長篠・設楽原合戦の真実 part5

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755人間七七四年:2014/05/14(水) 07:26:22.45 ID:2+ZO40PW
>>753
桶狭間をやろうと博打うったら見事失敗したって感じだろう。
一博打あてないとあとは国力差でジリ貧なのは分かり切ってただろうし。
756人間七七四年:2014/05/15(木) 10:00:16.14 ID:M/W3XrDt
朝倉浅井
そして長島全滅となれば包囲網の一角としては戦う必要はあるんじゃない?
ここで逃げたらどんな情報戦略されるかわからん
757人間七七四年:2014/05/15(木) 13:40:13.98 ID:3DkOdQ2I
>>298
陸軍にまで誹謗中傷広げんなよ昭和脳(笑)
戦後脳のバカサヨ総懺悔自虐売国愚民脳死ねカス
758人間七七四年:2014/05/15(木) 13:41:15.67 ID:3DkOdQ2I
損害避けようとしてないとかレッテル貼り
悪質なこじつけ
759人間七七四年:2014/05/17(土) 10:41:16.49 ID:oTEZVCoO
>>754
それを証明する一次史料はまだなの?
760人間七七四年:2014/05/21(水) 23:36:53.10 ID:Bpv47+vQ
勝頼は騎馬隊による両翼突破→敵軍の包囲殲滅という
カンネの戦いみたいなのを狙ったんだろうか?
761人間七七四年:2014/05/22(木) 07:11:31.44 ID:PC20T7sk
武田の騎馬隊という物自体存在しないからそれはない
762人間七七四年:2014/05/24(土) 20:06:23.42 ID:ZD6NPTR9
気が付いたら包囲されてスターリングラードになりかけてしまったので全滅よりはと強行突破じゃまいか?
763人間七七四年:2014/05/24(土) 22:36:39.20 ID:SrIWw+Om
 長篠の戦いは、知っての通り、長篠城を攻める武田に対抗するために、
信長自らが援軍を率いてきた。勝頼がその挑発に乗った形で戦が始まる。
 当初、武田は、長篠城を攻めるための出兵だったので兵力に劣る武田が、信長と
戦うのは無謀との意見が多く、勝頼はさっさと、長篠城を落とし古府中に帰るべきで、
もし、信長が攻めてきても、山岳戦なら武田が有利だからとの意見もあるが、
当時、織田と武田の国力差は、かなり開きつつあり、この機会を逃して、
次回、決戦の時は、国力差はさらに開いた状態だったろう。
 やりようによっては勝てるかもしれない。そうなれば、信長の躍進は鈍り、
多少の時間稼ぎもできたかもしれない。本当に、うまくいき、織田側がミスを連発
してくれたら、ひょっとしたら、信長の首を取れたのかもしれないという、甘い考えが
浮かんだのかもしれないな。
 もし勝頼が、戦に応じなかったとしたら、次は、もっと大軍で、しかも、信長の
家来クラスが大将で、例え勝手も、すぐに、また大軍を送られるような状況になってた
かもしれないな。
764人間七七四年:2014/05/25(日) 11:18:20.00 ID:nhF+ISes
っで、それだけ?
今更そんなお前以外みんな知ってる事言われても
765人間七七四年:2014/05/25(日) 15:00:03.93 ID:oiLOvlmT
>>764
お前がどこまで知ってるかも不明だけどな。
766人間七七四年:2014/05/25(日) 19:42:26.92 ID:8u7XuU/B
これ以降、騎馬軍団の活躍なんて無かったし
意外に通説が正しかったのではないかと言う気がしてきた。
最近は。
767人間七七四年:2014/05/28(水) 23:12:42.09 ID:adswbvGj
勝頼が長篠の戦いに突っ込んでいった様子を描いた
伊東潤著「天変地異」お勧めです!!
768人間七七四年:2014/06/01(日) 12:49:05.38 ID:2qhX1NF+
一つ疑問なんだが武田z軍に勝機はあったのか
769人間七七四年:2014/06/02(月) 00:04:47.58 ID:Ecw7vt4N
織田・徳川連合軍を打ち破るという意味なら、勝機なし
長篠城を落として帰るだけでいいというなら、勝機あり
770人間七七四年:2014/06/02(月) 12:55:32.74 ID:Q7Ctijeu
野戦勝利するも陣城攻めに苦戦した結果、
引き分けにより武田の一方的優勢の終焉。
771人間七七四年:2014/06/02(月) 13:12:56.24 ID:r7+kmfEU
>>768
当時の状況だと武田有利
織田は逃げに逃げまくって、徳川に「武田に降伏して尾張に攻め込むぞ!」と脅されてしぶしぶ出てきた。
そして馬房策と鉄砲で引きこもってたってのが実情。
武田は最後でミスしちまった。
772人間七七四年:2014/06/02(月) 14:35:33.30 ID:go9n/6C8
一方的に優勢だったのに秋山さん見殺しにした武田wwww
全然落城する気配すらなかったはずなのにホイホイ開城しちゃう秋山www
どんだけ死人に鞭うてば菅沼くんは満足するの?
773人間七七四年:2014/06/03(火) 01:34:40.41 ID:4WPHpPmM
>>>771
どんなミス?
774人間七七四年:2014/06/03(火) 01:36:53.54 ID:hBVSqy3e
>>773
だーがだーがだがアスペの子♪
775人間七七四年:2014/06/04(水) 04:56:59.18 ID:ROjopSxV
1975年という時点でだいぶ運が悪いな
あと2.3年前だったらこれはわからなかったのに
776人間七七四年:2014/06/04(水) 18:47:47.41 ID:jTMLGSOl
>>771
一般的に長篠は、織田もかなり苦戦したが、それでも、織田の圧勝という認識。
決して、織田の一方的な勝利ではないものの、「武田は最後でミスした」
とあると、武田が優勢に、戦を進めていて、最後に何かミスをして負けたと
取れるだ。そのミスが何か知りたい。

