一向一揆【本願寺・近江・長島・三河・加賀・越中】

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1人間七七四年
文正元年(1466年)・・・近江一向一揆 ○・・・・《金森合戦》・・・・● 比叡山延暦寺
応仁02年(1468年)・・・近江一向一揆 ●・・・・《堅田大責》・・・・○ 比叡山延暦寺
文明13年(1481年)・・・越中一向一揆 ○・《田屋川原の戦い》・● 石黒光義
長享02年(1488年)・・・加賀一向一揆 ○・・《高尾城の戦い》・・● 富樫政親
明応03年(1494年)・・・加賀一向一揆 ●・・《豊原寺の戦い》・・○ 朝倉貞景
永正03年(1506年)・・・加賀一向一揆 ●・《九頭竜川の戦い》・○ 朝倉宗滴
永正03年(1506年)・・・越中一向一揆 ○・・《般若野の戦い》・・● 長尾能景
永正04年(1507年)・・・加賀一向一揆 ●・・《帝釈堂の戦い》・・○ 朝倉貞景・宗滴
大永02年(1522年)・・・越中一向一揆 △・・《多胡城の戦い》・・△ 畠山義総
享禄04年(1531年)・本願寺一向一揆 ○・・・・《大小一揆》・・・・● 朝倉宗滴・畠山家俊
天文元年(1532年)・本願寺一向一揆 ○・・《飯盛城の戦い》・・● 畠山義堯・三好元長
天文元年(1532年)・本願寺一向一揆 ●《山科本願寺の戦い》○ 細川晴元・六角定頼・法華一揆
天文02年(1533年)・本願寺一向一揆 ○・・・・《堺の戦い》・・・・● 細川晴元・茨木長隆
天文02年(1533年)・本願寺一向一揆 △・・《天王寺の戦い》・・△ 木沢長政・法華一揆
天文04年(1535年)・本願寺一向一揆 ●・・《杜河内の戦い》・・○ 細川晴元
天文24年(1555年)・・・加賀一向一揆 △・・《敷地山の戦い》・・△ 朝倉宗滴・朝倉景隆
永禄02年(1559年)・・・加賀一向一揆 ●・・・《弘治の内乱》・・・○ 畠山義綱
永禄07年(1564年)・・・三河一向一揆 △・《上和田砦の戦い》・△ 徳川家康
永禄07年(1564年)・・・三河一向一揆 ●・・《馬頭原の戦い》・・○ 徳川家康
永禄07年(1564年)・・・加賀一向一揆 ●《小松大聖寺の戦い》○ 朝倉義景
永禄10年(1567年)・・・加賀一向一揆 △・・《堀江景忠の乱》・・△ 朝倉義景
永禄11年(1568年)・・・越中一向一揆 △・・《放生津の戦い》・・△ 上杉謙信
元亀元年(1570年)・本願寺一向一揆 ○・《野田福島の戦い》・● 織田信長
元亀02年(1571年)・・・長島一向一揆 ○・《第一次長島合戦》・● 織田信長
元亀02年(1571年)・・・近江一向一揆 ●・・《金森城の戦い》・・○ 織田信長
元亀03年(1572年)・・・加賀一向一揆 ○・・《五福山の戦い》・・● 河田長親・山本寺定長
元亀03年(1572年)・・・加賀一向一揆 ●・・《尻垂坂の戦い》・・○ 上杉謙信
元亀04年(1573年)・・・越中一向一揆 ●・・《勝興寺の戦い》・・○ 上杉謙信
元亀04年(1573年)・・・加賀一向一揆 △・《朝日山城の戦い》・△ 上杉謙信
天正元年(1573年)・・・長島一向一揆 △・《第二次長島合戦》・△ 織田信長
天正02年(1574年)・・・越前一向一揆 ○・・《一乗谷の戦い》・・● 富田長繁
天正02年(1574年)・・・長島一向一揆 ●・《第三次長島合戦》・○ 織田信長
天正0?年(157?年)・・・越中一向一揆 ●・《八乙女山の戦い》・○ 上杉謙信
天正03年(1575年)・本願寺一向一揆 ●・・《高屋城の戦い》・・○ 織田信長
天正03年(1575年)・・・越前一向一揆 ●・・《竜門寺の戦い》・・○ 織田信長
天正04年(1576年)・本願寺一向一揆 ●・・《天王寺の戦い》・・○ 織田信長
天正08年(1580年)・・・加賀一向一揆 ●・《尾山御坊の戦い》・○ 佐久間盛政

