1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 17:25:41.33 ID:3f17t7so
3 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 17:26:21.38 ID:3f17t7so
4 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 22:47:27.71 ID:o129YaQq
37の次はこっちからでいいの?
5 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 01:28:46.23 ID:ucKho9tW
6 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 17:20:56.15 ID:hSTdodAz
(豊臣秀吉が死去したという)風聞が8日ないし10日間続いた後、国王(太閤様)は幾分病状を回復し、
二人の奉行を召して次のように命じました
「両人は大阪に赴き、大阪城の拡張工事に着手し、出来うる限り早急に全普請を完成するよう全力を尽くせ。
また、伏見から大阪に屋敷を移さなければならなくなった諸侯には、金、銀、米を以って出費を補填してやれ」と。
大阪城に新しく巡らされた城壁の長さは3里にも及びました。その労力に対して支払われた賃金は数千金にも達しましたが、
太閤様はこれについて、少しも支払うことはなかったのです。
拡張工事の区域内には上人や工人の家屋、7万軒以上が有ったのですが、全て木造でしたから、住民自らの手で
全て2,3日中に取り壊されてしまいました。その命令に従わぬ者は皆、財産を没収すると伝えられていたからです。
ただし、立ち退きを命ぜられた住民に対しては、長く真っ直ぐな道路で区分けされた代替地が与えられました。
そしてそれぞれの家屋は、軒の高さが同じになるように、また、檜材(日本における最良の材木)を用いるようにと命令されました。
この命令に従わなかった者は、地所も建材も没収されるということでした。
民衆は、諸侯や人夫たちが喧騒の内にこのような大普請を開始したのを見て、奉行たちが言うように、太閤様はご存命だと
すっかり信用し始めました。何故なら、家康も奉行たちも、もし太閤様が亡くなったのなら、このような辛く嫌な仕事に
簡単に着手するはずがないことを、容易に察せられたからです。
(ルイス・フロイス『日本史』)
民衆たちが、諸侯や奉行がまじめに普請しているのを見て秀吉の生存を確信する、という記録である。
7 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 18:59:54.61 ID:LDkmCntm
(●∀゚) 「ヤバイと思ったが、欲望を抑え切れなかった」
慶長元年の秋のこと。
伏見の木幡山に築城を始めた秀吉に、政宗は大坂・伏見間を行き来する船として
長さ三十五間、朱塗りの御座船を造り献上した。
その翌日、政宗が登城すると、折りしも秀吉は朱糸の柄に銀拵の刀を抜いて、これを鑑賞している最中であった。
「これは信長公が惚れ込んでお集めになった備前長船光忠、二十五腰のうちの一振りじゃ、その方も拝見するか」
と政宗に手渡したので。押し頂いて拝見すると、
実に見事な蛙子丁子の刃紋である。
政宗がうっとりと見惚れていると、秀吉が声をかけた。
「どうじゃ、名刀であろう?欲しいか?」
「は!欲しゅうございますゆえ頂戴仕ります!ありがたき幸せ!」
やったぜ! )
メ ┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨
ヘ(●∀゚)ノ
≡ ( ┐ノ
:。; /
そう言い残すと政宗、そのまま光忠を持って一目散に逃げて行ってしまったのである。
これにはさすがの秀吉も苦笑して、そのまま遣わしたことにしたという。
もっともその翌日には
政宗と太閤殿下のハートフルな交流
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6665.html にあるように、泥棒呼ばわりされて追いかけられたようだが・・・・・・。
8 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:01:17.05 ID:LDkmCntm
かつて秀吉から秘蔵の光忠を【拝領】した政宗。
それから十数年の歳月が流れ・・・・・・・伊達屋敷に一人の若者が遊びに来た。
徳川の問題児、水戸の頼房である。
この素行不良の気がある若者に、
政宗は何か合い通じるものを感じたのか、秘蔵の光忠まで見せる歓待ぶりを見せ、
この刀がかつて信長公の差料であったこと、自分が秀吉公からまんまとせしめたこと、
政宗の手に帰してからは、唐金(青銅)の燭台の後ろに隠れた不届き者を、燭台ごと斬り伏せたので
「燭台切り光忠」と名付けたこと、などを得意げに語って聞かせたところが、
頼房もまたこの刀にすっかり魅了されてしまい、
「ぜひともこの燭台切り光忠を譲ってくだされ!」
と政宗に懇願した。
「いやいや、こればかりはお許しあれ」
と政宗が断っても、頼房はなかなか引き下がらない。
「くれ!」「やらぬ!」の押し問答がしばらく続いたのち
「かくなる上は・・・・・・御免!」
(♯●Д゚) 「ちょっ!駄目だって!」
俺もやったぜ! )
メ ┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨
ヘ( `∀´)ノ
≡ ( ┐ノ
:。; /
なんと頼房、光忠を持ってそのまま強引に逃走。
無理矢理自分のものにしてしまったのである。
皮肉にも、かつてやったことをやり返された格好になった政宗だが、
結局、燭台切り光忠はそのまま水戸家に伝来し、政宗も返せとは言わず、
そのまま長く水戸家の家宝として伝えられたということである。
『武庫刀纂』より
9 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:22:49.52 ID:7EtuaJjr
逸話のせいで武庫刀奪に見えた
10 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:27:03.79 ID:ZCDsaleY
弁慶みたく奪ってあつめる
11 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:31:14.01 ID:uaLXwsK6
俺も欲しくなってきたからちょっと行ってくるわ
12 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:37:08.99 ID:ZCDsaleY
武庫刀簒なら奪うことになるな
13 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:37:34.09 ID:oH3NDXZQ
流石は天下の副将軍たち
14 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 23:18:24.44 ID:vkKYEmy+
黄門はDQN揃いなんですか
15 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 23:58:52.71 ID:6yLzipxY
>>7 >と政宗に手渡したので。押し頂いて拝見すると、
久生十蘭もかくやと
16 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 08:46:46.15 ID:Fim5UwcC
ここは無理を通せる、っていう空気読むのが上手い人いるよね
17 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 12:21:13.01 ID:PsL9Tlh/
政宗と太閤殿下のハートフルな交流←ふざけてるにしても「盗まれた」って秀吉酷いなーと思ってたら
ガチで盗んでたんだ、あのヒト・・・。
18 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 22:49:24.74 ID:rk6pcNEd
(徳川家康は)太閤(秀吉)の諸事を尊重して盛大に行い、太閤の恩恵に感謝の意を表すことが、
大いに自分の助けになると見た。というのは、太閤は強い信頼感を以ってその死に先立ち、自身の息子と
天下の全統治を彼に委ねたからである。またこれによって、いかにその太閤の家臣であった領主たちの
歓心を買えるかを見た。そのために、若君(秀頼)とその母(淀殿)、及び太閤の正室(北政所)を
常に大いなる礼節と尊敬を持って遇したのみならず、とりわけ太閤を崇め、彼の諸事を盛大に
しうるような機会を決して失する事はしなかった。そのため、1604年に、彼を崇め、日本の
主要な神の一人として、奉祀することを決めた。(豊国祭 七回忌臨時大祭の開催)
すなわち、彼は太閤を、神々と同等、あるいは優れたものとし、そして古代ローマやギリシア人が
マルスの加護を祈ったように、彼ら日本人が戦闘において加護を求める神であり、偽りのデウスである
八幡と呼ばれる神そのものにした。
しかし、彼(家康)がこうしたのは、考えられるように、太閤の内になにか隠れた神聖、あるいは
人間性を超えたものがあると信じたからではない。というのはつい最近まで、万人が太閤を、
必滅すべき多くの欠点と悪行に満ちた人間として認識していたからである。
(家康が)こうしたのは、世俗のこれらの栄誉を以って、太閤から受けた恩恵に感謝の意を現し、
合わせて太閤に対して抱いている敬意と尊崇、死後もなお彼の名誉を高めたいという気持ちを、
その太閤に恩義を感じている人々に示して、これによって彼らをさらに有難がらさせ、彼らの
歓心を買って、自己に対する忠義と愛において彼らが決して欠けることにの無い様にしようと
したために過ぎない。
そしてまた、或人々が考えている所によれば、これは、こうすることによって、死後、
自分(家康)にも同様にしてもらう道を開くものであった。
(16・17世紀イエズス会日本報告集「1603、04年の日本の諸事」)
有名な「豊国祭」の開催に関する、イエズス会への報告である。
19 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 06:52:30.40 ID:JDhiNh1f
法事を仕切るとか昔からある禅譲を認めさせる儀式ですしね。
20 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 23:11:29.18 ID:EYS5CZKe
翻訳もの独特の雰囲気と、日本に対する深い造詣と異教ディスりの混在が大好き
21 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 20:05:50.04 ID:6v77XdVE
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は朝鮮へと出兵し緒戦に大勝、たちまちの内に首都漢城(ソウル)を陥落させ、朝鮮を蹂躙した。
その後、総大将である宇喜多秀家より、相談すべきことがあるので諸将に漢城に集まるよう触れがあり、
尽く集合すると、大将秀家及び三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)から評議の内容が伝えられた、曰く
「各々の手柄に寄って各地の城も既に陥落し、その他の朝鮮人は戦わずして退散した。
しかしながら、朝鮮は元々大明の属国である。必ず大明より加勢が出されるだろう。
その上、朝鮮が既に敗北したと聞けば、大明も日本兵が侵入すると思い、必ず戦のための
大軍を差し寄越すだろう。この場合、これと戦う手立てはどのようにすべきと各々はお考えか?」
黒田如水はその座に居たが、これを聞いて
「仰せの如く、朝鮮が敗北したことを知れば、必ず大明より救援の兵が多く来るでしょう。
この都(漢城)より釜山海までは十余日ある長路であり、日本までの通路は遠く、物資の運送は不自由ですが、
朝鮮を切り従える中心でありますから、これを放棄して釜山まで後退するのは本意無きものであります。
そこで、秀家殿並びに諸将は諸大将はこの都に居て、ここを根城として都から大明の方へ1日路程の所に、
取出しの城を数ヶ所構えて諸将をこれに籠め置き、大明の兵が攻めきたれば、どこの城であっても都より
助勢の兵を出し、後詰をして勝負を決せられる事こそ然るべきと考えます。
都から数日も進みすぎて遠くに城を構え敵を防ごうとすれば、大明より敵が大軍で来る時、都からの
援軍を遣わすことが難しくなる。」
そう申し上げた所、小西摂津守行長が進み出て
「これほどに朝鮮人を大勢討ち殺し、敵が恐れて逃げ去っている以上、もはや朝鮮人は出て戦う事は
無いでしょう。もし朝鮮王が大明の王を頼み加勢を乞うたとしても、大明の王が数万人の命を朝鮮王に
与えて、加勢するような事が有るはずがありません。特に大明と朝鮮の境には、鴨緑江という音に聞こえた
大河があります。その河を大明より大勢の人馬兵糧諸道具を渡らせてこちらに来るというのは
成り難いことです。
各々は何れなりとも、好きな所に城を構えて下さい。この行長は出来る限り大明の近くまで押し行って、
城を攻め落としそこに籠もるつもりです。」
これに、如水は重ねて言った
「この都より程遠い所に居城を構えた場合、大明人が大軍で押し寄せ四方を取り囲み堅固に向城を付けられ、
後詰の来るべき道筋まで塞がれてしまえば、我々の5万7万程度の人数では簡単に対峙できるものではない。
その上、にわかの時に都から急に助ける事は出来なくなる。その時になって後悔してももはや意味が無いのだ。
世俗の諺にも、用心をば臆病にせよというではないか。どうか都の近くまで引取り居城を構えられよ!
もし出過ぎた所に居城して敵の大軍が防ぎ難く、その勢の強きを見て引き退くなど、見苦しいではないか。
第一それは味方を弱気にし、日本の恥辱でも有る。進み過ぎては後難有るべし。軍法を確かにして、後悔なきよう
すべきである!」
小早川隆景もこれを聞いて
「如水殿の仰られる趣は尤も至極である。都より遠くに出て城を構えることには、後の禍があろう。
そもそも大明より大勢を指し寄越す場合、南部は海が近いのだから兵糧運送の便がある。
それに鴨緑江大河であると言っても、船で渡れば何の苦労もない。
しかしながら大明からはるばる大軍を差し寄越すのは大儀なことであるから、にわかに来ることはないだろう。
その間に各城を堅固に改修しておく事こそ肝要である。」
しかし小西は同心せず、
「深く大明の境まで入って、大明の兵が出たとしても恐るるに足らず!我一手にて大明に切り入るべし!
諸大将にはその後詰をお願いしよう。」
そのように言うのを、皆が固く止めたため、小西一手で大明に攻め入る事だけは制止された。
それでも小西は黒田如水、小早川隆景の諌めを聞かず、みだりに深入りを好み、平壤の城が大明の
手前であるので、これを居城とした。
そもそも小西行長は初めに、日本から朝鮮に入るときも荒き風波をしのぎただ一人抜け駆けして渡海し、
今度もまた都から遠い場所に一人進み過ぎて深入りし、大明から大軍が来るという心配もせず、敵を侮り
危ない働きを好んだ。
果たして翌年の春、大明より襲来した大軍に囲まれた時、都より遠いため援軍が来ることが出来ず、
小西はついに敗北したのだ。如水がかねて未然をはかり、諌めたことは寸分も違わなかったのである。
(黒田家譜)
22 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 20:20:52.14 ID:GJIKTHlk
全部小西のせいっ…死人に口なしか
23 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 20:22:18.22 ID:3fZNZU+1
きたないさすがくろだきたない
24 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 20:25:23.30 ID:bt7SM/Du
ひでえもんだ
25 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 20:49:50.05 ID:YTkDsab0
小早川は同意見だったとわざわざ書くあたり、この時代になっても隆景の評判=絶対に間違わない、がゆるいでないことがわかるね
26 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 21:04:23.19 ID:dHSTEyhL
長政「ヒャッハー!俺は小西についていくぜー!」
つか如水は漢城遠征組には従軍してないだろ。
27 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 23:17:31.50 ID:z4Z0jwjU
大河ではどう描くんだろうなあ
軽く触れて終わりか、スルーしちまうのかな?
28 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 03:10:39.35 ID:x3H8D3ka
某スレ(戦国板ではない)からコピペ↓
第六天魔王信長はゲームとかで出てくるからそれなりに知られてるだろうけど、
DQN四天王なんて、戦国板の住民くらいだろ知ってるのは
とりあえずDQN四天王(森長可、細川忠興、島津忠恒、伊達政宗)について一応補足
・森長可:信長家臣、森蘭丸の兄。小牧・長久手の戦いで戦死。
戦直前の遺書に「殺し殺されるという武士という職業はもうこりごり、弟には跡を継がせないでほしい。
娘は町人か医者にでも嫁がせてほしい」と書いたために、武士らしくないとDQN扱い
・細川忠興:戦国一の教養人にして戦国一の風見鶏、細川幽斎の息子。熊本藩主。
妻は明智光秀の娘の細川ガラシャであったが、秀吉が光秀を倒した際、離縁せず近所に幽閉。
しかし妻への愛から幽閉先に毎日通い、子供をもうけるという武士らしくないふるまいがありDQN扱い。
・島津忠恒(家久):薩摩藩主、九州や朝鮮の戦場で活躍した島津義弘の息子。
中央に対して発展が遅れていた自藩の近代化を検地の徹底などで推し進めた。
また、蹴鞠にこるなど武士らしくない面がありDQN扱い
・伊達政宗:仙台藩主。自藩の近代化にも成功し、開拓をすすめて実質100万石にまで国力を高めた。
先祖の同名の大膳大夫同様、和歌に精通し、料理、能など多彩な芸を持っていたため武士らしくないとDQN扱い
29 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 05:11:39.35 ID:CUcVlFSg
>>28 DQN四天王が根本的に誤解されていることだけは理解できた
30 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 07:52:25.88 ID:TLwVgCJC
31 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 10:04:24.56 ID:gQDjcUAJ
いやぁこういうのもいいもんだよ
自分の見聞きした範囲で好きに語るってのも
今はネットのおかげで知識が平均化しちゃうからねえ
32 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 10:06:58.42 ID:lWqGLMfn
戦国時代は教養のあるやつはDQN扱いメモメモ
33 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 10:48:02.06 ID:XeJl89c7
こういうのも外国ではあるようだ
205:世界@名無史さん2009/03/18(水)22:50:39
欧州の王侯にはあだ名をつけられた人がよくいますが、「賢王」とか「壮麗王」とか「美男王」なんかはともかく、
「残虐王」とか「肥満王」とか「短躯王」なんていう困ったあだ名の人たちもいました。
極めつけはヴァイキング時代のノルウェーの小国の王、シグルズ雌豚王ではないでしょうか。
土地の開発と畜産に励んだ今から考えれば普通の王様ですが、ヒャッハーでエンジョイ&エキサイティングな
荒くれヴァイキングからは、女々しい野郎ということでそんなあだ名になったのでした。
34 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:33:41.34 ID:GsmB4bPw
慶長四年より森右近(忠政)殿が入国され川中島四郡を領された。この時から
海津を待城と名付けたと言う。
その理由は、森庄蔵(長可)殿が在城されていた時に、信長公が明智光秀の為
に討たれ庄蔵が川中島を捨て退いた時の事。川中島の百姓どもは庄蔵を討つ
べしと猿ヶ馬場峠まで追いまくった。
庄蔵は引き返して戦った。しかし山中の百姓どもが結託して駆けつけたので
追い返され庄蔵は討死されたと言う。
(海津城主次第)
なぜか鬼武蔵が逃走中に討死にした事になっている逸話
この後に忠政が待城と名付けたり兄の仇として住民を磔にかける逸話に繋がり
ますが、蛇足なのでカット。
35 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 21:58:21.70 ID:tczpf9Ts
そういえば5人目の四天王がいなくね?
36 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 22:18:37.15 ID:nMP7S63Y
富田何某「どこかで私を呼ぶ声がする」
37 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 22:36:08.39 ID:GsmB4bPw
地獄から魚住某さんが呼んでるんじゃないかな
38 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 22:57:22.12 ID:J+RKylM+
天正18年(1590)、小田原の役の時の事
豊臣秀吉は大軍で日々小田原城を攻めたが落城させることが出来ず、無為に日々を多く送ったため、
諸軍の士卒も長陣に退屈しているように見えた。
ここで秀吉は、この時尾張清須に居た小早川隆景を呼び出し、はかりごとを協議した。
隆景は秀吉の諮問に答えて
「この度の長陣は、損害なく勝利するための基礎でありますから、現在の方針をより一層進めるべきで
あります。すなわちこの先は城攻めも止め、弓鉄砲も留められ、仕寄等の設備を入念に構築し、敵が
夜討などを出来なくするよう、用心堅固に仰せ付けられ、若き者には音楽をさせ、下々には小唄を
歌わせ、踊りを踊らせ、味方の気をくつろがせ、長陣の覚悟をさせ、敵の気が先に屈するようにする。
これが宜しいかと思います。」
秀吉はその旨に従い、全軍にこれを下知した。すると味方の諸軍は戦をやめて、至る所の陣所で
謡舞囃子の音、踊りの声が頻繁に聞こえるようになった。これにて味方は長陣の窮屈を忘れたのである。
そして敵の小田原城は、これを聞いて気を屈し、力が弱まった。
その後、黒田如水、小早川隆景は敵の気が屈した時節を考え、
「今ははや良き時分です。徳川家康は東国の案内者であり、特に北条とは縁者です。
ですので、家康とご相談をし、和議を提示すれば、北条は城中で気を屈している時節ですので、
必ずこれに同意するでしょう。」
と申し上げた。
秀吉も、いかにもその通りだと思い、北条氏直は家康の婿であるので、北条を降参させるため、
秀吉より家康との相談のため、黒田如水に家康への使いの命令が度々出された。
ある時、如水が秀吉の使いを勤めて家康の御前を立ち去った後、家康は如水のことを
「西国において第一の弓取りは、黒田勘解由(如水)である。」
と賞賛したそうである。
この頃、黒田如水は秀吉の用の無い時も、しげしげと家康のもとに通い物語などをした。
これにより如水は、家康に君徳の有ることを知り、志を通じるように成ったという。
(黒田家譜)
39 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 23:51:07.49 ID:+KA80BZf
ああ、今度の大河の(戦は嫌でございます系)の最大の見せ場w
40 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 00:40:58.96 ID:IeyAYl0G
隆景(清洲)→わざわざ小田原に呼んで直接相談
家康(在陣)→黒田を挟んで間接的に相談
41 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 00:58:03.67 ID:mbHB+0I8
格の違いですね
42 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 01:00:29.33 ID:v4Tv2YWu
なんで黒田家譜が隆景もちあげてんの?
43 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 07:27:05.43 ID:vUOMnSW5
>>39 文禄の役で帰国→秀吉激怒を超解釈で最大の見せ場にすると思う。
44 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 08:09:16.82 ID:tTUDACCk
>>42 隆景>如水だから
黒田家譜での如水の活躍の大半は隆景の活躍をパクっていると思われ
45 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 10:01:55.21 ID:88MG7KL0
>>39 例の名場面も、お前の左手は何をしていた(なぜ無益な戦を止めるよう諫言しなかったのだ)ってことになりそうな
46 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 19:44:26.30 ID:97uKCu0v
伊達政宗は小田原の陣の時、豊臣秀吉公にまみえんために、奥州の会津より越後、信濃を廻って
小田原の秀吉公の後陣に来た。
秀吉公はこれに御満足され、対面を許した。
その日の秀吉公のご装束は、作りヒゲに3尺ばかりの朱鞘の太刀を履かれ、床几に腰を掛け、
細い杖を突いておられた。
政宗はこの時、状況によっては秀吉公を突き殺してやろうと、懐に小脇差を入れて座っていた。
そこに秀吉公は、床几に腰を掛けながら
「こなたへ!こなたへ!近くに寄れ!近くに寄れ!」
と言われた。政宗は「あっ」と言い、刀、脇差を抜いて4,5間投げ捨て、秀吉公のお近くに寄った。
しかし秀吉公は杖で地面を突いて「ここへ、ここへ」と更に言われた。
政宗は畏まって、その場所まで行った。
その時、秀吉公は杖で、政宗の首を突いた。
「さてもさても、其方はうい奴である。若き者ではあるが、良き時分に来たぞ?
今少し遅く来ていれば、ここが危なかった。」
そう、政宗に言われた。政宗はそれまで、いざとなれば突き殺してやろうと思っていたのに、
この時はそんなことも考えられず、首に熱湯をかけられたような気持ちであったという。
その時、秀吉公は
「これから鷹野に行こうと思っているが、お主も行くか?」
と仰せになった。政宗は「参りたく思います」と答えた。すると秀吉公は
「されば、この刀を持て」
と、自分の太刀を政宗に持たせた。この時には政宗に何の邪心もなく、
『これは秀吉公に気に入られたようだ』と嬉しく思い、御太刀を持って鷹野に供をして帰った。
これは政宗が中納言様(前田利家)に物語されたのを、お次の間で聞いたのだと、前田七郎兵衛が
語ったものである。
(関屋政春覚書)
47 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 19:53:22.77 ID:dCj2FkU5
>と言われた。政宗は「あっ」と言い、刀、脇差を抜いて4,5間投げ捨て、秀吉公のお近くに寄った。
>しかし秀吉公は杖で地面を突いて「ここへ、ここへ」と更に言われた。
有名な話だけど何かで見たと思ったらNHKの大河の勝新太郎秀吉のやつだった。
あのころはまだ史実に忠実に大河を作ってたんだなと。
48 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 20:47:48.32 ID:vBdQI1My
勝新がやたら女の事を聞いて、刀持たせて目の前で小便するところか
とるにも足らん俗物じゃ!って後で家臣に言いながら、一歩も動けないって告白する政宗が素敵だった
49 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 21:19:43.07 ID:7yzq69fl
あの勝新の秀吉はサルというよりもキングコングだよなw
威圧感ありすぎw
50 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 21:58:11.14 ID:HsP+7SrY
さっきまで殺意を持ってた人間が
すぐに「気に入られた」と思って嬉しくなってしまう。
全盛期の秀吉はどえらい男だ
51 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 23:32:33.56 ID:Dr/+/bts
すげえなあ
52 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 23:58:32.05 ID:KyBSlNzT
義風堂々のシーンそのまんまだな
政宗が放り投げた刀が後ろで控えている小十郎の手の平に着地してた
53 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 02:59:16.12 ID:h/iLx846
>>42 如水と隆景は良い関係だったみたいだし、小早川家は断絶してるから持ち上げても問題ないからじゃねーの
54 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 19:58:19.92 ID:sj0dNbkB
>>47 元ネタでも台本でも「首をつつく」だったのに、ナベケンの首を思いっきりぶっ叩いた勝新マジ勝新
55 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 20:08:50.80 ID:vKpRLnPY
56 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 00:54:09.84 ID:kVbcWNnQ
水野家の血筋は狂気の血筋だな
57 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 02:32:31.32 ID:ymUCdZEA
58 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 19:41:40.84 ID:u9luYqnm
>8,水戸にも小十郎さんっぽいのがいるのか?
59 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 05:06:40.75 ID:x2JGYvy0
向こうで唐人の話が出ていたので、明関係について。
はじめてゆえ、拙いと思いますが失礼します。
嘉靖三十六年(弘治三年・1557年)、浙直福建総督の胡宗憲は、部下の蒋洲を日本へ派遣して、倭寇の禁圧を日本国王へ命じにゆかせることにした。
とはいえ、実際の倭寇は日本人だけじゃなく、浙江福建の中国人が中心で、とりわけ安徽出身の王直という人物がその首魁である。
……優秀な官僚である胡宗憲は、当然そのことを掴んでいる。ゆえに彼は、蒋洲へある計をさずけた。
「明に降るように誘ってくれ。王直は私と同郷であるから、きっと聞いてくれるだろう。またかわりに、海禁を緩和することにしよう。そうすれば、蒋洲の仕事も手伝ってくれるはずだ」
海禁緩和の旨を蒋洲から聞いた王直は大喜び。明政府に従うことを決め、蒋洲の渡海に協力することになった。
王直は、日本国王が実際には力がなく、「日本国王印」を山口の大内氏が持っていること、その大内の当主が豊後の大友義鎮(宗麟)の弟であることを、どうやら知っていたらしい。
王直は蒋洲に京都へ行くのがムダだと教え、かわりに大友義鎮に会わせたのである。
王直を通して、海禁が緩和されることを聞いた義鎮は大喜びした。蒋洲からの倭寇禁圧の激を受け取り、倭寇の害について謝罪すると、朝貢使の派遣を決めた。
義鎮は弟・大内義長も誘って、巨船を艤装すると、大内家蔵の日本国王印(偽)を押した表文を持たせて、王直・蒋洲らとともに明へと派遣。
王直や蒋洲を通して、朝貢が認められれば、莫大な利益と権威が得られると考えたのである。
(後半に続く!)
60 :
59のつづき:2013/12/20(金) 05:20:08.84 ID:x2JGYvy0
……が、胡宗憲という男。繰り返すが優秀な官僚である。ここからが腕の見せ所である。
大友・大内の使者ともに、明へ入国した王直、そのまま牢屋にぶち込まれた。要するに、完全な罠だったわけである。
王直側も、警戒して人質を取っていたのだが、宗憲にとってはどうでも良かったらしい。
帰ってきた蒋洲もまた、牢屋にぶち込まれた。宗憲いわく
「日本へ倭寇禁止を知らせるように、と命じられたにもかかわらず豊後にしか行かなかった。しかも豊後から来た船は偽の印を押した偽の使者だった。そんなこともわからないのは罪だ」と。
こうして王直を除いた胡宗憲。すぐさま、戚継光ら名将ひしめく明軍を王直の本拠・舟山へと派遣。倭寇を壊滅させることに成功したのである。
これによって浙江方面の倭寇は一気に勢力を失うことになる。
そして、そのどさくさに紛れ、大友・大内の朝貢船もまた倭寇の一味として撃沈されてしまった。
大友・大内の使者は、命からがら山中へ逃れ、明の襲撃に怯えながら再び船を建造して、翌年なんとか日本へと帰り着くことになる。
捕まった王直であるが、胡宗憲は殺すのをしばしためらい、牢屋に拘禁したままであった。どうやら、海上安定の駒として使えると思ったらしい。
ところが、そうした態度は江南の人々の不審を買う。二年後、胡宗憲への賄賂疑惑が噂されるようになるや、宗憲は手のひらをかえした。いわく
「こいつは利益のために明の法律を破り、中華を忘れて倭を呼び込んだ。国禁をやぶり、人々を害する男は、斬罪とすべし」と。
こうして、王直は斬られた。
浙江安定のためなら本当に手段を選ばない、優秀な官僚の悪い話。
長文失礼しました。
61 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 05:24:18.93 ID:x2JGYvy0
>>60 ×胡宗憲への賄賂疑惑→○胡宗憲が王直から賄賂をもらったという疑惑
こうしないとなんのことかわかりませんね。
連続して失礼しました。
今気づいたけど、これあんまり戦国の話じゃない……?
62 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 07:37:44.97 ID:wayo3T2r
一応、大友・大内が絡んでますしおすし
63 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 09:00:40.26 ID:kdkSyoJQ
大友・大内の使者はかなりすごいやつだなw
船作って中国から帰ってくるなんて映画化決定レベル
64 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 09:02:04.21 ID:LQcOO+5D
なんで大内家に印があったんだっけ?
65 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 09:02:18.39 ID:pMjRkThE
王直はむしろ同業者たる倭寇(武装密貿易者)狩りして朝廷に協力することで名を挙げてて
「浄海王」名乗るほど上げ調子だったから、まさか自分が捕まることはないと
どっか甘く見てたんだろうな
66 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 17:45:17.30 ID:tUG4l6zU
大友宗麟は1551年にポルトガル王に使者と手紙を送って
1558年に親書をもらってたりするし、外交力は凄いんだけどな
67 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 20:09:01.62 ID:i3aICfGX
大内亡き後の貿易については各大名が裏に表に入り乱れて試行錯誤してたもんな
その時培った交易路やら何やらが江戸時代の後も残っていれば
68 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 22:56:04.63 ID:8DDuXH+4
日本に鉄砲を伝来させたのは王直なのに(´・ω・`)
69 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 23:01:28.30 ID:KX/4DQXS
鉄砲伝来の話で、ポルトガル人は教科書に載ってるのに
鉄砲伝来抜きでも重要人物の王直が載ってないのは不思議ではある
正直王直を肯定的にのせると中国がうるさいかもしれないが
70 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 23:23:26.75 ID:uy1rcMmR
まんが日本の歴史では普通に気の良い商人みたいに描かれてて
後に海賊のボスだったこと知ってビックリしたわ。
71 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 23:30:37.93 ID:dfdTnUNJ
王直の話が聞きたいですエロイ人
72 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 23:31:20.04 ID:Fgpcbhgs
実際王直の見た目は儒者みたいだったようだし
荒事もするけど本人のアイデンティティは飽くまで商人だったんじゃないかな
(明は海禁中なので海外貿易は皆非合法の海賊行為)
73 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 23:52:12.92 ID:B6+LyydW
見た目は儒学者、ある面でいえば「武装商人」、向こうの目では「大罪人」、
「倭寇の棟梁」でもあり、海を駆け巡って日本と南蛮とも関わりを持った「密貿易の大親分」
王直という人はよくわからない人だ
なお、寧波の乱という大内・細川のあっちでのもめごとが原因で本格的に日本勢は出入り禁止にされてた
74 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 00:06:12.40 ID:w8e5ssZF
>>68 鉄砲自体は16世紀初頭には日本に輸入されてるぞ
馬鹿高かったから全く普及しなかっただけで
75 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 00:18:40.92 ID:8KXEI/Fn
>>73 >なお、寧波の乱という大内・細川のあっちでのもめごとが原因で本格的に日本勢は出入り禁止にされてた
1540年、49年には大内の遣明船が独占状態で貿易してるな
大内・細川両成敗から大内の一人勝ちになった詳しい経緯を知りたいけど史料ないかな
単純に大内の勢力↑細川↓の結果だろうか
76 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 00:28:14.59 ID:w8e5ssZF
>>75 大内が倭寇の取り締まり強化したからじゃね?
マッチポンプかもしれんが。
77 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 00:40:52.07 ID:gIR0ZHw0
たぶん、1530年に細川高国がぶっ殺され、さらに翌年に始まる摂河泉一向一揆・天文法華の乱で堺含め畿内がぐちゃぐちゃになるからだと思う。
一方の大内は、このころ始まった対大友戦に完勝してるし。
倭寇が本格的にあらわれてくるのは1540年代なかば以降。
朱紈の総攻撃で一度倭寇は壊滅しているけど、それが郷紳の反発を買って朱紈が失脚・自害。
それと同時に「嘉靖の大倭寇」がおこるわけで。
収まるきっかけは、上の胡宗憲によるあくどいまでの鎮圧と、1568年の海禁緩和だね。
日本側は、倭寇鎮圧なんて無理だったとおもう。
中国の誰もが銀を欲しがってて、日本に殺到してきてるわけだもの。
78 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 01:26:04.98 ID:4CoXDfG5
>>64 応仁の乱が終わって長門に帰った時に、おみやげとしてかっぱらった
79 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 09:55:10.22 ID:ivQzfWSF
そこそも日本産銀が技術革新で激増したのが1540年代だしな
80 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 12:23:24.27 ID:Km9/E1BU
文禄元年(1592)、唐入りのため肥前名護屋にあった伊達政宗が、その母、義姫に宛てた書状である
一、私の高麗への渡海は、来年3月まで延期されました。
一、筑紫、四国、中国の方々はあまねく渡海されました。残っている衆は、家康、利家、佐竹、
越後(上杉景勝)、宇都宮、相馬、あにごさま(最上義光)、以上、このとおりです。
(略)
一、御あにさま(最上義光)には最前お会いいたしました。昔の、関係の悪かった時のことを
互いに語り合いました。いろいろ、様々なことを話しました。それにしても、大変な
口の利き方をされました。私とは、古には誓いを交わした事もある口だというのに。
私がいくら、何かと懇ろな言葉を尽くしても、あの方を骨抜きに出来そうにはありません。
浅ましい事を書きましたが、そのようですので、どうぞご安心下さい。
(伊達政宗書状)
政宗、どうも名護屋で昔のことについて最上義光から怒られたらしい、という記録である。
81 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 13:08:49.52 ID:uhzBTJg3
>>77 銀を欲しがってたなら大寧寺の変以降明が日本との貿易をキッパリやめた理由がわからないなあ
82 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 13:59:30.59 ID:jhF0Vij/
明政府は、銀があろうがなかろうが、「君臣に外交無し」が基本方針。
明が冊封した国の朝貢使による、正式な外交に基づく貿易しか認めてない。
それ以外の私貿易は「寸板を海に下ろすも許さず」というスローガンで、取り締まられた。
でも、1540年代から日本銀の需要が高まる
→ならば密貿易だ、となるわけ。
こういう密貿易してる商人がまとめて倭寇。明官兵の追捕に対抗するために武装もするし。
明政府としては、朝貢しないやつ=中華の徳に従わない野蛮人なので、朝貢が途絶えれば無視。
大友とかの使者は、日本国王の臣にあたるので、陪臣だからアウト。
こういうガチガチな理想論が無理だとわかったから、1568年に海禁緩和するんだけど。
83 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 14:14:49.48 ID:uhzBTJg3
大内義長は大友家の者だから国王として認められなかったのか
陶晴賢はクーデターを成功させるため大友を後ろ盾につけようとしたばっかりに肝心の金の卵を産む鶏を殺してしまったわけだ
84 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 14:34:29.14 ID:4CoXDfG5
>>83 ちゃうちゃう。大内だって明から日本国王と認められてたわけじゃない。
日本国王=将軍の使いだってことにして大内が交易してたのが、バレただけ。
85 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 15:01:42.99 ID:uhzBTJg3
すぐ分かりそうなことなのによくそれまでバレなかったな・・・
86 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 15:08:02.45 ID:HSAfTguV
バレなかったというよりは、バレなかったことにしてたんだとは思うけどね。
一応、本物の日本国王印っぽいの捺してくるし。
義長が拒否されたのは、胡宗憲の思惑との兼ね合いじゃないかな。
87 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 22:56:37.89 ID:xPBrmE7b
88 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 00:00:47.03 ID:kbt+XBzT
なんだよ
89 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 00:36:08.04 ID:a74Qrzqo
>>59 >弘治三年・1557年
おいおい、この年の4月に義長自刃して大内滅亡してるぞw
しかも宗麟は茶器目当てに義長を容赦なく切り捨てててるしw
90 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 08:33:17.12 ID:NJLv53/z
>>75 小説だけど戦国海商伝ってのになんか詳しく書いてある
91 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 15:45:26.47 ID:YhDm0bRZ
本体のほうが大事だよ!・・・弟なんだけどなw
92 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 16:08:44.70 ID:XAVR0EEP
名護屋陣でのこと
文禄元年(1592)7月14日、加賀宰相(前田利家)家中の前田孫左衛門と申す者が、伊達政宗の陣所で
踊りを行った。
そのため、踊りのお返しをしようと稽古をし、20日の晩、踊りをするため日が暮れるのを待っていた所に、
暮れになって徳川家康の陣所において、阿部傳八郎と申す者が、陣屋の前にて柏原新五郎と申す者を
討ち、そのまま逃亡して、隣陣である前田利家・伊達政宗の陣屋に紛れ入ったのではないかとの
詮議となった。
このため大変騒がしい状況となり、この日予定されていた踊りのお返しは中止となった。
(伊達記録抜書)
伊達政宗、せっかく練習したのに踊りが中止に、というお話
93 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 18:14:36.50 ID:2piN7hgx
他板からのコピペ
61 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 2013/12/22(日) 14:39:59.76 ID:6pgrCdSz0
官兵衛とは関係ないけど、関ヶ原で石田三成隊と直接対決した黒田長政隊の将兵は、
「島左近の『掛かれえっ、掛かれえっ』の声のあまりの恐ろしさに、戦いが終わって何年も経つのに夢に出て飛び起きたりした」
という経験をずっと子孫に伝えてたらしい
黒田藩士を先祖に持つ俺の友達が爺ちゃんから聞かされたと言ってた
その爺ちゃんはさらにそのまた爺ちゃんから聞かされたんだそうだ
94 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 19:29:08.41 ID:vmBYXErI
>>93 めちゃくちゃ有名な「かかれ」の逸話だけど、当事者の子孫の口伝だと感慨深いな
95 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 20:34:46.40 ID:kbt+XBzT
うむ。
96 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 10:37:06.59 ID:+tpLCNq/
一方、島津家では「えい!えい!おーっ!」で惟新斎様が飛び起きた
97 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 14:06:43.14 ID:OfreiSlw
文禄2年(1593)5月7日、朝鮮に渡海した伊達政宗より母・義姫の侍女宛ての書状である
『高麗へは4月13日に到着しました。上下とも皆健康です。
事件としては、唐国より、高麗、唐、日本の間の和平の扱いのため勅使と官人の二人が
日本に渡るそうです。この和平については我々や、高麗の都に滞在している衆も同心しました。
これで和平も大方済んだと言ってよいでしょう。。
名護屋へはこちらから早舟を遣わし、太閤様(秀吉)にこちらが和平を了解していることを
報告し、それは完了しているとのことです。
こういう事ですので、7月のはじめには日本に戻れると思います。我々のこちらでの働きにも、
ご満足して頂けるものと推量いたします。
めでたい事です。めでたい事です。
5月7日
おちゃこ(御佐子:政宗母・義姫の侍女) 政宗
これを申し上げてください、』
(伊達家文書)
本当に、この時に終わっていればめでたかったのに
98 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 19:48:05.63 ID:BZ8Y5Rlo
99 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 12:41:20.25 ID:F6vP+HSn
何故あの薄汚ねえ模擬天守撤去しねえのか小牧は
100 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 15:06:35.56 ID:jofXKJj4
朝鮮の役の事
小西行長が籠った平壤城の外2里ばかりに、牡丹台という出城があり、ここにも小西は兵を籠めていたのだが、
唐人にこれを奪い取られ、平壤の本城ばかりとなってしまった。
大明の大勢がこれを取り囲んだ。大砲を多く放ち、その音は山岳に響き、異国の路程で数十里にわたって聞こえた。
また火矢を隙間もなく打ち掛け、その煙は天を覆い、火矢は城中に入って所々焼失したため、敵勢はその勢いに乗り
大勢が城に向かって攻め上がった。
城中からも矢狭間より鉄砲を激しく撃ちかけ、剣乾を連ねて防いだが、敵は激しく攻め戦ったため、敵味方に
討たれた者多かった。城中は既に危うい状態に見えたため、敵将の李如松の謀により、後ろの囲いを解いて、
逃げ道を開けて攻めた。これは城中の兵が必死になって戦えば、大明人に多くの被害が出ると考え、このように
したのである。
小西は勇猛であり、よく防戦したのだが、大敵に攻められ、城中の兵多く討たれ、初めは1万5千の兵で籠城
していたのだが、今では残兵わずか5千人を過ぎないばかりであった。
「この少勢で20万の大軍を防ぐことは出来ない。こうなっては明日には必ずこの城は攻め落とされるであろう。
ここで止む無く敵に討たれるよりは、一旦落ち延びて、後陣の味方と一緒になって防ぎ戦おう!
14里後方に大友(義統)の城がある。そこまで引き退いて、大友勢と一つになって籠城すれば、暫くは敵を防ぐ
事もたやすいことだ!」
そう兵たちに伝え、敵の囲んでいない方向から、正月8日の夜半に、密かに城を出た。前後に鉄砲・騎馬の兵を
立て、中に小荷駄・陣夫を包み、引き固まって退いた。
明朝卯の刻(午前6時頃)、大明の兵は平壤の城に攻め入ったが、一人の兵もなく、皆撤退した空き城であった。
このため、急ぎ撤退中の敵を追うべしと、手分けをして追手をかけたが、時刻が隔たっていたため追いつくことは
出来なかった。引き遅れた雑兵が少々あった程度で、戦闘には至らなかった。
小西が大友の城まで引き退き城中に入った。ところがそこでは、大友勢は既に一人残らず撤退した後で、小西勢は
皆力を落とした。これまでの戦いで士卒の力も尽き、まともな道も通らなかったため、ここで暫く休息を取ったが、
この城にあまり長く留まっては、敵に追いつかれると思い、また夜中に城を出、終夜撤退した。
ようやく夜が明けると、先の山中に中白の旗が見えた。それは黒田長政の家臣・小河傳右衛門の籠もる龍泉の城
であった。
小西行長はこれを見て、黒田は未だ撤退していないことを知り大いに悦び、諸卒に向かって言った
「さても軟弱なる大友かな!日本一の大剛の大将は黒田である!もはや黒田が城近し。一同賑わえ兵ども!」
これに士卒皆力を得て悦んだ。
(黒田家譜)
この小河傳右衛門の救援に寄って小西軍は明の追撃舞台を撃退し、撤収に成功する。
小西行長の、平壤からの撤退の模様である。
101 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 16:10:31.67 ID:zbFvnxAt
こないだ小西をこき下ろしたばかりなのに、今回は小西を持ち上げて黒田ageさせるとは…
さすが黒田家譜はブレない
102 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 21:07:27.45 ID:R3dz8tgk
黒田家譜は登場人物が如水と噛ませ犬しかいない1ビット構造だから
103 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 21:48:55.47 ID:CLsMyCiE
そして安定の大友吉統sage
輝元、三成とならぶ黒田家譜御用達の噛ませ犬がまた登板
104 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 23:30:51.26 ID:PEnnqzNe
大友って改易される程やらかしたか?
仙石みたいに領国まで逃げ帰ったのか?w
105 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 00:29:19.82 ID:hKuDfixh
>>104 味方の無事を確認せずに拠点を放棄して撤退だから、同じくらいやらかしていると思う。
106 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 02:38:53.44 ID:r0eBolej
噛ませも何も義統ちゃんだからなあ
自ら意志薄弱で優柔不断とか言っちゃうくらいみたいだし
ただ朝鮮出兵での処罰などは政治的意図と秀吉の勘気が絡んでくるから何ともね
107 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 07:38:12.22 ID:pW4X5Oew
まるで社会に適応できないお前らみたいだなw
引きこもって酒浸りとか
108 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 07:51:20.97 ID:tiqlmTBX
>>102 でも隆景はageるばかりでsageはしないんだよな
109 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 09:43:03.00 ID:LyJz6Pns
カーチャンへの手紙
文禄2年(1593)7月24日、朝鮮在陣中の伊達政宗より、母・義姫宛て書状
『返す返す、お手結びの和歌(「あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空」)と金三両、
確かにこちらに参りました。母上様のお心ばせ、海より深く山より高いと存じております。
日本から、何か御礼を贈りたいと思います。高麗物の少しでも珍しいものは皆、名護屋に早々に遣わして
しまったために、このような空文を送ってしまいました。大変残念に思っています。
又、申し上げます。それぞれの私からの言伝、満足されているとの事、恐れ入っております。
何よりもそちらでは、上下ともに健康の様子で、何よりのことだと喜んでいます。
この国では、水が違うためでしょうか、人々が次々と死に失せており、申すのも愚かなことです。
私の方でも、死者の埋葬が続いていますが、私自身は患うこと無く居ます。
ああ、このまま命が続いて、今ひとたび、母上に拝顔したく思っています。
この他に申し上げることはありません。』
(伊達家文書)
劣悪な朝鮮の陣中での環境で、かなり心の弱った様子の見える、伊達政宗が母に宛てた有名な書状である。
110 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 11:29:41.55 ID:Jmsm6NZG
111 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 15:29:19.65 ID:mxnu+bBb
一条さん「女子もほしいぞな」
112 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 22:15:10.15 ID:utXLqP4Y
伊達ネタは一つ出ると延々続くって本当だな
113 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 23:37:12.90 ID:uFVrELkT
最上の血が入ってるからな
114 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 00:09:11.98 ID:+6U7Rsvh
朝鮮出兵ネタといえば
鬼島津さんの朝鮮からのラブレターがいいよね
115 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 01:16:15.89 ID:1rTu4yLJ
>113、小十郎さんの教育でしょう
116 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 18:32:04.25 ID:d5BSTwJi
最上の血ねえ
義光四男に教育を受けた水戸光圀は・・
117 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 18:37:23.39 ID:0hgFuJJz
てっきり三河武士だと思ってたけどな。兵庫さんはw
118 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 00:03:47.76 ID:ZBVh8y7A
植木泥棒やってた頃ってもう山野辺さん附いてたのかな?
それとも血のなせる業?
