秀吉はどうして家康を生存中に滅ぼせなかったのか?

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55人間七七四年
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
56人間七七四年:2014/04/05(土) 23:55:02.91 ID:TfoYIi7F
>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
>>ことごとく一万討ち捕らえたと、戦果を過大に言い触らし回っている。
身内や家臣に対して捏造を書いても全く秀吉に敵対勢力拡大には繋がらない。
身内に対しては正確な戦況報告を常に淡々と行うのが家康。
身内に対しての戦況報告=今後の作戦や指令に繋がっていくわけだから捏造戦果書いても戦線が混乱するだけ。
まぁ秀吉は家臣に対しても捏造戦果書きまくってたが。

>>無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は生還
一万人打ち捕らえた根拠が堀秀次長谷川というのが意味不明。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし

>>自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死に

池田も森も自立勢力じゃない。これはhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154246160/863-864
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154246160/868でわかる
57人間七七四年:2014/04/05(土) 23:59:16.91 ID:TfoYIi7F
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな