1 :
人間七七四年:
大昔にあったスレッドを復活させました。
とことん議論してください。
※荒らし・煽りは徹底スルーでお願いします。
2 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 01:59:19.08 ID:vIhDkoqn
>>1 そんなわけないだろ。
つか糞スレ立てんなw
3 :
武田信虎:2014/02/02(日) 03:09:36.09 ID:IyJKc+sF
信玄はワシが育てた(育て方を間違えたからワシが原因かもなw)
4 :
武田信綱:2014/02/02(日) 07:41:30.18 ID:Y7WDQ9Jd
いや、わしが悪い
5 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 08:45:42.97 ID:ejWOBTze
織田朝鮮人の自慰スレ
6 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 11:49:03.56 ID:u9bG7l/t
7 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 13:04:46.50 ID:sWXoivRX
武田義信が家督を相続したら武田は崩壊しなかったのだから
武田信玄が悪いのは言うまでもない
8 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 13:47:39.83 ID:hWEp6swo
>>7 義信が逆心を抱かなきゃ武田は崩壊しなかったとも言えるんじゃないの
9 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 14:30:13.45 ID:sWXoivRX
本当に義信が逆心を抱いていても信玄は隠居すべきだった
信玄が全うに家督を相続していたらこんなことは言わない
その昔当主だった信虎を追放して家督を継いだのはどこの誰だという話よ
筋はちゃんと通すべきだった
10 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 14:36:03.75 ID:jZFpy9lh
義信に人望が無さ過ぎて、
挙兵すら出来なかった時点で、
当主としての資質ゼロだからなあ。
11 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 14:49:18.02 ID:9exiCBE/
身内に義信の謀反をばらした飯富虎昌が悪い
12 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 15:02:24.25 ID:sWXoivRX
>>10 直接事を構えることなく
姉を餌にして信虎を追放した信玄に
当主としての人望がなかったと、こう言いたいわけだねw
13 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 17:24:45.27 ID:D7Zy0+eD
嫡男殺害
外交で裏切りまくり
この辺は批判されてもしかたない
14 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 17:32:44.91 ID:sWXoivRX
そもそも信玄自身が
体制派の信虎から実権奪う形で
家督継いでるからな
信玄側はこの時家臣を処断しまくった信虎を
まるで悪だという見方を作り
自分たちを正当化したわけだが
これと全く同じ流れができてしまったのが
義信の謀叛未遂の時で
この時信玄は義信を廃嫡して多くの重臣を切腹させてる
自分が信虎にしたことを、嫡男の義信が
同じように企図するのは許さなかったわけだ
これで信玄は家督を継がせる跡目を失ったばかりか
自分が過去にしてきたことの正当性を自ら否定してしまい
武田の当主権力を一気に失墜させてしまったわけだ
だからその後で急きょ武田家の当主を継いだ勝頼は、
穴山はじめ武田一門衆から舐められまくるようになる。
15 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 17:40:25.77 ID:m6Ag2Cbi
ウソ連呼でまともな議論が成立しないのが織田チョン
しかも恨みのように、
しつこく繰り返すアルツハイマー
16 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 17:46:01.51 ID:sWXoivRX
事実を突きつけられて
妄想人格否定しかできない
菅沼遼太君
早く史料持ってきてねw
17 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 18:58:05.57 ID:yM+SuBpK
もう少し同盟を大事にしてもよかったかもね
諏訪と同盟維持して佐久方面から信濃に侵攻とか
三国同盟を維持しながら越後に侵攻とかが何故できなかったんだろう
佐久郡は信虎の代で伝馬制敷いてるし、駿府攻めする頃は謙信は国人統制出来ず困窮しているから
同盟破棄より順調に行きそうな気がする
18 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 19:21:15.07 ID:BcHZBDtM
>>17 本当にそうだな。
信虎末期の頃の資料研究によれば
甲斐国人層の権力を抑制し、武田宗家独裁の方向に進む(要するに戦国大名化)しつつあったが
晴信のクーデターにより甲斐国人層が再度力を持ち出し、
晴信は甲斐国人層の統制に散々手間取り、その結果として義信のクーデター
(甲斐国人層による武田宗家独裁阻止のための)が計画される結果になった。
禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬という言葉を想起してしまうな。
19 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 20:47:30.62 ID:t3ERXwu5
175:人間七七四年 10/10(木) 11:26 Z1Ug+wFm [sage]
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。
20 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 21:14:48.44 ID:BMpEYHTv
信玄は父親を追放し、嫡男を死に追いやった悪逆非道の者である。
後世、荒くれの人間像を作られた信長、実は
・父の死後、家督を継いだ自分を殺害しようとした弟は、殺しているが、これは当時としてはあたりまえだろう、
しかも、その子供の面倒はみている。
・敵勢力として今川氏と戦い、義元の首級をあげたが、それは敵勢力としてであり、
その子供である氏真の面倒はみている。
21 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 21:21:37.50 ID:FXzUahmi
菅沼遼太
22 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 21:34:30.99 ID:t9tQre9K
クリーンなイメージを保つために
信虎を過剰なまでの暴君にしたり
義信を世間知らずのお坊ちゃんにしたり
勝頼を猪突猛進の自意識過剰野郎にしたり
信玄好きは大変だなあ
23 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 07:15:39.01 ID:48aqejSS
一番大きな要因は長篠で負けた事でしょ
戦が弱いと見なされた守護大名家に国人はついてこないよ
24 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 08:00:05.61 ID:LRJnvszX
信濃は信玄の悪政によって逃散・逐電が相次いでた
自勢力より大きな勢力が攻めてきたらまともに戦うわけがない
信濃が落ちたら甲斐のみで戦えるわけがない
滅亡は必然だった
25 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 08:00:34.67 ID:JdoaAeMs
長篠をはじめ織田徳川と争う羽目になったのは
信玄のせいだからなぁ
和平策維持が一番最善だが
せめて敵対した以上は
織田徳川どっちかの大将の首を
取っておくべきだった
26 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 08:07:02.87 ID:942/plof
そんな簡単に総大将の首がとれるわけがないw
27 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 12:25:10.33 ID:mXWdQKX8
アンチ曰く、日本最弱の織田ならとれるって事じゃないかな?w
それとも、ゲーム内では、って事かな。
28 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 16:53:29.07 ID:bgfXupAu
家臣団が、傀儡に担ぎ上げたけど、信玄の器量を認めておとなしく従ったって事なら、
後継が勝頼でも義信でも、家臣団が分裂するのは変わらなかったんじゃない?
29 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 17:38:15.52 ID:wgO3QPCy
そもそも信玄晩年の武田の当主権力が弱いとは思えんのだけどなあ
勝頼みたいに出自の悪い人でも穏便に相続できてある程度権力振るえてるわけで
30 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 18:29:41.02 ID:oA2wZPQS
勝頼が無理やり甲斐からむちゃくちゃ遠い高天神城を落として、
しかも維持しようと無茶やったのがまずかっただけだろ。
んなトコを無理やり攻略して兵を損耗した挙句に、
高天神城維持に兵力配置し兵站をつなげる負担さえなければ、
武田軍は長篠で大勝出来たろ。
信玄が高天神城の攻略をしなかった理由が勝頼には理解出来なかった。
31 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 18:54:30.07 ID:JdoaAeMs
>>26>>27 取れるわけがないのは承知してるよ
でも、取っておくべきだった
最低でも家康は、浜松囲んで落とせば取れたはず
取れない自信があるなら最初から戦争すべきではなかった
32 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 19:48:35.77 ID:9Icuki1H
>>30 信玄も攻めてなかったっけ?
城攻めて、わざと攻略しなかったの?
長篠後ならまだしも、それ以前なら高天神城は徳川攻めの重要拠点として
維持しておくメリットはあったと思う。
現に以後は、勝頼も援軍送らず無理に維持しようとしていない。
高天神の兵力があれば長篠で勝てたというのは推論であり、結果論では?
武田が高天神城を切り捨てた事は、武田滅亡の一因だとは思う。
33 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 21:51:37.27 ID:0Sw60wmJ
高天神は街道筋から余りに離れ過ぎて、
戦略的価値は全く無い。
あんなの攻め取る意味なんて無い。
しかも徳川が高天神攻略に多大な時間をかけているあたりからして、
勝頼があまりの早さで高天神城を攻略している異常さは、
かなりの被害が出る無理攻めをしたとしか思えず、
武田軍をかなり疲弊させたと見るべき
34 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 22:06:33.76 ID:m9TfIAdD
>>32 信玄は本命を隠して陽動作戦をするので、
軽く攻める威力偵察をその際はやってる。
まあ信玄の本命は美濃侵攻だから、
徳川攻め自体が陽動に過ぎない。
35 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 05:57:28.78 ID:yq8mPgQ+
陽動で寿命縮める馬鹿だと
言ってるようなもんだぞ菅沼遼太w
36 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 08:17:49.52 ID:KrE3VCY9
>>31 理想で言えばって事か。
浜松囲んでって言うけど、そもそもそれが目的じゃないじゃないと思われる
からなぁ。
個人的な見解だけど、兵数的にも遠江進行前の威圧行動じゃなかったかと思う。
まあ、本格的に行く前に亡くなってしまったわけだけども。
>>30 うーん、過去を知っている事からの結果論にしか見えない。
自分も>32の言う通り、当時は徳川攻略の重要拠点として必要だったと思う。
その後の経緯から、重荷になったんじゃないかな。
>>34 逆じゃない?
徳川無視して美濃行くのって、目の上のたんこぶ残して行くようなもんでしょ。
37 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 09:48:00.80 ID:y6TFuAZB
信玄は信長を敵として戦うとか、来春は岐阜を攻めると書状に書いてるし、
浅井や本願寺の書状でもそれがわかる。
京都西の山崎にいる油流通支配やってる大山崎油座も、
信玄上洛は間違いないと考え禁制を貰おうとしてるし。
38 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 12:01:34.30 ID:OhTu0Nsu
身分違いの人間による生存戦略を根拠だと言われましても
39 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 19:29:55.16 ID:IzVsx6pX
光秀が山崎の防衛を考え、
光秀に買った秀吉が、
大坂城に移転前には山崎城を本拠地に据えているなど、
山崎の去就は甚大な影響力があった。
三好なども山崎に禁制を出すなど、
流通独占支配者のネットワークは重要だった。
それが信長を見捨て、信玄が勝つと踏んだ。
40 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 22:56:35.87 ID:Fc7Wnn6u
「甲斐国は、全国でも稀にみるほどの偽文書作成地帯として、よく知られている」山本英二
「甲斐国には偽りの文書が多し」国学者 黒川春村
「甲信二国は偽文書が多い」田中義成
武田厨の捏造度は異常
41 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 23:49:54.02 ID:OhTu0Nsu
信長を見捨てたというなら信長が出した禁制は破棄してるだろ
実際には信長信玄双方の禁制を貰って
どっちが勝ってもいいように両方に二枚舌使っただけw
42 :
人間七七四年:2014/02/05(水) 09:39:28.07 ID:kCMkkz2M
そんなことを信長が許すわけねーだろ。
信玄死後に諸権利没収されて、
秀吉が山崎城を拠点にした時に諸権利が返され復権させてるわけだが。
43 :
人間七七四年:2014/02/05(水) 12:32:04.17 ID:cbhJjA3j
ここまで史料なし菅沼遼太の妄想w
44 :
人間七七四年:2014/02/05(水) 13:46:11.36 ID:zgTlWCEF
秀吉が上様が奪った利権を返すって書いてる書状あるじゃん。
45 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 00:37:11.08 ID:rBVwlSkn
禁制を複数から貰うなんて普通に行われる事だ。
問題はタダじゃないから、予算内で貰う相手を読まなきゃならない。
武田滅亡の原因は、やはり武田家の戦略方向を大きく左右していた信玄にあるな。
勝頼は、割り食った面が大きい気がする。
46 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 01:14:30.79 ID:XWtGofj8
>>45 下記の話を複数の禁制で実際に証明してください。
禁制を複数から貰うなんて普通に行われる事だ。
47 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 01:19:28.62 ID:betgb3q1
あの時代の情報網じゃ仕方ない部分も多いが
信玄は浅井・朝倉があんなに弱体化してるとは知らず当てにしてたからな
今の時代だってよっぽどアンケートを取らないと
選挙の勝敗を当てるのは難しい
歴史上の人物も超能力者じゃないんだから
人の移動しか情報伝達手段がない時代じゃ限界がある
48 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 02:49:29.46 ID:THjsX3hK
まず菅沼遼太が信長の禁制が破棄されて、信玄の禁制のみを頼ったことを
一次史料、原文、出典まできっちり明記しないとな
>>44だけなら、二枚舌方針を咎められただけとも言える
49 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 09:29:44.54 ID:F07tFH4x
一般的に禁制が出されている場所の近くまで侵攻軍がすでにやってきてると解釈されるケースが史学では常識。
三方ヶ原で大勝利した信玄が来春岐阜攻めと言ってる時点で、
禁制を貰う動きが生まれており、
織田の大身が3人も内応していると書かれ、
実際に名が上がっている蒲生の他に池田や斎藤らが怪しげな動きをしている。
また信長自身が細川に、誰が敵で誰が味方かわからないと泣きを入れているし、
実際に上洛した時に合流してきたのは細川以外だと、
和田や池田を討つなどむちゃくちゃな謀反人で、
信長の意に従わず私戦を繰り返してきた荒木だけで、
織田軍は1万しか集まらない体たらく。
伊勢長島衆が岐阜の近くに砦を築いていくのも阻止出来ず、
岐阜の北の郡上八幡の遠藤も離反。
信長の本拠地岐阜包囲体制が着々と敷かれている。
完全に信長は終わってたのは誰の目から見ても明らかだし。
50 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 09:34:35.42 ID:THjsX3hK
そういうのを一般的には妄想と言うんだよ
ちゃんと史料を出して明示したまえw
51 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 10:05:01.89 ID:SfWxybBl
じゃあ一次史料の根拠を用いて反論してみろよw
52 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 14:51:10.17 ID:QDK/sTJ+
自分は史料出さずに主張して相手には史料で反論しろ
楽だねー
53 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 21:13:14.17 ID:WTCb8CHq
過去にさんざん出てただろwww
織田厨はアルツハイマーだなwww
とりあえずレスせずにROMってろ。
54 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 21:25:32.09 ID:eVR/RuMg
過去にさんざん出てた(妄想)
55 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 22:27:09.79 ID:Y/WTpOhc
たしかにテンプレ化していたはず。
56 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 08:36:55.63 ID:KJSfAR0k
まーた武田中の出しただした詐欺か
何回騙されたことか・・・
57 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 13:46:16.18 ID:nivabtRm
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
なんとたった1万しか集まらず信玄に大敗してボロ雑巾の家康にすら近江に援軍を出すように哀願w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀3年10/5の朝倉景亮書状
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
そもそも東山道と中山道の二つのコースから出撃し
岩村城の秋山隊と合流すればいいし、
補給は木曽川から下流に流せばいいだけだし。
美濃に帰国した土岐頼芸と一向宗と呼応して東美濃西部の土岐を大軍で落として、
中濃の加茂郡の加治田城や関市の一柳城(津保城)や北濃の美濃市の鉈尾城や
郡上八幡城の兵力と可児を挟撃合流し一気に岐阜城を襲えばいいだけ。
そもそも可児の森長可が簡単に東美濃を平定してるほど
弱い東美濃全域なんて簡単に攻略できるわ。
加治田城の斎藤利堯ですら岐阜城を軽く落城させてるからなー。
その加治田城まで武田方になってるし
さらに武田の大軍なら余裕で岐阜城なんざ落せる。
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
武田軍は岐阜よりわずか六里まで進出していた。
甲陽軍鑑では岩村と土岐の仕置きを信玄がしていたと書かれてる
三河鳳来寺に武田軍が陣を置いて 窪・長沢方面にも軍を動かし
岡崎の北わずか4里の宮崎に出城を築いている。
58 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 13:47:45.47 ID:nivabtRm
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
59 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 13:49:02.94 ID:nivabtRm
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
60 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 13:50:00.25 ID:nivabtRm
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
61 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 13:52:17.17 ID:nivabtRm
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
のち、秀吉が京で政権を握ると、このナメた報告を知った秀長が激怒し実地検地を開始。
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
62 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 16:30:13.15 ID:kheb+RgY
63 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 17:05:56.84 ID:LRb+ZnJG
. |___
. / (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/ / \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
| | | |
___/ /__.| |___
// //
(Ξ´ ‘ミ)
. |J( 'ー`)し 遼太ごはんができたわよ
. と ノ お父さんが話あるって言うし一緒に食べよ
. | /___
. / (^ )彡 !?