119 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 16:13:43.84 ID:tTuoGuEd
慶長4年(1599)の事。
長岡越中守殿(細川忠興)のとある家来の従者である徒侍が、京から伏見へと、弁当を持って向かっていた所、
藤ノ森において伊達越前守(政宗)の徒侍と喧嘩となり、細川家の徒侍は伊達家の徒侍に斬り殺された。
伊達政宗の屋敷は藤ノ森の近くにあったため、この徒侍は屋敷に入り、弁当を持った者を喧嘩で殺した事は
伊達屋敷より公儀に報告された。
このことを知った細川忠興は、伊達政宗に事件の詳細の説明を要求し、また犯人を渡すよう
二度にわたって遣いを送ったため、この事件は両家の紛争となった。
この時細川忠興に味方したのは、家康公の家臣の本多中書殿(忠勝)が遣いを送ったのを始め、
木下右衛門太夫殿(福島正則)、藤堂和泉守殿(高虎)加賀大納言殿(利家)、同肥後守殿(利長)等も
家老などを忠興のもとに派遣した。
彼らは「政宗がこちらの要求に納得しないならそれで構わない。こちらから伊達屋敷に乗り込む」と決め、
事態は大方、両家の暴力沙汰になると思われた。
一方伊達政宗の方に味方したのは、最上殿(義光)、佐竹殿(義宣)であった。
これにより京伏見の間は以ての外の騒ぎとなったが、ここに金森出雲守殿(可重)、桑山左近殿(貞晴)の
両人が扱いに入り、政宗からこの事件の科人を、金森出雲守の家老、西脇左門が請け取り、そこでこの者が
成敗されることにより、双方の埒が明けたという。
(見聞書)
関ヶ原の前年、細川忠興と伊達政宗の間に、衝突寸前の騒ぎが起こっていたらしい、というお話。
120 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 16:41:15.11 ID:8g5BNrJ1
121 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 16:42:43.40 ID:nHp3ED3O
122 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 17:01:02.29 ID:Y7Bis3zQ
最上・佐竹は舌打ちしながら渋々付き合ってくれる程度には関係改善してたのかな
123 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 17:04:09.84 ID:lVCaeRxt
>>119 木下右衛門太夫は木下延俊の事だと思うが
124 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 17:14:52.01 ID:tTuoGuEd
>>123 ああそうですね、左衛門大夫と勘違いしていました。木下延俊に訂正します。すいません。
125 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 17:51:53.32 ID:WHewH4Hu
>122,鮭さんは妹に頼まれれば嫌とは言えないだろうな
126 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 18:51:47.65 ID:6+uH6zm+
伊達の味方が少ない&信頼できない
127 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 20:05:33.24 ID:DOs0w4UY
この恩はあとで高くつきそう
128 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 20:57:43.62 ID:WHewH4Hu
いや、まーくんの信用がねえだけかと。親戚だろうがぬっ殺すのがまーくんですから
129 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 01:09:27.80 ID:R8TurOrg
>>119 仲介役が金森可重と桑山貞晴って、やっぱりこういうときは茶人の出番なわけね
( ゜Д゜)⊃旦~~
130 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 02:04:40.29 ID:BVhzS632
伊達の味方は敵の伏兵だろ
131 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 17:06:28.94 ID:1cTPUjWT
皆さん政宗に先入観持ち過ぎだと思うけれどもね
何だかんだいって小田原以降の政宗と義光って昵懇といって差し支えない
132 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 17:19:33.92 ID:KLPCK84E
地元ではいがみ合ってたけど都会に出たら田舎者同士言葉が通じやすかったとかあったりして
133 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 18:30:17.98 ID:OLv4Valv
>131、(`・ω・´)(`●∀・´)「サル逝ってよし!」でなら同意できるなw
134 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 22:12:41.88 ID:1ZeTr97g
フグシマ、山形、茨城のカッペ連合なんて今なら笑われるだけだぞ
135 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 23:09:24.24 ID:4jUgFfij
もし、伊達政宗と津軽為信と島津義弘が会談したら、きっと通訳が必要だったと思うw
136 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 00:16:22.26 ID:DyFPMNN+
チョンサカチョンベチョント窮醜シコシコシコク贅六醜蛮西戎ニシチョンバカンサイのチンカス連合が
今なら笑われるだけだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
137 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 01:05:02.82 ID:pL56XLWR
私はソウルの大学生です。日本の皆さんもう一度韓国と戦争して負けますか?
自分達の政府が発表することを盲目的に信じていませんか?ネット社会で真実の世界を知ることから始めましょう。
日本ではあの戦争の反省もせずに「朝鮮には負けてない」「正義の併合だった」という悪の帝国主義が再び頭をもたげてきていると聞いています。
わが李承晩が日本軍を半島から追い払い独島を奪還し更に日本本土まで攻めこんで「朝鮮に併合すべき!」という部下を李氏はいさめました。
「悪いのは日本軍国主義であり、日本の人民には罪がない。我々が日本人のように虐殺や差別をする訳にはいかない」と同じ亜細亜の民として慈愛の目を向け占領政策をアメリカに任せました。
しかし日本は反省どころか対馬を占領したまま独島にも魔の手を伸ばそうとしています
日本軍は13歳の曾祖母をレイプしました。
曾祖母は処女でした。模範的朝鮮婦女子の純潔精神で自殺したのです。
私は日本人を許せません
138 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 01:13:39.84 ID:FuR3YwAW
なんかと思ったら、処女がレイプ後自殺してんのに曽孫がいるっていうネタコピペか
139 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 02:07:13.67 ID:1xV2KMd1
>>135 それか漢文で筆談するとか(書ければの話だけど)
140 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 06:57:00.46 ID:7t8NQiLc
津軽の髭殿はその辺の教養はどうなんだろうね
他のふたりは書けそうなイメージがなんとなくあるけど
141 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 07:00:36.56 ID:lRXq67Jv
漢文で筆談なんかするはずないだろ・・・
142 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 07:26:19.62 ID:etEpC1xa
そのための候文に候
143 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 11:32:52.74 ID:3fE9x9zv
慶長5年(1600)9月16日、直江兼続の侵攻に対し、援軍要請をした最上義光に対する、伊達政宗の返書
『萬のお話は修理殿(最上義康:義光長男)より言って来られました。必ず今日中に、援軍の準備を
始めます。間もなくこれらの者達が駆けつけますので、返す返すもお心やすくして下さい。
これまでの年月の間、私達の間にはちょっと情けなき事なども少しはありましたが(とし月ちと御なさけなき
事共も少ハ候つれ共)、そんなわだかまりは速やかに打ち捨てて、今この時、この身に変えてもお助け
申し上げます。どうかお心やすくして下さい。
以上。
追伸
前夜にも飛脚で申し上げましたが、私自身がそちらに参りますのは、現在南口、南部口の様子を
今少し見定めたいので、延期いたします。先に私の叔父である上野介を始めとした五百余騎と
鉄砲七百丁を既に申し付けてあり、明日にも出立いたします。これから追々、良き知らせが届くでしょう。
恐惶謹言
九月十六日 羽越前(羽柴越前守)
政宗(判)
山出羽守様(山形出羽守)
人々御中』
(伊達家文書)
昔の関係についてわざわざ書いているあたり、逆に気にしていたんだなあと思われる書状である。
144 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 13:46:47.88 ID:+IPoNwgD
鬼島津とまーくんだと肉体言語で語り合いそう
145 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 15:21:53.06 ID:l1YwwjnT
B型のまーくんは攻めてるときは強いが、攻められる側になると意外とモロい
兼松さんに殴られた事件・・・
146 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 22:17:36.63 ID:Lka+S9/W
朝鮮の役において、黒田官兵衛が囲碁を理由に、三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)と
対面しなかったことを彼らは大いに恨み、特に石田三成は太閤秀吉に官兵衛のことを
様々に讒言したため、秀吉は大いに怒り、これによって官兵衛を疎んずるようになった。
黒田官兵衛はこの時剃髪して、如水圓清と号した、
これ以後、如水・長政親子と石田三成との関係は大変悪かったが、三成は、後日の助けにもしたいと、
長政との関係改善をはかり、密かにこのように言ってきた
「長政殿が私との和睦を受け入れてくれるのなら、私は太閤殿下に申し上げ、あなたに
豊後の国を与えていただくようにいたすでしょう。」
長政はこれを聞くと
「私がもし、治部少輔の取り成しによって大国を得たとしても、それによって
父如水と仲悪しき小人と和睦するなど、考えもできないことだ。
たとえ国を得たとしても、父の心を失うのは、不孝の至である!」
そう言って三成との和睦を拒否したのである。
(黒田家譜)
石田三成が黒田長政との仲直りを働きかけていた、という黒田家譜の記述である
147 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 22:23:53.20 ID:68Kon2zE
うちの家に伝わる書に、名護屋城で朝鮮での戦争つらいねーって話ををしてたら
三成に聞かれてぶち切られて讒言されて領地召し上げになって、今のしょぼい家になっちまったってのを思い出した
江戸末期か明治に書いたんだろうが、なんかもうなんでもかんでも三成のせいにすればいいんじゃね?ってものを感じたわ
148 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 22:27:16.99 ID:UfAvP4Hf
>>147 領地召し上げだけで済んで良かったな
ラスボスが直に聞いてたらお前存在してないぞ
149 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 00:54:41.46 ID:xUv6vYUt
>>147 仮にそれが事実だとしても、関ヶ原で頑張ってれば返り咲けてただろうに
そういうチャンスをみすみす逃すような体たらくだから
ショボい家になっちまったんじゃね?っていうツッコミは禁止なのだろうか?w
150 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 00:56:09.02 ID:pjHEEGzn
画像がないから釣りということで
151 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 01:25:01.55 ID:NfeJL8aZ
いくらでも叩ける存在だから、よくあること
152 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 01:51:29.83 ID:gER8rxE1
本当の本当にしょぼい家だと書なんかこさえる余裕ないから わざわざ書をこさえて箔付け(?)しようとした147のお家は
しょぼいとか言いつつそれなりに裕福だったんではなかろうか。 しかし箔付けにしては内容が・・・。
本物だったらご愁傷様デス。
関ヶ原は大名クラスでも家康方に付きたくても合流出来なくてなし崩しで西軍に組込まれたり右往左往してんだし
領地とられた弱小がチャンスをモノに出来なくてもしょーがなくね?
153 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 04:52:35.27 ID:C/QNYBTN
つうか、そんな名家がこの板にいるのがすごい。
154 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 11:52:10.93 ID:su1SCZK0
そういえば、軍師官兵衛のノベライズを読んでみたけど、不安に思ってた現代的価値観とか、過度な嫁ageとかは無かったな
官兵衛は「命を粗末にするな」とか予告では言ってるけど、戦の凄惨さを理解しつつも直接合戦することに疑問を持ってない感じだった。
黒田と小寺を守るため(あと、信長秀吉への憧れ)って理念で行動してるし面白かった。
妻 「中々二人目出来ないし、側室作った方が良いんじゃない?」
黒官「おなごはお前だけでいい。そんなことより俺は仕事がしたい。」
このやり取りとかバランス取れてていいと思ったw
155 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 12:57:51.25 ID:yZw/tP9M
>>154 黒田家譜見ると隆景への憧れの方が多いけどね
156 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 14:38:27.04 ID:Hd79E2jS
三成さんはなんで嫌われてるのかは分からないけど
嫌われてる事自体は理解してて
それはやはりマズイと思ってなんとかしようとはしてるんだけど
なんで嫌われてるかは分かってないのでやっぱり嫌われる
ってイメージがある
157 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 15:24:32.23 ID:906RGZAK
三成「はいはい、ワシのせいワシのせい」
158 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 18:15:50.08 ID:gNKLgCFg
ラスボス秀吉が上司だからしょうがない
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの論理で、秀吉への怒りを三成にすりかえちまった
秀吉が憎くても最高権力者だからどうにもならんが、三成ならどうにかできるし
159 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 18:24:29.41 ID:EbGmUKNG
秀吉に対して最大限に切れているであろう長宗我部さんや島津さんは三成悪く言ってないじゃないですか
160 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 19:12:06.81 ID:09HxVx92
長宗我部は土佐押し込めの件は仕方ないと思ってるんじゃないの
信親の件は仙石にいってんじゃない?
161 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 19:15:14.11 ID:QItNE2jR
島津「東軍に味方しようとしたけど鳥居が拒否した。
三成に夜襲すすめたのに拒絶しやがった。」
後者は責任逃れではないが
162 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 00:05:31.03 ID:jaUgD7Pl
尼子経久はもともと出雲の国の富田の地で七百貫を領していた。
出雲の国は近江の佐々木氏の領国であり、佐々木高詮の時に経久の祖父、持久を守護代として出雲に送った。
この持久、そしてその子清定と二代にわたって守護代に任じ、国務を司り租税を近江へ送っていたのだが
さらにその子経久の代となって、経久がまだ若く又四郎といった頃に近江の佐々木氏の指示に従わず
富田とその近郊の地を奪い、また出雲の国の武士達を攻め従えようとした。
守護佐々木家の六角定頼はこれに大いに怒り、出雲の国侍に命じて経久を攻め追放させると代わりに
塩冶掃部助をもって出雲の守護代とした。
経久は無念であったが、諸国を放浪しついに食うにも事欠くとある山寺で食うために僧形となり修行僧に混じって
暮らしていた。
経久は何とかして富田の城を奪い返して本懐を遂げたいと思うものの、家臣達は皆その妻子を養うため
近江の六角氏に仕えており、出雲に残っているものは山中一族だけであった。
山中を頼るべしとついに秘かに出雲に入ると山中の住まいを訪ねた。
山中は経久を見ると急いで中へ招き入れたが、色は黒くやけ、やせ細り、昔の面影もほとんど残っていない
経久の姿に涙を流した。
ささやかな食事と濁り酒を前に、経久は涙を流して山中をかき口説いた。
「何としても富田の城を攻めて塩冶を討ち取り、本望を遂げたい。もし昔のよしみを忘れていなければ、どうか我に
力を貸してはくれないか?」と。
山中も昔の義理は忘れがたくもあった。
「仰せ、畏まりました。」と諒承すると、やがて一族と語らい17人の一味同志を得ることができた。
さて、しかし塩冶は国の守護代として多くの兵を抱え、威もさかんである。容易に討つことはできない。
思案の末、経久は、河原者(祭や芸事を行う身分の低いものたち)の賀麻党の頭を召し寄せ、言った。
「汝も知るごとく、我、当国を追い出され、耐え難い思いをしている。何としても塩冶を討って遺恨を晴らしたいのだ。
それに付いて、汝に頼みたいことがある。もし我が本望を遂げたあかつきには、褒賞は望みのままに取らす。」
賀麻の頭は平伏して答えた。
「恩のある何百の侍を差し置いて私どもの如き身分賤しき者を頼りにして頂けるとはこれほどの名誉はございません。
この上は、たとえこの身も一族をも亡ぼそうとも恐れはいたしません。何なりと、御指図ください。」
経久は大いに喜び、言った。
「よし、それならば汝らは正月には富田の城の二の丸で例年卯の上刻から千寿万歳の舞を行っているが
来年の正月は時間を早め、早朝寅の上刻に舞を始めるのだ。
そうすれば、本丸の者共も二の丸へ出てきて舞を見るだろう。我々は城の搦手から忍び込んでおいて
方々へ火をかけながら本丸へ打って入る。その声を合図にして汝らは大手より切り込んでくるのだ。
こうして前後から攻め合わせれば、城を乗っ取ることは容易いぞ。」
賀麻の頭は、これを了解して立ち帰った。
さて文明17年大晦日、経久と山中一党の17人、そして昔の恩義を忘れぬ譜代の郎党56人夜中秘かに
塀を乗り越え大手の合図を待った。
明けて早暁、賀麻の一族70人ばかり城の門外より太鼓を打ちながら千寿万歳の舞を始めた。
城中の者たちは今年は例年より早く万歳の舞が入ってきたぞ!急げ!とばかりに皆して二の丸の大庭に集まり
見物を始めた。
ここで経久以下、所々に火をかけ火事だ火事だと叫びまわる。見物の城兵たちは慌てふためくが
そこに賀麻の一党が烏帽子、舞服を脱ぎ捨てると太刀を構えて切り伏せる。
経久らも賀麻一党も散々に奮闘し、ついに塩冶を討ち取ると城兵は散々に城を落ちていった。
尼子経久、ついに月山富田城を乗っ取り730人ばかりの首をとり、多年の鬱憤を散じることができたのである。
(名将言行録)
163 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 04:02:10.13 ID:e86knXce
鉢屋弥之三郎とかいう忍者の名前は書いてなかったんだ
164 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 00:30:12.80 ID:6Fgez4Um
165 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 08:46:15.63 ID:dDxQmTgX
へーだから兜が鉢なんだ
166 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 09:01:14.64 ID:JMkUl2ZO
忍たまか
167 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 10:50:11.89 ID:twXKt/gS
山中さんは昔から尼子家臣なんだな 最後まで裏切らないのも納得だ
168 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 12:46:58.23 ID:n1qb8Zyf
鹿助は先祖の伝説を再現しようとして大失敗した模様
>>167 尼子宗家自体はまだあるのに勝手に別家立てて正統性主張してるからある意味裏切ってる。
169 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 15:12:28.49 ID:VID8jeDk
軍師官兵衛に勝久と鹿助も出るみたいだね
170 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 22:33:21.23 ID:LyJIwPqS
ジャニタレの学芸会放送になるのは火を見るより明らかなのはいうまでもない
171 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 23:26:29.70 ID:To0ZX5TF
岡田くんだけなら問題ない
他のもでてくるなら知らねー
172 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 23:50:08.02 ID:WH/iy+Ci
黒田官兵衛って秀吉の毛利征伐で軍功があっただけだろ。島津、北条征伐でも多少の軍功があったが、毛利征伐に比べたら華々しい成果はなかった。黒田官兵衛は
もともと中国地方にいたわけだから、秀吉の道案内程度のことはしたんだろうな。道案内役の官兵衛には数万石程度加増すれば御の字だろ。たいしたことをしたわけ
でない官兵衛を持ち上げすぎだよ。
173 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:17:43.57 ID:okVigLc5
NHKは小田原開城の交渉役のクロカンを戦国時代を終わらせた男として持ち上げてましたけど(´・ω・`)
174 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:28:44.02 ID:F73L5x59
ちらっとノベライズ見たけど、赤松や毛利に奇襲かけるのを提案・実行したり、
調略に失敗した上月氏(縁者)を攻める時に、「今すぐ攻めて織田の強さを知らしめましょう。あと、裏切りとか疑われたくないんで先陣を任せてください。」
みたいなこと言ってたから、イクサハイヤダーな天とか江みたいなのにはならないんじゃないかな
175 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:38:08.12 ID:aXfxmR4M
そんなのは製作の都合でどうにでもできるものではないかな
176 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:42:31.61 ID:F73L5x59
天や江は製作の都合どころの話じゃないと思うんだけどな
NHK出版から脚本家の名前で製作の方針で書いたノベライズが改変しまくるとかあるのかな
177 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:44:23.80 ID:Yk5Ey26e
>>172 官兵衛は軍功というか外交官としての功の方が大きい
参謀面では当たり前ながら秀吉の方が戦の経験が豊富なのでそれほど助けにはなってない
178 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 01:08:20.84 ID:SjsAx2YZ
参謀級武将がドヤ顔で意見具申するのを
既に同じかもっといい手立てを
打ってるか、大規模土木工事始めてるのに
一応話を聞いてあげるやさしい秀吉くん
179 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 01:12:15.27 ID:Zu8XzJ1n
諏訪勝則氏は中公新書『黒田官兵衛』の中で、「官兵衛は軍師などではなく、秀吉の優秀な前線指揮官」とはっきり
定義している。
180 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 03:32:53.36 ID:ytNsXQsE
DQN四天王って三人は江戸初期の武将で一人だけ少しズレた森なのが臭い
末期にしか興味ないくせに好きな武将だけはDQN扱いされたくない奴が入れたんだろ
181 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 03:45:04.84 ID:jSdhxOio
森はどう考えてもDQN筆頭扱いだが
このスレ的には5人いないといけない四天王がいまだに4人なんだから
これという候補者がいればすぐさま認定されたはず
(今までの候補者:越前の狂犬、市松、水野の狂戦士)
別格?
ラスボス、大田原三兄弟、爆弾正
182 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 04:28:59.67 ID:vkwwKi2N
天下統一時の黒田の功ってどんなもんかね
中村一氏には勝って堀尾吉晴には負けるぐらい?
183 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 07:51:52.09 ID:0BRUhzFJ
旗本馬廻りと地方豪族を比較するのは違和感あるなー
184 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 08:42:34.45 ID:PhAkUWAx
185 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 09:04:35.40 ID:Z/f9/4qC
軍神さまはDQNってよりも厨二……
186 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 12:55:48.76 ID:RuNqmw+i
山科けいすけのSENGOKUにでてくる軍神さまが俺のフェーバリット謙信
187 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 16:06:19.83 ID:ld1OD/h6
>>186 同意
センゴクでの上杉謙信描写は秀逸!
188 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:49:33.62 ID:0glh2iE3
ダンジョーと大田原三兄だと真っ黒四天王になるかと、それだとクククといってる四国のアレと岡山の殺人鬼で・・・3人?だと6人いる四天王になるなw
189 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 18:53:06.22 ID:X1e/NBeP
190 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:10:32.89 ID:Zu8XzJ1n
一、御小人共討ち果たし候事
一、同年(慶長7年(1602))、伊達政宗公は伏見に行かれ留守中であった3月16日朝5時頃(現在でいう8時頃)
茂庭(鬼庭)綱元屋敷の前の堀普請をしていた。金森隠岐・勘平父子がこの普請の奉行をしていたが、
堀底に小人が一人寝ていたのを見つけ、人足がさぼっていると思いこれに縄をかけて置いた。
その後、金森隠岐が茂庭綱元の所に行っている間に、御小人衆が騒ぎ出し、捕縛された小人の縄を解いた。
これに気がついた奉行の金森勘平が「そのものを取り逃がす気か!?」と叫んだ所、小人たちは
勘平を一鑓で突き殺した。さらに奥山出羽の屋敷前に居た、あの小人に縄をかけた小人の頭を斬り殺した。
そして勘平の死骸とともに置いた。
この時、60余人が囲んでいる中、中島大内蔵が罷り出でてきて、小人達に「慮外者め!」と叱りつけたが
逆に散々に罵詈雑言を浴びせられた。片倉小十郎の屋敷では、大身衆であるというのに、どう思ったか
引き退こうとしていた。こういった所に、遠藤但馬が騎馬で鎧を着て現れ、「小人の頭人を6,7人も
討ち殺しましょう!」と言ったが承知されなかった。
しかしここで茂庭綱元が「仙台に引き退くような者は残らず討ち果たせ!悪逆無道を成した者達は
許されない!」と、歩兵20余人を召しつれ屋敷から出撃し、8,9人を討った。
綱元の配下も6,7人死んだ。この時ともに出撃した玄蕃(桜田元親)も、唇や目を負傷したが
比類なき働きをした。
そのうちに小人衆百人余が覚範寺に入りそこに籠った。そして切って出たところを、茂庭たちは
押し込んで戦ったが上手く行かず、ついに鑓隊を下がらせ鉄砲隊を出し一斉に射撃した。
これによって討ち果たされた者、131人に及んだという。
この戦闘で、小田辺大学は頭と肘を負傷し、秋保摂津守は両股を、堀江越中守は肘を負傷。
宮崎隼人は腕、小塘源左衛門は顔を刺された。
岩崎弥太郎の弟・太郎八、丹野惣内は死んだ。
資福寺祝峰の言うところでは、その日、虎哉和尚は保土原に行っており、留守であったそうだ。
そしてこの日の死者は、総数で178人であったという。
(政宗君治家記録引證記)
慶長7年の、仙台城築城時に起こった暴動とその鎮圧に関しての記録である。
191 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:31:52.59 ID:Ktn9bM4a
もっと悪い話をしろ
192 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 20:45:21.53 ID:qbBWMUch
>>190 よくわからんが、奉行の金森父子が憎まれていたのかな?
193 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 21:04:44.10 ID:vkwwKi2N
片倉使えねえ・・・
194 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 21:11:16.77 ID:Zu8XzJ1n
>>192 一般的には、仙台城築上の時の過大な賦役に対する反発から起こった事件だとされています
195 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 21:15:49.18 ID:JiFTWixP
みんなイライラしてたんだろうな かわいそうに
196 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 22:47:24.36 ID:HNZgHw7m
後味の悪い話だ
197 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 22:55:40.77 ID:jxj1oDaY
>>193 使えないというより、片倉は平穏に収めようとしたんだろ。鬼庭綱元が強攻策を取った結果、鎮圧は出来ても
170人以上も死者が出る大惨事に成ったわけだし。
198 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 00:40:44.63 ID:ow5GGc3T
全体的にみんなキレ過ぎと思ったら
>>194みたいな背景があるのか
199 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 02:45:59.12 ID:Inv/0oJW
発端の奴もサボって寝てたんじゃなくて疲労で倒れてたのかもな
200 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 03:53:30.69 ID:wag7ZNkO
201 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:34:03.62 ID:ck5o9GXj
202 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 15:12:52.43 ID:yWIQ6+Xx
市にするとき、「福岡市」にするか「博多市」にするか論争が起こって
結局「福岡市」で駅名は「博多」になったのとごっちゃになってる?
そういう逸話があるのかもしれないけど
203 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 17:08:41.87 ID:kjots9R+
204 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 20:14:39.46 ID:Y1UECYAQ
小早川隆景が金吾殿(秀秋)をその養子としたことを、安国寺恵瓊は聞きつけると隆景の元へと行き、
このように言った
「御養子の事が、貴公の御依頼のまま相済んだとの事、千秋萬歳、めでたく思います。
ですが、これは貴公御一代の誤りであります。
何故なら、御養子を取るのなら多く有る毛利の御一族の中から何れでも、国を治められる器量の人を
お見立てになって、これを養子とすれば、世の末まで筑前は中国と同じく毛利家の御分国となったのに、
他人である金吾殿を養子とし御国を譲るというのは、筑前国を人に差上げたのと同じことです。
貴公のことを、上様(秀吉)は別して御愛敬なされていますから、今新たに1ヶ国取るということも、
出来ない話ではないと思うのです。そのようにしてこそ、毛利家の勢力もいよいよ広くなるではありませんか。
だからこそ、私はこれは、大いなる思案違いだと考えるのです。」
隆景はこれを聞くと
「西堂(恵瓊)はそのように思われるか。それは私の考えとは間逆である。
私が普段から気遣っているのは、毛利家の分国は8ヶ国であり、その上私が筑前を拝領し、
おおよそ9ヶ国となった。毛利家には、国が甚だしく多すぎると言うことだ。これは却って、毛利家の禍と
なるのではないか?私はこのことだけは、大変心もとなく思っているのだ。
であるからこそ、我が国を毛利の子孫に譲らず、金吾に譲るのだ。
国を取るにも、種がなければ取れぬものだ。
私には今、その種は見つけられない。であれば、何を種として国を望むべきであろうか?
種無くして欲が深ければ身の災いとなるだろう。
私はもはや年寄りであるから、間もなくこの身も終わるだろう。私が死んだ後の毛利家が目に見えるようだ。
元清(穂井田元清:元就四男)が長命であれば、長久の謀もあるのだが、彼も病身であればあまり
頼ることは出来ない。相かまえて、種もなく国を望む野心を持ってはならない。」
恵瓊はこの道理に屈し
「短才なることを申しだしてしまい、面目を失いました。ですが後学のため、良きことを承りました。」
そう言って帰った。
しかしその後、恵瓊は隆景の戒めを忘れ、石田三成の乱に与し、輝元にこれを進めたため終には
その身を滅ぼし、輝元の分国を多く失う結果となったのである。
(黒田家譜)
「種」とは根拠や名分の事であろう。小早川隆景が、筑前を秀秋に譲る理由、である。
205 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 00:17:35.54 ID:2DDxJeIU
黒田家譜の隆景信仰は突き抜けてるなー
206 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 10:08:31.95 ID:XroVpgSa
天正6年以降、宣教師アルメイダは数度薩摩を訪れ布教しようとしたが
反キリスト勢力の妨害でどれも不調に終わっていた。
それでも、天正11年には当時の太守・島津義久から
仮住まいを与えられるなど関係改善の糸口も見えたかに見えた。
が、そんな矢先に事件は起きた。
アルメイダに好意的だった島津家臣が反対派に暗殺されてしまったのである。
義久は下手人を捕縛するべく命を出したが、その追っ手も出奔してしまった。
後日追っ手を捕縛することに成功した義久が尋問すると、
なんと、追っ手もまた暗殺計画者の一人だったのだ。
関係者の中には義久の老中も含まれていた。
重臣にまで強固な反対派がいると知った義久は、
薩摩の滞在はアルメイダの身が危険だとしてそっと脱出を進め、アルメイダもこれに従った。
引き篭もり兄ちゃん、外に友達を作ろうとするも妨害されるの巻
207 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:47:56.66 ID:SUyWiMS4
これでもし義久がキリスト教徒になってたら
島津の旗印が十文字に
208 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:52:56.37 ID:okx1bGq1
もともとは〇がないんだっけ?
209 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:55:34.49 ID:SUyWiMS4
もともとは丸なし、下が長い、まんま十字架(ただし墨書で跳ねとかはある)
210 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 16:57:48.86 ID:jGP5zOe5
島津の旗印見て「これはいける!」と早とちりしたのかね
211 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 18:04:44.14 ID:tfixB+S9
ここで傾倒したのが宗麟なんだろな
212 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 18:13:18.61 ID:M6lslDTX
軍師官兵衛のロケ地にもなっている姫路市の書写山。
ここの「書寫山十地坊過去帳」は、戦国時代の播磨を知るために欠かせない史料である。
とはいえ、過去帳ということもあり、記述自体はあっさりとしている。
例えば、
實嚴祐眞禪定門 浦上政宗。永禄七(年)甲子正月十一日、為政秀生害。(赤松政秀に殺害された)
徳雲院俊嶽性哲大禪門 赤松政秀。元亀元年十一月十二日、依毒死去。(毒によって死去)
錦岩秀公禪定門 廣峯肥前守。於英賀津、為浦上生害。(英賀の津で浦上に殺害された)
天柱性熈大禪定門 赤松左京太夫晴政。正月十六日。
號祥光院了堂性因大居士 赤松兵部少輔義村。永正十八年巳九月十七日、於室津、為浦上村宗生害云々。
心光宗圓禪定門 小寺美濃守職隆。天正十三年五月廿二日。
性祐禪定門 別所小三郎長治。天正八年庚辰正月十八日、於三木城自害。
專徹禪定門 宇野下総入道祐政。天正八年庚辰五月九日酉刻、於千種谷、為羽柴討死。
といった具合に。
しかし、たった一つだけ例外がある。
宗祐禪定門 鳥居安芸守職隆。
天正七(年)八月廿二日討死。赤松殿奉行也。落書に、「寺社領を好て鳥居安芸はてぬ 後は寺宮たちもこそせめ」。
乗馬の足に敵の矢立ちて、被討了。
このように、赤松義祐の奉行人・鳥居職種(職隆)の記事だけは異常に詳しく書かれており、書き手の悪意を感じずにはいられない。
寺社領を横領された恨みを過去帳で晴らすという挙に出た、大寺院のえげつない話。
213 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 01:17:35.07 ID:BdoPXo0M
坊主なんて自分の欲のために小坊主の歯を抜く外道じゃん
怨みがあったらボロクソに書くのは当たり前
214 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 01:29:57.59 ID:Vy+uaGjs
なんて酷い落書だ
誰が書いたのか見当もつかないが、鳥居を酷く恨んでいた勢力が疑われるな
215 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 10:16:55.81 ID:syN1rPCO
豊臣秀頼が片桐且元を襲撃したとの報を聞いた徳川家康は駿府を出立。10月19日、美濃国岐阜へと
到着した。ここで徳永左馬助が到着し、豊臣秀頼からの書状を家康に披露した。
その内容は
『今度市正(片桐且元)がこの秀頼に対し様々な不届きが有ったので、かれを折檻に及んだ所、
大御所は以ての外に御立腹になり近日御出馬あるとのこと。まことに以って理解の出来ないことである。
何故なら御両所に対し、秀頼は毛頭野心など考えていないからである。この旨を申し上げていただきたい。
10月9日 秀頼(黒印)』
これを本多上野介(正純)が申し上げた所、家康はこう言われた。
「秀頼は若輩であるから、織田有楽や大野修理たちが様々に陰謀をめぐらしてそれを提言しているのだろう。
秀頼の意向は解っている。去る3月、大野修理より加賀肥前守(前田利長)の元へ一通の書状が遣わされた。
その内容はこういうものだった。
『秀頼は全ての才覚が日を追って増進しており、時分はこの時です。早々に上洛され、
秀頼のご指南をなさって下さい。
兵糧に関しては、大阪には福島左衛門大夫(正則)の元に3万石、秀頼の蔵に収めてあるものが7万石、
その他商売のための米穀が数多あります。
あなたお一人の指導を承ります。』
この書状は利長の死(6月27日)後、子息の筑前守(利常)より本多上野介を通して提出された。
大阪に別心があることは必定である。どこにそれを疑うべき点があるのか。」
また島津陸奥守(忠恒)、毛利宗瑞入道(輝元)、鍋島加賀守(直茂)、黒田筑前守(長政)、
福島備後守(忠勝)、松平武蔵守(池田利隆)、同松平左衛門督(池田忠継)、同宮内少輔(池田忠雄)、
浅野但馬守(長晟)、蜂須賀阿波守(家政)、加藤左馬助(嘉明)、森美作守(忠政)、田中筑後守(吉政)、
生駒讃岐守(正俊)、その他中国西国の人数数万人が、大阪表に押し寄せるよう、本多上野介に命じた。
(駿府記)
大阪冬の陣が起こる直前の、豊臣秀頼による弁明と。それに対する家康の反応である。
216 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 10:29:39.58 ID:fKEqU5SC
>>213 フェラさせるために歯抜くのってシグルイの創作じゃなかったのか
217 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 10:40:50.80 ID:e/tafZ5w
218 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 11:10:18.87 ID:wMc1AOmC
最上義康「今度、親父義光…」
敬白 立願状之事
大沼明神御宝前
今度 親父義光 身命於
無患者 社頭建直之 并
在家皆山伏ニ可致之 并松木
裁之間敷者也
右如件 寒河江家親(花押)
文禄四(1595)年乙未八月十三日 源義康(花押)
秀次事件の連座で京最上屋敷に閉居され、聚楽第に呼び出しをされた父義光の身上の無事と最上家の安泰を願って
鮭様(最上義光)の息子の最上義康が山形の浮島大沼明神に立願した祈願状
研究から「寒河江家親」は後の加筆と判明したが
慶長の光明寺事件から、廃嫡・暗殺へと至る過程を思うと義康の憐れさがより一層引き出される、数少ない義康の遺文にも見えてくる
219 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 11:14:15.29 ID:wMc1AOmC
>>218 「源義康(花押)」までで証文元文は終わりです
「秀次事件の連座で〜」との間に一行スペースを設けて頂けると読みやすくなると思います
220 :
968:2014/01/06(月) 17:45:35.36 ID:4BLTZEfO
3日後に死ぬ母親の安泰も祈願しとけば…
221 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 21:18:45.44 ID:bI+czk1A
織田信長による甲州征伐の時の事。
武田を滅ぼした信長は、恵林寺に信長に反抗し続けてきた、近江の佐々木次郎(六角義定)が隠れ潜んでいると
聞きつけ、早速これを引き渡すように、再三にわたって使いを送り要求したが、「そのような事実はない」と
返答し、その裏で密かにこれを脱出させた。
この事に信長は激怒し、長谷川丹波(与次)・津田九郎二郎(元嘉)・関小十郎右衛門(成重)・
赤座七郎右衛門(永兼)に仰せ付け、恵林寺に火をかけ、澤川国師、長禅寺の高山和尚を始めとして、
大綱、睦庵の二人の単寮(個人の寮舎を持つ身分)の他、尽く焼き殺された。
その中の未宗という単寮は、山門から飛び降りて逃げ出したという。
下法師、若僧などは、火の中を躍り上がり、飛び上がり死ぬ有り様で、言語に絶する哀れさであった。
東光寺藍田和尚はその場を脱出したものの、逃げる途中に尾張の者達に捕まり、身につけていた金品を
全て奪い取られた上で殺された。
(当代記)
当代記による、恵林寺焼き討ちの模様である。
222 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 14:14:27.84 ID:zcuJyd0S
223 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 19:55:35.31 ID:3Qbwx6mS
天正10年(1582)6月2日、織田信長は本能寺に斃れる。
その日の申の刻(午後4時頃)には明智光秀は遣いを勢多の山岡美作守・同対馬守兄弟に送り、
自分の味方をするように伝えたが、山岡兄弟はこれを拒絶。遣いの首を刎ね勢多橋を焼き、
山中へと引きこもった。
この日の未明、この山岡兄弟が勢多橋を焼いたという情報が安土城に伝えられ、
一体何が起こったのかと疑念に思っていたところ、安土城の留守居であった蒲生賢秀の家中の
者達が京都から帰ってきて本能寺の変を伝えた。
同2日、山崎源太左衛門も屋敷に火をかけ、山崎に引きこもった。
蒲生賢秀も、もはや安土には居られないと思案し、信長の公達女房達を皆、自分の領地である
日野に退かせようと迎え馬を呼び、翌朝移動することを伝え、故郷である日野の谷へ引き退いた。
この時女房衆はこのように言った
「安土城の色々な宝物が敵の物になるのは無念です。蒲生殿がそれらを取った上で、城に火を
懸けて下さい。」
蒲生賢秀は「それは欲に耽った話です。そんな事をすれば後難は如何なものとなるでしょうか。」
と言って安土状のものを何一つ取ること無く、また家屋も焼かず、家臣の森次郎左衛門に
「よくよくここを守るように」と言い置き日野へと退去した。
と、ここまでは清潔なのだが、その後は多少違ったようである。
心変わりがあったのか、もしくは策であったのか、明智とも交渉を持ったようなのだ。
そして明智が滅びると、この事を家臣の布施藤九郎の科であるとして、藤九郎を牢人させた。
この藤九郎は、蒲生賢秀の聟であったのである。
(当代記)
本能寺の変が起こった後の、安土城留守居・蒲生賢秀の動向についての記録である。
224 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 21:34:28.61 ID:gy+T4pSw
あとで安土が燃えてるだけに、
何とも言えないスマートな対応。
上手に両天秤掛けてる所も含めて。
225 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 23:58:43.85 ID:owMR+MAn
稲垣掃部は本多忠政の士である。忠政に怨みあって、白昼姫路を出奔し、船に乗って下った。
彼は以下の狂歌を書いて、その座敷の床の中程に張り付けた。
「破笠頸にかけてはこじくとも天下にてみのは頼まじ」
(たとえ破笠をかけて乞食になろうとも、天下において忠政を頼りにするつもりはない)
忠政は大いに怒って稲垣を追わせた。追手の士が坂越で稲垣の船を見て言葉をかけたところ、
稲垣は近くで相手になり、半弓を射て二士を殺し、逃れて赤穂の商家に入った。
忠政の士十人ばかりは、その家を囲んだが、一向に家へ入らず時を移した。
そこは池田輝興の城下なので、その家士である木梨清右衛門と澤市郎右衛門はこの有り様を見て
戸を押し破り、ただちに家へ入った。木梨は澤に先立ち、稲垣は引き絞った半弓を木梨に射る。
矢は木梨のまん中に当たり、彼は倒れた。
稲垣は二の矢をつがえて、今度は澤を射た。矢は澤の左腕から片腹をかけて貫いた。
澤は射られながらも、たたみかけて稲垣を斬り殺した。木梨はすぐその場で気絶して
また蘇生したものの、最後には傷を病んで死んだ。
――『武将感状記』
226 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 01:01:55.68 ID:H1szDz4j
三河武士の日常ですな
227 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 10:35:17.16 ID:wlZWOU3O
>>223 森次郎左衛門はその後どうしたんだろうか
というようなどうでも良い枝葉ばかりいつも気になる・・・
228 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 23:12:41.12 ID:Eau0S45F
稲垣も澤も木梨もテレビでよく見る名前だから、なんか無駄な笑いがこみ上げてくる
229 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 15:38:01.86 ID:8tEcWUde
230 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 19:15:10.87 ID:xC29wAGr
護熙って名前は戦国っぽいと前から思ってた
231 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 19:19:05.65 ID:fkY2Yuy6
先祖がヤンデレ、というか自身が肥後細川家党主だし
232 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 20:10:27.13 ID:IbTkXc+V
護は本家を継いだ斉護からの通字
煕は難読と言われてたけど近衛家とかで割と使ってたよね
233 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 20:51:39.27 ID:xACnqoaK
響きは弟の方が戦国っぽい
234 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 22:00:15.04 ID:l1R1zTAc
235 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 22:39:25.52 ID:qZPrRn0y
幽斎―三歳の血は引いてるのか?
236 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 22:43:30.50 ID:y2xR1FsO
顔を見る限り引いてそうではあるけどね
237 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 22:48:32.18 ID:CfkzfnQa
慶長元年(1596)
この年中、畿内の京都、伏見、大阪、堺などでは諸物品の売上に、その大小に関係なく
五分の1を税金として召し上げた。このために庶民は甚だ迷惑した。
(当代記)
今年は消費税が上がりますが、秀吉の晩年には、畿内では売上税20%を取られていた、というお話。
238 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 22:50:22.86 ID:CfkzfnQa
>>237 ちょっと間違えました。この記事は慶長元年ではなく慶長2年(1597)でした。申し訳ありません
239 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 23:49:07.50 ID:JZLwzIRf
>>229 高齢なんだからおとなしく陶芸やってればいいのに
当選したらまた混乱させて去っていくのかなw
きょんきょん師匠の井戸の茶碗に細川の殿様が出てたけど、あっちも混乱の元を振り撒いてたな
もちろん、あっちは落語だからちゃんと落ちはつくけど
240 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 00:09:02.07 ID:cVPytbvp
「井戸の茶碗」の細川の殿様はいいだろ
「竹の水仙」の細川の殿様なんて、部下が名品が買えなければ切腹の上お家断絶とか言い出すし
241 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 02:00:32.39 ID:Qd7WNlx8
きょんきょん師匠の竹の水仙だと毛利だったわさ
こっちでは切腹、断絶まではいってなかった気がするけどね
時代的に輝の晩年くらいになるんかな?
242 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 07:53:01.58 ID:Y1F6Bhwk
そういや自民党も国債を返すために
消費税20%以上必要だって言ってたな。
秀吉は朝鮮出兵のための臨時徴収だったんだろうけど。
243 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 11:25:04.98 ID:RPPjC5Qd
小ネタだが。
天正17年(1589)、上杉景勝が佐渡へ侵攻し、羽茂城を本拠とする羽茂本間家は滅ぼされた。
その少し前、天正期のある日。
羽茂城主の本間高貞が朝飯を食べていると、台所の方からまな板がカタンコタンと歩いてきた。
驚いた側近が刀を取り出してたたっ斬ろうとしたところ、高貞は
「まな板にも足はあるのだ。歩いていても不思議は無かろう」と静止した。
人々はその出来事が羽茂城落城の前兆なのではないかと噂し合ったという。
244 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 12:02:00.35 ID:BiStOi14
「まな板にも足はあるのだ。歩いていても不思議は無かろう」
いや、この理屈はおかしい。
245 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 12:17:00.10 ID:2nNB0Xoi
貧乳すぎて抱く気にならなかった
奥を揶揄している可能性
246 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 12:26:03.67 ID:rE0OVWz4
四足歩行ロボットか
247 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 14:33:13.27 ID:15m4yARu
>>244 えっまな板に足あるだろwこれだからゆとりは困る
248 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 18:53:27.22 ID:cVPytbvp
「まな板に足はない」ではなく「理屈がおかしい」って言ってるんだから
間違ってはないな、これだから慌て者は困る
249 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:42:05.98 ID:11NUCyDg
250 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 20:09:36.51 ID:tsP+a3zb
たまに味噌汁椀がテーブルで移動したりする現象と似たようなもん?
251 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 20:49:42.15 ID:GNCHgwMV
252 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 21:57:33.57 ID:POnaVrBd
本間って花の慶次で散々な扱いだった一族か
253 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 22:27:59.34 ID:scSx7XfX
漫画で悪役ならともかく、情けないクズ扱いされた人の子孫ってどう考えてるのか気になる。
石田三成とか小早川秀秋とか子孫がいない人は大丈夫だろうけど。
254 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 22:31:41.13 ID:2M3A664e
石田はむしろたくさんいるが…
255 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 22:47:08.17 ID:+ADls6e+
杉山家「・・・」
徳川宗春「・・・」
256 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 10:08:01.31 ID:yApWRuzl
怪異シリーズ
慶長5年(1600)の春頃、武州江戸の松平十三郎という人の馬の尾に、ネズミが巣を作り子を産み、
それが悪さをしたのだろうか、家が焼けてしまったという。
そして十三郎の兄・主殿介はこの後、伏見において討ち死にした。
江戸でのことは、この凶事を告げていたのだろうか。
(当代記)
よく意味がわからないw
257 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 10:23:35.20 ID:PEYCJOzI
>253、千石とか山内とか?
258 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 11:22:00.03 ID:z0+u1h7t
>>253 司馬遼太郎は小川祐忠の子孫さん?からクレーム入れられてるよ
でクレーム入れられてるのにそれをまた新刊に書いてるからどうなんだろ?と思った。
クレーム後の司馬遼太郎の文章を抜粋してみようか↓
『小川祐忠という、大和のさほどのこともない豊臣時代の大名が、野にくだって商人になってつくった屋敷だといわれています。
私がある本の中で、彼のことを秀吉のお茶のほうの大名だった、文化人だったと書いたら、二条陣屋の持ち主からどなり込むような長文の抗議書が来ましたよ。
そんな文化人でくだらない者じゃなかった、立派な武人だったと。これの価値観なんて、依然としてオランケやね(笑)』
(司馬遼太郎、陳蕣臣、金達寿 歴史の交差路にて 講談社)
司馬さんの文化人として評価する気持ちと、二条陣屋の持ち主さんは武人としての評価をしてほしいってのはそれぞれの価値観だからいいとして、
『さほどのこともない』と『オランケやね(笑)』は書く必要ないだろ(笑)
オランケにも失礼だし
259 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 11:38:03.65 ID:ZVuVAOZv
260 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 12:04:34.38 ID:8Ce1Ph09
武人よりも茶道の文化人として評価してもらったほうが誇れるだろうになw
今も昔もクレーマーって変わらんな
261 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 12:15:26.38 ID:yApWRuzl
小川祐忠は戦歴で言えば最初は織田信長とも戦っているし、本能寺の後も、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、
小田原の陣、朝鮮役、関が原の戦いと、大きな合戦にはほぼ参戦している歴戦の武将で、しかも当初信長や秀吉と対立していたのに
許されその陣営に迎えられているから、評価も高かったと見ていい。
「さほどのこともない」はさすがに評価として不当だと思う。
262 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 12:30:50.96 ID:8Ce1Ph09
しかし、関ヶ原の経緯がまずすぎたね
あんな始末になれば、そりゃ評価はガタ落ちになるだろう
263 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 12:33:59.99 ID:9lzmk/yB
264 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 12:52:04.13 ID:Dr6ARvu4
>>256 どっかで聞いたと思ったら、清盛の福原遷都の時の怪異譚そのものでは>馬の尾にネズミの巣
265 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 13:50:11.34 ID:yFtFMUiz
>>264 あー、これか
『また清盛入道が最も気に入りの厩では、昼夜の別なく愛でられていた馬の尾に、鼠が一夜のうちに巣くい、子を産んだ
これはただ事ではない、占いをしなければと神祇官に命じ、七人の陰陽師を召して占わせられると、「深く慎むべし」という
結果が出た。この馬は、相摸国の住人・大庭三郎景親が関東八か国一の馬であるとして清盛入道へ献上したものだという。
黒い馬の額が白かったので、名を『望月』とつけられた。陰陽頭・安倍泰親がそれを賜った。
昔も天智天皇の時代、寮の馬の尾に一夜のうちに鼠が巣くい、子を産んだときには、異国の凶賊が蜂起したと、日本書紀に記されている』
(平家物語巻第五 物怪)
266 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 14:31:50.07 ID:zjbAU+Lj
>>239 当初コメントを求められて「今は襖絵を制作中でお答えできない」って話があったな
267 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 15:05:22.67 ID:PEYCJOzI
三歳さまなら皆殺しでめでたしめでたし
268 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 15:27:59.21 ID:o5VNlEBd
>>259 作家なんてみんな性格悪いもんだ
「さほどのこともない」とか、アンタ何様だよだけどw
269 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 15:58:38.86 ID:aXk4eZ54
大和?誰かと間違えてるのかな
270 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 16:44:05.46 ID:LX74FBqO
カヤネズミ?