山城:山科本願寺・興正寺
摂津大坂:石山本願寺
近江:本福寺・顕証寺・福勝寺
加賀:光徳寺・弘願寺・勝願寺・本泉寺・松岡寺・光教寺・尾山御坊(金沢御堂)
越前:本覚寺・超勝寺・本向寺・照厳寺・興行寺・吉崎御坊・西光寺
越中:土山御坊・行徳寺・善徳寺・瑞泉寺・安養寺(勝興寺)・専徳寺
能登:長福寺・本念寺・本誓寺
伊勢長島:願証寺
三河:勝鬘寺・上宮寺・本証寺
2人間七七四年:2014/02/22(土) 22:55:03.37 ID:KfXz1Kae
「一向一揆」は江戸時代の造語
「一向一揆」の定義も江戸期の東西本願寺教団によって行われた恣意的なもの。

同時代的にはあくまで「一揆」「土一揆」であり、一向宗による宗教的な一揆であったと判断すべきではない
3人間七七四年:2014/02/23(日) 00:17:10.12 ID:Z3/livoe
一向宗の一揆で、当時は浄土真宗も一向宗と同一視されてた

って理解してたけど間違いですか?
4人間七七四年:2014/02/23(日) 14:23:18.64 ID:mHVuv+cS
親鸞を祖とする浄土真宗は一向俊聖を祖とする一向宗とは別物
ただし両者とも浄土教の流れを持つので混同されがちで、浄土真宗を一向宗と呼称する者が大勢いたが、これは不適切である

親鸞の教えを広める浄土真宗の僧侶・信者が興した一揆を「一向一揆」と呼称するが、この名称が適切か否かは賛否両論ある
しかし戦国時代後期、畿内・北国・東海の一揆の多くは浄土真宗の寺社が深く関わっており、
浄土教の僧侶・信者のことを「一向衆」と呼び彼らがしばしば一揆を興したので、これを広く一向一揆と呼んでいる

一向一揆の武力は相当なもので、初期の頃から各地で管領や守護大名、守護代をたびたび破るなど猛威をふるった
しかし朝倉宗滴・細川晴元・三好長慶といった名将に阻まれ覇権を握るには至らず
戦国末期には織田信長・上杉謙信に圧倒され消滅していった
5人間七七四年:2014/02/24(月) 21:58:34.75 ID:j75JAVwT
スレの伸びが悪いですね。
皆さん一向一揆にあまり興味ない?
6人間七七四年:2014/02/24(月) 22:35:45.50 ID:OCB/eq6/
そもそも戦国時代に「一向一揆」は存在しなかったし
7人間七七四年:2014/02/24(月) 22:49:19.17 ID:j75JAVwT
そんなこと言ったら戦時中「太平洋戦争」も存在しませんでしたよ。

一向宗門徒と浄土真宗門徒ら「一向衆」が興した一揆で一向に御経を唱えてた一揆だから「一向一揆」。
それでいいんじゃないですか?
書店の書物にも一向一揆と表記されてますし。
8人間七七四年:2014/02/24(月) 22:58:22.23 ID:OCB/eq6/
>>7
少なくとも欧米は「太平洋戦争」と読んでいたんだが。
一向一揆は当事者も攻める方も、誰一人としてそれが「一向一揆である」と認識していなかった、あくまで後世の定義にすぎない
9人間七七四年:2014/02/24(月) 23:13:08.65 ID:j75JAVwT
煬帝とか中国の皇帝は死後に正式な名前付けられることもありますよ。
一向一揆で一般に広く知られてるから問題ないと思うんですけど。
浄土真宗門徒による一揆は他の法華一揆や葛西大崎一揆と違い浄土真宗という
点で強く結束してるから、他の一揆とは区別するためにもただの「土一揆」「一揆」では
不便じゃないでしょうか。