/ / \
/ | , / ))
____/ /| _/ /___
 ̄(⌒__/
 ̄
. |
. |彡サッ
. |__
/ ( ) 勝手に部屋に入ってくんじゃねぇババー!
/ γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
7``) / / \
.`ヽヽ / X ミ ヽ
ヽ___ノミ\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
64 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 21:25:46.21 ID:lGsGAFNy
>>57-61 これは何のコピペなんだ?
それが本当なら、そこから立て直した織田家はすごいし、
信玄は、義元死後の今川家から何も学ばず、
自分に権力を集中させたにも関わらず後継者育成を怠ったバカだなw
65 :
人間七七四年:2014/02/11(火) 11:54:48.58 ID:krkp0q8w
今度はここが荒らされているのか
66 :
人間七七四年:2014/02/16(日) 23:29:57.49 ID:Er5c9uPu
信玄の失態といったら、いのしし武者勝頼を当主にしてしまった事か?
67 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 07:23:22.69 ID:F7UWKGVO
安芸とか若狭?の武田が滅んで、甲斐一国から頑張った、信虎晴信親子は素晴らしいじゃね?
武田が滅んだ理由なんて、頼朝公の頃に遡るだろ
68 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 22:40:31.57 ID:K1P4uS6+
三増峠の戦いの時に北条の鉄砲隊の銃撃で部隊長の浅利信種を射殺されてしまったんだから
信玄がそこで鉄砲の重要性を認識して大量購入していればよかった
69 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 23:43:06.42 ID:agv7nQhg
>>67 安芸や若狭の武田も戦国時代まで残ってたし
甲斐の武田も戦国時代に滅んだだろ
70 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 02:24:10.94 ID:x4FOoH6d
甲斐一国から頑張ったって言っても
国持ち大名の時点で他よりも有利な状況なんじゃないのか?と思った
71 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 08:44:54.72 ID:SJi8RkoB
守護が在京していた為に、
領国統治を守護代に丸投げしていたので、
守護代と国人が癒着しており、
守護大名の方が生き残り難易度が高い。
72 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 09:05:44.72 ID:UiOq/84p
>>70 そもそも武田の場合は
先代当主の信虎が
甲斐を統一するなど
かなり頑張っており
信玄はこの基盤を楽々
利用することができた
加えて信玄の場合
信虎の専制的な体制を
崩壊させて国人衆の支持を得れた上
有力国人の板垣甘利らが
自爆してくれたおかげで
かなりやりやすくなったので
滅茶苦茶恵まれている
国人衆からすれば
信玄を頼らなければ
存続できない状況が
できあがっているわけだからな
だから後年に武田義信が
政道を正そうとした際も
信玄が怖くてどうしようもない
家臣ばかりだったので
信玄に味方するばかりか
せめてお家だけはと信玄に
命乞いまでするかのような
浅ましさまで露呈し
身内一族を犠牲にしてまで
信玄に媚びへつらう
体制が完成していた
73 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 09:14:30.84 ID:vo7OPpB8
信虎が甲斐統一してたって昭和の歴史認識かよwww
74 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 09:22:23.67 ID:UiOq/84p
事実じゃんw
75 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 11:48:14.41 ID:63aRqDjy
北条の援軍まで得て3分の一程度の戦力の若輩徳川家康すら
半年かかっても屈服させられなかったのがゴミ雑魚信玄
一方若輩織田信忠は9年後に武田を瞬殺
76 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 13:01:49.15 ID:Kx5joTVy
信虎は小山田や穴山を配下に組み込むことすら出来てない。
77 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 12:49:56.01 ID:9BZf3/Wt
20年かかってやっとこ信濃の弱小豪族から領土掠め取るのが関の山の超小物だからな
小物が調子に乗って織田に歯向かったのが武田家滅亡の決定打だから、そうなんじゃね
>>1
78 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 14:57:42.91 ID:c5cS7jwT
単純に相手が良かっただけなんだよな
事実信玄も同格クラスの上杉謙信や北条氏康と当たり始めると
領土拡大速度が一気に激減している
格下を苛める弱い者いじめはできても
同レベル以上の連中には手も足も出ない雑魚専
朝倉義景と同程度の手腕しか持ってない
79 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 16:24:13.25 ID:38c8xqaN
信長って朝倉義景に負けまくりで、
信玄死去を知った将軍が即時無条件降伏した為に、
将軍任国の若狭と、奉公衆の領地密集の琵琶湖北岸路が動揺して、
朝倉軍が撤退路を危惧して退却したのを追撃できた棚ぼたでやっと勝てたレベルではな。
80 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 19:17:08.64 ID:ck9aZi2l
武田厨も織田厨も牽強付会が過ぎるw
っていうか武田絡みは、どんなスレ立てても脱線して暴論合戦だなw
81 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 19:23:57.12 ID:lafT7Ul0
>>78 氏康や謙信が家の最盛期だったが、
彼らから信玄は領地奪ったが、
逆に彼らに領地を奪われたりしてないし。
むしろ織田が滅ぼした相手なんて最盛期当主の時代が終わり、
衰退期に入った大名しかいないし。
82 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 04:49:36.10 ID:iyD4cBfU
>>80 武田の場合は全て事実だけどね
所詮武田なんて甲斐信濃という僻地を領有していたから
他の連中に目をつけられなかっただけで
北条は関東、上杉は越中、織田は畿内、徳川は駿河という肥沃な土地を目指していただけ
「朝鮮はいつも戦勝国側にいるから強いニダ」と連呼されたところで
誰も聞く耳を持たないのと同じ理屈
もともと弱い連中を何が悲しくてウリナラファンタジーみたいな醜い真似をして持ち上げないといけないのかわからん
83 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 09:06:42.67 ID:+g+ubgOj
それぞれの国々が肥沃かどうかなんて、
当時の人々にはわからんわな。
石高一覧表を知る現代人の君じゃないんだからw
だいたい石高制になる前だから田園大開発が本格化する前で、
貫高制の元で田畠の収入(粟や小麦や野菜)も国力反映されていた時代で、
甲斐は小麦なども育て二毛作までやってたのがわかってる。
また人口や経済活動なども隣国が把握出来るわけもなく、
甲斐信濃が価値が無い僻地なんて分析が出来るわけが無い。
勝頼は北条の甲斐侵入を許してしまい、
新府城を築くようになってから、
甲斐国内の絶対安全保証という軍事的プレゼンスの信用を失い、
甲斐の団結に綻びが生まれたが、
信玄は一寸の領地も他者に奪われたりせず、
絶大な信用を与えていたから他国に犯される隙すらなかった。
84 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 09:12:01.92 ID:r5R2/Tqr
二毛作なんてどこもやってるしそれが豊かな根拠にはならんよw
85 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 14:27:17.86 ID:f8wTjjQH
>>84 二毛作をやってたなんて証拠が残ってる国はほとんどないのにwww
また織田チョンさん得意の大ウソですか?www
86 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 15:38:10.12 ID:+dM6Y0Oh
武田は他の強国に比べて低い国力で無理してたと思うし、
一般的な武田のイメージだと過大評価だとは思うが、
実際に武田に勝った織田のファンが、わざわざ武田を過小評価する意味がわからん。
だから厨なんだろうな。
87 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 18:11:03.86 ID:msULOAdP
勝ったというか、一蹴しただけなんだけどな
そもそも勝負にすらなってない
88 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 18:32:52.82 ID:X/THL6S0
勝ったからこそ持ち上げる必要がない
大したことない人物が、まるで神話に匹敵する人物のように持ち上げられるのは
李舜臣をはじめ某国のお家芸だからな
畏敬され崇拝される人間は人の模範になるような人間でなくてはならんのに
弱い者いじめが得意で敵の娘を強奪して側室にするような性豪独裁者なんぞ反面教師にすべき存在だ
89 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 19:14:42.18 ID:f8wTjjQH
2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
晴豊記 2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14 この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
フロイス日本史 3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。
ttp://maechan.net/kanreki/ 兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
90 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 19:15:42.89 ID:f8wTjjQH
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、さらに様子見で軍を出すのを延期。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解(高遠城で百人討ち取られただけ)
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
91 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 19:16:39.71 ID:f8wTjjQH
公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。
フロイスがなんで神の起こした災害の場所へ恐れを抱かず
信長が進んで行くのか疑問に思っていたが・・・
立入左京亮入道道隆佐記には浅間山噴火を見た信長について書いている。
信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬
はい、信長が火事場泥棒をしようと他国の災害を大喜びしていたのが確定w
先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。
92 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 19:17:25.70 ID:f8wTjjQH
浅間の獄の焼けるは東国の物怪(もののけ)とまで、
興福寺の僧侶は古人の言葉を引用してまで、
物の怪の怒り暴れる姿に恐れを抱いた。
中世における地球の活動から来る天変地異は、
物の怪と解釈されパニックとなったのである。
しかし凶悪極悪犯罪者にとっては、
そこは略奪虐殺三昧の治安崩壊地となるのであった。
天変地異を世界の滅亡と捉え恐れる良民とは実に哀れなものである。
実際に反社会的性向の札付きのワルの織田軍がこの世の終わりを現出させるべく、
考えられる限りの悪逆無道な行為をして回ったのだから。
大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw
江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。
93 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 19:20:10.45 ID:+dM6Y0Oh
反武田厨は信長を貶めるようなことを平気で書くから気に入らん。
>>87 残りカスの掃除自体を自慢してどうするw
長篠から7年、相手がボロボロになるまでずっと待てた戦略眼が信長の凄さなのにw
>>88 倒した敵を貶めるのは、その某国では強さの証だけど、
日本では品の悪い行為として蔑まれる行為です。某国人には理解できんだろうがな。
>畏敬され崇拝される人間は人の模範になるような人間でなくてはならん
信玄の悪口と見せかけて信長もディスるんじゃねえよ。
>>89-92 だから何?
94 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 19:21:56.65 ID:f8wTjjQH
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
95 :
人間七七四年:2014/02/23(日) 08:18:36.97 ID:RgXjAnTu
96 :
人間七七四年:2014/02/23(日) 12:58:30.91 ID:NjXX18Ms
信長が父の姉妹のおつやの方を磔にして殺したのは悲劇というより残虐と言える。
97 :
人間七七四年:2014/02/23(日) 13:19:00.45 ID:I5gxa/I0
長篠で大惨敗した武田勝頼が後詰出来ずに見捨てるはめになった岩村城か・・・
まぁ、そもそも武田みたいな外道に関わったのが運の尽きだったな、身から出た錆だ
98 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 16:43:48.00 ID:4oj9do23
濃姫って信長の半年に及ぶイジメから義龍の妻をかばったから、
激昂した信長に殺されたんだろうな。
99 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 16:48:52.97 ID:ztofRaFz
また妄想か
100 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 19:57:08.61 ID:mffbT7qU
>>98 勅使の眼前で信長を非難し面目を失わせ恥をかかせてるから
濃姫を殺して鬱憤を晴らした可能性は高いだろうね。
これを最後に濃姫は記録から抹消されてしまうもんね。
101 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 19:59:22.91 ID:oBwHR06f
そんな脚本じゃ誰も見ないよ
102 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 18:44:37.93 ID:HQuK4yhR
原因つくったのは信玄だけど対処する甲斐性がなかったのは勝頼。
謙信がまだ生きてて本願寺に手を焼いてるときの信長に土下座決め込めば
少しは違っただろうに。謙信が死んで石山も片付きそうな頃合いで慌てて関係修復しようとして
後の祭りだったのは弁護できない。
103 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 09:18:31.64 ID:Z77xVECI
信玄が「HEY織田!徳川なんて捨てて俺と一緒に組まない?」
路線でいけばよかったのに変に欲を出したのが悪かった。
104 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 22:05:45.81 ID:VMLM0BMf
案の定織田厨の妄想糞スレと化したね
105 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 23:15:20.73 ID:ERmE4Ae4
信濃は大国、されど大国3個分の広さがある
106 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 12:35:31.52 ID:ouJzm7E6
国土が広くても山ばかりじゃん
107 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 14:52:48.96 ID:FMBAiCO6
信玄にも原因はあるが勝頼が信玄より有能だったとは思えない
勝頼の場合、軍事的な部分は優秀だけど政治家としてはいかん。
108 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 15:18:58.73 ID:J5zBV2nv
109 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 15:34:04.73 ID:A79Dox44
勝頼は外交的に後手に回りすぎていつも失敗する。
御館の件もそれ以前から北条との関係が微妙だったのが大きいし。
北条と関係破綻する見通しが高いなら先手うって織田に頭下げるべきだが
結局、後手後手で織田が許すはずもない。
まだ謙信生きてて織田も苦しかったときに復縁せまればマシだったろうに。
110 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 23:56:43.15 ID:FMBAiCO6
勝頼は外交が下手。
武田滅亡の原因は信玄にもあるが勝頼は悪くないってのは間違い。
ちなみに総合評価で信玄>勝頼は明らか
111 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 20:11:19.79 ID:Ut2KYJ8d
信玄>勝頼と生前の功績だけで能力を決めるのは早計
勝頼は織田徳川北条上杉と大勢力に囲まれて集中攻撃食らった上での滅亡だから
信玄が戦っていたような諏訪村上高遠みたいな弱小豪族とはレベルが違う
端的に言えば信玄が滅ぼした勢力は勝頼が当主でも滅ぼせた可能性が高い。
外交の失敗に関しても信玄も同じように失敗して周りに敵を作りまくっている。
勝頼と違って自ら挽回したわけではなく外的要因が重なったうえでの幸運だからこれも評価点ではない
しかも勝頼は顕著な負け戦が長篠と甲州征伐しかなく、相手が悪かった節も強い。
この点でも村上のような小豪族に2回も負けた信玄とは差が顕著。
実態は勝頼≧信玄がせいぜい
112 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 08:28:18.33 ID:DXIRw7IK
武田信玄は一定の成果を挙げるとことは出来たが
家を軌道にのせることはできなかった
周辺大大名と関係が悪いまま死んでしまったのも悪かったな
せめて徳川家でも滅ぼせていれば事情は変わってきたろうが
当時では標準的な寿命までいきて結果を残せなかったならこれ以上はない
113 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 08:51:38.17 ID:3Z8a5RPz
家臣に殺され、家臣に家を乗っ取られた信長ほどの無能はないだろ。
武田も上杉も北条も家を家臣に乗っ取らるようなザルでマヌケな統治体制では無かった。
そりゃそうだ足利幕府体制に寄生虫や宿り木やコバンザメしてたのが信長だから、
当主は義昭でも信長でも柴田でも秀吉でも誰でも良かったんだから。
114 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 09:48:16.58 ID:La6ZyuQ6
. |___
. / (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/ / \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
| | | |
___/ /__.| |___
// //
(Ξ´ ‘ミ)
. |J( 'ー`)し 遼太ごめんね突然来ちゃって
. と ノ お父さんも後から来るわ、話があるって
. | /___
. / (^ )彡 !?
/ / \
/ | , / ))
____/ /| _/ /___
 ̄(⌒__/
 ̄
. |
. |彡サッ
. |__
/ ( ) 勝手に入ってくんじゃねぇババー!
/ γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
7``) / / \
.`ヽヽ / X ミ ヽ
ヽ___ノミ\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
115 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 10:51:30.04 ID:FTQN9Rf0
信玄と勝頼の能力比較で言うなら家中の統制を効かした分だけ信玄の方が上じゃね?
親父追放したり義信自害させたりと信玄も色々と家中割れそうな火種起こしたけど
勝頼の代の甲州崩れみたいなことになる前にけりつけてるし。
穴山一派を先手うって粛清するだけの胆力が勝頼にはなかった。
116 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 13:44:49.92 ID:3Z8a5RPz
信玄は蟄居させただけ。
息子を自害させたのは家康。
弟を暗殺したのは信長。
信玄は義信正室の病の平癒を願って大規模祈祷させてたり、
正室の座を保証して、今川との同盟継続を証としていた。
しかし今川側が帰国させることを要求し、
信玄は同盟手切れを恐れて難色を示していたし、
今川側は帰国させるや国境封鎖し敵対開始してる。
信玄は今川を敵にしたく無かったが、
今川側は上杉と組んで挟撃する気まんまんだった。
今川が徳川を撃ち領地拡大させることに失敗したので、
武田を撃ち領地拡大する方針に政策変更したのがわかる。
117 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 08:22:46.63 ID:4Gz474uR
家臣に下克上されて殺されたヤツが一番無能。
主従関係ゆえに仕方がなく従ってきただけの関係で、
人心を得ていなかった証拠。
118 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 12:37:21.79 ID:SIkwUFO4
>>116 今川が義信正室を返却するように強硬に主張したから、
信玄は同盟継続の誓詞を出してくれるように頼んだので、
今川はそれを出したんだが、
あろうことか秘密同盟を結んでいた上杉に対して今川は、
やむなく表面上、武田に誓詞を出しただけですから疑わないで下さいなどと、
武田と今川間でのやりとりを全て上杉に報告してる背反行為してるからね。
のちに越相同盟提案した氏照が上杉に対して今川が上杉に内通していたから武田に攻められたって言っているのはこのこと。
まー今川としては義昭指導の越相甲同盟の噂が事実かどうかも上杉から聞き出したかったって気持ちもあったようだが。
北条も上杉も今川に教えず隠していたどころか、
今川に内緒で上杉は徳川とも同盟することになるしな。
今川が馬鹿外交をしていたのは間違いない。
119 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 20:42:42.07 ID:3NQ6vLHz
こいつが金山枯渇させた事によって
勝頼は偉い苦労を背負わされるはめになった
長篠で織田・徳川連合軍に歴史的大惨敗を喫したのも
元はといえば、信玄が同盟国だった織田を裏切ったせい
北条との手切れも、財政破綻寸前の武田家を救うには
上杉景勝の賄賂を受け取るしかなかったからだし
武田滅亡は、何も得るものが無かった西上作戦での散財と
天下人確実の織田信長という化け物を敵に回してしまった事が原因
120 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 01:28:55.73 ID:X3FEP0gE
はいはいデタラメ乙w
金山枯渇の根拠である景勝からの賄賂からして、
軍記にしか出てこないネタ。
むしろ一次史料では真逆で勝頼は、この後に景勝に対して兵糧援助する側。
それに武田は裏切られた側。
約束を反故にして今川氏真をひそかに助命して北条と手を組んだ織田徳川の悪辣さは非難されていい。
121 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 09:54:06.74 ID:0UH5ie2f
自分が騙されると卑怯、自分が騙すと戦術だ!相手が悪い!
ようはダブスタ
122 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 12:05:21.14 ID:v+CQDghS
菅沼遼太理論だと信玄の謀略は綺麗な謀略
123 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 19:03:51.70 ID:0D5Wcx9N
124 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 21:21:46.51 ID:qFsLmREP
信玄の方が比重重い
125 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 23:56:52.83 ID:MvNZtqZf
>>124 比重って、意味わかって書いてるのかな?
126 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 00:31:55.97 ID:rwgsveWM
信玄のほうが筋肉質だったって言いたいんじゃね
127 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 19:35:21.77 ID:oNk3czD2
128 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 16:26:55.78 ID:2Rl6cxf2
信玄が招いた武田滅亡とか織田厨の妄想もいい所だよな
むしろ信長の方が織田崩壊の要因作りまくってる
129 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 17:30:49.83 ID:YjOSTzuD
だがチョンw
130 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 20:20:16.31 ID:7v+7/Hor
せめて勝頼、という名前を変えてあげればよかったのに。
諏訪家の「頼」をはずして「義」か「信」をいれた名前にかえとけば
少しはマシだったかもね
131 :
人間七七四年:2014/04/28(月) 08:50:21.60 ID:0/f6e6a+
将軍から名前をもらったならまだしも、
とっくに成人してるのに、
なんでわざわざ必要性もないのに、
名前を変えなきゃならないんだよアホか。
132 :
人間七七四年:2014/04/28(月) 15:33:50.81 ID:5cqYOtwi
信玄は周囲を敵だらけにして死んだような気がするが、どうなんだろ
勝頼が仕切るようになってから、北条を牽制できる佐竹と同盟結んだりと
立て直しを図っているようだが
133 :
人間七七四年:2014/04/28(月) 16:22:55.98 ID:MyEvKBgS
義昭による甲越同盟と、
北条との同盟があったし。
134 :
人間七七四年:2014/04/29(火) 04:49:56.29 ID:mW5o956B
基本的に武田は信用性ゼロだから
劣勢微弱になれば同盟破られるのも当然
なんせ信玄が好んでやった手法だしな
135 :
人間七七四年:2014/04/29(火) 09:03:36.89 ID:wkOAVZuE
信用ゼロは信長だろw
敵どころか味方からも信用されずに、
謀反だらけで結局、火刑で謀反死w
136 :
人間七七四年:2014/04/29(火) 09:12:02.15 ID:9Vgi7A6z
信玄が上洛しようとして多額の金を使ったにも関わらず上洛に失敗したからというのが大きいから
原因は信玄が上洛したこと
137 :
人間七七四年:2014/04/29(火) 12:50:30.63 ID:6+emXjws
金が尽きて上京焼き討ち略奪虐殺脅迫して金を工面したり、
安土城築城みたいな無駄金の浪費をしたバカw
兵庫などを焼き討ち消失させたり、
聖徳太子時代から残っていた四天王寺を消失させたりして略奪虐殺三昧で金を工面する現地調達という名の盗賊犯罪集団。
138 :
人間七七四年:2014/04/29(火) 21:32:55.61 ID:BpRsCUcF
負の遺産がっぽりだしな
139 :
人間七七四年:2014/04/30(水) 00:35:51.25 ID:ACrnKTc7
>>134 家督親父から強奪して最初にやったことが妹婿を騙し討ちだからな。
140 :
人間七七四年:2014/04/30(水) 17:04:57.49 ID:ZBrWGF37
>>139 そりゃ諏訪が信濃に関東管領山内上杉の大軍を招き入れて、
武田と村上を危機に陥れたんだから、
諏訪攻め開始するのも仕方が無いだろ。
141 :
人間七七四年:2014/05/01(木) 18:33:08.05 ID:VztsT3rB
信玄が婚姻させた娘婿どもすべてが甲州征伐で敵に回った現実w(婚約だけの信忠も含む)
良く言えばやばそうな奴を見極めてたとも言えなくはないが
142 :
人間七七四年:2014/05/02(金) 01:07:57.76 ID:btdF1K2p
そりゃあ天変地異がおきて領内パニックだもんな、
もはや各自、独自に生き残りを図る段階に至ったらしょうがない。
143 :
人間七七四年:2014/05/02(金) 08:55:23.13 ID:YQITnusH
また被災地に進軍するチート軍隊か
144 :
人間七七四年:2014/05/02(金) 20:09:54.32 ID:C1Jqb9J+
東海大地震の大津波でパニックになった伊豆を火事場泥棒した早雲よりも酷い犯罪者信長
145 :
人間七七四年:2014/05/02(金) 20:19:59.06 ID:95YW4QXK
菅沼遼太理論だと織田軍はサイヤ人揃いのチート集団だから
こんな織田軍と敵対した信玄がやっぱり悪い
146 :
人間七七四年:2014/05/02(金) 20:39:25.51 ID:T13s7X8u
>>144 被災地復興に人員を割かれて中央が手薄になったなら自業自得だな
その後荒れ果ててるはずの被災地を必死に奪いあう徳川と北条w
147 :
人間七七四年:2014/05/02(金) 20:40:25.54 ID:T13s7X8u
>>145 織田から見たら武田の騎馬隊(笑)は髪を金色にして光ってるよw
148 :
人間七七四年:2014/05/03(土) 10:22:20.95 ID:+8pCn3W3
>>146 奪い合いどころか、
全面戦争してまで手に入れる価値なしと判断し、
早々に引き上げた北条w
149 :
人間七七四年:2014/05/07(水) 18:41:19.55 ID:E+9DK/pL
そりゃまあ北条にしたら武田でも徳川でも中央の盾になってくれればOKだろうからな
150 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 02:09:31.71 ID:9536SMvx
義信の謀反失敗の件だが信虎ならとにかく領国をがっちり固めていた信玄相手に
それは無謀だっただろな
確かに勝頼でうまく回せるように後継者が円滑に統治するための準備をろくにしなかった信玄も
信玄だがそれでも譜代の家臣に侮られて信勝までの貢献という立場を忘れて熱くなって失敗した
勝頼も勝頼だと思うぞ?もう少し頭を冷やして親父に習って家臣の意見を聞き入れる度量があれば
よかったんだろうが 今の人間に多いのは勝頼みたいなタイプだろな
言ってみたら信玄はバランス型人間だが勝頼は体育会系的な奴だったんだろう
151 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 02:17:07.88 ID:9536SMvx
たぶんできすぎた信玄より今の人間が同情できるのが勝頼の方だから勝頼の方が実は優秀だった
なんて見方が多いんじゃないのか? でもどう考えても勝頼が信玄より優秀だったとは思えん
実際はもっと優秀な人間だったとしても家臣の依怙贔屓、兵力差は歴然としていたにも関わらず
いたずらに戦い家臣団を壊滅させた長篠の戦い、最後も家臣のほとんどに裏切られ自害
これでも勝頼の方が優秀か?
