秀吉はどうして家康を生存中に滅ぼせなかったのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加
369人間七七四年
秀吉厨のアホ妄想

>>当時の秀吉は勢いに乗って背伸び状態の不安定な勢力
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/201
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/203-210

>>家康と戦った1983年あたりの秀吉は、全方位敵
>>強力な勢力を同時に敵に回す状況

当時の秀吉の状況…自領は北は北陸・東は尾張口数郡や美濃ほぼ全域伊勢の大部分伊賀全域・西は備中・伯耆まで900万石程度の広範な版図を抱え
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らを従える。この中で宇喜多は秀吉の親藩で、本能寺前ですら秀吉領との一体化が進められてた程
直轄領に近い関係。十河や河野も本能寺前から対長宗我部の関係で相当密接な主従関係にあった。
上杉も毛利もとっくに秀吉に臣従してる。これは秀吉の要請に従って上杉が新発田攻めを後回しにしてでも秀吉からの要請優先で信濃攻めを行ったり
毛利が秀吉の要請に従って四国に派兵してる事からわかる。
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らは、秀吉の要請によって敵方の徳川・長宗我部・北条などと交戦したり長久手に援軍送ったりまでしてる。
北条は関東に釘付けで、出てくる気配なしどころか家康の背後を襲う風聞すらあり、信濃川中島にも挙兵してきたため、
家康は軍のほとんどを領内に残して8000程度しかつれてきてない(当代記など)

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/91-92のように
秀吉は家康や信雄を潰す気満々で主力135000を率いて楽田までやってきてるし
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/93-95のように
協力な敵を同時に敵に回してたのは家康であって秀吉はその頃900万石近い自領に加えて
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野と同盟者だらけで超絶ヌルゲーだった。
実際紀州一揆対策には中村6000しか残してなくても、撃退できてるから、その後岸和田には誰も派遣してないし「
それ以外の方面の敵(長州我部など)は他の同盟者が抑えているどころか、秀吉なしでも優勢に戦ってるほどだったから、
秀吉は対信雄と家康に全力で挑めたし、実際に主力135000でやってきて攻めまくってる。

>>徳川家との殺し合い長期化で、(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦を強いられていたら

(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦とか相当妄想だな。秀吉は諸城にほとんど抑えをおかなくていいくらい
同盟者が多く、岸和田ではわずか6000の中村が一揆勢を撃退とかやってるし
長宗我部なんてまだ秀吉方の十河や河野や四国に派兵してきた毛利に苦戦して、70万石程度の四国制覇すらできてないじゃんよ。
逆に家康の方が上杉対策や、関東に乱入する風聞の北条対策で大量の兵力を領内に残してたから、よほど長期戦不利だわ。
結局秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので 信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。