「一向衆の一揆」ということで一向一揆でいいと思いますが、
学会等で名称変更を提起させるといいかもしれませんね。
10人間七七四年:2014/02/25(火) 01:36:10.90 ID:mHpDWu21
>>9
> 浄土真宗門徒による一揆は他の法華一揆や葛西大崎一揆と違い浄土真宗という
> 点で強く結束してるから、他の一揆とは区別するためにもただの「土一揆」「一揆」では
> 不便じゃないでしょうか。

そもそも他の「土一揆」「一揆」と違う性質のものだったのか、という根本的な部分ですら議論がある
11人間七七四年:2014/02/25(火) 05:18:31.81 ID:jxORRG+m
いわゆる一向一揆は「南無阿弥陀仏」と唱えて極楽浄土へ行こうとする一向衆による一揆でしょ
その一揆率いてるのは石山本願寺や長島願証寺、井波瑞泉寺といった浄土真宗の寺

一方、法華一揆は南無阿弥陀仏とは唱えず「南無妙法蓮華経」と唱えるから別物
他の土一揆も南無阿弥陀仏とは唱えないはずだよ

違う性質のものと言えるんじゃないかな
12人間七七四年:2014/02/25(火) 07:26:52.86 ID:mHpDWu21
>>11
「南無阿弥陀仏」を唱えているのはいわゆる一向一揆全体の中での一部に過ぎなかった。
法華一揆もそう。法華宗の寺院を拠点にする、以上に宗教的な結合はなかったと言われる。

これらの一揆は後世になって宗教的要素を過剰に見出されていたので、注意が必要
13人間七七四年:2014/02/26(水) 07:37:03.76 ID:uneIchjR
>「南無阿弥陀仏」を唱えているのはいわゆる一向一揆全体の中での一部に過ぎなかった。

それは確かに正しいだろうね
加賀一向一揆は上杉謙信が「自分の敵は大軍と見え候」と書状に書いてることから
相当の大軍だったと思われるけど、
数万の兵すべてが浄土真宗門徒あるいは一向宗門徒とは思えないし

ただ加賀一向一揆の中心メンバーは全員浄土真宗門徒だよ
加賀一向一揆末期の頭領は広済寺の坪坂伯耆守包明だし大将は本願寺坊官の杉浦壱岐守玄任
浄土真宗門徒が領民従えて一揆興してたのが事実だろうね
14人間七七四年:2014/02/26(水) 07:57:09.15 ID:dQqwDG+y
>>13
それは室町幕府によって加賀守護が本願寺になった事が大きいと思うよ?
宗教団体というより世俗領主として支配していたわけで。あくめで結果的に支配層は本願寺派に内包された。

大和の支配層が基本的には興福寺の関係者であったこと一緒。
15人間七七四年:2014/02/26(水) 20:09:40.94 ID:nsJ+Xbd3
僧兵はいたのか?
16人間七七四年:2014/02/26(水) 21:36:51.89 ID:uneIchjR
加賀守護の富樫政親を倒したのは加賀一向一揆というより富樫の親族らしいな
政親を支援したのが浄土真宗高田派で政親の親族を支援したのが浄土真宗本願寺派だったかな
政親を倒した親族が守護になってたな