152 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 02:43:11.74 ID:fSUhX8/U
死後のやらかしがなければ信玄の方が優秀と言えるかもな
家臣は別に当主の資質関係なく裏切るからまだ同情の余地はある
天下人の家康ですら離反されまくってるしな
153 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 02:43:39.41 ID:fSUhX8/U
死後→死前
154 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 08:03:57.24 ID:PC20T7sk
勝頼陣代説って今はもう否定されてるんじゃないの?
155 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 10:08:13.49 ID:7O1geeqx
生前にきちんと家督は譲られたの?
156 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 12:29:39.85 ID:FnFXDt8r
勝頼が諏訪のまま信玄は死んだ
これは信玄が自分の死後を考えていなかったか、あるいはもっと長生きをする予定だった
157 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 15:56:15.54 ID:9536SMvx
最近は西上作戦も実はただの徳川領侵攻だったって説もあるが
それならまず浜松城せめて家康殺してるだろあんなに西に急いでない 歴史学ってのは言ったもんがち
みたいなとこあるから証拠出てこん限り信用せんほうがいい
158 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 18:07:06.87 ID:Yi2dxqud
浜松じゃなくて岡崎蹂躙して離反を煽るってすぐ思いつく戦略じゃないか
159 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 18:39:26.16 ID:9536SMvx
それでも信長包囲網が健在なうちに将軍を助ける名目で一気に上洛するってのも
自然な話だ
160 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 18:42:28.27 ID:9536SMvx
対徳川が目的なら家康先に倒して本拠の浜松先に押さえた方が
どっからどう見ても早いだろ そうすれば三河の諸勢力もついてくるのも増えるはず
161 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 21:32:01.18 ID:fSUhX8/U
その通りだな
家康の首を取ってしまえば、支配の浅い遠江勢力は一気に武田に靡くし
三河勢力も遠からず武田に下るのは容易に想像できる
事実、三河の奥平氏は信玄がくるや武田に降伏するも、武田が撤退するとあっさり徳川に鞍替えした。
信玄が家康を攻めなかったのは、信玄が馬鹿だったか、あるいは家康が持ちこたえられる戦力を有していたかのどちらかに他ならない。
162 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 22:36:59.85 ID:MbJrq5Me
西上も家康打倒も考えてないってこったな
163 :
人間七七四年:2014/05/23(金) 08:52:42.05 ID:PiT2+SZO
信玄は普通に東美濃侵攻を開始してただろアホか。
164 :
人間七七四年:2014/05/23(金) 13:24:31.00 ID:byY3tGeF
165 :
人間七七四年:2014/05/23(金) 17:28:04.72 ID:vBHZmkQz
>>150 まさか長篠は勝頼の一存で突っ込んだとかいまだに信じてる人?
166 :
人間七七四年:2014/05/23(金) 19:59:59.13 ID:b+G7iRfG
167 :
人間七七四年:2014/05/24(土) 02:33:50.78 ID:epElFOeh
信玄の最後の行動は、死去する直前の遠江・三河・美濃方面への行動、いわゆる西上作戦である。
これは、石山本願寺などから織田信長との対決を要請され、不本意ながら引っ張りだされたのである。
つまり、これもまた、政治情勢の産物なのであって、信玄がこの方面への勢力拡張を望んだわけではない。
信玄がどのように「引っ張りだされた」かについては、必ずしも十分に説明することができないが、
西上作戦の直前に信玄が僧正に任ぜられたことは、引っ張りだし工作の一つではないかと思われる。
信玄が京都に届けた手紙(『山梨県史』資料編5、2614ほか)によれば、この話をもちかけたのは、京都側からであった可能性が高い。
そこまでされてしまっては、ということで、信玄も腰をあげざるをえなかったのだろう。
以上のように、上野進出から後の信玄の行動は、どれも征服欲とは関係がないと、考えられるのである。
(鴨川達夫『武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』より)
なお、同著者は『武田信玄と勝頼』という本も書いており、こちらも信玄のことを知る上で大変ためになる本です。
168 :
人間七七四年:2014/05/24(土) 18:46:31.41 ID:vDjpYSU+
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターンは毎回下記のように家康攻略が目的と話を強制的に変更させる。
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」 などと誤魔化すばかりである。
実際は鴨川氏は『武田信玄と勝頼』という本において
「信玄が三河方面に出てきたのは信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」と書いており、
森田氏もそれに同意し「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
書状において3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
なお『武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』において鴨川氏は、
元就や信玄の領土拡大を「防衛のための進出」
なる意味不明な概念を持ち出し、それを証明するのに
いきなり第二次世界大戦の日本海軍における対米海軍との戦いにおける島嶼進出を
持ち出すキチガイっぷりを晒し、他の学者から黙殺されるほどの失笑を買う。
また山梨県史において鴨川が執筆した内容は、のちに柴辻氏が反論をしたが、
鴨川はそれに対して反論できない体たらくを発揮。
169 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 00:51:18.50 ID:ODgmeTwX
だが涙目agew
170 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 01:29:45.53 ID:oiLOvlmT
信玄が、三方ケ原で家康を見逃したのは、信長との決戦のための
兵力温存かもしれない。織田と武田の国力差は、すでに、織田がリード
しており、その差は大きくなりつつあった。まずは、戦で信長を
三方ケ原の家康のように、完勝するか、首をとるか、するつもりなら
よかったのだが、途中で死んでしまったので本音はどんな考えだったのか
聞けないからな。
途中、信玄の寿命が尽きてしまったが、それなら、最低限、家康の首を取って、
勝頼を正式の跡取りと公表しなかったことが、武田の崩壊につながる。
171 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 03:30:29.19 ID:iHvQQHx4
そもそも最初から勝頼が総大将なら信玄が死んだくらいで撤退する必要もなかったわけで
172 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 08:08:41.93 ID:RC0RbRK6
信長が動かない
ー>ビビってる、物資が不足してる
信玄が動かない
ー>兵糧十分虎視眈々と攻める機会を伺ってる
ダブスタ
あと鴨川採るなら否定した芝辻の上洛説も否定だろ
前は反論済みだの言ってたのに
武田中同士で擦り合わせしとけよ
173 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 11:32:07.80 ID:OCw7fjmh
いや誰の説とろうが上洛だけはないからw
174 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 13:17:19.59 ID:UWEjeJZ2
?前は反論済みだの言ってたのに?
はぁ?なに寝ぼけてんだアホw
175 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 14:44:13.58 ID:JjV9wiOQ
176 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 19:56:14.39 ID:JjV9wiOQ
まとめると
・上洛説はない。誰が何を言おうがない。理由は今川同様、物理的に不可能だから。これは確定。
・信長打倒説は、信玄が美濃を攻撃していないこと(岩村城の寝返りならある)、
勝頼が美濃を攻撃したあとに続けて美濃を攻撃せず、徳川方面に出兵していることなどから説得力が薄い
・家康打倒説は、家康の居城である浜松城を攻めていないことからほぼありえない
・よって現状では、「信長も家康も倒そうとしていない」説が有力となる。
177 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 20:20:01.99 ID:/cSBJ0Dv
結局信玄は何がしたかったんだ?
178 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 22:35:06.77 ID:at6h59bm
哀れ涙目織田ちょんw
179 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 00:09:29.11 ID:bOl9WVh9
でもさ、歴史の結果知った上で書くと、当時の武田家のガンは穴山なんだよ。
なぜ、信玄は、上洛の前に、勝頼を跡継ぎに決めなかったのだろう?
もし、決めたら、穴山がやってられないと言って謀反でも起こすことが在り得た
のだろうか?義信の件で、穴山の弟が切腹させられ、心情的にそう簡単に、
勝頼に従いたくはなかったのだろうか?
180 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 05:27:05.90 ID:XDMgrguE
お父ちゃんちょっくら遠江齧ってくるわ的な?
181 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 08:29:46.29 ID:Hazw9uc1
>>174 反論済みってのが織田厨の願望妄想だもんなwww
そんなレスは無いのにwww
182 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 08:46:43.41 ID:U17kB/54
信玄がバカすぎるせいで武田が滅んだという事実を受け入れられずファビョる菅沼w
183 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 19:33:59.66 ID:oqvSTtG4
>>180 まず武田と織田との間には、全面戦争するような要因は見当たらない。
よって武田が出兵した理由は、足利義昭や本願寺、浅井・朝倉などが求めたから、ということになる。
一方、武田と徳川の間には、
・今川攻めの時、家康が盟約を破って氏真を見逃した
・駿河と遠江の国境で、武田と徳川のいさかいがあった
といったものがある。
つまり、武田が出兵した理由は、徳川に対する報復。
織田に対しては、徳川ほど積極的に攻撃するつもりはないが、徳川の同盟者である以上ある程度の備えはしておかなければならない。
こう考えると、勝頼が織田のことを徳川ほど積極的には攻撃していないことに納得できる。
184 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 08:36:15.17 ID:pB11Z7EO
>>176 信玄は三方が原でに戦勝直後に何で浜松城攻囲しなかったんだろうな
徳川と講和するわけでもないんだから一番ダメージがあるのは浜松攻囲なんだが
まあ兵糧不足でやがて撤兵するのは変わらんだろうけど
185 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 12:16:04.16 ID:zLvRTVI5
織田の援軍が怖いから
朝倉が撤兵してる情報も掴んでるし、織田軍来るかもしれない
勿論こないかもしれない
わからないから最悪の事態に備えて、山際を行軍
三増やら砥石やらの敗北から学んでたんだろう
186 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 16:39:17.13 ID:h2N1WltZ
織田の援軍を撃破したじゃんよwww
しかもフロイスが織田軍の総司令官佐久間とまで書いていた、その佐久間信盛を鎧袖一触だからなw
東美濃に侵攻するために北上しただけで、
浜松なんて興味あるわけねーだろ。
187 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 17:55:20.48 ID:9KDmfJCt
それなら野田城なんかにちんたら一月も時間かけてることの説明がつかない。
188 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 18:07:53.31 ID:/zkBUDhC
織田とやる気以外で浜松スルーした理由がわからないな
単に徳川領に侵攻しただけなら浜松降したら三河の残党なぞたかが知れてる
織田が援軍を送ってくるのならそれこそ好都合だろw 長篠と違って長島も健在なのだし
189 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 18:09:52.70 ID:/zkBUDhC
>>187 信玄が虫の息だったから移動もままならずちんたらやってただけだろ
190 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 20:05:59.21 ID:gSfazCEe
勝頼が総大将なら信玄だけ療養させて軍を進発させることが可能
やっぱり信玄が悪い
191 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 20:29:36.53 ID:OYtjMkiH
>>186 佐久間の兵力は3000。
総司令官だか何だか知らないが、地位は何も関係なし。
192 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 21:18:09.27 ID:F2+h0+wS
佐久間は20000くらい持ってるだろ。
平手滝川水野前田弟と層々たるメンツだし。
193 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 22:51:15.24 ID:9KDmfJCt
滝川は信頼性の高い資料では参戦していない
前田弟なんて勘当された出戻りで雑魚もいいとこ。
194 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 22:54:22.30 ID:9KDmfJCt
菅沼くんは三方が原の織田援軍2万を主張するが
それってそれだけの大勝利を政治的にこれっぽっちも生かせなかった
信玄の無能さを証明するだけだよね
195 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 23:07:15.77 ID:OYtjMkiH
>>192 なら柴田も2万近く、信長本体はもっと持ってるってことでいいですかね?
当然他の武将もそれ相応の数の兵を抱えてて、織田軍は天正年間以前から10万近い動員兵力があることにw
とてもじゃないけど信玄が上洛を考えられるような状況じゃないwww
196 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 23:14:08.81 ID:9KDmfJCt
つか前田弟ほかは信長のとこ首になって徳川に世話になってる身分だから
織田援軍のうちに入らんわな
197 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 23:22:54.95 ID:EyQ+15nL
空城の計を見破ってても浜松城は素通りしたかな?
