914 :
人間七七四年:
天下統一事業は織田家が推進していたのではないのだよ。
信長中心に有能な武将が推進していたわけよ。
周りから見ると織田家が推進している様に見えるんだけど、実際は信長・信忠と有能な武将が織田家を支えていたの。
織田家は2トップ体制であったが、二人のトップが相次いで本能寺の変で亡くなったわけだし。
後を継ぐ信雄は無能というより、信忠を立てるために意図的に無能力化されていたわけ。
結局、天下統一事業を引き継ぐ人がいなくなったということ。
秀吉がコソ泥したわけだはなく、天下統一事業の担い手となっただけ。
他の有能な武将もいたけど、結局淘汰されて秀吉が残ったんだよ。
915 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 10:43:45.49 ID:oo+WOlO0
そもそも秀吉がいなければ本能寺の変が起きて明智光秀、上杉景勝、毛利輝元らに
攻撃されて織田が滅んでいたかもしれないから、菅沼の主張する
「織田厨は秀吉嫌い」なんてのは妄想の産物でしかないんだよなww
秀吉が織田一族を皆殺しにしたのなら話は別だが、誰1人死んでないどころか大名にすらなってるし
家康も家康で、信雄を保護してるからこれまた恨む理由もない。(秀信の件で恨む人はいるかもしれんが)
>>914 織田信長自体、戦国・下剋上の体現者だからねぇ
斯波、大和守、足利、武田、六角、浅井、朝倉・・・潰した敵は枚挙に暇がない。
しかしこういう生き様や、他人の政策を踏襲する柔軟性が信長の長所。
それを踏襲した秀吉や家康を悪く言うのは信長の否定と同じだしな。
秀吉が嫌いな奴は信長も心底では嫌いで、家康が嫌いな奴は心底では秀吉も嫌いなんだよ
916 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 10:51:34.83 ID:Nr/6mJ0/
信長には家を滅ぼされて
秀吉には「こんな片田舎で何十年も戦うとは馬鹿乙w」と蔑まれ
家康には名前をパクられた挙句伊豆大島に追放された
武田信玄の出身である武田家の悪口はやめなさいw
917 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:21:11.88 ID:tkpOn185
>>914 >>信長中心に有能な武将が推進
織田家の武将なんて雑魚しかいないじゃん
中央佐久間軍団
武田信玄にボロ負け、本願寺戦でも失敗し更迭
北陸柴田軍団
上杉謙信にボロ負け、加賀を放棄し越前に長期引きこもり。上杉の内乱につけこんで佐々長縄・神保・長の活躍などで
加賀能登越中を火事場ドロするも、上杉内乱が収束に向かいだす天正8年半ば〜本能寺前の2年において越中中部〜魚津・松倉の短い区間で2年も
立ち往生(しかも上杉は内乱直後で疲弊しきった状態で下越に反乱者、天正10年からは信濃と下越・上野との4方面対策)
東海信忠軍団
武田信玄に岩村城を簡単に奪われ、長期引きこもり
主戦場はほぼ全て徳川家康が担当 。援軍なしの岩村城に半年ももたつき最後は騙まし討ちで何とか開城
畿内明智軍団
強敵のいない丹波で大苦戦。2回も敗戦する。
山陽羽柴軍団
強敵毛利輝元にガチンコ負けして西播磨から敗走、上月城まで奪われる
激戦区は宇喜多直家と長宗我部元親任せ。三木攻略に信忠の援軍を受けながら2年ももたつき、鳥取でも4か月ももたつく。
清水宗春・補井田元清にも駆逐され、備前児島・忍城・祝山などを奪回される。
関東滝川軍団
20そこそこの氏直に対して緒戦で上野国衆10000の敢闘を得ながら、本戦で氏直の偽退却戦術にかかって6000人戦死の
918 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:29:45.03 ID:xSGDGzEM
>>秀吉がコソ泥したわけだはなく、天下統一事業の担い手となっただけ。
そもそも本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
まあ秀吉は完全に棚ボタだっただけ
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
919 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:30:10.26 ID:JqZOlT54
つーか本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事だから最初から勝てて当たり前でしょ。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
920 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:31:49.29 ID:JqZOlT54
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけだし
攻め取った丹波には秀勝?だったかを置いて、直轄領化があっさり実行できたのに対し
勝家の方は織田家時代の軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけでしょ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
921 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:32:30.85 ID:id/mWsS8
天正11年1/17秀吉→小早川や
兼見卿記12/21条で江州長浜柴田伊州(勝豊)、羽柴与一味、然間羽筑同可濃州へ下向
濃州稲葉良道、氏家直道、羽筑ニ一味云々と書いてて
勝豊は簡単に秀吉に篭絡されてるのがわかるから実際勝家からすれば全くといっていいほど
清洲会議での長浜領獲得が役に立たなかったのは間違いない。
清洲会議の結果については多聞院日記7/7条でも大旨ハ羽柴かままの様也と書いてるし
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
922 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:33:14.03 ID:id/mWsS8
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で秀吉と兄弟の契りを結んでた中川が殺され前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと
x勝豊や稲葉や信雄が早々秀吉に篭絡され、佐々が対上杉で越中から動けなかったにもかかわらず
秀吉と兄弟の契りを結んでたほど関係が濃密な中川が防衛戦で殺されてるし
柴田勝政や佐久間盛政が寡兵で撤退中を背後から秀吉が大軍で強襲したら逆に反撃され、撃退されるほど。
結局あれだけの規格外の兵力比がありながら前田や不破や金森らが兵を引くまで一進一退だったし
そもそも勝家の軍は軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
勝家は、賤ヶ岳合戦で寡兵にもかかわらず秀吉方が構築した超絶堅固な塹壕陣地に向けて
猪突猛進で突撃して、しかも寡兵で相手を押しまくってたんだよな。
もうちょい、冷静に策を練れる武将が柴田方にいたら圧勝してたかもしれん。
923 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:33:42.80 ID:dxQCqQuM
毛利は本能寺後即効で両川が人質出して三か国を秀吉に渡すことが決められてて
秀吉方は6/6時点で「西国表之儀存分之まま」と書いてるくらい、毛利は秀吉一色だったし
親藩の宇喜多も南条もいるし心配は皆無でしょ。
つか対柴田の時でも、中国方面に兵残してる気配は皆無だし
毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。
924 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:34:17.60 ID:ox0uIo6q
秀吉が天下取れたの100%棚ボタでしょ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
925 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:36:59.35 ID:ox0uIo6q
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
926 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:37:27.10 ID:fIvUGGJm
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
927 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:37:53.03 ID:2WAQcRf1
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
928 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:38:14.92 ID:fIvUGGJm
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
929 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:39:21.32 ID:fIvUGGJm
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
930 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:41:27.51 ID:xkclj525
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
931 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:44:37.66 ID:tkpOn185
信忠に個人としての能力なんてないだろ。
簡単に陥落しまくった雑魚城の岩村に数万の大軍で押し寄せて半年たっても自力で落とせないとか
武田が寝返りの連鎖で自落する中唯一まともに抗戦した高遠城の仁科数百に、城外戦でもって一門信家始め数多討ち取られて
最低でも4時間は粘られるアホっぷり。
932 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:47:05.05 ID:tkpOn185
933 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:47:34.51 ID:tkpOn185
934 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:48:04.92 ID:tkpOn185
935 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 12:59:07.31 ID:tkpOn185
>>秀吉がコソ泥したわけだはなく、天下統一事業の担い手となっただけ。
信長時代に既に織田の大版図は形成されてるし後は残りカスみたいなものだろ。
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
>> 他の有能な武将もいたけど、結局淘汰されて秀吉が残ったんだよ。
指揮采配能力が低劣でも数でごり押しすれば勝てるのが戦争。でも秀吉はそんな戦いですら数頼み&調略だのみで敵を減らしながら
いざ戦うと家臣を殺されまくったり、数百の雑魚城に手間どって攻略失敗だの苦戦だのしまくってる。
本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
秀吉は完全に棚ボタだっただけ 。毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
936 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:00:06.55 ID:tkpOn185
勝豊や稲葉や信雄が早々秀吉に篭絡され、佐々が対上杉で越中から動けなかったにもかかわらず
秀吉と兄弟の契りを結んでたほど関係が濃密な中川が防衛戦で殺されてるし
柴田勝政や佐久間盛政が寡兵で撤退中を背後から秀吉が大軍で強襲したら逆に反撃され、撃退されるほど。
結局あれだけの規格外の兵力比がありながら前田や不破や金森らが兵を引くまで一進一退だったし
そもそも勝家の軍は軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
勝家は、賤ヶ岳合戦で寡兵にもかかわらず秀吉方が構築した超絶堅固な塹壕陣地に向けて
猪突猛進で突撃して、しかも寡兵で相手を押しまくってたんだよな。