271 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 18:22:29.89 ID:F4Jn3imj
>>258 朝鮮語をわざわざ持ちだしてこのメンバーで話すって、中韓に媚び媚びの先進的知識人()そのものって感じだな
272 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 20:54:27.17 ID:TumWoE1V
>そんな文化人でくだらない者じゃなかった、立派な武人だった
コレはコレで小説家に向かって言ったら神経逆撫でしそうではあるな。
まー武人と文人て昔っからソリ会わない話多いよねー。しょうがないしょうがない。
もっともこのスレ的には両方兼ね備えたアレな人が大活躍ではあるが。
てか両方そろうとアカン人になるの気のせい?
273 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 21:03:36.18 ID:efwxlKP7
>>256 >>265 十二支の並びで子は北、午は南だから(子午線とかあるし)、
馬から鼠が発生 → 南 (陽)から北(陰)が発生する → 陰陽混濁 、天下大乱
という解釈かな
274 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 22:06:59.59 ID:lp/fesz9
所詮小説家なんて脳内の妄想を書き散らすだけのゴミだしw
そのくせ本人とその取り巻きは知識人扱いするから調子に乗って始末に負えないw
現実社会のことに口を差し挟まないのならまだしも、
これがまたいい気になって差し出口を叩くから嫌われるwww
275 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 00:18:29.08 ID:QQDP8Ffs
小説家に親を殺されでもしたのかよw
276 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 02:08:44.27 ID:iDZdTDoD
はい草くっさ
277 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 02:31:09.77 ID:2qXoWow4
草生やして争うなら余所でやってくれませんかね
278 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 03:25:34.90 ID:lVtKoXbP
確かに大和民族と満州民族に失礼な物言いだけど、まあ批判的な意味での進歩的文化人という感じの物言いで、司馬辺りの年代ならこういう論調な人間は多かった訳だからなぁ
本の主題的にも、鼎談の面々的にも、司馬本人の言説的にもなんというかいつもどおりじゃないかなぁとか
というか陳舜臣はまだ存命なんだな……
まあ金庸とかも存命だし、今は長命の時代だし、長命の人は戦国時代でも長命だから不思議じゃないわな!(無理矢理な戦国時代への話題の回帰)
279 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 03:27:54.79 ID:lVtKoXbP
あっ、上と下がバラけた
>>269 この大和は扶桑とかと同様に日本を指す意味での大和だろう
>>272 どっちかというと
「くだらない者じゃなかった」
ってのは、文化人と武人という見方よりは小川祐忠への否定的評価にしか見えない
>さほどのこともない
にかかってるだろうから、小川祐忠個人の評価という話からワザと曲解して文と武の対立の話に持っていって、「依然としてオランケやね(笑)」が言いたかった事のように見えない事もない
280 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 08:09:36.94 ID:m3PY8vhQ
故人の揚げ足取りに勤しむ人たちの人生がどんなのかを考えると切なくなるな
絶対に反論されないからやりたい放題だし
281 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 08:13:26.43 ID:JJxdO0zl
司馬が過去のひとたちにしたこと?
282 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 09:24:14.78 ID:Hl7dKflB
とりあえず、周防国人としては、世良修蔵先生と赤根武人先生への仕打ちは忘れない
283 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 10:20:38.27 ID:8SXm3KX6
>絶対に反論されないからやりたい放題
実在の人物ネタにした創作やってる人間全員に当てはまりますがな
284 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 10:31:57.90 ID:RRuGBFlK
司馬が影響力なければこう批判もされないだろうな
285 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 10:33:05.61 ID:oxHHXpa/
>>283 つか、そんなこと言うなら、このスレどころかここの板そのものが……
286 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 10:48:23.38 ID:AZL7N9ZS
>>284 司馬遼太郎という名前に権威があるからな
なのに司馬は大阪のオッチャンの世間話感覚で嫌いなものを紙面でやっつけるんだよ
司馬の毒舌は歴史小説より、コラムや対談作品読めばよくわかるぞ
対象は過去の偉人だけと思ったら大間違い
大阪気質にも京都気質にもボロカス言ってるぞ
自分も関西人なのに
とにかく口が悪い
文壇の有吉だよ
287 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 10:52:07.00 ID:sbi+k26M
大嫌いなオランケの話で飯食わせてもらってりゃ性格も捻じ曲がる
しかたないことだよ
288 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 12:35:58.64 ID:m3PY8vhQ
有吉もそうだが気持ちのいい毒舌は大衆受けするもんなあ
俺らが言うと、毒舌以前にただの陰口だが
289 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 12:48:55.60 ID:Hl7dKflB
自分の名前も連絡先も公表した上で、人前で大声で悪口を言う分、
裏でこそこそ影口を叩いてる奴より立派ってことか?
290 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 13:06:09.57 ID:AZL7N9ZS
>>288 書籍や公共の電波での悪口のほうがタチ悪いと思うよ
291 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 16:56:30.88 ID:Dy8caDLl
俺に言わせればこんな掲示板で陰口たたいてるネクラなお前らのほうがよっぽどタチが悪いけどな
292 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 17:20:49.14 ID:8K4fOQQ6
時はへだたり世は遠くなって、今は陪臣の勢いもますます微かになった。
秀吉醍醐の花見の時に諸大名が来会した。刀持は玄関の上にいて、横目職の人が刀持を玄関より
下ろすと、皆が下りた。ところが、前田利家の従者の戸田越後は、その時いまだ二十歳ばかりの
扈従だったが、長く座っていたために足が痺れてすぐには立てなかった。
そんなところを「何者ぞ、不敬なり! もし下りないならば打ち叩け!」と、言われた戸田は大いに怒り、
「士にはもともと高下はない! 眼前にこのような恥辱を受けなければならない道理があるだろうか!
身を裂かれ、頭を砕かれようともここを立ち去らないぞ! 下ろそうとするなら、この刀で勝負だ!」
と、柄を撫でて、目をかっとむき、覚悟した様子であった。
そのため、横目以下は戸田を下ろそうと動き乱れた。そして利家が「何事ぞ!」と言って走り出たので、
秀吉も刀を取って出た。利家は戸田を見て叱り、立ち去らせた。
秀吉が「彼は誰ぞ?」と問うと、利家は「私の扈従です。その由緒はしかじか…」と答えた。
秀吉は座に戻ると「戸田は壮士だ。用に立つであろう者だから寵任せられよ」と言って、
まったく無礼を咎めなかった。
――『武将感状記』
293 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 17:37:47.52 ID:nxoE+6H/
三河じゃないのにめんどくさいな
294 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 17:42:31.96 ID:U8QKXgZ0
突っかかったやつ馬鹿じゃねえの
正座の苦しみも分からんのか(太閤・談)
295 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 20:03:37.12 ID:cAOx+q5o
この従者は後の戸田流二代目、戸田綱義では?
296 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 20:11:44.26 ID:Rd272H4T
富田勢源と戸田流初代の戸田清玄は同一人物かいなか
297 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 22:15:49.16 ID:yhS80OuN
武士も足が痺れるような座り方するんだな
298 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 22:50:22.56 ID:Mc5Y+bX6
そもそも正座が作法になったのってわりと最近だったような
299 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 22:51:47.50 ID:43eNQUIh
日本人が一般的に正座するようになったのは畳の普及した江戸期以降だね
300 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 23:10:03.37 ID:iDZdTDoD
俺とかあぐらの状態でも足が痺れることあるよ
椅子に座っていても痺れを感じることもある・・・
301 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 01:08:52.94 ID:rtxerz69
痛風か!
302 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 03:42:20.90 ID:B88k4LLI
政宗なら痺れた足をつっついたりしたのかなあと、ふと思った。
303 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 08:24:58.91 ID:tuF62Bsg
「あの時はwww実はww足がしびれて立てなかっただけでwww」
とか年取ってから自慢話したのかな?
304 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 12:02:00.78 ID:+GmN7DIv
政宗にとって頑固者はハートフルな交流を交わす人なので馬鹿にするのは違うと思うw(例:お師匠)
それにしても若くして利家に近侍する剣豪の跡取りとか
仮にまだ力不足だったとしても流血沙汰にならず良かった良かった
305 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 12:23:44.05 ID:CCjADils
>>291 おれから言わせれば歴史人物の悪口にはなにも言わず、司馬とマスコミへの悪口に怒るおまえはおかしい
306 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 12:39:53.77 ID:t5uftKhP
足が痺れてたのに逆ギレにもほどがあるわ
307 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 14:39:19.66 ID:AhaQEx0n
坊さんの工夫で足がしびれなくなる秘伝があるって聞いたが、精妙な体重移動って感じだった
308 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 17:29:06.15 ID:E1e17gad
江戸時代に入るまで女性の座り方も立て膝立ちなんだよな。
有名な淀殿とか北政所の肖像も立て膝立ち。
309 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 18:14:46.30 ID:fVTSufg+
人間の身体の構造が数百年かそこらでそんなに変わるわけないから
昔の人だって長時間正座は堪えただろうね
310 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 20:33:37.74 ID:mvQ5qAhz
311 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 23:36:20.32 ID:E1e17gad
新田金山城主である由良成繁は越後の上杉輝虎(謙信)に従っていたが、永禄八年(1565)に
輝虎の旗下から離脱した。そのため翌永禄九年三月、上杉輝虎は越山して上州厩橋に着陣するや
直ちに金山城を攻めた。しかし10日余り攻め続けても、要害堅固なこの城を落とすことは
出来なかった。
諦めた輝虎は、今度は桐生の城に押し寄せたが、ところがこれもまた堅固で、損害ばかり大きく
いつまでも落ちそうにないので、これも諦め陣を払って厩橋に帰陣した。
そして輝虎は北条丹後守長国に高崎城を攻めさせた。しかしこの城も城主和田兵衛太夫、弟の
松山兵部丞が共に精力を尽くして防ぎ戦ったので雌雄を決する事が出来ないでいた。
そこに越後から早馬が来て本国の急を告げたため、輝虎が越後に引き上げると言うので、
北条長国も兵を退いて厩橋へと退去した。
何をやっても上手くいかないという時も、あるものなのである。
(関八州古戦録)
312 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 00:49:25.13 ID:57qBwrj+
>>310 唐入り阻止のために謀反だってさ。斜め三国の回し者だな。
313 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 01:23:31.43 ID:tReEv/BT
>>310 自説の土岐氏再興説が破綻したから変えたのかw
それでも相変わらず邪推ばっかりだなこの人。
314 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 14:14:04.69 ID:Ikn+QHqz
明智の子孫だからと、子供のときに嫌なこと言われたのが活動の動機と自分でも言ってるからな
315 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 14:34:34.65 ID:xAM9GhyF
切れやすいんですね。わかります
316 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 15:24:26.69 ID:MV28VKWf
キンカ頭とか言われてたのかもしれんな…
光秀の子孫の人はやはり自身を土岐源氏だと信じてるのかな
317 :
人間七七四年:2014/01/16(木) 01:46:09.42 ID:CG07Of+l
光秀は出身が未だに確証ないからなあ
丹波の名無しの十兵衛だったとか美濃の随分衆だったとか
秀吉よりもよくわからない出自
318 :
人間七七四年:2014/01/16(木) 19:48:54.30 ID:XRYkZD9m
甲斐国西郡十日市場と言う所に、徳厳という半俗半僧の者が居た。この者は甲州市川の
文殊堂に籠もり、夢窓国師相伝の八卦を伝授されたのだと言って、所々で占いをしていた。
武田信玄の家臣である長坂長閑は彼を高く買って、信玄に推薦したいと思っていた。
ある時、信玄は一段と機嫌よく、夜に大いに談笑していた。
この時を見計らって、長坂は先の徳厳を信玄に紹介した。信玄はその話を聞くと
「占いは足利学校で伝授されたのか?」
と尋ねた。長坂は「彼の八卦は文殊堂に籠って、夢窓国師に夢の中で伝授されたもので
非常に奇特のあるものです。」と、様々な証拠を半時ばかり述べた。信玄はこの話を引き取り
「長閑、よく聞くが良い。八卦という本は、私は今まで読んだことはない。だが推測するに
その本に書いてある文字は、少なくとも二百三百ということは無いはずだ。
物を読むのに、真に読むというのはほんとうに難しい。
また、夢というのは定めなく不安定なものだ。粗忽なことの例えに、人に逢ってあまりにも
早く別れると、『夢のように逢ったものだ』という。
であるから、難しい学問を、目にも見えない文殊堂での夢によって相伝されたなどというのは、
皆偽りに決まっている。
偽りを言う盗人に、将たるものが対面しないのは当然のことだ。
そのような者は心汚き故に、当座は奇特を発揮するかもしれないが、貪欲であり、少しでも
情け深く金銀を恵んだりすれば、悪いことも吉と占い、なにか物品を与えなければ、吉も
悪というだろう。
神変奇特と言うものも、たまには存在するだろう。そうでなければ、たとえ愚人でも
占い師を頼むことはないからである。
放下(曲芸師)というものは、矢の柄を二丈も三丈も接いでその一番上に茶碗を置き、
自分の鼻の先に乗せてくるくると廻し、それを落とさないようにする。
これは素人が見ると奇特であるが、本質的には意味のある行為ではなく、単なる芸であるので
何の役にも立たない。だからこそ彼らは「放下」と名付けられているのだ。
文殊堂で夢想相伝の八卦占いを伝授されたなどというのは、この放下に類するものだ。
また盗賊は現在だけに執着してつまらぬ欲があるから、天道から罰を受ける。人間62年の
身を保つことが出来ず、様を変え、手を変え品を変え、人の心を盗み取るのが盗賊だ。
さかしまな知恵が深くて術だけ巧妙で、口先で虚言も真実のように言い、見て面白く、
聞いても可笑しくあつかう盗人を放下と名付けるのだ。一つとして真の役には立たない。
再び、このようなことを我が前で紹介するのなら、誰であろうと曲者とみなす!」
これに長坂長閑は赤面して恥入り、面目を失ったという。
(甲陽軍鑑)
319 :
人間七七四年:2014/01/16(木) 20:44:59.07 ID:coFwYzec
そして信濃駿河を盗んだ盗人は人間62年を全う出来なかった・・
320 :
人間七七四年:2014/01/16(木) 21:00:36.68 ID:+r2sneG6
甲陽軍艦で長坂と来たら面目を失うまでが仕様
321 :
人間七七四年:2014/01/17(金) 09:02:30.88 ID:oQE7+6z9
半刻じっと話を聞いておいて最後に喝破しちゃうとか、信玄公も人が悪い
322 :
人間七七四年:2014/01/17(金) 19:48:05.00 ID:gV1T9ux5
好き放題書かれる長閑は横領したり逃亡したりで忙しいからな
323 :
人間七七四年:2014/01/17(金) 23:39:44.81 ID:dEy7xUzj
こんなこと言うほど長閑の事を買って無かったなら、
なんで長閑を使ったんだって話になるような…。
324 :
人間七七四年:2014/01/17(金) 23:50:37.46 ID:zJ0ZD0hZ
武田で長閑といったら今福さんの方じゃなかったか?
325 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 01:28:35.25 ID:Sv5yH5uj
長坂さんは板垣の副将格で板垣死後はその地位を受け継いでる
諏訪の統治者であったから諏訪の名跡を継いだ勝頼につけられたのは想像するに難くない
先代の宿老と若当主の側近が対立するのはよくあること
跡部は武田の奏者で例えるなら三成みたいなもんか、否定的逸話が多いのは当然だろう
326 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 10:02:43.65 ID:1rdzbGyA
永禄元年(1558)2月、越後の景虎入道(上杉)謙信より武田信玄に探りを入れた申し出があった
『この景虎は信玄と、少しも戦うべき理由はない。ただ村上義清に頼まれたからに過ぎない。
だから信玄と面談し和睦ということになれば、我々は越中・能登・加賀を領有して
父為景への孝行に変え、上杉憲政を、北条に占領されている東上野の平井城に復帰させたいと
考えるのであるが、信玄と戦っていたのでは何事も成就しない。であるので、千曲川を隔てて
対陣してからの事はともかくとして。』
この申し出により、5月15日に景虎と信玄の和睦が成ることとなり、越後、信濃では
喜びが広がった。
さて、5月15日の両大将対面という時、千曲川を隔てて両方の川の端に床机を起き、
両大将とも馬に乗り、床机の側で馬より降り、互いに御供は5人づつ、あたりは人を払う
ようにして、やがて川端まで乗り寄せてから両将は馬から降りた。
この時、景虎は機敏な大将なので、信玄に動作が鈍いなどと思われたくないと考えて、素早く
馬より降りて床机に腰を掛けた。
ここで信玄は馬氈(鞍のおおい)を直すふりをしてから、馬上のまま
「苦しからざる!景虎、馬に乗られよ!」
と言った。この言葉に景虎は大いに腹を立て直ぐ馬に乗り自陣へと戻り、信玄へと遣いを立てた。
『我らの長尾家は鎌倉権五郎景政から、梶原平三景時まで五代、それより代々続いてきた為景、
景虎である!それに対して武田は頼朝右大将が富士の巻狩りをしていた時分でも、御所の次は
梶原であり、それに次ぐのが武田であったというのは紛れも無い事である。この上、上杉憲政より
譲り受けて8年この方、上杉姓になってからは、将軍義輝公より関東管領職を承っている私で
あるのだぞ!』
この景虎からの抗議に信玄はこのように返事した
『梶原は頼朝が取り立てた被官にすぎない。それに対して武田は公方の御相伴衆の地位にある。
機会があって出頭という事態の時などは、どのように卑しいものでも君主の側に近付くのは、
今も昔も珍しい事ではない。だが、そうした事がそのまま、家の格には繋がらないものだ。
そもそもその関東管領職にしても、上杉憲政が侍の忠不忠も知らず、譜代、旧功、新参、古参の
詮索考慮もなく、民百姓の困窮も知らず、やたらに所領を与え、あるいはやたらに取り上げた。
そのような人罰によって天道から見放され、北条氏康に負け、嫡子の龍若まで見捨てて
越後へ逃げた。そういう人物から譲られそれで景虎が関東管領である、などというのは、
大変な若気の至りである。
とりわけ、信玄に無視されたなどと腹を立てておられるのは、景虎の無分別である。
この信玄の方は、無礼を働いたとは決して思っておらぬ。ただ、たまたまあのような
対応になったのであり、そこは堪忍の二文字を分別していただきたい。』
この信玄からの返答に景虎はただならぬ程の不機嫌となり、再び戦闘に入り5月から閏6月の
半ばまで70日あまり対陣した。その後景虎は退いたため、信玄も7月11日に甲府に帰陣した。
(甲陽軍鑑)
武田信玄と上杉謙信の、成らなかった和平についての逸話である
327 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 11:11:42.46 ID:r9VZEbUb
でも塩は送っちゃう
328 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 11:18:43.51 ID:SSBslH6O
戦争と金儲けは別でござるよ
329 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 12:22:17.77 ID:8R4KQMsB
信玄は一体何をしに来たのか
330 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 13:08:09.68 ID:Dx+/dfZn
信玄の発言のせいでお互い70日分の軍費の無駄使いかぁ
どっちもプライド高杉w
331 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 15:05:54.31 ID:boSF0Ele
信玄公のなさる事は
真綿で首を絞めるがごとくゆえ
332 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 15:32:02.37 ID:6RxgDJMH
謙信の先祖が梶原景時になってる
確かに同じ鎌倉氏だけどさあ
333 :
人間七七四年:2014/01/18(土) 22:04:05.64 ID:F+OQjrmv
>>325 跡部さん武田家中でも指折りの大身譜代やで
世代的にも家格的にも成るべくして勝頼の右腕になった
334 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 00:01:21.28 ID:pXr2Y9Sg
ほんと絶望的に相性が悪いなこの二人は
335 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 03:31:23.04 ID:/jpDduKl
秀吉と成政みたいな感じ?
336 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 04:29:44.65 ID:qRKR8gHt
>>333 それは知ってる。ただ奏者を寡占して軋轢を生じさせていたから三成に例えた。
337 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 06:32:05.11 ID:l1uUsBe3
奏者を寡占? 現実見た方が良いんじゃね?
338 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 11:10:52.37 ID:+DAXyBUV
お前も現実みろよ、いつまで無職でいる気なんだい?
339 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 11:44:47.59 ID:LrY1r3fK
慶長7年10月18日、備前美作両国の領主である金吾中納言(小早川秀秋)が死んだ。
この人は、常に大酒をしていた故であろうか、狂気の人のような状態になって、侍数人を
故なく成敗したため、この10月の上旬には改易が行われるべき矢先に、このような事となった。
このため時の人々は、秀秋は自害だったのではないかと、下々まで疑った。
(当代記)
小早川秀秋が死ぬ直前に、改易されるという噂があったらしい、という話である。
340 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 13:16:31.50 ID:3k3SFcgD
10月上旬過ぎてないか
341 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 21:04:04.55 ID:dV2qOaNU
俗に伝わることに、忠勝・康政は家康公から賞功に貰う土地が常に少なく、
また家康公が一国を与えるという約束を破ったために憤っていた。
そのため、康政の病中に家康公から見舞いの使者が来たときは
布団から出ずに「腸が腐ってやがて死にますとお伝えしろ」と言い、
秀忠公からの使者には、布団から出て礼服を着て陳謝した。
『武家事紀』より、有名な康政の「腸が腐って死ぬ」と言う話。
ちなみにこれを本多正信と結びつけたのは隆慶一郎だそうです。
342 :
人間七七四年:2014/01/19(日) 23:59:15.17 ID:UnU8qmT2
榊原康政…館林10万石
本多忠勝…大多喜→桑名10万石
かぁ、なかなか争奪戦の舞台になった場所だし、下手な一国与えられるよりよっぽど信頼されてるよな
343 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 00:27:43.52 ID:8sz4NDNR
信頼されているとしても、
名誉では腹は膨れないからな…。
というか、どちらかと言うと約束を反故にされるという点の方じゃないかな。
344 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 00:43:04.77 ID:UQ1/Gv4L
そもそもそんな約束自体が創作だしなぁ
345 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 02:42:52.46 ID:vgKQnmXz
家康はケチで有名だし三河時代に譜代家臣には苦労が絶えなかったからこれらの仕打ちは当然でしょ
大身の大名にしたら反逆してくるからな
346 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 07:33:55.27 ID:v8M8ol/E
>>345 > 家康はケチで有名
これがまず嘘なんだよなあ…
347 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 14:46:37.08 ID:WV5UkCAO
一騎でも喧嘩しかねないのが三河武士かと・・・ケチならまだマシじゃね?
348 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 18:09:18.52 ID:d+373OnL
>>341 隆慶一郎の本だと思ったら峰隆一郎
そんな時代が俺にもありました
349 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 20:42:19.63 ID:DpEh9r12
>>348 全然作風違うし、無駄にエッチでグロいなあと思いました
あと、作品数は見習えばいいなとも思いました
350 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 01:47:52.06 ID:MVuGoiUp
351 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣
元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。
これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。
だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。
八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、
あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。
裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。
九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。
しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。
(つづく)
352 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。
陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。
十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。
小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。
更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。
353 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん
凡人の鑑
354 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな
355 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。
356 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
解せぬ」
357 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き
358 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。
問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。
それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。
359 :
人間七七四年:2014/01/21(火) 23:58:26.74 ID:XqeexM3F
徳川家康の正妃にして秀吉の妹の旭は、始めは尾張の士である副田与左衛門吉成に嫁いだ。
秀吉が徳川家と和議を整えた時に、秀吉は副田を呼んで、
「お前は我が妹を離別せよ。我は妹を徳川氏に嫁がせて天下泰平を致そうと思うのである。
お前には封を増して五百石の領地を与えるつもりだ」と言った。
副田は曰く「いま天下太平を致さんとのことならば、妻を出すことは仰せに従います。
しかしながら、妻の代わりとして禄を得ることは武門の本意ではありません」と断って、
まもなく妻を返し、それ以後は男を立てずに直ちに剃髪して隠居と称し、烏森村に閑居して
亡くなったとかいうことだ。
――『明良洪範』
360 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 05:36:32.71 ID:jE2b/OaI
五百石って少なくね?
361 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352 朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!
>>359 5万石で離別ってのはよく聞くけど500石はいくらなんでもなあ
362 :
1/2:2014/01/22(水) 08:49:01.50 ID:JwEfLKgw
豊臣秀吉は、慶長3年(1598)の5月に入ってから体調を悪化させ、病床に伏せるようになった
『国王(太閤様)は伏見城に滞在していた6月の終わりに赤痢を患い、良くあることですが、時ならず胃痛を
訴えるようになりました。当初は生命の危険など全く懸念されはしなかったのですが、上記のように8月5日に
病状は悪化して生存は絶望的となるに至りました。だが、太閤様はこの時に及んでも、まるで健康体であるかの
ように、不屈の剛毅と異常な賢明さで(従来、万事においてそうだったのですが)身辺のことを処理し始め
ました。そして太閤様は、自分亡き後、6歳の息子(秀頼)を王国の後継者として残す方法を纏め上げました。
彼は。関東の大名で八ヶ国を領し、日本中で最も有力、かつ戦争においては極めて勇敢な武将であり、
貴顕の生まれで、民衆に最も信頼されている徳川家康だけが、日本の政権を簒奪しようと思えば出来る
人物であることに思いを致し、この大名に非常な好意を示して自分と固い契りを結ばせようと決心して、
彼が忠誠を誓約せずにはおられないようにしました。
すなわち太閤様は、居並ぶ主だった諸侯の前で、その大名(家康)を傍に召して次のように語りました
「予は死んでいくが、所詮死は避けられぬ事ゆえこれを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは
まだ王国を統治できない幼い息子を残していくことだ。そこで長らく思い巡らせた挙句、息子自らが王国を
支配するにふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて安全を期する事にした。その任に当たるものは
権勢共に最も抜群の者であらねばならぬが、予は、貴殿を差し置いて他にいかなる適任者があるとは思われぬ。
それゆえ、予は息子とともに日本全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は予の息子が
統治の任に堪える年齢に達したならば必ずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。
その際、この盟約がいっそう強固なものとなり、かつ日本人が擧げて一層慶賀してくれるよう、次のように
取り計らいたい。貴殿は、嗣子(秀忠)により、ようやく2歳を数える孫娘(千姫)を得ておられるが、同女を
予の息子と婚約させることによって共に縁を結ぼうではないか。かくて貴殿は一方(千姫)の祖父、同時に
他方(秀頼)の父と成りえよう。」
363 :
2/2:2014/01/22(水) 08:49:52.65 ID:JwEfLKgw
この言葉を聞いて家康は落涙を禁じえませんでした。彼は太閤様の死期が迫っていることに胸が一杯になり、
大いなる悲しみに閉ざされる一方、以上の言葉に示されているように、太閤様の自らに対する恩恵がどれほど
深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思い巡らしたからでした。
ですが、次のように言う者が居ないわけではありませんでした。家康は狡猾で悪賢い人物であり、これまで
非常に恐れていた太閤様も遂に死ぬのだと思い、歓喜の涙を流したのだ。彼はとりわけ、いとも久しく熱望
していたように、今や国家を支配する権限を掌中に納めたも同然になったことに落涙せざるを得なかったのだと。
それはともかく、家康は悲嘆の面持ちで次のように答えました。
「殿様、私は殿の先君・織田信長様が亡くなられた頃には、三河の一国しか領しておりませんでした。
しかるに殿が日本国を統治し始められて以来、さらに3ヶ国を加えられ、、その後久しからずして、殿の
無常の恩恵と厚遇によってその4カ国は、現在のように関東8ヶ国の所領に替えて頂きました。拙者に対する
恩恵は以上に留まらず、絶えず甚だ多大の贈物を賜りました。
殿は今後、私が生命を抛っても御子息に対してあらゆる恭順奉公を尽くすようにと、私、並びに私の子孫を
解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。私は当初、殿が御意向を示された折、私は粉骨砕身を以って、
王子(秀頼)への主権の移譲が安泰たるよう、その後見として励もうと決心しておりましたが、今や殿は
王子の御身、並びに国家の命運をも私の忠誠に委ねられ、またかたじけなくも殿の御子息を私の息子の
婿として下さいます。私に取り、これに過ぎる恩恵は未だかつてありません。
かくて私は、大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりません。今後は万難を排し、あらゆる障害を
取り除き、以って殿のご要望、ご命令を達成致すでありましょう。」
このように家康が答えると、太閤様の面前に嫁(家康の孫娘)が連れて来られ、時間が許す限り、太閤様の
枕元で、喜びと厳粛さの内に結婚式が挙行されました。それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって
約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、彼らは太閤の
嗣子に対しては、成人した暁には政権を掌握できるように尽力すること、また家康に対しては、その間、
尊敬と恭順の意を表すことを誓いました。更に太閤様は、その他のより低い身分の諸侯が家康の屋敷で
同じように誓うことを命じ、加えて家臣たちの心を自分に固く結びつけ、彼らが自らの嗣子に対して忠節を
尽くすようにと、金銀その他高価な品々を数多く分かち与えました。太閤様は非常に気前よく寛大さを示して、
寡婦や古くからの下僕のような貧しい私人の事にも思い及び、それぞれの身分に応じて何らかの品を授けました。
太閤様はその後、四奉行に五番目の奉行として浅野弾正(長政)を加え、一同の筆頭としました。
ついで太閤様は奉行一同が家康を目上に仰ぐよう、また主君(秀頼)が時至れば日本の国王に就任できるよう
配慮すべきこと、全ての大名や廷臣を現職に留め、自分が公布した法律をなんら変革することなきようにと
命じました。また確固たる平和と融合−これなくしてはいかなる国家も永続出来ません−が、諸侯の間に
保たれるようにと、一同に対し旧来の憎悪や不和を忘却し、相互に有効を温めるよう命じました。
(イエズス会宣教師年報「フランシスコ・パシオ師の『太閤秀吉の臨終』についての報告」)
イエズス会の報告による、病床の秀吉と家康との間の会談である。
364 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 12:41:19.27 ID:jE2b/OaI
腹の中で大笑いだろ
365 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 14:43:25.19 ID:DEnjE4X/
過去の人情と現在の能力どちらが国を運営するうえで重要ですか?
答えは【ここをクリック】
366 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 14:49:34.28 ID:WVPxCRJO
信長のことに触れてるのが気になる
367 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 17:33:15.69 ID:pB+3k27D
裏切りすぎると信用なくすしな・・・ねえ信玄さん
368 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 20:05:10.91 ID:rJ40tG3x
そこまてしても秀吉没後には奉行衆が結託して合議制に持ち込んでしまったからなぁ
369 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 20:52:54.00 ID:30bh2vut
秀頼が15歳になったら政権を返してくれると本気で思っていたのかねぇ
ねねがあっさり西の丸を家康に渡したのは、この遺言に従ったからなのか?
370 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 23:02:49.42 ID:hH5LMXwQ
>>360 烏森って中村にいまでもあるが、その辺りの居なら元々の身分も低いのだろう。
371 :
人間七七四年:2014/01/22(水) 23:10:01.64 ID:FHlWZ6d7
北朝鮮とか見てても思うけど、トップの爺さんひとり死ぬだけで全然勢力図が変わるんだよなあ
権力って凄いと思うわ
372 :
人間七七四年:2014/01/23(木) 06:44:03.42 ID:rxVAGqHS
慶長9年(1599)、この夏、高麗(朝鮮)からの使いとして、浄雲大師という僧が来た。
彼は翌年の春まで在京し、家康公の発言を得て高麗に帰国した。
この使いによると、先年秀吉公が高麗に出兵したため、明朝は高麗に軍隊を駐留させた。
ところがその番手の衆達による狼藉が甚だしく、高麗国はこれに大変迷惑している。
日本との関係が平穏になれば、明朝の衆を帰国させることが出来るため、前々のような安定した関係に戻したい、
と云う言であった。
(当代記)
朝鮮、日本軍が撤兵したらしたでまた大変だったらしい、という話である。
373 :
人間七七四年:2014/01/23(木) 06:47:02.44 ID:rxVAGqHS
>>372 間違えてる
一行目、×慶長9年(1599) ○慶長9年(1604) 申し訳ありません。
374 :
人間七七四年:2014/01/23(木) 11:35:00.05 ID:DvE3Kaou
そりゃそうだろ
治安維持の名目で駐留されて将官は接待を要求して将兵は家畜と娘を要求するんだからな
属国はひどい扱いだぜ
375 :
人間七七四年:2014/01/23(木) 15:22:27.60 ID:vEplLs/d
この僧は惟政のことかな?なら松雲大師のはずだが
つうか明軍は完全撤兵してるのによく言うもんだ
376 :
人間七七四年:2014/01/23(木) 17:30:35.83 ID:l+UGalJS
悪い若党を使ってはならぬ
悪い友と交わってはならぬ
島津義久の掟書きより抜粋
377 :
人間七七四年:2014/01/23(木) 21:57:37.26 ID:M97Pfa/R
>>341 当時の見舞いほど迷惑なものはないよな
寝てないといけないのに正装で迎えないといけないんだもんな
378 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 05:41:44.95 ID:t/zz8Qiq
慶長9年(1604)
この頃怪異が有った。内裏の庭の中にどういうわけか長持ちが二つ置かれていた。
人々がこれを開けてみると、一つには生首が多数入っていた。
もう一つは開けようとしてもどうしても開かず、その上にはバラバラに切られた野菜が置いてあった。
不思議なことである。
また近江国横関にも怪異が有った、巳の刻(午前10時頃)までは水もない所に、午の刻(正午ごろ)に及んで
毎日血の池が出来たという。
(当代記)
当代記より、慶長9年の怪異についての記事である。
379 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 06:53:37.70 ID:3oJl0G6f
380 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 08:52:23.27 ID:x5Wfd4Ci
徳川家康が上杉景勝を討つため関東への下向が決定すると、加藤主計頭(清正)は、山岡道阿弥を以って
家康を諌めた
「今度の会津発向は、お止めなされるべきです。内大臣の重職にあって遠国の敵を自らご征伐なされるというのは、
あまりに軽々しい事です。かつ、家康公はご老体であり、奥州まで遠征し辛苦されるというのも然るべからぬ事です。
それにもし又、五奉行共が景勝に内通して、関東に下向されたあとで叛逆を起こし攻め下る、などという事態も
考えられます。そうなっては、前後の敵をたやすくは退治し難く成ります。
景勝に対して、私やその他の諸将を討ち手に仰せ付けられ、その上にまだ心もとなく思われるのであれば、
かの隣国の大名、伊達陸奥守政宗、最上出羽守義光、堀久太郎秀治らを指し添えられれば、たやすく誅伐
出来るでしょう。」
しかし、家康はこれに同意しなかった
「貴殿は武勇天下に隠れなき人であり、その上私の縁者でもあるので、本来なら伏見に置いて帝都を守護させたいのだが、
もし世情に不慮の乱が起きれば、九州には黒田如水より他に味方は居ない。しかし如水は隠居の身であるから、彼の軍勢は
定めて小勢であるだろう。
貴殿は急ぎ帰国し、上方にもし兵乱が有れば、如水と申し合わせ九州を治めていただきたい。」
これに清正は、自分も会津征伐の先手を仕りたいと再三申し上げたが、家康が許容しなかったため、秀頼に御暇を申し上げて
肥後へと帰国した。
(黒田家譜)
会津征伐について、加藤清正の、家康への諫言についてのお話
381 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 10:10:54.10 ID:S66n678q
Q太郎とっくの昔に死んどるがな(´・ω・`)
382 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 10:15:10.06 ID:Aq9mTVi4
堀秀政ではなく、息子の堀秀治だぞ
息子も久太郎
383 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 10:18:55.92 ID:S66n678q
秀政の子供もQ太郎襲名してたのか
竹千代みたいなものか
天庵様に加勢してくる(´・ω・`)
384 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 10:28:05.16 ID:9QQQ8Gg9
しっかり秀治と書いてあるがな
そんなんでは天庵さまと一緒に帰れんぞ?
385 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 19:32:13.69 ID:reZO16FT
天庵様のさらなる戦績の供犠となったのだ
386 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 21:38:47.71 ID:F7iSin/s
秀治「お前の話はつまらん!」
387 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 00:20:15.02 ID:CBCN/LEu
波多野さんかな?
388 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 04:34:50.43 ID:JggsZBWw
大滝だろ
389 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 12:04:52.69 ID:4uhwKfpu
>>376は天正年間の兄のほうの掟書きなのかな?
弟(義弘)の慶長二年朝鮮役に出向く際残した、『京都と高麗の御公約を油断なく調べろ』から始まる掟書きが残ってる
390 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 19:15:56.63 ID:4uhwKfpu
>>389訂正します
×御公約→○御公役
御公約だと朝鮮役のさなかに京都と高麗が密約交わしてて薩摩がそれを探ってるみたいな意味になるw
失礼しました
391 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 19:27:57.11 ID:NW19CK/c
慶長10年(1605)5月26日、尾張国清須において喧嘩があった。これは一両月以前に、自身の小者が打擲され、
その恥をすすぐためもものであったと云う。打擲した者は、甲賀左馬介と云う名である。
小者を打擲された方は、小身の者であり姓名は不明で、6人の者達であった。
この甲賀左馬介が津島に行った帰路を待ち構え、6人の者達は打ち出て左馬介を討った。
左馬介の供の者達が後から来て6人と戦ったが、侍4人、中間1人が討たれた。
しかしこの戦いで6人の者達のうち、一人が重症を負った。他の5人はこの手負った者を見捨てず、
彼を連れて家の中に籠もり、そこで共に腹を切った。
一人の手負いを捨てて逃げれば、問題なく逃げおおせることが出来たのに、日頃から固く誓い合った
仲であったので、この様になったのだという。
この6人の者達は何れも覚悟をしていたので、女房や被官、小者以下を尽く、それぞれ事前に
思い思いの場所に落としていたそうだ。
時の人々は上下揃って大変な美談であるとこれを讃えたという。
(当代記)
6人組の復讐、というお話
392 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 21:48:17.09 ID:TrwiE68E
これが美談になるのか・・・(困惑)
中世的価値感との隔たりを感じるわ・・・
393 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 22:59:05.03 ID:f3TqBqPP
小者とはいえ、自分の家の者に掻かされた恥は自分の恥としっかり雪いで、仲間も見捨てず自分らのけじめもキッチリ付け、残る者達の処置もしっかりしてるからな、そりゃあ讃えられますわ
流石にここら辺りの殺った殺られたの時代まで戻れとは物騒過ぎるが、今の時代は恥を掻かす掻かされる事に対してちょっとハードル低くなってるからなぁ
394 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 23:22:29.86 ID:4uhwKfpu
現代だと仕返しする人間いても金にするから美しくないんだよ
395 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 23:37:03.06 ID:PF8N/Gw4
きっちり計画して行動してるし普通に美談だろ
犯罪は犯罪として裁かれるのも分かっていて仲間も見捨てず見事な幕引き
396 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 15:53:50.04 ID:N+yoJwM1
小田原陣の間に徳川家康は、今日は榊原康政に先手をいたすように命じ、井伊直政には
側にいるように命じた。直政はいつもこのような事を嫌う人だが、今日は快く承知した。
時に、太閤の周囲に手廻しかいないのを見た直政は、太閤を御討ちの時節は只今ですぞしかじか、
と申し上げた。これを家康が殊の外叱ると、
直政は思いがけない顔つきで「それならば私に御先手を命じてください」と申し上げたとのこと。
(兵部思ノ外ナル顔色ニテ左候ハハ私ニ御先手ヘ被仰付候ヘト申上候由)
――『武功雑記』
397 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 16:11:29.63 ID:dswV/4WY
三河武士だと君臣の不満と不満のやりとりがいい話に見える不思議
398 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 17:07:54.74 ID:kAU3MUWs
直政は太閤に何か含むことでもあったの?まるで親の仇みたいじゃないか
399 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 17:12:12.38 ID:8arBemqh
400 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 17:19:47.70 ID:cROU63S2
401 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 19:37:15.28 ID:y3JC8Arz
慶長10年(1605)の春、日本国の船がルスン、トキン、シャムロへ売買のため渡海したが、
どうしたわけか一艘も帰ってこなかった。
これらの船については、岩礁にあたって破損した、あるいは喧嘩によって殺害された、などと言われた。
また船に積んであった財貨を取るため、かの島々の輩が船員たちを打ち殺したのだ、とも言われた。
また、去年エゲレン(イギリス)と言う所の者達が黒船(スペイン・ポルトガルの船)を押取り(略奪)
した所に、日本の商船が行って商売を行い、過分の利益を得て帰国したことがあった。これはルスンの、
西シンチウという所での事であった。利益を得たのは、たちうりの桔梗屋の道圓、という者であった。
京の町人たちはこの話を聞いて羨ましく思い、そのためこの春になって彼の地に、船多数を派遣したと
いうことである。
(当代記)
慶長10年の、日本の商船団についての記事である。
402 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 23:29:30.12 ID:6PIJsMrR
悪い直政の別人格が出てきたんだろう
ガラシャ生涯 歌い上げ 長岡京 17世紀オペラ上演
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140126-00000027-kyt-l26 細川ガラシャ(1563〜1600年)を主人公に西欧で作曲された17世紀のバロックオペラ「勇敢な婦人」が
26日、ガラシャにゆかりのある長岡京市の京都府長岡京記念文化会館で上演された。
キリシタンとして信仰を貫いた生き様を伝える歌声に聴衆が聞き入った。
ガラシャは明智光秀の娘で勝龍寺城(長岡京市)を居城にした細川忠興に嫁いだ。関ケ原の戦いに際して
敵の人質になるのを拒み、亡くなったとされる。
オペラはガラシャの生き様を伝え聞いたオーストリアの音楽家が作曲した。当時の楽譜を入手した
沖縄県立芸術大の豊田喜代美教授らが校訂し、昨春に315年ぶりに復活公演した。
この日の公演は上智大が創立100周年記念で主催した。
ソプラノ歌手でもある豊田教授がガラシャを演じ、信仰への情熱を歌い上げると、来場者が盛んな拍手を送った。
17世紀のオペラだから情報不足で旦那は登場しないか。
我らが鉄砲名人も出ないだろうなあ。
404 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 08:57:02.01 ID:n2CzV4NM
忠興は出るぞ
キリスト教に理解を示さない乱暴な夫、て役柄ではなかったか
405 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 08:58:31.12 ID:5sBzu0kq
406 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 09:04:43.03 ID:Ck33Swmn
D・V・夫! D・V・夫!
これの元の脚本は欲しいんだよな、当時どう演じられていたのか気になっている
407 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 11:54:57.96 ID:B1HV1VgD
408 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 13:06:22.75 ID:bAmqisQU
>>403 > 「乱暴な夫」か…。意味深w
というか忠興のDV話って、それこそ
>>403のオペラや、明治後に宣教師がガラシアの聖女性を
強調するために作ったつくり話が殆どなんだって。
同時代から江戸期の記録にはそういう話は出てないので、忠興はガラシアに惚れていたのは確かなのだろうけど、
事実だけ追っていくと、おそらくは、あの時代としては優しくて物分りのいい旦那だったと考えられるそうで。
409 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 14:15:26.62 ID:LUyerPKn
藤孝「うちの忠興は乱暴者なんで嫁を持つのはまだ早いかと…」
信長「そんなのお前がしっかり躾けてやればいいんだよ」
っていうやり取り実際あったんだっけ?
幽斎「泉下の信長様ごめんなさい、無理でした」
410 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 15:10:56.37 ID:zKVzDjvt
明治後の付け足しを抜くとただのヤンデレってことですな
411 :
人間七七四年:2014/01/27(月) 19:18:56.36 ID:5M2o6i9p
で、鉄砲名人は出ないのか?
「我は逃げまするう〜♪」ってテノールで『逃亡のアリア』とか歌って欲しいんだがなあ。
412 :
人間七七四年:2014/01/28(火) 00:28:24.12 ID:sSzWV9gP
妻をちら見しただけで庭師殺しちゃう夫が物分かりいいとか・・・・
413 :
人間七七四年:2014/01/28(火) 17:49:20.61 ID:JdsQScxc
忠興はガラシャ抜きでも非常に気性の激しい男だったからな
当然それだけの男でもなかったわけだが
しかし妻に直接暴力をふるうイメージはないな
414 :
人間七七四年:2014/01/28(火) 17:55:54.66 ID:qeqtlHd3
>>412 そういうのが明治になって宣教師たちが作った話だったりする
415 :
人間七七四年:2014/01/28(火) 19:45:54.84 ID:+2ZV0MO5
門番の仕事を真面目にしてただけでもSATSUGAIされ、犯人はお咎めなしどころか褒められる戦国の気風だからね(白目
416 :
人間七七四年:2014/01/28(火) 20:25:11.43 ID:/bzymVoY
うむ
あの方は特殊な方だがな
417 :
人間七七四年:2014/01/28(火) 20:52:42.93 ID:NX5EQhGK
信長の落し胤だもんな
418 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 12:36:38.73 ID:8k1K5CzJ
419 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 19:52:16.82 ID:d5QP/6IU
山形西部の畑谷・五百川・八ツ沼には古老が伝える昔話があった
木々に覆われる山間(やまあい)の地で親は子を叱る時に決まってこう言った
「カゲカツクッゾ!」
怠け者や親の言う事をきちんと聞かない悪い子は、山の更に奥から物陰や闇に身を隠し、眼を爛々と光らせた黒ずくめの恐ろしい怪物が現れて、知れぬ魔界へと連れ去ってしまうという…
…文字面を追うなら
慶長出羽合戦で畑谷を撫で斬りにした直江軍がモデルにしか思えない…
※畑谷・五百川・八ツ沼は幡谷・芋川・八沼とも
※昔話には地域、人づてにより差異があります
420 :
419:2014/01/29(水) 19:55:14.25 ID:d5QP/6IU
>>419 誤)知れぬ魔界へと
正)人知れぬ魔界へと
でした
421 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 20:04:57.33 ID:eZ/ti//Q
慶長5年(1600)、徳川家康公は上杉景勝征伐のため東下し、7月21日に江戸を出立。24日には
下野の小山に到着した。
この頃、常陸国の佐竹右京大夫義宣は敵とも味方ともはっきりしなかったため、家康公より
島田治兵衛が遣わされ、その趣きを聞かせた。
佐竹義宣は島田に対し、この様に答えた
「我々は家康公に対し別心はありません。しかしながら大阪に人質を置いているため、会津に
出陣することは出来ないのです。」
島田はこの答えを不思議に思った
「現在、上方は平穏ではありませんか。それなのにどうしてそのように仰るのでしょうか?」
これに義宣は
「上方において石田治部少輔(三成)が軍を起こし、関ヶ原へと攻め下るのだから、そう申すのです。」
と答えた。
これより以前に、石田三成が家康公関東御下向の後で陰謀をめぐらし反逆を企てる、という話は
風聞としてはあったのだが、ここまで確かに顕れた証拠はなかったのだ。
そしてこの24日に上方より小山に飛脚が到着し、石田が家康公を討とうと謀りをめぐらし、
諸国の軍勢を集め家康公の味方の城へ軍勢を派遣したという事を伝えた。
(黒田家譜)
佐竹義宣、ついうっかり三成の挙兵を言ってしまったお話。
422 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 20:21:50.67 ID:3S0k67iN
おい、三成は最初から関ヶ原へしか行かないつもりだったのかよw
423 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 20:44:29.71 ID:8w+BPvO3
カゲカツなら全然平気
カゲトラ(初代)はマジ危険
424 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 21:32:30.04 ID:XoDdgJfy
>>421 西軍って岐阜城を背にして清洲まで攻める計画じゃなかった?