それ以前に、空城に引っかかってしまったのも、いかがなものかと思うがな。
198 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 08:51:36.38 ID:gLkiqndI
雪解けで東美濃の峠越え可能時期を待ってたから野田でのんびりしてたし、
織田3000の援軍はだいぶ前の話で、
のちに出陣した佐久間らの援軍の兵力のことでは無い。
199 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 09:56:53.56 ID:E1/31HxO
兵力差無謀な上洛作戦
冬に長期の戦争で体を壊して死去
老い先短い自分に権力を集中して跡継ぎの権力ゼロ
やっぱり信玄が無能だから滅びたんだね
せめてもの救いは織田に首を取られずに済んだこと
ああでもそのせいで武田は勘違いしちゃった結果長篠だっけ
どっちにしろ信玄が原因だな
200 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 11:57:28.14 ID:9PZLLlsX
>>198 >>195にさらにプラス3000までしちゃうの?w
これはすごいな
信長はどこに兵力を隠しもっているか分かったもんじゃないw
201 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 17:00:58.20 ID:DVj+klNt
三方ヶ原で大敗した織田の援軍。
その結果、味方は細川と荒木だけしかいなくなり、
1万しか兵力がなくなってしまった信長。
武田軍の6万の兵力にびびって震えてた。
202 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 18:01:52.19 ID:E1/31HxO
6万と1万でビビって野田城で時間潰して野垂れ死に
無能すぎて笑いが止まらんな
6万VS1万とか6万の総大将が今川氏真でも勝てるだろw
信玄はそれ以下とかw
203 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 19:10:59.68 ID:cLqI/hxT
>>202 信玄は明らかにそれ以下ですが
川中島でバカげた戦いを5回も繰り返すなんて明らかに無能です。
204 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 20:02:41.19 ID:MYC4DgDL
>>203 相手より多い兵で峠に陣取ったのに何もできずに壊走した氏真がなんだって?
205 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 20:37:17.28 ID:qXFGaU72
ぶっちゃけ武田が引いたら早々に徳川が奪還行動に移れた当たり
三方が原の徳川のダメージは長篠の武田のダメージより遥かに軽傷なんだよね
206 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 22:08:38.34 ID:3ygWIBdB
>>201 おいおい、まだ柴田2万と信長本体数万、ほか色々な家臣が残ってるんだろ?
自分の言ったこと忘れちゃいかんよw
207 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 23:05:46.35 ID:adswbvGj
伊東潤の天地雷同おもしろかった
208 :
人間七七四年:2014/05/29(木) 08:54:26.72 ID:shgVhN71
>>206 それは武田厨を装うアンチ秀吉の織田チョンの根拠ゼロの書き込みだろがw
近江の国人たちは誰も援軍にくることがなく、
長政に志賀郡を奪われ、その攻略にきた明智軍が崩壊したから、
さらにその援軍に出た柴田も大苦戦してボロボロになってたじゃんwww
しかも街道が封鎖されてしまい、信長も誰が味方か見分けもつかないと、
細川に泣き入れてたじゃんwww
209 :
人間七七四年:2014/05/29(木) 12:04:34.29 ID:qxo9rGeJ
>>208 じゃあ三方ヶ原の織田援軍は3000しかいないってことでよろしいですね
210 :
人間七七四年:2014/05/29(木) 12:17:58.06 ID:zQYWUPXD
>>205 この辺の反信長連合は切羽詰まってるからなー
なぜか近江で朝倉が織田に大勝して近江が朝倉領になったり
朝倉が取った近江のうち、志賀郡がその後なぜか浅井の領になっていたり
辻褄通らなさ過ぎてもう滅茶苦茶
三方ヶ原の合戦も武田が誇張しすぎて実害大してないってのはあるだろうな
でなきゃ信玄がそのまま浜松せめて家康の首取って終わりだし
211 :
人間七七四年:2014/05/29(木) 19:15:11.60 ID:Q1PBH46G
>>210 確かにな
武田、徳川共に武田が大戦果を挙げたが、徳川を畏れて浜松城攻めが出来なかったで一致しているのが却って怪しい。
本当に武田が大戦果を挙げているのなら、浜松城は鎧袖一触で三方が原の戦いの後に陥落している。
空城の計で浜松城を攻められなかったっていう言い訳はろくに徳川軍に損害はありませんでしたという言い訳だろう。
武田が忍者を雇っていなかったというのならともかく、戦国時代に武田の忍びは三つ者とも言われ優秀さで
北条の風魔や上杉の軒猿としのぎを削った存在だからな。
そんな武田忍びが徳川軍の大損害に気づかないわけがない。
212 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 06:13:59.11 ID:CPdLBPQR
忍びは、戦前の情報収集には優れているが、戦の最中で、浜松城が空城だったか
どうかまでは、難しいでは?
むしろ、三方ケ原では、実践でわきから、手裏剣などを使って戦っていたのでは
ないかと、思うのだが・・・。イメージでスマソ。
213 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 08:42:38.03 ID:9bbg4fvX
空城の計とやらの一次史料を出せよwww
信玄は家康は信長の属国とみていたから、
家康の氏真助命の背反行動の件で信長を非難したりしてるわけで、
東美濃に侵攻し岐阜を落としてしまえば、
三河なんて勝手に落ちると考えていたから、
陽動で三河に侵攻し織田の援軍を破る目的はあっても、
浜松を攻める理由なんて最初からねーんだよ。
214 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 09:07:21.46 ID:Mwr8+BQH
>>211 つうか放置する理由がない
仮に信玄が本気で上洛するつもりでいたとして、
徳川領を放置すれば空っぽの自領に徳川が攻めてくるのは猿でもわかる
だから最低でも、信玄は家康に降伏か同盟を迫り
北条の援兵のように徳川軍を自軍に取り込むくらいはすべきだったわけ。
ところが信玄は三方ヶ原の後にそんなことは一切していない。
家康を攻め滅ぼすか、自軍に取り込むかの二択しかない状態で両方を選択しないなんて
ハナから上洛の意思がないとしか言えない。
もっと言えば上洛する気があるなら最初から東美濃通って織田に速攻かければよかっただけだしな
215 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 09:31:11.03 ID:MM5HLNr9
本気で織田とやる気があるなら朝倉が撤兵するまえに東濃に戦力集中させるわな
216 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 09:39:45.56 ID:9bbg4fvX
信玄は本命を攻める大作戦の前にほぼ必ず陽動運動をする。
上杉相手に東上野から一気に北信濃へ
北条相手に小田原侵攻から一気に駿河攻めへ
織田相手に三河から一気に東美濃へ。
特に先鋒の秋山隊がすでに東美濃へ3/6に出陣命令を受けていた。
フロイスも6万を率いる信玄は尾張美濃を奪うつもりだと書いている。
217 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 16:45:13.95 ID:CPdLBPQR
>>213 2ちゃんに、一次史料など必要ね〜よ。
2ちゃんに、何を求めてる?
それから、戦なんて予想通りいかないもんだよ。
だから、確実に徳川を倒しておかないのは、史実を知ってる現代人からみれば、
当然の疑問。
空城の計に関しては、おそらく、山県か、馬場か、勝頼あたりが、浜松城
付近まで攻め込んだが、城が空きっぽく、一応、信玄に報告したら、
浜松城は捨て置けってことだろ。こんなことに、史料などいらない。
それなら、お前の予想にも史料だせ。
いらね〜けどな。
218 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 16:49:39.40 ID:ve8w8q3p
実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている。
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時の」2/16には
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
(信玄が病を押して出陣したなどと書いてるのは甲陽軍鑑のネタで、
病が重くなってきた信玄が三河から引き上げて甲斐に戻るも、病が小康状態になったので
信長を倒すために美濃岩村へやってきて、織田軍1万を粉砕するも病が悪化し死んだと書いてる)
219 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 17:00:00.33 ID:EScj/et4
220 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 17:22:51.54 ID:4/w15knz
森田ってだーれだw
221 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 17:30:04.15 ID:K5yysGHB
滅亡の原因作ったの俺だったわ
いや〜わりいわりい
222 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 22:12:40.81 ID:Mwr8+BQH
>>216 そんなチンタラしてたから兵を引いたんだなw
無能すぎて笑える
223 :
人間七七四年:2014/06/04(水) 19:37:52.91 ID:4fm5ysDH
浜松を落としたら三河を通過するのは楽になりそうだけどな
家康がどうなったかによって徹底抗戦する奴も中にはいるだろうが降る奴のほうが多いだろう
上洛にせよ徳川領侵攻にせよ織田との決戦にしろ東に向かうのなら浜松を落とさない理由は無い
空城の計とか嘘っぱちで、浜松城にはかなりの兵力が温存されてたor大部分が退却できたのかねえ
224 :
人間七七四年:2014/06/04(水) 20:20:05.81 ID:5bqoofoJ
菅沼くん風にいうと
「信玄がビビっていた」
225 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 09:01:48.25 ID:OYcfjR5g
信玄は兵士の消耗を避ける傾向が強く、
高天神城を無理攻めで落とさなかったのもそのため。
三方ヶ原で織田徳川を破って、家康を浜松に逼塞させた時点で、
陽動という戦略的目的は達したので、
斎藤や遠藤などの調略の進んだ本命の東美濃へ侵攻するべく北上しただけ。
信玄は目先の戦果を追う犬ではなく、
戦略的見地から用兵している。
226 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 09:56:59.31 ID:B22hWKkk
今って美濃侵攻説撮ってる奴っていたっけか
227 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 13:35:25.72 ID:/s1LI9bV
弱冠26歳にして2万五千の武田を一蹴した信忠神
手持ち一万そこそこの31歳若輩家康を半年もかけて致命傷すら
与えられない53歳無能ビビり
228 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 14:45:44.34 ID:/Tj3zxay
信忠が倒したのは仁科数百のみ。
武田軍はほとんど離反や逃散して戦ってない。
唯一抗戦した仁科数百に信忠数万の大軍は野戦である城外戦でもって最低4時間も粘られ
一門の信家が討ち取られる始末
229 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 15:04:00.77 ID:/Tj3zxay
勝頼はまことに運がない。
同盟詐欺の騙し討ちを、対北条徳川戦で疲弊してた時期にしかけられたため、
国人は一斉に寝返りを続けて一気に崩壊した。
230 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 15:27:30.25 ID:BftwlhNx
離反と逃散は武田の得意技だからなw
231 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 16:41:23.91 ID:AV3b5unw
そもそも信玄が信長との同盟を堅持していれば済む話だったからなあ
信玄が同盟詐欺のだまし討ちをして信長の息子を人質にしていたし
勝頼がそれを返還したくらいじゃあなあ・・・・
232 :
人間七七四年:2014/06/05(木) 22:10:41.99 ID:OMCS5kAh
生前に家督を譲って隠居の立場から家を支配していた大名はけっこういるよね
233 :
人間七七四年:2014/06/06(金) 12:57:55.09 ID:NKq2M8j/
234 :
人間七七四年:2014/06/06(金) 14:30:41.44 ID:A013Q8b5
三国同盟のうち北条・今川がやってるところ見ると、信玄の頭の中に隠居という選択肢が無かったとは思えない
出家はしてるのだから
そうすると信玄は隠居したくとも出来なかった、と考えるのが妥当かもしれない
235 :
人間七七四年:2014/06/06(金) 20:46:55.73 ID:BYI112a4
>>232 信長も長篠の翌年には信忠に家督譲ってたしな
義元も桶狭間の2年前に氏真に家督譲ってる
236 :
人間七七四年:2014/06/06(金) 20:55:17.02 ID:Xzb/pH+G
>>232 嫡男が相応の年齢かつ健康で、親子関係も良好なら、むしろ親が隠居して家督を譲った家のほうが多いんじゃないか?
