ
326 :
人間七七四年:2014/10/19(日) 01:09:26.60 ID:FEql2qM8
永禄4年(1561年)十河一存、死去。
永禄5年(1562年)三好実休、死去。
永禄6年(1563年)三好義興、死去。
永禄7年(1564年)安宅冬康、死去。
永禄7年(1564年)三好長慶、死去。
優秀な弟は存在が大きすぎて、失った時に大抵迷走するよな。
三好長逸・篠原長房・松永久秀は、その存在を埋めるのにはさすがに役者不足だった。
327 :
人間七七四年:2014/10/19(日) 01:13:06.97 ID:gxZePdx0
幕府の力が衰退に向かっているのは認識していても、当時の人間には「倒幕」なんていう天道に叛くような行為は考えづらい風潮があったんだと思う
最近の研究じゃ信長も実際は義昭とできるだけ協調しようとして、追放した後ですら義尋を擁立するプランを考えていた形跡があったり
革命児どころかむしろ旧権威と対立することをできるだけ避けようとしていた人物って感じの印象があるし
後のの時代になってもこれなんだから当時の三好が倒幕という発想に至れなくてもそれは普通のことだし、別にマイナス点にはならないと思う
けど天野先生の研究における主張見てるとどうもその辺に拘りすぎてるように感じるんだよね…
328 :
人間七七四年:2014/10/19(日) 18:37:04.74 ID:+Z56vH4M
>>315 永禄元年に六角・細川晴元と組んだ義輝が三好に挑んだんだけど
緒戦で敗れた義輝が真っ先に逃げ出してグダグダんなったので
晴元は残存勢力を三好家に切り崩されてお手上げ
六角も一抜けたしちゃって義輝が三好家に引き取られることになったんだよ。
これを屈服と言わずしてなんと言ったらいいのでしょうか?
朝廷を丸抱えして利用しようとするとそんだけ銭がかかるのよ。
長慶は朝廷官位にそこまでの利用価値なしと思ってたんじゃない?
幕府というか将軍は将軍だけあって色んな権益や権能を持ってるのよ。
殺すより生かして手元に置いておいて利用するなり
権益を徐々に譲らせれば我が物にしやすいでしょ?
楠木の赦免もその効果があったってことだよ。
あと松永は相伴衆になってます。
329 :
人間七七四年:2014/10/19(日) 18:54:53.56 ID:+Z56vH4M
>>316 実休が相伴衆になったのはメリットがあったからでしょ?
畿内の惣中や国人には幕府から与えられた権益をもっているものも多かったし
彼らは相伴衆受諾をきいて自分たちの権益が保証されると思って安心するでしょ?
三好と織田の畿内でのスタンスの違いにについて313で書いたんだけど
どうして北条と比べられなきゃならないんでしょうか?
たしかの三好家と北条家は同じ戦国大名として共通点は多いように思われますが。
三好家が武家社会の身分秩序・論理そのものの否定を目指したなんて書いてませんよ。
330 :
人間七七四年:2014/10/19(日) 22:02:26.89 ID:5djSXX0k
>>329 比べて共通点や違いがわかるなら三好を北条でも織田でも他の大名家でも
いろいろ比べればいいじゃん?
比較すれば畿内に特有の事情かどうかもわかるんだし。
個人的には北条と三好は外部から遅れてきた戦国大名という共通性の指摘は
面白いと思ったけど。北条は典型的な戦国大名としてどっちかというと
三好と対照的に論じられがちだから。
比べて何が悪いんだろう。
331 :
人間七七四年:2014/10/19(日) 23:56:02.53 ID:3nq0dB4/
伊勢って室町幕府からの刺客だろ?関東武士からしたら。
戦国大名化はしたけど中身が伊勢だからってのも有利に働いてるだろうけど
三好の場合そういった類の権威付け無理でしょ
清和源氏・小笠原氏流だけどそもそも根拠不明で豪族領主としての活動期間の方が長いし
三好之長の所業もあるから少なくとも元長→長慶に移行する期間でも三好は貴族としては見られていないよな
332 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 00:16:26.38 ID:hIR43eyf
北条を名乗る時点で足利幕府に対し、叛旗を翻してるのと同然のように思う。
三好も北条も基本的には反幕で、利用できる場合は利用してるだけ。
333 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 01:45:31.21 ID:Z1B3Pf7m
「幕府は道具!三好は屈服してる気はないけど利用してるだけなんです!」なんていくら言っても当時の見解から三好は幕府の下に位置するものと見られてんだからどうにもなんないよ
>>262が隆元の発言を引用してた通り、当時の人間にとって
「幕府の命に背くと悪評が立つ」「でも実利と擦り合わせたらそれを承知で背く必要だってある」「そういう範囲でなければ幕府と仲良くしておこう」
ってのは当たり前の認識なんだよ。特別三好を持ち上げる材料にはならない
道具として幕府を使った時点で、同時に「自分は将軍に従ってます」と対外的にアピールすることになるんだよ
「いや違う内心では屈服してないんだ実力では上なんだ」と言っても無駄。とてもじゃないがその理論は幕府はの克服・屈服には至らないと思うね
334 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 03:20:10.80 ID:QB64xmgU
>>333 細川も三好も将軍を形式的に推戴して権威を利用してる点では変わらないもんな
掌握してる実権の範囲はそれぞれ違うだろうけどさ
なのになぜ長慶の場合だけそれが「倒幕」(幕府の克服・屈服)になるのか?
そこがおれにもわからない
義輝と和睦後も朝廷も他の諸大名も現役の将軍・義輝を明らかに
長慶よりも上の権威として見なしてるのに
335 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 07:34:32.87 ID:WtGafx+3
>>330 三好家と織田家が畿内の新興勢力とどう向き合ったかを
313で考えていたのにそこで唐突に関東の大名の事例を出されて
三好家の統治に特色がないと言われても議論のしようがないと言ったんです。
もちろん各大名の特色を比較するのは面白いと思いますけど。
三好家も北条家も旧幕府権威に挑戦して
独自の領国支配を確立した典型的な戦国大名ですよね。
336 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 07:38:59.61 ID:WtGafx+3
>>333>>334 こういう人って三好家の河内侵略と
その後の久米田の戦いはどのように理解しているんだろうか?
三好政権下で畿内ですら幕府の権威が喪失しているから
久米田の戦いが起こったんじゃないの?
337 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 08:48:32.38 ID:aOwFKmXf
むしろ畠山攻略のために義輝と和睦した感すらあると感じるかな
弘治以前の三好の戦いは丹波や山城が中心だったけど永禄以降はもっぱら河内や大和が中心になってる
当たり前だけど江口後の三好は即畿内のトップになったわけじゃなく細川氏綱・畠山・三好の共同政権って色が強い
ついで言えば氏綱は三好より畠山のほうが縁が深いし、氏綱没後も被官の小枝氏は長慶に仕えず畠山に仕えてることからもその関係が伺える
そして弘治までは三好は儀礼的には氏綱の配下として行動していたけど、義輝との和睦以降はそれが見られなくなる
まあ要するに普通に畠山攻めようとしたら氏綱がうるさいだろうから、義輝と和睦して各種栄典で家格を上げて氏綱と同格になり、自由に行動できるようになるのが目的なんじゃないかって推測してる
もちろん栄典権威どうこう以前に単純に義輝・晴元と和睦することで敵を減らしてから畠山を攻めるって意図もあったと思うけど
ついで言えば畠山攻めは一度目は高政からの依頼での安見仕置、二度目は高政が安見を復帰させたから違約としての口実があるし
義輝によって紀州の奉公衆湯川氏が高政に与同を停止されてるし、れっきとした幕府の許可を得た公的なもの
338 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 09:57:52.18 ID:XAJh9TDk
ずっと三好の倒幕論見てて違和感あったんだけどやっとわかった
例えば三好と織田の比較に関しては、近年の研究によって三好が単なる畿内を支配してただけの勢力ではないことがわかったのと、
信長の「革新性」という評価に対する否定もあって有意義だと思うし、俺もその評価に納得している
(もっとも双方がどの点において「勝っていたか」には今後も議論が必要だと思うけど)
でも三好と幕府の関係については近年の研究に逆らってことさら幕府を「無力で利用される存在」であることを強調してて
はっきり言って「義昭は信長の傀儡」「京兆専制」みたいな古い下克上論に逆行しているようにすら感じる
もちろん幕府の衰退は明らかだし、諸勢力がその「権威」を利用する意図があったことは確かだろうけど、それだけじゃない
ついでに言えば主観での言葉で将軍を矮小化させようと、まるで印象操作してるように見えるのも目につく
>六角も一抜けたしちゃって義輝が三好家に引き取られることになったんだよ。
これとかまさにそれ、当時の記録のどこに「義輝を引き取る」なんて表現があったのさ
339 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 20:26:43.81 ID:jiOffhHg
340 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 21:53:34.36 ID:QwRmVK5/
>>336 永禄年間には西国を中心に守護補任が増加しますが
これは将軍固有の権限である停戦要請を前提とした調停可能性への期待なんです
永禄年間には戦国大名の地域分割が進行し領土紛争が頻発するなかで
守護補任権をもち調停能力をもつ将軍の役割が逆に意義を増す局面が現われます
実際義輝は和睦の仲介という形で畿内以外の諸大名の紛争調停に数多く関わり
毛利・大友らの戦国大名と中央(幕府)との関係が強化されてゆきます
この将軍独自の調停能力を三好は統制できていたわけではありません
畿内の実権を三好が掌握しているのは確かですが
全国規模で見た場合幕権は喪失されたわけではなく、総体としては
地方の動向ともあいまって義輝帰京後回復した面もやはり大いにあるわけです
341 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 22:27:34.52 ID:WtGafx+3
>>338 別に意図的に事実をゆがめて将軍を貶める表現を
使った覚えはありませんけど。
もっとはっきり言わせてもらうと
足利義晴・義輝が無能で最悪の奸物、細川晴元を排除せず
三好との和睦を拒んで徒に畿内の戦乱を長引かせたことが
幕府権威の決定的な凋落を決定づけたんだよ。
幕府の権威ってのは天下万民のために
世の騒乱を治めることで成り立っていたのよ。
それが私闘に明け暮れて都を捨てて政務を放棄しちゃったから
その権威も実力も自ら放棄することとなり
代わって民心を得た三好家に敵しえなくなったんだよ。
義輝は足利家の棟梁としてその一門である細川家の騒乱を収められず
陪臣の三好家の力でやっと両細川の乱を収束してもらたんじゃないか。
同じく一門の畠山家の御家騒動にも幕府は何ら影響力を及ぼせず
こちらも三好家の武力で収めてもらったんでしょ。
一門ですら調停できない将軍に権威があったなんて認められないよ。
義輝が都に復帰して幕政を再開した後に
たしかに幕府の権威は回復しつつはあったけれど
それは将軍家の力ではなく、
三好家の実力によって畿内と都に安定がもたらされたために
その信頼度が担保されたからだと思うよ。
342 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 22:36:01.63 ID:ixa3EOgC
たぶん、今、戦国板で一番勉強になるスレだなぁ…
343 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 22:53:24.36 ID:QwRmVK5/
>>341 実際に三好の支配が及んでいる畿内ならともかく
遠国の毛利・大友間の地域紛争を調停できる武力的実力は
当時の三好長慶にはありませんし(逆らっても武力討伐できない)
毛利・大友も三好長慶に和睦の仲介を依頼していません
ではなぜ毛利や大友はすでに固有の武力をもたず幕政の実権もない
義輝に依頼するのか?(実質的な権力が義輝にないことは毛利も大友も
もちろんちゃんと知ってるのよ)
それは端的に紛争している諸大名に「天下静謐のために争いを停止せよ」と
停戦要請を行えるのは武家の棟梁である足利将軍固有の権限だからなの
それは「理念的に」将軍は諸国秩序の維持に責任を負う、そういう役職
として位置づけられているからなんです
実際に将軍がそれができるかどうかは別の次元の話なの(大体できない)
262でも書いたけどいくら実力があっても管領や相伴衆の長慶では
この将軍固有の調停論理の正統性が使えないから、調停者として頼まないの
344 :
人間七七四年:2014/10/20(月) 23:21:36.73 ID:Gh0eKXDk
諸勢力は幕府に既に実力がないってことは理解している
幕府の側だって自分たちの上意がそれほど効果を及ぼさないことを多分理解している
にも関わらず将軍からの命令は実際にある程度の有効性を示してるし、時には諸勢力の側から和睦の命令や栄典授与を依頼する
そういうある種奇妙な幕府と戦国領主の関係が存在するってのをまず認識してくれないと
「(長慶は素晴らしくて)晴元はクソなのにクソを将軍が擁護するから悪い!」なんて偏ったこと言われてもどう返せばいいか
345 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:02:55.43 ID:Ni3ZHHJ6
言っておくけど別に義晴・義輝期を経て幕府が衰退に向かっていくことを否定してるわけじゃないよ
また近江に没落中の義輝が朝廷からも無視されるようになっていったのも事実だろう
けどそうして衰退した幕府の権威ですら、三好が克服できるようなもんじゃなかったって話さ(そもそも倒幕するつもりがあったのか怪しいがね)
例えば永禄への改元は義輝を介さず行われたのは確かだが、義輝帰郷後に三好が改元申請してもあっさり却下してる
広橋家(だっけ?ちょっと覚えてない)を巡る争いも義輝没落時は三好有利で進んでたけど、義輝帰郷後は義輝の支持する側が勝利している
曼殊院と松梅院との争いで、義輝と久秀が口論になったけど、結局その後義輝側近に押されて久秀は義輝の調査を認めている
諸大名との外交にいくつか久秀の関与が見られるけど、そういった事例より遥かに多くの大名に義輝単独で御内書が出ている
どんだけ三好が没落期の義輝にプロパガンダかましてその権威を貶めようとしても、帰郷した後は結局みんな三好より義輝の言うことを聞くんだよ、聞かざるを得ないんだよ
346 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:10:44.40 ID:GcrWDike
(343のつづき。レスが混じって読みにくくなっても気にしない!)
守護職もらっとくと具体的なメリットがあって
いざ敵が攻めてきた時に和睦の仲介を将軍に依頼しやすいの
守護の任命権は将軍が握ってるから
実際大友・毛利が争って守護職を獲得していたのは両者が
「仁義なき戦い北九州編:大内遺領を手に入れろ!」で
熾烈な攻防をしていた最中でした
毛利は同時進行で「仁義なき戦い尼子編:銀山ほしいです」も戦ってましたし
毛利も大友も多面戦争をしているので、和睦のタイミングを誤ると
最悪家が滅亡する危険もあったわけです
347 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:13:26.33 ID:GcrWDike
(ごめんまだ続く)
だから
宗麟(毛利はどうせ約束破って筑前・豊前に攻めてくるじゃん?
だから先にどっちの国も守護職getしとくじゃん?宗麟やるじゃん?)