>>15
僧兵というと比叡山延暦寺のイメージ強くて一向一揆で僧兵って言い方聞いたことないな
越前の平泉寺の兵は僧兵というよな、小谷城付近の砦で信長にボコられてたが
17人間七七四年:2014/02/26(水) 23:06:16.88 ID:sBmoLZmc
「僧兵」は江戸時代の造語
18人間七七四年:2014/03/02(日) 23:27:23.68 ID:HiTYiWc5
北陸の一向一揆は相当精強だったらしいな
越中五箇山で煙硝が大量生産されてたから奴らの鉄砲火力は半端なかった
上杉謙信でさえ富山城攻略や朝日山城攻略に手間取ったのも頷ける
19人間七七四年:2014/03/02(日) 23:32:57.56 ID:HiTYiWc5
北陸の一向一揆は相当精強だったらしいな
越中五箇山で煙硝が大量生産されてたから奴らの鉄砲火力は半端なかった
上杉謙信でさえ富山城攻略や朝日山城攻略に手間取ったのも頷ける
20人間七七四年:2014/03/04(火) 15:04:15.43 ID:UjfU+HCg
今更なんだが七里よりちか でいいの?らいしゅうでなくて
杉浦もげんとうだと音訓読み混じってるし、げんじん?
21人間七七四年:2014/03/05(水) 12:14:23.72 ID:O7i6lrgl
学問的なことは分からん素人だけども
確かに北陸の一揆は越前も加賀も国人一揆のイメージがあるな

対して石山、長島、三河の一揆は一向一揆と分類したくなる
まあ、三河の一揆は国一揆だったかもしれんが
22人間七七四年:2014/03/08(土) 12:10:10.96 ID:zLkrEzFr
>>20
七里よりちかだな、杉浦の方はげんとうともげんにんともいう
杉浦玄任は朝倉義景・上杉謙信と戦った名将だが織田信長の越前一向一揆征伐で打ち負かされた
23人間七七四年:2014/03/15(土) 07:44:10.99 ID:yc2XIgVO
長島一向一揆をリアルに描いた小説とかないですか?
映画やドラマじゃほとんどないですよね。
ありゃ日本史上最大のゲリラ戦、殲滅戦として位置づけられると思うんだが。
24人間七七四年:2014/03/23(日) 21:18:45.28 ID:AL/WKZaj
信長でなく一向一揆が天下取れば民衆の税負担軽くて豊かな日本になったろうに
25人間七七四年:2014/03/24(月) 03:29:48.85 ID:H5YvY7wb
年貢納める先が武気じゃなく寺家になるだけの話だ
26人間七七四年:2014/03/24(月) 08:25:36.00 ID:yBUW/sQI
ゲリラじゃない。ただのそこら辺にいる
人が良い女子供を含む農民たち。
27人間七七四年:2014/03/27(木) 06:43:28.13 ID:l7W8CKTH
ゲリラとか言い出す奴はゲリラ戦が何のことかわかっていないという法則。正しい。
28人間七七四年:2014/03/27(木) 16:59:45.84 ID:iPkP4gGW
だから、どんなイクサだったか教えれ。
最後は2万人も焼き殺したってホントかよ。
29人間七七四年:2014/03/27(木) 21:43:57.64 ID:YUskk2W4
神保や椎名など有力国人らが参加した本格的な武装集団は北陸一向一揆の方。
30人間七七四年:2014/03/29(土) 06:06:06.07 ID:MbW2kFpK
2万人も焼き殺すってホントにできたのかよ。
ガソリンもなかった時代によ。
ナチスもびっくりだろ。
31人間七七四年:2014/03/29(土) 13:16:17.98 ID:QVeU21eH
逃げ場を無くし、閉じ込めてしまえば、
一酸化中毒で次々と死ぬからね。
32人間七七四年:2014/04/01(火) 07:24:45.75 ID:n+5/dMsJ
2万人一気に殺戮って、アメ公による空爆を除けば日本での最高記録ですかね。
33人間七七四年:2014/04/01(火) 09:06:15.95 ID:4PEh5l1v
敵対者に対する虐殺なら鷹島掃討なんかがある
34人間七七四年:2014/04/01(火) 17:56:11.55 ID:3cVyELk2
最多はまず島原の乱でしょ
35人間七七四年:2014/04/04(金) 20:27:13.58 ID:gKSEKlrO
大坂20万人大虐殺した東照大権現である神君家康公も忘れないでね。
しかも大坂近郊の村々や町では拉致して、それぞれの領国へ誘拐したり、商人に奴隷売却をOKにしてるし。
36!ninja:2014/05/07(水) 20:59:46.88 ID:N3ahSUli
なぜこのスレ伸びないんだ
お前らもっと書き込め!
一揆起こした人達に失礼だぞ!
37人間七七四年:2014/05/09(金) 01:11:47.58 ID:4fjVb7kH
新潟県立博物館
平成26年度特別展「親鸞となむの大地−越後と佐渡の精神的風土−」
http://nbz.or.jp/?cat=6
開催期間 : 2014年4月26日(土)〜2014年6月8日(日)
1207年に越後に配流された親鸞。その教えは新潟の歴史や精神文化に大きな影響を与えました。
美田が広がる現在の平野部の姿には、真宗門徒が氾濫する河川や風雪とたたかい続けた歴史があり、
その精神は県民性に色濃く残っています。

