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人間七七四年:
>>上杉は織田軍の強さ身にしみてるからさっさと豊臣に臣従した
上杉が豊臣の降ったのは元々徳川と上杉、柴田と上杉が越中や信濃で戦ってて豊臣は両者の対立に付け込んで漁夫の利を得ただけ。
上杉は下記のように続発した内乱で崩壊状態だったハンデ有りまくりの死にゲーですら
織田軍を蹴散らしまくってるから織田軍の強さ身にしみてるとか100パーセントない。
>>織田家臣にやられた上杉
上杉は御館の乱や新発田の乱で崩壊状態の所を9倍もの兵力で火事場泥棒されたのに
越中中部〜魚津松倉で2年も食い止めてた。
内乱の連発で崩壊状態の上杉を9倍もの兵力差と神保・長・佐々など送り込んだりして火事場ドロしたのにろくに進めてない
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦。 金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず。森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北。 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田。
実際に攻め込んで撃退されたり苦戦してる。松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正10年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦し上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に行った魚津攻防戦では
ロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
松倉の須田に手も足も出ずに苦戦してたし。
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。