隆元(宗麟が周防に攻めてくるかもだから、おれは急いで守護になっておく)
と予防的に守護職補任を望み、幕府との関係を強化してゆくんです
実際に交戦して戦況が不利になったとき、毛利は義輝に和睦を仲介してもらいました
元就の建前:「みんなー!公方様の仲介で天下静謐のために宗麟と和睦するぞ!」(キリッ)
本音:(今回はここらへんで和睦しないとさすがにヤバいわ…)
和睦って戦況によっては大幅な譲歩や領土の割譲をせざるをえない場合があるので
交戦相手と交渉する以上に味方を説得して妥協させるのが難しいのです
でも将軍仲介の和睦には味方の国人や家中にも和睦を飲ませる大義名分が
ある程度得られるのよ
348 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:20:29.14 ID:dM1Msrfi
>>343 毛利も大友も三好家と交渉を持っていますよ。
あなたのほうこそ幕政を牛耳り畿内と四国半分を支配する
三好家の西国への影響力を過小評価しすぎだし
将軍家の影響力は過大評価しすぎだと思いますよ。
室町幕府の最盛期ですら地方への将軍の影響力は弱かったのに。
>>344 三好が素晴らしいなんて書いてないよ。
書いてもいないことを付け足さないでね。
晴元はクソだよ。日本市場まれに見る無能な暴君だよ。
晴元があれだけクソでなければ三好家の天下はなかったと思うくらいだよ。
349 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:21:36.51 ID:GcrWDike
(これでおしまい)
一般に西国では幕府・将軍権威が遅くまで残ったと言われ
それは一面で確かに事実なんですが、実際の西国大名の幕府・将軍権威への
スタンスってもっと複雑だと思います
毛利なども守護職あんだけもらってるんだかから将軍権威に従順な家だと
言われがちですが、実際の感覚はそんなに三好あたりと変わるかなー?
と思ってます
そしてなぜか結果的に毛利や義輝をageるレスが多くて何なんですが
三好長慶が一番好きだと最後につけ加えて終わりたいと思います(キリッ)
350 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:30:11.64 ID:GcrWDike
>>348 もちろん両家とも三好と交渉をもってるよ
でも全体として見れば当時の大友・毛利間の抗争に義輝の介入は頻度的にも
タイミング的にも三好の影響より大きな意味をもってるんです
三好にとって豊芸和議ってメリットないでしょ?
大内の瀬戸内制海権の継承を目指す毛利と三好は潜在的に競合・対立関係に
あるから、三好としては毛利と大友は戦ってくれた方がいいもんね!
でも義輝仲介しちゃうんです
351 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:39:51.95 ID:dM1Msrfi
>>345 そんだけ将軍の権威が強いのなら
どうして義輝は三好を倒せなかったの?
どうして両細川の乱を収められなかったの?
ちゅうか調停に失敗してるんだからさ
その権威がたいしたことなかったってことでしょ?
都においては足利家と朝廷は密接に結びついているので
その関係の影響力はあったろうけど
自前の軍隊と官僚組織を持たない義輝が何ほどのことができたかと。
政治は一人ではできないんだよ。
松永の幕政での万能性は当時の一次資料からも十分以上にうかがえるじゃん。
352 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 00:55:14.30 ID:dM1Msrfi
>>350 んーとね、幕政を牛耳ってるのは三好家なの。
両家の争いが調停できれば三好家の評価もあがるのよ。
天下を治めんと欲する三好家にとっては
両家の和睦は十分メリットがあるの。
どのみち毛利領も大友領も三好家が直接支配するには
遠すぎるし広すぎるしね。
一方的にどちらかが大きくなったらそちらの方が脅威だし。
353 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 01:19:25.58 ID:Ni3ZHHJ6
三好と義輝との和睦の際に「お湯殿上日記」では「これで天下は収まった」という表現がある
当時の感覚では将軍が京にいるといつ状態が正常であると示す一端と言える
朝廷は確かに没落して京からいなくなった義輝より三好に肩入れすることもあったけど、和睦して復帰した後は何事もなかったかのように義輝との交流を再開している
ついでに言えば三好は朝廷交渉行った形跡が少なく、また毛利のように熱心に献金してるわけでもないという指摘もある
だから朝廷としては三好はあくまでも京にいない義輝の代理で「義輝が京に戻るならそれで問題ない」ってスタンスだったんじゃないかと思う
354 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 01:19:35.95 ID:GcrWDike
>>351 畿内では戦国大名化を目指す勢力は京兆家にせよ三好にせよ
足利将軍家とどこかで最終的には直接的な競合・対立関係にならざるをえず
そこではもちろん直截的な実力によるパワーバランスが生まれる
そんなの細川政元以来ずっとそうだよ。将軍自身が畿内では紛争の当事者なんだもの
しかし地方では紛争当事者ではないから、たとえ軍事的実力がなくても
将軍固有の停戦要請という形式的権限が生き、調停者として一定程度機能する
もちろん将軍が仲裁しても調停のすべてが成功するなんてアリエンティ
しかし義輝帰京後、永禄年間に地方の戦国大名と幕府との関係性が
守護補任と和睦調停という側面をつうじて強化され
それをつうじて一面では幕権が回復傾向にあったことを否定するような
強い理由は自分にはないなー
>>352 んーとね、長慶は永禄2年に久秀に仲介させて
大友に九州探題と大内家督を認可してるの
これはまさに当時備前・讃岐方面で毛利・三好間で軍事的緊張が
高まっていた時期で「その打開策として北九州で毛利氏と対立する大友氏に
軍事行動の大義名分を与え、毛利氏に対抗させた」って評価されてるの
毛利と三好は瀬戸内制海権をめぐって長慶以降も
ずっと潜在的な競合・敵対関係が続くよ
355 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 01:31:58.22 ID:dM1Msrfi
>>353 天下おさまったは単純に京を巻き込んだ騒乱が
収束することへの期待からでしょ?
後段は多分今谷氏の論からとってるんだろうけど
朝廷交渉はちゃんと幕府を通してしてますよ。
その幕政は三好家が牛耳って壟断しています。
356 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 01:51:03.34 ID:dM1Msrfi
>>354 幕府の権威が回復傾向であったことは認めてますよ。
でもその幕府の実権を握っているのは三好家ですよ。
将軍と管領家の起こした戦乱は当事者同士には重要だったかもしれませんが
そこに暮らす領民にとったらハタ迷惑なことでしかになかったんですよ。
だから幕府から民心が離れ下剋上の世になったんだよ。
本来の為政者なら領民のためにお互いの遺恨を忘れて和解するもんだよ。
後段については紛争地域なんだから時間がたてば状況も変わる
状況が変わればそのスタンスも当然変わるでしょうとしか言いようがありません。。
357 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 01:54:44.66 ID:Ni3ZHHJ6
>>355 今谷先生じゃないよ。氏の畿内研究史のパイオニアとなった功績は大だけど、今更そんなところから取ってこないよ
弘治年間までの三好が朝廷工作にあまり熱心でなかったのではないか、という指摘は宮帯出版のほうの「三好長慶」や「松永久秀と京都政局」からだよ
自身で言ってる通り三好の朝廷交渉は幕府を通じて、あるいは御供衆である「幕臣」松永久秀が行っている
その時点で周りから見れば三好は幕府に包括される立場なんだよ、どんだけ実力・財力が幕府より強くても幕府の上位権力として扱われるなんて夢のまた夢
ましてや「幕臣」久秀は上野・進士らの幕臣に上から命令できる立場じゃない
上での曼殊院論争の一件のように
仮に幕政において義輝にとって久秀の行動が都合が悪く対立した場合、
上記のように久秀側が折れざるを得ないこともあった以上「牛耳る」「 壟断 」なんて表現は不的確だと思うね
358 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 02:02:16.87 ID:Ni3ZHHJ6
とは言え専制とはいかないまでも松永久秀という存在によって、元は阿波守護の被官に過ぎなかった三好が公に幕政に関与できる立場まで上り詰めたのは事実
そして「三好」「松永」のままで栄典による家格上昇、これによって京兆家に変わる新たな室町幕府内における新秩序を生み出し時代の変化への先鞭をつけたってのは見逃せない
俺は永禄和睦後の三好を評価する点はそういう路線がいいんじゃないかと思ってるし、そこまで上り詰めた三好は素晴らしいと思ってるよ
359 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 08:58:24.51 ID:QGYDfh9L
ざっと見たけど無能な暴君とかモロに感情的主観的な表現使いだすと人に不快感与えて説得力も無くなるんだなと思った
360 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 20:53:27.92 ID:ziE/TsMs
だね。ここは、所詮、自分の見解を披露する場でしかないもんね。
互いに意見を検証し合うことはできても、勝敗はここでは絶対につかないんだから、
熱くなりすぎたり、多数派気取ったり、無理に説得しようとしても無意味だよね。
むしろ、自分の意見を小出しにして長期戦にした方が互いに楽しいと
最近思うようになった。
361 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 21:49:38.45 ID:Tb5UaY3a
おそらく晴元ののしってた同じ人だろうけど
どうして「勝敗は絶対つかない」とか「所詮…でしかない」とか
「多数派気取ったり」「無意味だよね」とか「長期戦」とか
無意味に喧嘩腰なんだろこいつ。性格悪いよ。
過度に感情的な書き込みしてるのはお前くらいで
反対意見を書いてる人たちの方が荒れないよう気を遣って
建設的に議論してるのわかるのに。
362 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 22:11:03.57 ID:ziE/TsMs
>>361 いや、違うひとなんだけど。
っていうか、「荒れないように気を遣う」って主張と行動が真逆で矛盾してね?
熱くなるのやめね?
(ってこれ、煽ってるつもりも無いから、全部悪く受け取らないでw)
363 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 22:23:11.69 ID:Tb5UaY3a
「荒れないように気を遣う」の主語は俺じゃないから
何も矛盾してないけど?
もちろん荒らすつもりもないが
マナー悪いのは不快だからそう言ったまでだよ。
364 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 22:38:26.02 ID:ziE/TsMs
じゃあ、互いにマナーよく行こうねw
365 :
人間七七四年:2014/10/21(火) 23:19:32.14 ID:jLhb3NNk
今は、三好氏の居館 勝瑞城館 (デジタル博物館) なんてあるんだな。
366 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 01:17:07.59 ID:2btRLrVr
んー何というか、互いの主張を見ていると
足利の権威がどこまで、どの程度通用していたのか
三好の権威がどこまで、どの程度通用していたのか
この二つだよね
足利の人からしたら調停で全国の大名には命令できるには回復したとなって現在の義輝は言われる程馬鹿ではない
三好の人からしたら調停などの行動は長慶・久秀が間に入ってるし実際に長慶が長期統治した実績がある、となる
互いに譲れない主張がある訳だな
三好本や畿内本を見ていて最近思うのは、三好が遠国大名から一目置かれてたのは確かだろう
だがそれが通用するのは畿内近国で遠国に行けば行く程、足利ブランドが強くなる傾向だったんだろう
田舎と都会の情報量の差だろうな、三好長慶と言う只者じゃない奴が畿内の統治者、って認識はしてはいるが
遠国にいる所為で中央の変化を体感できないから、何かあった時に新興の三好より足利の権威を選ぶのは至極当然の選択。
周りの連中も同じ選択を取るから当然だわな
遠国大名が新興勢力に助けを求めた『大きな例』って大友宗麟が秀吉に助けを求めたのが初めてか?(でもあれも足利義昭従軍してるよな?)
九州はそう言うの多いよね、伊東や相良が『義』貰って周囲が大反発とか。
三好長慶を感じ取れるのは畿内に住んでいる民衆や商人などの一般人だし当然っちゃ当然か。
あと、中央と遠国で思うのは朝廷への献金、本とか見てたらふと思うんだけど
三好の献金が少なく他が糞地方大名の献金がくっそ多いんだよね(毛利・織田他)
少なくとも三好が他地方大名よりも金を持ってないってのはあり得ない訳で
この辺の意識差の原因が凄く気になる。
367 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 01:19:02.77 ID:2btRLrVr
糞地方大名 間違いw糞はいらない
368 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 02:34:15.04 ID:RBpwKnkr
あと346の一連のレス見てふと思ったんだけど、三好が介入した形跡のある外交は大友・毛利・河野・山名とか自分の領地に干渉してくる可能性のある勢力で
幕府の外交に干渉したのも、名前を売る目的だけじゃなくてそういう「実利」目的でやったんじゃないかなと思う
一方で東国に関しては織田に松永長頼が鷹送った話や、朝倉に義輝が「三好親子と松永に何事も相談すべし」と言ってたりする以外は、それ以東への外交関係が見られない感じ
この三好の東国へのノータッチっぷりは、過去の傾向から上洛する勢力は西からくるって意識があったのかもしれないけど
一方で義輝は幕府健在を示す必要があるから全国幅広く書状を出してるわけで
パワーバランスへの評価は一旦置いといて、両者の目的の違いが感じられるなーと思ったり
369 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 07:29:27.98 ID:txXveSzJ
三好も織田も彼らなりのやり方でともに幕府を利用しようとしたが、積極的に幕府そのものを否定するようなことはしなかったという点では同じじゃないの?
370 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 08:04:53.46 ID:xsxS8qbt
晴元さんを無能な暴君っていうのは感情的表現ではなくて
客観的な評価なんだよね。
史実と確定されている事績と結果を積み重ねれば
間違いなく日本最悪君主列伝に入るレベルだよ。
371 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 08:48:02.81 ID:xsxS8qbt
足利幕府の権威がどうとかいうけど
足利将軍の権威ってその幕府の権力構造から
全盛期でも全国区じゃなかったんじゃないの?
関東は鎌倉に投げっぱなしで大変事以外はほぼノータッチだし。
最新の研究ではまた別の考えもあるんだろうけど。
あと足利将軍って政治的な調停力を駆使して諸大名を統制したというより
武威を持って問答無用で従わせていた武断派政権という印象が強いんだけど。
武家政権というのは基本実力がものをいう軍事政権なので
常に腕っ節の強いところと気前のいいところを見せておかないと
諸大名に舐められてタガが緩んでしまうし。
その歴史を俯瞰するとその権威とパワーバランスを保つために
定期的に幕府の敵を作っては戦いを起こしていたようにすら見えます。
義輝が全国に役職をばらまいたりってのは
足利将軍家の秩序に謀反して自立した戦国大名の権利を追認しますってことだから
権威が復活したとはどうしても考えにくいんだよなー。
幕府は名目上復活したけどその役割は往時とは別物だよね。
372 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 10:44:06.38 ID:txXveSzJ
将軍家あるいは将軍そのものの力は状況により弱まったり強まったりしたものの、幕府を中心とした秩序自体は依然とあったってことだろ?
373 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 13:35:25.26 ID:rgK70Qxh
今川義元や武田信玄が天下を取る為に大軍を引き連れて上洛するとか言うが
上洛して号令するってのが、アホな歴史家は適当なんだよね。
その意味を解釈すると、幕府の権威を利用して貿易や経済を優位に回して、全国の大名に命令をだして操る。
果たして、戦国乱世で幕府の権威がどれだけ意味があったのか?