425 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 22:12:27.78 ID:4N27C86U
会津征伐に参加した諸侯が普通に味方してくれるとか期待してたっぽいけど
426 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 22:15:47.93 ID:utcKB+T2
>>425 島津義弘が国元に送った書状ね。「奉行たちは自分たちが決起すれば家康について東下した連中は
みんな頭下げて畿内に戻ってくるって言ったのに、誰一人帰ってこない。どうなってるんだ!?」って内容の。
427 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 22:17:12.13 ID:Qc5ZAT+e
兄ちゃんもそんな手紙見せられたんじゃ、援軍送りたくないわな
実際送らずに正解だったし
428 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 23:20:43.02 ID:U+WWCZFi
>>419 この手の脅し文句って全国的にあるよね
まとめで長宗我部元親が来るぞ!って話も読んだ気がする
元ネタは後漢の遼来来なのかしら?
429 :
人間七七四年:2014/01/29(水) 23:23:05.84 ID:P6hpv2b6
ハンニバルが戸口にいるぞ!
てのもローマで子供を泣き止ませるのに使ってたし
どこでも発送は同じ
430 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 00:41:53.86 ID:E0LhXwrm
さっきやってた珍百景で、亀はいかなる形のものでも大切に扱わなければならない、みたいな風習残ってるところあったし
一回怖い人で定着すると、もう存在や名前だけで伝説化しちゃうからな
431 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 01:02:57.46 ID:K74jiCIz
>>423 軍神の関東遠征は単に略奪に来てた説あるからな
432 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 01:17:56.23 ID:xURM9PiZ
軍神本人の直属軍(越後軍)はちゃんと民間人への略奪乱暴狼藉禁止令出てるし
大規模な略奪があったのは第一回関東征伐の小田原攻めの後だけだから
高確率で略奪やらかしたのは軍神じゃなくて集まってきた関東組
433 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 02:43:29.00 ID:Zoyk2cFD
まあ、信玄なんかでも上野に侵入した時はそのへん統率しきれなかったから、謙信の寄せ集めではなおさら無理だろね
434 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 03:42:54.20 ID:HkdSXETq
>>432 栃木県には「越後の兵が来た、奪った、去った」といった故事もある
上杉兵が直属・旗下に関わらず人さらい(人買)や略奪をしたというイメージは
上杉クラスタ以外にはほどほど定着してるんじゃね?
小田原攻めの上杉軍の話以外に長谷堂合戦でも直江軍が山形西部の寺社の焼き打ちをやってる記録も残ってる
435 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 07:47:23.38 ID:BCk7C9X8
禁制の発給に関係なく兵糧は現地でゲットしてるだろうしな
436 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 07:54:26.05 ID:7AGfpJwO
聖帝先遣隊とかぶる。まさに世紀末。
437 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 09:35:43.16 ID:GvLF3tVf
いや実際関東軍が略奪と強姦を繰り返してたしな
日本人の気質は中世から変わってない
438 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 09:40:57.55 ID:fcmTgM/y
文禄・慶長の役が終わった後、1599年に北京で「戦勝」式典が執り行われ、61名の降倭(日本人投降兵)が皇帝へ献上された。
そのうち首魁とされる平秀政と平正成は凌遅処死、残り59名が斬刑となった。
この捕虜についての報告書『経略御倭奏議』とその中の「献俘疏」によれば、27歳の平秀政は薩摩の島津義弘の甥で、
父は薩摩州人の平秀久、島津の一族である。義弘の子の旧石羅と共に上京して、3年目に関白の養子となった。
義弘と共に5000の兵を率いている。
40歳の平正成は薩摩守と称し、義弘配下として三島を管轄し、兵馬6000を率いていたという。捕虜となった当初は
ただの島津家臣と思われていたが、後に降倭への尋問で倭軍大将の平正成であることが明らかとなったのであった。
この2人に露梁海戦で討ち取った敵将の首を見せたところ、これは石曼子の二兄(島津義弘)に間違いないと大いに嘆き悲しみ、
その供養を願ったという。
石曼子は4兄弟。
長男は大石曼子義久で、関白の子で8歳の阿虚来の義父でもある。
次男は薩摩島主の石曼子義弘、これは現在このとおり首級になってますよ。22歳の息子で痘痕面の麻答法赤羅が跡を継いで薩摩島主になっている。
3男の石曼子賽門は病死している。
4男の石曼子那疲ニ箔Pは薩摩在国で要職に就いていない。
当然ながら日本側記録に該当する人物も戦死者もいないわけで、皇帝御前での式典に大将級の捕虜を必要とし、なおかつそれ
相当の戦功の証が無ければ責任追及は免れないという事情がこれらの粉飾を生んだようである。
なお、処刑された日本人の中には、小西行長の配下で朝鮮側との交渉役であった要時羅も含まれていた。小西勢の撤退交渉で
海戦直前に明陣へ赴き、そのまま拉致されたのである。
小西行長の策・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html 要時羅とは、釜山に定住していた対馬人の梯七大夫という人物が有力とされる。
(『寛政重修諸家譜』では、宗義智が慶長4年(1599年)に梯七大夫を朝鮮に派遣したが行方不明になったとある。時系列は不明。)
以上は、久芳崇「東アジアの兵器革命」より。
439 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 09:43:23.24 ID:fcmTgM/y
さて、ここで『明史』の例の部分の理由がなんとなくわかる。
『明史日本伝』より、秀吉・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html 「自言為平秀吉、薩摩州人之奴(名を平秀吉と言い、薩摩州人の奴隷)」
(まあ、秀吉が当初は平氏を名乗っていたのは事実だが)なんで平秀吉なのか、なんで薩摩なのかってのは理解できた。
『明史』は歴代史書と比べて完成度が高いことで知られているけど、この場合は元になる資料自体がでっち上げだったと。
(正成の名の元ネタは寺沢正成(広高)と思われる。)
440 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 13:55:03.78 ID:ZArYP+Sa
>>437 その関東軍中尉が朴正熙(日本名高木正雄中尉殿)元韓国大統領
もちろん関東軍で残虐行為を行った兵士や下っ端役人、警官は
ほとんどが韓国系であり、
満州人中国人はそれを知っていたから
韓国系日本兵や役人を「高麗棒子」と呼んだ
441 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 14:20:49.76 ID:5HpXVRFu
日本人の上官上役はその間何してたのかね
442 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 15:00:34.29 ID:Dcpolc7X
スレチはスルーしてれば、そのうちウヨ隔離板に帰るだろ
443 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 17:12:51.45 ID:Hn6ivIJe
日本勢が完全撤退したあとの空城五つを攻めて、兵糧軍馬を大量奪取し首級三十二をあげ島津義弘を討ち取ったことにした中路軍とか
小西が引いたあとの順天新城に入るやいなや、転がってる死人の首かき集めて(小西のアドバイス)
その上救出した朝鮮人の捕虜や小西側から預かった人質を殺して軍功に加えた西路軍とかいろいろひどい
この要時羅ってのは西路軍の劉エンに順天からの撤退時に預けた人質の一人か?
皆殺しにされたと思ってたが北京まで連れて行かれてたんだな
444 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 20:25:22.00 ID:Zoyk2cFD
自分たちの土地じゃないから平気なんでしょ
まあ、本国でも普通にやりそうだけど
445 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 22:57:32.01 ID:nMv8pCNN
慶長5年(1600)、関ヶ原の役が進行している中、福島正則を始めとした東軍先発部隊が
関東より清須へ向かうという頃、徳永法印(寿昌)は徳川家康の御前で、このように言った
「今度の上方の敵は、西国の大名たちがきっと多くの軍勢を出して遠征してくるでしょうから、
天下の安危はただ我らの一挙にかかっています。誠に由々しき大事であります。
ただし、今度の上方の敵は大将のいない寄り合いの軍勢です。
安芸中納言(毛利輝元)、筑前中納言(小早川秀秋)、備前中納言(宇喜多秀家)、この3人は
分国に大小ありといえども、同位の国持です。
また岐阜中納言(織田)秀信は、小身ではありますが信長公の嫡孫であることを誇りとし、
人の風下に立とうとはしない人物です。
こういう状態ですので、何れを大将とも定め難く、互いに威勢を争って、それぞれの命令を
聞こうとはしないでしょう。
また、石田三成がいかに奉行顔をして人に誇ろうとも、先の者達の中に彼の命令に従うという者は
いないでしょう。
そうである以上、彼らの中には同位の傍輩の命令に従うということを無念に思って、我らの方に参る、
という者も出てくることでしょう。
また、例え我らに降参してこなくても、諸大将が心々に振る舞うような状況では、軍勢の統帥は無く、
戦に利はありません。
然らば、今度の御合戦、御勝利間違いありません!」
徳永は美濃の案内者であったので、彼も先発隊へと派遣された。
(黒田家譜)
関ヶ原における、徳永法印の西軍分析である。
446 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 01:57:58.02 ID:uJJ+Yd9i
前から疑問に思ってたんだけど史料ベタ訳の人
いい話悪い話関係なくね?
447 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 03:16:51.50 ID:9uxSt6XZ
>>438 要時羅→与七郎→小西与七郎?
でも死んだとされる年は1593年頃
与二郎とか弥七郎とかの可能性もあるか
448 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 03:55:07.97 ID:EIpOiUmd
発音的には「よしろう」の方が近い気がする
yao shi luo
現代中国語の発音しか知らないからなんとも言えないが
449 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 03:58:17.27 ID:TKc5ZJuH
学をする人は必ず悪智慧を生じる。その理由は何故かというと、
人を超えようと欲して才ある人を抑える。しかもさらに、不才の者を笑う。
自分に従って、一字といえどもこれを問う時は直ちに喜び、
自分に背いて千人に問えば、これを妬むことは敵のようである。
また、眼を高くして人を直下に見る。これらはその悪智慧の一二である。
無学の人は争うことがない。これは学力が無いので、自分の本然の心を
持っているのだ。学をする人は曲節が多く、学無き人は直心である。
学をする人は人を疑い、学無き人は人を信じる。信は万行の始終である。
ひたすら学を行って悪智慧を求めるよりは、むしろ無学にして自己を持て。
前述の学をする人は自己を失って悪智慧を生じるのだ。
――『東海夜話(沢庵宗彭著)』
450 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 04:13:28.11 ID:BJBpQ2fb
情報の正確さを重視して
超一流のスタッフと100年近くの歳月を費やした明史ですら
>>439 レベルなので、当時いかに日本の情報が
清朝側に伝わっていなかったがわかるね。
日本側の歴史書は六国史で止まってるし
わずかな情報だけで日本伝をまとめなきゃいけない担当者は
頭抱えただろうな。
451 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 06:51:37.50 ID:EIpOiUmd
日本外史が明史編纂中にできていて、明に輸出されてたらよかったな
日本的とはいえ古典的な漢文だからほぼ正確に意味は通じただろうし
452 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 06:52:22.51 ID:EIpOiUmd
訂正
明に輸出→清に輸出
徹夜明けで混乱してた
453 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 07:24:23.28 ID:Xg1VsbmI
454 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 10:36:26.82 ID:rBCzYNZQ
『李朝実録』には1598年9月(旧暦)に「悪党の要時羅が明に捕らえられた、ざまあw」とあって、露梁海戦は11月。
1599年7月、対馬の柳川調信からの書状に「ところで要時羅が帰ってこないんだけど、どうなったか知らない?」と
書いてある。
でも北京での処刑はこの年4月だったんだよね。
実録で要時羅本人が語ったところによれば、歳はまだ30代前半で2人の子持ち。
455 :
人間七七四年:2014/02/01(土) 13:18:40.83 ID:hkj9H/FP
千利休の弟子の芝山監物は大坂座敷の床柱にふさわしいものを探していた。
大工の藤五郎と相談して、炭の担い棒を千利休に見せて、床柱にふさわしいか
どうか尋ねた。すると利休は「一段と数寄が上がりましたね。見事です」と褒めた。
その後、芝山監物が部屋から出て勝手の方へ行ってしまうと、同席していた
古田織部が「本当にそれでよろしいのですか」と利休に尋ねた。
利休は「監物は目が悪いのでこのようなゆがんだ細い柱を床柱に選んでしまった
のでしょう」と答えた。
床柱がゆがんでいると掛物もゆがんで見えてしまう。ただし、内側に少し
ゆがんでいるものは良いとのことである。(茶道長問織答集)
456 :
人間七七四年:2014/02/01(土) 13:33:10.67 ID:yppaf1PD
どうやら夕佳亭の床柱なんかもお気に召さない模様
457 :
人間七七四年:2014/02/01(土) 20:35:03.48 ID:hYoT6XAn
慶長14年(1609)5月18日、紀伊国主である浅野長晟の用人(近習)であった松原内記が、
左内と言う者(年齢17歳)に刺し殺されるという事件があった。その内容はこのようなものである。
この左内という若者は京都の人間であったが、浅野家に奉公したいと思い、そのために紀伊に下ることを、
つてを以って松原内記に言い送った。松原はこれを承知し、紀州に下ってきた左内を招き、小袖などを
与えた。
ところが、この時松原は左内を一目見て恋慕し、長晟に紹介せず、彼をわたくしに抱え置き、
懇ろに遇した。
そのような中、6月になって丹波国に普請があるということで、松原内記も浅野長晟の命令により
丹波へと行くこととなった。
この頃までに、松原が密かに抱えた左内の事は内々に長晟の耳にまで入り、長晟は内記を一目見たいと
度々松原の屋敷を訪問したのだが、松原は深く彼を隠したので、終に見ることが出来なかった。
しかし松原は、自分が丹波国に行っている間に長晟に彼の事が露見してしまうと恐れ、左内を
自分が出発する20日前に、人を付けて京都へと密かに行かせた。
ところが、この後書状が左内に送られ、そこには『今後松原内記はお前を相抱えない』とあった。
左内はこれを見ると大変に怒り、父母親類にも隠して紀州へとただ一人下り、松原内記の屋敷に忍び込み、
彼が居間で寝ているところを、大脇差を以って三刀で殺害した。そして自身も、その場で自害した。
左内という若者は、大変美麗であったそうだ。
しかしこの事件は、近習を殺された浅野長晟を激怒させた。彼は左内の紀州への奉公を助けた
京にいる彼の叔父の坊主が、この件に関して内々に知っていると考え、大御所徳川家康の居る
駿府の奉行達、並びに女房衆に、この叔父を抑留するよう申し送った。
これを家康は承知せず、また京都所司代の板倉伊賀守も、この件に関しては「浅野長晟の存念は
然るべからず」と発言した。京畿の庶民たちも、「これは紀州殿(長晟)が筋の通らない事を言っている」
と批判した。
それでも浅野家では、「この事をこのまま放置してしまえば、我らの京都での外聞然るべからず」と
しきりに駿府に訴え出たため、駿府でもこのまま黙視することは出来ず、かの叔父の僧侶を
11月に浅野家に引き渡し、彼は牢に入れられた。
(当代記)
浅野家における、衆道がらみの事件の顛末である
458 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 05:02:21.50 ID:lZ51AERE
幸長ってまだこの頃生きてるよね?
459 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 10:52:56.47 ID:kDIVB2yG
佐賀城の普請ができたので、父上さまにも御覧いだだこうということになり、勝茂さまが直茂さまを御迎えした。
そして勝茂さまが立付袴の姿で、城の各所ひとつひとつを細かく御説明されながら案内をされた。
その後、直茂さまはお側の人々に、
「勝茂は敵が攻めてきた時のことを熱心に説明していたが、腹を切る場所を忘れているのではないだろうか」
と洩らされたとのことだ 【葉隠】
460 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 11:01:54.36 ID:/hb/3e18
不謹慎やな
461 :
人間七七四年:2014/02/02(日) 12:53:07.56 ID:tcyj/YHa
>>458 457です。いけない、行長の死んだ1613年を慶長13年と勘違いして書いてしまいました。
長晟ではなく幸長ですね。申し訳ありません。
462 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 20:11:25.89 ID:/GibQlaY
向井正綱は武田勝頼に仕えて、天正十年の勝頼没落後は処士となった。
天正十一年、徳川家康は正綱を家人に加えたい旨を本多重次に言ったので、
重次はその所在を尋ね、正綱に会って御旨を伝えた。正綱は直ちに参って麾下に属し、
食禄二百俵を賜った。
この年、正綱は重次とともに北条家に属す城々を攻めるべしと伊豆国におもむいた。
正綱はこの時敵と戦い、首を取って見ると、その首は禿で髪が短かった。
(首をとりて見れば禿にして髪短し)
正綱は「御麾下に属して初めてだというのに、こんな首を手に入れて献上するのは本意ではない」
と考えて、その首と槍を捨てて、また敵を追って行った。
(御麾下に属すのはじめかかる首を獲てたてまつらん事本意にあらずとて、其の首と鎗とを捨、)
そして北条家の臣である鈴木弾次郎某と組み合ってついに首を取り、采配に添えて実検に備えた。
その首はおとがいから下歯にかけて斬り落としたので、家康は感心のあまりその刀を台覧した。
後に家康はもう一度刀を見たいとの旨を仰せ下したが、故あって他人に渡しておいたので、
承諾を申上げるのに遅々とした。
重ねて尋ねられた正綱はありのままを申し上げた。すると家康は二百俵で刀を引き取って、
やがてその刀を正綱に与えた。
――『寛政重修諸家譜』
463 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 20:44:01.14 ID:30tm8vPn
は、ハゲでもええやんかっ!
464 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 20:49:57.46 ID:F2QZ3rpT
ハゲって時点で社会的信用ゼロだよね
465 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 20:59:07.63 ID:axDSH+G2
466 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 21:05:26.92 ID:axDSH+G2
このガオという妖怪の由来とは、
戦国時代、滋賀県湖東地方の領地を近江六角氏の一党である種村氏が治めていた。
現在の滋賀県蒲生郡日野町にあった近江国・日野城の蒲生蒲生氏郷(1556〜1595)に攻められるようになった。
戦火に巻き込まれた領民達は「蒲生が攻めてくるぞ」と常に恐れていた。
この「蒲生が来るぞ」が変化して、
「ガオが来るぞ」という言葉だけが残った。
やがて、「ガオ」は恐ろしい妖怪・化け物と考えられるようになり、
親の言う事聞かない子供の所や夜に寝ないで遊んでいる子供の所に「言う事聞かないと、
ガオウが来るよ」と言って、脅し文句に使うようになった。
ガオとは、子供が怖がる妖怪の総称で、特定した妖怪をさすものではないのである。
http://npn.co.jp/sp/article/detail/03569682/
467 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 21:29:45.89 ID:9NBo97aZ
種村が落城したのは永禄十一年八月で氏郷の初陣が同年二月だから時代が合わなくね
まさか十四歳の子どもに半年荒らされただけで震え上がってたとは思えんし
468 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 22:09:05.79 ID:mhbXO8Do
長可が来るぞ
469 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 22:40:15.20 ID:CJ7bcj64
???「門番はいねえかぁ〜」
470 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 22:46:42.70 ID:NsExnsHi
武将はなまはげ化して一人前
471 :
人間七七四年:2014/02/03(月) 22:47:58.68 ID:iQUqk4J7
門番退治って、関所をなくすために門番のなり手を減らす目的でやってたんじゃないの
472 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 00:30:58.26 ID:Mep7+39a
彼は信長の楽市・楽座を推進するために門番狩りしてた可能性が微レ存
473 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 00:33:47.98 ID:+FHoFKf6
>>467 そもそも攻めたの蒲生だけじゃないとか色々抜きにしても賢秀さんじゃパンチに欠けるからね、仕方ないね
474 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 12:37:05.97 ID:bItx0+UD
大体こういうのはその地方で一番有名な武将がなるから
無名武将のやった事はいいも悪いも全部有名人に吸われるんだよ
475 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 16:33:22.84 ID:SVGdesuC
学校じゃ徳川家康が江戸城を造りましたなんて教えてるしな
476 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 16:40:13.40 ID:lj/ETmg5
さすがにそれは無いだろう
477 :
人間七七四年:2014/02/04(火) 16:50:34.00 ID:20ke9jaT
落語ネタ
道灌「この城、どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
478 :
人間七七四年:2014/02/05(水) 21:17:33.24 ID:yIKJSst2
慶長14年7月27日、この日故太閤(秀吉)の政所(北政所)方の孝蔵主が京を出て
駿河に下られた。これにはこのような理由があった。
木下肥後守(家定:北政所の兄とされる。慶長13年8月27日死亡)に遺領が2万石あり、
駿府では、彼の子息である宰相(木下勝俊)、宮内(木下利房)の両人に(相続争いがあったため)この
知行を分け与えるよう提言したのだが、北政所はこの遺領を全て木下勝俊に相続させ、木下利房には何も与えなかった。
このことを知った大御所徳川家康は大変不快に思ったが、「この措置に理由があるのなら聞きたい」と
孝蔵主を駿府に召し下したのである。
この頃、近年北政所は老いのため気が違い、このように不合理なことが多いと言われた。
この二万石に関しては、当面は幕府によって召し上げとなり、板倉伊賀守が管理した。
(当代記)
木下勝俊・利房兄弟間の、北政所も巻き込んだ遺産争いの顛末である。
479 :
人間七七四年:2014/02/05(水) 21:20:36.70 ID:rR/x2MNn
北政所はアルツハイマーにでもなってたのか?
480 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 04:56:18.88 ID:Xr5vtPo9
なんか、佐村河内守という名前がニュースに出てきたから
すけむら・かわちのかみ?と思ったら違った
481 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 09:02:23.38 ID:xHTU3d+x
4文字姓か
本名なのかな
482 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 17:50:35.53 ID:BQabvDs4
すげえ家康が潰したのに北政所のせいにしやがった
483 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 20:08:41.76 ID:C1uIRSh/
坂崎出羽守(直盛)は家来の左門という者の屋敷の前を遠乗で通ったところ、
屏に馬の沓を引っ掛けて置いてあるのを見て腹を立て、左門を呼び寄せて叱ったうえに、
その沓を左門の首と下あごに括りつけて座敷牢へ入れて置いた。
左門は牢番の者に酒を飲ませるなどして色々と工夫し、ついに牢を抜け出して
富田信濃守(信高)方へ駆け込んだ。そして富田方から加藤肥後守(清正)に預け、
加藤方から高橋右近(元種)方へにがした。
この人返しの事件によって高橋は改易にあい、また富田家老の掃部という者の子を、
坂崎は人質に取ったのである。
――『武功雑記』
484 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 22:21:57.55 ID:qLoFSH4V
室町時代初期、若狭国は一色氏が四代に亘って守護職を務めていた。
しかし、永享12年(1440年)、一色義貫の時、将軍足利義教の忌諱に触れ、
出陣先の大和国で謀殺されてしまう。将軍の命を受け、義貫を殺害した
のは安芸分郡守護の武田信栄である。信栄はこの功により、若狭守護職
を賜ったが、義貫謀殺の際に受けた傷がもとでまもなく死亡した。
弟の信賢がその後を継ぎ、逸見、粟屋、内藤、山県といった家臣団を
引き連れて本格的な若狭統治を開始する。家臣団の中、逸見氏は若狭国
西部に当たる大飯郡の郡司を務め、仇敵一色氏が守護を保持した丹後国
からの侵入に備えることとなった。
武田氏の若狭入部から四半世紀が過ぎた応仁元年(1467年)、応仁の大乱
が勃発する。武田氏は東軍、一色氏は西軍に属し、それぞれその中核と
して戦うこととなった。この頃、逸見氏は逸見真正(入道宗見)が惣領
を務め、武田軍の中心となって活躍している。洛中の戦闘に参加すると
共に、細川氏と協力して一色氏の領国丹後への侵攻作戦を指揮している。
一色・山名連合軍との戦いは、幾度かの敗戦を交えながらも、真正の
指揮下、おおむね順調に推移し、文明元年(1469年)の頃には丹後全土
をほぼ制圧するに至った。この年、一色氏に代わり武田信賢が丹後守護職
に任命されている。この方面では武田軍の大勝利である。
一方、京都の戦線では武田軍の苦戦が続いた。文明2年の勧修寺合戦で
逸見真正の弟(嫡男とも言われる)逸見繁経が討ち死にするなど、多くの
家臣を失い、翌年早々、信賢の弟元綱が独立を図り、西軍へ寝返っている。
心労が祟ったせいか同年6月、信賢は急逝し、急遽その弟国信が後を継ぐ
という有様であった。細川勝元・山名宗全の両軍の大将も没し、両陣営
とも厭戦気分が漂い始めた。(つづく)
485 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 22:24:16.21 ID:qLoFSH4V
文明6年(1474年)4月、細川政元・山名政豊の間で和議が成立する。大内氏
のように和議を認めず、戦闘を継続するものもいたが、多くの大名は和議
に参加した。一説によると、和議の仲介役となったのは、武田国信であった
と言う。実弟が敵陣営に寝返るなど、領国経営が深刻な状況に陥っていた
のを認識して進んで仲介役となったのであろうか。ともかくも和議は成立、
国信は一息つくことができた。
しかし、
和議には次の条件がつけられていた。
「武田国信は丹後守護職を一色義春へ返付する」
多くの家臣の血を流して獲得した丹後の地である。失いたくはなかった。
しかし、家中建て直しのためには和議が必要である。これ以上、戦闘を
継続する力は無かった。加えて仲介役となった以上、言いだしっぺが
ごねる事も許されまい。国信は過酷な条件を呑んだ。
おさまらないのは、現場指揮官である逸見真正である。大乱では大事な
後継者を喪い、命がけで働き勝利して制圧した丹後も、戦に負けても
いないのに敵にくれてやる、そんな馬鹿な話はない。おのれの働きは
何一つ報いられないのか。
真正ら丹後戦線の部将たちは、国信の撤兵命令を拒否し、丹後に留まった。
一方、和議成立により大義名分を得た一色勢は勢力を盛り返し、未だ
国内に留まり続ける若狭勢に攻撃を仕掛けてきた。名分のない真正ら
は次第に追い込まれていく。だが、主君国信はこの状況を見ながら援軍
を出すことは出来なかった。既に和議は成立したのだ―
半年後―文明6年9月、丹後戦線主将逸見真正は丹後において自害した。
国信は出家し「宗勲」と称した。せめてもの償いであったのだろう。
486 :
人間七七四年:2014/02/06(木) 23:18:59.35 ID:mKEDwHO3
>>484>>485 意識としてはあれだね、ほら
第一次世界大戦敗北時のドイツ
背後からのあいくち←なぜか変換できない
全く同じというのじゃないけど
487 :
人間七七四年:2014/02/08(土) 14:40:13.57 ID:JbmDrE6H
佐村 河内守 (さむら かわちのかみ) 1840−1922没
長州藩 毛利家家老 尊皇攘夷で活躍 高杉晋作の盟友
488 :
人間七七四年:2014/02/08(土) 15:02:14.13 ID:i++SSXjX
すれ違いだけど家来に謀反起こされて暴露されて終わっちゃったな。
489 :
人間七七四年:2014/02/08(土) 15:23:48.85 ID:AkjMg/b+
調べたら東洋初のパイロット、佐村福槌(1880生)って人が長州にいたようだが
その父親とか?単なるネタだと思うけど
490 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 00:55:45.84 ID:YhdkiE6J
やっぱり佐村 河内守と読んでしまうよな歴オタ的には
百官名なのかとか従五位上相当とは大きく出たなとかいう感じで
491 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 02:33:03.33 ID:QqRL40YO
ぐぐったら日本に40人しか居ない苗字なんだな
4文字性って長宗我部しか知らね
492 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 03:46:21.83 ID:G3XvZNG3
香曽我部親泰「…」
493 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 09:41:28.13 ID:V4bJeiW+
勅使河原
494 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 09:44:11.10 ID:Ktq0gB77
有名なのだと小比類巻とか久夛良木とか五百旗頭とか源五郎丸とか
495 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 10:17:46.35 ID:b8OIeYw1
名古屋山三郎
496 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 10:44:54.19 ID:EMK4lhXz
五十公野治長(新発田重家)
497 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 11:07:31.94 ID:djFQQtL2
なかまはずれがひとりいるよ
みんなもさがしてみてね!
498 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 20:26:30.07 ID:szuHC+Pl
そんなんヤジナガに決まってる!
499 :
人間七七四年:2014/02/09(日) 23:00:54.01 ID:IQ6GErju
公冶長(孔子の娘婿)と空目した
500 :
人間七七四年:2014/02/10(月) 22:18:16.45 ID:BdCghzOy
源五郎丸は古い阪神ファンしか知らないだろ
501 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 06:33:15.46 ID:fHayNiAh
慶長15年(1610)6月頃、丹波国亀山で普請が行われたが、この普請の最中に、
丹波国の中に所領を持っていた薩摩の島津龍伯(義久)の弟が、伏見に来て病死した。
これは去る庚子の年(1600)、美濃関ヶ原合戦の時、兄の兵庫助(義弘)と共に撤退する最中に
負傷し馬から離れ、歩くこともできなくなり、ついには死人の上に倒れこんだ所、そこで
奇特の夢を見たのである。
夢の中で彼はこのように言われた。『ここから東に下り、木喰(五穀または十穀を食べないこと)して
年月を送れ』
彼はこうして、稀有のことだがこの夢の命令を全うし、関東に下って言われたとおりに木喰して
10年を過ごし、去年の春、薩摩に帰国した。
ところが帰ってみても見知ったものが居ない。上記のことを人に語っても、彼は関ヶ原の時に
討ち死にした、と発表されていたので、それがこのように生きていたとは中々思いもよらぬことであり、
取り合うものも居なかった。
しかし、彼の容貌を見て、似ている所もあったので、僧形から還俗させてみたところ、これは
紛れも無いということが解り、この旨を龍伯および義弘に申し届けると、すなわち対面となり、
お互いに往時を語って落涙し、さて所領を遣わし、そこに居住したところで、今度の不慮の煩いにより
死去した、とのことである。
(当代記)
薩摩義久の弟(誰?)の、関ヶ原からの数奇な話についての逸話である
502 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 06:47:32.21 ID:/CSQ3Ma+
いやホント誰だよ
503 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 06:49:25.79 ID:BZLN2dqp
島津四兄弟以外に兄弟いたっけ
504 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 06:59:30.07 ID:eCUrkUs7
>>500 掛布やバースの頃か
外れ1位で故障1軍出場無しか
正直覚えておらん
505 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 08:06:19.79 ID:OA02SUAy
>>501 丹波国亀山普請中に、薩州島津龍伯弟従2丹波国1煩付、伏見来病死す、
丹波国に所領を持っていたのは誤りじゃないのかな?
普請に来てたところ病を得て伏見で療養していたが死んだ、という意味ではないだろうか
506 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 08:21:16.93 ID:Kc03I0ij
なんのために木喰して10年過ごしたのかも分からん
507 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 08:48:01.76 ID:sRvmi6dL
命を助けられたお礼に精進するならわからんでもないが
戦場で倒れてた男が夢から覚めた途端元気に関東へ歩き出したのかw
508 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 09:24:09.39 ID:QY0J9ean
>>505 亀山の隣の摂津国能勢郡は義久が秀吉から在京料として所領になってる。
亀山にもあったのかも。
関ヶ原に参陣して敵中突破して薩摩に逃げたのも
こっちで勤務してたのがメインじゃないんだろうか。
509 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 10:37:41.03 ID:RAvKooqU
豊久?と思ったが兄弟じゃないな。
510 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 11:16:36.79 ID:OA02SUAy
>>508 憶測でモノ言うなってw
原文のどこに所領があったって書いてあるのさ
幕府が諸大名に普請させていたのは事実なんだし、
島津に亀山の普請をやらせていたと取るのがふつうでしょ
511 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 11:35:53.03 ID:OA02SUAy
在京賄料、島津義久でググったら簡単に出てきたよ
為在京賄料、於摂州播州内壱万石 目録別帋有之、宛行訖、全可有領知之状如件、
天正十六
七月五日(秀吉花押)
嶋津修理大夫人道とのへ
知ってると思うけど念のため、亀山は丹波であって播磨じゃないので、そこんとこよろぴく
512 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 11:40:50.52 ID:pNlXGEpr
これは島津以久のことでは?慶長15年に篠山城普請中に死亡してる
その辺母体に超展開させたら未知の弟の一人や二人ぐらい出現しますわな
513 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 12:19:56.74 ID:OA02SUAy
そうすると佐土原の初代藩主は誰だよ?っておかしな話になる
514 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 12:25:56.42 ID:gnjpY4bE
家久が3人いれば全て説明がつく
515 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 13:23:12.96 ID:0QxqKFXC
良い家久 悪い家久 普通の家久
516 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 15:36:56.85 ID:QM4ZOCAm
???四天王「島津四兄弟?ああ、あの五人の事ね」
517 :
人間七七四年:2014/02/12(水) 16:59:53.83 ID:RzyyDguE
井伊直孝の嫡子の靱負佐直滋が若年の時、父直孝が言ったのは、
「其の方に附人を申し付けようと思うのだ。家士の中から選びなさい」ということだった。
嫡子直滋は答えて「私は嫡子ですから御跡を継ぐ身です。そうであるのに、いま家士の中の
誰彼と選んだので、私が当主になった時にいま選んで残した者どもが、
『自分たちは当主の気に入っていない身だ』と思ったならば、自然と勤方も怠ることでしょう。
家士は主将の四肢です。四肢が怠る時には身は立ちませんので、私は選ぶつもりはありません。
父の御目鏡をもって誰でも御附けになってください」と、言った。
直孝を初めこれを聞く者に感心しない者はいなかった。ところが、直滋はどのような理由なのか、
その後に遁世なさった。「彦根一家中で惜しまない者はいなかった」と、家中の老人は
嘆息しつつお話しになった。
――『明良洪範』
518 :
人間七七四年:2014/02/13(木) 16:35:44.96 ID:bcc0dnuM
ほうほう、そんなに立派な嫡男だったのかとググったら
>>江戸城下で育ち幼少の頃から将軍徳川秀忠・家光父子に寵愛され、
>>幕臣筆頭の家柄の嫡男として何不自由なく育ったために我が強い性格で、
>>父とたびたび対立し言い争うことが多く、質素倹約を旨とした父に気に入られなかった
誰が本当の事を言ってるんだろうか
519 :
人間七七四年:2014/02/13(木) 17:06:25.24 ID:LEi2KN2U
親父の押しつけには嫌気がさしていたので付人つけるなら勝手にやれよ
まあ周りの目もあるし角の立たない言い方でおさめとく
と、ずーっと反抗し続けていたら廃嫡されたでござる
520 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 01:25:38.94 ID:1j0eL6E4
松平忠吉が尾張にいた時に、徳川家康が通った際、
御前で領分の小刀や剃刀などを御供衆へ贈るほどの心安い挨拶であった。
さて、忠吉が「古き武功のお話を承りたいです」と言えば、家康は、
「特別に話はない。聞きたいとの心底ならば、聞かなくても良いぞ」
と言ったとのこと。家康はもともと物語が他よりも劣ると言い伝えている。
(扨古キ武功ノ御咄ヲ承奉リ度ト被仰上候ヘハ別ニ御咄ハ無之候聞度トノ
心底ナレハキカテモヨキソト御意ノ由権現様ハ元来御咄下手ト申伝候)
――『武功雑記』
521 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 02:13:00.04 ID:99S5wOYM
どの辺りが悪い話?
522 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 03:54:34.69 ID:RsGWGMKE
話下手、てのがなければ自分の武功にこだわらないかっこいい権現様だったのに
余計なつけたしのせいで単に苦手なことを避けただけに
523 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 04:19:10.80 ID:velQ3RBa
さすがにウンコ漏らしたことは話せない
524 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 07:40:49.36 ID:3DEOubqN
伊達政宗公が機嫌の悪い時は、側で仕える者達は、御用や御座敷の立ち回りも、自然と
政宗公と顔を合わせないよううろつくことが多かった。そこで政宗公は
「俺が機嫌が悪いからと言って、咎もないのにどうして腹を立てることがあるものか!
俺が恐ろしいからといってうろついていれば、そのために仕事の間違いも起こるものだぞ。
そうなったらお前らも叱られ、俺の腹立ちも止まらなくなるじゃないか。
俺だって機嫌が悪い日は、心を鎮めるようにしているんだ。お前たちも、咎がなければ大丈夫だと思って、
そういう心の面から過失を起こさないように奉公せよ。」
そのように仰り、何でも、少し心の静まるほどの、今昔の物語などされて、自らご機嫌を直されるようにしていた。
(政宗公御名語集)
政宗の機嫌が悪い時の、周りのピリピリした様子が伝わってくる逸話である
525 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 11:43:03.04 ID:yAIMjqPx
いい話寄りだなこれは
526 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 12:08:34.70 ID:dnLL7nKO
政宗「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」
527 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 20:05:46.26 ID:pcYz4mTj
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟でありました。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩はいかがなものだったのでしょうか。
http://netabare1.blog137.fc2.com/blog-entry-2885.html ■上月城を包囲
さて、上月城を包囲し羽柴秀吉側は、家臣・生駒親正の活躍により、上月城の水補給路を絶った。
水が無いと籠城できないため、城兵は謀反を起こし、城主・上月景貞の首を差し出して羽柴秀吉に降服を願い出た。
しかし、羽柴秀吉は謀反を起して降服してきた城兵を許さず、城兵が逃げられないように上月城の城門を外側から封印したうえで、上月城を攻め立てて城兵を皆殺しにした。
さらに、羽柴秀吉は上月城の女・子供を捕らえて、毛利側との国境で、女は磔にして殺し、子供は槍でついて殺して見せしめとした。このとき、200人ほどの女・子供(非戦闘員)が処刑された。
528 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 21:38:52.96 ID:WHVjg3Cp
秀吉は昔から裏切り者に対しては全く容赦がないよな
元からの敵の降伏には寛大だけど
529 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 21:39:47.61 ID:Qk2Hb9uJ
秀吉の上月城攻めって1579年だっけ
小田原征伐くらいから痴呆が手伝って
いわゆるラスボスと化したのかとイメージしてたけど、
それ以前からジェノサイドしてたのか。
いや命取ったり取られたりするのが
当たり前の時代なのは承知だけど
530 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 21:57:33.16 ID:6B7zUxNF
>>529 織田時代も秀吉の戦況を知らせる書状にはやたら「根切り(皆殺し)した」って言葉が出てくるよ。
まあ織田家というのは全体的にそう言う傾向が強いのだけど。
531 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 22:02:39.51 ID:hsdkMGtF
取った首の数が勲功になる時代だしな。
532 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 22:05:15.46 ID:rKwJ/zA2
つうかこのブログは何の文献を元に書いてるんだ?大意は信長公記に近いが
533 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 22:17:04.51 ID:R5ZbdTUW
中山鹿之助にワロタ
534 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 22:52:24.78 ID:gIkLo9/4
>>530 その二人は首刎もテクニカルタームと化してるしなぁ
535 :
人間七七四年:2014/02/17(月) 23:18:24.23 ID:BQJUhYfI
中山鹿之助www
てか、鹿之助は軍師じゃないだろというwww
536 :
人間七七四年:2014/02/18(火) 22:54:16.35 ID:y9FxuqO4
八難七苦を与えたまえ!
