>>532 いまリンク見たけど、それ平安時代の公家日記を題材に語ってるだけで意味ないだろ。
そもそも候文は武家言葉だぞ。
まさか織田チョンが戦国時代には公家が候文を書いていたと、
とんでもない思い違いをしてた事に気が付いてしょーじきかなり驚いたわ…。
同じ〜カの話で争ってる下記の話題でも、お前の嘘と曲解は露見してるからw
時系列なら、
永禄10年2/26に去年の大不作に海口郷の住民の過半逐電が起きたのを知った信玄が、
三年間の伝馬役を免除して郷に戻らせた。
4月に入り、上野白井に続き総社を攻略するなど上野国攻略が進む。
5/4草津温泉の湯治を禁止するなど住民の訴訟処理をする。
8/17今川が武田に対して塩止めを開始していたのが葛山書状でわかる。
10/末、佐野が北条に降伏し、
北条と武田の連携で上杉は羽生と沼田だけに追い詰められる。
11/19には今川氏真の妹が北条の仲介により駿河帰国。
信玄は氏真妹の返還で今川による同盟破棄を恐れていたが、
北条側の仲介で今川へ返却。
この頃、義昭が武田、上杉、北条の同盟交渉を推進中で、
永禄11年3/13本庄繁長が信玄に内通し挙兵。
4/24今川がこれを察知し、噂が事実なら同盟の保証人として自分を加えて欲しいと上杉に懇願。
7月上旬、本庄に呼応し信玄が信濃飯山城を攻めると同時に、
神保長職親子を離反させ、越中一向宗と一緒に越後攻撃をさせる。
8月簗田氏が離反したので北条による関宿城攻撃。
10/20に謙信が本庄攻めに出撃。
長期化し関宿城からの救援依頼にも答えることも出来なくなり、本庄との和睦成立になる永禄12年3月末まで謙信は揚北に釘付け。
11/3今川側による国境封鎖に対処すべく武田が本栖の地下人に諸役を免除し奔走するように依頼する。
11/25今川が武田とのやり取りまで全て報告してまで信用を得ようと努力した結果、
上杉今川同盟が成立し、早速、今川が信濃出陣の依頼をする。
12/6北条と協調して上杉滅亡寸前まで追い詰めていた信玄が激怒し北信濃では無く、矛を転じて駿河へ出陣。
この事実に対応し氏真を養子として駿河の領地を奪うべく北条が介入。
完全に今川が積極的に武田を滅ぼそうとしているよね。
武田領の村々の焼き討ちや略奪を防ぐ為に、機先を制して今川攻めをしただけ。
12/19付、氏照→謙信で主張していることは完全に事実そのものだな。