もうちょい、冷静に策を練れる武将が柴田方にいたら圧勝してたかもしれん。
柴田>>>>>>>>>秀吉
937 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:09:35.99 ID:tkpOn185
>>秀吉がいなければ本能寺の変が起きて明智光秀、上杉景勝、毛利輝元らに 攻撃されて織田が滅んでいたかも
上杉の当時の状況…わずか38〜40万石そこそこの国力で信濃で森6000・上野で滝川18000・北陸で柴田45000・揚北で新発田とそれを支援する伊達・芦名(計2万くらい?)と交戦中。
本能寺の変後も信濃で徳川(計25000?)、上野で北条(3万)揚北で新発田・伊達・芦名(計2万と交戦)。
佐々成政10000がいれば兵力的なバランスで、織田が滅ぶどころか、即効瞬殺できないとおかしい兵力差。そんな状況でも上杉景勝は本能寺の変前の信濃長沼攻防で森を撃退し
ろくな備えもない魚津城攻防では柴田45000を4ヶ月近く苦戦させるなど、多いに敢闘していたが。
毛利の当時の状況…寝返った南条や宇喜多に大苦戦し、宇喜多には遭遇戦で大敗してるほど。おまけに大友との会戦でも敗れるなど、
織田領攻撃はおろか、放置しても大友に圧倒されそうな勢い。
明智光秀…主殺しの汚名負ったせいで、家康も柴田も信雄も信孝も丹羽らも自分を敵と見定めている状況。味方は誰も存在しない。放置しても
柴田や家康や信雄らにあっさり滅ぼされるのは目に見えてる。
どう考えても織田が滅ぶシナリオなど存在しな。
938 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:13:37.23 ID:9YBMErtz
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
939 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:14:29.33 ID:2e1HaEsw
毛利陣栄と間違えて自陣に飛び込んだ本当かうそかもわからん情報を真偽も確かめず
鵜呑みにしてまっしぐらに東上するとか普通にありえんだろ。
最初から秀吉が仕組んでやってたから100%正しいと信じる事ができただけ。
常識的に考えて光秀が単体で本能寺を行ったとしたら光秀方としては情報の漏洩
はすなわち死に直結するわけで、毛利への使者もわざわざ秀吉に見つかりやすい山陽ルートではなくより安全な山陰ルートか
それでなくとも高松近辺からの接近は避けようとするはず。
しかも機密情報握った使者がなぜか、毛利方陣営と羽柴方陣営を間違え、しかもその本当かどうかわからん情報も秀吉は鵜呑みにしてさっさと陣を払っているあり得ない事態。
備中〜京をわずか1日半で情報が駆け抜けるというのもありえないが、それ以上にありえない奇跡ばかり起きているのが本能寺の変。
状況から考えて秀吉と光秀が共犯で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って主殺しの汚名を一身に着せたとしか考えられない。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即しているといえる
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がないしな
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてるし
940 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:14:47.84 ID:2e1HaEsw
川角太閤記は二次史料だが信長公記程度の史料価値は一応あるし
ところどころに密使を置いてたなんて書いてもない上に、置いたところで
あの200キロ以上を1日半で情報がすんなり通った事に変わらんだろ。
つーか光秀は中国方面に情報封鎖してなかったのか?って話だし
単純に光秀が殺してその通達を秀吉に何らかの形で伝えただけなら、秀吉がそれを鵜呑みにして
急いで毛利と講和し(これも藤田氏?の説だと本能寺前から勧められてたらしい)陣を引き払って引き返しただけ。
そうでなきゃありえないような偶然が多過ぎるしあの自らを四面楚歌に置くような成功するわけもない状況で謀反を起こす光秀が馬鹿になってしまう。
941 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:15:31.13 ID:dj+faqDf
状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
942 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:15:55.92 ID:SyFH/csS
秀吉は10日かけて200キロを走破しただけで「大返し」なんて大袈裟な誇張のつく芸当なんてやってないし
柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
943 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:16:18.77 ID:SyFH/csS
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
事前に準備もしないのに備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるのはありえないわけ。
光秀が単体で謀反起こしたというなら秀吉は敵になり、毛利に向けた使者が秀吉の陣営に都合よく飛び込むというのもありえないわけ。
さらに秀吉がその情報の真偽を確かめる事もなく、ただちに陣を引き払ってるのもありえない。もし仮にそうだったら秀吉は誠に馬鹿としかいいようがない
(たまたま光秀が信長を殺した報が正確だったから結果オーライだったが、偽情報なら秀吉は毛利に後ろ見せるだけの馬鹿になる)
そもそも大返しが凄いなんて一部の秀吉マンセーの馬鹿しか言ってないし10日で200キロだから
速いどころか遅いとしかいいようがない。
944 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:16:44.64 ID:dj+faqDf
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
