942 :
人間七七四年:2014/05/20(火) 21:20:13.95 ID:ZY+IjkEl
>>940 そうだな
徳川譜代が結束してたというのは俺の間違いだな
943 :
人間七七四年:2014/05/20(火) 21:43:48.15 ID:svEiltXE
そもそも重臣中の重臣だった石川数正を引き抜かれた過去があるからな。
家康は親父も祖父も家臣の裏切りで死んでるし疑心暗鬼になってもおかしくない境遇。
944 :
人間七七四年:2014/05/20(火) 21:57:42.02 ID:CYeNqbDk
徳川ってほとんど旧今川系旧武田系旧北条系と
山奥の国人系(山家三方衆とか松尾とか知久)とかで成り立ってるだけでしょ。
譜代とか子飼いなんてごく一部だし
その一部でも結束してるかなんてよくわからん。
945 :
人間七七四年:2014/05/20(火) 21:59:15.44 ID:AGBSsfN0
子飼い系とか譜代だけでいうならもってる戦力なんて微々たるもんじゃないの。
まあ徳川に限った話ではないけど。
946 :
人間七七四年:2014/05/20(火) 22:05:04.11 ID:yHwUvyqP
豊臣の子飼いと比べるなら徳川は旗本先手組かな
947 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 04:49:28.62 ID:+LqPJ9GT
むしろ秀吉は子飼い大名に領地やりすぎたのがいけなかったと思う。
多くても10万石程度にとどめておいて余りは蔵入地にしとけばよかった。
948 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 10:21:46.05 ID:c39E1yn2
三成に19万石は明らかにやりすぎたな
しかも朝鮮出兵前は12万石だったのにそこから前線で命がけの戦いをしている大名をさしおいて
三成を優先的に加増したために現場の不満が爆発した
命がけの戦いをしても官僚側に恩賞が吸い取られるなら戦いたくなくなるのも当然だ
西軍大名の大半が関ヶ原で戦闘をしなかったのも必然の結果といえる
949 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 11:10:17.79 ID:LUDe5XZZ
前田や浅野みたいなただのヘたれや
毛利みたいな雑魚に大封与えるくらいなら、石田らに120万石だの与えてたら間違いなく豊臣政権は安泰だった。
三成は豊臣蔵入り地を少しでも確保しようと島津の領土問題に立ち入ったり
家康の専横に異を唱えたりと東奔西走した。
不運は、武功派連中がアホすぎて豊臣への恩を忘れて家康にマンマと篭絡される形になったこと。
東軍なんて徳川勢以外は、三成にくしで凝り固まってたアホ武功派くらいしかいないからな。
950 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 11:16:41.32 ID:LUDe5XZZ
豊臣の位攻めを全身で支えてきたのは三成や小西らのおかげ。
豊臣軍が戦争できたのは奉行衆らの兵站管理能力のおかげ。
それを考えると100万石やっても十分すぎる。
ほとんど功積のない福島加藤黒田とか雑魚武将にやるくらいなら
三成に数百万石やったほうが遥かにマシ
951 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 11:17:58.15 ID:hZzyKra7
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな
952 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 14:47:00.40 ID:iaFlY5C4
>>951 逆に考えると小山から関ヶ原への家康が命じた軍の移動って彼にしては下手すぎない?