あったのなら、信長は武田や毛利と戦う必要がなかったわけで、秀吉も足利幕府を再興させりゃよかったわけです。
天下人ってのは、関ヶ原の後の徳川や鎌倉幕府みたいに、京都周辺を外から武威・権威で抑えるだけでも問題ないのね。
別に京都周辺を支配する必要はない。
徳川幕府は、東に親藩を集めて西の外様を武力で押さえ込む政策で200年以上続いた。
だから別に近畿で政権を立てなくても問題ない。朝廷を抑える関白と六波羅探題が置いてけば。
徳川と鎌倉は京都から離れることで政権を維持しようとした。この辺、藤原や平家や足利三好を反面教師にして歴史から学んだんでしょう。
で、三好家は天下に号令した戦国大名なんですよ。三好信長大内は、基本同レベルと考えられる。
374 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 14:28:01.94 ID:r5T7BPPM
>>371 そういう説明ならようやくそっちにも理があると思えた
三好の家格上昇、義輝期に増加が見られる守護追認など、この時期に幕府の秩序体制に変革が見られたのは確かだと思う
ただこの時点ではそういった新興勢力もまだまだ幕府を無視せず、上位権力者として認めていたし(上であったように実利絡めば断ることもあるけど)
仮に三好が長期政権になればいずれ幕府と決裂するしかなかったと思うけど(義昭と信長のように)
ただ現実として「当主が相次いで病死→将軍暗殺→家中分裂で畿内から没落」とあまりに急転直下な経路を辿ったせいで、
ifを論じるにしても先のことすぎて(長慶・義興が早死にしなければ義輝との協調関係はもうちょっと続いただろう、って意味ね)個人の想像で補う部分が多すぎると思う
だから俺としては三好の行動が倒幕の萌芽になったかどうかはともかく、それを当人が意識してたかは判断できないなぁ
375 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 21:50:30.19 ID:RaG238nP
>>374 政治思想として三好が倒幕を最終的に目指していた、というためには思想史的な分析が必要で
そのためには長慶本人の政治理念が表現された史料がかなりの分量存在しており
それをある程度体系的に検討してはじめて説得力が生まれるわけだけど
その肝心の史料が絶望的に三好にはないんじゃないか?という印象は確かにある。
傍証主体で思想史的なアプローチとしては弱いというかな。
376 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 22:00:48.78 ID:RaG238nP
377 :
人間七七四年:2014/10/22(水) 23:35:45.97 ID:zUSu5xWv
>>375 例えば「没落した将軍に対して朝廷が距離を置くなど変化が見られるようになった」「幕府体制は後期において緩やかに弱体化していっている」「三好の時代に後の織豊期の幕府相対化の萌芽があった」
そういった見解に対しては俺も異論は無いんだよね
ただ長慶自身にそういった一貫した倒幕思想があったか、に関してはやっぱ普及させるには難しいというか…
378 :
人間七七四年:2014/10/23(木) 00:02:55.46 ID:AxQuVZ7i
三好に関する資料は京都の寺社の奥深く・・・まだまだ未踏域だよ。
東寺とかにもかなりの資料が眠ってるらしいからなぁ、もっと畿内研究者が増えないと
それが発見されていって長慶や義輝の政治思想と政策・方向性が解ってくるだろう
379 :
人間七七四年:2014/10/23(木) 20:55:18.26 ID:WlgAwauZ
それを言っても仕方ない。一部の大名家以外多かれ少なかれみんなそうよ
可能性ではなく現に発見された史料で語るのが史学だから
380 :
人間七七四年:2014/10/24(金) 22:50:37.05 ID:KB/dNKQ0
そもそもみんなはなんで上洛したんだろう?
381 :
人間七七四年:2014/10/25(土) 04:59:28.37 ID:lmMtItOi
>>380 朝廷に官位もらった返礼のためとか
将軍の上洛要請・命令に応えてとか
表敬訪問的な理由とか
諸大名が上洛する理由はいろいろある
みんなが天下制圧を考えて上洛するわけではもちろんない
382 :
人間七七四年:2014/10/25(土) 10:08:34.96 ID:vKPpDJN5
細川晴元や浦上村宗なんかは天下制圧を考えていそうだよね。
383 :
人間七七四年:2014/10/25(土) 16:14:04.53 ID:a5cyV+Qb
まあ天下つっても当時の言葉の意味じゃ畿内を抑えるって意味だからねー
384 :
人間七七四年:2014/10/25(土) 17:22:48.98 ID:vKPpDJN5
三好は丹波や播磨に遠征してるから、最終的に政権が盤石になれば全国を制圧をしてたかもしれないね。
385 :
人間七七四年:2014/10/27(月) 08:21:23.09 ID:pAfYBKqU
三好家と浦上家は似たもの同士って感じだね。
赤松と幕府との絡みで浮沈の激しさでは
浦上家が三好家を凌駕しているけど。
赤松家の歴史を調べていると浦上家は
主家の尻拭いで理不尽なまでの苦難続きで
村宗と息子二人の下剋上を応援したくなるよ。
三好や浦上こそが戦国時代の本来の主役だと思うんだけど
現在の日本人は下剋上を好まない傾向があるから
人気・知名度が低いのは仕方ないのかなあ。
彼らなりの正義や道理があって家中・領民の支持を受けて主家を倒したのに
どうしても悪代官イメージが抜けないねえ。
386 :
人間七七四年:2014/10/27(月) 21:52:55.40 ID:HXECdEiW
戦国好きは下剋上自体はみんな結構好きだと思うのよ
浦上は下剋上には成功するけど上剋下に失敗して
家臣から下剋上くらって滅んだのが詰めが甘いっていうか
間抜けに見えちゃうのが人気的にはネックなんだと思う
むしろ浦上をさらに下剋上した宇喜多直家の方が黒い人気がある
実際の松永が忠臣だったかどうだったかはともかく
下剋上の三好よりもさらに三好を下剋上した(とされる)
松永久秀の方が主家よりも人気があるのとわりと似てる
387 :
人間七七四年:2014/10/27(月) 22:33:01.81 ID:HXECdEiW
>>382 浦上村宗が高国の上洛戦を助けたのは天下を狙ったのではなく
播磨支配が目的&播磨守護職がほしかった
浦上ももともと播磨の国人出身だけど播磨は赤松家の本貫地で
赤松一門が強い国だから大義名分的に幕府から守護職をもらって
合法的に下剋上を達成しようとした
応仁の乱のとき越前の守護代・朝倉孝景が守護職補任と引き換えに
西軍から東軍に寝返ったのと一緒の動機
浦上村宗はもともと両細川の乱では高国派(主君の赤松義村が澄元派)で
主君の赤松義村を殺害した際に管領だった細川高国が村宗をかばって
助けてもらった恩があったのと、義材のあと将軍・義晴を擁立したのは
高国・村宗ラインで以前から盟友だったので高国の返り咲きを支援したの
388 :
人間七七四年:2014/10/27(月) 22:39:34.43 ID:VOj9Muvc
三好や浦上は結局中途半端な存在ってことか。
ただ信長の時代に活躍して対決していたら宇喜多や松永のポジションだったかもしれん。
389 :
人間七七四年:2014/10/27(月) 23:40:04.93 ID:pAfYBKqU
浦上家の下剋上というのは幕府の政争に翻弄されて戦乱の収まらない
播磨備前美作などの国人達の支持を集めたものだと思います。
だから村宗が高国を擁して上洛する目的というのは
武力を持って旧赤松領国を幕府の軛から解き放ち
浦上家による一元支配のもと領国に平和と安定を取り戻すことが
第一義であったのではないでしょうか。
ただ浦上村宗が勝利を重ねて高国を無事復帰させ領国の安定に成功すれば
自然と声望が増し後の織田信長のポジションについたかもしれません。
390 :
人間七七四年:2014/10/27(月) 23:57:15.40 ID:RFAslwiT
>>388 松永久秀は全盛期の三好氏の残滓で大和1国を維持していただけだし、
宇喜多家はもともと浦上家の家臣で最盛期でも備前一国+アルファ程度だし、
両者とも三好長慶や浦上村宗の全盛期の軍事力と比較したら10分の1とか、
3分の1とかじゃね?
391 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 00:21:58.26 ID:w72cgFBU
浦上村宗と織田信長が戦うとかかなり浪漫だよね。
小寺や別所を蹴散らすほどの浦上の軍勢を信長が止められるかどうか。
摂津まで進軍されたら、京都は防衛に不向きだから守備するのが難しそう。
でも、どの勢力も上洛してからが大変なんだよね。
392 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 00:42:23.35 ID:sAvj9esq
>>390 宇喜多は備前・美作2ヵ国に備中半国+播磨西部2郡が最大版図なので
村宗全盛期より領土的にはかなり広いよ
備中半国の毛利からの獲得は秀家の時だけどね
浦上は村宗の最大瞬間風速時で備前東部+播磨+美作南部に影響あった程度
摂津国人は京兆家分国なので天王寺合戦でも高国の動員・指揮下に入ってる
備前西部は応仁・文明の乱以降は山名-尼子サイドの松田氏が浦上と抗争中で
西部の国人は尼子が滅亡するかなり後まで大半が松田方だった
美作は小規模国人領主が割拠していて統一されていない状況
393 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 01:29:27.68 ID:w72cgFBU
>>392 宇喜多秀家の全盛期は考えてなかったよ
前提は織田信長の時代に活躍して対決だよね?
宇喜多直家と浦上村宗を比較すると、
浦上村宗と松田元陸は手を組んで赤松家を掌握していたのだから、
その軍勢は、備前+美作+播磨なのでは?
宇喜多直家が備前+美作+播磨西部2郡とすると、動員数としてはやはり浦上村宗の方がかなり上だと思う。
そもそも、直家の祖父の宇喜多能家が浦上村宗の有力武将なわけだし、期待しちゃうなぁ。
394 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 12:08:26.77 ID:dcF7f2x/
いつまで宇喜多能家を働かせるつもりだw大物崩れの7年ほど前にすでに興家に
家督譲って出家・隠居しとる。高国・村宗の合戦にも能家は当然参加していない。
395 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 19:54:57.73 ID:QEL5HGPv
396 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 20:47:21.00 ID:y01FPw/K
>>393 浦上村宗が備前三石城発ったときの手勢は播備作あわせて3000人だった。
上洛戦にしては少ない気もするが、この頃の赤松・浦上はそれぞれ
2・3千程度で国境で攻防しているのでこの動員数はそこそこ妥当だと思う。
高国を擁していたから畿内国人が集まり最終的に浦上・高国方が2万弱に
膨れ上がっただけ。備前はともかく播磨国人を全然掌握できていなかったから
赤松寝返りの噂だけで戦線が崩壊して大物崩れになった。
宇喜多は備前統一前の明善寺合戦時で5000人程度。
直家晩年で1万5000人〜最大で2万人規模の動員数だった。
それくらいの兵力がないと毛利相手に天正7年から3年間も宇喜多単独で戦えない。
397 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 22:20:05.55 ID:gAKtfDZC
宇喜多は単独で毛利と戦ってないし。
宇喜多直家が戦上手の名将だということは疑いないけれど
なんか織豊期に生き残った大名は過剰評価して
残れなかった大名は過小評価されるよね。
浦上家は守護代とはいえ室町時代中期から
近畿一円に勇名を轟かせた名門武家だよ。
高国が村宗を頼ったのも天下の権を争うにふさわしい実力があると
認められていたからなんだよ。
高国が味方したから二万の兵が集まったのではなく
村宗の力を見込んだ諸豪が競って馳せ参じたと見ることもできるよ。
長く管領の地位にありながら独自の基盤を築けなかった高国に
万余の兵を集める声望があったとは考えられないです。
398 :
人間七七四年:2014/10/28(火) 23:57:52.68 ID:y01FPw/K
>>397 どうもおれの方があなたより浦上・宇喜多を好きで播備作の戦国史に
詳しい感じがしてならないけど(苦笑 まあそれはいいや。
浦上は円心以来の赤松家家臣だが武門としては特に名門ではないよ。
則宗は活躍した舞台の大半が畿内だが
村宗代に畿内でそこまで同時代の声望があったのか?というとかなり疑問だわ。
高国にせよ本命の北畠・朝倉・尼子に断られたあと最後の選択肢として
村宗を頼ったんだし。正直なところ先の大内よりずっと前提条件の悪い上洛戦だったと思う。
村宗の目的も通説どおり播磨守護職狙いだろう。
(この時点でそもそも東播にはほとんど浦上の影響は及んでいなかった)
村宗は現役の管領である高国擁してまずは播磨平定を考えたわけで
高国にそれなりの権威があったことを否定する理由も特に思いつかん。
あと宇喜多は中国戦線で天正7年からは単独で毛利三家と戦っている。
宇喜多とほぼ同時期に伯耆の南条が織田側に寝返るから
毛利は因幡以東の山陰戦線を捨てて備前・美作に兵力集中せざるをえなかった
(だから備前以西の毛利方に有効な援軍を送れなかった)。
これを宇喜多・毛利の境目合戦と呼ぶのだけれど
山本浩樹さんの研究(『西国の戦国合戦』や諸論文)でも
宇喜多単独で毛利と互角以上に戦ったという評価。贔屓目から見た過大評価でも何でもない。
秀吉が播磨の別所ら毛利方を平定し但馬・因幡攻略する時間を
直家が壁になって稼いだからこそ秀家が豊臣政権下で優遇されたのだから。
399 :
人間七七四年:2014/10/29(水) 00:02:54.34 ID:5ppq3ThA
前レスの下から6行目
備前以西×→備前以東○に訂正
400 :
人間七七四年:2014/10/29(水) 00:23:46.77 ID:UEAoj/cj
>>396 西に下がった宇喜多と、東に上がった浦上じゃ勢いが違うよ。
最初は3千でも国人は勝ち馬に乗るからね。
三木城の別所村治を破った時点でまさに破竹の勢い。
数々の上洛戦の中でも浦上村宗の上洛戦が一番痛快。
401 :
人間七七四年:2014/10/29(水) 00:41:57.33 ID:c3rN0xn4
浦上や播磨情勢に詳しい人が多いから浦上村宗調べてみたけど(軽くwikiだが)
相当な勢いで摂津に侵入したんだな、この人、もう1歩って所まで行ってるな
三木城奪取して刺客放って柳本をぶっ殺してイケイケ状態・・・
持ち上げるわけじゃないけどその勢いと真っ向からやりあった三好元長も相当だな。
赤松との挟撃ってのもあるけど、てか大物崩れって戦の規模と事の重大さはかなり過小評価じゃね?
知られてないだけだろうけど。
402 :
人間七七四年:2014/10/29(水) 10:17:18.71 ID:xRVtU6ER
>>398 あなたが詳しいのは分かりましたから
wikiだけでもいいから浦上家歴代の事績を辿ってみたら?
赤松宗家を滅亡の危機から何度も救い
赤松家の主力として天下の権を争い
山城守護代・侍所所司代と中央の要職も歴任し
武勲も実績も名声も当時の最高クラスだよ。
403 :
人間七七四年:2014/10/29(水) 23:22:58.53 ID:7ssErnTR
三好氏、浦上氏、上杉氏、結城氏は、英雄/梟雄が何代にも渡って出てきて、
東西をそれぞれ席巻して、まさに戦国の真の華だよね。
404 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 22:05:19.81 ID:qxiCj83s
>>402 浦上則宗は名将…そんなことは戦国板の住人なら誰でも知っている。
あなたがwiki程度のニワカ知識しかないのはよくわかるけれど
まずその武勲・実績は則宗のものであって村宗ではない。
次にあなたは「村宗代の浦上の方が圧倒的に宇喜多より動員兵力が多かった」
とおっしゃるが
・備前勢力(浦上・宇喜多)の美作進出は村宗代ではなく宗景・直家代と遅く
(尼子の影響が遅くまで残った)村宗代ではほとんど支配が及んでいない。
・赤松一門の影響力が強い播磨は全盛期である則宗代でも掌握できず、
基本的にずっと赤松・浦上は播備国境で則宗代から宗景代のおわりまで
戦い続ける。小寺・別所などの赤松一門は自立化。
・東備前は浦上の根拠地だが西備前を浦上(宇喜多)が掌握するのは
最終的に宇喜多直家の代(というか宇喜多は西備前の国人を糾合して浦上に
下剋上した)。村宗代では西備前は旧山名方の影響がまだ強くのちに尼子の
影響が強まるからだ。
405 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 22:08:49.87 ID:qxiCj83s
要するに
「播備作にまたがっていても浦上の実効支配できてる領域は狭く
だから村宗代では平均して3000人程度の動員兵力はまあ妥当な数字だよね。
宇喜多の方が動員兵力的には比較すれば圧倒的に多かった」と言ってるだけ。
だって実効支配している領域が播備作でも浦上・宇喜多では違うのだから。
最後に上洛戦では細川高国は村宗とは別に先発して播磨入りし播磨・摂津
周辺で募兵してのちに合流している。村宗の本隊は3000人で播磨国人を
組み込んだとしても天王寺合戦の2万弱という兵力はやはり多い。
摂津は京兆家分国なのだし高国が畿内でかなりの兵力を集めたと考えて
何かおかしいだろうか。実際に高国方に参じた摂津の河原林なんて
もとから高国方の国人なのだし高国方に転じた薬師寺国盛も京兆家内衆じゃないか。
事実細川高国を後ろ盾にしていた越後守護代の長尾為景が大物崩れの影響で
窮地に立ち家督を譲って隠居に追い込まれているのだから
高国代には細川家の管領(京兆家家督)であることにまだまだ権威が
あったと考えて別におかしくないし、だからこそ村宗は高国を援助して
播磨平定を目指したのだから。
…というごくごく普通のことを書いているだけなので
否定できるような根拠が特にないなら感情論であまり無茶苦茶を言わないでほしい。
406 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 23:17:23.01 ID:KZXrdvAj
(ここは三好スレじゃないのか?)