つーか本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事だから最初から勝てて当たり前でしょ。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
945 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:17:43.76 ID:dj+faqDf
つまり光秀が情報封鎖もできない状況で挙兵するほど馬鹿だったって事か。
単体で謀反起こしても主殺しの汚名を負って自爆するだけな状況で単体で実行とかありえんだろ。
秀吉への情報伝達スピードと、それに対する秀吉の行動(情報の真偽を確かめずすぐ行動)から考えて、
単純に光秀と秀吉が共謀で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って光秀を主殺しの悪人に仕立てあげただけでしょ。
946 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:18:48.66 ID:tkpOn185
ようは信長が無防備な状況の時が分かればいいんだから、秀吉が信長の「御動座」を要請してた
中国攻めの援軍の時期に狙い撃ちすればいいのだから、その時期は秀吉次第で操作可能だろ。
細川や筒井は当初は、協力する予定だったかもしれんし言ったかもしれんが信じなかったってだけじゃないの。
信孝や細川から見ても所詮光秀は主君を殺したことには変わりないし
直接的に手を下した事で100%犯人である事が確定的な光秀の言う事を信じるか
関わっている可能性があるだけで、全く証拠も0で、何より味方がうじゃうじゃ多くてさらに増えている
主殺しを討つ大義名分掲げて京にやってきた秀吉の言う事どっち信じるかって話になるだけだし
947 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:21:49.55 ID:zgdZYQoe
織田在日発狂中www
948 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:52:04.33 ID:tkpOn185
例えていうなら
空き家に財宝があるのをコソドロするくらい
空きやから良い距離にあって、把握していれば誰でも簡単にできる。
だが空き屋からはるか遠い場所にあったり
自分の家で揉め事が起きたり、他の家の人間と喧嘩になったり命狙われてる場合はそれができない。
織田や豊臣の場合は空き屋から程よい位置にあって、自分の家が相当裕福だったから
楽勝でコソドロできただけ。
949 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:52:42.80 ID:4kw/hFfY
信長や秀吉は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね
道三・義龍・龍興と三代続けての内紛とクーデター騒ぎで弱体化しきった斉藤
木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で弱りきった伊勢。
遠州騒乱と松平独立で弱体化しきった今川
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化しきった六角
三好や松永らの反逆で権威が落ちきり信長に助けを求めてきた足利将軍家
守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない播磨但馬丹波。
石高がわずか12万石しかない摂津
950 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:53:12.68 ID:tkpOn185
信長や秀吉って自力で戦に勝ったことないもんなぁ
斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊
六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める
上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
951 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:54:21.93 ID:4kw/hFfY
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
952 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:54:54.31 ID:4kw/hFfY
そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
953 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:55:26.94 ID:4kw/hFfY
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
954 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:56:02.16 ID:4kw/hFfY
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてる
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
955 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:56:23.32 ID:4kw/hFfY
昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
信長の上洛戦を支援するために三好義継が河内津田城と久秀がいる大和多聞城を行き来し指揮を執り、
それに呼応していた畠山軍は三好三人衆の経済的権力の源泉である堺で攻防戦を繰り返して三好三人衆を疲弊させていた。
その隙を見て美濃立政寺へ移動した義昭を追って、石成友通が近江へ入り六角承偵親子と戦準備しているのを阻止するため
信長の気がまた変らないうちに義継と久秀が東大寺戦線で一斉反撃に出た。東大寺戦線が崩壊すると京が占領されてしまうので
9/4には再度、石成が東大寺戦線に駆けつけてる。これで兵力不足を見た信長が9/7に上洛戦を開始。
しかし石成は電撃的に近江戦線へ駆けつけて織田軍を9/8に大破し、また東大寺へ戻ってる。