東海道先鋒と中山道と本隊に三分割して
先鋒だけ突出する形になってたから西軍がまともに動いてたら各個撃破されてたかもしれないのに
美濃・尾張押さえられたら烏合の衆の三河〜駿河の小大名なんて西軍の先鋒になっちまうぜ
ただでさえ家康本隊が一番弱いのに
953 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 15:14:44.69 ID:9tL+HCYw
>>952 西軍の動向を把握していたんでしょう
情報収集と封鎖において関ヶ原の家康は神がかっている
954 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 15:31:38.99 ID:iaFlY5C4
そっか、家康にはハットリくんみたいなのがいっぱいいるんだよな
955 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 15:57:17.76 ID:kpAF02QU
家康は会津征伐を続けようとしたが、
三成謀反の話を聞いた武断派がいう事を聴かずに西上してしまったため
家康は武断派と西軍が通じているかも疑心暗鬼になって
ふさぎこんでいた。
956 :
人間七七四年:2014/05/21(水) 16:12:35.23 ID:9tL+HCYw
>>955 小山会議が存在しなかったとする論は、本多隆成氏が否定しているな
957 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 07:55:47.97 ID:1rijKBkD
いくら天下人と言えど封建制なんだから自由に改易しまくれない事くらい分かるだろ
五奉行はみんな首脳部の政治家でしかないんだから、そういう奴らの土地ってのは私的な財産と変わらん
958 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 08:07:05.41 ID:PC20T7sk
ぶっちゃけ大領を与えようとするなら地方の大大名潰してそこの土地に移すか
畿内の蔵入地から自腹切って裂くかのどっちしかない
で、どっちも豊臣政権にとっちゃ致命的 要するに無理
959 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 08:15:09.46 ID:RhhXqwAs
毛利や小早川にやる土地とか削ればいいだけじゃん。
中国地方120万石+九州50万石を三成小西あたりに分け与えてたら
関ヶ原は西軍完勝で終結。
960 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 08:19:04.58 ID:PC20T7sk
小早川の土地をやろうとしたら三成がことわったんだよ。
地方の大領なんて貰っても中央の政局から遠ざけられるだけで得しない。
大領の統治を代わりに任せられるほどの人材は奉行集の配下にはいないからな。
961 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 08:20:07.76 ID:1rijKBkD
そんな事したら毛利が東軍に付く事になってただろうな
まぁ、降伏を認めず武力で完全屈服させれば旧領解体も可能だが
962 :
961:2014/05/22(木) 08:22:00.70 ID:1rijKBkD
963 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 08:25:12.82 ID:PC20T7sk
ぶっちゃけ毛利や徳川の土地をそう遠慮なく削り取れるぐらい
豊臣の権力が強かったら誰も苦労はしない
964 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 11:20:42.63 ID:+WaIm/mh
>>950 豊臣軍が兵站を維持しながら戦争できたのは秀吉が豊富な資金を用意したからであって
石田や小西は秀吉から貰った金で米を買っただけで子供できるお使いをしただけに過ぎない
その証拠にそういった売買が通用しない朝鮮出兵や資金を提供してもらえなかった関ヶ原では
石田や小西など兵站において何の役にも立たないお荷物だった
むしろ朝鮮出兵のような苦しい戦いを続けることが出来たのは武断派が異国の地でも必死に兵の士気を繋ぎとめてくれたおかげ
だから彼らと手を切った西軍は士気を維持できず抜け殻のように戦意を喪失していった
石田や小西は戦のことなど何も知らない素人だから武断派の手腕の重要性にまるで気付かず
子供のお使い程度のことをしてきただけの自分たちを過信し自滅していった
965 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 13:16:29.15 ID:PC20T7sk
兵站関係で実績があったのは長束だろ。
三成の手柄は主に検地の実行役。
それゆえに諸大名から恨みを買った。
966 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 15:16:34.44 ID:+En0VOfG
毛利なんて大国やっても全くといっていいほど関ヶ原では役に立たなかったんだし
その分をいちゃもんつけて削って、三成や小西や大谷あたりにやってたら万事解決してたな。
最低でも小早川に毛利と別枠で50万石やるくらいなら、石田や小西や大谷あたりにやってた方が良い。
それから徳川に大版図やったのも誤り。
毛利から削るのが難しいなら、関八州を奉行系や畿内の諸侯にやってれば良かった。
967 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 17:21:17.80 ID:PC20T7sk
家康に関東与えたのはゴタゴタの続く奥州の処理を丸投げさせたかったからだよ
そんでなんか失点あれば突く気満々だったわけ
唐入りでてんやわんやになってそれどころじゃなかったけど
徳川・毛利に関しちゃ豊臣政権ないでは完全別枠の聖域扱い
あんだけたくさんの大名が連座いちゃもんつけられまくった秀次事件でも
この二家はノータッチ
細川は秀次から借りた金返すのに家康から借金したのに
毛利は借りた金返さずにそのままガメてもなんのお咎めなし
968 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 18:21:36.77 ID:vTZK1/II
家康に関東を与えたのが奥州の処理の丸投げが目的なんて書いてないし