407 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 23:38:16.19 ID:qxiCj83s
>>406 一応は三好スレなのだろうけど個別の三好氏のスレは別にあるようですし
「三好は天下人なのになぜ知名度が低いのか?」
→他の天下人との比較→「上洛=天下を目指したのか」「浦上村宗は天下を目指したのか?」
→天王寺合戦〜大物崩れという最近の流れから派生した応答ですから
それほどスレ違いではないと思いますが…やや三好から脱線気味なのは認めます。
三好厨が播備作の戦国史をろくに知りもしないのに適当なことを書いていたので
通りがかりの浦上・宇喜多好きとしてはそこはやはり訂正せざるをえない。
408 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 23:40:14.19 ID:EjsLo7yb
(問題無し。三好氏の敵側の視点がいろいろ分かって面白いw)
409 :
402:2014/10/31(金) 00:03:28.31 ID:LYjKHnMM
>>404 他のレスと混同されてるみたいだけど
まず宇喜多直家と浦上村宗の兵力の優劣なんてどうでもいいです。
浦上家は幕府から守護並の家格を与えられている隠れなき名門武家で
赤松家中では比肩するものなき実力者です。
村宗も義村との抗争を戦によって勝ち抜き
洞松院や赤松家中の承認のもと義村を隠居に追い込んで
赤松領国を分裂の危機から救っています。
長く混乱の続いた赤松領国は村宗のもとで秩序を回復しつつありました。
大国播磨を含む3カ国の旗頭としての権勢と実力は
当時の朝倉や北畠と比べても全く見劣りはしませんよ。
自前の領地も軍勢も持たず
他の諸侯に寄生してしか権勢を保ちえなかった高国か
歴戦の古兵にして確かな実力を基に赤松家の名代として3カ国に君臨する村宗か
どちらに頼り甲斐があるかは考えなくても分かると思うんだけど。
410 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 00:05:23.34 ID:/bRXY24e
>>405 浦上村宗の代っていうのは、小寺則職も別所就治も放逐されてて、
大物崩れが無かったら小寺氏も別所氏も滅びてた可能性もかなりあると思うんだよね。
自分は浦上村宗の高国擁立を含む最大瞬間風速を評価している感じかな。
411 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 00:23:15.40 ID:/bRXY24e
えっと、自分は391、393、400、410で、
402の人に横レスされたり、横レスしたりしてるw
実のところ、398、404の内容は八割がた同意してるけれど、言い方が悪すぎてどう見ても駄目でしょwww
ところで、
・細川高国が自前の領地も軍勢も持たない
このあたりは自分の知識と違って、しかもこのスレにとっても重大な問題だと思うんだけど、
誰か詳しく教えておくれ〜。
412 :
402:2014/10/31(金) 00:39:55.84 ID:LYjKHnMM
私が村宗の上洛の動機で妥当なんじゃないかと考えてるのは
>>389です。
補足すると@赤松家の3国守護の地位を確定させること
A赤松家宗家を御神輿化して完全に実験から切り離し
国人諸侯の権益と領域を確定させ
その頭人としての浦上家の地位を不動のものとすること。
横並び意識の強い国人衆を差し置いて
守護の地位に就くのは火中の栗を拾うようなもので
村宗が本当に望んだのか疑問だと思うんですけど。
>>411 追放されて流浪していた高国は当然その領地も失っていると決め付けていました。
違ったのなら訂正をお願いします。
413 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 07:54:27.63 ID:LYjKHnMM
>>404 ちゃんと読んでなかったけどあなたこそわりと出鱈目書いてるね。
村宗時代の美作は赤松家が支配しているし松田家と浦上家の関係も良好。
赤松領国に尼子の侵攻が始まるのは村宗死後だよ。
時系列を無視して「衰退後」の浦上家の勢力を提示して
浦上家「全盛期」の村宗の権力を矮小化してるんじゃねーよ。
村宗が赤松領国3カ国全体に影響力を及ぼした一次資料も残っている。
414 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 10:44:59.47 ID:fX1ghWtE
浦上赤松話が熱いなw
三好と浦上が絡む要素と言えば三好元長の大物崩れと篠原長房の児島の戦いか
415 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 18:01:57.12 ID:kKvQ4rQQ
俺も高国を後ろ盾にした村宗の最大風速と勢いは認めるけど
それを基準に村宗の生涯における勢力圏を過大評価してる感じを受けるかな
実際の歴史では義村殺害の因果が巡ってバブルが弾けて終わったわけだし
416 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 22:18:16.95 ID:YLhH5RNU
>>412 細川高国って丹波の国人にまで離反されて、伊勢や出雲へ流浪してるんだね。
昨年行った伊勢に伝高国作の庭園があったの思い出したよ。
摂津も丹波も失っているとすると確かに自前の領地も軍勢も無くした状態と言えるかな?
417 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 22:34:49.45 ID:YLhH5RNU
>>413 人間ってのは、誤認や都合のいい解釈無しには話ができない生き物だよ。
そんなのは互いに気にしちゃいけない。
418 :
人間七七四年:2014/10/31(金) 23:55:32.89 ID:nqipZQ1G
大内義興の時は1万程度でしかも大内水軍に誰も畿内では太刀打ちできない状態で上洛
それに何年も前から畠山を引き込んで政略結婚したりと畿内対策も準備万端だった
大内でもそんなに慎重だったのに浦上は準備期間も短く本隊も3000しかいないとか
本当にこいつやる気あったの?そこが謎
父の仇と怨んでずっと戦ってきた不仲の赤松政村に後詰めさせるのもアホとしか思えないし
それだけ浦上に兵数足りてなかったってことだろけどこの辺がいまいちよくわかんない
419 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 02:19:50.38 ID:EX4mTsdK
>>418 大内義興の上洛は、ほとんどクーデターみたいなものだったからね。
全盛期の細川家(阿波、讃岐、土佐、丹波、摂津、、)+現将軍を打ち倒すという条件で挙兵してて、
下手したら応仁の乱の再来になる可能性もあった。当然、準備は周到じゃないと厳しい。
浦上村宗の上洛は、それと比べると阿波+丹波勢くらいしか敵の主力が無く、現将軍義晴は味方かつ
旧知だったから拙速で全然問題無かった。
はずだけど、政権樹立後の赤松政村の役職だけは十分に確約出来ず、離脱されちゃったんだろうね。
赤松政村は、前線で裏切られたら致命的だし、領国に残すのも危険なのだから、
見張りをつけて後方支援させる選択しか無かったんだと思う。
人選ミスと言えばそうだけど、神輿は選べない。
三好氏にとっての足利義輝・細川真之、織田氏にとっての足利義昭、、
みんな苦労してる。
420 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 02:59:54.09 ID:wE+rxkq3
>>418 高国にとって浦上はセカンドチョイスどころか第4か5番目の選択肢
京に帰るためにはもう浦上に頼るしかない状態
でも浦上の方は初めから乗り気だった
つまりやる気自体はあった。でも兵数3千は少ないよねやっぱり
ただ援軍をなぜ赤松くんに頼むのかは自分もよくわからない
@子どもの頃村宗に備前に拉致・擁立A父を和睦後騙し討ちで暗殺される
Bこれまでも敵として交戦C美作に逼塞中D自分から守護職を奪う戦いに参加要請
これで「よーし頑張って戦っちゃうぞ!」ならそっちの方が頭おかしい
政村「村宗ばっかじゃねーの」(AA略)にそらなるっていう
ひとつには室町は守護に軍勢催促権があるので、浦上が播磨衆を統制するため
屋形の赤松を名目上呼ばざるをえなかった面はあると思うけどどうだろ
>>419 堺公方府側は阿波守護家だけで兵数8千あるので
水軍なしの浦上3千で上洛は兵力差でかなり無謀だった気はやっぱりする
421 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 03:28:03.84 ID:EX4mTsdK
>>420 えっと、「どうみても無謀な作戦だったのに、浦上村宗はたった3千で数々の敵を撃破し上洛に成功、
更には、阿波細川家、その旗下・歴戦の三好家と互角以上に戦うとは、浦上村宗は播磨に降臨した軍神だった!」
と言いたいのなら、仕方が無いから同意する。
422 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 04:06:19.06 ID:wE+rxkq3
>>421 お、おう…
「浦上村宗ってある意味戦国最大の一発屋だったよね
堺公方府も喧嘩ばっかりでろくでもなかったから途中まで順調だったけど
絶妙のタイミングで刺すとか赤松くんもやりおるやりおる
でも野心のわりに詰めが甘くて失敗するあたり村宗はどうも憎めないキャラだわ」
くらいに思ってるので、同意しなくていいwww
423 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 08:42:30.92 ID:+0iIJ7Lj
義晴・高国にとっては政村・村宗はセカンドどころかファーストチョイスで
晴元・元長挙兵時に真っ先に出兵依頼を出してる。
なんらかの理由ですぐには兵を出せなかったみたいだけど。
村宗は義晴のキングメーカーだったし
村宗と義晴・高国は早い時期から強い同盟関係にあったので
最後の出兵は拙速どころか相当な下準備をして好機を狙っていたとみるべきだよ。
あと西備前の松田氏も当主が大物崩れで討ち死にしているから
赤松側からの兵数は相当な数に達したと思うよ。
政村は細川政元の姉の血を引いているので
細川の乱に介入する際には最高の旗頭になる。
高国について勝利を収めれば播磨での実権は失っても
幕府の要職に付くことは間違いなかったでしょ。
赤松家が再び雄飛する最後にして最高のチャンスだったのに
政村は守護家の意地か、親を殺された恨みだか知らないけど
大局的に見てとても愚かな選択をしたもんだと思うよ。
大将っていうのは個人より全体の利益を最優先しなきゃいけないのに。
424 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 15:14:30.69 ID:LlLxcGpU
政村が愚かつっても
そんな奴に軍勢持たせて後ろに控えさせて
あまつさえ既に寝返る風聞まで流れてたのに、特に対処もせず案の定裏切られて死亡した村宗はやっぱ何考えてたんだかわからんね
425 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 22:57:20.07 ID:+0iIJ7Lj
>>424 > あまつさえ既に寝返る風聞まで流れてたのに、
そうだったんですか?
興味深いんでこのソースを教えていただけますか?
もしそうだったとしたら、それはそれでドラマチックで面白いかも。
巷説の関ヶ原みたいですね。
三好長慶も浦上村宗も自力で実力をつけて伸し上がったのを
主君から正当な理由なく上克下をしかけられたのを
ガチンコでねじ伏せて下剋上したという点でそっくりだと思います。
下剋上というと陰謀家というイメージがつきがちですが
この両者についてはそのイメージからは遠いように感じます。
ついでに松永久秀も実際の事績からは陰謀家とは程遠いようですね。
426 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 22:57:24.76 ID:fBg0MVa9
>>423 浦上村宗、松田元隆、赤松政村、細川高国の中で、
未熟な赤松政村は発言権を失っていたんだろうね。
でなければ足利義晴を裏切ってまで親の仇をとる必要が無いし。
でも4人の中で政村だけが生き残るというのは人間社会の皮肉だね。
427 :
人間七七四年:2014/11/01(土) 23:03:31.59 ID:+0iIJ7Lj
>>426 > でも4人の中で政村だけが生き残るというのは人間社会の皮肉だね。
ほんとそうですよね。
でも政村にはこれから壮絶な生き地獄が待っていますから
全力を尽くして権力の絶頂で死んだ村宗とどちらが幸せだったか考えさせられます。
428 :
人間七七四年:2014/11/02(日) 00:18:11.27 ID:3H1KKZTu
大物崩れ前後の流れは政村個人の感情だけで動くもんじゃないと思うけどね
義村殺害によって反浦上勢力が蜂起してて、村宗はその鎮圧に苦労してるし、ああいうチャンスがあれば村宗を討たんとする勢力まだ健在だったんだろう
義村が村宗を潰そうと度々喧嘩売ってきたのは分かってるが、あの時代の価値観においても主殺しはまずいんだ
そういった反発を安定した勢力を築き上げることによって跳ね返すことができればまた評価が違っていたと思うが
結局村宗は義村殺しの影響がモロに祟ったような死に方をして、それができなかったわけだからそれ以上の評価はできないかな
ましてや「下克上(実態はともかく便宜上そう呼ぶ)」する時も穏便な方法をとって、かつその後の反発跳ね除けることによって成功した長慶とは並べられないと思うね
429 :
人間七七四年:2014/11/02(日) 08:21:02.88 ID:/rcEKq8M
やはり最期が悲惨だと厳しい評価になりますねー。
政村の義村殺しはよく弑逆と言われます。
主筋を家臣が殺したという意味では確かにそうですが
村宗は汚れ仕事を引き受けたという面があって弁解の余地は十分にあります。
まず義村が当主とはいえ傍系からの婿養子だったために
家中からは赤松宗家直系で細川宗家の血も引く次代への「繋ぎ」とみられ
家中での権力基盤がもともと弱かったんです。
武田信玄死後の勝頼のような地位です。
村宗や洞松院と義村の抗争は当主権力の拡大を狙ったというより
義村個人とその派閥の勢力拡大を狙った権力闘争の面が強かったんです。
村宗の排除はクーデターのようなものでしたが結果として大失敗となり
家中を大混乱に陥れた責任を取らされ洞松院によって隠居させられました。
この時点で村宗の主君は義村ではなく次代の政村となっています。
つまり義村は正確には主君を殺していないんです。
隠居させられた義村は大人しくしていれば殺されることはなかったでしょうが
あろうことか将軍家の御曹司を担ぎ出して挙兵してしまいます。
これは明確に宗家に対する分家の謀反であり幕府への反逆ともなる重大な犯罪行為です。
ここまできてしまってはもはや前当主とはいえ赤松宗家としては生かしておくことは難しかったでしょう。
そこで村宗が宗家の意向を受けて義村を殺害したというのが真相に近いと思います。
430 :
人間七七四年:2014/11/02(日) 08:36:46.41 ID:/rcEKq8M
浦上家というのは代々赤松宗家に侍りその実務や軍事を取り仕切るだけでなく
宗家に問題があった時には代わって汚れ仕事や身代わりを引き受けてきました。
赤松一門が酒に酔って幕臣を殺害した時には、浦上一門が代わりに責任を引き受けて切腹したり
赤松当主の不始末の身代わりに浦上当主が刑を受けて殺害されたり
文字どおり永年身を呈して主家を盛りたててその見返りに家中での不動の地位を築き上げたんです。
則宗も村宗も主家と赤松領国を守るために主君の「差し替え」には関与しましたが
宗家を完全に倒してその地位を逆転させようとまでは考えていなかったと思います。
wikiなどでは赤松宗家の権威を乗り越えられなかったと説明されますが
村宗本人に宗家の権威を乗り越える意思が強くなかったという視点でその事績を見直すと
村宗の大物崩れでの行動が合理的に見えてくるように思います。
431 :
人間七七四年:2014/11/04(火) 00:46:51.31 ID:4Fx1Ow43
妥当な意見がでてしまうとレスしづらいワナー
432 :
人間七七四年:2014/11/04(火) 08:49:10.20 ID:mJ35Zej4
言いたいことはあるんだけど脱線しすぎだし絡みづらい
433 :
人間七七四年:2014/11/04(火) 23:25:19.56 ID:L7NpnmJi
伊丹氏って大物崩れをどうやって生き延びたんだっけ?
