1 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 19:16:31.20 ID:6Ln5I3Yt
2 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 19:24:25.35 ID:h2xgj1sc
乙
3 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 23:25:57.52 ID:LWF20TNC
なら天下は天子様のものになったはずなのにな。
4 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 07:08:04.05 ID:+x4+kYw4
>>3 元々から天子の物じゃない
君臨すれども統治せずが大原則だし
前スレ見てないけどこのまま信長が天下とったら信長が天子に取って代わる
危機感があったとかそういう話?
5 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 10:40:02.07 ID:QF1uYFXQ
「三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説。
「馬揃え」をして中国遠征軍が進発すれば、毛利家の大きな後ろ盾のおかげで即位できた正親町天皇の面目は丸つぶれになる。
また、信長は正親町天皇にすでに退位を迫っており朝廷への大きな圧力となっていた。
毛利家が滅べば、その後ろ盾により即位した正親町天皇は譲位せざるをえない状況に陥る。
高松城を包囲する秀吉は毛利との間に講和を工作していたが、信長にはその気はなく毛利家を滅ぼす計画であった。
誠仁親王を即位させ信長は朝廷を傀儡化することも可能となるのである。さらに信長は、正親町天皇と誠仁親王の争いに巻き込まれたくないと考え、
三職推任を一時棚上げしていた可能性がある。右大臣右大将を辞めたのも信長自身が朝廷の内紛に不介入の立場をつらぬいたとする見方がある。
朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。
6 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 14:25:36.07 ID:vAyOLgj9
変に誠仁の関与は無い。
何故なら信長の存在に拠り次期帝位に就ける誠仁に、信長を殺さねばならない動機がないからだ。
7 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 18:38:38.88 ID:IDfSvz9k
しかし誠仁の妻の兄である勧修寺晴豊は祖父の尹豊・子の光豊とともに
元亀3年末に信玄を官軍に、信長を朝敵にする活動をした
比叡山延暦寺の大ボス166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕と
信長が武田征伐に集中してるドサクサに密談しているのであったw
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
8 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 10:42:24.10 ID:Age0Sa1r
564 名前:人間七七四年 :2013/09/17(火) 01:20:19.62 ID:vAyOLgj9朝廷(=帝)黒幕説を否定している連中の論拠なんぞ、砂上の楼閣みたいなもんだからな。
ちょっと息を吹きかけたら、即座に崩壊瓦解だ。
565 名前:人間七七四年 :2013/09/19(木) 09:16:11.99 ID:zrHIHyCN説得力あるのは天皇をお守りするために光秀が自ら逆臣信長をコロしたって事だな
9 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 08:26:22.83 ID:XOasu/gO
>>4 えッ?
それは戦後の話ですか?
実際には統治出来るほどの力を回復できなかっただけでしょ。
大和朝廷は誰が作ったのよ。
10 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 11:16:18.01 ID:GPRDhq7V
光秀は、信長・信忠を討った後、6月7日誠仁親王からの勅使で京都の治安維持を任されている。その後朝廷に参内し、金品銀子五百枚を贈っている。
山崎の戦いの後、神戸信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜したこと。
吉田兼見が事情の聴取を受けていること、更に当時の一級史料である『兼見卿記』(兼見の日記)の原本内容が本能寺の変の前後1か月について欠けており、
天正10年の項目は新たに書き直しされ、正本と別本の二種類が伝存する。
2007年になって1992年に『兼見卿記』を基にした『信長謀殺の謎』を上梓している桐野作人が、インタビューの中で、
ある研究者に『これは一種の陰謀史観だよ』と言われたことや、「そのころは古文書のくずし字がほとんど読めなかった」ことを告白し、自説を批判している。
勧修寺晴豊の「天正十年夏記」には斎藤利三の処刑の日に「六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。」
という記述があり、これを「利三(ひいては光秀)と朝廷側の人間が『信長ヲ打ツ』謀議(談合)を持っていた」と解釈する説もある。
「三職推任問題」は本能寺の変の直前の出来事であり、信長の京への立ち寄りはこの返答のためと仮定すると、返答を阻止するのにちょうど良いタイミングである。
11 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 09:08:47.22 ID:w+8CWHs2
12 :
人間七七四年:
誠仁親王が天皇になれなかったのは、
その手が血塗られ過ぎていたからだろう。
その代わり、誠仁親王が死去するやすぐ、
誠仁親王の子へ天皇位を正親町天皇は譲位することを宣言することで愛情を示した。