別に東海5ヶ国だけでも奥州の処理なんてやらせられるでしょ。
それに早い段階から豊臣に貢献してきた毛利と違って
徳川に対して2倍もの加増をしてやる理由なんてないし
おかげで徳川は軍事力倍増・中央集権化成功と大きく躍進する事になった。
毛利から削るのが難しいのはまあわかるが、徳川に大盤振る舞いしなきゃいけない理由なんてないわな。
普通に小西大谷石田にやるか、畿内の諸侯にでもやるかすればよかっただけ。
徳川なんて豊臣に従ってきた期間でも他の連中より短いし、その分、豊臣への貢献度も大きく落ちるし。
969 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 18:32:38.37 ID:PC20T7sk
忍城でちんたらやってた石田に関東とかないわ
あれは秀吉の指示が悪かったんだけど
970 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 18:42:25.95 ID:c6Vcr4yC
>>968 関東一円を任せられる人物は家康しかいないから
分割統治は論外だし
971 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 22:04:26.68 ID:Ky1w+Kuu
家康に任せて失敗したら
佐々みたいに殺すつもりだったかもね
972 :
人間七七四年:2014/05/22(木) 22:28:53.33 ID:mrg2vlhJ
家康が失敗したら唐入りどころじゃなくなるからそれはないんじゃね
973 :
人間七七四年:2014/05/23(金) 22:01:15.96 ID:VSr4BXSr
>>969 三成は失敗するたびにあれが悪いこれが悪いと言い訳のオンパレードだからな
難しい状況で仕事をしているのはどの大名も同じ
言い訳を繰り広げるしか能がない三成を現場で厳しい戦いをしている武断派が嫌うのは当然だろう
974 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 09:53:43.30 ID:aKDtXbha
テスト
975 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 17:50:56.99 ID:KPL5wWBv
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。
秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。
976 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 17:51:44.46 ID:KPL5wWBv
当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。
そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
977 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 19:05:43.63 ID:1tmMy1L9
>>975 どんな理由があろうとも補給を万全にして豊臣軍が問題なく明に進軍できるようにするのが三成の仕事なのに
それができないばかりか自分の無能さを棚に上げて豊臣の進軍予定を勝手に止めようとする
三成のあまりの身勝手さに豊臣恩顧大名の多くが怒り三成を嫌うようになったのも当然だろう
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに口先だけ反対しながらそのまま水攻めを現場に押し付けるという最悪の行動を取り
不満の溜まった現場では堤防への手抜き工事が横行しあえなく決壊してしまった
関ヶ原でも毛利の決定を無視した三成の身勝手な行動に西軍大名の大半は耐えられず
本戦ではほとんどの大名が戦闘を拒否するほどの嫌われようだった
確実なのは三成が戦に関わると現場は大混乱に陥り勝利どころか戦の遂行さえ困難になるということ
三成のせいで豊臣が崩壊に追い込まれたことは間違いない
978 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 23:11:16.62 ID:v5Ohkok/
三成のいう事を無視して進軍続けてたら、豊臣軍は兵站網崩壊して全滅してただろうな。
日本とは比較にならない国土面積の敵地への深い侵攻と、寒冷な気候で馬鹿みたいに
それまでのショボイ国土と朝鮮に比べれば温和な気候の中での戦しかなれてない日本軍じゃどうしようもない。
979 :
人間七七四年:2014/05/25(日) 23:59:31.59 ID:p7N6o9RE
>>973 そのわりには石田ばっかりガンガン景気良く加増されてるのよね。
秀吉の死ぬ直前には50万石クラスまで伸びる話があったと言うし。
在番組のトップやってましたとかならともかく、ただの報告役が大加増で前線にでてる諸侯は何もなし
それどころか小早川みたいに仲間を助けたら領地が半減とかちょっと理不尽に過ぎる。
980 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 05:59:13.01 ID:w7i/trkL
小早川に関しちゃ秀吉が秀次のときのように後々の秀頼の対抗馬潰しておきたかったんだろう
自分の親類で元養子で官位も高いし、繋ぎの関白の話がきてもおかしくない人物だったしな
そんなのが半島で英雄になられちゃたまったもんじゃないと
981 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 07:27:55.59 ID:xZSpwb/P
小早川なんて朝鮮でろくに活躍してねーじゃん。
むしろ足ひっぱってただけだし。
982 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 20:55:34.27 ID:8j9ELN3r
そりゃ小早川が初陣で蔚山に行った直後に讒言攻撃を受けたのだから活躍のしようがない
小早川からすれば文治派に足を引っ張られたうえに領地まで盗まれそうになったわけだしね
983 :
人間七七四年:2014/05/26(月) 22:40:13.69 ID:HukGJPVY
小早川って一騎掛けで秀吉に大目玉食らうまでは後方で砦の普請とか兵站の管理がメインの仕事だったよね。
その方面で何かやらかした、諸侯の足を引っ張ったという記録はあったっけ。
俺が知らないだけ?