237 :
人間七七四年:2014/06/07(土) 10:11:59.04 ID:Oh5rUYaF
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。
238 :
人間七七四年:2014/06/07(土) 10:38:03.98 ID:Oh5rUYaF
>>228 高遠城での戦果は多聞院日記によれば織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取ると書かれているのみ。
(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
239 :
人間七七四年:2014/06/07(土) 10:42:44.61 ID:Oh5rUYaF
>>231 信玄は信長の美濃攻略をバックアップしてあげたくらい親信長だったじゃん。
それなのに家康が今川氏真をひそかに織田領経由で北条へ隠し逃したりと
信玄との約束破りを行うなど、信長は信玄を欺き、挙句の果てに
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
240 :
人間七七四年:2014/06/07(土) 11:26:26.73 ID:QZx8yYK+
だが史観
241 :
人間七七四年:2014/06/07(土) 15:53:34.73 ID:w0kxMu2z
菅沼遼太による各勢力の最後
だがによる各勢力の最後
足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。
朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
若狭守護は知らないうちに消滅したので将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。
浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。
六角
知らないうちに消滅
北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。
長島一向一揆
第二次で現在の海津市いったいまで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。
三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れた。
武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたら信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡
242 :
人間七七四年:2014/06/07(土) 18:35:53.75 ID:WJa9XtAf
馬鹿なんだから消えろよ長文野郎
243 :
人間七七四年:2014/06/13(金) 10:48:13.88 ID:oe9xNLdM
>>197 浜松城の空城の計なんて無い
逆だ
浜松城には戦力があって士気も高いぞと、酒井忠次がアピールしていた
ちなみに酒井忠次は浜松城の留守番を務め、三方ヶ原の野戦には参加していない
空城の計とは全く逆のことを実行していたのに、
なぜ空城の計を謀ったという妄説が出ているのか、不思議で仕方ない
244 :
人間七七四年:2014/06/13(金) 11:20:38.70 ID:JpnV91Zi
ハッタリでやり過ごした、と言うより計略によって侵攻を防いだ、と言った方が格好がつくからでは
245 :
人間七七四年:2014/06/13(金) 16:21:49.19 ID:oe9xNLdM
元はハッタリですらなかったんだけどな
遅れて帰って来る敗残兵を収容するために城門を開けておいただけ
武田軍にはすぐに城攻めにかかる用意が無いことは、冷静だった酒井には判ること
ほうほうの体で逃げ帰った鳥居元忠(しかも負傷した)には判らなかったようだが
246 :
人間七七四年:2014/06/13(金) 16:44:13.99 ID:XS+dSWoE
247 :
人間七七四年:2014/06/13(金) 20:39:33.07 ID:XK/PrgFL
菅沼遼太
複数回線契約でIDを使い分け5年以上
歴史関係の板を荒らしまわる神奈川のニート
もういい年だろうになあ・・・・
248 :
人間七七四年:2014/06/14(土) 14:57:19.30 ID:bNFJmXDE
>>243 >>浜松城には戦力があって士気も高いぞと、酒井忠次がアピール
で、それを証明する一次史料は?w
249 :
人間七七四年:2014/06/14(土) 20:22:32.29 ID:56DYnlJU
「新府城と武田勝頼」網野 善彦 (監修), 山梨県韮崎市教育委員会 (編集)
なかなか良い本だな。
武田勝頼の再評価ー勝頼はなぜ滅亡に追い込まれたのかーは非常によかった。
次は「新府城の歴史学」を読む予定。
250 :
人間七七四年:2014/06/14(土) 22:59:49.43 ID:i8UDUlt8
なんて露骨なステマw
251 :
人間七七四年:2014/06/14(土) 23:10:53.94 ID:yWzYFqRz
252 :
人間七七四年:2014/06/15(日) 14:01:53.49 ID:lxpkDvmN
ダガとかいう奴の一次史料って、
甲陽軍鑑とか信長公記とかじゃなくって、
森田とか聞いたことのない人。
しかも、一級史料ではなく、
一次史料って言葉を使うから、
ダガのいう一次史料ってのは森田とかいう人の
史料のことか・・・。
253 :
人間七七四年:2014/06/15(日) 15:16:34.52 ID:ZC7fHoCw
一次資料の定義って他の文献、写したものじゃないってだけの意味だからな。
254 :
人間七七四年:2014/06/15(日) 15:37:19.57 ID:a6P6g4Q1
>>247 しかも下心丸出しで特攻んでくるキモさ
アスペルガーだがの童貞丸出しのレスがキモ過ぎ
255 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 23:27:39.12 ID:D8QeK3Lq
っつうても、一級史料とか恣意的な用語すぎてかなり引くけどな俺
一次史料はそれだけでは意味をなさないことがほとんどだけども
感状一つだけ取り出してもなにも分からんわけで
256 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 01:49:59.81 ID:SpNNgEsd
菅沼はどーせ図書館でも名物迷惑オヤジなんだろうな
図書館員さんたちもこんなニートの相手をするのは辛かろう
257 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 17:57:13.63 ID:KiBWGmvM
日中から図書館に居座る中年のおっさんとか迷惑すぎるだろ
マックで一日中いる若者とかわらんやんけ
258 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 19:27:27.54 ID:BtbQcoA+
ダガは、文の趣旨をを普通にとらえることができないんだよ。
その文章の中に自分の思っていることと、違うことが書いてあったら、
そこに、とらわれてしまって、一次史料だせといってくるんだよね。
しかも、その思っていることもかなり偏りすぎている上に、固いんだよね。
それが、また、頑固ともまた違うんだよな〜。
最近は、短い文章でもダガとわかるようになってきた。
>>225 一級資料を恣意的だとなぜ思うの?
常識的に一級資料は、不完全なところは多々あっても、
恣意的だとは、思わないけどね。もし、恣意的に書かれいる所が多ければ、
一級という扱いにはならない。
ただ、甲陽軍鑑は、勘介の息子が書いたとすれば、勘介について恣意的に書かれて
いると割り引いて考えることが必要だと思うけど、第一、甲陽軍鑑は、確か、
一級資料ではないと思う。
それから、感状一つあれば、その人との人間関係が予想できるんだけどね。
なにもわからないって、人としておかしくね〜か?
ダガと断言はできないけど、おかしんだよね。
ちがったら、本当に申し訳ないけど・・・。
259 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 19:28:28.29 ID:BtbQcoA+
260 :
人間七七四年:2014/06/18(水) 16:12:08.54 ID:lyK+ZPnI
ん?
一級史料という単語は、きちんと定義の定まった用語じゃないよ?
中身がどうこうって話じゃなくて単語の話
261 :
人間七七四年:2014/06/18(水) 22:53:40.96 ID:wJZhnQ07
>>258 うーんと、なんか勘違いしてるようだけど
一次史料ってのは、その時代の当事者が書き記した文書のことで、書状であったり
事務文書であったりするわけだけど、これ一つだけじゃ、その文書の歴史的価値や社会における重要性は分からんのですよ
他の一次史料や二次史料との比較検討、内容の精査などお行って、初めてその当時の社会とかがわかってくる
これを研究するのが歴史学
一級史料とか呼ばれるのって、いわゆる二次史料のうち史的価値が高いものって意味で使われることがほとんどなので、
「一級史料」という言葉で史料を分別するのは、割と研究者の恣意だって話
262 :
人間七七四年:2014/06/19(木) 00:23:27.42 ID:U7XYi158
>>261 一級という扱いにはならないと、書いたからといって
「一級史料という単語は、きちんと定義の定まった用語じゃないよ?」
ってそりゃそうだ。そんなのは、わかってま〜す。
定義が定まっていないからといって、例えば信長公記を三級史料とか
嘘っぱち資料だと言ったらそれは、違うでしょということかな。それなりの信ぴょう性はある。
感状だけじゃ、何もわからないとあったが、戦国だから、嘘の手紙も
書くだろうし、本当のこともあるけど、「これ一つだけじゃ、その文書の歴史的価値や社会における重要性は分からんのですよ 。」
ってそれはそうでしょ!
2ちゃんなんだから、想像力を駆使していろんなことを
かけばいいんだけど、「証拠不足」みたいなことを書くから、自分の記憶と
違うことを書くと、一次資料を要求するダガと、重なってしまった。
ダガではないようでした。失礼しました。
263 :
人間七七四年:2014/06/21(土) 11:22:45.79 ID:oeJ0U1nl
>>261 特に、2ちゃんに歴史的価値や社会における重要性を求めてるわけじゃないしな。
264 :
人間七七四年:2014/07/04(金) 08:35:14.16 ID:LVu06+ah
un
265 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 11:31:52.86 ID:WShmnNIF
tyonn
266 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 12:24:03.34 ID:AYWT/etf
鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは
当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。
合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、
今日の学術的な研究とは違います。
谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、
戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても
「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」
堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。
江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと
書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、
天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。
史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。
また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。
美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。
(秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造)
そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、
何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。
この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。
しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと
鴨川論文で明らかになりました。
一次史料かどうかは研究者による真贋確定作業があり、
またその上、年次比定の確定作業もある。
基本的に一次史料に写しは含まれない。しかしこの作業において
料紙の紙質やサイズや花押や印も書き写されているか?
しかもその花押の時代推移による変化にきちんと対応しているか?
同様に実名・名字・官堵名・などもその時期に書かれた書状と同様に書かれているか?
宛先の改竄などが疑われるか?
書札様文書のおける薄礼・厚礼などの正確な書式に基いて書かれているか。
書止文言に不自然さはないか?「御」の字などの敬語表現と立場がその時代変化に応じた変化であるか。
そういうものがチェックされて初めて「これは一次史料に順ずる書状写ではないか」
「極めて偽物に近いが検討する余地はある」「偽書状である」などとされる。
267 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 12:32:47.91 ID:AYWT/etf
秀吉が家康に負けたから幕府が開けず、
必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、
無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。
そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、
朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、
天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、
急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。
秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw
そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、
官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、
無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www
フロイスがね、秀吉が小牧長久手の野戦で敗れた理由を説明してるくだりがあるんだけどね、
(あくまで小牧長久手の戦いのことであり、天正12年戦役全体を指しているわけではない)
家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいたために
日本中で大いなる名声があったことを書いてる。
一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので小牧長久手の野戦で敗北したことに触れてる。
ここで注目されるのは旭姫が嫁ぐ前の家康には信長姉妹が正室として存在していたことなんだな。
その高貴な血統が存在する方が明らかな有利になることがフロイスによって書かれている。
清洲会議において柴田勝家がお市を娶っていた理由もこれで明らかになった。
清洲同盟があったとする根拠が完全に消されてて証拠がまったくないのも
信長姉妹が正室だった事実を消す幕府の工作なのだろうね。
でも、これが事実とすれば信長死後に、信長のあだ討ちをするために
家康が尾張へ進軍してきたり、信雄の肩を持って秀吉と戦ったことも納得できる。
268 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 12:43:10.37 ID:AYWT/etf
書状の真贋チェックをしていた藩の場合は信頼性が担保される。
例えば秋田藩。何十年後といえば、幕府が歴史編纂し各家の系図なども作るために、
各藩に史料提出を求めたのよ。
それで藩史を作る事業にともない、
各家にある書状の提出を求める大編纂事業ブームがあったんよ。
これで嫡流筋まで変わっちゃうから各家は対立し、
この期に落ちぶれた家は下克上狙いで偽文書を作ったりした。
例えば佐竹氏では「伝聞伝承でもウソ、事実問わないから全部の史料を出して!
間違っていても罪に問わないから!」ってことで各家が提出したんだけど、
例えば岩屋氏なんかも書状などを出した。
でもいろいろと事情があって、本来、嫡流筋にあるべき書状まで、養子や預かっていた寺社などに
ばらばらに伝わっていて、自分こそが嫡流筋を主張し、なぜ書状がうちに伝聞したかの申し開きでも
誰が本当のことを言ってるのか吟味が難航した。
牢人の岩屋団斎も祖母の覚書とともに大量の書状を提出した。
佐竹の裁定では、14通は本物とされたが、不正の書き物3巻6冊・不正書状20通
写し11通1包とされた。
そして本物は嫡流家へ強制返却。不正の書き物は近年の作で信用しがたいとされ、
不正書状は作為が見られる。写し11通1包は岩屋家に関係ないのになぜ持ってる?
という結果になった。これになお不服を言った場合、
提出時にはウソでも罪に問わないといっていたが、今度はちゃんと証拠がない場合は罪に問うとはねつけられた。
こういうことが全国レベルで沸きまくった。
この編纂時の真偽の裁定をやっていた佐竹などの文書群は非常に高い信頼性が担保されることになった。
逆にこういうのをやっていないのが毛利家。これは陰徳太平記などの毛利家の歴史と先祖の武功を
批判検証してはならない聖域化していたのと、藩が大縮小したために下々の藩士に強く出られない権力不足により、
またが大友・大内・宇喜多・尼子・赤松・山名が滅亡していたことにより、
矛盾する史観であるかどうかを判別する藩史が存在しないために恣意的歴史が作れる土壌があり、
旧毛利領だった地域ですらも偽書状が作られた。これが悪名高い萩藩閥閲録収録。
幸い、徳川や佐竹や武田や北条の書状が山ほど残っていたから相互に照らし合わせが可能だったし、
そもそも幕臣に旧武田家臣が多く徳川宗家は武田、御三家は上杉の兵法を採用し、研究していたので
武田や上杉や北条や佐竹らの史料照らし合わせ編年史が完成し東国大名は怪しげな書状はほとんどありません。
269 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 13:01:20.59 ID:AYWT/etf
秀吉が家康に関東惣無事の儀を仰せ付けたのが天正14年12月
家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。
天正18年8月関東移封。
これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより
関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。
それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。
つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。
無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は
東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。
このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで
織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。
また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、
これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、
家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、
11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
270 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 13:08:45.90 ID:AYWT/etf
アンチ秀吉織田チョン大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
271 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 17:27:11.00 ID:LlxdLPF0
>>267 小牧長久手の時って筑前守じゃなかったの?