親鸞聖人750回御遠忌を迎え、本展覧会ではゆかりの品々(国宝・重要文化財11点を含む約200点)を
とおして、越後・佐渡の人々を支えた精神の源泉に迫ります。
38人間七七四年:2014/05/27(火) 21:49:44.85 ID:yPZBzKK4
一揆スレ人気ないな
何故なんだ
39人間七七四年:2014/05/27(火) 22:09:17.06 ID:YgAyjEGn
日本史板や歴史ゲーム板などでこのスレを宣伝したら、インキがあがるんじゃないかな。
40人間七七四年:2014/05/27(火) 22:10:06.41 ID:YgAyjEGn
×インキ
〇人気
41人間七七四年:2014/05/28(水) 12:00:50.46 ID:9PZLLlsX
>>33
それは1日ではない
42人間七七四年:2014/05/29(木) 13:28:31.18 ID:0HqdHFkb
明智光秀は信長に仕える前越前の家老朝倉土佐のもとで陣借りして坪坂伯耆を大将とする加賀の一揆軍と戦ったことがあったそうな。
一方、本多弥八郎正信は三河出奔後、加賀の一向一揆を指導していた時期があったとか。

時期にずれがあるし、お互い一軍を率いるまでの身分ではないから、有り得ないが、
本多弥八郎軍と明智十兵衛軍のガチンコ対決があったらどうだったろうなとかふと考えてみました
43人間七七四年:2014/06/01(日) 14:40:35.48 ID:5v5oNV3i
>>42
出典元の明智軍記のその記述なんだけど
朝倉と本願寺が講和した時期も史実と違い滅茶苦茶だし
坪坂伯耆守は本願寺から加賀へ派遣された坊官なので
本願寺の命令に背いて兵糧の簒奪をして朝倉と問題を起こした云々の記述にしても
正直、?っていう部分が多い

それに坪坂伯耆守って朝倉家との最終決戦で総大将に相応しい人物がいなくて
仕方なく総大将格に祭り上げられた兵站担当がメインの人物で
それまでは実戦経験に乏しい人物って言われてたぐらいだしなあ

明智軍記の光秀の朝倉家でのエピソードは後付けで考えられて追加されたような記述が多い
44人間七七四年:2014/06/01(日) 15:06:54.50 ID:4lYCWYLK
>>43
それは知らなかった。勉強になります。

坪坂は軍略もそこそこ、そして信仰も篤い、地元の地侍か国人あがりかと、私はてっきりそう思っていた。
じつは本山から派遣されたそれも補給担当の坊官だったんですね
45人間七七四年:2014/06/07(土) 14:53:52.25 ID:uMjfw408
一向一揆とははたして何だったのか?
政教分離・楽市楽座に抗する旧態依然
とした生臭坊主の軍団か?
世界初の国民主権国家を築くため仏敵
第六天魔王に挑んで破れた悲劇の聖軍か?