984 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 06:53:04.64 ID:9KDmfJCt
三成襲撃したときの武断派の大義名分が蔚山の論功行賞だからなあ。
結局は家康の計らいで小早川が旧領に戻れることになって武断派も
矛を収めざるを得ない結果になったけど。
985 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 11:44:44.85 ID:DUZdANBs
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
986 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 13:58:11.79 ID:SoTMD18F
後退の叱責を一人でかぶるなら三成は切腹するべきだったし
秀吉は甘やかさずに三成を切腹させるべきだった
三成のような奸臣が死ねば豊臣には300年の天下が約束されたも同然だったのに
ここで奸臣を放置したために豊臣は崩壊に追いやられたのだから
豊臣にとっては悔やんでも悔やみきれないミスだろうね
987 :
人間七七四年:2014/05/27(火) 16:19:44.59 ID:6KLUt2fq
>>985 菅沼くんは小早川秀秋についてはどう評価してんの?
988 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 00:15:53.72 ID:O9inuQgO
朝鮮出兵が失敗した主な要因は2つあり
石田による補給確保の失敗と小西による講和交渉の失敗がある
武力では日本の方が勝っていたが文治派の能力があまりにも低すぎた
散々に足を引っ張られた豊臣恩顧が文治派に怒るのも仕方がない
989 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 12:58:04.15 ID:3nyhJMOX
当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。
そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
990 :
人間七七四年:2014/05/28(水) 23:28:38.36 ID:O9inuQgO
朝鮮側がまったく準備できていない状況の中で電撃的な上陸を成功させた日本は
明の援軍が来る前に朝鮮全土を占領することも簡単なはずだった
そうすれば日本の武威の前に明もなす術がなく戦は短期的に終わる予定だった
ところが石田が補給の確保に失敗し進軍の停止を要求したために日本側の先制の利が失われ
さらに小西が交渉に失敗し日本側の要求を何一つ飲ませることが出来ず日本国王だけ貰って家臣になる始末
成功間違いなしだった朝鮮出兵は石田と小西の無能によってまさかの失敗に終わった
戦場で圧倒的な武威を見せながらも文治派に足を引っ張られ撤退を余儀なくされた豊臣恩顧が
無能な官僚達に激怒し解任を要求するのも当然の対応だろう
家康は文治派の責任を認め石田を解任し小西の職権も停止するなど豊臣を立て直す改革に取り組んだ
奸臣の謀反によって頓挫したものの家康の奸臣排除改革を必要とするほど豊臣にとって朝鮮出兵の失敗は深刻だった
991 :
人間七七四年:
そもそも海を渡ってきた日本側が長期戦になれば不利なのは明白であり
朝鮮側が防御の準備をする前に速攻で朝鮮を落とすことが日本の戦略だった
途中までは順調に進み明の援軍が来る前に全てを片付けて戦を終わらせることが出来たはずだったのに
三成が兵站に失敗するという致命的なミスを犯したために日本の進軍は遅れてしまい
日本側の必勝の戦略は三成の無能によってあっけなく崩れ去った
朝鮮出兵の失敗の責任はすべて三成に帰するのは火を見るより明らかであり
戦後に現場の武将から無能な三成の解任を要求されたのは必然の結果であった