12 :
人間七七四年:
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるように
天文18年11/5付け織田与十郎書状には備後守病中故と書かれており
神宮文庫の日記断片にも天文17?18年頃に信秀を入道と呼び、信長を若殿と書いており
信秀が当主を退いて後見役になっていたとされる(病だろうと右筆が書くから関係ない)
同じ時期に信長と濃姫の婚儀もあり
それと同時に天文18年11月に藤原信長として熱田村に書状を出していて
これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり
信長を後継当主として擁立した流れとされている。
さらに天文21年10/21日には桃岩(信秀の法名)の判形の旨に任せて安堵という書状を
信長は大叔父の玄蕃允秀敏へ知行宛して当主権を行使している。
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。
実際には信長と濃姫の婚姻が天文18年11月よりも早いとされ
信秀が信任し織田外交を任せていた平手の交渉による
斉藤との同盟が結ばれた天文17年中と考えられていて
それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)
そして信長に平手が後見人と付けられたのも
信秀の対外外交方針の変更が信長の代になっても変化ないことの宣言でもある。
しかし平手が自害することから信長は父の外交を引き継がず無謀な行動に出たので
尾張国が混乱し、離反が相次ぎ結果、今川・斉藤へ頼るものが出てきた。
完全に信長の失敗から尾張が崩壊しただけ。
稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17?18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでるとのこと。
信秀の死は天文21年3月だから信長18歳だろ。2年以上の時間をかけて信秀が信長の後ろ盾になってる。
定光寺年代記の死亡記録の信憑性の高さが決め手で確定してるでしょ。
万松寺過去帳はあくまで定光寺年代記の記録の正しさの補強として。
定光寺年代記の殺害記録によって織田信光という人間がいたことが判明したわけだし。この事実は大きい。
新修名古屋市史は信秀の死去についても定光寺年代記を支持してるし
鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏や織田信長文書の研究で有名な故奧野高廣氏や
信長公記研究で有名な岩沢愿彦など、 ことごとく天文21年死去を主張。
13 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 13:12:25.44 ID:RvJAltH0
天文20年の信秀生前から備後守並びに三郎(信長)の先判の旨に任せて
などと信勝(信行)は明らかに序列によるケジメを付けられ
熱田神宮寺座主に安堵してるし、
その時期に西加藤家の次男へ信勝が信長への取次してる。
お前の言う熱田?ってのは西加藤家の分家の東加藤家へ出した22年10月の
信秀の先判の旨に任せってやつのことだろw
すでに信秀生前から本家の西加藤は信長。
分家の東加藤は信勝と分掌されていたとされる証明書状。
そもそも西加藤家は非常に重要視され
天文18年11月には信長が国内政務に初めて関与した機会として
西加藤家に対して藤原信長の名で熱田村八ヶ村宛てで制札が下され
熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。
すでに信秀が病で信長が家督を継いでいるので
神宮文庫蔵の日記断片簡で万度 長鮑千本を出家した信秀が寄付し尾張若殿と明確に分けていることからも
すでに家督を信長が継承してる証左としてるし。
あと、信勝が信秀の父が支配下に置いていた織田家発展の原動力になった
大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも、
祖父以来の織田家本貫地といっていい津島衆を信長が配下にしているのを織田家を継承していた証左とされてるね。
石山本願寺日記で書かれてる記述は尾張で洪水などの天災があったようだとされてるだけで
信秀の死による混乱なんて無理やりな解釈はできない。というのも
河野門徒が飢餓だけど400疋を献上すると天文21年10/2の記録に書いてあり錯乱の原因が判明するから。
(天文21年5/2に去年は講衆する信者が少志を寄付したと書いていて20年のことと関連してるのがわかる)
河野門徒と言えば蓮如が河野惣道場を復興させて以来、
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡にいたから木曽川中流の両岸が洪水起こしたんだろうねぇ。
本願寺は経済的に痛手を受けたのなら信長にとっちゃおいしいな。
中流ならむしろ岩倉城の織田伊勢守家と美濃国主がダメージを受けたってことだし。
飢餓による乱世と書いてるんだから本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて生活が苦しくなったから、
以前のように寄付がたくさん出来なくなったって話としか思えないけど。
戦乱乱世とか信秀死去による乱世なんて曲解にも程があるよ。
そもそも一次史料にその時期に戦乱を思わせるようなものは全く無いし。
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡に住む本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて
飢餓による乱世状態になったので寄付がたくさんできないと申し出てきた史料
尾張の混乱は平手が失望のあまり自害し、それを見て林が見放したほどの信長の大うつけが原因であり
しかもこの信長の織田家内での不評っぷりは隣国まで伝わり
道三も信長の大叔父玄蕃允秀敏(信長が秀敏へ天文21年10/21に中村方三郷を安堵しているが、これが信長初の知行宛行文書)
にそれを心配して問い合わせてるほど
それを信秀の体調のせいだと曲解してんのがお前。
信長も信秀と同じ三郎を名乗っており、後見する宿老おとなが4人も信長には付けられ
明らかに織田後継と位置づけられてる。信勝にはおとなは一切付けられてない。