存分に語ってほすい(´・ω・`)
46人間七七四年:2014/06/07(土) 18:04:06.94 ID:Oh5rUYaF
>>45
そもそも1990年代に信長マンセーに使われた政教分離・楽市楽座なんて大ウソだよ。
信長は寺社の荘園を奪いまくる犯罪行為に抵抗したら皆殺しをしていただけで、
財産をすべて横領されても抵抗しない寺社には寛容だった単なる暴君だし、
上位権力者と交渉するための組織である惣村一揆という民主的共同コミュニティの撲滅を図っていた。
単に信長のやり方に従わないで反対する者たちを虐殺してたに過ぎず、政策として意図して宗教の政治介入を排除していたわけじゃない。
また信長は独裁商人を厚遇し、その支配下の元で座による独占をしたり、関による搾取を放任していたどころか彼らから賄賂をとっていた。
特に信長お気に入りで尾張美濃両国を商売司だった伊藤惣十郎は柴田勝家などからも
自由競争を排除する独占権を認める書状が発給されており越前領など広範囲で独占による高価格販売搾取をしていた。
47人間七七四年:2014/06/07(土) 18:06:22.18 ID:Oh5rUYaF
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。

信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
48人間七七四年:2014/06/07(土) 18:44:27.58 ID:ggariUGa
>>44
兵站担当というよりもどちらかといえば信者からのお布施を管理する立場の人だったみたいね
まあ、もちろん戦場の前線にも出ていた事は間違いないだろうけど
49人間七七四年:2014/06/07(土) 20:32:50.56 ID:FaaDRcds
軍費のため信長は荘園を盗み経済的困窮に追いやり餓死させまくった結果、
朝廷が寺社へ発注してきた神々への国家安寧や豊穣や鎮魂などの
年間祭祀行事や儀礼のほとんどが失われた。
50人間七七四年:2014/06/07(土) 20:38:32.96 ID:H9INxYpm
むしろ復活してるんだよなぁ
51人間七七四年:2014/06/07(土) 22:29:11.78 ID:wB2ou1ly
はじめから信長憎しで論じ立てている変な奴が一匹まぎれこんできたな
52人間七七四年:2014/06/07(土) 22:48:14.75 ID:f54CMq6t
例の文盲の菅沼遼太ですね。
53人間七七四年:2014/06/08(日) 14:54:01.59 ID:7PpUiVY3
農民が懸命に米作っても武士が殆ど取っていく
大名の非道に立ち上がったのが一向一揆
浄土真宗の仏の前では人は皆平等、南無阿弥陀と唱えればお釈迦様に導かれて皆極楽浄土へ行けるという教えで強く結束した
ただ武力で信長に及ばなかった
54人間七七四年:2014/06/08(日) 21:03:37.29 ID:fBmH3NHy
一向衆って最終的には戦国時代の覇者に
なってたらどういう政権運営をするつも
りだったんだろう?
大政奉還とか?それとも幕府を作ろうと
したの?
55人間七七四年:2014/06/08(日) 22:35:27.00 ID:IGvyMhId
そんな意思はなかったから何も考えていない
56人間七七四年:2014/06/09(月) 01:38:33.64 ID:QkxmMEYr
近江の一向一揆は三上という人で六角一門だよな
他の一向一揆も有力大名の一族が結成したのか
57人間七七四年:2014/06/09(月) 08:43:28.03 ID:dSonpW61
>>50
へぇじゃあ具体例を5つくらい上げてください。
58人間七七四年:2014/06/09(月) 12:18:46.34 ID:6r21NVdA
>>57
だーがだーがだがアスペの子♪
59人間七七四年:2014/06/09(月) 20:54:00.21 ID:KqoAGNu8
一向一揆はアジア初の民主政コロニーっすよ
60人間七七四年:2014/06/09(月) 21:35:10.24 ID:Cutl6wGI
南山城土一揆軍ではなくて、ですか?
61人間七七四年:2014/06/10(火) 03:13:09.43 ID:m1iY6psH
一向一揆って現代の左翼政党みたいなもんだろ
62人間七七四年:2014/06/10(火) 17:13:46.15 ID:hAHDyZJ3
ねーよ
63人間七七四年:2014/06/12(木) 19:05:48.65 ID:OV7z4A8e
日蓮宗と何で仲悪かったの?どっちが先に手を出したの?
64人間七七四年:2014/06/12(木) 20:25:46.15 ID:Sj0B5uBm
日蓮当人が他のあらゆる宗派を叩いたのが始まりで、表立った事件はなくともずっと仲が悪い
65人間七七四年:2014/06/12(木) 21:36:42.89 ID:hp5bwmse
>>63-64
某AAのやつかw
66人間七七四年:2014/06/13(金) 00:27:39.23 ID:JoGP/lD1
日蓮宗は他宗派といわずキリスト教といわずすぐに噛み付くからな
噛み付くんだったらしっかり噛み付いてこいよ。
67人間七七四年:2014/06/28(土) 19:30:22.00 ID:c0RXgpTY
日蓮宗は「自らの教えが正しいが故に、逆に他宗派から(反感をかって)攻撃を受ける。攻撃は不当なものであるから、折伏(教えの力をもって強制的に従わる)せねばならない。日蓮宗以外の教えを許容しない(キリスト教などの一神教に通じる)極端な教えです。
仏教としては、かなり異端と言って良いと思います。
68人間七七四年:2014/07/05(土) 02:14:55.98 ID:+DRSuoeO
しかも日蓮宗は宗教のくせに国家と強く結びつきたがるからな
69人間七七四年:2014/07/21(月) 03:52:23.34 ID:PgxZSa3k
日蓮宗のスポークスマン・朝山日乗でござる。
70人間七七四年:2014/10/01(水) 10:43:15.73 ID:fxfm5aVS
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。