いつも三好氏に攻められてるよね。高国とうまがあったのかな?
434 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 21:45:14.16 ID:f7FAMr81
伊丹は池田と仲悪くてしょっちゅう逆の方ついてるイメージ
435 :
人間七七四年:2014/11/06(木) 07:49:15.53 ID:Mm4Ae4/H
別所氏ってすごいな。
三木城に拠って100年足らずの間に半独立勢力として
赤松・山名・細川・尼子・三好・織田・毛利の間を渡り歩いてる。
戦国近畿は幕府と細川の権力争いに西国四国勢が介入し
さらに国人一揆・新興武家に宗教勢力が複雑にからんで
離合集散を繰り返すカオスっぷりが面白い。
でもこの一見した時の分かりにくさが三好家の知名度の低さの原因の一つかな。
436 :
人間七七四年:2014/11/06(木) 08:41:49.64 ID:qZuapU6t
三好家も全盛期は短いし、細川家の元で力を蓄える前の出自等が不明な点も多い。
足利将軍家を含む畿内の勢力がグチャグチャだったからこそ台頭できたとも言えなくもないからね。
基盤の阿波西部が、畿内から近すぎず遠すぎずの絶妙な距離だったのは三好家にとっては一時的には幸運だったでしょうね。
437 :
人間七七四年:2014/11/06(木) 21:19:44.38 ID:b9A7O1Ba
三好家は全盛期?相当長い方だろ。
下手したら上杉、織田、大友、大内より、太く長いんじゃね???
438 :
人間七七四年:2014/11/06(木) 22:53:55.27 ID:gIaY9i/t
全盛期というのが曖昧すぎるし(最大版図?畿内支配?)
大友・上杉とかになると一体何を比べてるのかさえ謎なんだが
439 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 02:40:09.26 ID:I3UCLOVT
上洛当時の信長があくまで義昭をトップに据えた各勢力の連合体制の有力者みたいなポジションだったように、
三好に関してもどこから「三好政権」とみなすかってのはあるだろうね
特に江口の戦い後の天文末期は畠山はもちろん、傀儡と思われがちな細川氏綱の存在も侮れないものがあるように思う
440 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:06:04.47 ID:PuG7mOUO
全盛期でない足利政権も北条執権政権も
本質的には連合政権だったので三好政権も「政権」と呼んで問題ないかと。
三好長慶の場合は有名な今井用水の相論などの資料で
山城の惣村側から幕府管領の氏綱より上位の公儀として認知されていたのが明らかなのが
天下人の資格ありとみなされているんだと思うんだけど。
その天下人として長慶が君臨した時期に関してはやはり
1553年に義輝を追放してからというのが妥当じゃないかと思うので
その死と分裂までを全盛期とすると15年弱ぐらいかなあ。
441 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:08:33.49 ID:PuG7mOUO
ひどい悪文ですね。
先に謝っときます。
442 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 11:10:11.35 ID:DVbQgMdT
地域的公権力としての「公儀」と正統な武家政権としての「公儀」は別では?
前者の場合地方の個別戦国大名も「公儀」を称するし
三好による山城の惣村支配はこっちの文脈で、つまり畿内の公権力ってこと
後者の「公儀」つまり「天下人」認定には惣村の支持などは基本的に関係ない
443 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 09:11:23.95 ID:xkXHlpoi
俺も相論において支持を得たことはあくまで地域的な公儀だと思うなぁ
その地域において守護に変わる公権力として認められたのは確かだろうけど、それだけで全国にアピールできたとは思わない
444 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 05:35:03.14 ID:zIbllTPz
三好政権と言っても1565年までは足利義輝の政権だよ。
1568年からは足利義昭の政権。
こういう権力者を排除できないまま政権という言葉を安易に使いたがるところが頭悪すぎ。
445 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 07:37:22.08 ID:VStwx0Bb
マジレスすると三好長慶の官位がショボイ
修理大夫で天下人と言われても失笑もん
せめて源頼朝や織田信長くらいの官位は必要
446 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 10:17:48.68 ID:IzKKQd3N
鎌倉幕府の執権の官位より低いもんなあ。
447 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 19:20:50.51 ID:jUPuAiTO
三好政権の頃は朝廷自体の権威が一番悲惨な状態だったもんねー
448 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 19:39:15.86 ID:Z9Jx2g7o
>>444 俺だって武家の公儀のトップは変わらず足利だと思ってるけど
「政権」って言葉否定するとキレるめんどくさい人が出てくるもん
449 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 19:51:35.39 ID:jUPuAiTO
>>444>>448 足利義輝や足利義昭は、三好や織田の傀儡といえないほど
発言力が大きかったってこと?
450 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:08:33.57 ID:pG+9UQFP
>>442 公儀というのは公権力と言う意味で使っています。
将軍家の牙城である山城で百姓から幕府管領を超えた公権力と認められていたという
史料が存在することに特別な意味があるということです。
これら裁許状などの存在が知られることで
一般的なイメージとして三好長慶は幕府や管領の威を借りて
畿内で権力を行使していたと誤解されていたのが
幕府や管領が首都圏での三好家の実力を借りることで延命していたという
本当の実態が明らかになってきました。
現に将軍を追放しても三好長慶の京都支配は滞りなく行われ
朝廷祭祀も長慶以前のほぼ先例通りなされていました。
これらを踏まえて三好長慶は天下人と呼んでも
差し支えないのではないかということです。
451 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:17:12.56 ID:pG+9UQFP
>>444 つまり鞆幕府を潰せなかった織田信長はあれだけ頑張っても
天下人の資格無しの残念な人だったということですね。
>>445 修理大夫どころか筑前守ごときに都を追われる将軍様も相当ショボイね。
452 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:28:46.48 ID:jUPuAiTO
地方に追われた将軍の政権はさすがに無しでしょ。
義晴の近江幕府とかカウントするの?
453 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:37:23.95 ID:VStwx0Bb
>>452 天正の年号の改元が全て
義昭は反対し信長は賛成した
義昭が天下人なら改元はなされていないわな
454 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:45:06.24 ID:jUPuAiTO
>>453 元亀への改元は信長が反対し義昭が賛成した。
天正への改元は義昭の追放後に信長が行った。
ってことは元亀は足利政権で、天正は織田政権っていう判断?
455 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:48:34.59 ID:VStwx0Bb
>>454 俺はそう思っている。
信長が上洛した当時は、あくまで信長は足利幕府の家臣。
この時代の信長は力はあっても、衆目が認めるような存在じゃない。
先例に倣うなら、源頼朝と同格の右近衛大将に就任した1575年、あるいは右大臣に就任した1577年をもって
織田信長は天下人として公認されていた、と見るべきか
456 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:50:41.75 ID:sePLdJwI
そろそろ大河ドラマ化?
近畿の大名まとめてでもいいわ
457 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:51:12.74 ID:49sCt2Mn
いや義昭は将軍を解任されてないから
五山の任命権を保持していた。
458 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:51:52.96 ID:VStwx0Bb
で、三好に話を戻すなら、やはり官位が足りない。
三好の官位は、おおよそ鎌倉北条の執権程度。
一応「天下の実力者」とは目されていただろうが、
天下人かと言われると、なかなか難しい判断を要する。
力で無理やり認めさせた、鎌倉北条のような暴挙というか、そういう事例が欲しかった
459 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:53:22.89 ID:VStwx0Bb
>>457 将軍って基本的に解任はなかったはずでは?
死んだら流石に別の人に受け継がれるけど
自分から辞めることは出来ても辞めさせることはできなかったはず
460 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:54:35.49 ID:pG+9UQFP
後鳥羽・後醍醐を追放し武家政権の礎を築いた
北条家は天下人の資格なしですか。
461 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 20:56:43.48 ID:VStwx0Bb
>>460 鎌倉北条の場合は、公認されたというより、無理やり認めさせた形だからな
周知の通り、源将軍が断絶して、一度天下人ではないかのような扱いを受けてる。
それを逆に反発して力で上皇を抑えつけて、力で無理やり自分たちが天下人だと認めさせた
三好長慶もこういうことしておくべきだった
462 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 21:00:00.84 ID:pG+9UQFP
>>461 足利義輝を武力で追放してますけど。
義継は殺害までしてるし。
その後も朝廷祭祀は先例通りだよ。
463 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 21:02:42.64 ID:VStwx0Bb
>>462 将軍相手だと微妙だな
その程度なら鎌倉北条は日常茶飯事でやってたし
信長も別に、足利義昭を追放したところで官位が格段にあがったわけではない
幕府を本格的に潰すつもりで、攻め滅ぼしたとかならまだしも
ただの首の挿げ替えじゃ日本だとあまり天下人とは扱ってくれてないね
464 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 21:09:07.84 ID:pG+9UQFP
室町幕府も鎌倉幕府も権力闘争の敵側が
実力を持った天皇家・朝廷だったわけですが
三好長慶の当時は朝廷・天皇は完全に実力を喪失していたんで
事情が全然違うと思うんですけど。
465 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 21:32:16.49 ID:IzKKQd3N
三好家の立場が微妙だからね、足利幕府の中の管領家の家宰が幕府の権力を握ってるっていうのは外から見てわかりにくい、
足利や細川が実力を失っていても、権力闘争を繰り広げつつも細々と生き残っているのがマイナスイメージだわ。
細川晴元が日和って堺幕府をなくした辺りからが混沌としすぎてる。
466 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 21:34:13.28 ID:49sCt2Mn
信長は義昭の子である義尋を奉じてるじゃん。
それに足利尊氏は将軍を解任されているし
義昭が将軍やってて毛利や島津に奉じられてたからこそ
秀吉は将軍になるのではなく関白を狙ったんでしょ
467 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 22:04:27.84 ID:pG+9UQFP
ぶっちゃけ両細川の乱って片方の主役が一貫して三好家なんだよね。
高国と晴元の最終決戦も両者は神輿化してて実質は浦上対三好の対決だったし。
京の人は真の実力者が誰かは当然知っていたんだし
むしろ三好家による直接支配を「分かりやすい」と歓迎したと思うんだけど。
468 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 22:20:17.11 ID:g3UlOHOU
>>458 「権力者を排除できないまま政権という言葉を安易に使うべきではない」
という指摘から、「天下人」に用語を戻してしまうのはちょっと安易じゃない?
「天下人」の概念は曖昧すぎるから、「政権」の話の方が掘り下げ甲斐があると思うんだけど。
469 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 22:37:26.03 ID:g3UlOHOU
自分が思うに三好長慶は室町幕府の権威を利用して畠山氏等の勢力を排除し、
畿内を完全に掌握する構想で、
一方の足利義輝は、室町幕府再興の為に遠近の有力大名を味方に引き入れて
最終的に三好家を排除する構想だったのだと思う。
で、どちらの構想が進んでいたかというと三好長慶の構想の方が順調に進んでいた。
470 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 22:45:10.90 ID:g3UlOHOU
で、結論を出すのなら、
畿内以外から見れば足利義輝の政策は機能していて足利政権に見えるけれど、
畿内においては完全に「三好政権」というべきものであり、足利義輝の方が
徐々に追いつめられている状態だった。
(と言ってみる。)
471 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 23:46:42.49 ID:pG+9UQFP
室町幕府は京都で朝廷と併存するうちに
その実力差で自然と京都近郊の町衆・百姓らの支持を集めて
なし崩しに朝廷の権威も実権も吸収してしまったんだよね。
三好長慶が足利義輝を京都に迎えたのは
その前例に倣ったとみていいと思うんです。
形式上は幕府は復活させるが畿内における実権と町衆・百姓・国人層の支持をバックに
その権威は徐々に三好家に吸収して形ばかりの抜け殻にしてしまおうと。
三好政権が分裂する前は実際にそのように推移していましたし。
472 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 07:58:02.98 ID:/nofktLr
>>466 誰を奉じているかってのはあんまり関係ない
なぜなら日本には一貫して朝廷があるから。
日本でよく言われる天下人、と言うのはまず大体の共通点があって、それが官位。
参考までに主な天下人と言われる人物の生前の官位を羅列すると
平清盛:従一位 太政大臣
源頼朝:正二位 右近衛大将
足利尊氏:正二位 権大納言
足利義満:従一位 太政大臣
織田信長:正二位 右大臣
豊臣秀吉:従一位 太政大臣
徳川家康:従一位 太政大臣
となる。
ちなみにここで話題になりやすい人間の生前の官位は
細川高国:従四位下 右京大夫
三好長慶:従四位下 修理大夫
足利義昭:従三位 権大納言
となる。足利幕府の将軍として頑張っていた義昭がややこしいが、それ以外は官位がショボイ、
すなわち、朝廷かられっきとした天下人と思われていないことがわかる。
それは取りも直さず、そいつを天下人とすることに、少なからず異論があったと思われる。
要するに天下人にふさわしい官位を与えるのは早いと思われていたわけだ。
官位がショボイのに天下人扱いされた例外は鎌倉北条だが、これは前述の通り、朝廷に直接喧嘩を売って、朝廷を下している。
天下人を公認する側の朝廷、ひいては上皇天皇を恫喝した形だから、少々異端。
これらに当てはめると、まだ平将門の方が天下人っぽい
473 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 12:35:35.47 ID:aBx5SVt6
朝廷から武家の棟梁と認識されることと
官位はほとんど関係ないから。
官位はただの飾り。
豊臣政権になってから武家官位による家格序列が始まったことと混同するなよ。
474 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 21:56:31.54 ID:ZggMchN9
実権はなくても権威の裏付けにはなってるよ
475 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 22:06:59.49 ID:If43Kdnx
>>472 足利義満は自分に従わない公家を京都から追放したりして、
相当、朝廷を追い込んでたらしいよ。
公家の日記でも主従関係だって嘆いてるとか。
その後も信長が現れる前の室町時代は、朝廷にとって暗黒の時代だったそうな。
476 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 22:22:19.66 ID:If43Kdnx
朝廷の荘園はほとんど形骸化し、戦国大名によって横領され,
朝廷は収入が無くなって困窮の極みだったとか。
戦国大名の寄付金や、官位を売りさばくような一時金で凌いでいたり、
地方の有力大名に娘を嫁がせたり、地方に下って直接支配を目論んだり。
477 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 22:41:47.08 ID:Z1k6pT/p
天皇が荘園返してって勅使出しても無視。
しまいには岐阜まで勅使を出しても三河へ鷹狩りに行くなど
逃げ回ってた悪党信長
478 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 22:48:01.24 ID:If43Kdnx
>>477 いやいや、そんな小さな話は関係無くて、
織田信秀や織田信長は、朝廷にとっては文字通り救世主でしょ。
479 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 22:51:32.50 ID:Z1k6pT/p
蘇我氏から朝廷を救った→藤原姓
織田氏から朝廷を救った→豊臣姓
480 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 22:59:03.72 ID:If43Kdnx
>>479 蘇我氏は最近、開明派として見直されてきてるよ。
ていうか、誰かの悪口言いたいだけでしょ?