537 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 12:55:38.07 ID:J9xrOR/c
天正14年(1986)10月13日、大政所が岡崎に向かい京を出発した。
ついに上洛を決意した徳川家康は、その翌日に浜松を出た。
その夜、吉田に到着した家康は、極秘に井伊直政一人を召して、
大政所のお世話とは別に、秀吉に不穏な動きがあった場合の秘策を事づけた。
「秀吉に表裏の振る舞いがあった時は、我は直ちに東山へ篭る。
秀吉は急には来れないだろうし、遅くとも3日の間にはその噂は浜松に届くだろう。
その時は、汝が大将となり一万人余りの兵を二十陣に分けて急ぎ上洛せよ。
酒井と榊原は残し置き備える。
松平一族旗本備えと共に二十陣とし、
尾州佐夜を廻って千種を越え、近江の日野から瀬田へ出て
一概に押しやぶり八坂の辺りに陣を置け。
酒井が一万余りを率い、如意ヶ嶽北長良山へ登らせれば、
秀吉はたまらず大坂へ逃げ帰るであろう。
その時に追い討ちすれば、秀吉に桂川を越させまい。」
(柏崎物語閑談)
538 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 18:45:31.48 ID:4PCNS807
ほ〜こんなに逸話あったのかと思ってたら1986年でちょっと受けた
すまん
539 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 20:32:17.79 ID:J9xrOR/c
おお、すまねえ
まとめサイトでは管理人さんが1686年に訂正してくれてた
トンクスです
540 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 20:34:42.73 ID:EyfveLt7
541 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 20:38:29.29 ID:4PCNS807
時を駆けすぎだろw
542 :
:2014/02/19(水) 20:46:20.86 ID:Z7QBAcJ3
上手に接待をしながらも戦闘態勢の備えとか
他の三河武士に到底出来なそうな芸当だなw
543 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 20:53:50.62 ID:J9xrOR/c
>>540-541 あーもう
ちょっと伊賀越えしてくる•••
544 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 20:56:15.83 ID:J9xrOR/c
で、極め付けに文字化けwww
545 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 21:26:25.93 ID:yrlCEcPa
後ろから富田さんが迫ってるから焦ってんだよ。
546 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 22:12:48.76 ID:jpJ7XpgN
なんでも
>>543殿が木津川の辺りで土民に討ち取られたそうな…
547 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 00:48:09.56 ID:+JvkXSg2
痔だたんか
548 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 01:21:15.68 ID:oz4m9cuS
549 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 05:31:57.70 ID:t9cuorse
元亀2年(1571)の9月初め、公方足利義昭公より、松原道友、尼子新左衛門の両人を使者として
甲府に遣わされ、武田信玄公に御依頼があった。その趣旨は
『織田信長は、公方を助け天下を治め、2,3年の間は大切に扱っていたのだが、、去年の7月、都に上って
三好を倒し、自分の家臣を天下の所司代に据え、五畿内から、丹波、播磨、若狭、丹後までも、ほぼ手中に
収めた所、最近では公方を殊のほか侮って、酒を飲めば盃を将軍に差し、茶を飲み残しては、『これを
将軍に飲ませろ』などと申し、さらに公家の近衛殿(前久)などにも、『やい近衛』などと言い、
様々な無礼を働いている。であるので、この信長を倒すように』
との希望が綴られていた。
『なお、越後の上杉謙信入道輝虎にも、右のとおり申し付けたところ、謙信は『委細かしこまって候』と
これを受け入れたので、信玄も謙信と申し合わせ、両軍によって信長を退治するように』と、
公方よりの申し入れであった。
信玄公はかねてから心に決められていた事であると、毘沙門堂の一室で御使者に対面し
「信長が無行儀の故にご成敗を仰せ付けられる将軍の上意は、ご尤もに存じます。
このことについて、上杉輝虎がたやすくお受けしたことは、格別の事情があるかと推察します。
彼は一段と合戦の道に優れ、素質もある人物ですから、ほどなくご希望通りに信長の誅伐に成功
なされること、疑いないものと存じます。
さて、私達も輝虎同様にお受けしたい、とは思うのですが、ご覧のとおり出家の身となり、
弓矢を取るすべも忘れ果てておりますゆえ、これからどこか、国境のあたりで合戦の鍛錬を
少しした上でお受け申す所存です。
今のこの信玄が将軍家へのご奉公としてできることは、護摩を焚き、ご祈祷をして、武運長久、
息災延命のお礼を進上申すことです。何卒、よろしくお伝え下さいますように。」
このように返答し、都よりの使者を馳走・応対して、御刀と馬を進呈してお帰しした。
その後、喜見寺の仙海法印に信玄公は
「将軍家の使者両人と盃を交わした後、肴を挟んでもてなしたが、彼らは、その肴を食べた手を
畳でぬぐっていた。その無作法振りを見ても、将軍家が全く落ち目となっているのは明らかである。
なのに輝虎は信長退治を引き受けたとの事で、その返事の書状も将軍家から寄越してきた。
輝虎は武道については誠に優れた者だが、”分別工夫”という四字を心得ていない。だからああ言う事を
すぐに引き受けるのである。国持大名の言ったことは、その日のうちに、五日路、十日路
(5日、10日かかる距離)の遠国にまで届くものだ。だからこそ、うっかりしたことは言わないのが、
国主の法というものである。」
と語られたという。
(甲陽軍鑑)
将軍義昭からの、信長退治の依頼への信玄の反応である。
550 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 06:49:07.45 ID:pFbu7ybl
では将軍様、退治いたしますのでその信長を京から追い立てて下さいませ
551 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 09:03:33.75 ID:Ed69NGKm
さすが信玄公しびれるわ
552 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 14:38:45.03 ID:7vkze9SN
信玄に牛耳られるだけじゃね?魔王よりやばいだろきたないお館様は
553 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 15:49:54.66 ID:beBylqa0
三方原の合戦のおり、織田から徳川へ送られた援軍の将、平手汎秀。
敗戦の後、彼は敵から身をひそめて退却していたが、喘息を患っていたために
咳を聞きつけた敵兵に発見てしまった。
「わしは喘息を病んでいたために命を落とすが、この後にわしを祀り詣でるものは喉の病を癒してやろう」
と言い残し討ち死にしたため、最期の地と伝わる浜松の稲葉山に社が建立され「平手神社」として長く地元の人々の信仰を集めた。
しかし、その平手神社も平成の世に全て取り壊された。
554 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 15:52:24.28 ID:beBylqa0
三方原の合戦のおり、織田から徳川へ送られた援軍の将、平手汎秀。
敗戦の後、彼は敵から身をひそめて退却していたが、喘息を患っていたために
咳を聞きつけた敵兵に発見てしまった。
「わしは喘息を病んでいたために命を落とすが、この後にわしを祀り詣でるものは喉の病を癒してやろう」
と言い残し討ち死にしたため、最期の地と伝わる浜松の稲葉山に社が建立され「平手神社」として長く地元の人々の信仰を集めた。
しかし、その平手神社も平成の世に全て取り壊された。
555 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 19:59:25.39 ID:vTYwPLK3
大事なことなので二度言いました… ゴホゴホッ…
556 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 01:14:05.92 ID:isYOgUVB
三方原って、上役を切って無禄になってた利家の弟とか小姓連も陣借りして戦死してるんだよね
557 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 10:20:41.20 ID:r2R8/3Ki
勝馬ライダーで得た首なんて価値ないからね
クソゲーなみの戦で生き残って得た首じゃないと信長は評価しない
558 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 10:56:40.86 ID:bqxUc3B/
喘息ってそのころからあったのか
何かアレルギー的なもので起きるから
寄生虫や雑菌まみれの当時の人には無縁なものかと思ってた
559 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 11:38:29.53 ID:gP96zTyJ
喘息はその頃難病の一つで、全国に封じ寺や社がある
正確な統計は知らんが見かける頻度としては神経痛封じと同等ぐらい
560 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 15:06:47.50 ID:TjuP2rsU
ワシが死んだら祀り詣でるものはハゲを治してやろう
561 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 15:48:42.41 ID:IeM2n3fG
気管支が弱い人が硝煙漂う中声張り上げて兵を叱咤するのは大変そうだなあ
562 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 16:10:28.90 ID:CBRQcJz/
指を鳴らすとコーヒーが、2回鳴らすと二杯のコーヒーが出てくるタイプの名将かもしれん
563 :
人間七七四年:2014/02/21(金) 16:40:39.80 ID:hoZyiRpj
信長自らの手でヴィックスヴェポラップ塗ってやれば逃げのびたのかも知れんな
564 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 00:03:26.83 ID:Wp8bsfkV
>>562 その小姓はかなり緊張していたみたいだね
565 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 16:42:07.87 ID:7cbX+YZV
でも叱責する事なく二杯とも飲んでくださる
実は意外に物分かりの良い名将
566 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 17:49:49.89 ID:ITgsmIw4
>>565 叱責のために口を開くのがイヤなだけじゃね?w
567 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 19:34:10.18 ID:wlbpESpp
蟹江城と漢たち
小牧・長久手の戦いにおいて惨敗を喫した羽柴秀吉は、方針の変更を迫られることとなった。
両軍の陣地構築により膠着状態となった尾張北東部から伊勢・尾張南部に目を向ける。
当時、徳川家康は尾張の清洲城、織田信雄は伊勢の長島城に拠って各々指揮を執っていた。
秀吉は両者の連絡を断ち切るため、清洲・長島の中間にある蟹江城の奪取を計画する。
この計画の実行者にふさわしい者が陣中にいた。蟹江城の元城主で、先年秀吉に敗れ軍門に
降っていた滝川一益である。
一益はまず志摩水軍の九鬼嘉隆を調略で味方につけ、海上からの攻撃を可能なものとすると、
蟹江城内部の工作に取り掛かった。
この時、蟹江城を守っていたのは、佐久間信盛の子佐久間信栄である。折りしも信栄は信雄
の命により、伊勢萱生砦の修築に赴いており、城主不在の状態であった。城主留守の蟹江城は、
本丸を信栄の叔父佐久間信辰(信直)が、二の丸を信盛の妻(おそらく信栄の母)の弟である
前田長定(種定)が守り、その周辺の支城には、前田城に長定嫡子の前田長種、下市場城に長定
弟の前田長俊(利定)、大野城に信栄股肱の家臣である山口重政がそれぞれ配置されていた。
また、蟹江城本丸には信栄の妻子とともに、人質として各支城の家族が集められていた。
肉親と股肱の家臣に留守をまかせた信栄であったが、実はこの肉親は敵方の肉親でもあった。
前田長定は秀吉方として北陸で戦っている前田利家の本家にあたり、かつ嫡子長種の妻は利家
の子幸姫であった。信栄はこの点を考慮すべきであったかもしれないが、やむを得ないだろう。
つい数年前までは同じ織田家中で敵と戦っていたのである。攻める側の滝川氏でも一益の娘婿の
滝川雄利が信雄家老としているのであるから。
568 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 19:35:32.39 ID:wlbpESpp
さて、一益は当然のことながら、味方に繋がりのある前田長定に狙いをつけた。事前に加賀
前田家からの工作もあったかも知れない。長定はあっさりと内応を承諾した。自身だけでなく、
前田城の長種、下市場城の長俊も誘い、前田一族総出で裏切ることにしたのだ。だが大野城の
山口重政には事前勧誘をしてはいないらしい。裏切りの可能性は低いと見たのであろう。
天正12年(1584年)6月16日、長定が上げた狼煙を目指し、九鬼水軍の軍船に分乗した滝川軍
三千が蟹江城に迫った。長定の誘導によりそのまま二の丸を占拠する。そして、本丸の信辰に
城の明け渡しを要求した。激怒したのは信辰である。信栄の妻子を刺し殺し、城に火を放ち
自身は自害すると言い放ち、要求を突っぱねた。一益・長定としては、一刻も早く城を奪取
したい。交渉を繰り返し、長定の子を人質に出し、信栄の妻子の安全を保障することで本丸
確保に成功する。信栄の妻子は信辰に守られてこの日のうちに城を脱出した。
蟹江城陥落と同時に前田・下市場両城とも秀吉方となり、残るは大野城である。重政の母を
人質にとった長定は使者を遣わし重政に寝返りを勧める。だが重政は「信栄に対して二心は
抱けぬ。我が志を分かって母は殺されても恨みはしまい。己は城を守り信栄の恩に報いる」
と答え使者を追い返した。と同時に、信栄・信雄・家康に急を報せた。
報せを受けた家康は折りしも入浴中であったが、すぐに浴衣を着込むと馬を駆った。後を
追えた者は井伊直政ただ一人であったと言う。往時の織田信長を髣髴とさせる動きである。
信雄もことの重大さをよく分かっていたのだろう。いつもの彼らしからぬ(笑)機敏な動きで
駆けつけた(まとめ・信雄の奮戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6917.html)。
滝川一益らも手を拱いていた訳ではない。援軍到着前に大野城を落とそうと川を遡上して
攻撃したが、船に松明を投げ入れられ数隻が沈没、上陸した部隊も城兵と井伊直政の軍に
破れ撤退し、一益は蟹江城、九鬼嘉隆は下市場城に逃げ込む。
早くも6月18日夜には、下市場城が陥落、嘉隆は海上に逃げ、裏切組の長俊は斬られた。
23日には前田城が落ち、長種は逃亡、織田・徳川方により海上は完全に封鎖された。
信栄を先陣に22日より始められた蟹江城包囲戦は、篭城した一益らの奮戦により多くの
死傷者が出たが、早急な援軍が見込めないと悟った一益は和睦を受け入れ、7月3日に
至り開城した。人質となっていた重政の母は無事開放された。一益も無事退去できたが
裏切りの張本人である長定は命を全うできなかった。逃げる途中で妻子ともども殺害
されたのである。後世の史料では一益の命令で斬られたということに変えられてしまって
いるが…。
こうして蟹江城は奪還された。秀吉は7月半ばに尾張西部から総攻撃をかけるつもりで
いたが間に合わなかった。
569 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 19:37:05.41 ID:wlbpESpp
だがしかし、戦いの後、佐久間信栄は織田家中における家老の地位を守り抜くことは
できなかった。蟹江城失陥の責任を問われたためではない。蟹江城の戦いのおよそ
一月前の5月、京都で謀反が発覚し、多くの公家が逮捕されるという事件が起きた。
首謀者は佐久間道徳、信栄の弟とされる人物である。秀吉は影で道徳を操っていたのは
信栄に違いないと考え、織田信雄との和睦条件に信栄の自害を加えてきたのである。
このため、信栄は信雄のもとを離れ、佐久間家の旧領三河国笹原に隠れ住んだ(三河の
うち現豊田市中心部は以前から織田領であり佐久間氏が勢力を扶植していた)。
こうして信栄は武将としての人生を終えた。後に赦され豊臣、徳川と仕えるが茶人、
御咄衆として仕えたのであり、武将としてではない。居城失陥が彼の戦績の最後であった。
残された佐久間家の人々は織田信雄に仕え続けた。信雄改易後は、蟹江での戦いが縁と
なり、徳川に仕え、佐久間信辰は後に館林城の留守居役となった。その息子は信栄の養子
となっている。山口重政は苦労に苦労を重ね大名の地位を維持した(まとめ・ある若者の
その後の運命
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8237.html)。
敗者のうち前田長種は加賀国に逃れ、加賀八家の一つ前田対馬守家の祖となった。後年、
微妙公こと前田利常を養育している。
滝川一益はまもなくこの世からふっと消えていった…
(まとめ・滝川一益の最期
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3242.html)
夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと
蟹江城は翌天正13年(1585年)の天正地震により壊滅し、今はただこの地にかつて城が
あったことを示す石碑が立つのみである。
570 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 20:20:02.12 ID:Y7fu0rke
ここはいつからチラシの裏になったの?
571 :
人間七七四年:2014/02/22(土) 20:36:11.08 ID:f27vMd/J
572 :
人間七七四年:2014/02/23(日) 00:58:26.11 ID:JJQL3nwu
創作物の投稿は守備範囲外だよなぁ
573 :
人間七七四年:2014/02/23(日) 06:11:57.79 ID:pfIwyu7K
前投稿された藤堂高虎の主君替えシリーズもほとんど小説ぽかったような
574 :
人間七七四年:2014/02/23(日) 07:51:14.88 ID:7Kqo9BzW
なんか創作っぽいやつは高確率で徳川が絡んでんだよなあ
575 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 23:10:17.62 ID:hx+iv0gE
権現様(徳川家康)の仰せになったことに
「武道を嗜む侍は、戦場に赴くからには、討ち死にをする時のことも心懸けがていなくてはならない。
歯が白いものは、歯が黄色くならないように心がけ、髪にも香を炊いて匂いを留めるのが良い。」
そのように語られた。
これを聞いた面々は大阪の両度の陣の時、伽羅を少しづつ持参したのであるが、肝心の香炉がなかったので、
大阪夏の陣の終った5月7日には、髪に香を留めているような者は一人もいなかった。
(駿河土産)
武道の嗜みも、実行するのは難しかった、というお話。
576 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 23:26:45.80 ID:h6MCTnba
家康「木村重成は髪に香を留めていたというのに」
木村重成の逸話を聞いた時は若いから身を飾ったのかと思っていたが
首を取られた時に死臭を隠すためだったんだな、今知った。
577 :
人間七七四年:2014/02/24(月) 23:38:05.61 ID:yoNh4aFR
一同「何かウンコ臭くね?」
578 :
人間七七四年:2014/02/25(火) 00:50:44.95 ID:u0SwUjee
最初から歯が黄色いオッサンはOKなのか
579 :
人間七七四年:2014/02/25(火) 08:49:17.98 ID:jrkTXUkw
歯が白いものは黄色くならないようにってよくわからないな
お歯黒してないならって事か?
580 :
人間七七四年:2014/02/25(火) 09:51:20.07 ID:0yT61e6E
この続きの「おなじく上意に小身の武士着料の具足を申付おどさせ候時〜」は
あまり兜に興味持ってないらしい家康が兜について言及した数少ない事例なんだそうだ
581 :
人間七七四年:2014/02/25(火) 22:06:05.30 ID:mHpDWu21
慶長19年(1614年)4月22日、池田備前守(光重)が、目安を捧げ直訴申し上げたという。
これは、巫女を称する女の盗人があり、諸方の女中を惑わし、金銀を詐取したため、
これを捕らえ拷問にかけた所、
「盗った金銀は池田備後の妻の所にある。」と白状し、そのため、自分はその金銀を
受け取ってはいないと言上した。
証拠もあることで、備後守の表情は甚だ暗かったという。
(駿府記)
この事件に妻が関わったことで池田光重は連座し、改易されることとなった。
慶長年間の詐欺事件についての記録である。
582 :
人間七七四年:2014/02/26(水) 00:03:15.29 ID:juLC/HDC
出だしが備前守になってるぞ
583 :
人間七七四年:2014/02/26(水) 02:46:25.23 ID:vo3MOTbl
ビンゴ!
584 :
人間七七四年:2014/02/26(水) 20:08:54.92 ID:QLVrXwlQ
下美作(しも みまさか)の帰還
下美作は下吉忠の一族で、慶長出羽合戦では上杉軍の別動隊として庄内大山城を出陣し、六十里越道から最上方の白岩・谷地を攻めた武士であった。
しかし1600年晩秋、直江兼続は下吉忠の軍に上方での西軍の敗戦を知らせる事なく長谷堂城から米沢に退陣。下軍は谷地城で長谷堂城攻防戦を終えた最上方の志村・鮭延軍に城を包囲され、最上家に降伏する事になった。
下一族は最上軍の庄内攻めの先兵となり
下吉忠はその功により田川領主・大山城主2万石、下美作も知行1000石を最上義光から賜った。
庄内に取り残された上杉の将兵でも兼続に不満を抱く者はあり、原美濃、斎藤筑後などが米沢へ帰る道を捨て最上家に知行を願い出た。
時は流れ最上義光の子義康暗殺事件により長谷堂合戦では旧上杉の士であった土肥半左衛門が誅殺
1614年、一栗の乱・清水城攻めでも庄内に残った旧上杉の士分が少なからずこの世を去った。
元和八(1622)年、最上家改易。
その後の寛永(1630年)期頃の上杉家の分限帳には次の記述が残る
下美作 三百石
長井内とどろき鴨生田百五十石
信夫内泉原田百五十石
慶長出羽合戦の後に最上家に仕え
紆余曲折を経て数十年を掛けて上杉家に戻った下美作や他の将士の記録は
他に余り見つかっていない
585 :
人間七七四年:2014/02/26(水) 20:15:16.46 ID:QLVrXwlQ
下美作の知行
1600年上杉家内庄内320石
1601年最上家内田川1000石
最上家改易
1630年頃上杉家内300石
586 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 15:13:03.07 ID:la622CsZ
あんまり変わってないのは経緯が経緯だからかねえ
587 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 15:43:36.69 ID:cerd5JNT
比較
1600年上杉家120万石
1601年最上家57万石
1630年頃上杉家30万石
微妙?
588 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 15:55:04.06 ID:la622CsZ
あ、上杉に出戻った時の知行ね
589 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 16:10:53.77 ID:8D7+6ECq
敵のど真ん中に味方を放置したまま撤退って相変わらず直江はクズだな
桶狭間の戦いの時、権現様が同じ目にあってたけど
590 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 18:26:10.49 ID:rpnBvWl8
寝返ったのを誰かのせいにしたかったんだろう
591 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 19:36:10.11 ID:hd8vEYpN
>>589 逃げ足の速さは進軍並みの信長様にはかなうまい
592 :
1/2:2014/02/27(木) 20:14:49.01 ID:l7Nk7iCb
吉弘嘉兵衛尉統幸の先祖は大友の一族であり、代々先手の侍頭であった。
祖父も父も、みな吉弘嘉兵衛尉と名乗った。祖父は日向にて討ち死にし、父は後に宗甚と号し、
彼は高橋紹運の兄であり、すなわち吉弘統幸は紹運の甥である。
立花左近将監統虎(宗茂)は紹運の子であるので、立花宗茂と吉弘統幸は父方のいとこである。
先年、豊臣秀吉によって大友義統が豊後を召し上げられた時、吉弘統幸も浪人したのだが、
黒田如水が彼を豊前に招き、重臣である井上九郎右衛門に預け置き、しばらく井上の領地に逗留していた。
その後立花宗茂の招きによって、筑後の柳川へ行き、浪人の間の扶持として知行二千石を与えられ、
数年居住していたのである。
この時、大友義統の嫡男である義乗は徳川家康の預りとなり、江戸の牛込という所に居住していた。
このような中、石田三成の挙兵が起こると、これを聞いた吉弘統幸は世の中の流れを考え、
「今回の事態は家康公のご理運となる事必定であろう。幸いにも義乗公は関東におられる。
これより関東に行って義乗公を盛り立て、大友の家の再興を果たそう。」と思い、立花宗茂に
暇を乞うた。
宗茂は吉弘の話を聞くと、「その方の志、尤もな事である。」と暇を遣わし、その上道中の路銀として
黄金をいくらか与えた。吉弘はこれに感じ入り、申し上げた
「私は数年の間あなたに扶養して頂いたというのに、その御恩を報ぜず、只今御暇を乞い申した事は、
不義の至であり、本意にも背くことであるというのに、御暇を頂き、その上金子まで、このように多く
下されました。誠にこのお恵みは、忘れがたい事です。
これは我が先祖より伝わる刀でありますが、今度上方において、私もどのように成り果てるかわかりません。
ですのでこれを、形見としてお受取り下さい。」
そう言って忠光の太刀を差し出すと、宗茂は涙を流して
「そなたが義乗を盛りたてるため関東に参られることに、私も感じ入ったのだ。
私もその方のことを、左右の手のように、頼もしく思っていたのだが、義によりては命をも惜しまれぬ
事であるのだから、ここに留めたいとは思うけれども、力及ばぬことである。
また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは、感悦なる事である。ここにある私の脇差しも、
私が常に、身から外さず帯びているものであるが、これを、私の形見として受け取って欲しい。」
そう言って腰にさした脇差しを抜いて吉弘に与えた。吉弘はこれを受け取り、しばらくは顔も上げられず
泣いていたが、やがて暇乞し、関東に向けて出立した。
593 :
2/2:2014/02/27(木) 20:15:39.16 ID:l7Nk7iCb
吉弘が大阪に到着すると、その時丁度、大友義統が差し置かれていた毛利氏の元から泉州堺に
上がって来ていることを聞き、急ぎ堺に行って義統と対面した。義統は
「いかに嘉兵衛尉、久しく相見なかったな。今度毛利輝元、増田長盛より承った事には、
秀頼公より本領である豊後を下され、その上当座の合力として、具足百領、馬百頭、鑓百本、
鉄砲三百挺、銀三千枚を賜り、急ぎ豊後に下り、九州を鎮めよということである。
私のやることは決まった!お前も良い時にやって来た、我が伴をせよ!」
吉弘はこれを聞くと、こう申し上げた
「いやいや、そんな事をすれば殿のお立場をいよいよ悪くし、ただ御運を尽き果てさせてしまうでしょう。」
これには義統も、側に居た木部元琢、竹田津一卜もこれを聞いて興ざめた様子であった。義統は、
「ならば、汝はどう思うのか?」と聞くと
「必ず、天下は内府(家康)の御手に入ることとなるでしょう。此の度の乱は、石田治部少輔の天下を望む
謀計より起こった事です。逆謀に加担して、一旦利運が来たとしても、悪名は末代まで残り、浅ましいことです。
その上これは、御身も御名も共に失ってしまいます。特に、義乗様は内府に属して、江戸に居られるのですから、
御子と共に、内府の味方をする事こそ然るべきと考えます。
これは大事のご分別です。どうか、能くご思案し、御後悔の無いようにお謀りになってください。
私は義乗様を盛りたてるため、立花宗茂に暇を乞うて、関東に参ります。殿も御暇を乞われるべきです!」
しかし義統は同心せず、吉弘は再三諌めたのだが承知無く、義統は豊後に下ろうと、その翌朝大阪へ行き、
そこから船で傳法という所まで出た。吉弘統幸は宿舎に帰ったが、そこで考えたことには、
『今、滅亡に極まった目の前の主君を捨てて、世に出ることになるであろう関東の義乗様のもとに参るというのは、
不義の事である。さて、もはや私の運命も尽き果てたようだ。ならば今、義統様の供をして豊後へ下り、
本国の土に成ろうではないか。』
そう決心し、大阪から船に乗って傳法に追い付くと、義統は大変に喜んだ。
その後、上関で黒田如水の使者が来て、如水からの異見状を吉弘も見て、色々と諫言したが、
やはり同心してはもらえなかった。豊後に下った後は、吉弘は宗像掃部と言い合わせ、快く討ち死にしようと
決心したが、黒田如水との決戦である石垣原の合戦に赴く時、大友義統も前に出てこう申し上げた
「今回の合戦にたとえ打ち勝ったとしても、畢竟、殿のご理運にはならないでしょう。
私はこの度、討ち死にすると決心いたしましたので、一生のご対面は、只今ばかりとお考えになってください。」
そう言うと、涙を流しながら立ち去った。そしてかねてからの言葉に違わず、終に戦死を遂げた事こそ
哀れであった。
吉弘統幸の旧恩を慕って馳集まった士卒も多かったが、彼らも一歩も引かずに討ち死にした。
吉弘のことは言うに及ばず、その家人まで、あわれ惜しき士共なりと、敵も味方も感じないものは居なかった。
その後、小石垣村と南石垣村の間、大家の西の傍らに、吉弘統幸の墓が築かれ、石碑を立て、その姓名を記した。
吉弘統幸は義あり勇あり、名高き士であったため、志ある武士はそこを通る時、必ず馬から降りて礼をなした。
彼が大剛の武士であったので近隣の民は、瘧を患った時はこの墓に祈れば必ず回復すると言い伝えた。
(黒田家譜)
黒田家譜より、吉弘統幸についての記録である。
594 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 21:37:51.60 ID:feHyZ+X7
義統ぇ・・・
こんな兵力で九州制圧出来るはずないだろ
どう見ても時間稼ぎの捨石
595 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 22:41:15.88 ID:hd8vEYpN
九州制圧?w
ゲーム脳はこれだから困る
596 :
人間七七四年:2014/02/27(木) 23:48:52.64 ID:InhCTw8n
日向の時もそうだけど大友は下が義に厚いのに上がダメなんだよなあ
597 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 03:10:32.56 ID:hrqRFxMJ
この人と上杉憲政は沢山の貴重な資料を後世まで残してくれた偉人なので大好きです
598 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 07:31:20.88 ID:0Sy/jOqm
ID:hd8vEYpN
なんだ荒らしの菅沼か
599 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 07:32:54.64 ID:bFzN+s6o
触るなよ。居ついたらどーすんだ
600 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 10:04:41.50 ID:uQcPSlKz
>>592 この話にでてくる刀かどうかは不明だが、統幸の刀の話を思い出したんで記載
吉弘家には室町の初期に吉弘一曇という危険人物がいて、この人は刀の切れ味を
試すため、2度に渡って千人切りの諸国行脚という凶行を行ったという。
しかし、京都でその最後の一人を切った時に刀を手放し河に落としてしまった。
その後九州に帰った一雲は博多の海辺に光る蛇が現れると聞き、行ってみると確かに
蛇のようなものが光っていた。近づくとそれは京都の河で失った自分の太刀であった。
刀を再び手に入れた一雲はそれを「蛇丸」と名づけて家宝とした。
その数百年後、吉弘家を継いだ統幸は、ある日一人旅の途中に荒寺で一夜を過ごす
ことになった。眠っていると突然なにか不気味なものに抱え込まれており身動きをとる
ことが出来なかった。その時腰に差していた蛇丸が一人でに鞘から抜け出て、統幸を
襲うものを斬ったため、統幸は難を逃れた。夜が明けると、巨大な蜘蛛の死骸があり、
統幸は故事に倣い、以後は蛇丸を「蜘蛛切り」と改めた。
統幸が戦死した後蜘蛛切りは、立花家に預けていた子の吉弘政宣が所持していたが、
政宣は主君である立花忠茂との酒の席で蜘蛛切りを忠茂に献上したいと申し出た。
忠茂は一度は断ったが、日を改めて使者を送り蜘蛛切りを受領した。
しかし、それから柳川城中で不気味な光が発生するなどの怪異が起り、家中のものも
不安がったため忠茂は「やはりこの太刀は吉弘家の元にありたいようだ」と言って政宣に
蜘蛛切りを返還した。以後蜘蛛切りは「生き剣」と呼ばれて吉弘家に代々伝えられたという。
(柳川史話)
統幸が戦死した後、どうやって政宣に伝わったのか疑問だったんだけど、形見として宗茂が
受け取ったのを政宣に与えたのだと考えると合点がいった。
601 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 12:13:13.61 ID:A/Vgrml8
専称寺の土まんじゅう
昭和の前期、日本が中国と戦争をしていた頃「山形(山形市)のどまん中にジャングルがある」といった話が山形師範(現・山形大学)の学生らの中にあった
場所は緑町から寺町境の専称寺東奥
専称寺の寺域でもそこだけが鍵字型に東側に突出し
竹薮や笹、ツタ、下草の生い茂る中にうっすらと丸石の載せられた、崩れかけた土まんじゅうがひとつあった
周りは高い木々と竹林に囲まれ昼間から暗く
野鳩や椋鳥が木々に巣を作っていた
言い伝えによればこれは最上義光の愛娘である駒姫を弔う塚で
丸石の下の土まんじゅうには京都で命を落とした駒姫の遺髪が埋められていると云う
「陽の目を浴び、注目されすぎてもロクな事にはならぬ」と塚は寺域の奥にひっそりと置かれた
その言い伝えにより専称寺の歴代の住職らは【あえて駒姫の塚の周りに手を加える事はしなかった】
人から尋ねられても「あそこはワケがあるからね…」と首を数度縦に動かし
事情を知らない者には駒姫の悲劇と寺伝を話した
けして手抜きで塚を放置していたわけではない
(つづく)
602 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 12:14:46.84 ID:A/Vgrml8
(つづき)
駒姫の死を最上義光は大層嘆き、山形城から駒姫の住んでいた居室を専称寺に移築し、本堂の一部に組み入れた
昭和50年代に時の住職が寺域奥の塚で駒姫の再供養をし五輪塔を設置
現在では下草も笹も苅り払われ
参道と案内板まで設置されている駒姫の墓
五輪塔の裏に寄り添う様に置かれている丸い漬け物石ほどの大きさの河原石が
昔は塚のありかを示す墓石代わりだといった伝承が残る
603 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 12:21:48.63 ID:A/Vgrml8
最上義光公400周忌に合わせてか
最上義康や江口五兵衛の墓石や供養塔が新しい物に代えられたと思ったが
それまで使われていた墓石や供養塔はどこに撤去されたのだろう?
604 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 12:46:37.12 ID:k02n8Ps6
605 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 12:47:45.22 ID:A/Vgrml8
606 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 12:51:59.93 ID:A/Vgrml8
www.jmcy.co.jp/~goto/Majime/toshio/simi/simi02.htm
>中塀で区切られ、門扉が鎖(とざ)してあって、俗人の入りこめない場所である。たまたまそこの桟(?さん)が外れていて、Hさんが潜入することができたものであったろう。
>その時から四十七年が経つ。そしてHさん以外に、その墓域に足をふみ入れた人の話を聞いたことがない。寺側は、おそらくそこを聖域として、俗人に汚されないように守ってきているのだと、最近では思うようになった。
>「駒姫の墓は、草ぼうぼうで、とても参詣していただくような状態にありません。そのうち、綺麗に整備でもして、皆さんにお詣りしていただきたいとは考えているのですが」
>と、寺ではいう。何千回、何万回もくり返してきた科白だと思う
昔駒姫の墓は聖域として隔離されていた様です
607 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 19:35:10.50 ID:wQK9e0yd
伝える者がいなくなると藪入らずとかになるのかな?
608 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 20:54:13.48 ID:A/Vgrml8
>>607 藪知らず?
八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。
市川市が設けた解説板には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記されており、ほかに「不知森(しらずもり)」「不知藪(しらずやぶ)」とも称される。現在は不知森神社の一角のみ立ち入りができる。
609 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 21:31:11.10 ID:QUAf3kk5
不知火みたいなもんか
610 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 22:20:18.31 ID:c+mDWw5V
立花宗茂は元々は吉弘家の系統の人だからな…。
611 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 22:22:32.86 ID:EYfTdi9E
高橋紹運、立花宗茂、吉弘統幸、大友には忠義な武士が多いな
と思ったら姓こそ違え同じ一族だったでござる
612 :
人間七七四年:2014/02/28(金) 22:37:17.43 ID:WPTBXxD9
大友家って、臣下には人材が揃っているんだよなぁ。
でも、上がアホだとどうしようもないっていい見本だわw
613 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 02:46:00.42 ID:DT6EEwnf
吉弘家には忠義心溢れる人物が多い
で、たいていは壮絶な討ち死にを遂げる
614 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 09:48:58.61 ID:Y5cgB5gu
森家の討死率の高さ
615 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 12:31:36.99 ID:R/T0+1/0
>>614 本能寺で3人同時だからなぁ(´・ω・`)
616 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 15:08:44.71 ID:Us+HUH3X
安田作兵衛「森殿がまた死んでおられるぞー!」
617 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 15:16:22.70 ID:lwFTNeiw
あれが最後の一条信龍とは思えない!
618 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 15:52:59.61 ID:wcf672mu
本能寺で親指を立てながらにっこりと熔鉱炉に沈んでいく森三兄弟の姿が
619 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 16:13:09.30 ID:yeCTKRpM
討ち死にといえば少弐家も忘れてはいけない
620 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 16:28:02.43 ID:Fbj0ww0f
621 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 18:48:11.66 ID:Us+HUH3X
隆信「少弐討ち死にしすぎワロスワロス。」
四天王「ですよねーwwwww」
直茂「・・・・・」
622 :
人間七七四年:2014/03/01(土) 23:18:59.99 ID:Y5cgB5gu
プライベートライアンのライアン2等兵ですら、戦死は兄3人なのに
森忠政は父&兄5人戦死...
623 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 01:16:50.61 ID:jZ9VtQSE
黒田家の母里一族
土器山の戦いで24人全てが討ち死にしガチ全滅
624 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 01:37:14.84 ID:u0UMui/K
>>623 やっぱそういうの込で1万8千石なんだろうか?
625 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 01:45:54.89 ID:CxSCJIi/
最上義守、生前葬を上げる?
家中の義光推しの空気と病を圧した重臣氏家定直の諌言もあり、最上義守は家督を息子の義光に譲る事を決断。
栄林と号し山形城の北の龍門寺に隠居した。
この寺に興味深い文書が残る。
元亀2(1571)年、秋彼岸の日、葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意された、といったものである。
この後義守は伊達輝宗に手紙を出し「やっぱり義光に家督継がせたのミスだった。(ワシが)当主に(また)なるから力(兵)貸して」といった申し出をする。
伊達輝宗は周囲に「中野殿(最上義守)が天童や白鳥と結んでなにやら企てている」と手紙を出したが
この手紙の「中野殿」が後代義光と家督を争った「最上義時」扱いされる原因にもなった
一度は家督を譲ったものの
最上義光に不安を感じ、「天正最上の乱」勃発に際し覚悟の生前葬を上げた最上義守の周りを巻き込んだ悪い話?
626 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 01:51:19.14 ID:CxSCJIi/
ノブヤボではぱっとしないけど、最上義守は伊達家の傀儡だった最上家を独立大名に立ち直らせた
ある意味最上家中興の祖。
627 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 02:03:36.26 ID:udouv48Q
>>621 竜造寺といえば家兼だろ、河上社と祇園原も知らんのかw
628 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 02:04:49.15 ID:1KnOREGZ
炬下語ではなく下炬語じゃね
禅に帰入して得度した事の証明として行われるもんなので、別に不穏な意味は無いはずだが
629 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 02:45:53.97 ID:CxSCJIi/
>>628 下炬でしたね
龍門寺は(現在)曹洞宗ですが
宗派によっての解釈決断の違いかんかもあるのでしょうか?
栄林を号し龍門寺に入ってから
時期を少し置いての話の様です
気分転換かなにかの区切りやけじめ?
下炬 あこ 導師が松明をとって、死者を火葬する意。
転じて、棺前に立って引導を授けること。
曹洞宗では三尺二寸。
浄土宗では二尺五寸とされ、1本を落とし(厭離穢土)、残る1本(欣求浄土)で1円を描き引導文を述べた後落とすなどの作法がある。
迦葉が釈尊の荼毘の炬をとった(菩薩所胎経)。
大声を上げて一喝するのは、中国黄檗の希運禅師の故事より(伝燈録)。
炬はかがり火、松明(たいまつ)の意。
「智慧の火を以って煩悩の薪を焼くの標示なり」(百通切紙第三)
あこ
禅宗で、火葬のときに導師が遺体を焼く燃料に火をつけること。のちには偈(げ)を唱えてしぐさをするだけになった。秉炬(ひんこ)。
630 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 02:51:55.21 ID:CxSCJIi/
>>629 ×解釈決断
○解釈
隠居後に改めて得度もしたけれど
義光に家督を譲ったのは腑に落ちなかった→隠居も得度もかなぐり捨てて伊達・天童・白鳥を巻き込み天正最上の乱へ、といった流れでしょうか
631 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 03:38:52.52 ID:CxSCJIi/
>>629 ×宗派によっての解釈決断の違いかんかもあるのでしょうか?
○宗派によっての解釈の違いなんかもあるのでしょうか?
色々とすいません
632 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 16:56:39.25 ID:IOHvqOzR
前田利常の家士である大音左馬介に対して若い人々は、
「いかに老人の心はどれほど勇猛だとしても、老いたならば走ることは難しいだろう。
『麒麟も老いては』と言うこともある」と、言った。
左馬介はこれに答えて、
「五丁七丁走ったからといって、敵中へただ一人討ち入ることも成り難いものだ。
それゆえ、あとから来る味方を待つうちには、老人も間に合うことだろう。
それに五丁七丁走るうちは早くとも、敵に近くなれば敵方より撃ち出す矢玉のために
中々進むことができないものだ。だから、早く走ったからといって益は無い」
と言ったので、人は皆言葉もなかったということである。
――『明良洪範』
633 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 19:46:25.19 ID:1bgRH/6I
織田信長は常に、尾張の地が京師に遠く、中原に志を得るのに便ならざるを憂い、
密かに遠望を抱いていた。
信長は桶狭間で今川氏を討った翌永禄四年(1561)四月、偽って熊野参詣と称し、
近侍のもの八人を具して京に入った。そこでは彼を信長だと知る者は無く、彼は京都で
つぶさに天下の形勢を観察した。
そして畿内では、足利将軍家の権威は地に落ち、独り三好長慶のみが権力をほしいままにしていることを
見出し、
『いやしくも天下に大志を伸べんと欲すれば、三好と結ぶに如かず』と考え、密かに
三好の所領である河内高屋の城に行き、奏者を通してこのように言った
「それがしは織田上総介信長です。尾張の本領を、尽く三好家に献上したい。
その上で幸いにも五畿内の内に一偏土を賜ることを得れば、この信長は正に、手兵5千を以って
三好公の先陣となるでしょう。」
三好長慶はこれを聞くと大いに喜び、
「信長は稀有の勇士であると聞く。もし彼が私に属するのであればもはや天下に恐れる所はない。」
と、直ちにその望みを入れようとした。
しかしその家臣である、松山松謙斎、松永弾正(久秀)等は信長の武勇を恐れ。百方これに
讒言を行い、信長は終にその意を達することなく帰国した。しかし信長は、これ以降もいよいよ中原への志を
募らせたのである。
(古雄逸談)
信長が三好長慶の家臣に成ろうとしたという、ちょっとめずらしい逸話である。
634 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 21:39:58.57 ID:NlEk3RxH
戦国シミュレーションゲーム『長慶の野望』
これは売れる!
635 :
人間七七四年:2014/03/02(日) 22:16:49.73 ID:udouv48Q
武辺咄聞書にも同様の話が
織田信長御若年の時熟々御分別有るに、尾張は辺土にて京都への手つかひ悪し、何卒上方筋へ打て出手をひろけ度思召、
桶狭間合戦の翌年永禄四年正月に、佯て熊野参詣と名付け、信長近習只八人にて廻国順礼のことく潜に入洛有て、
京都の形勢を窺見給ふに、公方は尊氏卿より十三代目光源院義輝公の御代也。公方の権威衰へ畠山尾張守高政病死、其子次郎昭高未幼少也。
細川晴元は家臣三好修理大夫長慶か為に摂州芥川に被押込、其 従弟細川氏綱・同藤賢執権職に居ると言へ共、天下は皆三好か侭也。
信長思召には「兔角三好家に便らすしては大功成かたし」と分別有。其時三好は河内国高屋・若江両城に有。
信長密に堺の津へ下り、木津屋と言町人の家を借、三階の蔵座敷へ揚り、二三日逗留し、畿内西海を見下、様々天下を図り工夫有。
木津屋元より信長と言事を不知。信長 の小舅斎藤義龍、美濃の国守也。信長と取合数年を経る。上方へ被登と聞、屈強の兵十二人潜に遣し、堺の津に付置、信長をねらふ。
信長聞付給ひ、則義龍か討手共の旅宿へ御越被成。討手の者共肝を消し周章騒く。信長主従八人座敷へ上り、太刀の柄に御手をかけ給ひ、
義龍か兵共をはつたと睨み「己等は我をねらはん為に此度付まとひありくと聞く。言語道断の奴原也。一々成敗せん」と鍔元を甘け怒り給。義龍か兵共震懼、様々申訳仕る。
信長の御眼の光り電のことく、たゞ鬼神に出合たる心地して、悉く美濃へ北帰りける。
信長は夫より河内国高屋の城へ行、奏者を頼被申入は「某儀は織田上総介信長にて候。尾張の本領を以三好家へ進上可仕候。其代地を五畿内にて可賜候。左候はゝ 譜代の士卒五千余にて三好殿の御先手を可仕」と望給ふ。
三好長慶聞て「是は兼て聞伝へたる勇士也。其所望に応せん」と宣ひしを、松山松謙斎・松永弾正等諌て曰「信長去年五月桶狭間にて今川義元を打取たる手柄、惣て其行跡を聞に常人にあらず。必三好家の禍の根に可成」と支る故、事不調して、信長空敷尾張へ御帰り也。
私云、名を争ふ者は朝に於てす、利を争ふ者は市に於てす。誠に信長公上方へ打出給わんとの御心入、難有事にこそ。
636 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 15:01:58.47 ID:pplLvV05
ロシア、アメリカ、EUに翻弄されるウクライナは
武田、上杉、北条に振り回された北関東の諸将みたいで
悲しくなる
637 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 16:19:32.54 ID:ehgwwieg
1591年、関白の豊臣秀吉は京の都で新たな事業を始めた。都の市の周りを巨大な濠で
囲んで一新するために、仏僧たちを寺から立ち退かせて濠の城壁に近いところへ移転
させようとしたのだ。このような事業は非常な困難を伴うので誰も手を付けなかったのだが
秀吉は仏僧の反対を押し切って、いとも迅速に短期間のうちに完了させた。これは仏僧たちに
とってひどい仕打ちであったため、彼らをすっかり怒らせてしまった。仏僧たちは門徒たちの
住む場所から遠ざけられ、隔離された場所に押し込められてしまったため、何千もの諸宗派は
混沌とした集団となった。その上、寺領を追放されて収入を失ったので、仏僧のある者は
自分の寺院を再建することも出来ず、別の生活手段を求めねばならなかった。またある者は
非常な貧困に陥り、門徒も集まらなくなって喜捨もわずかしか得られなかった。
このような事情により、都の人々がキリシタンに改宗するための大きな道が開けたことは
驚くばかりである。(ルイス・フロイス書簡)
638 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 19:12:06.68 ID:dIGRs9PF
>>636 むしろ上杉も北条も北関東の諸将に振り回されてた気がする。
639 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 21:38:57.44 ID:OKG3da7C
>>635 >松永弾正等諌て曰「信長去年五月桶狭間にて今川義元を打取たる手柄、惣て其行跡を聞に常人にあらず。必三好家の禍の根に可成」と支る故
お前にだけは言われたくないというw
640 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 22:03:46.52 ID:I6toMUfw
慶長5年(1600)、その前日に石垣原の戦いの打ち勝ち、大友義統を降伏させた黒田如水は、
実相寺山の本陣に、共に戦った細川家の松井佐渡(康之)、有吉四郎右衛門(立行)の挨拶を受けた。
その座には、黒田家の重臣たちが列座していた。
松井が如水に申し上げた事に
「それにしても此の度の合戦では、井上九郎右衛門(之房)殿の手柄は、兼ねて聞いていたよりも増して
目を驚かされました。また九郎右衛門殿が敵と戦っている時、茜のしないの指物をさした武者が、
その手勢を引率し、真ん丸になって敵の横合いに懸かった働きは神妙の至であり、こうやって説明するのも
愚かに思えるほどです。また、その勢の中にあった大指物をさした武者が、特に良い働きをしており、
非常に目立っておりました。」
如水はこれを聞くと
「茜のしないの指物とは、そこの末座におる野村市右衛門の事です。」といって指差し、
「彼は母里太兵衛(友信)の甥であり、16歳より度々戦場に出て、所々の手柄の数もまた多く得ました。
一昨日の働きなどは、特に珍しいものではありません。
大指物をさした方は、その野村市右衛門の与力で大塩喜平次のことです。
また、今度討ち死にした久野次左衛門は母里太兵衛の婿でした。彼は常々、野村市右衛門と
武勇を争っていたのですが、その志を立て、終に討ち死にを遂げました。」
と語った。すると松井は母里太兵衛の方を向いて
「次左衛門殿の事、ご愁嘆されていること、お察しいたします。しかし市右衛門殿の高名は、
嘆の中の悦でありましょう、」と言った。
松井・有吉が帰ったあと、如水は家臣たちに向かってこう語った
「武士が戦場にのぞみ、自分の戦功を専一に心がけるものであれば、左右前後の味方の働きを
観察するような暇はないはずだ。たとえ見たとしても、人に向かって語るにはその心得を持って
行うべきだ、ところが、松井が一昨日の石垣原で見て来たという先ほどの話は、あまりにも詳しすぎる。
一心の働きを心がけなかったかのように聞こえて、非常に悪いものだった。
有吉の方は、その心得があったのか、周りの働きの噂はしなかった。これこそ、武士の心得たるべきことだ。」
そうのたまわれたのである。
(黒田家譜)
黒田如水が、戦場での働きの話をすることについて、武士の心得を語ったものである。
641 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 22:28:37.62 ID:g68+hiSG
642 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 22:43:05.51 ID:JGNI1skW
康之がディスられてる逸話って結構珍しいな
ソースが黒田家譜とはいえwww
643 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 23:20:05.31 ID:pEDUiE8V
>>しかし市右衛門殿の高名は、嘆の中の悦でありましょう、」と言った。
これにカチンと来たんじゃないかと
644 :
人間七七四年:2014/03/03(月) 23:49:32.35 ID:txmPMbZ8
細川の筆頭家老ともなれば敵と取っ組み合いするわけねえだろ
645 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 00:14:52.32 ID:34/zPMmv
幽斎「そやね」
荒三位「」
646 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 01:04:00.52 ID:REOKjAkO
647 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 01:58:52.68 ID:tKgXKY+I
648 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 02:27:59.85 ID:Bqg1Lqz/
指揮する立場にある人間が周りの状況何も分かってないってどうなの
649 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 07:24:25.83 ID:4dIDLx/V
本当に分かってない必要はないのでしょ
後で人の働きをペラペラ批評する態度が軽薄に見えるというだけで
650 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 07:40:43.42 ID:gl29t/X6
後で人の働きをペラペラ批評する態度が軽薄...黒田家譜全否定
651 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 17:59:34.42 ID:GnGhmTSc
最上家親「最上からも大坂へ」
父最上義光の死から幕府内の減役・出馬軽減を受けた最上家親は大坂冬・夏の陣で江戸城留守居役を命ぜられたが「武門の最上家が留守居のみとあっては面目が立たぬ」と近臣を大坂の地へと派遣した
大坂御陣中為伺御機嫌、武久庄兵衛(昌勝)・冨田加兵衛と申者、両度為使者差上候
『最上家伝覚書』
童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、
(最上殿の)御内の武夫ばかり軍の御供をして罷り上りたるが、彼地にてはなばなしき功名せし。
その武夫共の戦の仕様をそのまま絵に写し主のもとへ土産にせしを彼国に残し伝へ侍る(中略)。
その絵を見るに、武具せし人少なく、多くは素肌者なり(中略)。その屏風見し人の申したるよし語られたり
杉田玄白『いくさの絵の記』(部分:大坂の陣の「最上屏風」についての思い出について)
二人とも冬と夏の両陣に参戦し、その功績により武久庄兵衛は500石から1000石へ、冨田加兵衛が300石から600石への加増となっている。
しかし家親や最上の本隊が直接大坂冬・夏の陣へと参戦したわけではなかったので
現代地元の山形でも「大坂の陣に最上家の兵が参戦した事を知らない人が多い」悪い話って事で
652 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 18:03:43.71 ID:GnGhmTSc
>>651 ×杉田玄白『いくさの絵の記』(部分:大坂の陣の「最上屏風」についての思い出について)
○杉田玄白『いくさの絵の記』(部分:大坂の陣の「最上屏風」の思い出について)
ついて が被ってました
653 :
人間七七四年:2014/03/04(火) 18:11:33.55 ID:GnGhmTSc
>>651 ×童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、
(最上殿の)
○童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(中略)、
慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、
(最上殿の)
こちらも訂正をお願い致します
654 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 08:24:00.75 ID:olFSaz8k
元亀3年(1573)、三方ヶ原の戦いの後、武田信玄はそこで戦死した平手汎秀の頸を織田信長に送り、
これを信長が武田に敵対した証拠として、それまでの和議を絶って断行した。すると信長は
家臣の織田掃部を遠州刑部まで使者として送り、書面でこのように言った
『家康が、若気故に心得違いがあってはと思い、事態収拾のため家臣を派遣したのですが、
思いがけなく合戦となり、あなたからご成敗を受けましたが、これは当然なことです。
信玄公に対する私の誠意の印として、ご成敗を受けた我が家中の者達の家は断絶とし、後を継がせまいと
考えています。』
この他十五ヶ条が書き立てられており、家康の行為は不届きであるから、家康とは断行すること、
信長の子息城介(信忠)を信玄の婿として頂きたいこと、人質も信玄の希望通りに進上することなどが
もっともらしく書き連ねられていた。
これに対して信玄は、次のように返答した
『書面を以って申し渡す。さて信長は様々な口実を以って信玄と縁者になりたいと申されたので、やむなく
そのことで希望を入れ、貴国と当方は親密にしていた所、近年になって家康の讒言があり、また信長も
邪神を起こして、逆に本心がはっきりと現れてきた。それは甘い蜜に砒素を混ぜる、綿の布に毒を包むのにも
似た行為というものである。
信長は武将として名を上げ、我が国戦乱の世にあって、上杉輝虎(謙信)、織田信長の両人は、
天下に4人と居ない武道に優れたものであるが、とりわけ信長は、若手ながらも生国が都に近いためか、
果報強く幸運に恵まれたためか、将軍義昭公のお供をし上洛して後、武名を天下に轟かせたことは、
眼前に見るとおりである。
しかしながら信長には汚らしい欲心があり、裏切りの行為を重ねたことにより、永年に渡る武勇のほまれを
自ら捨て去り、邪な思いにふけって聖政賢の道による政治を夢にも考えようとしない。だから天より見放され、
軍神の御罰をたちまち受けて、遂には飼い犬に己の肉を咬み裂かれ、命を失って末代までの悪名を
残すこと疑いないだろう。今後、信長とは二度と親密になることはないだろう。
正月17日 大僧正信玄
織田上総守殿へ 』
武田信玄が三方原の後に信長に送った、断行状である。
(甲陽軍鑑)
655 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 09:01:05.12 ID:1KUDNADS
>>654 >また信長も邪神を起こして、
後の第六天魔王である
656 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 09:18:29.73 ID:bX2q3DZ5
いあ!いあ!はすたあ!