http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
71人間七七四年:2014/11/13(木) 03:16:19.07 ID:28N8nLEr
昭和12年7月 7日 支那側からの発砲がきっかけで盧溝橋事件勃発。
昭和12年7月 9日 現地停戦協定により一旦終息。
昭和12年7月10日 200人以上の支那兵が迫撃砲で攻撃再開。
昭和12年7月11日 現地停戦協定により一旦終息。
昭和12年7月13日 北平(北京)大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人死亡。
昭和12年7月14日 団河で支那兵の襲撃により日本兵1人死亡。
昭和12年7月20日 盧溝橋城の支那兵より日本兵に対し一斉射撃。
昭和12年7月25日 電線を修理していた通信部隊及びその援護部隊が支那軍の包囲攻撃(小銃、軽機関銃、迫撃砲)を受ける。(廊坊事件)
昭和12年7月26日 北平広安門通過中の日本兵が城壁上の支那兵より一斉射撃を受ける。(広安門事件)
昭和12年7月29日 3千人の支那保安隊が220人以上の在留邦人を虐殺する。(通州事件)
停戦協定を結んだにもかかわらず、支那側はこれら事件を次々に巻き起こしたのだ。
これだけでも開戦の口実に十分足るにも関わらず、日本は外交交渉での解決を目指した。
そして、支那側に最大限譲歩した和平案を用意し、上海において支那側との和平交渉に望む予定だった
8月9日当日、支那保安隊による大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵虐殺事件が起こった。
続いて、支那政府は、英米仏伊四ヶ国の斡旋で締結された上海停戦協定に違反して次々と正規軍を上海に投入、
8月13日に日本海軍陸戦隊(国際条約により駐留)を包囲攻撃し、支那空軍も日本海軍の「出雲」や総領事館を爆撃し、
上海南京戦区の張治中司令官は総攻撃を命じた。
支那空軍は日本海軍や総領事館だけでなく支那市民や他の外国租界の建物まで空襲して爆弾を投下し、
多くの犠牲者(数千人)を出し、8月15日の張治中司令官の記者会見で日本海軍航空隊が上海を空襲し陸戦隊が砲撃
していると嘘を発表した。その結果一気に反日感情が高まった。これで日本軍の侵略が世界を駆けめぐった。
完全に支那の謀略である。
72人間七七四年:2014/11/16(日) 01:00:55.25 ID:thpKWjjq
日本版の黄巾の乱
73人間七七四年
出家したガミラス帝国軍