結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの?2

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15人間七七四年
信長の安堵状等の発給文書が天文21年秋以降に増えることから信秀の死は天文21年3月?
信長は元服以前から嫡男として遇されており、 父信秀が熱田の北に古渡城を築いて移った際に、
信秀のいた那古野城を譲られ、宿老筆頭のいちおとな林秀貞をはじめ?
と池上氏が去年末に出した本には書いてるね。
当主が自分の後継者に自分の城を譲って移転するってのは三好長慶が嫡男に芥川城を譲ったり、
伊達輝宗が政宗に米沢城を譲り隠居城を作りはじめたり、
信長が岐阜城を信忠に譲り安土城に移ったりと例がみれるね。
末森城って天文17年築城だから時期的にいって単なる隠居城でしょ。
しかも織田当主信長の名古屋城の東側を守る前衛だし。
柴田権六、佐久間次右衛門なんてしょーじき当時は一次史料にも出てこない程度の存在だし、
織田外交を一手に行ってたのが一次史料ではっきりわかる平手とは天地の差でしょ。
柴田と佐久間って当時はどんな地位で、なんの職だったん?それすらぶっちゃけわからんでしょ?
そもそも信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの? 完全に妄想レベルだよね。
だいたい発給文書数自体でいっても信勝はほとんど無いのに、信長に比する地位にいたなんて解釈は文書数からいってもあり得ない。
そもそもたかが末森城ひとつで何ができんの?たった1城持ってただけで当主顔できんの?
末森城なんて守山城とともに名古屋城を守るためにあるようなもんでしょ。

そもそも信勝が信秀と末森城で生活していたなんてデタラメだし、
単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。
信秀死後に信長が戦をする時はたびたび信勝も家臣の柴田を派兵しているように
織田家総領の信長というスタンスは証明される。
第一、信長につけられた織田家いちのおとなの林は寄親として荒子城・米野城・大脇城を指揮してるが
柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。
さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。
そうして平穏に時が過ごしていたら1544年に道三が隠居に追込まれ
さらに事態は悪化し1555年に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵し、信長と義龍が敵対状態になった。
時を同じくして1555年6月に信長と信行の弟の喜六秀孝が守山城主織田信次に謝って殺される事件が発生。
恐怖した信次は守山へ戻らず逃亡。
これの対応を巡って信勝が信長へ相談なく勝手に守山へ攻めこみ
遠乗り中にそれを聞いた信長が「俺の弟ともあろう者がたった1騎で下郎のように歩いていたとは!
生きていたとしても許せない」と激怒。
結局、信次の家臣が篭城していたので信長軍に柴田を援軍で派兵し佐久間信盛の説得で開城し
守山城は信長の弟の秀俊が治めることで和睦。
このころから林と柴田が内通し信長へ謀反を企ててる風聞が流れ
そして1556年4月20日 斎藤道三討ち死にし義龍が完全に美濃を制圧。
1556年5月26日信長と秀俊が林邸に出向いて様子を伺う事件が発生。
翌日林が信長に謀反+守山城で秀俊が角田新五に暗殺されるという事態に発展。
信長は先に逃げていた前守山城主信次を呼び戻し守山城主に復帰させる。
8月22日に信勝から離反して信長についた佐久間大学が前線に砦を築いたことから
24日に合戦に発展。

明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、
しかも守山城主の織田信次を明らかに信長は厚遇している。
さらに角田新五を不問にしてるため、そもそも織田秀俊暗殺も信長の謀略との疑いがある。
この後まもなく信長の庶兄の信広も斉藤家と内通して清洲城乗っ取りを狙うも失敗するなど
信長による兄弟粛清の荒らしの謀略に追い詰められ義龍に内応する織田一族の構図が見える。
これを見ても信秀が信勝を信長お対抗馬にしようなんて考えはない。
16人間七七四年:2013/11/05(火) 13:14:52.35 ID:RvJAltH0
>>信秀は今川に尾張半分を奪われてた
信長領だった鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、 今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点では鳴海はちゃんと引き継いでいるし。