272 :
人間七七四年:2014/12/24(水) 23:19:03.21 ID:Wl+nnu1s
>>271 それ信長が名乗らせただけの私称。
信長は部下に対して一切、官位官職を朝廷に申請せず、
身分を平民のままにしていた。
273 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 12:02:56.30 ID:UTb1Pj+B
織田家は超ブラック企業だからな。
274 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:02:52.99 ID:72DQmI+f
>> 一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかった
秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。
秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
秀吉は譜代いまくりだよ。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる
275 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:03:12.98 ID:72DQmI+f
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた
家康が信長の姉妹を娶ったことによって増えた家臣…皆無。
家康方は譜代の石川までこの頃既に離反しかけてるのが6月の秀吉→石川書状でわかるし、連れてた家臣なんてほとんど外様みたいなもんだろ。
木曽も小笠原も真田も石川も水野もあっさり家康から寝返ってるし
信雄からは伊勢でも美濃でも尾張でも会戦早々寝返りが出まくってる
信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
276 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:03:36.42 ID:72DQmI+f
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
277 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:03:57.39 ID:G54Spxm4
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
278 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:04:19.11 ID:7ZUj++rT
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた
秀吉は信長の子供を養子として取ってて高貴な血統に属していて
下記のようにほとんど織田家旧臣連中は羽柴直臣と化していた。
池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
279 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:24:43.85 ID:7ZUj++rT
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけ。
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
280 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:25:08.79 ID:7ZUj++rT
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
299 :人間七七四年:2014/11/21(金) 11:02:08.39 ID:Whd+iGRM
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
281 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:25:26.53 ID:G54Spxm4
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
282 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:25:46.37 ID:7ZUj++rT
フロイスの小牧長久手関連の記述なんて秀吉が垂れ流した妄想歪曲誇大喧伝の影響を受けまくっててほとんどが誤ってる情報ばかり垂れ流されてるインチキ記事なのにソースにするとか相当馬鹿だな。
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
283 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:05.59 ID:7ZUj++rT
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
284 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:18.73 ID:G54Spxm4
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw
285 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:34.81 ID:5BsminRr
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
286 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:26:51.43 ID:G54Spxm4
秀吉厨の馬鹿な妄想「秀吉軍は烏合の衆だったから負けた」「秀吉は家臣が必死に戦ってくれなかった」
秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
287 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:27:09.59 ID:nkm480eA
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍 を動員してる
288 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:37:38.95 ID:GzNadVXF
他スレで大敗した腹いせにここでコピペ荒らしですか?菅沼君
289 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:44:40.24 ID:nkm480eA
>>小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小牧長久手の戦いでハッタリかまして虚構性作りまくったのは秀吉だよ
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
>>小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
>>実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。 美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
290 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:46:21.45 ID:nkm480eA
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
信雄の動き
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
291 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:46:58.21 ID:nkm480eA
小牧長久手の戦いで 秀吉が優勢だったのは
伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田
尾張で毛利秀頼・毛利広盛
美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、
当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだし
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのに
その後の攻防では小牧長久手以外でも
松ノ木城
浜田城
東駒野城
河波城
神戸城
二重堀城
蟹江城
長久保城
戸木城
と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
292 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:48:39.30 ID:nkm480eA
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏
秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
293 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:49:07.01 ID:G54Spxm4
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
294 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:49:25.27 ID:7ZUj++rT
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
295 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:49:46.54 ID:G54Spxm4
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
296 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:50:32.98 ID:G54Spxm4
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
297 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:51:14.09 ID:7ZUj++rT
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
298 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:51:34.93 ID:G54Spxm4
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
299 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:52:15.02 ID:7ZUj++rT
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。
300 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:52:36.13 ID:G54Spxm4
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
301 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:52:51.42 ID:6H7bC5Be
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
302 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:06.78 ID:G54Spxm4
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
303 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:30.48 ID:7ZUj++rT
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
304 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:43.61 ID:G54Spxm4
天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けるとか情けなさ過ぎる
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい国力の差があるのに
305 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:53:57.49 ID:6H7bC5Be
結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。
306 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:54:18.47 ID:G54Spxm4
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ。
307 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:54:42.27 ID:6H7bC5Be
講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
308 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:54:53.72 ID:G54Spxm4
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
309 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:55:13.05 ID:G54Spxm4
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
310 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:58:22.83 ID:7u8x8uyf
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉の場合は指揮能力や采配能力が異常にゴミに近かったので数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。
311 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 15:58:40.41 ID:nYc5AVF9
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
312 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 16:04:21.55 ID:gOuiXj1M
小牧長久手の結果秀吉が家康に土下座して顕如に取り成し依頼してもらったり
母や妹を差し出して家康に土下座して講和してもらったり
250万石やチート官位差し出す等土下座しまくってるし
結局それが原因で豊臣家を滅ぼされる事になったんだから家康の圧勝でしょ。
秀吉なんて指揮采配能力じゃ家康どころか信雄相手に蹴散らされまくった雑魚じゃん。
313 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 16:05:14.01 ID:G54Spxm4
小牧長久手合戦後の講和はあくまで一時的な物で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌天正13年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
314 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 16:06:07.09 ID:G54Spxm4
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
315 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 16:06:58.52 ID:G54Spxm4
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。
佐竹も葦名家に養子を出してるね。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
316 :
人間七七四年:2014/12/25(木) 18:56:49.05 ID:Eqzd6bHi
スレチの長文君 いいかげんにしろよw
317 :
人間七七四年:2014/12/26(金) 16:05:13.68 ID:06mnqejB
318 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 14:29:08.34 ID:oDld84ju
間違いない
理由
1)無駄に版図を拡げたので、あとが守りにくくなった
2)後継者その一の長男を殺害した
3)後継者その二でもある4男勝頼を本人には継がせず、求心力を持たせなかった
4)無駄に死を秘匿した
5)兵農分離を進めなかった
6)遠征先(出先)で死ぬという失態
319 :
人間七七四年:2015/01/12(月) 09:36:12.64 ID:hDIMNjar
少なくとも武田義信に跡を継がせなかったのはクソとしか言い様がないわな
てめぇがオヤジから実権分捕っておいて、息子には廃嫡幽閉というクソみたいな処置
典型的な老害だろうな。仮に信玄が1565年くらいにおっ死んでてくれれば
武田が滅びることもゴミのような扱いを受けることもなかっただろう
320 :
人間七七四年:2015/01/12(月) 21:42:26.40 ID:U+68Do4S
7)徳川家康を殺さなかった
8)上杉謙信から塩を受け取った
9)金山を掘って無駄に軍備を拡張した
10)治水対策を行ったので、甲府が守りにくくなった
11)浅間山の噴火対策を怠った
321 :
人間七七四年:2015/01/13(火) 17:14:42.22 ID:h8O9W1tZ
三方が原で家康を討ち取っておけばなあ
322 :
人間七七四年:2015/01/17(土) 19:15:05.49 ID:AJhxP0D+
323 :
人間七七四年:2015/01/23(金) 13:16:34.56 ID:SXX6EO7p
>>316 菅沼遼太君が憤死しそうなスレだし仕方ない
324 :
人間七七四年:2015/01/23(金) 13:49:06.96 ID:T4bdvCjN
滅亡は勝頼だな。
負けても降伏して氏真スタイルにすりゃ家系だけは生き残ってた可能性は十分ある。
325 :
人間七七四年:2015/01/24(土) 00:42:47.94 ID:t3bwRsaV
氏真スタイル、信雄スタイルはいつの時代でも天下無敵。
326 :
人間七七四年:2015/01/24(土) 17:40:22.49 ID:LPQdabV6
信長相手にそのスタイルが通用した可能性は皆無
勝頼みずから安土に行って土下座しても波多野みたいに処刑されるのがオチでは
岩櫃経由で東北に落ち延びて史実通り本能寺が起これば猿や狸なら許してくれるかもしれないが
327 :
人間七七四年:2015/01/24(土) 20:50:00.89 ID:2bJAnRtB
北条と関東・奥羽の大名が競うように織田に誼を通じているあの時期に、勝頼を匿う大名はいないだろう。
真田に売られるのがオチ。
三方原で家康殺して遠江・東三河を併呑しておけば、何とかなったかも知れんが。
328 :
人間七七四年:2015/01/26(月) 03:03:50.17 ID:nU4dgJxS
三方ヶ原で家康を殺しておけば・・・ → 信玄のせい
織田に喧嘩を売らなければ・・・・・ → 信玄のせい
義信が跡を継いでいれば・・・・・・ → 信玄のせい
版図を広げすぎてなければ・・・・・ → 信玄のせい
大体武田信玄のせいだな。
信玄8割勝頼2割くらい
329 :
人間七七四年:2015/01/26(月) 06:33:13.82 ID:lW1klGTg
その信玄を世に産み落とした信虎が元凶じゃね?
コイツが先手を打って信玄を誅して、きちんと信繁を家督に据えていればまた違った未来もあっただろうに
330 :
人間七七四年:2015/01/26(月) 07:04:07.41 ID:5QqP988y
織田信秀、勝幡城→那古野城→古渡城→末森城
織田信長、那古野城→清洲城→小牧山城→稲葉山城→安土城
徳川家康、岡崎城→浜松城→駿府城
武田信玄、古府中
居城が持つ力をフルに使ったのが信秀、近いのにちょくちょく変えてる
信玄は居城を変えていない
331 :
人間七七四年:2015/01/26(月) 17:28:54.67 ID:cZG8I++Q
>>328 版図って意味なら、余計な高天神を落としたのも信玄が落とした長篠城を放棄したのも勝頼だけどな
>>330 長曾我部の白地城みたいに東海五か国に通じる拠点を南信にでも築いていればな
高遠あたりでは不充分だった
332 :
人間七七四年:2015/01/26(月) 23:42:38.52 ID:7r8A35J6
武田って居城変えようにもいい立地ないよ
深志城や海津城は北すぎるし高遠は街道から離れてるし諏訪は狭いし
結局甲府が一番ってこと
新府もそんないい立地とは思えない
333 :
人間七七四年:2015/01/27(火) 03:05:05.17 ID:dEA19WBO
334 :
人間七七四年:2015/01/27(火) 08:26:25.78 ID:d0TzPbWu
信玄は謙信との北信攻防から始まり、
北条、織田、徳川、今川から
領地を奪い取り甲府を中心に広がりを見せていて
苦手な敵がいない為、領地の中心が府中なんだよな。
しかも甲斐は街道の接点で信濃や相模や上野や駿河に出るのに適している。
さらに北条らが援軍要請をしてきたら必ず信玄は支援に出兵する義理堅さをみせるが
自分から他大名に援軍依頼をしたことすらない。
なのでコストがかかる新拠点造営維持など必要ない。
すでに新たに騎下に加入した国人たちに府中に住居を与えて
集住体制が完成してたし、農繁期とか関係なく最前線の城に張り付かせて
帰国する必要もない兵農分離もできてたし。
335 :
人間七七四年:2015/01/27(火) 16:05:41.24 ID:3YrX/Th8
将軍が戦争やめろって言ってきた時に白々しく役職要求してましたね
336 :
人間七七四年:2015/01/27(火) 19:45:51.22 ID:dEA19WBO
337 :
人間七七四年:2015/01/28(水) 10:13:42.86 ID:Kq6eTk4P
信虎は関東に出ようとしてなかったっけ?
信玄はいちいち攻める方向が悪すぎ
まあどっちがいいかは人それぞれだろうが
338 :
人間七七四年:2015/01/28(水) 23:55:21.11 ID:bRjb7QUr
そりゃ結果論
信濃が一番弱かったからそっち行くのが定石
関東行くには父の代から分が良くなかった北条との激突が免れない
謙信が出てくるなんて予想出来ないし
339 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 01:01:21.38 ID:TU/+VbW8
結局は信玄の武将としての限界だわな
激戦区の関東や東海を避けて弱小ばかりの信濃に殴りこんだ代償
340 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 10:16:13.14 ID:1V4nkxBH
関東管領の大軍を佐久地方で大破したから
関東からの脅威がなくなり、関東管領と組んだ諏訪攻めをしただけだろ。
341 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 11:43:13.09 ID:/ibknw+H
河越野戦は一次史料には存在しない架空の戦いだったからね。
342 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 17:06:51.98 ID:TU/+VbW8
関東管領を撃破したのに関東にロクに攻撃せず諏訪みたいなど田舎を攻めたのか
やっぱ信玄ってアホだわ
343 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 17:17:52.23 ID:XyjaGQEQ
菅沼理論から言わせると火山が噴火しただけでびびって霧散するような武田軍団を作った信玄が悪いなw
344 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 20:21:46.03 ID:1V4nkxBH
関東管領山内上杉軍が志賀城救援で浅間山のまわりに布陣。
8/6に武田軍が突撃し打ち負かし名大将15人を討ち取り、雑兵3000討ち取り。
これらをことごとく志賀城の周りにかけたので、
志賀城の者どもは力を失い、水にもつまり8/11に300の討ち死にをだして落城。
河越野戦は一次史料が存在しない架空戦のため
関東管領上杉が衰退した理由は
信玄によって名大将15名を討ち取られたのが原因なのが明白。
むしろ信玄が苦戦していた戦いといえば、
天文17年の村上戦だろう。
これは佐久郡攻防戦といってよく、
佐久郡の志賀城を攻略したあとも佐久郡攻防戦は続いており
村上や小笠原ら信州連合軍と武田の戦いである。
2/14から村上と武田は塩田原で川をはさんで
軍をいれたりを繰り返していたが武田側が打ち負けて板垣や甘利が討ち死に。
しかし信玄は本陣を払わず踏みとどまり、」小山田出羽守の比類ない働きもあって戦線を維持
だが小笠原軍5000が武田の背後を襲うために進軍
7/15に武田軍は朝駆けで小笠原軍を悉く撃破し村上の近所の村井に要害を築く。
8/18佐久郡田の口要害へ小山田出羽が働いたものの、信州兵に包囲され
9/12信玄が救援に出撃し佐久郡の大将及び信州兵5000を討ち取る。
345 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 21:37:19.89 ID:cG+OLRfg
>>344 一次史料が存在しないことと、架空戦であることは、全く別次元だぞ?
ついでに、「名大将15人を討ち取り」ってところの一次史料はあるのか?
それぞれの名前は?年齢は?親族は?
論理破綻しまくりじゃね?頭大丈夫?