657 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 09:28:31.91 ID:qQYo5LbI
邪神を起こしたのでは征伐不可避
658 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 10:13:10.60 ID:nGuJho9e
>織田上総守殿へ
うわぁ、嫌み言いまくった最後に黒歴史かよ
659 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 10:19:57.30 ID:SECMKSle
>若手ながらも生国が都に近いためか、果報強く幸運に恵まれたためか
信長の野望やってるとマジでそう思うわ
660 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 11:02:23.88 ID:sMpw4w1L
>汚らしい欲心があり、裏切りの行為を重ねたことにより
おま言う過ぎるwww
661 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 18:01:09.18 ID:PecF9m1i
真田表裏比興「お館様のほうが信用できませんぞw」
662 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 22:05:05.94 ID:/rdaj8s/
>遂には飼い犬に己の肉を咬み裂かれ、命を失って
これ自分にも身に覚えがあったから出た言葉なんだろうな
信長と信玄は似たもの同士だったと
663 :
人間七七四年:2014/03/05(水) 22:54:33.65 ID:VJhEjrrD
実際の信長は大激怒してたけどね。
664 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 00:15:02.89 ID:Aqlq0mLu
マジギレして四方八方に断行状の写し送りつけてたな
665 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 00:25:26.40 ID:v/CCyRB7
元和元年(1615)8月5日、上洛を終え関東に戻る途中の大御所・徳川家康は、近江の水口でこのような話を聞いた
「今回、越後少将(松平忠輝)が上洛の時、森山草津あたりにおいて、幕府御家人である
長坂某、伊丹某と不慮に行き会い、理不尽にこれを殺した。」
家康はこれを聞くと、奇怪の事ゆえたちまち不快な表情になり、本多上野介(正純)を呼んで
その仔細を問うた所
「そのような風説はたしかにありますが、詳しいことは私は存じません。」
そこで家康は近江の代官である長野内蔵充、小野宗左衛門、観音寺を呼び出し、
「お前たちは事件のあった近辺にいる。必ずこれについて知っているはずだ。」
と聞くと、彼らは
「少将殿(忠輝)がこちらにお出でになるということを知らず、長坂某と伊丹某は行き会ってしまったのですが、
この時彼らの前駆の者達が、少将殿の御前を乗打するような形になってしまったのです。
そのため『狼藉、曲事である!』と言われ、彼らを殺しました。」
と証言したという。
(駿府記)
いわゆる、松平忠輝のご乱行についての記録である。
666 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 00:25:41.63 ID:Gx3j+e2k
出典が軍艦だしなー(棒
667 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 16:46:36.51 ID:t1ox7mRu
太閣立志伝5マニアックスより丸コピペですまないが宮本武蔵の話
風呂嫌いで一生女性に縁のなかったといわれる宮本武蔵だが、晩年結婚して娘をもうけたといわれる
ただし、その娘は幼くして死に、武蔵は1ヶ月ほどずっと抱きしめていたが、やがて庭に投げ捨てた
腐ったから投げ捨てたのか…?
668 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 21:13:21.28 ID:v/CCyRB7
慶長16年(1611)8月21日、奥州会津の周辺で大地震があり、会津若松城の石垣は尽く崩れ、
屏や櫓も尽く崩落したし、殿守も破壊し傾き、瓦なども全て落ち、人馬多く死んだ。
近辺の山は崩れ川の流れを留め、これによって知行二万石あまりの土地が湖水と化した。
他国ではこの地震の被害はなく、また柳津本堂が倒れ在家が多く殺された山崩れのあったことなどから、
これは会津の国主である飛騨守(蒲生秀行)が神仏を蔑ろにし我意に任せた政治を行って
いたために、天罰を受けたのだと、当地では言われているそうである。
(当代記)
慶長16年の会津地震についての、当代記の記事である
669 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 02:09:07.73 ID:FtHODBlz
670 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 22:31:56.93 ID:ivkUz/AM
南部領がさらに酷い被害を受けているのも天意でしょうか
671 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 22:51:28.66 ID:ZVfTRYtl
その当時(1594年頃)、山口を支配していた国主は、安芸の毛利殿(毛利元就)と称した。
彼は既に高齢で、かつてその策略、並びに老獪さによって、残虐なやり方で彼の国を奪い取ったのである。
毛利殿は一向宗の信徒であった。そのために、また自らの性格から、彼は生存中自分の領国において、
バテレンやイルマンがデウスの教えを説いたり、古くからその国にいるキリシタンたちの世話をすることを
断じて許さなかった。それどころか彼は切支丹を圧迫し、かつて教会のあった敷地を彼らから奪った。
そういう次第でキリシタンたちは教会を再建することも、公然と集まってデウスのことを話すことも出来なかった。
山口のキリシタンたちは都に住んでいたガスパル・ヴィレラ師にこれを報告した。
司祭は公方様(足利義輝)の所に出向き、山口のキリシタン達が被っているこの不法行為について恩恵と救済を
乞うた。公方様は、自分の臣下で山口の国主である毛利殿に書状をしたため、『領地の切支丹を保護し、かつて
貴地にぴて破壊された教会を再建してもらえれば嬉しく思う』と述べた。
一人の非常に身分の高い貴人がこの書状を携えて毛利殿の元へ行ったが、折から毛利殿は戦争に従事していた。
山口のキリシタンたちは、公方様からの書状が届いたことを知って非常に喜んだ。だがこの暴君(毛利殿)は
彼らを憎悪していたので、公方様のこの好意を秘してしまったのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
毛利元就、将軍からのキリシタン保護の依頼を無視する、というお話
672 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 23:14:51.94 ID:FtHODBlz
長生きし過ぎだろw
673 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 23:27:50.77 ID:fpvTsEUc
輝の存在感が。。。。。
674 :
人間七七四年:2014/03/07(金) 23:35:02.77 ID:ZVfTRYtl
>>671 すいません間違いです
1行目、×その当時(1594年頃) ◯その当時(1564年頃) 本当にすいません
675 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 01:01:10.22 ID:ip9lhqwI
まあ伴天連の教えは他教を迫害しろだったので元就からすれば論外だろうて
676 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 01:27:58.49 ID:YbpcoxZu
間違える奴って読み直さないのかな?
それとも無知だから生没年すら知らないだけなん?
677 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 04:43:18.93 ID:sS9IpH4q
最上義光と羽黒山の巫女
その昔、大宝寺氏が庄内を治めていた時代には羽黒山には神宣を司る巫女達の集団があり、それを纏める女別当もいた
祭礼ごとに湯立ての神事が行われ、神の啓示を巫女が民らに伝えていた
神宣とはシャーマニズムの一種
その年によって「豊作になる」「災害になる」といったお告げがあっても外れる事もあった
やがて庄内は最上義光の領国となる
最上義光(´・ω・`)「民らの祈りを扶助し後押しする事は奨励するけど、豊作だと喜ばせて凶作だったら目も当てられないし、天災を予兆して何事も起こらなければいたずらに民心を不安にさせるだけだよね?神宣に規制を設けるよ。言ってる事、わかるよね?」
それに追い撃ちを掛けて湯立て神事の火が元で山頂の御本社が焼失
結果的に羽黒山の巫女達は義光の時代から急速に数を減らし、衰退していく事になった
678 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 04:48:14.30 ID:sS9IpH4q
鮭様がほどほどに流していれば、現代の羽黒山で巫女さんらの集団を見れたかも知れないと思うと悪い話?
679 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 10:16:14.76 ID:WzG7qLYJ
>>678 待て待て!巫女さんと言っても10代〜梅干しまでいろいろだぞ。
680 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 10:17:14.99 ID:kNInOyCH
てか毛利氏って菩提寺は一向宗じゃなくて臨済宗だよね?
単なる事実誤認なのか、フロイスの中で乱暴なことをする奴は一向宗ってイメージがあったのか…
681 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 10:18:47.26 ID:ADVwuv51
682 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 11:22:03.23 ID:sS9IpH4q
>>679 年齢は不明だけど若い人が多かったらすい(人生50年)
683 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 11:32:30.94 ID:sS9IpH4q
巫女「リストラなんて嫌…的中率とかなんとか神宣のありがたみを最上の殿に納得させられれば、きっと!えーい!」
とある巫女のどじっ娘属性発動
本殿をいけにえに最上義光のプランが優先されました
684 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 11:34:46.95 ID:sS9IpH4q
女別当「ムチャしやがって…」
685 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 11:35:50.26 ID:exdl8bBF
安芸はもともと浄土真宗の強い地域で対尼子戦に協力してもらうために
元就が浄土真宗を優遇してたことがフロイスには信徒に見えたんだろう
686 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 11:36:11.26 ID:hhTjz8cY
>>680 元就は毎朝日の出に向かって念仏を唱える習慣を持ってたし、
安芸の国は本願寺を支援していた安芸門徒の巣窟。
この状況を考えれば、国主である毛利家は一向宗だと誤解しても
おかしくないのでは。
687 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 15:32:36.77 ID:vnHElv4O
三歳さんなら当たっても外れても37人目になるような気がする
688 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 16:07:41.67 ID:kNInOyCH
>>685 >>686 確かに一神教的な考え方だとある宗派を支援する=その宗派の信者って考えそうだし、
あんまり利害関係なさげなのに本願寺の包囲網突破したりもしてたし、そうした情報から誤解してたのかもね
参考になった。ありがとう!
689 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 16:23:09.85 ID:J2xulQ/p
>>654 比叡山焼いたり本願寺を攻撃したりしたらそりゃブチギレるは
690 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 16:45:08.91 ID://zq9liD
まとめの毛利秀包の逸話に無かったので投下。
立花宗茂で既出だったらゴメン
毛利秀包と立花宗茂は義兄弟の契りを交わすほど仲が良かった。
領地もご近所さんだし、九州攻めや朝鮮でも肩を並べ共に戦った。
そんな二人の関ヶ原のお話。
二人は大津城攻めに参加し、これを攻め落としたが、関ヶ原の敗報を受け大坂城に撤退した。
宗茂は大坂城での籠城を主張するが、大将の毛利輝元がウンと言わない。
そこで秀包に相談した。
宗茂「なぁ兄弟、こうなったら九州に帰って二人で大暴れしてやろうぜ。負けたってかまわない、俺たちが武門の意地を見せつけたら家康だって悪いようにはできねえよ。」
しかし秀包の答えは(宗茂にとっては)意外なものだった
秀包「ごめん、俺は毛利の人間だから・・・宗家には逆らえないよ。」
帰りの船で秀包は宗茂に鉄砲で撃たれた。
そして、その傷が原因で死んだ。
※出典がどうにも思い出せず記憶を頼りに書きました。
チラ裏ですいません。
691 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 17:06:12.54 ID:exdl8bBF
692 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 21:35:12.62 ID:z3q5CguX
>>689 信玄なんかだと無抵抗な寺すら平気で襲わせるけどな
693 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 22:32:37.71 ID:J2xulQ/p
これがアスペ織田厨か
694 :
人間七七四年:2014/03/08(土) 23:31:37.57 ID:3C+YaYsE
久留米市誌とかだと、宗茂は家康に和睦の使者を送りつつ
西国の諸将で連合軍を作って家康に対抗しようっていう和戦両面策
を考えてたけど、秀包に断られて先に帰ったって感じだったかな。
いずれにせよ、秀包が大坂をでたのは輝元が退去した9月24日以降だと思うけど、
宗茂は20日くらいに住吉屋から船を独自に調達して大坂から帰ってるから
帰りの船は別々だったようだね
695 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 01:13:29.32 ID:lk8X/oHd
>>690 宗茂さんに限ってそれない。
だって宗茂さんは弓矢派だから。
696 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 01:37:50.59 ID:Ev17vN9S
山形に残った氏家守棟の一族は
最上義光の死から八年後の元和八(1622)年、内紛により最上家は改易
累代最上家家宰・氏家家当主の氏家左近(光氏。また別人説で親貞とも)は家内騒動を抑え切れなかった責を問われ山形から追放となり、長門毛利家へのお預けとなった
去んぬる氏家家当主であった氏家守棟(1534〜1591)は既にこの世になかったが、守棟の一族は最上家の改易により義光時代に授かった旧領の寒河江や白岩で帰農。土地の名主や肝入となり、ムラを纏める者となった
最上家改易により白岩には酒井氏が入封
ただし重税と不作により、白岩では多くの餓死者を出した
白岩の氏家らの名主は山形に代表を出し談判に赴いたが、これらの者は山形で殺害された
「願いは無視され話し合いも出来ぬのなら、お上(江戸幕府)に訴えるまで!」と30人を越える名主や肝入・百姓代らが酒井氏の悪政と年貢の減免を求め江戸へ立ったが、その多くが追捕されロクに取り調べもされずに殺された
これらは「白岩の義民一揆」へと続く話
守棟の流れを組む軽部といった一家が仲間内によって残された
軽部家には底面に「大先祖」と記された氏家守棟の位牌が残る
697 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 01:42:00.77 ID:Ev17vN9S
酒井の圧政に潰され、保科正之の裁定に命を奪われた氏家守棟一族のなんとも哀しい話
698 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 01:57:55.06 ID:Ev17vN9S
白岩の義民一揆は酒井氏の圧政期間とその後の幕領期と幾度か飢饉が続き
名主らも「訴え出たのは山形へ」「山形では話にならぬとみた者があり、江戸を目指した者も少なくなかった」といった話もある様です
699 :
1/2:2014/03/09(日) 20:07:13.61 ID:yTRAgnE7
1568年のこと
この頃、天下の主君である三人のトノス(殿)(三好三人衆)が、交戦している松永久秀に対して、
大和国奈良において陣営を構えていた。ところが奈良の町では、その国の主な神である春日大明神に
奉納されている夥しい人に馴れた鹿が街路を彷徨する古来の風習が有る。そして、それらの鹿を殺したり
何らかの危害を加える事は、死罪を以って禁止されていた。ところがこのようなことが起こった。
かなり多くの兵士を有する三木判太夫という武士は、それらの鹿の一頭が道に迷っているのに出くわし、
それを射殺させ自分の兵士たちに馳走した。だかこのことは秘密にしておけず、早速天下の三人の執政の
耳に達した。彼らの内最悪人で、とりわけ最も残忍なキリシタンの敵であった一人(三好政康)は、それは
自分に加えられた侮辱であるとみなした。彼は三木判太夫が神に加えたこの侮辱に極端な憤激ぶりを示し、
「あのように大胆な行為は、判太夫が、自発的にやったのでは決して無い。堺に住んでいる伴天連たちが、
彼に鹿を殺して食べるように勧告したのに違いない。それゆえ私は堺意外の場所でなら、どこで伴天連に
出会おうとも即座に殺すことを誓っている!」
そして彼は激昂して、それを幾度と無く繰り返し語ったので、それ以後キリシタンたちは、司祭が内密にか、
または十分な護衛を付けて出ないと堺意外の地へ説教や告白のため出かけることに同意しなかった。何故なら
その暴君は自分の反対意見には全く耳を傾けようとしなかったためである。
700 :
2/2:2014/03/09(日) 20:07:55.98 ID:yTRAgnE7
次に、数日前、司祭は革島ジョアンという若い貴人に洗礼を授けた。彼は前記三人の執政たちの内、司祭と
キリシタンたちに好意を示した唯一の人である三好日向守(長逸)の甥であった。彼は当時18歳位の青年で、
父親から多額の封禄を相続することを目論んでいた。
ところで彼は、どこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。彼らが皆、
摂津国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、
西宮という非常に大きな神社に赴いた。そこは多くに人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている
霊場であった。他の若い異教徒たちは、キリシタンになったジョアンを愚弄して、
「貴殿はあのような邪悪な宗教を信じ、また日本の神々を愚弄する言葉を吐いたのだから、きっと近いうちに
神々の懲罰を受けるであろう。」
ジョアンはそれに答えて言った
「私が、死んだ人間や、石木にすぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。
ところで私がそれらをどれだけ恐れていないか、また悪魔の像を表徴しているに過ぎない彫像を拝むことが
どんなに笑止の沙汰であるかをお前たち皆が解るように、これから私がそれらをどのように敬うかを
見られるがいい!」
こう語ると彼は、非常に高く、全て塗金されている偶像に登りその頭上に立ち、そこで一同の前で
偶像に小便をかけ始めた。
これをあきれ果てた暴挙、また前代未聞の神聖冒涜と見なした他の連中は、この事件を彼の叔父である
日向殿に報告した。日向殿は極度に激昂したものの、自分の甥が、そのような行為を伴天連の同意なり
是認なしに行ったとは信じられなかった、他の二人の執政は、その若者を呼び出し、伴天連がお前に
そうするように命じたのか、それともキリシタンの間ではあのような習わしがあるのかと尋ねた。
なんの恐れも知らなかったその若者は
「伴天連様はあの事に全く関知されていない。伴天連様が自分に進めたのでもない。仲間共がひどく自分を
怒らせたので、自発的にやったまでのことだ。それが懲罰に値するというのなら、それを受ける覚悟がある。」
と答えた。
三人のうちで最もキリシタン宗門に敵意を持っていた下野殿(三好政康)は、先にキリシタンに鹿を殺された
事件でひどく感情を損ねており、今度の事件について
「あの若者が自分及び他の執政たちの親類のものでなかったら、疑いなく即刻磔刑にするところだ。命だけは
助けてやるが、あの若者は今後、親族から除外され、申すまでもなく相続請求できる封禄も没収されるものと
心得るが良い」と言い渡した。そこで若者は下の地方(九州)に赴こうと早速堺に向かって乗船した。
こうしてひとまず事件は落着したが、以後、かの殿たちは皆司祭や教会のことには全く耳を貸さなくなり、
彼らのもとで司祭の帰京問題に解決の道を見出すことはもはや不可能となった。
けれども1年と立たぬ内に、この下野殿は奇禍に合い哀れな死を遂げたし、二人目の岩成友通殿は
織田信長が殺させ、彼の城も奪われた。そして老人であった日向殿も同じく財産を失い、追放されて死んだ。
かくしてそれら三人は、皆それぞれに相応しい最後を遂げたのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
1568年の、キリシタンがらみの冒涜事件に関する記録である。
701 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 20:16:09.93 ID:q6Zwvdl7
三好清海入道「あれ、わしが大坂の陣で活躍したってのは」
702 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 21:31:00.01 ID:vYwalrHz
所詮フロイスw
703 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 22:15:58.27 ID:AWtOK8wl
704 :
人間七七四年:2014/03/09(日) 23:44:55.02 ID:Ev17vN9S
白岩の酒井、庄内の酒井となにかと因縁のある「酒井忠重」だしな…
元和8年(1622年) 出羽国村山郡白岩4000石領主となる(のちに8000石に加増される)。
寛永10年(1633年) 1000人余りの餓死者を出すなどの苛政をしいたため、白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える(白岩一揆)。
寛永15年(1638年) 江戸奉行所の判決により白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられる。
寛永19年(1642年) 忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚。
承応元年(1652年) 忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かったため幕府に提訴し、庄内藩主・酒井忠当より金2万両を贈られて義絶される。
寛文5年(1665年) 息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり、改易される。
寛文6年(1666年)9月24日、夜中、何者かに襲われて死亡する。享年71。
705 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 11:12:48.51 ID:c8Oqgbsm
キリシタン「踏絵?全然問題ないぜ!」
706 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 14:38:32.61 ID:afL4KWIZ
イスラム教徒ならなw
707 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 15:28:56.21 ID:WQkcJ18+
プロテスタントは躊躇なく踏んだとか聞いた
ガリバーは踏まなかったが
708 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 15:43:02.73 ID:lG0+4x8m
>>704 坂崎直盛、加藤明成、松倉勝家そして酒井忠重
こいつらに一度狙われたら最後
地獄の果てまで粘着されて人生メチャクチャに。
これぞ戦国四大サイコパス。
709 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 18:40:27.84 ID:GoKNGOE0
酒井忠重、白岩一揆以前に苛政で既に「民らから毟れるだけ毟り取り」、直訴一揆前には表沙汰にならない部分でもかなり殺してそうなのが…
710 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 18:48:38.34 ID:GoKNGOE0
寛永10(1633)年、500戸ほどの出羽国村山郷白岩で領主酒井氏の圧制により1000人を越える餓死者が出た
1638年にも再度大規模な一揆が起こり、馬見ヶ崎川下流高瀬の河原で首謀者と見做された百姓の代表ら36人が磔(はりつけ)にされた
関連
保科正之と白岩一揆 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
711 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 19:10:06.09 ID:H1lAGR9o
>>708 坂崎直盛はちょっと違うくね?
千姫や宇喜多左門の件も正当性そのものは直盛にあるし、頑固で融通効かないタイプとは思うけど、
配流されてきた小野寺義道に対しては同情を示したりしてるし。
712 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 19:52:31.35 ID:c8Oqgbsm
サイコパス四天王もいるのか。戦国は怖いなw
713 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 19:55:18.95 ID:ZCQgXqnN
平時になるとおかしい奴が目立つね、悪い意味でな
戦時ならもしかしたら勇猛果敢な御仁で済むのかもしれない
714 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 20:52:00.05 ID:g+3mEC+A
茶道と儒教の強制導入が必要な訳が分かる
715 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 21:34:25.01 ID:OHVdzOoN
で幕末になると今度は武力が前面に出てくる
716 :
人間七七四年:2014/03/10(月) 23:09:48.16 ID:+0OkMd+a
>>715 いや幕末は行き過ぎた儒教の弊害だから
天皇さえいれば幕府はいらない
717 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 01:11:31.24 ID:eXBNSm36
>>716 行動原理は儒教からくる尊皇思想なんだろうけど、天皇の有り難みを分からない奴は
ぶった斬って解決しようぜ!という戦国時代的な脳筋思考も入ってきてるように思う。
718 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 08:19:29.74 ID:sC7FpPcR
サイコパス四天王
坂崎直盛、加藤明成、松倉勝家、酒井忠重、前田茂勝
719 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 10:04:22.97 ID:pYDVyDbW
森長可は入らないの?
720 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 10:40:38.29 ID:1WiNGMWd
森長可はちょっと(?)過激なだけの普通の人だろ
少なくともその中には入らない
721 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 11:27:45.13 ID:VMcXdHz3
DQN四天王
森長可 伊達政宗 細川忠興 島津忠恒
722 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 11:33:27.91 ID:nrpkk5uY
>>716 その明治天皇もさらに儒教色強くなってないか?
教育勅語って儒教じゃん
723 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 13:21:48.92 ID:lqs4mMAh
というかぶっちゃけると幕末維新に儒教はあんまり関係ない。いわゆる儒者は、幕府でも諸般でも、おおむね
実務的で現実的な主張をしていた。吉田松陰ですら、即刻の攘夷は現実的じゃないから西欧から先ず学んで国家を強化しよう、
って主張してるでしょ?
>>722も言っているように、儒教的な倫理が強化されたのは明治以後だね。
724 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 19:34:43.47 ID:eXBNSm36
>>723 いや、幕末の動きって根底には尊皇賤覇思想があるでしょ
そうした儒教的倫理の取り入れられる前なら、例えば紫衣事件のように幕府が正義になっていたわけだし
幕府が開国と言ったけど朝廷は攘夷と言っている中で朝廷を正義としたことがそもそも儒教的倫理と思う
725 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 21:50:55.72 ID:NgwXv41e
>>723 それが大いに関係あってね
水戸光圀が儒教を極めちゃって尊皇思想に目覚めちゃったのよ
それからというもの水戸藩は不穏分子として親藩内で嫌われ者に
幕末期には大老暗殺までする過激派に育っちゃって大暴れ
これが長州にまで飛び火しちゃって結局幕府滅亡という憂き目に
726 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 22:02:55.13 ID:en9+ZU91
そろそろスレ違いだと気づこうぜ
727 :
人間七七四年:2014/03/11(火) 22:07:58.26 ID:zqG5W08t
まあええやんか
728 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 00:05:54.09 ID:zwcXgUzi
彼(織田信長)の父(信秀)が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに
願い、父が病気から回復するかどうか尋ねた。彼らが回復するであろうと保証した。しかるに父は数日後に
世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を閉め
「貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てた。今や自らの生命に付き更に念を入れて偶像に祈るが良い」
と言って、彼らを外から包囲したあと、彼らのうち数人を射殺させた。
彼は好戦的で傲慢不遜であったので、兄が父の相続において自分に優先することが耐えられなかった。
そこで目的を果たすため病気を装って数日床につき、兄が見舞いに来ないと母に訴えた。
兄は信長の欺瞞を恐れてそうしなかったのであるが、信長からの激しい催促により終に訪問した。
そのさい、彼は脈を診てもらうために左手を差し出し、兄がそれを取った時、彼は大いなる迅速さで
既に用意してあった短刀を掴み、その場で直ちに兄を殺した。
(これは信長による弟信勝の暗殺についての事であろう)
彼は織田家を掌握した後、同国の3分の1を所有する他の一人の殿に対して戦を行い、容易に彼を追放して
尾張国の絶対君主となった。(斯波義銀追放のことか)
だが彼は隣国をも支配しようと欲していたので、突如、尾張に接する美濃国に対する攻撃を遅滞なく準備した。
彼が陣営を整えると、美濃国主(斎藤龍興)も同様に成した。そこで彼は戦略を用いた。
彼は夜間、家臣の内ほぼ半ばを退かせ、大いなる夜陰に乗じて、敵を7,8里側面から迂回し、彼らを
密かに美濃国主の背後に配置し、その際、敵方の家来の印のついた旗を持たせておいた。
美濃国主は眼前の信長の陣営を密かに偵察させ、自分の軍勢がはるかに優勢であることを聞いて攻撃した。
しかるに彼が攻撃を開始した時、信長も美濃国主の軍勢の背後に移動していた。
敵のこの動きから彼の背後に生じうる事態について、美濃国主はいささかも懸念しておらず、むしろ彼は
後ろの軍勢を見て、味方の旗を認め非常に喜び、目前の敵を攻撃することにのみいっそう夢中になった。
ところが両軍が刃を交え始めた頃、後ろから突如信長が現れ美濃国主を挟撃し、その多数の部下を殺し
軍勢に打撃を与えた後、直ちに美濃の主城(稲葉山城)へ突進し、かくて全ては難なく信長に帰伏した。
こうして彼は美濃国を獲得したのである。
ところが美濃国主は非常に苦労して騎馬で従った数名の僅かな貴人とともに脱出し、都に逃れ、
同所も安全でないと見ると、日本人すべての追放者にとって避難所である堺に赴いた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスの日本史に見える、信長の尾張掌握と美濃攻めについての話である。
729 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 00:49:01.65 ID:hQDTSnkr
親父生き返らせられなかった僧を殺した話は日本史が出展だったんだ?
信長の残忍さと神仏に対するニヒルな考え方を強調させる江戸期辺りの造作かと思ってたよ
730 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 00:50:33.10 ID:hTWr+4y/
信憑性はともかく具体的な美濃攻め近時代史料あったのか。フロイスとは盲点だった
731 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 02:04:28.94 ID:4NuqqxYq
信長公記と中島家文書ぐらいかなあ、美濃攻めで使い物になるのは
732 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 03:42:43.39 ID:+plAK+O6
733 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 08:06:38.24 ID:G+ra/FOi
火矢でしょ、たかが僧侶に鉄砲使うと思う?
ゴキブリ殺すのに火炎放射器つかうようなもん
734 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 10:40:42.78 ID:n9DkdTvR
ひゃー
735 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 13:17:20.40 ID:9wEctfnR
【審議中】
|∧∧| (( ) ) (( ) ) ((⌒ )
__(;゚Д゚)___ (( ) ) (( ⌒ ) (( ) )
| ⊂l l⊃| ノ火.,、 ノ人., 、 ノ人.,、
 ̄ ̄|.|. .|| ̄ ̄ γノ)::) γノ)::) γノ)::)
|.|=.=.|| ゝ人ノ ゝ火ノ ゝ人ノ
|∪∪| ||∧,,∧ ||∧,,∧ || ボォオ
| | ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
| | ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
~~~~~~~~ | U ( ´・) (・` ). .と ノ
u-u ( ) ( ノ u-u
`u-u'. `u-u'
736 :
人間七七四年:2014/03/13(木) 09:00:44.06 ID:F7HlC8Qi
737 :
人間七七四年:2014/03/13(木) 19:40:20.15 ID:hD5GWrpH
信長とその息子たちの、キリシタンへの好意の与えた影響は小さくなかった。何故なら経験が示してきたように、
それにより異教徒たちの思考の中に我らの聖なる掟に対する信用が増し、その結果として大いに教えが広まり、
受け入れられるようになり、もし肉欲が物事の判断を狂わせなければ、すでに多くの武将が入信したことであろう。
だが、彼ら(日本人)にとって第六戒(汝、姦淫する事なかれ)を守るのは極めて困難であり、彼らの多くは、
もし伴天連達がこの掟に関して少しく寛大であれば、直ちにキリシタンになるであろうと公言していた。
その人たちの中には、信長の長男で後継者の殿様(織田信忠)もいた。
織田信忠はこの問題に特に関心を寄せ、3,4度我らの修道士と話し合っており、もし伴天連達が
この掟に対して便宜を計り、それほどまで厳密に考えることをやめるならば、キリシタンの数は間違いなく
倍加するであろうから、伴天連たちはそうするように、と、修道士を説得しようとした。
この禁によって人々に恐怖心を抱かせ、大いなる収穫を失うよりも、この掟を免除し、多くのキリシタンを
作る方がデウスへの奉仕になるであろうというのが、この若殿がこのように語った、岐阜の政庁において
もっぱら取り沙汰されている人々の見解であった。
そしてこの掟が、まるで人間によって作られ、デウスが命じ給うたものではないかのように、
彼は、その掟が緩和された暁には、彼自身率先してキリシタンになるであろうと言っていた。
だが一同に与えられる答えは、常にだれにでも容易に納得できる言葉で示された。すなわち、司祭の説く掟は
デウスによって啓示された真理であって、人間が案出したものではない。もしそれらが仏僧らの教えのように
人間が作り出したものであり、彼らがなすように我らも不正で不敬な方法で自分たちの利益を収めることだけを
望んでいるのなら、この掟に関しても人間が望むように語るであろう。だがそれはデウスの掟であり、その
不可謬の決定であるが故に、我らはそうした判断を生む人間の意志や淫蕩的欲望に順応することは出来ぬのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
織田信忠が宣教師にに対し、「姦淫禁止は何とかならないか?」と聞いたらしい記録である。
738 :
人間七七四年:2014/03/13(木) 21:09:15.30 ID:KNQjcw/3
日本は宗教の戒律を自分たちの都合のいいように捻じ曲げて受け入れるんだよなあ
739 :
人間七七四年:2014/03/13(木) 21:14:39.91 ID:fl/qCXGo
なんか秀吉の逸話で似たようなのがあったが、この改変か?
740 :
人間七七四年:2014/03/13(木) 21:35:35.88 ID:7jSOMkF8
>>738 禅僧は寒い冬の日に仏像を燃やして暖をとり、念仏は戒律を守れない者も救う
日本仏教のこれはこれで良いと思う
最近日本でも流行りの南伝上座部が、
昔の日本と支那に普及しなかったのは気候の違いが大きかったんだと思うわ
741 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 00:30:38.98 ID:9vGE6A7s
>>738 日本に限らずどこでもそうだと思うがの
それに宗教そのものも確立されたときから不変というわけでもないし
742 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 01:42:30.77 ID:7GvGc+ge
>>737 この時代から約百年後の宣教師ブーヴェの著書『康煕帝伝』でも、「陛下まじ名君wwwwwwでも姦淫ヤ リすぎwwwwww」てな感じで書かれてたな
ただまぁ信仰篤い宣教師には、アジアのつーか非キリスト教圏の一夫多妻制がもはや個人の性欲の問題ではなく、社会保障にまで関わる制度だとは想像の埒外だろうけど
743 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 02:04:32.40 ID:OTPnSk+L
>>742 社会保障か。たしかにね
ヨーロッパだと、王が男子を残して死んだら、
「その子は庶子だから相続できません!」
で、おじやいとこが王位を継承する、なんてことがわりと普通にあったり
ひどいのになると、正当な王妃との間に生まれた嫡子がいたのに、
例の悪名高き「婚姻の無効」発動で、
「お前のカァチャン、遡ってもともと王妃じゃなかったことになるんで、
お前今日から庶子な!」とか
744 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 03:12:53.38 ID:9vGE6A7s
ああ、草原なんかだと親兄弟の嫁を囲って養うのは当主としての義務らしいしね
745 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 03:35:13.17 ID:s9UOx24A
旧約聖書のオナンの話も兄嫁に種を提供して死んだ兄の家名を残させるべきなのにそれを嫌がったのが一族繁栄のための義務に反するというのが本質
後世だと子供を作らない快楽のみの性交がいかんという風に解されがちだが
746 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 07:29:35.56 ID:neAFLMUb
もこみちの鎧姿が似合う。忠勝か宗茂で主役やってくんないかな。
747 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 08:11:44.11 ID:YrhG6nAC
料理シーンのある武将でお願いします
748 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 08:31:30.12 ID:Of3Hilaw
宇喜多直家の、簡単おもてなしクッキング!
749 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 10:32:49.94 ID:rgkagBle
材料は適当な食材と毒少々!カンタン!
750 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 11:43:32.15 ID:V38m6M7c
料理と言えば政宗だろう
751 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 12:15:37.67 ID:KiR0CtCL
752 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 12:23:30.29 ID:LCy28+d5
>>748 宇喜多直家の怖さは忘れた頃に来る怖さ。
過去スレで備前茶を振る舞われた皆様
そろそろ効いてきたんじゃなーい?
753 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 14:26:31.70 ID:9D/eaQgf
>>738 どこの宗教もそんなもん
つか、国ごと時代ごとの大衆意識にある程度迎合できない宗教は大体衰退して消える
インド仏教の中でも密教なんかは、当時のインドの大衆に合わせてヒンズー教の諸々(マントラとか)取り入れた結果だし、
ヒンズー由来の神々が仏教に取り入れられてるのも大体そのせい
そのヒンズーにしてもキリスト教にしても、土着宗教や習俗を巧みに変化させ取り込みながら発展してきた
754 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 14:41:22.49 ID:vs9ZF4dj
人妻専門が晩年突如ロリコンに目覚めたのは平和になって社会保障の必要性が薄れたからか
755 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 15:44:18.46 ID:KiR0CtCL
誰のことですか?
756 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 15:52:15.58 ID:1LAOtHzd
性的嗜好の流れとしては割と一般的らしいぞ
自分に無いもの、遠いものに憧れるというか
757 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 16:39:57.35 ID:UbrERJgb
日本の仏教だっていきなりそうなったわけではなく
衆生の求めに応じて何度も何度も改められ続けた結果が今なわけだからなあ
できなかった宗派は今どうなっている?って話
758 :
人間七七四年:2014/03/14(金) 16:53:06.81 ID:befumoTv
曹洞宗なんて宗祖の道元が只管打坐とか言ってひたすら座禅しか
しない教義だから、どんどん衰えていったけど、瑩山禅師が他宗派のテイスト
取り入れてなんとか没落を免れた。
曹洞宗の大本山が永平寺と総持寺の2つあるのはその関係。
759 :
人間七七四年:2014/03/16(日) 16:23:36.01 ID:AYoVtaaV
織田信長が、安土から8日ないし9日の道程にある甲斐の国に、息子(信忠)を先に派遣し自身は次いで
6万の兵を率いて出発するに先立ち、万人に無限の寛容さと慈悲を示し給うデウスの常として、同所では
若干の驚くべき兆候と恐るべき不思議なことが生じた。これはそれらの兆候による恐怖から、この
哀れな人物(信長)がなお己に立ち返り、何らかの仕方でデウスが天地の絶対主として認めることが
出来るようにするためであったが、彼が陥っている闇はあまりにも根深く、これほどの光にも
彼にに幾分なりとも悟りの目を開かせるには足りなかったのである。
この1582年(天正10年)の3月8日の夜10時に、当方から空が非常に明るくなり、信長の最高の塔の上方では
恐ろしいばかりに赤く染まり、朝方までそれが続いた。この明るさも赤さも、甚だ低い場所で起こったように
見えたので、同所から20里離れたところでは見えなかったであろう。が、後になって豊後国でも同様の徴候が
見られたことが判明した。
我々は、信長がこの恐るべき兆候を何ら意に介さずに出陣するのに接して驚愕したが、彼の地でその軍勢は
順調な成果を上げた。すなわち、彼は甲斐の国の領主(武田勝頼)親子を討伐し、その3ないし4の、すこぶる
大いなる領地を奪取した。信長が滅ぼした相手は、彼が最も煩わされ、常に恐れていた敵の一人であったので、
彼はこの勝利のため一層増長し、恐るべき傲慢さにとりつかれた。
5月14日、月曜日の夜9時に一つの彗星が空に現れたが、はなはだ長い尾を引き数日にわたって運行したので、
人々に深刻な恐怖心を惹起せしめた。その数日後に、我らの修道院の7,8名のものは、彗星とも花火とも
見えるような物体が、空から安土に落下するのを見、この新たな出来事に驚愕した。
ところでこれらの兆候を、熟慮するものであれば、それらが驚嘆すべきもので、別の出来事の前兆として
恐れずにはいられないはずであったが、日本人の間ではこうした吉凶占いはあまり行われておらず、それらが
本来何を意味するか、気づきも考えもしないようであった。
信長はいとも容易にかの領地を支配下に置いて帰還すると、彼は安土の新しい都市を拡張し、壮大ならしめる
事以外余念がなかった。日々、多数の新しい邸宅と街路を建設させたが、最も立派で大いなる邸を建てたものほど
多くの手柄を立てたということになった。羽柴筑前守殿(秀吉)が建て始めた邸宅の如きは、礎石の費用だけで
8千クルザードが集められたということである。
過ぐる戦い(甲斐攻め)があまりにも順調に行われたのを見て、信長はかねて数年にわたって交戦中の毛利との
戦争にも早く決着をつけ、その領土を征服しようと望み、身分も低く血統も卑しいが、悪賢く戦争に熟達した
羽柴筑前なる人物を彼の地に派遣していた。彼は既に毛利の数か国を占拠していたが、窮地に立たされたと見た
毛利は最後の一兵まで繰り出して全力を尽くして交戦する気構えであった。そのため毛利は領民たちを招集した。
しかし羽柴は2万あまりの兵力しか有していなかったため、信長に書を送って援助を乞い、とりわけ信長自身が
出陣すること無く、別に2万ないし3万の兵が有れば、毛利両13ヶ国の全てを占領し毛利の首級を献じ得よう、
と述べた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスの日本史にある、本能寺の変の前兆についての事である。
760 :
人間七七四年:2014/03/16(日) 20:10:49.26 ID:W78T0TrR
え?これってあれ? この板で有名な人が言い張ってる浅間山の噴火?
761 :
人間七七四年:2014/03/16(日) 23:43:13.92 ID:mpZBoou5
1582J1という彗星か
ハレー彗星より明るいとなるともう消滅しちゃってるかな
762 :
人間七七四年:2014/03/17(月) 00:13:25.04 ID:J/PlXBHF
>>760 九州で観測できたってことはとてつもない規模に思えるんだけど、気象庁のサイトには火砕物降下としか書いてないね
763 :
人間七七四年:2014/03/17(月) 00:14:26.93 ID:ryYjQyRK
彗星をものともしなかった久秀さんが凄いってのが分かる
764 :
人間七七四年:2014/03/17(月) 00:32:51.25 ID:yau0Vf7G
>>762 九州でも火山が噴火したってことじゃないの?
765 :
人間七七四年:2014/03/17(月) 04:12:00.96 ID:Fs4/G5Kg
3月8日のは低緯度オーロラだそうな
766 :
人間七七四年:2014/03/17(月) 21:56:00.65 ID:aXhP+HHT
千姫とふたつの縁切寺
神奈川県にある東慶寺には豊臣秀頼と千姫を離縁させる際秀頼の娘・天秀尼が入寺したと言われており
もう一方の徳川(新田氏)に所縁の深い群馬の満徳寺は千姫自身が実際に入寺し、御仏に仕えたのち
無事に離縁が成ったと幕府公式では伝えられています
が、実際のところは満徳寺の方も千姫の身代わりが立てられ俊澄上人という方が入寺したようです
千姫の再婚が成ったのち、東慶寺は伽藍の再建、満徳寺は三代続けて大奥から住職が専任されるなど
彼女が二つの寺を手厚く保護していた事が窺い知れます
しかし、千姫が再婚後もあまり幸せとは云えない人生を歩んだところを見ると
神仏に頼るなら代理など立てずに足かけ三年しっかりと自ら仏門に入り禊を済ませてから再出発した方が
よかったのではと思わずにはいられません
何はともあれ徳川家康が可愛い孫娘を豊臣秀頼から離縁させるために普通の尼寺から縁切寺に
仕立て上げられた二つの寺は、江戸時代を通してその役割を果たし続けました
767 :
人間七七四年:2014/03/17(月) 21:58:04.90 ID:aXhP+HHT
余談ですが徳川(得川)義季開祖と伝わる満徳寺には檀家が無く、徳川家歴代将軍の位牌所という事で
徳川郷450石中100石が与えられ、歴代将軍の庇護のもとに手厚く置かれましたが徳川の世の終焉と
共に廃寺となりました
世良田東照宮といい徳川家の新田の系譜に対する執着・・・もとい所縁の深さを感じるばかりです
768 :
人間七七四年:2014/03/18(火) 00:33:22.16 ID:9DuFYx0x
大河に高山右近が出てきたので、彼の宗教政策がどんなものであったかを、ルイス・フロイスの日本史から一つ
信長の在世中のこと
高山右近殿の所領である、高槻領の仏僧たちは、我らの教えを聞こうとも、それを望みもせず、ましてや
キリシタンに成ろうと決心することはなかった。
高山右近殿は、彼らの所にあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、
「もし全くその気持ちがなければ、予は貴僧らを領内に留めおく訳には行かぬ」
と伝えた。そこで終に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンと成り、領内にあった
神と仏の寺社は尽く焼却され、そのうち利用できるものは教会に変えられた。
それらの中では摂津国で高名な、忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は現在では、
同地方で最も立派な教会の一つとなっている。
そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわち彼の地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部に
これら大量の悪魔の像を隠匿していたが、それらはまもなく破壊され火中に投ぜられた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
769 :
人間七七四年:2014/03/18(火) 20:17:25.11 ID:NH+WarT0
やっぱり右近も寺社焼き討ち仏像破壊してたのか
770 :
人間七七四年:2014/03/19(水) 22:03:40.78 ID:MjsVb1FH
信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿(光秀)と称する人物があった。
彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人、兵部大輔と称する人に
奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さによって信長の寵愛を受けることと成り、
主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
宮廷にあっては彼は余所者であり、外様の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、
自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、
刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、
忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築上のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
選り抜かれた戦いに熟練した戦士を使いこなしていた。
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、信長を喜ばせることは
万事につけて調べあげているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、些かもこれに逆らうことがないよう
心がけ、彼の働きぶりに同乗する信長の前や、信長が、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、
自らはそうでないと装おう必要がある場合などには、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くための72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、
終には、このような術策と表面だけの取り繕いにより、あまり謀略という手段に精通していない信長を
完全の瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二ヶ国の国主に取り立て、信長が既に破壊した
比叡山の大学(延暦寺)の全収入−それは別の国の半分以上の収入に相当した−とともに彼に与えるに至った。
そして明智は都から4里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里も有るかの大湖(琵琶湖)の畔に有る
坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に
建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。
(ルイス・フロイス『日本史』)
部分的には出ていたけどまとまったものはまだなかったと思ったので、フロイスによる、明智光秀の解説である。
771 :
人間七七四年:2014/03/19(水) 22:17:52.20 ID:/qOGHHEK
それでもみっちゃんは美濃の小大名の出身だと信じたい
落城して落ち延びた経験があるから立派な城を建てたのだと信じたい
772 :
人間七七四年:2014/03/19(水) 22:45:33.30 ID:+AIBMpAq
これって、最後の件を長浜やらに変えればラスボスのことだと信じちゃうレベルでしょ
773 :
人間七七四年:2014/03/19(水) 22:47:51.87 ID:tojDC13/
あまり良くかかれてないね。有能だったけど...ってな感じなんだろうな。
774 :
人間七七四年:2014/03/19(水) 23:03:37.12 ID:BUpkW/DC
坂本城
桔梗紋
坂本竜馬は明智光秀の子孫説とかあるけど
信じてる奴いるのかね
775 :
人間七七四年:2014/03/19(水) 23:36:58.85 ID:uWOxnezA
天海=明智光秀説を信じてる人ぐらいはいるんじゃね?
776 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 08:44:17.63 ID:vOHrTddh
>>773 キリシタン以外には悪辣なのが宣教師の良いところ
777 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 20:23:58.40 ID:tu9e3L5D
>>772 では秀吉の方
『所で(キリシタン迫害という)事態をより明確に理解するためには、先ず関白(豊臣秀吉)の素性および
正確を知っておくと少なからず役立つであろう。彼は今度の、日本での未曾有の、かつ思いもよらぬ
大迫害を惹起した悪魔の直接の手先となった人物である。
彼は美濃国の出身で、貧しい百姓の倅として生まれた。若いころには山で薪を刈り、それを売って生計を
立てていた。彼は今なお、その当時の事を秘密にしておくことができないで、極貧の際にはムシロ以外に
身を覆うものとてなかったと述懐しているほどである。だが勇敢で策略に長けていた。
ついでそうした賤しい仕事を止めて、戦士として奉公し始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、
戦争の際に挙用されるに至った。信長は美濃を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め
その封禄を増し、一方で彼の政庁における評判も高まった。しかし彼は、元来下賤の生まれだったので、
主だった武将たちと騎行する際には馬から降り、他の貴族たちは馬上に留まるのを常とした。
彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のように
髭が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、また抜け目なき策略家であった。
彼は自らの権力、領地、財産が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にならぬほどの多くの悪癖と
意地悪さを加えていった。彼は家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、
彼に対して憎悪の念を抱かぬものは居ないほどであった。
彼はいかなる助言も道理も受け付けようとせず、万事を自らの考えで決定し、誰一人、彼の意にあえて
逆らうようなことを一言でも述べる者は居なかった。彼はこの上もなく恩知らずであり、自分に対する
人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、彼のための最大の功績者であっても、追放したり、不名誉に扱い、
恥辱を以って報いるのが常であった。
彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼をして残酷で嫉妬深く、不誠実な人物に、
また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴を縦にし万人を驚愕せしめた。
彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け人を欺くことに長じているのを自慢としていた。
また年齢が50を過ぎていながら、肉欲と不品行において極めて放縦に振るまい、野望と肉欲が彼から
正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の浴場は、彼においてはとどまる所を知らず、その全身を
支配していた。彼は政庁内に大身の若い娘たちを300名も留めているのみならず、訪れていく様々の城に、
また別の多数の娘たちを置いていた。
彼がそうした全ての諸国を訪れる際に、主な目的としたのは見目麗しい乙女を探しだすことであった。
彼の権力は絶大であったから、その意に逆らうものは居らず、彼は国主や君公、帰属、平民の娘たちを、
何ら恥じ入ることも恐れもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。
彼は尊大な性格であったから、自分のこれらの悪癖が度を過ぎることについても全く盲目であった。
かれは自分の行為がいかに賤しくて不正で卑劣であるかに全く気が付かぬばかりか、これを自慢し誇りとし、
その残任極まる悪癖を満悦させるため、命令するままに振る舞って自ら楽しんでいた。』
(ルイス・フロイス『日本史』)
778 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 20:35:20.11 ID:B2IDO6dy
>>774 最近、妙見信仰でググッてたらその坂本竜馬が明智光秀の血筋でどうたらのサイト見つけた。
そういう本も出てるらしいけど、根拠は妙見信仰は北辰信仰で坂本竜馬の流派が北辰一刀流だからなんだって感じ。
坂本竜馬が明智家の流れでも全然不思議でないしありえるけど、
明治維新が妙見信仰が暗躍してどうたらは完全に根拠ない陰謀論にしか思えなかった。
妙見信仰と八幡信仰はごく典型的な武家に多い信仰だしなあ。
国宝の吉岡一文字の裏銘に徳川家光公が、『南無八幡大菩薩 南無妙見大菩薩』と両立して印すわけだから、
大がかりな組織性のある信仰ではないはず
779 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 21:34:05.29 ID:PjNq3eGX
幕末は知らんが妙見信仰といったら千葉一族の専売特許なイメージ
780 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 23:37:27.24 ID:dvCqEWKO
781 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 23:44:23.93 ID:dvCqEWKO
いや、「極悪の浴場」だったが、まあどうでもいいw
782 :
人間七七四年:2014/03/20(木) 23:48:20.17 ID:TqnQDI4N
さすが風呂椅子さんやで
783 :
人間七七四年:2014/03/21(金) 00:02:05.44 ID:vn2csnUK
島原あたりで運営されてそう
784 :
人間七七四年:2014/03/21(金) 10:51:04.07 ID:6Bny1OIe
いつもながらフロイスの秀吉評はぶれがなくて最高だなw
785 :
人間七七四年:2014/03/21(金) 19:32:52.65 ID:w9hwEiiW
フロイトdisりシリーズ、石田三成編
『
1586年(天正14年)のこと
関白殿(豊臣秀吉)は堺の代官に二人の人物を任命した。その一人は(小西)ジョウチン隆佐であり、
今の海軍総司令官であるアゴスチイノ弥九郎殿(小西行長)の父に当たる。
このジョウチンは最良の人物で、都の最初のキリシタンの一人であり、教会並びにキリシタンたちの
古い友人である。
堺の代官となった彼の同僚は、佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしない
ジョウチンの大敵であり、キリシタンの敵でもあった。
彼は嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他の事柄においても悪徳に満ちた人物である。
この両名ともに、堺の代官に就任した。』
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスは石田三成も大嫌いだったらしい。
786 :
人間七七四年:2014/03/21(金) 22:09:08.63 ID:AXFVzZxh
上役への報告ってこんな適当で良いのか?