>>沓掛・高大根・部田村
城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて
織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。
しかも売地だった土地を買い戻してやっただけじゃん。
そもそもこの手の城も奪わずに土地だけ安堵とかしてる書状なんて
実際にその土地が敵方陣営にいる親族が所持していたらカラ安堵を普通にするもんだし。
当時の国人は国の堺とか関係なしに先祖代々の飛び地を持ってる(越後国人が武蔵や伊豆に土地を持ってたり)
またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。
実際に土地が伴った安堵ではないことは城を落とした結果という過程を経てないことからもわかる。
丹羽氏同士の本家争いで持ってない土地を今川が自陣営にいる方に安堵を出してる可能性も高いわ。
地域の拠点たる城を奪われたりしたわけじゃないのに、これで信秀が不利なら何で同時期に織田との和睦結びたいあまりに、
信秀が和睦の条件に要求した刈谷城を織田に返却してんだよ。
むしろ信秀が今川の背後の北条と連絡を取るようになったから安祥城までしか動けない限定的行動に
制限されたからこそ 翌年には信秀へ刈谷城を返却するはめになってるやん。
そりゃあ城を返却してまで今川は和睦したがってんだもん。面子もあって懇望してきたとかいいわけするだろ。
なにせ天皇が女房奉書で和睦して修理代を出すように言ってきた時ですら
意地になって今川は和睦はできないとメンツを気にしてたじゃん。
結局、信長公記でいうところの備後守殿に御目に懸けられ候と書かれて
信秀お気に入りの山口ルートを使って城を返却するから和睦してってすがってんじゃん。
最初から朝廷ルートで和睦を受け入れてたらメンツを気にすることなかったのにw
だいたい丹羽氏勝と丹羽氏秀の争いは天白川の水利権を巡る同族内争いであり
そもそも今川はまったく関係ない。関係ないんだよアホがw
お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを
無理やりこの争いの関係者に位置づけるトリックを用いて今川が関わってるように捏造してるだけ。
丹羽宗家の岩崎城側が藤島側へ圧力をかけたので、藤島側が双方の上位権力の信長に仲介を求めたから
トラブッた話だろうが。それで言うことを聞かない岩崎を信長が攻めた挙句に大敗し
このことで藤島方は今川方へ逃亡するしかなくなった(名古屋/岩崎/天白川/藤島という位置により名古屋へ逃げれない)
その後、天文22年中に岩崎側も今川を頼り、鳴海城主の山口左馬助父子も織田を見限ってる。
17人間七七四年:2013/11/05(火) 13:16:49.60 ID:RvJAltH0
>>俸禄が増える形になってますけど
そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
氏真の松井への評価はもともと非常に高い。
いままでの武功を箇条書きにして並べた後に
苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのは
苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように
苅屋在城していた時、失った後で時期を区分している。
つまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが織田軍に封鎖され城を失ったってことだろ。
その後に続く文章で判明するが、城からの収入じゃなくて 今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。
文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも解釈できる。
苅屋在城以後弐万疋 近年万疋 以蔵入雖出置之
在城時と近年で時代区分を分けている。
これは失われたことを意味していて、それでも(雖も)忠節してきたから
そのままさし置いておくこととし代わりに蔵から支給してるってことだ。
1万疋追加は依今度忠節を評価して蔵より為彼三万疋之改替に替え改めやってんじゃん。
>>飯豊と密書を送って密議を重ねるなど
へっ?その信秀が今川との和睦をぶち壊そうとして駿河や遠江の国人との内応話の密書が
鵜殿へ回覧されたが、鵜殿は内応に同意せず、あくまで和睦するべしと主張し
逆にこれ以上あちこちへ信秀の書状が渡らないよう飯尾豊前守へ渡さず
鵜殿が止めて安心なる人物へ、この密書をまわすことを批判してるやつのことか?