346 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 21:43:16.91 ID:1V4nkxBH
勝山記、妙法寺記に載ってるだろ。
347 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 21:46:20.06 ID:cG+OLRfg
冗談でごまかすなw
348 :
人間七七四年:2015/01/29(木) 23:49:24.43 ID:/ibknw+H
勝山記、妙法寺記が冗談を書く理由がみつからない。
また織田在日の願望妄想による反論www
349 :
人間七七四年:2015/01/30(金) 01:12:28.99 ID:52d2hSoU
軍を蹴散らしたところで相手を倒さなければ何の意味もないという
基本的なことがわかっていなかった武田信玄
あるいは人を殺して女を分捕る暴虐ぶりが信玄の本性だった可能性すらある
こんな奴が天下を取れないのは当然。董卓と同じ
350 :
人間七七四年:2015/01/30(金) 10:52:35.25 ID:O0UIx5OX
>>人を殺して女を分捕る暴虐ぶりが信玄の本性
で、一次史料はまだなの?
351 :
人間七七四年:2015/01/30(金) 12:44:19.23 ID:lVVfBZlw
高白斎記で敵方の大量の首を志賀城の前に並べ立てた残虐ぶりを思いっきり記されてますがw
諏訪氏も普通に勢力を滅ぼされて一族のほとんどが死ぬ羽目になったのに可哀想に信玄の側室にされてますがw
352 :
人間七七四年:2015/01/30(金) 12:51:37.54 ID:O0UIx5OX
野戦で討ち取られた兵の首を並べて援軍は来ないことを
示しただけじゃん。なにが悪いんだよ。
野戦で敵兵の首を取るのが残虐とかどんだけ左翼キチガイの平和主義だよアホw
諏訪氏のイチジクがほとんど死んだなんて話は初耳だ。はやく一次史料を出せクズ。
信玄の側室は油川氏の娘で父は諏訪攻めにも参加してるのだがw
353 :
人間七七四年:2015/01/30(金) 12:52:36.21 ID:O0UIx5OX
訂正
×イチジク
○一族
354 :
人間七七四年:2015/01/30(金) 15:28:05.43 ID:SH6+yHXE
信玄公の虐殺は清く正しい虐殺
by菅沼遼太
355 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 01:42:36.97 ID:wtgPjXk/
>>348 勝山記、妙法寺記が一体いつから一次史料になったのか、
論理的に説明してくれないか?
それから、名大将15人の名前、年齢(享年)、親族(領地)は、
いつになったら提出するんだ?
356 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 09:23:28.59 ID:YMez1A7Y
昔から一次史料じゃねぇかアホw
むしろ一次史料じゃないとする根拠を出してみろよwww
357 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 09:23:44.51 ID:KvctrcEK
信玄も頑張ったとは思うよ
新宿から中央線に乗ると分かるけど
長男殺しても駿河が欲しいだろうなとは思うから
よくこの立地で後世に信者を残せたよ
358 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 10:04:18.24 ID:mJ//wJSZ
三方ヶ原で勝って家康に持ち上げられなければどうなっていた事か
359 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 11:09:56.56 ID:KvctrcEK
松永みたいなポジには着けたんじゃね?
ある意味エロゲの主人公だろ
滅ぼしたとこの姫を側室にとか
360 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 20:11:09.31 ID:/PZBqVF4
エロゲ好き?
361 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 20:30:21.20 ID:70dllWPJ
>>358 謙信が柴田相手に敗北してたら、川中島は低レベルな争いと言われてたかもな
362 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 20:59:06.60 ID:JvwfWAeY
手取川の戦い
・上杉謙信(約18,000人)
・柴田勝家(約40,000人)(滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政他)
結果
・織田諸将が粉砕されて全軍崩壊。
三方が原の戦い
・武田信玄(約18,000人)北条援軍(約3,000人)
・徳川家康(約8,000人)織田軍(約17,000人)水野信元(約3,000人)
(織田内訳予測:佐久間信盛(約9,000人)、林秀貞(約2,000人)、平手汎秀(約1,500人)、毛利長秀(約1,500人)、西美濃三人衆(約3,000人)
結果
・徳川家康と平手汎秀が粉砕されて、全軍崩壊。
信玄も謙信も織田氏に完勝してしまったから、伝説になってしまったよな。
秀吉だけは天性の感で死地からいち早く離脱してるけれど、
残っていたら殿を押し付けられて死んでいたかも。
363 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 21:12:33.26 ID:AoHGTxD1
西美濃三人衆をいれているところが菅沼遼太っぽい
364 :
人間七七四年:2015/01/31(土) 21:59:34.22 ID:JvwfWAeY
3傑のうち、信長も、秀吉も、間一髪で逃れたのに、家康だけは滅多打ち。
らしいと言えばらしいw
365 :
人間七七四年:2015/02/07(土) 15:34:16.22 ID:p0FUnQFy
>>361 実際に秀吉がそんなこと言った逸話があったな
366 :
人間七七四年:2015/02/07(土) 20:08:05.69 ID:XeO5lbtV
天徳寺宝衍や真田昌幸ら関東の諸侯が秀吉に尋ねられて、
謙信、信玄を秀吉の前で褒めまくったから、へそを曲げた話だろwww
367 :
人間七七四年:2015/02/07(土) 20:11:14.15 ID:XeO5lbtV
天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興
しようとした。また『真武内伝』によると昌幸は信玄に幼少期から仕え、
信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。同書によると、
秀吉と昌幸が碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だ
った」と評した。それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を
取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつ
けをした事は一度もない」と答えて秀吉をたしなめたと伝わる
368 :
人間七七四年:2015/02/08(日) 20:36:32.00 ID:7tSyTZV6
何をやり損ねたか
1上洛を急ぎ家康を討てなかった←寿命に気づいてたから信長討ちを急いだ
2大御所政治に移る考えを持てなかった←義信死なせて勝頼に委譲を急げなかった
まあ必然だよね
369 :
人間七七四年:2015/02/08(日) 22:30:53.79 ID:3E8L4ALI
菅沼はすぐ信玄Ageの話をするwww
文脈から考えて、明らかにはかのいかぬ戦をしたものよ、の話のことだろw
370 :
人間七七四年:2015/02/10(火) 12:07:49.19 ID:r5a1F4NN
桶狭間の後の行動だよ
家康を速攻で潰しておけば織田の急成長はなかったのにな
371 :
人間七七四年:2015/02/10(火) 20:37:26.88 ID:xiH3+9LU
1560年の時点で三河に侵攻できる根拠を述べよ
372 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 05:34:34.80 ID:okH1bw6b
1560年の時点で三河に侵攻できない根拠を述べよ
面倒な言い回しせずに懸念材料を出せした方が早いぞ
373 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 10:54:20.98 ID:lfRohLIv
>>372 政治的に混乱して訳のわからない状態の今川が間にいる。
つーか、今川傘下の徳川を攻撃するから領内通らせて、なんて信玄がいくらボケでも今川に要求するわけがあるか。
374 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 17:55:50.54 ID:okH1bw6b
>>373 徳川は反旗をを翻して独立したんだから今川傘下に非ず
そして伊那から三河に入れる
今川と共闘して三河に攻め込んでもいいしさ
375 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 18:55:05.65 ID:KGw7RJme
三河を武田が貰ったとしたら
今川はどうやって領土拡張するの?
飛び地?
それとももう領土拡大はしませんって話し?
376 :
人間七七四年:2015/02/11(水) 22:16:18.09 ID:lfRohLIv
>>374 「関ヶ原直後」になんで徳川が今川に反抗してるんだよ?
377 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 09:32:26.38 ID:vg/m+6Ff
378 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 12:09:04.25 ID:xMzmYwpc
独立したから他の大名が取っても問題ないって、ゲームの話でもしてんの?
379 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 17:43:44.22 ID:dcKvU5CY
徳川潰しといて今川と織田を隣接させたほうが都合がよかったかねえ
それ目的の共同戦線でも氏真は拒否したかもしれんが
380 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 18:52:21.73 ID:JHMcyI+b
>>372 史実では侵攻してないんだから侵攻「できる」根拠述べるのが正しい
どこのスレ行っても馬鹿だなお前
381 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 19:19:44.92 ID:dcKvU5CY
三河攻めていいなら駿河攻めは無かったかもしれないが、三国同盟は大国同士本拠地が隣国っていう微妙な位置関係だからなあ
自国防衛や旨みを考えたら弱った相手の本拠地攻めたくなる
382 :
人間七七四年:2015/02/12(木) 20:18:19.27 ID:xMzmYwpc
つーか
独立直後なら、三河の徳川じゃなく、西三河の徳川だろと突っ込んじゃ駄目なのか?
383 :
人間七七四年:2015/02/13(金) 04:46:42.46 ID:tgDCi1LH
>>333 確かにどこもかしこも平野部が細長いな。長い野とはいい得て妙だ
384 :
人間七七四年:2015/02/13(金) 11:22:46.69 ID:Pf/32bAb
>>380 侵攻「できる」かどうか問われたら三河は隣接地なんだから出来る
ただこれだけでの話
結局のところ三国同盟堅持か破棄かの話なんだわ
三国同盟堅持なら武田は何処を目指して勢力を拡大するべきなのか?
地勢的に結構難しい判断を要する
西に行くなら桶狭間直後の混乱期に三河に橋頭堡を築けたという話さ
385 :
人間七七四年:2015/02/13(金) 11:47:00.60 ID:CFYCDGxU
奥三河はともかくそこから先の平野部は切り取っても武田は保持できないだろう。
386 :
人間七七四年:2015/02/13(金) 14:46:55.49 ID:YOnWuBl4
桶狭間直後の西三河しかない徳川を今川領を取らずに取れるのか?
今川領を取らずに西三河が取れないなら、今川と戦わずになんて話じゃなくなるぞ
387 :
人間七七四年:2015/02/14(土) 17:00:11.40 ID:yC+qwlAJ
まあ何にせよ武田が三河に入った時点で三国同盟崩壊だから
388 :
人間七七四年:2015/02/14(土) 19:38:57.72 ID:QYwB5iYk
三河を家康が完全に掌握したら今川の力では三河を攻略できなくなる
それに家康の後ろには織田が居る
どこかで武田に与力してもらわないとどうにもならなくなる
史実では武田は今川を助けるどころか後ろから斬りかかったけどな
元々織田と戦っていたのは松平、その松平が織田と組んで今川に向かってきてるんだ
今川には、あまり贅沢な選択種は残されていない
389 :
人間七七四年:2015/02/14(土) 19:59:20.99 ID:57w7ILmk
何その予知能力
桶狭間直後にそこまで分かるんだ
凄いね
390 :
人間七七四年:2015/02/14(土) 21:06:34.82 ID:vzQ5dwaa
史実の今川氏真が被害妄想系だったとすると、家康や信玄が離れるのも仕方が無いな。
391 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 04:09:33.57 ID:s5ZvHclI
│ 武田 │
───┬─┴─┬───┤
織田 │ 徳川 │ 今川 │
───┴───┴───┘
この地理的条件で武田の三河への介入の可能性を否定してもな〜
392 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 09:47:22.72 ID:ZIbewaCi
桶狭間後の徳川独立直後はこうな
│ 武田 │
───┬─┴─────┤
│ ─── │
織田 │ 徳川 │ 今川 │
───┴───┴───┘
393 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 13:32:13.85 ID:s5ZvHclI
武田と徳川の間には徳川と今川の間で揺れる小勢力がいるね
三河は混乱状態
情勢が不安定な間なら付け入る隙も多いでしょう
394 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 13:50:17.08 ID:SmzhzOll
信玄が嘘でも勝頼を正統な後継者に指名しとけばな
あれで勝頼が家臣団見返すために無理な出兵してしまった
395 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 16:57:28.69 ID:AxDhLmV3
396 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 18:52:22.74 ID:b320ktCi
勝頼陣代説はいつになったら消えるんだろう
397 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 01:03:35.56 ID:h7fksDF7
>>393 駄目だよ
自分の設定忘れちゃ
│ 武田 │
───┬─┴─┬───┤
織田 │ 徳川 │ 今川 │
───┴───┴───┘
この地理的条件で武田の三河への介入の可能性を否定してもな〜
398 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 08:26:33.65 ID:sl3NR+2n
>>397 ケチをつけるだけの人間から早く卒業しなさい
399 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 08:46:52.02 ID:eMDesgGk
くやしいのうくやしいのう
400 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 09:44:13.64 ID:FtHToD+F
>>396 偏執キチガイ織田ちょんが執拗に持ち出す
いつもの甲陽軍鑑ネタシリーズなので消えることはありませんな。
401 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 11:51:32.82 ID:OlCDqLZk
ちゅうか武田は負けた織田は勝ったんだからそれで終わりだろ
武田が最強であったはずが無い
402 :
人間七七四年:2015/02/16(月) 19:19:13.31 ID:sY7C15yw
武田が最強なら最低でも500万石くらいは取れてたろ
この時代の徳川すら屈服させられない時点でお察しよ
403 :
人間七七四年:2015/02/17(火) 05:27:56.15 ID:YaZ43cBW
「俺が勝頼だったら余裕で天下獲ってたわw」って加藤が言ってた
404 :
人間七七四年:2015/03/06(金) 22:32:03.37 ID:NCirNNcd
405 :
人間七七四年:
家康の才能を見抜けず彼の人質時代彼をいぢめ続けた孕石を雇った時点で
武田滅亡フラグ立ってるだろ。部下も部下なら主君も主君。