>>773
それと、こっちは、だがでも、アスペでもSでもないぞ。
777人間七七四年:2014/06/04(水) 19:59:22.87 ID:fLZRJEfL
織田がかなり苦戦したようなとこあるか?
まあ長篠の戦いまでの流れで言うならそう言えないこともないと思うけど
778人間七七四年:2014/06/04(水) 20:19:33.88 ID:gUjnC2qU
長篠野戦で大敗して、家康が作った柵に逃げ込んだ織田兵以外は壊滅したじゃんw
779人間七七四年:2014/06/04(水) 23:36:07.01 ID:zDykTv9p
>>778=アスペルガーだが式☆長篠の戦い布陣図

織田兵
       武田兵
徳川兵 柵



織田兵 ←武田兵

徳川兵 柵



武田兵

織・徳 柵



ここからなぜか武田は柵の正面側へまわりこみ直し、柵で攻撃を防がれ壊滅
780人間七七四年:2014/06/05(木) 22:57:13.27 ID:o1akWYqZ
何で織田側は追撃をしなかったんだ。
その勢いで追撃してたら滅ぼせたかもわからんのに
781人間七七四年:2014/06/06(金) 00:05:56.94 ID:M2gKAwcK
十分な損害を与えたからだろう
782人間七七四年:2014/06/06(金) 00:21:33.52 ID:JSIIDvTS
武田領に進軍する予定でなかったから、その気になっても準備ができていないので無理
783人間七七四年:2014/06/06(金) 00:49:43.57 ID:akc6MQmu
基本織田は武田を相手にしてなかったしな
そのために徳川の高天神城とかが犠牲になってるし
どこぞの誰かは何を優先してでも武田を滅ぼせなんて言ってるが
784人間七七四年:2014/06/06(金) 03:25:50.47 ID:n1ISkB+5
BSをみたんですね。
785人間七七四年:2014/06/06(金) 07:25:12.78 ID:BYI112a4
そもそも長篠は防衛戦。攻め込んできた武田を撃退すればそれでOK.
786人間七七四年:2014/06/06(金) 08:19:47.45 ID:9E91usFB
武田対徳川だしね。
信長は後詰だから追い返せばいいので、追撃して滅ぼすまで行くのは
普通に考えればありえない。
たまにそう言った話が出るけど、どういった状況で合戦がおきたか前提
も調べずに書き込むのかな?
787人間七七四年:2014/06/06(金) 19:10:30.37 ID:B/aWlHQv
>>777
山道での追撃戦だから迷子になった人達も多いんじゃないかな
合流地点も無くそのまま凱旋しちゃったから
迷子兵を回収出来ず損害にカウントしちゃったのかと
788人間七七四年:2014/06/06(金) 22:11:29.78 ID:n1ISkB+5
>>777 >>>787
 長篠の戦いは、武田勢が、織田勢に攻めかかった展開だろ。
織田勢は、馬防柵を築き、鉄砲の三段撃ちこそなかったが、織田は多くの鉄砲を用意していた。
しかも当日は雨が止んだ後で、地面は沼地のようだった。
 しかし、それでも戦の構図は、あくまで武田が攻めていたのである。
武田勢の何隊かは、織田の陣まで到着し、奮戦していたのである。
 つまり、それまでの武田の損害は織田に攻め込まれた損害ではなく、
突撃し、織田陣に到達するまでの、過程での損害なのだ。が、武田の損害は、
かなりのものだっただろう。
 一方で、織田の損害はなんとか織田陣内に到達した武田勢に攻撃されての損害なのだ。
武田が、あのまま攻撃を続行していれば勝てたという意見はそこじゃないか?
 しかし、兵力は倍以上の差があるから、このままでは、武田の兵が尽きてしまうし、
この状態で退却命令をだしたら、引く隊と引かない隊が出て、混乱してしまう。
そこで、勝頼は勝負に出る。実は、勝頼は後詰の穴山に織田の側面を突けと命令したが、穴山は拒否し、帰参
してしまった。他の信豊などの親類集も穴山が逃げると、逃げてしまった。
 つまり、勝頼は最後にミスをしたというよりも、最初から穴山を始めとする親類集を
戦力として考えていたところに、敗因があったのではないか?