481 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 23:10:02.47 ID:pGD7FgWS
足利義満に皇位簒奪の意図があった云々という説
織田信長も朝廷を否定しようと譲位をせまった云々という説
どっちもトンデモとして完全に否定されて久しいのに
このスレの三好厨どもはいまだに信じているのか…馬鹿じゃないのか?(直球)
信長と朝廷の関係は概して非常に良好だったわけだが
482 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 00:04:06.45 ID:xmjhCFZU
>>481 足利義満が朝廷を追い込んで太政大臣に上り詰めた話や、
朝廷が戦国大名に圧迫されて困窮してたって「事実」が、
どこでどう変化して「足利義満の皇位簒奪の意図」に改変・決定されるんだ?
直球どころか超絶魔球じゃんよ。
483 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 00:17:24.72 ID:qHiYPgy+
細川京兆家は細川嫡流が世襲してきた官位なのに、それが「しょぼい」とか言われても
義昭にしても、足利将軍の世襲的官位じゃんよ
484 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 00:33:52.24 ID:1fXHQemC
>>473 は?豊臣政権の武家官位制度以前からあるよそんなの
室町期では征夷大将軍とともに右大将就任は明らかに
武家の棟梁という意味を帯びた官位んですが
ゆえに右大将の就任儀礼は幕府でも非常に重視されていた
だから歴代足利将軍は義満以降、征夷大将軍就任後も右大将就任を
基本的に目指すんですけど?
485 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 00:39:11.63 ID:1fXHQemC
>>483 官位の秩序・体系のなかで右京大夫や修理大夫やらの
官位には「武家の棟梁」という意味が付与されていない
というごく単純な話なんだが
486 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 00:46:22.59 ID:xmjhCFZU
足利義満の死後の太上法皇の尊号を、足利義持がいきなり否定してるからね。
おそらく太政大臣の官位もあえて目指さなかったと思われる。
だから歴代足利将軍は義持以降、官位にそれほど執着していないし、
足利義晴や足利義輝を擁した細川高国や三好長慶が、将軍を超える官位を望むわけも無いし、
その必要も無い。
487 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 00:48:48.97 ID:J8ipy9XP
義満は当初京都の政治は朝廷に任せてその税収で
祭祀ぐらいは自前で行えるように自立してもらいたかったようです。
しかし朝廷にも公家にも絶望的に金がなく給料を払えないので
当然廷臣のやる気は皆無で行政はまともに機能しませんでした。
朝廷の権威は急速に失われ綸旨が地面に投げ捨てられるほどのありさまでした。
結局は町衆・百姓からの要望で京都の行政も殆んどを幕府が担当することになり
財源を失った朝廷は祭祀すらも幕府の援助に頼りきる存在になり果ててしまいました。
しかし実権は完全に失っても幕府との関係が親密になるにつれ
そのおこぼれで朝廷の権威も多少は回復したようです。
応仁の乱以降パトロンの幕府の権威と財政が破たんすると
朝廷権威も真っ逆さまに転落してしまいましたが。
488 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:01:01.46 ID:1fXHQemC
>>486 義持が太政大臣を目指さなかったのは父・義満のような
ゆきすぎた公武合体路線への懐疑と公武本来の距離への回帰という
理由からであって
官位の価値自体を否定的に見ていたわけでは全くないんだが
義持はむしろ武門の棟梁としての意識は義満よりはるかに強いくらい
右大将にも義満同様就任している
短命や財政的な諸事情で不可能だった場合もあるが
近衛大将(右大将が望ましい)は歴代の将軍が実際に就任するなり
目指していたわけで意味がないわけも執着していないわけでもない
義昭も近衛大将を目指したが結果的にできなかっただけだし
489 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:02:32.09 ID:J8ipy9XP
天文年間に洛北の惣村で領主の寺院に百姓が一揆して相論になったとき
寺院は百姓に対抗するために天皇の綸旨を持ちだしたんですが
百姓は全く従いませんでした。
領主はならばと将軍の下知状、管領の奉書と繰り出すが百姓は従わず
三好長慶の折紙を得ることでようやく従わせることができました。
通常相論や訴訟で頼る相手は権威の低い順からになりますので
京都近郊でも朝廷の権威はとんでもなく低かったようです。
身分序列と百姓からの評価が真逆なところが
戦国時代という下剋上の世を象徴しているようです。
つまり戦国の世において朝廷からの官位はそれなりに箔付けにはなったでしょうが
統治において物を言うのは圧倒的にその「実力」だったということです。
490 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:11:03.56 ID:hgxngYHG
>>488 一応言っておくと、右大将就任は応永13年で義満がまだ生きてる頃の話。
自分は、その公武合体路線の否定こそが、武家に無関係な官位の否定、
ひいては「武家がむやみに官位を欲しがる風潮の否定」が為された
と解釈してる。
491 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:18:08.84 ID:1fXHQemC
>>489 …そらそうよ。統治において実力が必要なのは当たり前だし
そもそもそれを否定するやつなんているの?
なんで百姓が衰微した朝廷や官位の権威をありがたがるというのか
そっちの方が変だよ
しかしそのような惣村や百姓の支持は武家政権の正統性の担保には
まったくならないし、基本的に両者の間は関係がない
百姓が従うからといって(地域的公権力)
じゃあ他の武家も同様に三好を棟梁と認めて従うんですか?(公儀)
ってこと
上の方でもあったけど地域的な公権力と「公儀」は同じではないし
地域的な公権力のレベルを超えた「武家」の身分秩序としては
戦国時代でも朝廷の官位に意味があったということよ
492 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:27:03.93 ID:J8ipy9XP
>>491 修理大夫三好長慶は百姓・国人の支持を得て
戦で連戦連勝して畿内を制し
偉い将軍様を屈服させたんだよ。
武家の本分は戦に強いこと
領民にとって大切なのは道理に従い暮らしを守ってくれる為政者だよ。
官位なんてどうでもいい。
493 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:31:37.34 ID:1fXHQemC
>>492 領民には残念ながら武家政権の正統性を決める決定権はないんです
戦国時代は近代じゃないし選挙もないから仕方ない
494 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:34:19.27 ID:J8ipy9XP
すいません、言い過ぎました。
乱世においては官位なんかは大して意味を持たないと思います。
太平の世なら大切だったでしょうが。
三好長慶は戦国まっただ中に活躍した人です。
官位の工程でその実力や権威は量れないということです。
495 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:36:45.64 ID:hgxngYHG
>>487 朝廷の権威が地の底まで堕ちていたという事実があるから、
織田信長に高い官位が朝廷から与えられている意味が判るんだよな。
しかし天正3年まで出し渋るあたりは、さすが時勢をギリギリまで
見極める朝廷の高度な保身術というべきか。
496 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:58:32.85 ID:J8ipy9XP
>>493 戦国時代の主役の一つは間違いなく百姓です。
秀吉が関白に就任したのち敵は小田原のみと言う時に
播磨の直轄地で代官の不正に怒った百姓による国一揆をおこりましたが
秀吉は強硬策を取れず百姓に大幅な譲歩を強いられています。
戦国時代の百姓は強いうえにキレやすいんです。
三好長慶の治世では京都に百姓の土一揆が起こっていないんです。
これは三好政権の権威実力を量る上で評価されていい点だと思います。
497 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 20:37:25.63 ID:Ecy9hxy/
それと中央政権としての公儀や政権の正統性や形成に一体何の関係性があるのか
全然わからん
局所的な百姓一揆に多少の譲歩をしたら武家の中央政権としての豊臣政権の
正統性が揺らぐのかね?揺らがんだろう
三好による相論の仲裁や一揆数は地域的な公権力の浸透のバロメーターではあれ
他の安定期の戦国大名の治政と別段変わらないわけで
それと公儀や政権として外部の武家や朝廷から認定される・見なされるのは
端的に位相が違う
もっともそのような地域的な公権力の浸透を示す裁許状などの判物数自体
三好長慶の場合には、北条・武田など他の戦国大名よりずっと数的にも
関わる領域的にも少ないわけだが
498 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 20:49:42.65 ID:hgxngYHG
それって本当か?
松永や岩成が代わりに出してたとか、
武田や北条の家臣は江戸幕府の旗本として残ったから、
判物が多く残っただけとか、そういう理由じゃないのか。
499 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 21:03:20.14 ID:Ecy9hxy/
現存している史料的には三好長慶の判物数が少ないのは事実
今谷さんとかはそれ(他の大名家に比べた場合の三好の判物数の少なさ)自体が
権門・その他の諸勢力の強い畿内での公権力の浸透の弱さを示しているという見解で
一理あると思う
かりに三好の場合松永や岩成など家臣の出した史料まで含めるなら
他の大名家でも家臣の出した史料を含めれば当然もっと数が多くなるだけだし
史料の残存状況にさまざまな偶然的要因が働くのは事実だが
だがそれは三好に限った話ではまったくない
実際に現存する史料で語る以外にどうすればいいのかというと、ない
500 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 21:22:46.80 ID:hgxngYHG
>>499 一つの説として提起するのはいいけれど、現存する判物の数で権力の強さを
決定するのは危険なんじゃないの?
発行する領主の性格や統治形態も違うだろうし、
保管する方にとっても北条や武田などの人気大名の判物と、
三好長慶みたいな上方の不人気大名の判物じゃ扱いも違うだろうし。
501 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 21:35:46.37 ID:Ecy9hxy/
もちろんひつとの説だし個人的には今谷さんの見解に一理あると思うが
判物数がすべてを決定する指標などとはまったく言っていない
むしろ三好の統治形態・行政機構の細部などは史料的にもっと不明な部分が多いから
ざっくりとした大枠の数的比較を手がかりにせざるを得ないのが実態だろう
北条のようにかなりシステマテックに行政組織が整備・統括されており
史料的にもそれを裏づけられればいいが、三好の場合史料的に困難があるのでは
502 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 23:02:12.41 ID:qHiYPgy+
>>500 人気かどうかはともかく、後北条氏の一次史料の残存率は異常
近隣諸大名と比較しても数倍の密度で残ってる
それ自体が研究の対象になるレベル
503 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 00:43:55.34 ID:hp+VNyDh
でも北条って領国経営が洗練されてるとかいう割に、
戦争でも外交でも、何やっても動きがトロい感じだよな。
504 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 03:14:48.45 ID:6DNe4xfQ
北条は発給した書状の内容がちゃんと伝わってるか
再確認をするから書状が増える傾向がある。
しかし武田や今川も割と多いよ。
505 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 07:43:52.74 ID:eX3/e49E
>>497 戦国大名という存在そのものが
幕府や朝廷の権威の否定の上に成り立っているんだってことわからないかなあ。
中世で土地も経済も支配してるのは一義的には百姓なの。
朝廷でも幕府でもないしもっといえば大名でも寺社でもない。
その百姓の支持がなければ国は揺らぐの。
権威ってのはようするに国を安定させるため力があるかっていうことでしょ?
豊臣秀吉は朝廷を保護し最高の官位を授けられたけど
足元の百姓にはその権威は及ばず国単位で一揆をおこされ
地方の戦国大名は抵抗をやめず
威伏したのも結局武力討伐によるものだったじゃん。
つまり官位なんてのは飾りだってこと。
506 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 07:57:20.01 ID:eX3/e49E
今谷氏の著作はパイオニアとしての役割は大きかったと思うけど
自説に合わせるために恣意的に資料を隠して議論を進めたり
十分に検証せずにほぼ小説並みの創作を史実のようにぶちまけてみたりしてるんで
彼の論全体を再検証する必要があると思いますよ。
今谷氏自身がそう認めておられるように。
507 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 08:19:39.38 ID:eX3/e49E
北条家など東国の戦国大名の政権と
権門ひしめく畿内西国の戦国大名とでは
統治の要諦は違ってきますよね。
当時の畿内でシステマティックな行政機構を作ったとしても
権門入り乱れる畿内で円滑に機能したかは疑問だと思います。
一筋縄でいかない畿内西国情勢を手練手管で巧みに統治して
最終的には畿内の統一までほぼこぎつけたことから
三好政権はすげーなーという評価もできますし
統治機構を作れなかった三好家は
政権の体をなしてねーという評価にも繋がると思います。
508 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 11:24:50.22 ID:/64LReEE
>>503 北条家は良くも悪くも慎重なんだよ。
確かに後手に回りやすいけど、最終的には安定したシステムで優勢に持っていくから
509 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 08:23:30.57 ID:/1O4MU+e
後北条家は、信玄が来ても、謙信が来ても崩れないシステムを構築していた
反面、動きが鈍い。
その反応の鈍さが、最終的に命取りになったと個人的には思う。
三好は何が命取りだったのだろう。
510 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 12:41:05.84 ID:zRCzo88s
他家から見れば
将軍足利家が存続しており、三好は逆賊に思われてたんでしょ
まだ戦国の世は始まったばかりで有力大名は元気一杯「認めねぇよ」で終わり
511 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 13:44:35.01 ID:H8ucWkvz
>>509 北条は外交下手だな
基本、攻めてくる敵を排除するだけ
この方針に従って、最後秀吉の実力もわからず戦うw
512 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 14:03:37.28 ID:H8ucWkvz
>>505 このスレでwikiの情報をコピペして伸ばしているバカは
この辺、否定しているからねw
まず、戦国時代の権威とはなんぞや?を考えたら
後か先か?ってなる
「権威のおかげで戦国大名は成功した」「成功した戦国大名に権威が付いてきた&利用した」
今ある資料的に、権威という武器のおかげで〜っのも説明が付くから
脳死して考えることしないコピペバカの日記帳になるw
ふつうに考えりゃ後者なんだよね
513 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 17:17:42.07 ID:akGjOiph
>>510 逆賊とは思われてないよ
幕府を輔弼する新たな勢力であることは認識されてたけど、「あんな低い身分の連中が優遇されてんのは気に入らねー」って感じ
他は知らないけど関東にはそんな感じのスタンスだったとのことでまあ、遠国に認められるまでは至らなかったと言えるね
514 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 00:02:18.52 ID:6+i9vlLd
太田資正が北条氏康に三好ごときが相伴衆になるなんてどういうことだと
問い合わせた書状が残ってるみたいだね。
由緒正しい名門の太田家が三好を成り上がり者と呼ぶのは分かるけど
三好家だって長慶元服ころには太田家と家格は同格に並んで名門の仲間入りしてたんで
幕府を輔弼するのに身分が低いということはないんだけど。
ただ三好家が急激に出世して太田家を追いこして
相伴衆と従四位に就任したのがトサカに来たのかな。
北条家は伊勢家との繋がりで畿内の情勢は詳しかったようだから
三好家の出世には納得していたようだね。
伊勢家が滅ぼされた後の関係はどうなのか知りたいけど
資料は残されていないのかな。
515 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 00:14:32.99 ID:AmjbbHGs
「殊更京都三好被準相伴、松永御供被申候、是皆為可被治国家後刷候、然時者此義於関東中も不可有誂判候」
該当の太田資正宛北条氏康書状だけどこれだと太田以外にも不満持ってる層がいるように思える
516 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 07:45:28.07 ID:6+i9vlLd
永禄3年までには関東でも天下の権は三好が握ったと
広く知られていたということだね。
517 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 09:09:30.24 ID:nbScilrA
好意的な反応ではないがね
518 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 09:33:32.52 ID:vLgGadSm
関東は、応仁の乱に先駆けてグダグダの動乱の時代に入って
公方も管領もひどいザマだったのに、何でそんな権威なんかに拘ったんだろ。
地元豪族は、むしろ室町体制それ自体の無能を恨んでそうな気がするけど。
519 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 06:06:02.50 ID:ydq2ryRs
地方の方が都の古い慣習や言語が良く残ってたりするけどな。
520 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 08:41:33.16 ID:wEkyQOnY
貴族階級としての武家の間では貴種崇拝と家格意識が強かったようなので
足利一門の細川が取って代わるならまだしも
素姓の怪しい三好に都を牛耳られてその秩序を壊されたと感じたんじゃない?
