私は
>>26と
>>25の者ですので、その該当部分に答えますねー。
>>32 さすがにそれはないと思いますねー。
貴方って毎回思うのですが、織田は盤石、織田は安泰、と
織田を過大評価しすぎではないですかねー。
武田勝頼が高天神の攻略に取り掛かったのは、5月12日、
信長がその報告を受けたのが5月15日、岐阜に向かうのが16日、
(信長公記では6月5日としているが、武田氏研究者の平山氏、
信長研究者の谷口氏の両者共に多門院日記などの記述を基に誤記とする。
後述する一カ月の空白期間をなかった事にする為に、あえて太田が
曲筆した可能性もあり。)
それ以後、岐阜で信長は一カ月近くにわたって動かなくなり、
出発するのが6月14日。高天神が攻略されるのが6月17日。
実に一カ月以上にわたって高天神は持ちこたえたのであり、
20日余の長篠城以上の大健闘だった事は指摘されているわけでして。
というか、貴方は「織田が来たからあわてて攻略した」とか
おっしゃってますが、実際のところは6月11日の勝頼書状から見るに、
「5月12日から諸口を攻撃して、昨日は塔尾という随分な曲輪を攻略して
やった。残ってるのは本丸と二の丸だけだ。三日位あれば攻略できるかな。
なんか小笠原が色々懇望してきてるけど、こっちは容赦する気ないので。」
とか書いてるのを見るに普通に武田の攻撃が順調に続いて攻略された、
って感じに見えますが。
織田を恐れて慌てて攻略した、というならその資料なり根拠なりを
提示してもらいたいのですが。
順当に見れば織田の援軍は来るのに異常に時間がかかり、
その間に高天神は攻略された、という感じに見えますが。