信秀の申し出を読んだら朝比奈や庵原をはじめとした駿河・遠江の国人が同意し喜んで戦い始めることを予測し
安心も同意するなよと説得してる書状写こそ年がまったく確定できない書状じゃん。
だいたいその義元8万騎はお前の捏造歪曲だろw
定光寺年代記に実際に書いているのは5万騎。そしてこれはどの学者もありえないとしていて
百歩譲っても、当時流れていた風聞をそのまま書いただけだろうとしている。
さらにこれが信長公記を記述する際に桶狭間の戦いの元ネタに盗用されたといわれてる。
新修名古屋市史も 定光寺年代記の「尾州錯乱、八月義元に関して、
義元が知多郡に侵攻した事実は見出せないと否定してたよ。
定光寺年代記には、 天文19年に尾州錯乱したので、
8月に義元5万騎にて知多へ出陣し12月帰陣と言う誤伝があり、
これが信長公記の桶狭間の戦いの元ネタだったりする。
この風聞を天文21年に移動させて創り出された架空話が桶狭間の戦い。
信秀死去との間で調整するために桶狭間の戦いは作り出された。
>>信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
信長公記には信長側近の後に家老の衆も出席したと書いてるじゃないか。曲解もいい加減にしろ。
>>地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。
林は平手の自害を見てあきれ果てて信長から離反したんだし、
佐久間大学は正当な主君が信長だと知ってるから信勝の謀反に組しなかったんだろ。
>>でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録
信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。 屁理屈をたれんな。
>>柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな
そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。
18人間七七四年:2013/11/05(火) 13:17:32.72 ID:RvJAltH0
>>東の加藤家に対して信長と対抗するために
だから本家の熱田八カ村の管理もしてる西加藤家へは信長、
分家の東加藤は信勝によって分掌されていただけのことだ。
東加藤なんてなんも力がないじゃないか。
さらに天正20年9/20熱田神宮座主に対して備後守並びに三郎の先判の旨に任せ?
と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、
信秀の名乗りであった三郎を継いだ信長より下位にいるのは明白で序列がはっきりしてる。
弾正忠を名乗るくらいなら備後守を名乗るだろwそもそも信長は存在しない架空の上総守などと完全にウリジナルを名乗ってるし。
>>天文22年の勘十郎判物
信秀任先判之旨免許舟之事
信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。
明らかに信秀がすでに死んでいることの証明じゃないか。なんでこれをもって天文21年死没を否定できるのか意味不明
生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。 やはり信秀は信勝を優遇なんてしてないわな。
>>勘十郎が守護代家と結びついたのは
はいはい妄想乙w達の字に改名したことからの連想ゲームですねw
じゃあ信長に左遷され竜泉寺城主織田武蔵守信成に成り果てた信勝の「成」は誰からもらったのw
弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど、弾正忠にどれほどの価値があったんすかねぇw
なんかその後もテキトーな妄想を書いてるようだけど、結局、信秀が信勝を信長の対抗馬にしようとは
思ってないし、信勝も信長配下として働いている。その良好な関係が崩壊したのが道三の強制隠居劇と義龍の政策にリンクしてるだけ。
誰に利用されてるとか利用してるとかどうでもいいよ。信秀がそう仕組んでいたのではなく、信長が大うつけで尾張の結束を崩壊させ
道三の後見が失われた時に、ついに信長の味方だった信勝もついに信長を見捨てざるを得なくなったことが理解してもらえたら。
>>斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない
弘治3年4/19には当時は高政と名乗っていた義龍が尾張武蔵守宛てに書状を出してるのが残ってるのも知らんようだな。
様子を伺いたい。こちらから派遣した使者に伝えたいことはすべて申し伝えているので、直接聞いてください。
これからも重ねて連絡するので書面には詳しく書くのを避けます。
あきらかに怪しい文面だよな?義龍は尾張情勢に干渉してんだよ。当たり前だよな、失脚させた父が後見していた信長を放置できるわけがない。
委曲申含進之候なんて思いきっり怪しいだろ。
じゃあこの書状の評論した横山住雄氏のコメントも紹介しておこう
「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」
一般常識ある人間ならそう解釈するわなw曲解するアホには単なる挨拶に見えるんだなw
でさ、織田が大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?まさかまた妄想を重ねてるの?
道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見
この流れでいつ大垣城が道三に襲われて奪い取られるんだよ。妄想もいい加減にしとけ。
信秀は天文18年春あたりから体調を崩してから(美濃国諸旧記)
信長への権力移譲を少しずつ開始していて後見役として、自分が死んだ後も信長が安心して統治ができるよう
親心として内外の問題を解決する方針に変更していた。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)
19人間七七四年:2013/11/05(火) 13:18:48.23 ID:RvJAltH0
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。

信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
だいたい信長伝説(笑)が一人歩きしててどうしようもない。
たとえば岐阜の命名にまで天下統一の野心が伺えるとか
平気で書いちゃうのがエセ歴史家だからね。
そもそも快川やその師の仁岫らが岐阜を仏教の力で守護するという意味で
護阜という名称をずっと使ってたのも知らんで
信長が名称を改めたって主張する信長公記のデタラメを妄信してんだから。
はっきり言ってこれ美濃で力があった臨済宗への信長の媚び諂いでしょ。