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人間七七四年:
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
この三人の全盛期と思われる軍勢をすべて集結させて三国志状態になったと仮定する。
織田信長軍
全盛期は1582年五月頃の織田信長が横死する直前とする。
上杉、毛利、北条などに遣わした軍勢すべて、また徳川家康自身の手勢なども含めるとその数二十万はくだらないと思われる。
当然配下には羽柴秀吉、徳川家康ともに健在。
また、ほかの二人は持っていない明智光秀、柴田勝家、佐々成政、滝川一益といった織田家を支えてきた精鋭の宿将らも現役で活躍中である。また信長横死とともに消滅した伝説の戦艦・鉄甲船をも擁している。
ほかの二人のように天下の軍を指揮しているわけではないが、長年共に戦ってきた気の知れた仲間同士で結束は固く、織田信長自身のカリスマ性は衰えていない。
不安要素としては明智光秀に謀反の兆しがあること、また織田信長の独裁制への反発か。
豊臣秀吉軍
全盛期は1597年に始まった朝鮮出兵とする。
実際に朝鮮半島に渡ったのは十四万人とそこそこだが、動員した数は三十万弱とも言われている。
配下は伊達政宗、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、島津義弘、長宗我部元親、最上義光と、いずれも天下に名の通った武将ばかりでまさしく天下人の軍勢と言って良い。
賤ヶ岳で破った柴田勝家や織田家の猛将らは既に陣中にはないが、代わりに加藤清正や福島正則、石田三成、大谷吉継に小西行長などの秀吉子飼いの武将が陣営に加わり、人材は信長に引けを取らない。
不安なのは朝鮮出兵でも露見したように海軍力に問題がありそうだ。
朝鮮出兵の際は李舜臣の亀甲船により船をすべて破壊され、制海権を奪われるという事態が発生した。
また、配下たちも秀吉に力づくで従わせられたものが多く、秀吉への忠誠を誓うものが少ない。豊富な人材の使い方が問題になりそうだが、晩年になってから秀吉はおかしくなったとも言われるし、秀吉自身にまだカリスマ性は残っているのか……。
徳川家康軍
全盛期は1615年大阪夏の陣の軍勢とする。動員した兵力はやはり30万かそれ以上。
家康自身のカリスマ性は衰えておらず、最も安定した軍勢である。
関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村親子や石田三成はいない。
また既に寿命を迎えた加藤清正や福島正則などもおらず、秀吉軍と比べればやはり人材面で見劣りがする。
しかし奥州の覇者・伊達政宗を擁し、天才軍師の息子黒田長政や減俸処置を受けた上杉景勝と直江兼続主従、藤堂高虎、立花宗茂、島津義弘など、地味ーに有能な武将をコンプしている。
徳川体制に反感を持つ者は関ヶ原で一斉処理しており、内部に不穏な動きは見当たらない。
つまり、「強みはないが弱みもない」。二百六十年以上の平和を訪れさせた軍勢の弱点を見つけろということ自体が難しいのかもしれない。