事実誤認が1つ2つじゃないけど…
787 :
人間七七四年:2014/03/21(金) 22:28:49.94 ID:zFAj3K5p
後に二十六聖人事件で三成が秀吉の意向に反してまで
処刑されるキリシタンの数減らそうとした件について
フロイスさんの見解が知りたいw
788 :
人間七七四年:2014/03/21(金) 22:31:05.60 ID:zFAj3K5p
あとフロイスさんって、清正とか市松とかセンゴクとか
ラスボスの子飼いでキリシタンじゃなかった奴は軒並みディスってるよなw
789 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 00:10:02.54 ID:bBy/l9xL
>>786 その上司はさらに上司に向かって
こいつは誇張癖があり考え方も偏ってるとちゃんと報告してますw
790 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 13:41:30.74 ID:EFmaNP9T
千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に胤直兄弟に腹を切らせて足利成氏に奉公した人で、足利成氏から千葉の名跡をたまわった人である。
その後、上杉から、胤直の名跡として実胤を千葉介に任じて下総に遣わしたが、足利成氏は千葉孝胤を贔屓にしてこれを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入れず、武州石浜葛西のあたりを知行した。
やがて、実胤は世をはかなみ遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡を継がせ、千葉介に任じた。
これを武蔵千葉氏という。
その後、千葉孝胤は長尾景春に味方してあちこちで合戦し、足利成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げた。
千葉孝胤は、上杉の御敵の一人であった。
そこで、千葉自胤を取り立てて南総州の侍を千葉自胤に付け、千葉の名跡を相続させようと、足利成氏の内意を得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取り、仮の城を構えた。
文明十年十二月十日(1478年1月2日)、千葉孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。
太田道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。
一日中戦った末、千葉孝胤は敗れ、木内、原をはじめことごとく討死した。
その残党は臼井城に立て籠もった。
文明十一年(1479)正月十八日、軍勢は臼井城を攻めた。
太田道灌は帰陣して、太田図書助資忠(道灌の弟or甥)と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は小勢だったため、攻め落とすことができなかった。
管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。
臼井城は総構えの要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。
そこで軍を割き、上総国長南の城主である武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して千葉自胤に帰順した。丸ヶ谷の上総介も、同じく千葉自胤に降参した。
また、下総国飯沼も落ち、海上備中守師胤も、千葉自胤に降参した。
千葉自胤は千葉へ入らなかったが、両総州の大半が千葉自胤に帰順し、長陣となったためひとまず帰陣しようと七月十五日に陣払いをすると、その様子を見た城方が城から討って出た。太田図書助資忠も取って返して戦い、敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。
しかし、太田図書助資忠をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下五十三人が討死した。
千葉孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、千葉自胤は陣払いして武州石浜に戻った。
しかし、臼井城は千葉自胤の領するところとなり、臼井城には城代が置かれた。
(鎌倉大草紙)
臼井城の合戦というと上杉謙信がボロ負けした事で有名ですが、そのさらに前にも、太田道灌の軍勢が攻めあぐねた挙げ句、大将の一人を失ってしまった戦いの様子です。
臼井城跡には現在もなお太田資忠の墓が残っています。
ちなみにこの時臼井城主臼井教胤と千葉孝胤が逃亡しており、臼井城は千葉孝胤の支援により臼井教胤が奪還したようです。
791 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 15:31:11.27 ID:1KpOvJNW
やっぱ鎌倉大草紙はいいわあ
この教科書っぽい叙述が特に
792 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 16:22:40.14 ID:CtuidhWK
フロイスの後だから余計にそう思うのだろう
793 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 18:30:22.57 ID:H13RErIt
>>786 >>787 同じくフロイスが書いた「26聖人殉教記」では、三成の対応を見て
「日本史」でのボロカスな評価を改めたような記憶があるんだが
ちょっと自信ないから図書館で二十六聖人殉教記探してみるわ。
794 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 20:00:45.56 ID:WUhJXsOs
>>790 江戸時代にお家再興を嘆願する千葉氏は自胤を祖にすることが多かったらしいけど血統的な問題かな?
795 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 22:18:15.96 ID:Dqo1Ns9n
時に2ちゃんが全板にわたり無断転載禁止となったわけだが
796 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 22:19:36.51 ID:bzQzbdYs
小田原陣が決着した時、豊臣秀吉が諸将を集めて言った
「会津は関東八州にとっての要地であり、優れた大将を置いて鎮まさせなければならぬ土地である。
おのおの、遠慮なくそれを書き付けて見せよ」
そういってこれはと思う人物の名を書かせ投票をさせた
(現在はこのようなことを入札と呼ぶ。その時分は隠し起請と呼んだ)
投票の結果、細川越中守(忠興)が然るべし、という札が10のうち9,8人という結果であった。
秀吉はこれを開いて見ると、この様に言った
「汝らは、愚昧にも程がある。私が天下をこのように容易く取ったのも理というものだ。
この会津の地は蒲生忠三郎(氏郷)以外に置くべき人物はない。」
こうして会津には、蒲生氏郷が置かれた。
(老人雑話)
会津に置くのは氏郷しか居ない、と秀吉が思っていたお話。しかし最初から決めてたのなら何で投票させたのか。
797 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 22:20:01.36 ID:RZRUr55T
え? 各板ごとに投票して決めるんじゃねえの?
戦国板で意思統一なんかしてたか?
798 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 22:20:22.84 ID:r/pILmBZ
アフィでなくても?まとめサイトどうするんだ
799 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 22:58:36.27 ID:Dqo1Ns9n
トップページにちゃんと「無断複写 転載を禁じます」と書いてあるで
800 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 23:27:53.73 ID:2vMulNUo
えええ・・・まとめオワタ
801 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 23:35:46.45 ID:bzQzbdYs
802 :
人間七七四年:2014/03/22(土) 23:52:58.90 ID:Aebo95lU
803 :
人間七七四年:2014/03/23(日) 07:49:04.76 ID:OnlLrhoE
許可をとればいいんだよ
804 :
人間七七四年:2014/03/23(日) 10:21:21.65 ID:3m7A9XFW
>>796 >最初から決めてたのなら何で投票させたのか。
袴を暖める時間が欲しかったんでは?
805 :
人間七七四年:2014/03/23(日) 15:01:45.49 ID:dhKE650c
>最初から決めてたのならなんで投票させたのか
2ちゃんのトップに転載禁止と書くなら、各板で投票させんなよ、
て話かとおもた
806 :
人間七七四年:2014/03/23(日) 18:46:37.11 ID:MLjkqDbN
アフィリエイト付いてないからセーフ
いい悪いまとめに何の問題もないよ
807 :
人間七七四年:2014/03/23(日) 22:12:24.14 ID:K2Br5Xky
細川忠興は若い頃、いつも蒲生氏郷の悪口を言い、氏郷もまた忠興の悪口を言っていた。
ある日、忠興が利休のところで「蒲生氏郷は数寄者ぶっておりますが、裏口には乗馬用の
沓や鼻紙などが散らばっています。あれでは数寄者とは呼べません」と悪口を言った。
これに対し、利休は「それでもよろしいでしょう。数寄さえしているのなら、私はそれで
構わないと思います」と答えた。
すると、蒲生氏郷が「誰かが私の悪口を言っているようだが、その者が恥をかくのは
うれしいことだ」と言って勝手の障子を開けて姿を見せた。氏郷は「ある者が私の悪口を
言っている奴がいると、すぐに告げ口してくれたのだ」と言って大笑いした。(茶道四祖伝書)
808 :
人間七七四年:2014/03/23(日) 23:17:32.39 ID:G5DfwzdQ
利休切腹の時に見送りに行けなかったのは氏郷痛恨の極み
まさか三歳如きに遅れをとるとは...
809 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 01:24:08.88 ID:TLRARQvY
810 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 01:24:37.29 ID:gehe/ham
政宗を入れたらどんな展開になるか
811 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 09:59:30.24 ID:ItCHqPLh
混ぜるな危険
812 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 10:10:10.90 ID:AR+vZZ6Z
三竦み状態に・・・なるわけないかっ
813 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 11:58:11.44 ID:YX1y8xVa
氏郷は政宗が苦手<特濃茶
政宗は忠興が苦手<忠利への手紙でDisり放題
忠興は氏郷が苦手<障子スパーン!「悪口聞いたぞ!」
三すくみ、いけるんじゃないか?
814 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 13:52:14.13 ID:gPx/6960
おもむろに現れた正則さんに均衡が崩され茶会は一気に緊迫した情勢に
815 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 17:55:45.81 ID:zcsYqMPk
鮭さまと幽斎先生が物理的に止めに入ります
816 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 18:34:47.58 ID:IP7z5Dzn
こっそり鬼武蔵を混ぜてみると
817 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 20:11:47.03 ID:CfVxZm6d
闇鍋みたいな茶会だな
818 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 20:23:49.69 ID:+usZxtsG
そして宇喜多直家の参加表明により無期限延長となる茶会であった...
819 :
人間七七四年:2014/03/24(月) 20:39:23.22 ID:AR+vZZ6Z
>>816 まぁ、親指さんなら歌詠みを強引に始めて抑えこむかもしれんな〜
820 :
人間七七四年:2014/03/25(火) 09:48:37.07 ID:1pxwgj4+
だ、弾正殿....(震え声
821 :
人間七七四年:2014/03/25(火) 23:53:00.03 ID:255LcW+K
真田グランパ「どの弾正だい?」
822 :
人間七七四年:2014/03/26(水) 18:18:44.67 ID:lKdKFrB2
昔見た覚えがあるけどソースが解らなくなってしまった
誰か知りませんか
本能寺前振りの、家康の接待に失敗する光秀のバリエーション
光秀は家康のために豪華な宴会を完璧に宰領して見せた。
そうしたら信長は「徳川殿をここまでもてなしてしまって、
朝廷の使者をどのようにもてなすつもりだ!」
と光秀を叱責した。
優先順位を間違えている光秀の悪いお話
823 :
人間七七四年:2014/03/26(水) 20:57:44.68 ID:U78NsWV6
かくて関白(豊臣秀吉)は北条殿(北条氏直)の国に入り、幾つもの地点から戦闘を開始した。
北条殿は若干の城を守りぬくことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えた。というのは、彼らにとって
自ら出撃して関白と一戦を交えることは適当ではないと思われたからである。関白はこの戦いを命ずるにあたり
贈賄と威力を巧みに使い分けながら、まもなく他のすべての国を支配するに至ったので、彼に抵抗するのは
北条殿の城だけになり、その諸城も徐々に包囲が狭められ猛攻にさらされた。
しかしそうした事態にもかかわらず関白の軍勢の窮状は否定すべくもなかった。何故なら北条殿の城内には
充分な蓄えが有り、多大の兵力を要していたので、人力を持ってしてはそれらの諸城を占拠することは
不可能に思われた。
一方関白の兵士たちは、遠隔の地方の出で有り、長途の旅で衰弱し、豊富な食料にありつけぬばかりか
その点では不足をさえ告げていた。従ってわずか数ヶ月で城を陥落させることは到底考えられず、まして
冬季に入れば積雪のため包囲を継続できなくなって退避を余儀なくされるに違いなかった。
しかもこの撤退の折こそは北条の軍勢にとって待望の機会であり、そのさい思いのままに攻撃し
関白勢を一挙に壊滅せしめようというのが北条方の魂胆であった。
だが我等の主なるデウスは、この人物(秀吉)を日本における聖なる正義の剣と鞭として選び給うたようであった。
彼は運命にも所業にも、極めて恵まれており、また非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引する術に
長けていたので、これらの諸城は孤立してしまい、中でも北条殿が家臣たちから撮っていた人質の大半が居た
いくつかの城は陥落してしまった。このために、また大抵は関白の贈賄その他の手慣れた手段と策略に
陥ったため、北条殿が主だった武将らとこもっていた主城(小田原城)の兵士たちは戦意を喪失し辟易した。
そして彼らは北条殿の義父にあたる徳川家康の仲介によって城を明け渡すことを詮議し始めた。
降伏の申し出を受けた関白は本件を意のままに裁くこととし、北条(氏直)殿の父(氏政)と叔父(氏照)に
切腹を命じ、氏直自身に対しては剃髪して紀伊の国のある仏僧たちの広大な里である高野の僧院に追放する
事とした。同所には戦いに敗れたものやその他、自らの企てに失敗した不幸な人達が収容されていた。
北条氏直は義父家康の懇願によって生命だけは赦された。かくて北条の他のすべての家臣たちは助命され、
主要な家具を携えて退城することが認められた。
こうして関白はこの四ヶ月間で、従来の勝利のうちで最も名誉が有り、期待以上の勝利を収めた。
なぜなら、彼はこれによって日本全土の征服事業に結末をつけたことになり、その絶対君主となるに至った
からである。
ここにおいて彼は、かねがね腹蔵していた計画の実行に直ちに着手した。それは徳川家康に対して、
彼が当初所有していた都に近い5つの国を手放すように命じ、それに代わって関白は家康に別の同数の国、
ならびに北条殿から獲得した諸国の幾つかを与えることにした。そして家康からの返答を待つこと無く、
それらは全て関白の欲するままに実行された。
おそらく家康は関白に城を明け渡し、北条殿を屈服させることに関して援助を買って出た己の無知と愚かさを
思い知らされたであろうが、彼はこの苦衷を一人おのが胸中に秘めていた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
ルイス・フロイスによる、小田原陣に関する記事である。
824 :
人間七七四年:2014/03/26(水) 21:03:57.59 ID:cV6Jaw64
825 :
人間七七四年:2014/03/26(水) 22:10:07.04 ID:lKdKFrB2
オウフ……小説のネタだったのか。回答ありがとうございます
826 :
人間七七四年:2014/03/26(水) 23:55:45.09 ID:HSyQvBZ+
小説がネタ元だった場合でも、マイナーな軍記物出典という可能性が捨てきれないからめんどうくさいという
827 :
人間七七四年:2014/03/27(木) 01:29:43.02 ID:Voi5/N5n
828 :
人間七七四年:2014/03/27(木) 20:26:18.22 ID:l7W8CKTH
山名金吾入道宗全は、かつての大乱(応仁の乱)の頃、ある大臣家に参り、現在は乱世であるので
諸人はこれに苦しんでいる、などと様々に物語していた時に、この大臣は古くからの例を引いて、
様々にいかにも賢く話をした。
山名宗全は猛々しく勇る者であったので、これに臆する気配もなく、言った
「あなたが仰ることは一応は理解できますが、そのために過去の例を引くのは、宜しくありません。
およそ、例という言葉を、今後は時という文字に変えて心得られるべきです。
世の中の一切のことは昔の例に任せて、何かを決行するのだ、ということはこの宗全も少しは知っております。
雲の上の御沙汰も、伏して考えますに、勿論そのようになっているでしょう。
しかし、この日本国が神代の時代から、天位相続いたことを貴いとするならば、朝廷が分裂した
建武元年からは、みな法を正し改めなければなりません。
憚りながら、あなたがもし、朝廷の礼節の儀式を勤められる時、いにしえ、大極殿のそこそこで
何々の法令有りという例を用いた場合、後代、その殿が滅びてしまえば、是非無く別の殿で行わなければ
ならなくなります。またその別殿も時代を経るうちに後年亡失してしまえば、その時に作った例も
無駄になってしまうでしょう。
おおよそ例というものは、その時の例でしかありません。
大法不易と言い、政道は過去の例を引いて行うべきですが、その他のことは、些かも例を引くべきだとは
思えません。
一般に、公家の人々は例に馴染んで時を知らないために、あるいは衰微して家門乏しくなり、あるいは官位だけを
望み競って、その智節を言わず、そのようにして終に武家に辱められ、天下を奪われ、もはや武家に媚をなす
始末です。
もし今、古来の例を適応するのなら、この宗全のごとき匹夫は、あなたに対してこのように、同輩として
会話することが出来るでしょうか?このような状況は、一体いつの時代の例を引いたのでしょうか?
これは例ではありません、時というものです。
私が今言ったのはは恐れ多いことです。ですがこれより後世に、私よりもさらに悪しき者達が
出てこないとも限りません。その時の状況次第では、その者にも過分の媚をなされる事でしょう。
今より後は、夢々以って、心なき戎に向かって、自分たちの例を語るべきではありません。
もし時を知っておられるのなら、我が身は不肖では有りますが、この宗全が働きを以って、
尊主君公を扶持し奉るでしょう。」
このように苦々しく言い放ったので、かの大臣も閉口し、初めは興のある物語であったのに、
いま徒になってしまったと、後で伝え聞いたところである。
さて、この話は是であろうか、否であろうか。
(塵塚物語)
有名な山名宗全の、「例ではなく時」の逸話の全文である。
829 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 20:55:12.83 ID:QvbjpiGx
今は昔の物語
飛騨の松倉城に三木秀綱という殿さまがいた。
殿様はある日、城の中に一匹の白狐を見つけた。
「白狐は稲荷神の使いと言うぞ」
と、白狐を大事にし、蛻庵(ぜいあん)と名付けた。
白狐も人を恐れる様子もなく、よく懐いていた。
奥方も若様も蛻庵を可愛がり、蛻庵もまだ幼い若様の相手をしたりして遊んでいた。
蛻庵はとても、幸せだった。
しかし世は戦国乱世。松倉城も、金森長近という荒武者に攻められた。
殿様は討死し、優しかった奥方も、若様も行方知れずになってしまった。
蛻庵も、もはやこれまでと思い燃え落ちてくる火をかいくぐって城から逃げ出した。
しかし、行くあてなど無い。蛻庵は家族も家も失った。
山をいくつも越え、ふらふらとさまよううち、蛻庵はとうとう信濃まで来てしまった。
その頃はもう冬のまっ最中、冷たい風が吹き荒れて一面真っ白な雪野原。
蛻庵はこのままでは死んでしまう、と思い切って人間に化けて、諏訪公に仕える千野兵庫という者の家に住み込んだという。
千野家では思いがけず、気のきく小者を雇ったと大喜びで、何かにつけて
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、呼び重宝がった。
ところがすっかり安心した蛻庵は、つい尻尾を出してしまった。
「もし、殿さま。蛻庵が尻尾を出しておりますが。」
家の人が主人に言いつけると、
「おいおい、声が大きいぞ。蛻庵に知れたらなんとする。わしもとうに気づいておるわ。蛻庵は白狐じゃ。だが狐でありながら、熱心に奉公しておるではないか。何か事情があるのだろうよ、そのままにしておけ。」
と、家人をたしなめた。
ところが蛻庵はこの話を物陰から、じっと聞いていた。
「なんと優しき殿さまか・・・狐と知りながら、こんなにも大事にしてくださる。末長くこの家で働きたい。しかし、狐とばれてしまっては、殿さまにどのような噂がたつともわからない・・・」
蛻庵は書き置きを残し、そっと千野家を抜け出していった。
手紙には涙の跡が、残っていた。
そしてまた、蛻庵のあてのない旅が始まった。
つづく
830 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 20:58:26.07 ID:QvbjpiGx
つづき
そして流れ流れて木曽の興禅寺に辿り着いた。
蛻庵は今度は僧侶に化け
「修行中の者です。蛻庵と申します。どうぞ私を使ってください。」
と、頼んだ。
住職の桂岳和尚は、大変に偉い人で蛻庵をすぐ狐と見破った。
しかし、蛻庵の正直な心根も見抜いていた。
そこでなにくわぬ顔で、
「ふむ、なかなか見どころがありそうじゃ、では当寺の手伝いをしてもらおう。」
と、寺に住み込めることになった。
もとより利口な蛻庵のこと、よく気がつくし、陰日向なく一生懸命に働き、お寺では、
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、大事にされた。
小坊主たちや檀家の人たちにも、親切に接するので、
「蛻庵さま、蛻庵さま」
と、したわれておったという。
とうとう人柄を見込んだ商家の主が
「蛻庵さまを是非わが家の婿に」
と言い出したが、これは和尚様が角が立たぬよう断ってくれた。
蛻庵はやっと、穏やかな日々を手に入れた。
831 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 21:13:25.28 ID:QvbjpiGx
ある冬の日のこと、興禅寺では下呂の安国寺に用ができ、その使いに蛻庵が選ばれた。
和尚「蛻庵よ、道中くれぐれも気をつけて行って来ておくれ。お主のことだから心配は無いがの。」
蛻庵「はい、和尚さま。きっとやり遂げます。」
蛻庵は旅支度を整え、和尚様からの大切な手紙はしっかりと油紙にくるんで、懐に縫い付けた。
次の朝、蛻庵は暗いうちに興禅寺を出た。
信濃を抜け、なつかしき飛騨の山々を見ながら旅を続け、日和田に着いた頃には、短い冬の日は、とっぷりと暮れていた。」
蛻庵は、とある農家を訪ね、宿を請うた。
ところが飛騨の山中のこと、冬は猟師をして暮らしをたてている農家は多い。
この家の主人もまた猟師だった。
夕飯も終え、囲炉裏火に手をかざすと蛻庵は、旅の疲れから、うつらうつらと眠ってしまった。
実は主人は手練れの猟師だったために、蛻庵の正体を見抜いていた。
「この古狐め、うまく化けたと思っても、わしの目はごまかせんぞ。」
主人は、そうっと鉄砲に弾を込めた。
蛻庵は旅の疲れからか気づく様子もなく眠ったまま。
主人は銃をかまえ
「ズダーン」
832 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 21:16:54.72 ID:QvbjpiGx
蛻庵は悲鳴をあげると、みるみる狐に姿を変え、そのまま息が絶えた。
主人がしてやったりと死骸をあらためてみると、懐から血染めの手紙が出て来た。
表書きを見ると、下呂の安国寺の住職あて、木曽の興禅寺の桂岳和尚よりではないか。
「これには何か深いわけがあるに違いない」
主人は殺した狐をあらためて見直した。
よくよく見れば、銀色に光るふさふさした毛の見事さ、狐とはいえ気品の高い白狐ではないか。
主人は急いで、狐の死骸を興禅寺へ運び、和尚さまに、わけを話しねんごろに弔ってもらった。
しかしそれから日和田村に、恐ろしい病がはやり出し、蛻庵を殺した猟師の家が真っ先に死に絶えてしまった。
「これは罪もない蛻庵を殺した祟りに違いない」
と村人は興禅寺に駆けつけ、事の次第を話し、蛻庵の供養をねんごろにしてもらった。
すると疫病はみるみる収まり、村は助かった。
そしてこの時以来、日和田村は興禅寺の檀家になっているという。
そしてこの話の証拠に、興禅寺には蛻庵が書き写した般若経があるそうな。
833 :
人間七七四年:2014/03/28(金) 21:20:09.94 ID:QvbjpiGx
飛騨の蛻庵狐って昔話です。
長話スマン
834 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 01:33:10.51 ID:6qWEkOw+
化けるのが下手な狐だな。
835 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 18:46:18.18 ID:AD0ukCy7
>>832 悲しいけどいい話じゃないのかと思ったら祟るんかいw
狐が恐れられるのも無理からぬ話じゃ
836 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 18:57:01.58 ID:IoZIcL5Q
狐が憑いて金持ちになっても要求を満たさなくなったらご破算になるし
わしはここ数年、競馬に行っておらんから狐に憑いてもらっておらんが
837 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 18:57:41.39 ID:uzzzTD31
四国は大師様が狐を追い出したからその心配はなし
838 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 19:19:13.82 ID:jpXucXi0
これは慶長6年(1601)の秋ごろのこと。上総国大瀧の浦に黒船が流れ着き破損した。
これは呂宋国よりのびすぱん(ヌエバ・エスパーニャ:メキシコ)へ渡る船であった。
数々の物資を積んでいたため、宝の山ともいうべき物であった。
その積み荷は海岸へと打ち上げられた。これを安房、常陸、下総の者達が集まって拾い上げたが
それでも尽きぬほどの量であると風聞された。
そこでこれを聞いた江戸の町人も、15歳以上60歳未満の者達は、上総国の浦に走り寄ってこの荷物を
拾おうとした。この浦のあたりは、本多出雲守(忠朝)という人の領地であった。
かく言うこの愚老(作者)も、この荷物をひろおうと人並みに上総まで行ったのだが、
時既に及ばず拾うことは出来ず、他の人が拾ったものを、骨折り代を出して貰い取り江戸に帰った。
そこでつらつらと考えたのは、『この荷物を京都で売れば過分の金銀を得ることが出来、私も一時を
楽しめるのではないか。であれば他の者達が持って行かない内に!』と心がけ、旅費を費やし
夜を日に継いで京へ上った。
そして10月20日、京二条の問屋、島屋與右衛門という人の宿についた。
そこに京の町人たちが
「音に聞こえた大黒船の拾い荷物が、早くも京に登ってきたのか!いざそれを見よう!」
と、島屋の家に数百人入り込み、家の中は立つ所もなく、門外に人が立ち並んで、まるで市が開いた
ようであった。私はこれを見て、
「そうだ!夜を日に継いで人より先に上ってきたのは、これを願っていたんだ!
今日は10月20日、えびすの祝日に京に着き、めでたき吉日である。値を高く売ってやろう!」
と心嬉しく、宝の山に入ったような心地であった。
ところが、島屋に集まった人々が皆このように言った
「慶長元年の9月8日に、土佐の浦戸湊より18里沖に、夥しい黒船が流れてきました。
これは南蛮よりのびすぱんへ渡海する商船でしたが、悪風に逢い梶を害いそのまま漂流したため、
糧も無くなり乗員のうち500人が死亡、残った200人は生きていました。この事は長宗我部より
通報され、その頃秀吉公は大阪におられたのですが、急ぎ増田右衛門尉長盛を検視として遣わされました。
大工に命じて船の大きさを計測させたところ、長さ36間(約65.5メートル)横20間(約36メートル)で、
梶の穴の広さは畳五畳敷でした。これに積まれた荷物は宝の山ともいうほどで、西海の大船200余艘に
この荷物を積んで、増田右衛門尉が奉行して大阪の浦に着岸しました。秀吉公はこれを大いに喜ばれたものです。
ところで今回、関東に漂着した船は、この土佐の船よりも大きいそうですね。
日本は小国ですから、その積み荷を人が集まって20年30年売買し続けても、その黒船の荷物が
尽きることはないでしょう。明日になれば、その荷物が山崩れのようにこちらにやってくるでしょうね。」
そこで宿の島屋の主人は言った
「どうでしょう、今日の町人の方々、元よりこの荷物は関東で拾われたもので、無料です。
そうではありますが、この人の京への上り下りの路銀を出して、この品物を買い取ってはいかがでしょうか?」
しかし京の町人たちはその助言にも頷かず、購入しようとしなかった。だからといって私はこれを
捨てることも出来ず、結局、帰路の路銀分だけの値段で売って、江戸へと戻った事は、たった今
貴重な玉を淵に沈めたような気持ちであった。さてまた、宝の山に入って手を空しく帰ったのと、
何ら変わらない出来事であった。
(慶長見聞集)
難破船の荷物を売って一儲けしようとしたのが大失敗、というお話。京の商人はさすがエグいですね。
839 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 20:56:23.49 ID:hH5U23LS
この人江戸で商人やってたのにな
840 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 07:50:56.89 ID:/QNF2Ncz
なんかやるおみたいだなw
そうだいいことおもいついたお!ピコーン
大失敗だったお・・・グスン
2chに書き込んで後生のネタにするお・・・おっおっおw
841 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 10:14:06.30 ID:J3aDo8X7
転売ヤー@戦国版
842 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 17:24:45.59 ID:69z0XVnz
リーフデ号の商品って家康は金払わなかったっけ
勝手にとってって罪に問われないのか
843 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 18:17:51.44 ID:ouuzHa7b
>>842 漂着したのが大多喜でのびすぱんとあるからドン・ロドリゴの方だよ。
たぶん年を間違って記載してる。
844 :
842:2014/03/30(日) 18:26:47.20 ID:yk8vFEfq
いやそうではなくて、リーフデ号の商品には権現様自ら金払ったのだから
ほかの船の商品は勝手に持って行ったら罪には問われないのか、てこと
845 :
人間七七四年:2014/03/30(日) 19:33:02.01 ID:ouuzHa7b
>>844 ああ、そういう事なら沖で座礁したので積荷は広い範囲に漂着したんだそうな。
漂着物の横領を禁止した話も慶長見聞集あたり(ちとあいまい)にあった筈
846 :
人間七七四年:2014/03/31(月) 20:23:40.55 ID:m3uO32Gw
奥州国主の伊達政宗は、坂東地方最大の武将の一人であり、常にその強大さと大勢の部下を
従えていることで著名であったが、関白(豊臣秀吉)が栄え、日本国中の絶対君主となった現在では、
その哀れな国主は、関白の政庁にあって不遇を甘受する身となった。
過ぐる日、関白は伊達政宗に向かってこのように言った
「汝が私を裏切ろうとしておることを、私は熟知している。よって汝は殺されてしかるべきだ。
だが汝は名護屋へ行き、朝鮮に渡り、よく尽くした故に、命を助けてやることにした。
ただし汝を奥州には帰らせず、私の近くに留めおくであろう。」
多くの人々は、既に関白は彼の封禄を没収したと言い、また他の者はそれを否定している。
だが既に没収されているかも知れず、さもなくば程なく没収するだろうと思われている。
(ルイス・フロイス『日本史』)
朝鮮の役の頃の伊達政宗は、政治的に傍から見てもかなりやばかったらしい、というお話。
847 :
人間七七四年:2014/03/31(月) 23:32:01.35 ID:9uunS6zb
また白装束で金色の磔台持って行かにゃ
848 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 11:43:58.08 ID:jBcgiO80
流れ着いた物にも興味はあるけど
命助けてもらって、積荷の代金払って、とも
言いにくかったかな。
849 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 15:07:32.53 ID:1KwSB2JV
北天の斗星こと安東愛季は戸沢氏との合戦で陣没した。
後を継いだのは若干12歳の安東実季。これに強い不満を抱いたのは叔父の豊島道季だった。
彼は小野寺氏や戸沢氏と同盟し、謀叛を計画した。
実季の湊城を攻めるには安倍千寿丸の双六城が邪魔である。そこで先ず、双六城を急襲した。
突然の攻撃に双六城は落城、安倍千寿丸は自害し、奥方は崖から身を投げた。
これを重く見た実季は自ら出陣するも敗れ、湊城も奪われるなど苦戦したが檜山城に籠り道季を撃退した。
徐々に盛り返した実季はついに道季を大破し、道季は討死したとも落ち延びたとも伝わる。
道季の奥方も落ち延びたが、双六城のあたりで囲まれ、もはやこれまでと崖から身を投げた。そこは奇しくも安倍千寿丸の奥方が身投げした崖であった。
いつのころからか、二人の奥方が飛び込んだ場所は「御前落とし」と呼ばれるようになったという。
男鹿の昔話です。
結構、いろんなパターンがあって謀叛を起こしたのが腋本五郎だったり安東友季だったり、道季さんが従兄弟だったり叔父だったりするんですが、多分3回あった湊騒動が混ざってるんだと思います。
余談ですが、道季さんは改名し南部に仕えたとか。
850 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 19:07:39.47 ID:g5Sr5pFj
秀頼(原文ママ。秀吉の誤りか)は伏見から上洛するたびに、御幸町通りを通った。
この行列では挟箱の大きなものに操り人形が入れられ、銭を入れるとバク転した。
これを毎回徒歩の者が背負って、輿の先を進んだ。
ある時、独眼の政宗(伊達政宗)がこの人形を御幸町で奪い取り、自分で背負って輿の先を
進んだそうである。
また伏見の豊後橋で徳川家康の傘さしの者と争い、傘を奪い取って藤堂和泉(高虎)に
差し掛けたのも政宗だったそうである。
(老人雑話)
何やってるんですか政宗公
851 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 19:40:40.79 ID:JY0ptmUX
政宗の話はこういうところで死人が出なくて良いよね
852 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 19:46:45.81 ID:4FrkbWyF
上京する度に都の繁栄ぶりにはしゃいでるんじゃ無いかと思う
ほら大きな都市に出て初日から飲み屋を梯子するみたいな
853 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 20:27:58.55 ID:QyQv6f8g
政宗の話は大の大人がほんとか?って話ばかりw
854 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 21:05:25.89 ID:J+6/W/1c
藤堂さんがどういう顔をしたのか多少気になるところだ
855 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 22:49:23.48 ID:a8RwnD5v
高虎あたりはもう慣れてるんだろうな
856 :
人間七七四年:2014/04/01(火) 23:13:02.63 ID:X9UZWEOM
高虎「まーたはじまった」
くらいにしか思ってなさそうだなw
857 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 09:49:10.72 ID:UdNO/mzk
政宗の人徳のなせるわざ・・・なわけないかw
858 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 10:16:40.07 ID:LEuBulei
スポーツの試合中に競技場に乱入して警備員に追い回されるオッサンと同じニオイがする…
859 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 12:04:46.13 ID:cJqczobu
政宗のイタズラをマジになって叱ってへそ曲げられて謀反とかされたら「絶対鎮圧はできるけど、地理的、国力的にすっげえめんどくさい」とかそういうことなのかな
860 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 12:15:10.46 ID:M86sqixG
DQN眼竜は鼻毛公と同じく、幕府から警戒されないよう馬鹿のふりをしていたんだよ!!
たぶん...
861 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 13:00:22.76 ID:ehKuCAnb
そういう解説をしてる本はわりと見かけるな
862 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 19:52:17.11 ID:4MaAnbzr
馬鹿のフリって…
散々自分で好き勝手しておいて…
863 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 21:46:27.20 ID:UdNO/mzk
馬鹿のフリをしているうちに、周囲の人間はおろか自分でもそれが演技なのかそうではないのかが不分明になってきて・・・
864 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 21:52:25.48 ID:JhOkxRYB
狂人の真似をする者はすでに狂人
865 :
人間七七四年:2014/04/02(水) 22:45:52.55 ID:CkymNLNy
伊達家中には光安さんみたいのはいないのかw
866 :
人間七七四年:2014/04/03(木) 04:49:33.39 ID:Col/hL4H
松永霜台(久秀)が織田信長に反逆し籠城した時、信長は討ち手に羽柴秀吉を遣わした。
秀吉は信長に報告する箇条書を右筆に書かせた。曰く
『この日に城の外側を破ります。この日には二の丸を破ります。この日には本丸を破り、
この日には霜台の頸を取ります。』
右筆は「これはどういうことでしょうか?」と尋ねると、秀吉はこう答えた
「こうしなければ、信長は私を生かさないだろう。もしこの通りにならなければ死ぬしか無い。」
そして、報告した期日に無理に撃ち破り、秀吉は報告とともに久秀の頸を函に入れて信長へと送った。
信長は届いたその函を見るとこのように言った
「これは偽首であろう。霜台はたとえ首になったとしても、私の前に来るような者ではない。
筑前(秀吉)は才気でこんな事をしたのだ。」
函を開いてみると、果たして信長の言ったとおりであった。
久秀は終に降伏することなく、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死したという。
(老人雑話)
867 :
人間七七四年:2014/04/03(木) 11:02:18.13 ID:aqIv4/qt
秀頼公御噂の事
当地御堂の鼓番に善右衛門という大男がいた。
この者は御旗の者で、秀頼公の事をよく知っているものであったが、
度々語って云うには、秀頼公は御心が愚かでござったということだ。
肴にはサザエを殊の外好物にしていて、夥しい数が敷かれていたそうだ。
有る時御養生の為と医者がこれを禁じた。
秀頼公は「此の程サザエを調理していないのはどういうことか。」とおっしゃられた。
御前衆は「片桐市正が悉く取り上げたので無くなりました。」と申し上げたので、
公は「其のサザエのなる木まで、市正が掘って取ったのか。」とおっしゃられたそうだ。
有る時御前衆が秀頼公に諫て、
「大将の御言葉は忝い言葉である。
ただ今諸人が御為に苦労をしています。御言葉でいたわってください。」
と申し上げると、
大勢の中へ出て、苦労と労のところを長々と引いて、大きな音で一言おっしゃられたと語った。
秀頼公の御事、愚かなる咄共数々言い伝えられているが、軍書にのっていることでは、
勇義がおありになるように見えて、覚束ない。
(河内屋可正旧記)
868 :
人間七七四年:2014/04/03(木) 12:23:59.46 ID:ayhuo9bP
戊辰戦争の時、新政府軍に城を占拠された松前藩主・松前徳広は再起を図るため、わずかな家臣や家族と船で津軽に脱出した。
しかし海は大荒れで、いまにも船は転覆しそうだった。
このままでは危うしと、藩祖・松前慶広が太閤秀吉より拝領したと伝わる松前家伝来の兜を海神に捧げ、嵐を鎮めたまえと一心に念じた。
すると海はみるみる穏やかになり、徳広一行は津軽へと渡ることができたという。
余談ですがこの兜、かの有名な「諏訪法性の兜」だって話もあるんですが・・・
ちょっと盛りすぎだろー、と思ってしまったのでこちらに。
869 :
人間七七四年:2014/04/03(木) 14:02:02.24 ID:ZZlSpcmg
>>868 戊辰戦争で戦ったのは旧幕府軍
あと完全にスレチ
870 :
868:2014/04/03(木) 14:42:55.45 ID:ayhuo9bP
>>869 >戊辰戦争で戦ったのは旧幕府軍
ああ、そうなのか。素で間違ってたわ。ご指摘感謝。
俺もスレ違いかと思ったけど、慶広所用の兜だし
まとめにも某所用の品が〜的な話もあるし、その範囲かなと思って書いてみた。
松前の話ってあんまりないしな。
871 :
人間七七四年:2014/04/03(木) 16:19:38.41 ID:kipJlKAu
松前藩はアイヌ施策の酷さとか
戊辰戦争時の不甲斐なさ(数時間で松前城落城)で
いいところがないからなぁ。
今ある北海道に松前藩の関与はほとんどないし
道民からしてみると一緒にされたくないというか何というか。
まぁ、宙に浮いた存在で
逸話が掘り起こされないのはそういう面もあると思う。
872 :
人間七七四年:2014/04/03(木) 19:39:06.79 ID:Col/hL4H
羽柴筑前守秀吉は、その初めより信長の手の物であり、またそもそも磊落な性格であったので、
他人に対して非常に驕っていた。
明智光秀は信長配下の中でも外様であり、その上謹厚な人であったので、その辞は常に
うやうやしいものであった。
ある時、秀吉は光秀にこんなことを聞いた
「おぬしは周山(京都市右京区京北周山)に夜普請をして謀反を企てていると、人はみな言っているが、
どうなんだ!?」
光秀は答えた
「やくたいも無いことを言うものだ」
そこで二人は笑い、この話は終わった。
(老人雑話)
秀吉と光秀の信長配下の時代の、どこか意味ありげな会話である。
873 :
872:2014/04/04(金) 18:01:05.57 ID:pi+MT3/U
>>872 これだけだとちょっとわかりにくいので補足します
光秀は東丹波の攻略後、周山街道を抑えるためにこの周山城を築城するわけですが、
この「周山城」という命名が、自らを周の武王に、信長を殷の紂王に例えたのではないか、という話が
この老人雑話の成立当時あったらしいのですね
874 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 07:21:15.40 ID:D8JJoeu1
天正8年に細川家が織田信長の命で丹後を攻めたときのこと
8月に藤孝忠興が青龍寺から丹後に入国し、光秀と一緒に歯向かうもの打ち取っていった。
その中で高屋十郎兵衛という土地の力のある者が抵抗していたのだが冬に入って降参した。
雪の中、忠興が履を着て厩の前に立っていたとき家来の米田助右衛門是政が
高屋を連れてやってきた。高屋は鳥目百疋を持って礼拝しにきた。
助右衛門が礼拝しているとき忠興が「高屋の首を捻じって切れ」と言って長国の太刀で手打ちにした。
助右衛門は左手に鳥目百疋を持ちながら抜き打ちで二の目を切ったので、
忠興は刀の峰に切り込むのが殊の外早かったと感心した。
高屋は国中に威名のあるものだったのでこの忠興の勇敢な行為を聞いて恐れて、
忠興に背くものはいなかった。かつて丹後は長年一揆で争いのある国と成って
人民が困窮していたので藤孝は早速国中を巡見し是非を決断して憐憫を加えたので
たちまち国中平均して皆その徳を仰いだ。
875 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:14:39.13 ID:uTrnHxgQ
勇敢というより単に卑怯なだけじゃ...
おっと誰か来た
876 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 13:43:40.95 ID:5Da3WuRp
本城といい延沢といいこの手のやつはたいてい誅殺されるな
877 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 17:52:36.58 ID:TFAT74G/
汚いなさすが四天王きたない
878 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 18:07:44.10 ID:3zEhJzAu
タマちゃんの顔でも見たんじゃね?
879 :
874:2014/04/05(土) 20:01:36.29 ID:G6+Rvbuq
ちなみにこの話は細川家譜である「綿考輯録」に記されていました
880 :
人間七七四年:2014/04/05(土) 22:22:28.95 ID:FfYqcsdC
徳川の世になったあとの京に、常磐という舞を舞う女があり、人が招けば、何方にでも行った。
彼女は石田三成の息女であると言われた。
そういう事もありうるであろう。あの真西山(真徳秀:南宋の政治家、儒学者)の孫娘さえ、
歌妓となったそうではないか。
(老人雑話)
京に、石田三成の娘という噂の舞妓がいたらしい、というお話。
881 :
人間七七四年:2014/04/06(日) 11:23:50.00 ID:l0Pon6u7
三斎さんが締めて、幽斎さん緩める・・・
さすが出来る親子は違いますな〜
882 :
人間七七四年:2014/04/06(日) 12:45:29.67 ID:h3MgTEfU
暴れ牛 「解せぬ」
883 :
人間七七四年:2014/04/06(日) 21:23:49.73 ID:cC/WF0ye
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)の邸宅で、孟子一段を講談したことがあった。
このとき講釈したのは、『生於憂患而死於安楽』(憂患の有る時には生き、安楽な時に死ぬ)という段であった。
講談の終わったあと幸長はこのように言った
「私は石田治部(三成)と仲が悪かった。治部が生きていたころは、彼に隙を与えまいと、身を謹んで
人に非を入れられないようにし、体も健康であった。
今は治部も死に、その上御所様(徳川家康)とは懇ろな関係で、(その頃未だ徳川と関係の悪かった)
佐竹や島津とも特に何かあるわけではない。だがこれによって気が緩み、却って病気になってしまった。
賢人の言葉というものは、少しも相違がないものだ。」
(老人雑話)
敵の喪失により自分も弱ってしまった、という浅野幸長の述懐である。
884 :
人間七七四年:2014/04/06(日) 21:58:10.77 ID:xy6/elfq
真田のお兄ちゃんの死因が判明
885 :
人間七七四年:2014/04/06(日) 23:24:26.40 ID:J+qydBC1
886 :
人間七七四年:2014/04/06(日) 23:26:37.45 ID:J+qydBC1
しかし、島津、佐竹についての訳は違うな
887 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 05:54:20.28 ID:koYRP92t
島津・佐竹についての部分の解釈も、真田のお兄ちゃんとの関係を見出す住人の解釈も真逆の印象
888 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 06:04:03.15 ID:eiNuieG8
コルプス・クリスティ(聖体の祝日)の後の水曜日の夜(1582年6月20日)、亀山の城に軍勢が集結していた時、
彼(明智光秀)は最も信頼していた腹心の部下の中から4名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明した。
とりわけ彼は、自らを蹶起させるやむをえぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長男(信忠)を
誤ること無く殺害し、自らが天下の主になることを言い渡した。
そして、その為に最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを
明らかにした。すなわち、
信長は兵力を伴わず都に滞在しており、明智の企画するような謀反に備える事には遠く思いも及ばぬ状況にあり、
兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、、更に彼の三男(信孝)は1万3千ないし4千の兵を率いて
シコク(四国)と呼ばれる4ヶ国を征服するため出発している。このような幸運に対しては、考えうる限り、
遅延だけがその心配の種となるであろう。
自分は既に危険を家来たちに託し、この計画を明白に打ち明けたからには、彼らに与えられるべき報酬は、
特に彼らに期待される勲功と協力に全て準じ、対応したものになるであろう。と語った。
これを聞いた一同は茫然自失したようになり、一方でこの企画の重大さと危険の切迫を知ったが、他方、
話が終わると、明智に思いとどまらせることも、また彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを
見て、感じている焦燥の色をありありと浮かべ、返答する前に互いに顔を見合わせるばかりであった。
しかし、そこは勇敢な日本人のことなので、既に明智がこの企てを決行する意志をこれほどまでに固めている
以上は、それに従うほかなく、全員上げて彼への忠誠を示し生命を捧げる覚悟である、と答えた。
ところで明智は極めて注意深く聡明だったので、もし彼らのうち誰かが先手を打って信長に密告
することが有れば、自分の企ては失敗するばかりか、いかなる場合でも死を免れないことを承知して
いたので、彼は直ちに自らの門前で全員を武装せしめ、騎乗するように命じて真夜中に出発し、
暁光が差し込む頃には既に都に到着していた。
更に明智は、自らの諸国と坂本の城塞を固め良く修理するように命じ、自分の不在中に何の騒動も
生じないよう城内を絶えず監視するよう言いつけた。そして都に入る前に兵士たちに対し、
彼はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいのだ、と言って、
全員にエスピンガルダ(火縄銃)に銃弾を装填し火縄をセルペ(火挾み)に置いたまま待機しているように
と命じた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスによる、明智光秀の謀反決断の場面の描写である
889 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 06:31:31.87 ID:4noQd+5O
もう見てきた様だな
890 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 08:10:20.53 ID:8apv95LX
宣教師、見てきたように嘘を言い
だっけ?