あと普通に嫉妬心もあったろうし。
この直後の復古主義者(を装った)上杉政虎の関東乱入に有力諸侯が参集したのも
成り上がりのよそ者のくせに生意気な北条をみんなで締めてやれという
老舗グループ側からの成り上がり者代表の北条家への反撃の面もあったんだよね?
織田信長の「天下布武」と将軍推戴も復古主義を偽装することで
成り上がり者代表の三好家の対抗勢力を糾合したんだし。
521 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 09:11:35.71 ID:cEWwwyhh
>>520 既存秩序の(相対的)破壊者って側面が関東における後北条氏にはあるから、それに対する抵抗運動という見方は主流
もちろん感情的な反発もあるけど、北条による一円支配は、既得権益を持つ関東諸侯にとっては脅威だった
まあ北条もその支配の周縁部(両毛だったり常陸南部だったり上総だったり)では、畿内や西日本と同様な支配しか
できないんだけども
そういう連中は、より強そうな勢力にコロッとひっくり返る、越後長尾の進出しかり
522 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 12:31:10.35 ID:L5aI45hu
いや戦国時代なんてどこも成り上がり大名ばっか
守護の武田も守護代の跡部氏に乗っ取られていたのをなんとか取り返したんだよ
守護は京都の出向しているから国人に乗っ取られるパターンが多い
尾張も同じなんだよね
あと、今の日本の年功序列等や強者が弱者を助けるという道徳思想は江戸時代の思想改革の成果で
戦国時代の日本と現代の日本人の思考はまったく違う
安易に権威に従う民族じゃなかったわけよ。利害の一致がなけりゃ権威なんてなんの意味もない。
歴史家はこの辺を無視しているんだよねw
523 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 14:32:41.93 ID:/7edcSAX
天文16年(1547年)に義輝が斯波氏を廃絶して、斯波邸を自らの邸にして
事実上、斯波氏はこの時をもって滅亡している。
ちなみに一次史料上では清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統が
天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に
消え去り尾張国における斯波氏の活動は消え去りいち早く信秀により滅亡させられたと考えられている。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
524 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 16:26:21.40 ID:hrCLWPgp
これだけ、一族がいて松永久秀にひっかきまわされちゃうってどうなの?
三好長慶−三好義興
三好義賢−三好長治、十河存保、安宅神五郎
十河一存−三好義継、十河存之、松浦萬満
安宅冬康−安宅信康、安宅清康、安宅神太郎
野口冬長
三好長逸−三好長将
三好康長−三好康俊
三好政長−三好政勝、三好政康
三好長房−三好房一
三好一任−三好可正
525 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 16:27:58.75 ID:XAZpHVbb
>松永久秀にひっかきまわされちゃう
いつの話だよ
526 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 16:54:47.73 ID:VnJvg8Uj
その点北条ってすげぇよな、最後まで兄弟仲良しだもん。
527 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 18:03:47.32 ID:wEkyQOnY
>>524 一門系図をまとめてくれてありがとう。
だけど、
三好義賢は三好之虎
三好長将は三好長虎
三好政勝、政康は三好政生
がそれぞれ正しいようだよ。
528 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 21:51:09.12 ID:yP1IX+Fx
>>526 大きな内紛も一度も無し
割と凄いことだと思う
529 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 10:04:23.04 ID:NkdYP1Xw
530 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 11:03:34.18 ID:TY7SNjKh
加賀百万石といっても一般に知られているのは利家だけ
伊達も政宗だけ
531 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 12:06:16.45 ID:g5l0XcTk
>>529 三好と長宗我部って、
嫡男が死んで当主がおかしくなったり、佞臣に家中を荒らされた伝聞があったり、
後から入った大名に弾圧されたり、なんとなく似たような経緯だな。
532 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 13:25:36.17 ID:CQD2YDtG
十河家の悲劇で思い出したけど
勝瑞遺跡紹介サイトの勝瑞時代の祖谷山というページの12話くらいから
三好一族の佩刀の紹介がされているね。
江戸時代には三好党は武勇で知られその佩刀は名物とされたそうな。
中でも長慶所持の短刀三好政宗は佐々成政が細川忠興から三千貫で求めたとされるから
長慶のネームバリューはかなり高かったんだね。
533 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 13:57:36.66 ID:YJwWzTFg
まー織田信長も司馬の小説がなけりゃここまで知名度は高くなかった
なんせ信長秀吉は江戸時代タブーだったからね
明治なると政府が逆に徳川を下げるために信長秀吉を最評価して見直される
三好も評価してくれなかったから、ここまで天下人として知名度がないんだよ
坂本竜馬だって歴史に埋もれていた人物だったのに英雄になったわけよ。
534 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 17:12:56.55 ID:zXJ7ENl3
信長の場合は明治期からそこそこ知名度高かったし、人気の点で司馬が関与した影響は大きいと思うけど
それ以外はおのずと評価される土俵には立ってると思うけど。
三好の場合にしてもあまり関係ないよ。天下を取ったはずの足利家は明治政権でボロカスだぜ?
535 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 22:05:35.16 ID:l/7EbW2v
あんまりコンプレックスこじらせるなよー
536 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 23:59:26.05 ID:CQD2YDtG
コンプレックスって何に対して?
信長は朝廷を保護し
官位が高かったことから
明治時代に勤王家として再評価されたと聞いたけど。
537 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 00:18:38.98 ID:M7Z+Uvll
メディアに取り上げられなくなれば知名度などすぐになくなる
そう山中鹿之介のように
538 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 00:19:51.43 ID:3vocTa4f
秀吉のが先とは言え大正時代に正一位になってるし戦前から功績を評価されていたのは事実でしょう
539 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 08:09:35.15 ID:Vs8jQYKj
信長のことなら強い戦国大名として評価もされてたろうけど
虐殺者としての負の評価もされてたよ。
秀吉が天下統一までは人殺しが嫌いっていうアピールしてたのは
信長へのアンチテーゼだったし。
540 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 20:54:36.71 ID:tbI81ZFw
信長や秀吉みたいな戦国後期の話は、このスレじゃなんか微妙だね。
ところで話を三好家に戻して、三好長慶や三好義興はそれぞれ
どこへ向かってたんだろうか?
丹波、和泉、大和、播磨と遠征してるけれど、どうも主敵というか
目標が見えない気がする。
甲賀なり近江に向かっていれば、天下も大分定まっていたんじゃないだろうか。
541 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 21:37:16.57 ID:pw9MS5Hh
何か、父の仇を討つために憎い同族を攻めたら、管領・将軍をも敵に回し、
これらが逃げていったので、自ら京を責任もって治める必要が出てきて、
それに不満な輩を破っているうちに、領土も勝手に広がっていった、
みたいな感じだな。
542 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 21:58:09.47 ID:Vs8jQYKj
久米田のちょっと前の時期には
六角はすでに半従属まで追い詰められてたみたいです。
六角は経済基盤が教徒との交易に依存しているので
三好家が畿内を完全に抑えた時点で単独では勝ち目はなくなっています。
教興寺後に長慶・義興健在が5年間健在だったとしたら
六角を従属化して近江を共同で平定
丹波・近江から圧力をかけて若狭・丹後を奪い朝倉と和睦
毛利は大友・河野・尼子・赤松と組んで山陽4カ国くらいで封じ込めて和睦
これで晴れて西国は平定されます。
美濃は一色、尾張・伊勢は織田の任せるとして
東国平定は苦労するでしょうが全国を武力制圧するには
羽柴秀吉のような天才が配下に表われるかどうかにかかっているでしょうね。
543 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 21:59:53.69 ID:Vs8jQYKj
>>542 3行目、教徒との交易は京都との交易の間違いです。
544 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 23:53:39.38 ID:LdVRepzl
三好では猛将の松永長頼が落ち目の武田に
撃退されて若狭平定さえ挫折してるのに
5年間で簡単に西国平定できるなんて三好はすごいなー(棒読み)
545 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 08:06:03.60 ID:lozlqhce
三好家が直接統治するのではなく
山陰は尼子・山名系、山陽は毛利・赤松系で再編成するだけなら
5年もあれば十分だと思いますよ。
当時の毛利家は元就が高齢で財政基盤も脆弱だったので
山陽の半分でも領土を確定できれば手打ちできたと思うんだけど。
546 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 10:33:21.19 ID:Be73K2gy
三好には西国に畿内から本格的に派兵する能力がないのに
なぜ毛利も含めて西国大名が唯々諾々と三好に好都合すぎる再編成で
簡単に手を打つと思うのか
謎すぎる
547 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 11:45:51.86 ID:aW+pmyIZ
なんかとにかく自分の好きな人物・勢力に関しては乏しい根拠で理想化して都合の良い考えしたがるのいるよね…
正直教興寺の後に畠山と六角を潰し切れないことに三好の限界を感じるし
また三好当人にも五畿内と元細川家の領土直轄支配できりゃいいって感じで積極的な外征の意図が見られないというか
そういう征服論は義昭追放後の信長がそうしたから三好もいずれそうしたに違いない!って言いたいんだろうけど、三好の行動見てる限りその点においての連続性は感じられないなぁ
548 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 19:24:16.79 ID:vxbcy4J0
歴史にはタイミングってのがあるからね、細川政元がちゃんと帯妻して子孫を残していれば、細川家が盤石で三好が勢力伸ばす隙が出来なかったかもしれないし・・・。
549 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 20:51:45.03 ID:JzlUUUhy
大和もちゃんと一国平均できてないし(なんで順慶生きてるの?)
畠山くんも教興寺のあと紀州に逃げて勢力温存してるし
あと一歩とか言いながら六角さんは別に従属も降伏もしていない
勝った後さらに追撃して滅亡させるだけの戦力的余力がなく
ぐずぐずしてる間に敵対勢力が回復するのがいつもの三好長慶のパターンなのに
5年くらい寿命が延びたところで結果が変わるとは思えない
畿内でさえちゃんと把握できてないのに西国平定とか夢のまた夢
足利幕府は畿内+近国を掌握していた(大和を除く)義満・義持の全盛期でも
畿内の兵力が空洞化するから西国・東国への本格的な派兵には慎重だったのに
足元の畿内が不安定な三好がかりに試みても派兵が長期化した時点で自滅する
550 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 23:54:46.54 ID:1sC7mck1
>>549 ほんとそれ
どうも教興寺の戦いはその後の経過見てると「これにより三好の覇権が確立した!」ってもんじゃない感じ
むしろすぐに奪還したからいいものの、河内を失陥し一時京から退避するまで陥ったことでその威信が揺らぎが生じた可能性もあるんじゃないかと思う
六角に対しては以降攻撃する姿勢も見せず、酒送ったりして関係修復しようとしてるのは結局六角が近江に割拠するのを否定できなかったからだろうし
畠山も湯川衆が大打撃受けたとはいえ河内南部にまだ影響力残していて、致命的なダメージに至らなかったのは以降の活動見てもわかる通り
丹波に関しては内藤宗勝が若狭進出に失敗してから劣勢になっていって、教興寺後には山城にしばしば丹波衆が乱入してきて御所を脅かす始末
大和も筒井のような反三好勢力が抵抗してきて、蜂起した多武峰衆に松永久秀が対応に追われてる
お膝下の摂津でも伊丹と池田が諍い起こして、三好が仲裁するまで一年ほど掛かって
更に池田は長正は従順だったけど勝正に変わってから三好に繋がる池田四人衆を殺害したりと三好から自立するような動きを見せていて不穏
ついでに言えば義輝も無事では済まなくて、教興寺に際して大覚寺義俊・伊勢貞孝や三淵藤英などの奉公衆が畠山・六角に与して出奔するなど幕府もダメージ負ってる
要するにその後の三好はどこもかしこも混乱する畿内への防戦に追われてて、どっかに攻勢に出る気配なんて見られないんだよ
織田だったら「本能寺の変が起こらなかったら上杉は潰れてたし、毛利に追い込みかけられてた」っていうifは言えるだろうけど、
三好に関しては長慶・義興が生きてたとしても考えられるのは「まあこの収縮くらいはできただろうね」くらいまで、後は栄えるも滅ぶも未知数すぎる
ましてや
>>542の東国云々はロクに外交関係すら生じてないのに贔屓の引き倒しの妄想としか言いようがないよ
551 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 23:58:25.90 ID:lozlqhce
信長だって本能寺の時点でも完全に畿内を押さえきれていないし。
それまでだって近江では六角・浅井が暴れ大和では松永と筒井が争い
美濃は武田に侵され伊勢と摂津では一向一揆
そんな状態でもあっちゃこっちゃ派兵してたでしょ。
他の大名だって普通に多正面作戦してるよ。
教興寺後の三好家は大和と河内で小競り合いがある程度で
畿内はほぼ安定に向かっていましたよ。
552 :
人間七七四年:2014/11/19(水) 00:08:09.04 ID:ZGOcSLII
史実では永禄6年には長慶は病気で義興急死で外征どころではなかったろうけど
もしも「健在」なら永禄7年ぐらいには新たなアクションは起せたと思うんです。
永禄7年ごろの毛利家は幕府の調停を何度も反故にして
尼子・大友と激戦を繰り広げていました。
尼子は押されまくっていましたがまだなんとか健在で出雲で睨みあい
大友は大内輝弘を擁して毛利の隙を虎視淡々とと狙っています。
毛利家は尼子と対抗するために播磨まで手を伸ばしているので
防衛線が東西にとんでもなく長い状態です。
この状態で幕府に対する毛利家の謀反を名分に
三好家の軍勢が大友家と示し合わせて播磨と備中に兵を進めたとしたら
毛利家の戦線は一気に縮小せざるを得ないと思うんですよ。
元就が戦の天才でもこの時には70歳です。
当時毛利領は連年の戦で領土は荒廃し毛利家の財政は火の車でした。
大友尼子三好連合軍と戦い続けるよりは和睦を選ぶと考えられませんか?
この3者の和睦が成れば西国の騒乱は収束に向かいますよね?
つまり西国は晴れて平定されたということになります。
足利幕府の管轄は西は南海・山陰・山陽・畿内
それから東は美濃・加賀・尾張くらいでしたよね?
三好家がこれらを「影響下」に起き騒乱を鎮めることは
別に夢物語だったとは思いませんよ。
553 :
人間七七四年:2014/11/19(水) 00:25:39.31 ID:5Mizdjfi
まあ徳川から見たら三好は天下人扱いだけどな
現代人は認めたくないだろうけど、徳川がそう認識していたのは事実
554 :
人間七七四年:2014/11/19(水) 00:33:54.86 ID:R4RoJMQU
555 :
人間七七四年:2014/11/19(水) 02:03:42.99 ID:7VQ8CXjP
>>552 結局、三好長慶は、西にも東にも向かって無いところが弱みだよね。
若狭も手に入れたかったみたいだけど、信長も上洛後、すぐ若狭を狙ってて、
入手後は重臣・丹羽長秀を置いているから、実は天下取りの為の
凄い重要な拠点だったのかな?