これは、あくまで概要なので、ダガの意見はいらない。
789人間七七四年:2014/06/06(金) 22:31:08.59 ID:qw9amnI0
>当日は雨が止んだ後
これは俗説だろ。
京都じゃ長篠の戦い前の日付に雨は無いし
雨がそこそこ降った後とするなら、織田徳川の別働隊は行軍にしろ奇襲にしろ川を挟んだ長篠城の救援にしろ大変なことになっているはずだし、
武田も増水した川で撤退なんてほとんど無理ってなったはず、
また数日前から有海原で戦っていたこと考えると天候はある程度安定していた可能性が高い。

織田徳川の損害は武士階級の損害が見受けられないことから、
損害が無いとは言わないがまったく問題ないレベルだったと思う。
790人間七七四年:2014/06/06(金) 22:42:43.87 ID:n1ISkB+5
>>789
だからさ、777、787、とあるように、話の論点は雨うんぬんじゃないだろ。
織田も苦戦したという、織田の損害の話じゃん。
一応話の流れで雨が止んだあとと書いたけど論点そこじゃないよ。
自閉症のアスペの人は、論点がわからないだろうから、せっかくダガの意見はいらないと
書いたのに。。。
791人間七七四年:2014/06/07(土) 00:02:20.99 ID:MRTPIOXn
>>790
789はだがではないだろ
792人間七七四年:2014/06/07(土) 00:59:06.56 ID:c6JGpkoF
>>789
失礼
793人間七七四年:2014/06/07(土) 06:33:40.00 ID:8bkOPy+v
ここには色んなこと書いてあるけど、甲陽軍鑑と信長記の内容で別に大きく変なところはない
馬場の言うとおり長篠城強攻して落として守り固めれば良い
持久戦出来る状態だったかは知らんが
794人間七七四年:2014/06/07(土) 09:07:01.14 ID:oEVjv54i
親類衆が全力で戦ったとしても武田の被害が増えるだけで終わったような・・・
やっぱ寒狭川を越えたのが敗因だろ。
設楽原まで出た時点でたとえ戦わずに退却しようとしても
結局は山か寒狭川で混雑するところに追撃食らうわけだし。
まあそれでもその方が戦うよりはある程度被害を抑えられたかもしれないが。
795人間七七四年:2014/06/07(土) 10:20:04.69 ID:Oh5rUYaF
長篠の戦・・・本作戦の目標は前年に浜松城を焼き討ちし、掛川城に付け城を築き包囲している現状に悲観した
徳川方内部における結束の崩壊を機会として岡崎城内応策を元に立案され、
その真の目標は武田本隊5万5000による北美濃勢との呼応の上での東美濃への大規模奇襲侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
内応策が未然に防がれ計画の練り直しのために一度本国への帰還を優先すべきところ、
なお、東美濃侵攻計画を強行を決意した勝頼は尾張へ先遣隊を派兵し熱田社を焼き討ちし挑発し信長が東海道の戦場に出てくることを強要した。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、当初作戦である美濃決戦を放棄し、手持ち陽動兵力6000のみの決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
長篠救援で武田軍へ迫った織田6000討死(長篠日記)により両軍の正面決戦である野戦では大勝利したものの徳川の陣城(一次史料から石川と鳥居の陣のみ柵が作られていたのが判明する)
へうまく逃げ延びた織田兵と徳川軍への陣城攻撃を開始し優勢だったが(石川と鳥居の二つの陣内以外の織田軍は虐殺された)
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。

ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
織田軍のことを敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。

天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。
信長は武田本隊による岩村城救援の報を聞くと、
急いで岩村側へ和睦したと詐術を弄して秋山を殺した。

いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
796人間七七四年:2014/06/07(土) 16:32:43.53 ID:c6JGpkoF
>>794
この戦は、原っぱの両端に両陣営がいて原っぱの真ん中で激突した訳じゃないんだよ。
武田勢が織田の陣の中に入り込んで暴れているということ。
もちろん、ある程度は信長の想定内だったと思うが、
織田陣中でいくつかの部隊が崩れ始めていたのは事実。
穴山等の親類集が、うまく回り込み、織田陣内のいいポイントに、雪崩込めたら、
ひょっとしたら勝てたかもしれないがどうだ?
797人間七七四年:2014/06/07(土) 16:50:28.10 ID:c6JGpkoF
ちなみに、勝頼は、後詰を攻めに回した場合、敵が武田本陣向かって、
攻めてくることも、予想していた。
つまり、武田が信長の首を取るかのが早いか、織田が勝頼の首をとるのが早いか、
勝頼は、腹をくくっていた。
勝頼は、そうなった場合、数が少なくとも、統率のとれた、武田の方に分があると
考えていたらしい。
798人間七七四年:2014/06/07(土) 16:57:38.22 ID:c6JGpkoF
だがに言ってるわけではないので、資料はださないけどな。
799人間七七四年:2014/06/07(土) 18:11:03.59 ID:CK3K5P96
>>796
違うな
穴山たちは長篠城包囲軍の救援に向かったんだ
酒井たちに背後から攻撃されたら困るからな
800人間七七四年:2014/06/07(土) 18:21:58.82 ID:oEVjv54i
>>796
地形的に織田が布陣している北側から回り込むのは難しくね?
そして地形的に回り込むのが可能だったなら、
それはむしろ武田の方が兵力的に北側からも包囲される可能性が高い、
史実でそれが無かった以上回りこめるような地形では無かったと思う。

徳川の布陣する南側からは回り込むことも可能だろうけど、
地形的にその動きは織田徳川から丸見えになるから、
反対斜面に控えている織田徳川勢に迎撃されるだけと思われる。
また仮に北側から回り込めるとした場合も後陣の織田勢に迎撃される可能性が高い。

というわけでまず無理だと思う。

>>797
上に書いたように織田は勝頼の首など狙わず普通に迎撃するだけだと思う。
そのため信長の首を取るというのはまず不可能かと、
織田の方は反対斜面から更に後方に渡って信長本隊信忠本隊北畠隊信康隊が控えていたとされるので。
801人間七七四年:2014/06/07(土) 18:36:46.69 ID:v7HG761m
>>796
真面目な意見そうなので真面目に話すと、言うほど織田の陣営に入り込んで
暴れたとは思えないんだよなぁ。
知っての通り、最大の激戦地と言われている所は徳川本陣より南、織田の陣営
からは結構離れている。
もっとも、織田の最終本陣より上流に行けばちょっと開けているので、そこで
は織田勢と武田勢が当然戦っていたと思われる。
ただそこは、これも当然ながら織田の陣営も厚いわけで、そこから攻め入った
と言うならそっちが激戦地と言われてもいいはずが、そんな話は「だが」以外
で聞いたことがない。
面白いのは、現地に行けば解るけど、勝頼の物見櫓があったと言われる辺りが
もっとも織田の陣営に近いんだよね。
現在の馬防柵があるちょっと南の道路がある辺り。

親族衆の陣はその櫓より後方に位置する。
回り込むの結構かかるかと思うけど、勝機があれば展開したかもしれないね。
それをしなかったと言う事は、言うほど攻め込んではいなかったのではない
だろうか、ってのがこのスレでずっと読んでいての自分なりの結論かなー。
802人間七七四年:2014/06/07(土) 20:22:59.50 ID:FaaDRcds
まーた織田ちょんが一次史料黙殺して、
願望妄想戦記の落書き開始w
803人間七七四年:2014/06/07(土) 22:25:34.21 ID:w0kxMu2z
菅沼遼太による各勢力の最後

足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。

朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
 若狭守護は知らないうちに消滅したので将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

六角
知らないうちに消滅

北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。

長島一向一揆
第二次で現在の海津市いったいまで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。

三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れた。

武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたら信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡
804人間七七四年
敗走兵の救済もできずみんな山の中に逃げたから落人狩りで命を落とした武田兵も多い