891 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 11:14:48.50 ID:zo7V+3Jg
シスコンな殿と実直な家臣
秀吉が朝鮮出兵を行ってしばらくの文禄慶長の頃
陸奥にあった保春院(伊達政宗の母で最上義光の妹)は突如として伊達家を出、山形へと出奔
これを迎えた最上義光も
当初は山形城本丸外北方に御義屋敷を設けていたが
城中にあっては風当たりも良くないだろうと妹の事を気にかけ、気を紛らわし、落ち着いて生活のできそうな平穏な地はないかと
山形城西方の村木沢の一角に領地を持つ加藤掃部左衛門清次に保春院の屋敷地の整備と警護役を命じた
主から大命を受けた加藤清次は指名に感激し
早速村木沢に保春院の屋敷地の整備を始めた
…
……
………が、やり過ぎた
保春院の屋敷の周囲に高垣を作り
そこらかしこに警護の番役を配し
小川から水を引き、屋敷地の周りに堀を巡らし
村落のあちこちにも土塁や柵に堀を幾重にも新設し
まるで保春院の屋敷はさながら要塞と見紛うばかりの様相となった
神保隠岐「江口殿、加藤のやる気はわからん事はないが、あれではいささかやり過ぎと思わんか?」
江口道連「…わかりました。機を見て奴(加藤清次)には私からそれとなく忠告してみます」
(つづく)
892 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 11:41:51.37 ID:zo7V+3Jg
(つづき)
ある日江口道連は加藤清次を訪ねた
加藤も友の来訪を喜び、酒を酌み交わしながら話を楽しんだ
江口「掃部(加藤清次)、おまえを他の者がどう感じているのか知っておるのか?周囲の者から反発を買っておるぞ」
加藤「伊達の間者や他国の草が保春院さまの身を狙わんとも限るまい?これはそうならぬ様、もしもの事が起きぬための保険なのだ」
江口「なるほどおまえの言う事は尤もだ
だがな、保春院さまはこれでは気を紛らわす事ができると思うか?
養生のための屋敷ではなく、いくさのための準備の様にも思えよう」
加藤「! …あぁ、言われてみりゃそうとも取れるな…」
(つづく)
893 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 11:44:52.55 ID:zo7V+3Jg
(つづく)
江口「大命を受け、馬鹿のつく正直なおまえのやり方は確かに間違ってはいないし俺もそんなおまえの性格が大好きだ
だがな
村木沢がこれだけ物々しくなれば近隣の者だって自分らはそれほど信頼をされていないのかと気をやきもちとさせる事になるだろう
…これ以上の備えは止めて
少しは心を休めぬか?」
加藤「…過ぎたるは尚及ばざるが如しという事か」
加藤清次は江口道連の忠告を受け態度を幾分軟化させた
ただ、やり過ぎ感のあるこの屋敷の話から
加藤の所領は
「あしきやかた→あくど→悪戸」
と呼ばれる様になったといった話もあれば
愚直な加藤の悪戸を江口が心を開かせ「あくど→開戸」にさせたといった話も伝わる
しかし現在
村木沢のかつての加藤の所領のあった地は「悪戸」の地名として今に伝わっている
894 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 22:59:40.77 ID:4AKn74+k
>>883 親父は関ヶ原後の大坂城城内をみて「治部少がいた頃はこんなことはなかった」と嘆き、
息子は「治部少が生きていたころは、緊張して身体健康だった」と言い....
何だこの親子
895 :
人間七七四年:2014/04/07(月) 23:11:03.96 ID:FBU9TbXr
ツンデレやな〜
896 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 01:38:07.26 ID:5L/8odwi
897 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 05:19:03.60 ID:m39fgH19
長岡玄蕃(細川興元)の曰く
「私は関ヶ原の時、引き退く敵の騎馬武者を見て『逃げるな!帰って来い!』と叫ぶと、その騎馬武者は
即座に立ち返って来て私を攻撃してきた。そして組み打ちとなったのだが、私はそいつに組み敷かれ、
すわ首を取られる、と言うところに私の郎党が一人駆けつけてきて彼を引き剥がし、私にそいつの首を
取らせてくれた。実に危ない目を見た。
よろしいか?足を乱さずに撤退している武者には、絶対に『帰って来い!』と言ってはならないのだ。」
この長岡玄蕃という人は、戦場で度々功を立てた人である。
(老人雑話)
細川興元の、戦場での敵の見定め方についての逸話である。
898 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 06:43:00.12 ID:HmGOGQtZ
まこと50代ニート独身童貞!!
899 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 07:17:59.78 ID:LbDCX9h4
某「主の危機に駆け付けてくれるのは郎党の基本だよね(チラッ」
900 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 08:01:43.64 ID:A4ENFmsj
某「よろしいのですか」
某「ここで手出しをしては、殿に恥をかかせることになる」
901 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 10:31:45.49 ID:tsRqZisp
>>897 深追いは逆襲くらいやすいからな
足並み乱れず撤退している敵なら尚更だろう
902 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 11:21:33.85 ID:6uqM6gsD
又兵衛はいつも真剣に稽古をつけてくれました!
903 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 12:46:21.67 ID:H8ihiooN
904 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 14:35:16.86 ID:J51LNWDh
時代による最上義光評
江戸時代以前
・義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。近隣従ひつかずといふことなし
『最上義光物語』
・およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり
・武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ
『会津四家合考』
其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ
『奥羽永慶軍記』
昭和中期
・最上義光は血も涙もない冷血漢
・悪知恵の働く小賢しい狐の様な人物
・低頭外交で秀吉や家康など権力者に擦り寄った
『山形市史』
・政宗毒殺の黒幕
『独眼竜政宗』(参考文献『山形市史』)
・力ずくで父を隠居させ、家督を争った弟を殺害
『信長の野望シリーズ解説本』(参考文献『山形市史』)
平成前期
・上杉征伐時に(最上義光は)はじめは家康に批判的で、むしろ上杉景勝と気脈を通じていた
・ところが次第に状況が家康方、すなわち東軍有利になっていくのを見て、景勝と手を切り、家康の東軍に寝返る動きを見せている
(S大O〜田教授「長谷堂城の戦い−東北版関ヶ原合戦の顛末−」参考文献『越境記』か?)
(つづく)
905 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 14:40:06.32 ID:J51LNWDh
(つづき)
平成中期
・原田芳雄(大河ドラマの影響〜)
・稀代の謀将
・羽州の狐(昭和中期〜)
・虎将(昭和後期〜)
現在
・鮭様
・鮭好きのシスコン
・友達君主
・愉快な脳筋
・いたずら好き
・連歌に秀でた教養人
・かわいい小動物
・もふもふ
(´・ω・`)…どうしてこうなった?
906 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 14:44:53.67 ID:UETGJDL8
最上義光の逸話が種切れだからって逸話でさえないものはちょっと
だれだっていけるやん
907 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 14:44:59.77 ID:J51LNWDh
>>904 誤)其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ
『奥羽永慶軍記』
正)・其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ
『奥羽永慶軍記』
で訂正をお願い致します
頭の「・」を入れるのを忘れておりました
908 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 14:49:38.77 ID:J51LNWDh
暗殺の得意な稀代の謀将で
単騎突撃大好きな教養人
あれ?
909 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 14:52:14.58 ID:J51LNWDh
>>905 すいません
現在と・鮭様の間も空気行一行確保して頂けますと
他とのバランスが良くなります
910 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 16:12:32.54 ID:6Kyxxhfe
廃藩になってやっと正しい評価がなされたってとこか
911 :
人間七七四年:2014/04/08(火) 17:53:58.41 ID:J51LNWDh
直江兼続「下々の者が山形攻めを特に心配する必要はない」
1600年9月、長谷堂城を攻める直江兼続のもとに、一通の書状が届く
「関ヶ原で西軍敗れる」
そして、その返書が最近になって見つかった
返書の主は直江兼続本人
以前の通説では兼続が西軍敗れるの知らせを受け取ったのは、慶長5(1600)年の9月29日とされて来た
しかし、新たに見つかった文書の日付は9月21日
関ヶ原の戦いのわずか6日後の事である
「上方散々まかりなり候由聞き申候(上方で西軍が大敗したのを聞きました)」
『秋田藩蔵文書』
西軍敗退が明らかになった以上、上杉軍は即刻この戦をやめて帰途につかねばならなかったはず
相手の最上軍はその様な事はつゆしらず、長谷堂城に篭城し、最上義光も本隊を山形城に留めていた
兼続はさらに菅沢に帯陣を続け、9月25日には最上軍と大規模な戦闘を引き起こしている
義光を討てば短期決戦の一発逆転で庄内〜米沢を結ぶ山形の地を手に入れ
徳川軍を相手に今後の長期戦を挑めるとでも考えていたのだろうか
長谷堂の戦いに参陣した直江軍の一手の将小幡播磨はやがて最上家に仕官する事となるが
小幡播磨「9月末から山城(直江兼続)の挙動は落ち着かず、西軍敗北を隠していたなら家臣たちはみな兼続一人に騙されて戦わされ続けていた事になる」
と語ったと伝わる
912 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 00:12:59.98 ID:Wq+OPh5f
>>905 鉄棒をブンブン振り回してたからマッチョだったのかなというイメージがある。
913 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 01:28:53.29 ID:yX5UASR9
最上義光って(戦国期の)足利一族にしては珍しく戦上手な印象が・・・
914 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 02:32:41.57 ID:LF7xZMN8
(本能寺の変が起こった)当時、信長の三男の三七殿(織田信孝)はまだ堺にいて、彼の父が所領として
与えたかの四つの国(四国)を兵士たちとともに占領に赴く準備を整えていた。彼は父と兄への謀反及び
その訃報に接するや、引き返してその件に復讐するための準備を直ちに開始し、まず従兄弟の
七兵衛殿(津田信澄)を血祭りにあげて身辺を固めようと欲した。
七兵衛は信長の兄(原文ママ)の息子であり、信長が父の遺産の相続者に成ろうとしたため、七兵衛の父は
殺害されたのであった。この若者は信長の殺された者の息子であるとともに、明智の一女を娶っていたので、
彼が義父と組んでこの謀反を企てたのだと思わぬものは居なかった。
この若者は当時、信長の命令によって、丹羽五郎左衛門(長秀)と名乗る他の武将とともに、堺から
二里半ほどの所にある大阪城を警備していた。
信長の三男、三七殿の軍勢は、四国の諸国の征服に向かう彼に伴うべく、各々異なった地方から集合し
編成されていた。しかしそのため、謀反の報に接するや、兵士たちの多くは彼から離れ逃げ去っていった。
三七殿はそのため焦燥感をいだき、復讐という希望の実現が遅延することを非常に悲しんだが、自らの元に
とどまった軍勢を率い、信長の息子の親友である他の武将(丹羽長秀)と従兄弟(信澄)の居る大阪に
向かった。
この時、従兄弟は自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿が入ってこないように内部から盛んに懇請し
奔走していたが、様々な交渉の末、五郎左衛門の好意によって三七殿は大阪に入った。
そして二日間滞在したあと、三七殿は五郎左衛門と協議し、トルレ(塔)の最上段から出ようとせず
しきりに身辺を警戒していた従兄弟をいかにして殺害するかについて結論を下した。
彼らが考案した策略は、五郎左衛門が三七殿を船まで送るという、ごく普通の行為を装い、そこで三七殿と
五郎左衛門の家臣の間で騒動が起こるように仕組み、七兵衛の家臣らは城から出ようとせず、
七兵衛自身に至ってはなおさらで、疑いが現実になるのを恐れ外に出なかったので、この偽りの騒動で
五郎左衛門の家臣が敗北したように見せかけ城内に逃げ込んだところを、三七殿の家臣も追跡して入り、
一団となって塔の内部の七兵衛の居る場所を襲撃することであった。
その策略が実行されたあと、同所では、ある人々は七兵衛が自らの手で切腹したと言い、他の者達は
若い身分ある武士たちが彼を殺害したと述べている。
これにより三七殿が勇気と信用を獲得すると、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼の元を訪れ、
主君として認めるに至った。
彼は従兄弟の首級を堺の街近くに晒すように命じた。事実、この七兵衛という若者は異常なほど残酷で、
誰もが彼を暴君とみなし、彼が死ぬことを望んでいたからである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
織田信孝による、津田信澄殺害についての、フロイスによる記録である。
915 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 02:44:00.10 ID:JFOd6dae
信澄討ったのって上田宗箇だっけ?
916 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 03:05:08.24 ID:cUyWbTYT
信澄には信包や森くっつけて九州任せようとしてたんじゃ無いかと密かに思ってる
917 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 08:01:01.67 ID:Wq+OPh5f
信澄って暴君だったのか?
918 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 08:53:08.44 ID:T6RTPCLC
キリシタンに興味を示せば??で仏教徒なら×
そんなもんだろ
919 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 11:22:11.13 ID:O2kLbFHv
>>910 奥羽永慶軍記は最上家改易の後のものだし
廃藩後の明治時代は最上川水運をはじめ郷土の基礎を築いた人物として評価がなされてた
(戦前までは船運が山形では盛ん)
大正になっても市民の祭で顕彰され
昭和前期も山形の陸軍連隊では武の偉人として教義されていた
昭和の服部天皇の悪影響が…
920 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 19:07:03.52 ID:jGflMwOB
徳川家康にまつわるちょっと悪い話の中でも有名なものに、三方ヶ原敗走時の脱糞の話がある。
概略としては次のようになる。
三方ヶ原で敗走した徳川家康は、山県昌景の軍勢に追い立てられ、
恐怖のあまりに馬上で脱糞をした。
浜松城について馬を下りた所で家臣の大久保忠世に発見され、
からかってくる忠世に対して「これは焼き味噌じゃ!」と返した。
この話は実は出典がわかっていない。
少なくとも三河物語や松平記、徳川実紀や朝野旧聞ホウ藁等には書かれていない話であり、
明治以降の本である日本戦史や徳川家康(山路愛山著)、
徳川家康公伝等にも採録されていない話なのである。
山岡荘八の小説以前には見られないので、あるいは彼の創作かもしれない。
しかし、全くの事実無根の話ではなかった。学者の小楠和正先生がこの逸話について調査しており、
著書「検証・三方ヶ原合戦」で次のように述べている。
>家康の脱糞の話は、NHKの番組担当者からも、その話の出所を調べてほしいと
>頼まれていたのであるが、三方ヶ原合戦のことと思い込んでいたため、
>三方ヶ原合戦についての記述だけを調べていた。そのため、どの史料をみてもなかった。
>ところが、『改正三河後風土記』によると三方ヶ原合戦の前の一言坂の戦いの話とし、
>「是等皆妄説なる故削り去りぬ」とあった。
921 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 19:09:36.56 ID:jGflMwOB
これに従って『改正三河後風土記』の13巻、「遠州一言坂軍の事」を読んでみると、
次のように記述されている。
原書に大久保忠佐神君浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、
糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしをしるす。此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず。
是等皆妄説なる故に削り去りぬ。
(原書(三河後風土記)には、家康公が浜松に帰って来た時に大久保忠佐が
「馬の鞍壺に糞があるぞ。殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか」と罵った話を記している。
しかし、この日には家康公の御出馬はなかったので、お逃げなさるようなことはなかったはずだ。
これらは全て馬鹿げた話なので、削っておく。)
また原書三河後風土記によると、元の話は次のようになる。
家康公が浜松城に入り馬より下りた時、
大久保忠佐が家康公に聞えるように大声を挙げて、馬の口取りに向かって
「その馬の鞍壺を見てみろ。糞があるぞ!殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか!」
と悪口を言った。これは、家康公が本多忠勝の諌めによって一戦もせずに引き上げたのを
情けなく思い、かつ家康公が忠勝を我家の良将であると激賞したことに嫉妬したために、
このような悪口を言ったのである。
ということで、家康の例の話についての雛型?である。
ちなみに原書『三河後風土記』ではこの後に家康が頼朝の例を引いて
忠佐を諭したりする続きがあるが、そこそこ長いため省略。
改正三河後風土記については近代デジタルライブラリーのものを、
原書三河後風土記については、国文学研究資料館の
所蔵和古書・マイクロ/デジタルデータベースにおいて閲覧できるもの(740コマ)
を参考にしたので、原文を読みたい人はそちらからどうぞ。
922 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 23:06:46.41 ID:tCyx1SSq
彦左「誰だよ俺が書いたとか言った奴。」
923 :
人間七七四年:2014/04/09(水) 23:08:44.10 ID:qM/oaq/L
まああんたの兄だし
924 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 03:02:58.67 ID:1/ALXeMf
嫉妬心から脱糞疑惑をでっち上げるという三河武士の心の闇について
925 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:00:27.69 ID:i5X0zE6N
風評被害「政宗毒殺」の虚実
天正18(1590)年4月5日、会津の黒川城で伊達政宗の小田原参陣を大幅に遅らせる暗殺未遂事件があった−とされている
秀吉に反意を露わにし、地方の和すら平気で破壊する息子の政宗に恐れを覚えた母の保春院(義姫)が毒のなますを作り、
政宗を暗殺し、次男の竺丸を新主君として伊達家の安寧を目論んだとされるものである
この毒殺未遂により母子の対立は頂点に達し、政宗は保春院の溺愛する弟竺丸を7日に自ら斬殺したと伝わる
ただし、この毒殺未遂の根本史料は伝わっておらず、話が詳細に伝わるのは江戸時代の記録「貞山公治家記録」(元禄16年、1703年編纂)によるもので、
治家記録では食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、政宗はそのまま帰宅したとされているが、これについても否定的な見解があり、この混乱期の政情については諸説あるのが現状である
政宗の竺丸斬殺後も、【義姫は伊達家に留まり母子は親しく文の遣り取りをしていた】
竺丸が殺されてすぐに山形に逃げたとするのは【この時点で事実とは異なる】
(つづく)
926 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:13:30.58 ID:i5X0zE6N
(つづき)
保春院は文禄2(1593)年に朝鮮出兵中の政宗へ、現金三両と和歌を送る
政宗もこの文に感激し、母へのおみやげを探し回り、朝鮮木綿を入手すると「ひとたび拝み申したく念望にて候」としたためた書状を返送した
では、この文は山形から出されたのではなかったのか?
答えは【否】の様である
1999年、伊達政宗研究の第一人者であった仙台博物館長の佐藤憲一氏が新史料を発見した事により
【それまでの通説が覆され、政宗母子の仲睦まじい手紙のやり取りの理由の裏付けともなった】
文禄3(1594)年11月27日、政宗の師である虎哉和尚が岩出山から京都にいる大有和尚に宛てた手紙の発見である
大有和尚は政宗の大叔父で、この手紙の中で虎哉は「政宗の北堂(母堂)が(文禄年間)今月四日夜、最上に向かって出奔しました。これについてなにか聞いたりなされてますか?」と記している
この注目すべき史料の出現によって、母義姫の出奔は天正18(1590)年4月7日ではなく文禄3(1594)年11月4日であることが初めて明らかとなった
つまり「貞山公治家記録」の出奔の時期は誤りで、事件後義姫は政宗とともに黒川城から米沢を経て岩出山に移り、この年11月4日まで山形ではなく陸奥にいたことになる
(つづく)
927 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:33:30.56 ID:i5X0zE6N
(つづき)
これで事件後も二人の間で頻繁な私信の交換が可能だったことの裏付けともなる
ちなみに伊達家文書に残る政宗から母宛の最後の手紙は文禄3年11月25日、京都から出したもの
陸奥代官の屋代景頼に託されたこの手紙には、政宗が京都であつらえた母のための小袖が添えられていた。しかし、この手紙も小袖も時を前後して山形へと出奔した母のもとへと届くことはなかったと思われる
新史料の発見により義姫の出奔の時期が正された現在、その内容と大きな矛盾を含む事件のあらましに触れた「貞山公治家記録」の記述の信憑性は落ちる
義姫が毒を盛ったとするなら、事件後も政宗の元に居続け、仲の良い手紙のやりとりをしていることは理解に苦しむ事になる
「貞山公治家記録」は政宗が弟を手討ちにした【天正年間】のその晩に山形へ出奔したとして、義姫と背後に最上義光の事件への係わりを強く印象づけているが、そこに【改易された最上家】に咎をなすりつけ、綺麗な伊達家の正史としようとの作為は含まれていないだろうか
しかし、いずれにせよ4年後に義姫が岩出山から実家の山形に帰ったのは事実である
(つづく)
928 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:40:49.92 ID:i5X0zE6N
(つづき)
しかし「治家記録」にも纏まった史料としての価値はある
伊達政宗が茂庭綱元?に毒殺未遂事件の経緯を知らせた手紙が現像する
この中で政宗はお膳に毒を盛ったのは母と思われ、その背後に弟を擁立する反政宗勢力が【伊達家中】にあること、このままでは伊達家内部が二分し内乱となるおそれがあるため、やむをえず弟を手討ちにした、
弟には罪がないが母を殺すわけにはゆかぬので、可哀相だが殺さざるをえなかったこと等を詳しく打ち明けている
そして最後に「このようなことは自分の口からは言えないのでそなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へくどき広めてほしい」と意味深長なことばで締めくくっている
おそらくこうした政宗の意向が、政宗が岩出山を離れ京都・朝鮮へ行っている留守に徐々に噂となって家中に広まり、周囲の疑惑の目に居たたまれなくなった義姫が山形へ出奔したというのが真相ではなかろうか
政宗毒殺未遂事件の全容は、まだ闇の中にある
しかし、義姫を事件の首謀者としてきた従来の見解は、「貞山公治家記録」の信憑性とあわせて見直されるべき時代ではなかろうか
(佐藤憲一先生の政宗毒殺についての研究より)
929 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:51:37.69 ID:i5X0zE6N
これまで政宗毒殺の黒幕扱いとされてきた最上義光の小田原参陣直前の天正18(1590)年3〜5月のおおよその状況
3月?秀吉に、1588年からたびたび機を見ては上杉に奪われた庄内は私闘禁止令に背くのではないかと氏家守棟や池田盛周に資料を纏めさせ、坂光秀らを使者として中央に派遣
3月?徳川家康に進物をし、親睦をはかる
4月?父義守(栄林)の体調が崩れ、家康を通じ秀吉に小田原参陣遅参の許可を願い出る
(4月政宗毒殺未遂事件)
5月父義守死亡。葬儀を懇ろに行い短い喪を経て小田原へ向かう
930 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:52:46.31 ID:LC7aXpoF
931 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 05:55:16.56 ID:i5X0zE6N
(´・ω・`)Z鳳殿の観光ガイドさんは未だに「政宗公は母親に毒殺されかけ弟をやむなく手討ちに。母親はその日の内に山形に出奔しました」「歴史事実です」なんて観光客を相手に案内してる…
932 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 06:01:28.35 ID:i5X0zE6N
>>930 931の様な事がありましたので
掘り下げと詳細という事で
おそらく政宗ファンの中では
政宗毒殺は母と最上義光が犯人というのが事実としてほぼ定着しているんでしょうね…
大河「独眼竜政宗」でこの話の回が再放送される前に
いい機会かと思い投下しました
933 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 06:11:33.63 ID:i5X0zE6N
>>928 誤)しかし「治家記録」にも纏まった史料としての価値はある
正)だが「治家記録」にも纏まった史料としての価値はある
誤)伊達政宗が茂庭綱元?に毒殺未遂事件の経緯を知らせた手紙が現像する
正)伊達政宗が茂庭綱元?に毒殺未遂事件の経緯を知らせた史料が現存する
申し訳ございません
以上の訂正を宜しくお願い致します
934 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 06:30:05.07 ID:/SFlXU3Z
もしオンライン上で公開している文章を抜粋したのなら(似たような表現が多いし)
佐藤憲一先生の研究より、のとこにリンク貼ればいいのに
935 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 06:50:53.59 ID:+rLhe9kn
コピペ転載はつつしんでリンクに留めるのが良いね
936 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 09:06:41.18 ID:i5X0zE6N
>>934>>935 色々と申し訳ございません
932です
他に
前の方で語弊を招く書き方となりましたが
【一部の】政宗公ファンには政宗毒殺未遂事件の真犯人は最上義光といった形で
小説や漫画、大河ドラマなどの影響で
根強く定着しているのかな、と
司馬遼太郎の「坂の上の雲」における某将軍に似た位置付けなのかと感じます
937 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 10:27:13.01 ID:o+xTFS9h
出奔する時期が違うだけで、結局は義姫が絡んでるんだろ?
938 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 11:56:56.05 ID:JDN5WJMR
ちょっといいスレにも同じ人がいるけど、
何かをみながら書いてるのかわからないけどもう少し簡素にまとめることは出来ないのかな?
修飾語とかいろいろと省けるところはあると思うんだが〜
939 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 12:44:06.28 ID:Z4Asiwkk
伊達家の話かと思ったらいつもの最上ファンか
毎回のようにまとめ人に訂正させてるし、
投稿する前に落ち着いて自分の文章三回以上見直したほうがいいと思う
940 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 16:36:19.43 ID:RrgGIMmx
文をに三回推敲したつもりでも見落としがあって、まとめに誤変換のまんま乗ってコメントでボロクソ叩かれたけど
まあしょうがねえやと諦めた俺が通りますよ
941 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 17:42:23.19 ID:bHuZaDVA
最上ファンの人が投下するのは逸話というよりも
考察コラムになってる気がするな〜。
942 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 17:47:35.83 ID:xt5Df9J1
速攻NG入れとけば気にならんぞ
連投、改行、顔文字、最上か伊達の話題、等で特徴あるから読まずに分かるし
人の話を聞く耳ないし、まとめ人には気の毒だけど
943 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 18:44:29.57 ID:bHuZaDVA
長宗我部元親はかねてより秀吉公の御成(おなり)を願い
その準備に二・三年をかける程であり
金銀珠玉を費やしたその普請の結構な事、言うことなしであった。
さて既に普請も完了し、御成の日時も決定した所に
どうして誤ったのであろう、御門の寸法が低く、御車の出入りができないとわかった。
これを聞いた元親、大いに怒られたが、余日もなかったので
俄に白木にて御門を建てた。
始めの門は毀ち置かれたが、元親卒去の後、土州吾川郡長濱に菩提寺を建てた際
これを流用し今もあると聞いている。
(土佐物語)
万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴、という逸話。
ちなみに慶長元年4月に秀吉は元親伏見邸に無事御成となり
以下の超豪華メンバーが一同に揃いました。
江戸大納言、筑前中納言、加賀中納言、安芸宰相、大野宰相、越中宰相
結城少将、若狭侍従、郡山侍従、伊賀侍従、吉川侍従、出羽侍従
大崎侍従、安房侍従などなど。
944 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 20:03:25.08 ID:JDN5WJMR
文句だけというもなんなので・・・
TERUさんのタグにはなかったので
盲ぎり
関ヶ原後、毛利家は八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
まず家臣の家禄を五分の一に減らし財政の建て直しを計ったがそれでも見通しがたたず
いよいよ家臣団を整理するしか方法がなくなりました
毛利氏をしたい、生死を共に分け合った家臣を辞めさせるのは偲びがたいので
盲ぎりという方法をとったそうです
これは
殿様の前に家臣の名を書いた帳面を置き それを家来が一枚一枚めくっていく
殿様は目かくしをして 筆をもってその帳面に筋をひいてく
名前に筋がかかったものが武士をやめ帰農することになる
という方法で、筋をひかれた者は運が悪かったとあきらめて帰農したということです
運まかせで整理されちゃう家臣ってことで悪い話に・・・
帰農した家臣が殿様へ直接的な不満をもたないようにワンクッション入れるための手段なんでしょうけどね
945 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 21:34:39.23 ID:hmeg8M3b
細川越中守(忠興)には終に戦功というものがなかった。一度だけ、織田信長死去の年に、
甲斐攻めの合戦において能く陣を張ったと、後に秀吉が褒めた。戦功らしきものはこの一事だけで
あるという。
(老人雑話)
朝鮮の役や関ヶ原でも活躍したのに、何故か老人雑話でdisられている忠興公である。
946 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 22:15:20.80 ID:FAxApm4+
本能寺の後に丹後を平定してからは秀吉存命中に加増がなかったからなぁ…
947 :
人間七七四年:2014/04/10(木) 23:25:48.02 ID:qdRMeZG3
>>944 これも一種の困ったときの神頼みみたいなもんかね
948 :
人間七七四年:2014/04/11(金) 10:55:33.78 ID:cleLH+iX
>>943 えっと、ラスボスと随行が家康・隆景・利家・秀元・信雄・忠興・秀康・木下勝俊
秀保・筒井定次・吉川広家・(´・ω・`)・正宗・里見義康
こんなメンバーの中で恥かいたら....
949 :
人間七七四年:2014/04/11(金) 12:00:38.42 ID:vY3+eKpC
そらもう金の十字架よ
950 :
人間七七四年:2014/04/11(金) 13:47:17.37 ID:kYjoAw2H
大崎侍従にいじられる
951 :
人間七七四年:2014/04/11(金) 15:30:57.22 ID:brd+4SfO
現存する政宗の手紙の花押の鶺鴒(せきれい)に針の穴なんて開いていないってのは既出?
権現さまのうんこみたいに元ネタがあるのかな?
952 :
人間七七四年:2014/04/11(金) 22:07:37.74 ID:ISRSLXG6
アレは物語
953 :
人間七七四年:2014/04/11(金) 22:12:39.84 ID:ISRSLXG6
仮に事実としてあった事だとしても
「その手紙はニセモノです」「本物は穴があいています」と誤魔化す為の話
なので、本物の政宗の書状でも実際には穴が開いて無い
954 :
人間七七四年:2014/04/12(土) 04:20:57.60 ID:c/cSDpFv
つまりすべてニセモノの書状・・・!
955 :
人間七七四年:2014/04/12(土) 22:35:03.02 ID:WgiqqBYR
天正18年(1590)から始まった庄内藤島一揆は、雪の荒れ狂う冬を越え翌年になってもおさまらなかった。
この間、攻め手の上杉勢は何度か和睦の使者を送ったが一揆勢は受け入れなかった。
そこで直江兼続は一計を案じ、配下武将を和議に赴かせ起請文を作成し、交渉した。
これに応じた一揆首謀者・金右馬允は佐渡に流された。
それからおよそ三ヶ月後の九月、豊臣政権より藤島一揆の残党狩りを命じる文書が上杉家に届く。藤島一揆の者たちは、九戸政実の乱とつながりがあるとみられたのだ。
かくして上杉の率いる大軍が庄内に入り、熾烈な残党狩りを行ったのだ。
その様子が『庄内騒動故老聞書』という本に記載してある。
上杉勢は村々を攻め、女子供まで捕らえた。
藪に隠れた者は槍で突き、木に登った者は鉄砲で撃ち殺す。
美形の女性などは侍どもが集団で嬲り、殺される者の数がしれなかった。
太い竹に子供の首を五六個吊し担いで持ち歩き、痩せ馬の尾に老若男女の首を髪で結びつけ、ひきずって練り歩いた。
溝は死体であふれ、道は屍だらけであった。
修羅の巷とはこのことであろうか。
地獄の責めとはこのことかと生存者の老人は語った。
住民が全滅してしまった村もあった。
狼が夜な夜な死体を食い荒らすので、この夜の終わりかと思えたそうだ。
956 :
人間七七四年:2014/04/12(土) 22:53:24.85 ID:1KcdLE+o
有名な話ですが朝野雑載より。
近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。
18歳の時に
「俺はこのまま農夫で終わるのは嫌だ。いまはこんな時代だし、侍になって出世して、金持ちになって有名になるんだ!」
と思い立ち、妻に離婚を言い渡した。
いきなりのことに驚いた妻は
「わたしが何かしましたか?何で家を出されなきゃいけないんですか?」
と訊ねると、九兵衛は
「いや、何にも悪いことしてないよ。ただ、俺はビッグになるから明日出ていきます。ご飯をたくさん炊いといて。」
と有るだけの米数升を炊かせて、友人を呼んで宴会をした。
「ビッグになるぜ!フェイマスに!( ̄∀+ ̄)キラッ」
みたいな志を語った後、本当に家を出て行った。
その後、宮部善祥坊に草履取りとして仕えた。
後の田中吉政である。
いい話ではないなと思ったのでこちらに
957 :
人間七七四年:2014/04/13(日) 00:15:29.00 ID:q6o0kaFC
でも本当にビッグになったのはすごいw
同じような事して埋もれていった人間も大勢いたんだろうなぁ
958 :
人間七七四年:2014/04/13(日) 22:37:45.83 ID:R/VeEKGy
ビックになったからこそ話が今にまで残ってるんやろうね〜
草履取りだとやっぱり嫁さん養えんのかね・・・
立身して離縁した嫁を迎えにいったとかになるともう物語りとかになっちゃうんやろな〜
959 :
人間七七四年:2014/04/13(日) 22:59:59.24 ID:dQ0K+QoF
豊臣秀吉の時代。
聚楽が建設されたあと、大阪にも大規模な建築のことがあった。しかしその材料等の計算が難航し、
日数を経てしまった。
この様子を秀吉は見て
「お前たちの勘定がはかどらないと、必ず材木等(を持つ者)に利を得させることになるだろう。
彼らの持つ宝も。我家にある宝も同じことだ。私に用があって取るのに、一体誰が否と言うものか。
さあ、早く事を計れ!」
そのように言ったという。
(老人雑話)
秀吉の堂々たる「人のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」宣言である。
960 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 01:09:28.46 ID:q7JWBRtX
>>958 草履とりじゃないが重耳は迎えにいったのかな?
961 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 16:31:08.01 ID:s7lc4QLE
そんな逸話あったっけ?と調べてみたら、
重耳と孟嘗君がごっちゃになってたわ・・・
962 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 17:58:28.03 ID:UipWGa/A
十二月に地頭・代官から年貢の催促があったのに払わないでいると、
大切なあなたの妻を質に入れる羽目になりますよ。
そんなことになったら、若い小者や中間があなたの妻を犯してしまいますね。
荒々しい世間の風にも当てたくない大事な妻が、若い者に犯されるがままなんてひどいですよね。そんなことになったらあなたの人生は終わります。
周囲の人にもバカにされて、本当に耐えがたいことになります。
そんなことにならないように、十一月中には年貢を納めましょう!
年貢を納めたら正月の準備ができます。年貢を納めて、めでたい年末年始にしたいですね!
直江兼続著『地下人上下共身持之書』より抜粋
963 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 19:07:32.69 ID:PVqVSTei
ほんま人を怒らせる天才やw
964 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 19:54:21.76 ID:cniF/GiA
本人に悪気はなくて大真面目なんじゃないか?
素で性格がわるいというだけでw
965 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 20:06:55.01 ID:WIoEKrWb
本当に本人が言ってそうな気がしてくるわ
966 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 20:19:11.07 ID:VH+vnNa1
直江って屑なのに何であんなに持ち上げられてるの?
967 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 20:28:42.01 ID:A3kGIYHV
968 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 20:36:01.57 ID:AUVkqdDj
>>967 誰か洒落字幕で
「提供 2ちゃんねる ドワンゴ ニコニコ動画」とか入れてくれないかな。
969 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 20:38:58.59 ID:II/k3Pg4
直江は本当に性格悪いね
こりゃ奸臣言われますわ
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜
1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。
この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。
「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)
971 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(
>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。
先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。
好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。
972 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 22:33:16.48 ID:fmYNFf/q
>>967 逸話自体の真偽はともかく、これ本当にやってたら鬼畜過ぎるだろw
973 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 22:41:09.77 ID:s7lc4QLE
毛利さんに限らずやっていてもおかしくないような・・・
974 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 22:55:33.02 ID:VH+vnNa1
>>972 刈田狼藉なんて戦国時代なら常識だから。
おまえがやらなくても相手は容赦なくやってくる。
975 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 22:56:08.44 ID:g2KWYUFx
976 :
人間七七四年:2014/04/14(月) 22:56:37.24 ID:JP/bJEGc
戦国乱世に現代の倫理道徳、人権で考えてもねぇ
毎年暖かくなると関東に人さらいに出掛ける軍神様や、甲斐の虎
薩摩隼人や大友も互いに豊後や筑前の人間拐っては島原経由で海外に売ったりしてるしね。
元就の永禄伝記の苅田戦法も小早川隆景伝らしいから事実じゃないかな…
藤木久志著作の「飢餓と戦争の戦国を行く」「新盤 雑兵達の戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」にまとめて載ってるばい。
日本に限らず、フランスでも100年戦争中はそんな感じただったらしいし、世界的に苅田戦法や奴隷狩りが流行ってたってか当たり前の時代だったんかねぇ
977 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 00:56:42.74 ID:89gVv3x8
孫子にも相手の麦を奪って食うのは自分で持ってきたのを食うのの何倍も価値があるとあるし
古来から普遍でしょう
978 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 01:04:31.10 ID:OvLZry8w
相手を弱らせ味方を富ます
悪評も、守れなかった相手持ち、といいとこ取りだな
979 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 02:51:41.48 ID:v3tTNlPc
武田は信玄の制札あっても普通に狼藉していったらしいけど、他もそんなもんかなあ
980 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 11:45:28.99 ID:YDFul9VB
普通が何か分からないが武田だと馬の飼料の大豆は禁制の範囲外だったりはした。
守られない場合もあっただろうけど武田北条などはかなりましで
西国だと乱暴人が来たら討ち取れ、敵対したとは取らない。という内容の
守られないこと前提の禁制というより防戦許可書が多かったりとか
981 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 12:23:33.52 ID:90c4I//7
逸話とは色が異なるのと、知っている人は知っているだろうけれど、知らない方もいると思うので投下
前田利家の甲冑の悪い話
天正年代初頭、織田信長が北陸を平定すると、前田利家は尾張荒子から越前の府中へと領地替えとなった。この異動の際に焼き打ちにより荒廃していた菩提寺の尾張荒子観音寺を再建。
利家が府中入城の折りに着けていた甲冑を同寺へと寄贈した。
『浄海雑記』
そして時は流れ昭和の50年頃、荒子観音寺の住職日置和尚は寺の倉裏の片付けの最中に、荷物の山の中に無造作に置かれた埃にまみれた木箱の中から破損の著しい甲冑を発見した。
982 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 12:26:00.57 ID:90c4I//7
「利家公由来の寺だし、価値があったらこのままにしておくのは忍びない」と日置和尚は博物館に保存について相談をしたが、(当時は大人の事情で)預かって貰えなかった。
甲冑はそのまま寺の倉裏に置かれる事になった。
平成の世になり金沢で古文書を読みあさっていた郷土史研究家の武田茂敬氏が前田利家の甲冑について触れられている書物を目にし、荒子観音寺に連絡を入れた事から事態が大きく動いた。
日置住職「(おそらくそれに該当する甲冑が)あります」
荒子観音寺の甲冑の箱には「前田利家公着領甲冑」と墨書で記された添え状もついていた。
甲冑は兜鉢が金属疲労で欠け、胴もバラバラであったが、傾奇者の利家のものらしく
金箔や朱の縞模様が残っていた。
結果としては日の目を見たが、歴史遺物が一度は見つかりながらも
野に埋もれたまま忘れかけられていた悪い話。
983 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 15:26:55.42 ID:ahg1863w
四国霊場八十番札所、国分寺は聖武天皇の勅願により、行基が開基したと伝わる古刹である。
空海が堂宇を増設したとか、律令制度と共に衰退したとか、鎌倉時代に再興したとか・・・まぁ、歴史が古いだけに色々あったが、天正のころには度重なる兵火で廃れ果てていた。しかし慶長のころに生駒一正により再建された。
この寺には開基より伝わる梵鐘があり、古くより音色の良さで知られた名物だった。一正はこれに目をつけ、高松城の時鐘にしようと田1町と無理やり交換した。
しかし予想よりもはるかに重く、運ぶのに難儀したうえ、城についた途端、音色がよいどころか
「いぬ〜いぬ〜(帰る帰る)」
とヘンテコな音がでた。
おまけに城下で悪疫が大流行し、ついに一正も病に臥してしまった。
そして毎夜、一正の夢枕に梵鐘が出てきては
「いぬ〜いぬ〜」
と、しくしく泣いたという。
これには堪らず、一正はついに鐘を国分寺に返すことにした。
不思議なことに、城へ運ぶ時とはうって変わり、軽々と運べた上、寺についた途端に再び美しい音色を響かせた。
いつの間にか疫病も収まったという。
この梵鐘は国の重要文化財として今でも国分寺に伝わっています。
984 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 16:14:32.09 ID:ahg1863w
寺を修復して、代価を払って鐘をもらったのに祟られた一正さんが報われない気がします。
985 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 18:19:15.14 ID:90c4I//7
986 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 19:42:42.79 ID:uY+eeCEC
そういえば安珍・清姫の鐘をセンゴクが略奪したそうだけど
まとめにあったっけ
987 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 20:28:58.08 ID:szix73TG
たしかあった
988 :
人間七七四年:2014/04/15(火) 21:53:19.28 ID:sUrxygr0
>>984 修築に金出したとはいえ、その代価ともいえ無理矢理金受け取らせて嫌がる相手から奪うように
取得しておいてそれはちょっとねぇ・・・
生駒さん家は親父の親正が丸亀城の石垣の件で石垣づくりの名人殺したり、
無実の豆腐売りを人柱に(親正指示じゃないかもだが)して埋めたりして軽く祟られてるからなぁ。
989 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 02:52:42.54 ID:k6etqqGP
本年(1586年・天正13年)に、堺と都からその周辺にかけて、極めて異常で恐るべき地震が起こった。
それはかつて人々が見聞きしたことがなく、過去の史書にも読まれた事がない程の凄まじいものであった。
というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることは、さして珍しいことではないが、本年の地震は
桁外れに大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えたのだ。
それは日本の11月1日のことで、我らの暦での、1月の何日かに当たるが、突如大地が振動し始め、
しかも普通の揺れ方ではなく、丁度、船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし茫然自失の体に陥り、下敷きになって死ぬのを恐れ、何人も家の中に入ろうとはしなかった。
というのは、堺の市だけで30以上のグドンイス(倉庫)が倒壊し、15ないし20名が死んだはずだからである。
その後40日間、地震は中断した形で日々が過ぎたが、その間1日として振動を伴わない日はなく、
身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
地震がもたらした被害は甚大で、破壊された町村は数知れず、その参上は信じがたいばかりであった。
ここでは、それらの目撃者が後日、司祭たちに語った主なものだけを述べることにする。
近江国では、過去、関白殿(豊臣秀吉)が信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城のある土地に、
人家千戸を数える町があった。そこでは地震が起こると大地が割れ、家屋の半ばと多数の人々が
飲み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間の炎上し灰燼に帰した。その火が天から来たものか、
人間技によるものか知る者は居ない。
都では若干の家屋と、壬生の堂と称せられる大きいテンプロ(社)が倒れた。我らのカーザス(修道院)は
高い建物であったので危険に晒され、キリシタンたちは倒壊しないかと大いに危惧したが、頑丈に
出来ていたので、我らの主なるデウスは保持されることを望み給うた。とは言えそれは他の家屋同様に、
左右の振動を免れ得なかった。
若狭国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きな町があった。そこには多数の人々が出入りし、
盛んに商売が行われていた。
人々の大いなる恐怖と驚愕の内にその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が
遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いでその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに
破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の
泡だらけとなって、一切のものが海に飲み込まれてしまった。
美濃国には日本でも極めて著名な一城がある。同城にはかつて我らの同僚たる一司祭がいて、幾人かの
キリシタンを作っていた。その城は山上にあったが、地震が始まると城と山は下方に崩れ落ちて、その跡には
一面の湖が残るのみとなった。(おそらくは飛騨の帰雲城の事)
伊勢国にも大異変があって、この度の地震とその驚愕すべき破壊の中には、亀山と称する城の倒壊も
混じっていた。
これら上記の諸国では巨大な口を開いた地割れが生じ、万人に恐怖をもたらした。その割れ目からは黒色を
帯びた泥上のものが立ち上り、酷く、かつ忌むべき臭気を放ち、そこを通行するものには耐え難いほどであった。
これらの地震が起こった当初、関白(秀吉)は、かつて明智光秀の物であった近江の湖のほとりの坂本城に居た。
だが彼は、その時に手がけていた一切のことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大阪へ避難した。
そこは彼には最も安全な場所と思えたからである。
関白の新しい建物と城は、酷く揺れはしたが倒壊するには至らなかった。
関白は大地の振動が4日も継続し人々の恐怖と驚愕が鎮まらぬ間、奥方及び自分の婦人たちを伴って
カーザ(館)を出、御殿の中の黄金の屏風で囲まれた、ある場所に身をおいた。
その大阪では関白の弟の美濃殿(豊臣秀長)の館が倒壊したが、その館はすこぶる頑丈、後代、かつ美しい
物であったから、倒壊するなどとはとても考えられないことであった。
この地震が続いた間、及びその後の数日間はこの話で持ちきりで、異教徒たちは日々目撃することや、遠隔の地の
惨状を耳にする度に、言いようもない恐怖に打ちのめされた。だがその後、ごく僅かな月日を経てからは、
まるで何事も無かったかのように、地震について話したり思い出したりするものはいなくなった。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスの日本史における、天正大地震についての記載である。
990 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 10:34:51.04 ID:h9d3RSdp
>四日四晩休みなく継続
東日本で2〜3分間、南海トラフ地震で予想8分なのに
どんだけ揺れてるんだよ
991 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 11:27:11.30 ID:GhWfMWh5
丸一日揺れ体感できないようになるまでを一つの地震として考えてたとか?
992 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 11:33:13.42 ID:yt/GKHlU
普通に余震込みつー事だろ
993 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 16:21:26.64 ID:3O1NE2n/
吉田久左衛門は鶏を陣屋で飼っていた。
家康公はある夜、鶏の声を聞いて
「これは多分、吉田久左衛門が飼ってる鶏だな?」
と尋ねたところ、確かに久左衛門の鶏だった。
「時間を知ろうという心掛けだな。奇特なことだ。」
と感心した様子だった。
この吉田久左衛門は妙な心掛けのある人だった。
後に関白に仕え、その後は結城秀康に仕え、大坂の陣の時は吉田修理と名乗っていた。
大坂の陣の時、家康公は
「吉田修理とは何者か?」
と尋ねたので
「吉田久左衛門と名乗っていた者です。」
と、ある者が答えた。すると
「それは俺を嫌って関白のとこに行った者だな」
と言ったという。
吉田修理は大坂で討死した。
準備は良かったが、権現様の心証が悪かったっぽい吉田修理の話。
994 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 16:24:29.31 ID:k6etqqGP
そろそろ新スレ行ってみる
995 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 16:26:15.45 ID:k6etqqGP
996 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 17:13:05.69 ID:3O1NE2n/
敗軍の大将が、士卒からはぐれて、どれほど落ちぶれていても生捕るべきではない。
何故ならば大将が生捕りになるのは、その人のためにならない。
第二には生捕ったと言うよりは、首を取ったと言うほうが聞こえが良い。
稲葉良通の家来、稲葉土佐は朝倉義景の首を取って天下に名を知られた。しかし田中吉政の家来、田中伝兵衛は石田三成を生捕ったが稲葉土佐ほど名を高めなかった。
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は朝倉義景の首を朝倉景鏡から受け取ったらしい。
武功雑記より。本当なら朝倉景鏡と稲葉土佐の、ちょっとどころでは無い悪い話。
997 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 17:58:07.62 ID:yt/GKHlU
西尾久作「くたびれた所を討ち取ったけど手柄にならなかったお。」
998 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 18:06:42.13 ID:NDSrp69y
999 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 19:19:43.18 ID:tWoIoNDs
999なら山内一豊が真人間になる
1000 :
人間七七四年:2014/04/16(水) 19:27:51.90 ID:E883xy77
前田茂勝
(# ゚Д゚)「ゲットオオオオオオオ」
1001 :
1001:
/ `ヽ、
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゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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