556 :
人間七七四年:2014/11/19(水) 03:11:06.49 ID:XMCXsCSS
敦賀や舞鶴は若狭に無いけど若狭水軍の存在が大きい。
日本海交易を押さえたいなら若狭と敦賀舞鶴はセットで確保したいね。
557 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 08:11:42.58 ID:w7cbwfyj
>>555 若狭は朝倉が武田家の内訌に干渉してグダグダんなってたところを
織田が武田支援を名目に攻め込んだという経緯なので
若狭がほしかったというより
朝倉攻めの好機を見逃さずに攻めたという側面の方が強かったように思います。
若狭は朽木ルートで京都の後背地の一つなんでもちろん重要な所でしょうが。
558 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 09:05:16.67 ID:6nJR8tM3
織田信長が上洛した途端にすぐ京都から駆逐された雑魚だから
559 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 22:58:55.74 ID:/Jep3Uwx
三好長慶が長生きした場合の年齢
長慶 史実
1568 46 信長、六角氏を破って上洛
1573 51 信長、足利義昭を京から放逐
1575 53 長篠の戦い
1577 55 信貴山の戦い(久秀死亡)
1581 59 甲斐征伐で武田氏滅亡
1582 60 本能寺の変
1585 63 秀吉の四国征伐
1590 68 秀吉の小田原征伐
1598 76 秀吉死去
1600 78 関ヶ原の戦い
1603 81 徳川家康、将軍宣下
1615 93 大坂夏の陣で豊臣氏滅亡
560 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 15:01:01.67 ID:40MFNhA8
561 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 04:13:36.00 ID:DU1oW0WM
>>553 徳川が三好を評価するのはある意味当たり前じゃないかな
だって権力奪取の過程(足利/豊臣からの)が途中まで似たようなもんだから
それはそれでバイアスかかってるでしょ
もっとも徳川なり近世人なりが天下人評価してたからって
妥当な評価かどうかは別だし現代でもすべきなんて全然思わないけどね
562 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 11:12:04.98 ID:oP3j4gNQ
でも、徳川だけじゃなくって
朝倉も北条も武田も悪く言ってないんじゃないの?
563 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 12:39:15.25 ID:k+ThOjoy
現代人より三好の時代に近かった人達が
天下を取ったと認めているんだから
そのことは前向きに評価すべきでしょ?
再建された南宋寺に徳川秀忠・家光が参詣したうえ
東照宮も建立したというのは
三好家の天下を徳川家がしのいだいう
アピールの意味があったとみてもいいよね?
564 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 13:30:20.37 ID:Qm31QuSw
徳川の評価とか明治政府の評価とか多分に政治的バイアスがかかっているしなあ
というかそれが全てだしなあ
565 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 17:12:27.41 ID:ucERIveR
>>532 ヘー
それは知らんかった。 多分当時から
いにしえのレジェンドみたいな扱いだったのかも
長慶→U斎→せがれの順で受け継がれたものかな>短刀
566 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 17:14:35.34 ID:ucERIveR
>>563 同じ源氏の天下人、っていう点でリスペクトしてたんじゃまいか
徳川も三好も相当胡散臭い源氏だがw
567 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 20:56:19.42 ID:QmEuk2/3
三好て阿波小笠原氏で出自しっかりしてるほうじゃないの?
568 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 21:52:30.56 ID:tkZCDZE0
569 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 17:32:28.64 ID:mss+frpA
今谷明「戦国三好一族」読んでる途中だが、応仁の乱後〜信長上洛の畿内と近国(阿波・丹波等)はカオス過ぎる。
570 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 20:50:55.08 ID:cJDa7lGj
>>568 信玄に追われた小笠原宗家保護するあたり同族意識はあったんでは
571 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 14:34:58.69 ID:3KwwBJkc
572 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 14:56:45.85 ID:3KwwBJkc
573 :
人間七七四年:2014/11/28(金) 02:40:43.67 ID:CT9qQy/0
そんなしょぼい図録の宣伝とかイラネ
574 :
人間七七四年:2014/11/28(金) 22:31:03.63 ID:yokikNMe
>>557 信長は朝倉攻めの直後に一向一揆で越前を失ったときに、
若狭と敦賀だけは確保し続けたんだよな。
鯖街道はかなり重要なルートだったのかも。
575 :
人間七七四年:2014/11/30(日) 05:01:18.22 ID:EVwlNjQB
図録しょぼいと思ったけど、買って家で読んでみたら結構深い内容だった
池田城、高屋城、高槻城の調査写真も豊富だった
576 :
人間七七四年:2014/11/30(日) 07:39:41.61 ID:l9DeQinb
今年のJリーグは徳島で最終決戦なんだな。
大阪勢が天下の覇権をかけて徳島に乗りこむのは秀吉VS長曽我部以来か。
577 :
人間七七四年:2014/12/02(火) 00:22:00.66 ID:Z/lgbyGt
四国征伐ってろくろく合戦もなく
2ヶ月で終わったワンサイド・ゲーだが
578 :
人間七七四年:2014/12/03(水) 02:48:49.90 ID:hzuJ44q+
やめてあげて(悲鳴)
徳島ヴォルティスのライフはもう0よ!
579 :
人間七七四年:2014/12/03(水) 21:03:05.95 ID:Bc0iLxDk
静岡がサッカー県になったのは今川氏真の影響なんだろうけど
長宗我部元親が蹴鞠を奨励したのに土佐にサッカーは根付かなかったな
580 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 22:09:29.54 ID:m6xtTeHd
六角は親三好と反三好がいるような感じだけど
実際どの面子が親三好で反三好だったのかねぇ
581 :
人間七七四年:2014/12/07(日) 22:25:37.91 ID:9NJhxamJ
ヴォルティス健闘したな
籠城してたら敵方が勝手に撤兵していった感じだ
582 :
人間七七四年:2014/12/08(月) 07:47:50.69 ID:IERK4q12
>>581 ガンバ・・・一時没落し地方で土豪として生きながらえていたが、御家再興、一年で天下を手中に
ヴォルティス・・・天下争いに名乗りを上げたが連戦連敗で再び土豪レベルに・・・。
一年前は、同じJ2にいたのに、どうしてここまで差がついた・・・?
583 :
人間七七四年:2014/12/08(月) 21:13:12.15 ID:MTUB22Fc
ガンバは痩せても枯れてもJリーグの守護大名といわれるオリジナル10だからな
まさに細川VS三好の戦いだったんだな
584 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 01:42:09.39 ID:dr0Ha6VA
昇格してフルボッコされ即降格のクラブがあるのに
昇格してそのままJ1優勝するクラブがあるのはホント不思議
いつぞやの柏といい
585 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 07:04:37.41 ID:/2uLiHUC
名門でも油断すると没落するし、新興でも覇者になれる戦国時代ですな@J
緑は本当に足利将軍家みたいになってるけど。
586 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 19:02:40.41 ID:IzGz5CLC
ヴェルディ見てると驕れる者久しからずというのはどんな時代のどんな組織でも
決して逃れることのできない絶対的法則なんだなと痛感される。
平家物語の作者は本当にものすごい名言を残したものだ。
587 :
人間七七四年:2014/12/30(火) 16:33:32.05 ID:htAZ3dYD
大内家
細川家
三好家
織田家
羽柴家
この五家は足利将軍家の元でではあるが天下を取ったといえる
588 :
人間七七四年:2015/01/23(金) 13:55:49.44 ID:r9C9Bbqp
織田政権と比較に熱くなっていたが
細川政権との比較も知りたい
あと織豊城郭と三好政権の城郭との関連性も
589 :
人間七七四年:2015/01/25(日) 17:22:53.64 ID:bBLFC0YO
飯盛山城と安土城は方向性が似てると思う。
当時から絶景の見晴らしで長慶は連歌会を開いてるし、
信長は岐阜城の頃から貴族に景色自慢をしている。
590 :
人間七七四年:2015/01/25(日) 18:12:53.02 ID:gvLETB6I
名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/01/25(日) 17:58:09.17 ID:Aazjlny6
最近増えたよな。
自分はおっさん、おじいちゃんだという自覚がなくなってる奴が…。
若い子(男女問わずターゲットにする)をジロジロといやらしい目線で舐めまわすように見る
気持ちの悪〜い老人、中高年の男が、さ。
591 :
人間七七四年:2015/01/25(日) 20:52:54.86 ID:6l1Fqz9r
本当なら、三好系大名が豊臣期に2家、江戸初期では最低1家存在したはず
三好房一
関ヶ原の戦いでは、一貫して家康に従ったのに1万石から2300石へ減封
西軍挙兵時に領地を奪われたと言うのが理由だが、大坂城の足元、河内
という場所を考えれば、城ですらない留守宅が西軍に奪われるのは当然
理不尽な減封だった
十河千松丸
父・存保の死後、幼少という理由で2万石の領地を3000石に減らされ、
讃岐の国持ち大名となった生駒親正に預けられた
千松丸が14歳になり秀吉に謁見した時、千松丸の成長を喜んだ秀吉は
親正の扱いに不満を持ち、旧領復活を示唆した
しかし、自分の領地が減ることを不満に思った親正により毒殺された
592 :
人間七七四年:2015/01/26(月) 12:09:49.20 ID:6uE9OITB
wikiだと三好房一は
>慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍に属し(この当時、1万石の知行を有していた『廃絶録』)、その功績で河内国に2300石の知行地を加増され、御相伴衆となった。
ってなってるけどそれぞれソースはなんじゃろ?
三好の本宗家周りはけっこう系図見るけどそれより離れた三好一族の系図ってどうなってるのかなぁ
連盛とか盛長盛政とか三好一秀の子孫とかいないのか、筑前守名乗ってた三好政保は何者だろうとか
593 :
人間七七四年:2015/02/10(火) 06:52:05.25 ID:eR8VdPR6
マイナーなのは畿内が雑魚だったから、これに限る
▼吉田定房(公卿、14世紀)
『赤ん坊級に弱い関西人が一騎当千の鎌倉武士に勝つなんて無理ゲー』
▼人国記(戦国時代の地誌、16世紀)
『関西侍は弱兵、卑劣、欲心深く、狐が服を着てるだけ』
▼武田信玄(戦国最強の将、16世紀)
『関西人は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯もする』
▼甲陽軍鑑(甲斐武田の軍学書、17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』
▼雑兵物語(江戸時代の兵法書、17世紀)
『関西侍は馬にも乗れねえ屁っぴりだんべい』
▼葉隠(佐賀鍋島藩の武士道書、18世紀)
『関西侍は卑怯者だらけ。真似するなよ』
▼薩摩兵(西南戦争の頃、19世紀)
『またも負けたか八連隊(=大阪兵)、それでは勲章くれんたい(=京都兵))』
▼向江松雄さん(鹿児島歩兵第145連隊)
『大阪なんかな、「またも負けたか8連隊」ち、大阪なんか言いおったっじゃっどんな』
▼古瀬正行さん(久留米第18師団)
『大阪とか京都の兵隊は途中で会ったけどその場でビンタですよ。「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん』
▼坂本芳次さん(自動車第34連隊)
『うちの部隊にも何名か大阪人がいましたよ。もうこんな「ぜえろく」っていってみんなから蹴飛ばされてたけどね』
594 :
人間七七四年:2015/02/10(火) 23:00:51.55 ID:B1cyadCE
実際の八連隊ってほぼ負け戦なしな上に明治天皇から「戦功ご嘉賞」の詔勅を唯一賜ってるんだよなぁ
弱兵弱兵言ってた連中がいかに根拠なく偏見だけでモノ言ってるかがわかる
595 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 02:47:21.34 ID:YA2751bW
>>1 三好は家紋がかっこ悪いのが人気的に駄目なんだと思う
三蓋菱に釘抜がスルメイカにしか見えない
596 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 09:37:28.18 ID:i706LxRY
やってることが悪役というかヤラレキャラだよな
597 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 11:33:28.87 ID:bRaZBu3K
江戸時代に一門や家臣に有力なのが残ってなくて人気が出る軍記物とかがあまり創作されなかったからだろうな
創作が幅を利かせるようになる前、江戸時代初期ごろだと三傑とほぼ同等の評価されてるし
598 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 12:48:21.76 ID:M3d5ARQ3
三好家に打倒すべき強大な敵がいなかったからな。
信長にとっての武田、上杉、
秀吉にとっての柴田、
家康にとっての西軍がいないようなもの。
三傑と比べて英雄戦記にしづらい。
599 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 13:15:10.52 ID:PHDyYLgl
一応反三好連合はいるにはいたが・・・・
弟は戦死するわ戦争に勝った後は病気になるわ
600 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 14:07:06.06 ID:Hg2HT518
細川晴元一派がいるじゃん、六角畠山波多野別所あと毛利
601 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 19:49:47.41 ID:X14MV9Zn
遊佐長教とか
602 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 02:25:09.34 ID:eK5THaD2
>>596 三好は悪役というか、諸事詰めが甘い間抜けのイメージあるよな
大仏燃やしたのも宗教的・政略的必然性など全くなく
燃やすつもりなかったのに失火でうっかり炎上させるあたりもうねw
殺すか厳重に監禁しておくべき足利義昭を逃がしてしまう松永久秀とか
こいつは何をしてるんだと…
久米田の戦いも「隠れなき柔弱人」呼ばわりされていた畠山高政が
「半ば仮武者」で半分以上そのへんの牢人かき集めて水増しした軍勢相手に
三好実休討死とか「なんでそこでそうなる?!」っていうのが多い
603 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 08:27:04.53 ID:Ys0Hq3kp
全盛期のことがほとんど紹介されず
没落期ばかり取り上げられるからザコにみえるだけで
活躍した期間は長期にわたり見事な大勝利も多く
その残した影響も多岐にわたるんだけどね。
中近世史の再検証が進んでその優秀性が明らかになってきたけど
教科書や創作に実像が繁栄されるにはまだまだ時間がかかりそうだね。
604 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 08:42:54.82 ID:Ys0Hq3kp
あまり知られていないようだけど
長慶が強く結託した臨済宗大徳寺派というのは琉球・薩摩に影響力を持っていて南海路貿易の元締め的存在で
また三好家が本拠地としてその保護下に置いた堺は全国の物流と対外交易の拠点にして
貨幣の鋳造まで行う金融の拠点でもあったんだよね。
こういったあたりからも三好家が当時の畿内で強大な権勢を握っていたことがうかがえるね。
605 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 20:24:19.28 ID:Qp1LXZMi
三好政権って地味に20年近く続いてて織田政権より長いんだよなぁ
606 :
人間七七四年:2015/02/13(金) 00:31:38.77 ID:WpfPFy5A
>>604 百万の敵より大徳寺の一喝の方が怖い云々、って
徳ではなく金の事だったのか?
607 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 22:55:08.87 ID:NfN42kiQ
>>604 >>605 三好政権は畿内限定の政権イメージだったが薩摩や琉球まで影響力となると
急に全国政権な趣
織田政権が天下人扱いなら三好政権も天下人扱いでよい気がする
608 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 08:13:02.62 ID:rXNdwg59
三好家はただの守護代家にすぎず長慶は当初将軍や管領と敵対していたので
当然、幕府の権威やネットワークを頼りに出来なかったので
本願寺・日蓮宗などと結ぶことでその権威やネットワークを借りて
畿内から西国へと影響力を浸透させていったようです。
都を押さえてからは堺商人との関係をテコに大徳寺とも結び流通支配を強化
堺に流れ込む莫大な富と物資を後ろ盾に管領家・将軍家も保護下に置き
三好家は政権を打ち立て全盛期を迎えたようです。
長慶の曽祖父之長が短期間ながら幕政を主導して京に橋頭保を築き
淡路を征服して東瀬戸内の水軍を影響下に置き
堺の要地を分捕って次代の元長が堺の代官となる素地を作るなど
後の三好家の繁栄の素地を残していったのが大きかったと思います。
609 :
人間七七四年:2015/02/17(火) 01:21:16.84 ID:FmEW28F2
関東で起こった法華宗の相論が三好の所に持ち込まれて裁許を求められたり
出雲で起こった相論が延暦寺が絡んで三好の所に持ち込まれて裁許したりとかしてたな
610 :
人間七七四年:
豊臣秀次がスムーズに権力を握れてたら、一応は縁戚の三好氏も復権したのだろうか。
江戸時代は、
元・天下人な織田や喜連川足利は一応小大名で残れたけど
三好氏は大名では残れなかったようだね。