>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
>>ことごとく一万討ち捕らえたと、戦果を過大に言い触らし回っている。
身内や家臣に対して捏造を書いても全く秀吉に敵対勢力拡大には繋がらない。
身内に対しては正確な戦況報告を常に淡々と行うのが家康。
身内に対しての戦況報告=今後の作戦や指令に繋がっていくわけだから捏造戦果書いても戦線が混乱するだけ。
まぁ秀吉は家臣に対しても捏造戦果書きまくってたが。
>>無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は生還
一万人打ち捕らえた根拠が堀秀次長谷川というのが意味不明。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし
>>自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死に
池田も森も自立勢力じゃない。これは
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154246160/863-864 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154246160/868でわかる。